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牧野伸顕 - Wikipedia

牧野まきのしんあきら

日本にっぽん政治せいじ

牧野まきの しんあきら(まきの のぶあき、1861ねん11月24にち文久ぶんきゅう元年がんねん10月22にち〉 - 1949ねん昭和しょうわ24ねん1がつ25にち)は、日本にっぽん政治せいじ位階いかいしたがえいち勲等くんとう勲一等くんいっとう爵位しゃくい伯爵はくしゃくは「シンケン」と音読おんよされることもある[1]幼名ようみょうしんぐま(のぶくま)。以前いぜんいみな(これとし)[注釈ちゅうしゃく 1]

牧野まきの しんあきら
まきの のぶあき
牧野まきのしんあきら
生年月日せいねんがっぴ 1861ねん11月24にち
文久ぶんきゅう元年がんねん10月22にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん薩摩さつまこく鹿児島かごしまじょうした加治屋かじやまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1949-01-25) 1949ねん1がつ25にち(87さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん千葉ちばけん東葛飾ひがしかつしかぐん田中たなかむら
出身しゅっしんこう 東京大学とうきょうだいがく中途ちゅうと退学たいがく
称号しょうごう したがえいち
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
伯爵はくしゃく
配偶はいぐうしゃ 牧野まきの峰子みねこ三島みしま通庸みちつね次女じじょ
子女しじょ 牧野まきのしんどおり長男ちょうなん
吉田よしだ雪子ゆきこ長女ちょうじょ
秋月あきづきとし武子たけし次女じじょ
親族しんぞく 大久保おおくぼ利通としみちちち
大久保おおくぼ満寿子ますこはは
吉田よしだ雪子ゆきこ長女ちょうじょ
吉田よしだしげるむすめ婿むこ
吉田よしだ健一けんいちまご
杉山すぎやま元太郎げんたろうまご婿むこ
麻生あそう太郎たろう曾孫そうそん
寬仁かんじん親王しんのう信子のぶこ曾孫そうそん
武見たけみ敬三けいぞう曾孫そうそん
堀内ほりうち詔子しょうこ玄孫げんそん) 

日本における郵船商船規則の旗 だい27だい 外務がいむ大臣だいじん
内閣ないかく だい1山本やまもと内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1913ねん2がつ20日はつか - 1914ねん4がつ16にち

内閣ないかく だい2西園寺さいおんじ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1911ねん8がつ30にち - 1912ねん12月21にち

日本における郵船商船規則の旗 文部もんぶ大臣だいじん臨時りんじ代理だいり
内閣ないかく だい2西園寺さいおんじ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1912ねん11月9にち - 1912ねん12月21にち

日本における郵船商船規則の旗 だい20だい 文部もんぶ大臣だいじん
内閣ないかく だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1906ねん3月27にち - 1908ねん7がつ14にち

日本における郵船商船規則の旗 だい7だい 内大臣ないだいじん
在任ざいにん期間きかん 1925ねん3月30にち - 1935ねん12月26にち

その職歴しょくれき
日本における郵船商船規則の旗 だい8だい 宮内みやうち大臣だいじん
1921ねん2がつ19にち - 1925ねん3月30にち
日本における郵船商船規則の旗 枢密すうみつ顧問こもんかん
1909ねん11月17にち - 1921ねん2がつ19にち
茨城県の旗 官選かんせんだい12だい 茨城いばらき県知事けんちじ
1892ねん11月16にち - 1893ねん3がつ10日とおか
福井県の旗 官選かんせんだい4だい 福井ふくい県知事けんちじ
1891ねん8がつ13にち - 1892ねん11月16にち
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大久保おおくぼ利通としみちちち吉田よしだしげるむすめ婿むこ寬仁かんじん親王しんのう信子のぶこ麻生あそう太郎たろう曾孫そうそんにあたる。

経歴けいれき

編集へんしゅう

1861ねん11月24にち文久ぶんきゅう元年がんねん10がつ22にち)、薩摩さつまこく鹿児島かごしまじょうした加治屋かじやまちねこ薬師やくし小路こうじ薩摩さつま藩士はんし維新いしんさんすぐる一人ひとり大久保おおくぼいちぞう利通としみち)とつま満寿子ますこ次男じなんとしてまれた。生後せいごあいだもなくちち利通としみち義理ぎり従兄弟いとこにあたる牧野まきの吉之丞きちのじょう養子ようしとなるが、1868ねん慶応けいおう4ねん)に吉之丞きちのじょう戊辰戦争ぼしんせんそうにおける北越ほくえつ戦争せんそう戦死せんししたため、名字みょうじ牧野ぼくやのまま大久保おおくぼそだった[よう出典しゅってん]

 
明治めいじ33ねん(1900ねん)オーストリア公使こうし時代じだい

1871ねん明治めいじ4ねん)、11さいにしてちちあにとともに岩倉いわくらおう使節しせつだんくわわって渡米とべいし、フィラデルフィア中学ちゅうがくて、1874ねん明治めいじ7ねん)に帰国きこく開成かいせい学校がっこう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文学部ぶんがくぶ和漢わかん文学ぶんがく入学にゅうがくする[3]1880ねん明治めいじ13ねん)、東京大学とうきょうだいがく中退ちゅうたいして外務省がいむしょう入省にゅうしょう[4][注釈ちゅうしゃく 2]ロンドン日本にっぽん大使館たいしかん赴任ふにんし、憲法けんぽう調査ちょうさのためわたりおうしていた伊藤いとう博文ひろぶみ知遇ちぐうる。帰国きこく太政官だじょうかんけんしょう書記官しょきかん法制ほうせいきょく参事官さんじかん[5]兵庫ひょうごけんだい書記官しょきかん黒田くろだ清隆きよたか首相しゅしょう秘書官ひしょかん[6][7]福井ふくい県知事けんちじ茨城いばらき県知事けんちじ文部もんぶ次官じかん[8]ざいイタリア公使こうしオーストリア公使こうしとう歴任れきにんした。牧野ぼくや太政官だじょうかんけんしょう書記官しょきかん時代じだい伊藤いとう随行ずいこう北京ぺきんにて伊藤いとう鴻章こうしうとのきをはだかんじたという[9]。オーストリア公使こうし時代じだいには、日本にっぽんギリシャとの通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつロシアとの戦争せんそう見越みこした情報じょうほう宣伝せんでん操作そうさだいいち世界せかい大戦たいせん君主くんしゅこく動向どうこう調査ちょうさなどがある。ヨーロッパにおいて黄禍こうかろんこうまりをふせごうとした。また、イギリス王室おうしつ外交がいこう有効ゆうこうせい指摘してきしている[10]

だい1西園寺さいおんじ内閣ないかく文部もんぶ大臣だいじんつとめたさい1907ねん明治めいじ40ねん11月4にち外交がいこうかん時代じだい功績こうせきによって男爵だんしゃくさづけられた[11]文部もんぶ大臣だいじん時代じだい功績こうせきとして義務ぎむ教育きょういく年限ねんげんを4ねんから延長えんちょうして6ねんとしたこと(1907ねん)と文部省もんぶしょうから1まんえん支出ししゅつして、美術びじゅつ展覧てんらんかい文展ぶんてんひらかれたことがある(1907ねん)。だい2西園寺さいおんじ内閣ないかくのう商務しょうむ大臣だいじん。さらに枢密すうみつ顧問こもんかんてんじたのちだい1山本やまもと内閣ないかく外務がいむ大臣だいじんとなる。山本やまもと権兵衛ごんべえ三浦みうら梧楼ごろうから、山縣やまがたばつへの牽制けんせいとして当初とうしょ宮内みやうち大臣だいじんへの就任しゅうにん打診だしんされたが、政府せいふ宮中きゅうちゅう長官ちょうかん薩摩さつまじんめることに誤解ごかいいだかれるとの懸念けねんから辞退じたいしている。 この時期じき牧野ぼくやは、伊藤いとうやその後継こうけいしゃである西園寺さいおんじ公望きんもちちかく、初期しょき立憲りっけん政友せいゆうかい関係かんけいふか官僚かんりょう政治せいじとなり、対外たいがい協調きょうちょうてき外交がいこう姿勢しせいえいべいがた自由じゆう主義しゅぎによる政治せいじ姿勢しせい基調きちょうとし、一方いっぽうでは薩摩さつまばつによりひろ政界せいかい外交がいこうかい宮中きゅうちゅうすじつうじるという、独自どくじ地位ちいきずきあげた。1914ねん大正たいしょう3ねん)3がつ31にち貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんにんじられる[12]

1919ねん大正たいしょう8ねん)、だいいち世界せかい大戦たいせんパリ講和こうわ会議かいぎ次席じせき全権ぜんけん大使たいしとして参加さんかした。いちぎょう首席しゅせき西園寺さいおんじであったが実質じっしつてきには牧野ぼくや采配さいはいっており、随行ずいこういんには近衛このえ文麿ふみまろ女婿じょせい吉田よしだしげる松岡まつおか洋右ようすけなどがいた。パリ講和こうわ会議かいぎでは、日本にっぽん次席じせき全権ぜんけん大使たいしとして人種じんしゅてき差別さべつ撤廃てっぱい提案ていあんおこなっている。1920ねん大正たいしょう9ねん)9がつ7にち牧野まきのはパリ講和こうわ会議かいぎ論功行賞ろんこうこうしょうにより男爵だんしゃくから子爵ししゃくへ陞爵し、同時どうじ旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょうさづけられた。

1921ねん大正たいしょう10ねん)、宮中きゅうちゅうぼう重大じゅうだい事件じけん影響えいきょう中村なかむら雄次郎ゆうじろうみやしょう辞任じにんすると元老げんろう松方まつかた正義まさよし後継こうけい選択せんたくおこない、2がつ19にち親任しんにんしきおこなわれ牧野ぼくや宮内みやうち大臣だいじん就任しゅうにんすることとなった。が、薩派の山之内やまのうち一次かずつぐ樺山かばやまえいらが牧野ぼくや松方まつかた山本やまもとのち次代じだいのエースとみなしており、辞退じたい勧告かんこくした。また、西園寺さいおんじ公望きんもちみやしょう就任しゅうにん挨拶あいさつ牧野ぼくやに「みやしょう従来じゅうらいからの候補こうほであったが、首相しゅしょうとしてはらたかしのちけてもらいたかった」と発言はつげんしている。穏健おんけんえいべい協調きょうちょう自由じゆう主義しゅぎてき傾向けいこうつよ牧野ぼくや宮内くない大臣だいじんしたのは、天皇てんのうおよ宮中きゅうちゅう周辺しゅうへん狂信きょうしんてき皇室こうしつ崇拝すうはいしゃくことで皇室こうしつ政治せいじてき騒乱そうらんきこまれることをきらった西園寺さいおんじ意向いこうであるという。これ以降いこう牧野まきの西園寺さいおんじからだして、宮中きゅうちゅうにおける自由じゆう主義しゅぎかげまもくことをその政治せいじてき使命しめいとする。みやしょう就任しゅうにん牧野まきの元老げんろう内大臣ないだいじんとのあいだ情報じょうほう仲介ちゅうかいやくとして、後継こうけい首班しゅはん奏請そうせい関与かんよするようになる[13]。だがみやしょうになった翌年よくねん山縣やまがたくなり、元老げんろう松方まつかた西園寺さいおんじのみとなり、両者りょうしゃとも病臥びょうがすることがおおくなった。

1925ねん大正たいしょう14ねん)、内大臣ないだいじんてんじ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)まで在任ざいにんした。牧野ぼくやつねさむらい輔弼ほひつという大任たいにんくわえ、後継こうけい首相しゅしょう選定せんていにもあずかることになった[14]牧野ぼくや内大臣ないだいじん就任しゅうにん直後ちょくご同年どうねん4がつ9にち伯爵はくしゃくに陞爵する。みやしょう在任ざいにんちゅう皇太子こうたいし洋行ようこう摂政せっしょう設置せっち皇太子こうたいし結婚けっこんなどの任務にんむ挙行きょこう功績こうせきによる[14]牧野ぼくやたいする天皇てんのう信頼しんらいあつく、15ねん多難たなん時期じき退任たいにん意向いこういた昭和しょうわ天皇てんのうなみだながしたという逸話いつわがある。牧野ぼくや後任こうにん内大臣ないだいじんには湯浅ゆあさくらひらた推薦すいせんし、牧野まきのはその宮中きゅうちゅう外交がいこうへの影響えいきょうりょく保持ほじつづけようとした。健康けんこうがすぐれず、また、就任しゅうにん以来いらい15ねんになるので人心じんしんあらたにすることを退任たいにん理由りゆうとした。牧野ぼくやには当時とうじ持病じびょうとして神経痛しんけいつうとじんましんがあり、1932ねん以降いこうには、宮中きゅうちゅうでのばんさんかい中座ちゅうざ陸海りくかいぐんだい演習えんしゅう不参ふさんといった、公務こうむにも支障ししょうをきたすほどの容体ようだいになっていた[15]

1936ねん昭和しょうわ11ねん)、二・二六事件ににろくじけんおりにはしんえいべい代表だいひょうとして湯河原ゆがわら伊藤いとう旅館りょかん別荘べっそう光風こうふうそう」に宿泊しゅくはくしていたところを襲撃しゅうげきされるが、まごでもある麻生あそう和子かずこ吉田よしだしげるむすめ麻生あそう太郎たろうはは)の機転きてんによって窮地きゅうちだっした一方いっぽうで、護衛ごえい警官けいかん殺害さつがいされた。また牧野ぼくや殺害さつがい対象たいしょうとしたテロ計画けいかくは、この事件じけんまえにも8けんもあった[16]

だい世界せかい大戦たいせんしたにあっても天皇てんのう信頼しんらいおとろえず、すう宮中きゅうちゅうに招されて意見いけん具申ぐしんをした。さい晩年ばんねん千葉ちばけん東葛飾ひがしかつしかぐん田中たなかむらげんかしわ)に居住きょじゅうした。戦後せんご皇室こうしつ天皇てんのう処遇しょぐう関心かんしんがあり、GHQ憲法けんぽう問題もんだい担当たんとう政治せいじ顧問こもんのケネス・コールグルーヴと会談かいだん情報じょうほう天皇てんのうつたえ、天皇てんのう謁見えっけん依頼いらいしたり、東京とうきょうかえった明仁あきひと親王しんのう幕末ばくまつ外交がいこうだん留学りゅうがくだんえいべい政治せいじ懐旧かいきゅうだんかたった[17]。オールド・リベラリストの1人ひとりとして牧野まきの評価ひょうかたかまり、一時いちじ鳩山はとやま一郎いちろう追放ついほう自由党じゆうとう総裁そうさいこえさえあったが、老齢ろうれい理由りゆう政界せいかい復帰ふっきすることはなかった。しかし、むすめ婿むこ吉田よしだしげる総理そうりになったのち国政こくせい運営うんえい相談そうだんねて度々たびたび牧野ぼくやのもとをおとずれていたとつたわる[よう出典しゅってん]

1949ねん昭和しょうわ24ねん)1がつ25にち田中たなかむら自宅じたく死去しきょ[18][19]。87さいぼつ墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1ロ1-6-12)。牧野ぼくや死後しご、ほとんど財産ざいさんらしきものはのこっていなかったという[よう出典しゅってん]

対人たいじん関係かんけい人柄ひとがら

編集へんしゅう

伊藤いとう博文ひろぶみは、ひと長所ちょうしょをみてけっして短所たんしょなかった。牧野ぼくや対人たいじん姿勢しせい伊藤いとうまなんだ[20]相手あいてはなしをよくき、自分じぶん意見いけんことなっていても、あたまごなしに否定ひていせず、再考さいこうさせた[21]三浦みうら梧楼ごろう牧野ぼくや石橋いしばしたたいてわたらないひとひょうした[20]内大臣ないだいじん時代じだい秘書官ひしょかんちょうとしてつかえた木戸きど幸一こういちも、牧野まきのは「非常ひじょうあたま柔軟じゅうなんであった、わかいわれわれがはなせるような空気くうきがある」とひょうしている[22]牧野ぼくやには「保守ほしゅ」と「進歩しんぽ」のアンビバレントな両面りょうめんせいがあり、有馬ありま頼寧よりやす同和どうわ問題もんだいへのみを評価ひょうかしたり、大川おおかわ周明しゅうめい安岡やすおか正篤まさあつ尊王そんのうとして評価ひょうかしたりしている。牧野ぼくやは、皇室こうしつ護持ごじしていくうえで社会しゃかい変動へんどう敏感びんかん察知さっちし、かつ、柔軟じゅうなん対応たいおうする能力のうりょくけていた[23]

後継こうけい首班しゅはん奏請そうせいなど

編集へんしゅう

牧野まきのみやしょうとして後継こうけい首班しゅはん奏請そうせい参画さんかくできたのは元老げんろう減員げんいん高齢こうれいによる機能きのう代行だいこう宮内みやうち官僚かんりょうない職域しょくいきえた横断おうだんてき側面そくめんがあった[24]牧野ぼくや元老げんろう重臣じゅうしんあいだ連絡れんらくやくてっしようとした。牧野ぼくや有力ゆうりょく重臣じゅうしんじゅん元老げんろうとして機能きのう継続けいぞくしようとしたが、西園寺さいおんじ平田ひらた内大臣ないだいじん反対はんたいし、松方まつかた死後しご当分とうぶん元老げんろう内大臣ないだいじんでその機能きのうたそうとした。平田ひらた内大臣ないだいじん病気びょうきがちとなり、牧野まきの内大臣ないだいじん就任しゅうにんした。牧野ぼくや宮中きゅうちゅうはいってから牧野まきのグループをつくっていった。反対はんたいには、一部いちぶ人事じんじけん使つかった。田中たなか義一ぎいち天皇てんのう権威けんい利用りようした政権せいけん運営うんえいおこなったが、天皇てんのう田中たなかたいして不信ふしんかんがあり、牧野まきの西園寺さいおんじ鈴木すずき侍従じじゅうちょう天皇てんのう任命にんめい大権たいけん利用りようした[25]。ロンドンにおける軍縮ぐんしゅく会議かいぎ出席しゅっせきしていた若槻わかつき礼次郎れいじろう全権ぜんけんだん妥協だきょうあんれの是非ぜひ請訓せいくんしてきたとき政府せいふあん天皇てんのう上奏じょうそうするまえ軍部ぐんぶ帷幄上奏いあくじょうそうをしようとしたが、鈴木すずき侍従じじゅうちょう延期えんきさせた。牧野ぼくやはこれに関係かんけいしていなかったが、橋本はしもととおる右翼うよく団体だんたい発行はっこうにデマをいたので、牧野まきの条約じょうやく反対はんたいおさんだとおもわれ、軍部ぐんぶ右翼うよくからつけねらわれることとなった[26]

牧野まきの若槻わかつき内閣ないかくいぬやしなえ内閣ないかく対応たいおうをみるにつけ、持論じろんである天皇てんのうささえるにん人物じんぶつ結集けっしゅうさせ、時局じきょく鎮静ちんせいをはかろうとかんがえていたが、元老げんろう重臣じゅうしん政局せいきょく介入かいにゅうさせる構想こうそう賛成さんせいられなかった。満州まんしゅう問題もんだいによる国際こくさい連盟れんめい脱退だったい回避かいひしようとしたが、軍部ぐんぶ熱気ねっきにおされ、西園寺さいおんじ天皇てんのう牧野ぼくや主張しゅちょう退しりぞけた。外部がいぶ勢力せいりょくによる天皇てんのう側近そっきん批判ひはんつよくなり、牧野まきのグループは辞任じにんおおくなった。牧野ぼくや元老げんろう西園寺さいおんじとのなか微妙びみょうになった。しかし、西園寺さいおんじなが牧野ぼくや退官たいかんには反対はんたいした。昭和しょうわ維新いしんおもった陸軍りくぐん青年せいねん将校しょうこう西園寺さいおんじ斎藤さいとう内大臣ないだいじん鈴木すずき侍従じじゅうちょうのほかに牧野ぼくやを「君側くんそく奸臣かんしん」とした。その近衛このえ首相しゅしょうちゅうにちえい大使たいしなどが意見いけんきにたが、牧野まきの後継こうけい首班しゅはん奏請そうせいにはかかわらないようにした。西園寺さいおんじは、牧野ぼくや危険きけんにさらすことになるのをけさせたいと判断はんだんしたのである[27]

芸術げいじゅつ文化ぶんかへの関心かんしん趣味しゅみ

編集へんしゅう

牧野ぼくやには自分じぶん興味きょうみをもっていた芸術げいじゅつ文化ぶんかへの貢献こうけんがある。

明治めいじ美術びじゅつかい指導しどうしゃであった岡倉おかくら天心てんしんは、開成かいせい学校がっこう牧野まきの入学にゅうがく翌年よくねん入学にゅうがく。そして、牧野ぼくや14、5さいころから4、5ねん同学どうがくしたが、牧野まきの認識にんしきによれば、天心てんしん学力がくりょく同級どうきゅうしゃとしてつねひいでていた。えい文学ぶんがくつうじ、えい作文さくぶん内容ないようでは到底とうてい自分じぶんおよばなかったと述懐じゅっかいしている。天心てんしん文部もんぶ次官じかんであった牧野ぼくや美術びじゅつ学校がっこうちょう立場たちばから美術びじゅつ学校がっこう予算よさん要求ようきゅうするなどし、その両者りょうしゃ関係かんけい天心てんしんぼっするまで終身しゅうしん友情ゆうじょうとしてつづいた[28][29]。1907ねん明治めいじ40ねん)には牧野ぼくや文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい文展ぶんてん創設そうせつした。また牧野ぼくや帝国ていこく図書館としょかんげん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん)の設置せっち尽力じんりょくした。

また、牧野ぼくやおよ平山ひらやましげるしんが、赤星あかほし鐡馬寄附きふきんもと文化ぶんか研究けんきゅう奨励しょうれいおよ講演こうえん出版しゅっぱんのための公益こうえき法人ほうじんである財団ざいだん法人ほうじん啓明けいめいかい1918ねん大正たいしょう7ねん)8がつ8にち設立せつりつした。文部省もんぶしょうげん文部もんぶ科学かがくしょう管轄かんかつとしては日本にっぽんはじめての学術がくじゅつ財団ざいだんとなった。

牧野まきの趣味しゅみとしては囲碁いご読書どくしょ歌舞伎かぶき鑑賞かんしょう映画えいが鑑賞かんしょうがある。自宅じたく茶屋ちゃや囲碁いごかいもよおしており、いち事件じけんとき対局たいきょくちゅうであった[30]もり有礼ありのり文相ぶんしょうともった。1924ねん大正たいしょう13ねん)から1946ねん昭和しょうわ21ねん)まで、日本棋院にほんきいん初代しょだい総裁そうさいをつとめた。2023ねんれい5ねん)には日本棋院にほんきいんだい20かい囲碁いご殿堂でんどうはい[31]

読書どくしょ和洋わよう区別くべつなく、文学ぶんがくから、時事じじ、ノンフィクションにいたるまで様々さまざまである。英語えいご小説しょうせつから『ニッポンタイムズ』もんだ[30]河上かわかみ徹太郎てつたろう小林こばやし秀雄ひでお文学ぶんがくかいひとまねいて歓談かんだんすることがあった[32][注釈ちゅうしゃく 3]。また、シャーロッキアン草分くさわてき存在そんざいとしても有名ゆうめいである。

栄典えいてん

編集へんしゅう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

りゃく年譜ねんぷ

編集へんしゅう

茶谷ちゃたに誠一せいいち牧野まきのしんあらわ[69]による。

  • 1861ねん 10月22にち薩摩さつまはん加治屋かじや下加治しもかじまれる。出生しゅっしょう親戚しんせき牧野ぼくや養子ようしとなる。
  • 1863ねん 大久保おおくぼ利通としみち一家いっか新照院しんしょういん転居てんきょ
  • 1867ねん 新照院しんしょういん郷中ごうなか教育きょういくける。10さいごろからみやつこかんでも教育きょういくける。よく1868ねん養父ようふ死亡しぼう
  • 1871ねん 1がつちち利通としみちあに利和としかずとも上京じょうきょう。11月、岩倉いわくら使節しせつだん留学生りゅうがくせいとして随行ずいこう
  • 1872ねん アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフィラデルフィア学校がっこう留学りゅうがく
  • 1874ねん あき帰国きこく鹿児島かごしま帰省きせい上京じょうきょう東京とうきょう開成かいせい学校がっこう東京大学とうきょうだいがく)に入学にゅうがく。このころしょうする。
  • 1878ねん 5月14にち利通としみち暗殺あんさつさる。12月7にちはは満寿子ますこ病死びょうし
  • 1879ねん 12月11にち外務省がいむしょう御用ごようがかりとなる。東京とうきょう大学だいがく中退ちゅうたい
  • 1880ねん 3月9にち外務省がいむしょう書記しょきせい専門せんもんしょく)となり、イギリス公使館こうしかん勤務きんむ
  • 1882ねん イギリスをおとずれた伊藤いとう博文ひろぶみ知遇ちぐうる。
  • 1883ねん 10月14にち帰国きこく太政官だじょうかんけんしょう書記官しょきかんとなる。
  • 1885ねん 2がつ伊藤いとう博文ひろぶみ随行ずいこう北京ぺきんにいく。12月23にち法制ほうせいきょく参事官さんじかんになる。
  • 1886ねん 5月26にち兵庫ひょうごけんだい書記官しょきかんとなる。
  • 1887ねん 三島みしま通庸みちつね次女じじょ峰子みねこ結婚けっこんする。
  • 1888ねん 5月5にち総理そうり大臣だいじん黒田くろだ清隆きよたか秘書官ひしょかんとなる。
  • 1891ねん 8がつ13にち福井ふくい県知事けんちじとなる。
  • 1892ねん 11月16にち茨城いばらき県知事けんちじとなる。
  • 1893ねん 3がつ10日とおか文部もんぶ次官じかんとなる。
  • 1897ねん 5月25にちイタリア公使こうしとなる。
  • 1898ねん 5月2にちオーストリア公使こうしけんスイス公使こうし)となる。
  • 1906ねん 帰国きこく、3月27にち文部もんぶ大臣だいじん就任しゅうにん
  • 1907ねん 10月25にちだい1かい文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい開催かいさい。11月4にち男爵だんしゃくさづけられる。
  • 1908ねん 7がつ4にちだい1西園寺さいおんじ内閣ないかくそう辞職じしょく同月どうげつ14にち文相ぶんしょう辞任じにん
  • 1909ねん 11月17にち枢密すうみつ顧問こもんかんとなる。
  • 1911ねん 8がつ30にちのう商務しょうむ大臣だいじん就任しゅうにんする。
  • 1912ねん 12月5にちだい2西園寺さいおんじ内閣ないかくそう辞職じしょく同月どうげつ21にちのう商務しょうむしょう辞任じにん
  • 1913ねん 2がつ20日はつか外務がいむ大臣だいじん就任しゅうにんする。
  • 1914ねん 3月24にちだい1山本やまもと内閣ないかくそう辞職じしょく。4月16にち外相がいしょう辞任じにん。3月31にち貴族きぞくいん議員ぎいんみことのりまかされる。
  • 1917ねん 6月6にち臨時りんじ外交がいこう委員いいんかい委員いいんとなる。
  • 1918ねん 11月27にちパリ講和こうわ会議かいぎ全権ぜんけん内定ないていする。
  • 1919ねん 1がつ、パリ講和こうわ会議かいぎ次席じせき全権ぜんけんとして参加さんかする。
  • 1920ねん 9月7にち子爵ししゃくに陞爵される。
  • 1921ねん 2がつ19にち宮内みやうち大臣だいじん就任しゅうにんする。公職こうしょくをすべて辞任じにんする(3がつ2にち貴族きぞくいん議員ぎいん辞任じにん[70])。鎌倉かまくら二階堂にかいどううつる。
  • 1924ねん 創設そうせつされた日本棋院にほんきいん初代しょだい総裁そうさい推戴すいたいされる。
  • 1925ねん 3月30にち内大臣ないだいじん転任てんにんする。4月9にち伯爵はくしゃくに陞爵される。
  • 1928ねん 6がつおとうと大久保おおくぼ侯爵こうしゃく継承けいしょうする。
  • 1929ねん 6月27にちちょうさく爆殺ばくさつ問題もんだい処理しょりをめぐり、天皇てんのう田中たなか義一ぎいち首相しゅしょう叱責しっせきする。
  • 1930ねん 4がつ以降いこう加藤かとう寛治かんじ軍令ぐんれい部長ぶちょう上奏じょうそう阻止そししたとのデマがながれだす[71]
  • 1931ねん 11月19にち天皇てんのう行幸ぎょうこう供奉ぐぶし、鹿児島かごしま帰省きせいする。
  • 1932ねん 5月15にち内大臣ないだいじん官邸かんてい襲撃しゅうげきける。
  • 1934ねん 10月30にち木戸きど幸一こういち秘書官ひしょかんちょうはじめて辞意じいつたえる。
  • 1935ねん 12月26にち内大臣ないだいじん辞任じにんする。
  • 1936ねん 1がつ20日はつか帝室ていしつ経済けいざい顧問こもんとなる。2月26にち湯河原ゆがわら湯治とうじちゅう二・二六事件ににろくじけん襲撃しゅうげきける。渋谷しぶや神山かみやままちうつる。
  • 1937ねん 11月1にち兄弟きょうだい親族しんぞくから喜寿きじゅいわいをける。
  • 1945ねん 2がつ19にち天皇てんのう戦局せんきょく今後こんごについて上奏じょうそう。6月1にち空襲くうしゅう罹災りさい千葉ちばけん東葛飾ひがしかつしかぐんかしわまち疎開そかい戦後せんご占領せんりょうでも相談役そうだんやくとして、天皇てんのう側近そっきんたちに宮中きゅうちゅう改革かいかくなどに助言じょげんおこなう。
  • 1948ねん 天皇てんのうから米寿べいじゅ下賜かしひんおくられる。
  • 1949ねん 1がつ25にち、ぜんそくせい心臓しんぞう衰弱すいじゃくにより死去しきょ同日どうじつしたがえいち

家族かぞく親族しんぞく

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大久保おおくぼ

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牧野まきの子孫しそん

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どうつま純子じゅんこ男爵だんしゃく鍋島なべしま直明なおあき長女ちょうじょ[72]うえ皇后こうごう美智子みちこ皇太子こうたいし時代じだい東宮とうぐう女官にょかんちょうつとめた)

一族いちぞく結束けっそく

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牧野まきのは、大久保おおくぼ以外いがい親戚しんせき三島みしま伊集院いじゅういん秋月しゅうげつひとたちと終生しゅうせいわりなく親交しんこうかさねた[21]1919ねんパリ講和こうわ会議かいぎのち大久保おおくぼとしけんたけしんあきら吉田よしだしげるロンドンまねいた[75]利和としかずしんあきら年上としうえの3兄弟きょうだい中心ちゅうしんとなり、毎年まいとし5月14にちどおり命日めいにちをおまつりとしょうしてあつまった。利通としみちの100かいまでは毎年まいとしおこないそのは5ねんごとっている[76]しんあらわ喜寿きじゅにも会合かいごうをもった[77]

著書ちょしょ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 茶谷ちゃたに[2]によると一時いちじ(これとし)と名乗なのったという(1874ねん - 1878ねん)。
  2. ^ ここでいう「きゅう東京大学とうきょうだいがく」は(東京とうきょう開成かいせい学校がっこう後身こうしんで(東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく前身ぜんしんこうである。
  3. ^ 河上かわかみ牧野ぼくやまご吉田よしだ健一けんいち。1940ねん4がつごろには、河上かわかみ小林こばやしはやし房雄ふさお牧野ぼくやわたしえんまねき、おもはやしの『西郷さいごう隆盛たかもり』をめぐって歓談かんだん一方いっぽうで、「思想しそうといふものがあまりにレッテルして取扱とりあつかいはれるわが文化ぶんか」の風潮ふうちょうたいしてたたかうよう、文学ぶんがくしゃ期待きたいするむね注文ちゅうもんしている[33]。なお、牧野まきの幼少ようしょう西郷さいごう大久保おおくぼ玄関げんかんさきたずね、大久保おおくぼ執事しつじ使つかみをしたことを叱責しっせきする様子ようす目撃もくげきしている[34]

出典しゅってん

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  77. ^ 茶谷ちゃたに 2013, p. 188

参考さんこう文献ぶんけん

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登場とうじょう作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
浜尾はまおしん
  内大臣ないだいじん
1925ねん - 1935ねん
次代じだい
斎藤さいとうみのる
先代せんだい
久保田くぼたゆずる
  文部もんぶ次官じかん
1893ねん - 1897ねん
次代じだい
筑馨ろく
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
伯爵はくしゃく
牧野まきのしんあらわ初代しょだい
1925ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし
先代せんだい
陞爵
子爵ししゃく
牧野まきのしんあらわ初代しょだい
1920ねん - 1925ねん
次代じだい
陞爵
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
牧野まきのしんあらわ初代しょだい
1907ねん - 1920ねん
次代じだい
陞爵