1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )8月 がつ 14日 にち に日本 にっぽん 政府 せいふ (鈴木 すずき 貫太郎 かんたろう 内閣 ないかく )が受諾 じゅだく 通告 つうこく したポツダム宣言 せんげん では、日本 にっぽん を占領 せんりょう する組織 そしき はoccupying forces of the Allies (「聯合 れんごう 国 こく ノ占領 せんりょう 軍 ぐん 」、ポツダム宣言 せんげん 12条 じょう )と表現 ひょうげん されている。同年 どうねん 9月 がつ 2日 にち に締結 ていけつ された降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ の中 なか では、日本 にっぽん 政府 せいふ はSupreme Commander for the Allied Powers (「聯合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 」)の指示 しじ に従 したが うこととされ、同時 どうじ に出 だ された降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん に関 かん する詔書 しょうしょ も「聯合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 」の指示 しじ に従 したが うべきことを表明 ひょうめい している。この後 のち も日本 にっぽん の法令 ほうれい では「聯合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 」(連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん )と表記 ひょうき されることが多 おお い。連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん の下 した に属 ぞく する組織 そしき は英語 えいご 表記 ひょうき によればGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP )で「連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 」「連合 れんごう 国 こく 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 」と日本語 にほんご 訳 やく され、日本 にっぽん では多 おお くの場合 ばあい に略称 りゃくしょう のGHQ (ジー・エイチ・キュー)と呼称 こしょう [注釈 ちゅうしゃく 1] している。
他方 たほう で「軍 ぐん 」を補 おぎな って、「連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 」や「連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 」または「連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 」のように呼 よ ばれることも多 おお い[注釈 ちゅうしゃく 2] 。
総 そう 司令 しれい 部 ぶ の最大 さいだい の目標 もくひょう は連合 れんごう 国 こく にとって脅威 きょうい となる日本 にっぽん の軍事 ぐんじ 力 ちから 解体 かいたい で、日本 にっぽん を中立 ちゅうりつ ・非 ひ 武装 ぶそう 化 か して中華民国 ちゅうかみんこく をアジアの中心 ちゅうしん となし[注釈 ちゅうしゃく 6] 、軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ を廃 はい して親 しん 英 えい 米 べい 的 てき な国家 こっか へ創 つく り変 か えることであり、マッカーサーは『上 うえ からの革命 かくめい 』と称 しょう し「当初 とうしょ は日本 にっぽん を工業 こうぎょう 国 こく から農業 のうぎょう 小国 しょうこく に転換 てんかん し、アメリカの市場 いちば とするつもりだった」と後年 こうねん に語 かた っている[要 よう 出典 しゅってん ] [10] 。初期 しょき はGHQで広 ひろ く権限 けんげん を有 ゆう す民政 みんせい 局 きょく が策定 さくてい して実施 じっし され、冷戦 れいせん 兆候 ちょうこう 以後 いご は参謀 さんぼう 第 だい 2部 ぶ の主導 しゅどう でレッドパージ などを実施 じっし している。
戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん の逮捕 たいほ
編集 へんしゅう
連合 れんごう 国軍 こくぐん は占領 せんりょう 直後 ちょくご から戦争 せんそう 指導 しどう 者 しゃ の検挙 けんきょ を始 はじ めて東條 とうじょう 英機 ひでき 元 もと 首相 しゅしょう を含 ふく む数 すう 十 じゅう 名 めい を逮捕 たいほ し、A級 きゅう 戦犯 せんぱん として極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい の判決 はんけつ で東條 とうじょう 以下 いか 7名 めい を死刑 しけい 、その他 た 多数 たすう を禁錮 きんこ 刑 けい や終身 しゅうしん 刑 けい に処 しょ している。本裁 ほんだち 判 ばん は戦時 せんじ の国際 こくさい 法 ほう 抵触 ていしょく 者 しゃ ではなく戦争 せんそう に携 たずさ わった士官 しかん 以上 いじょう が裁 さば かれ、日本 にっぽん は平和 へいわ 条約 じょうやく でこれを受諾 じゅだく している。
戦争 せんそう や大政 たいせい 翼賛 よくさん 会 かい に関与 かんよ したと見 み 做された者 もの は、政府 せいふ 機関 きかん など特定 とくてい の職 しょく に就 つ くことを禁止 きんし され、軍人 ぐんじん や戦時 せんじ 中 ちゅう に軍 ぐん へ協力 きょうりょく 的 てき と認定 にんてい された政治 せいじ 家 か 、思想家 しそうか などの三 さん 親等 しんとう 内 ない 親族 しんぞく と血縁 けつえん 者 しゃ も同職 どうしょく へ就職 しゅうしょく が禁止 きんし されるなど公職 こうしょく 追放 ついほう が行 おこな われた。政治 せいじ 家 か や思想家 しそうか 、旧 きゅう 軍人 ぐんじん にとどまらず、中央 ちゅうおう 官僚 かんりょう から地方 ちほう の教職員 きょうしょくいん まで失職 しっしょく し、影響 えいきょう は25万 まん 人 にん とする説 せつ もあり、この公職 こうしょく 追放 ついほう 直後 ちょくご の期間 きかん では日本 にっぽん の中央 ちゅうおう 政府 せいふ と地方自治体 ちほうじちたい は事実 じじつ 上 じょう 機能 きのう を停止 ていし した。戦中 せんちゅう まで戦意 せんい 高揚 こうよう 映画 えいが を製作 せいさく した東宝 とうほう など映画 えいが 界 かい も影響 えいきょう を受 う けている。しかし、後 のち に首相 しゅしょう となる吉田 よしだ 茂 しげる や鳩山 はとやま 一郎 いちろう の軋轢 あつれき をはじめ、追放 ついほう が日本人 にっぽんじん 同士 どうし の権力 けんりょく 争 あらそ いに利用 りよう された面 めん もある。また、後 ご のサンフランシスコ平和 へいわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ などを目指 めざ すため、国務省 こくむしょう 政策 せいさく 確定 かくてい 部長 ぶちょう のジョージ・ケナン がワシントンと総 そう 司令 しれい 部 ぶ の意思 いし 疎通 そつう を図 はか るため来日 らいにち し、1948年 ねん 10月 がつ に大統領 だいとうりょう の許可 きょか を得 え て以下 いか のことが提言 ていげん された。
占領 せんりょう 政策 せいさく の重点 じゅうてん を改革 かいかく から経済 けいざい 復興 ふっこう に目指 めざ すこと
追放 ついほう を緩和 かんわ し、遠 とおざ からず中止 ちゅうし すること
占領 せんりょう 軍 ぐん 経費 けいひ を縮小 しゅくしょう すること
日本 にっぽん 軍 ぐん が戦前 せんぜん 行 おこな った行為 こうい に対 たい する賠償 ばいしょう を漸次 ぜんじ 中止 ちゅうし すること
講和 こうわ 条約 じょうやく 締結 ていけつ を急 いそ がせること
講和 こうわ 条約 じょうやく は懲罰 ちょうばつ 的 てき であってはならないこと
沖縄 おきなわ は依然 いぜん として長期 ちょうき 駐留 ちゅうりゅう をすること
日本 にっぽん の警察 けいさつ 力 りょく を強化 きょうか すること
これにより旧 きゅう 軍閥 ぐんばつ や政治 せいじ 家 か は復帰 ふっき し、後 のち に鳩山 はとやま 一郎 いちろう や石橋 いしばし 湛山 たんざん が政治 せいじ 界 かい に戻 もど ってくることになった。
追放 ついほう については連合 れんごう 国内 こくない でも批判 ひはん があり、アメリカ国内 こくない でも本来 ほんらい 目的 もくてき の「軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 者 しゃ などの日本 にっぽん 政界 せいかい からの追放 ついほう 」を超 こ えた影響 えいきょう を及 およ ぼしたとして、占領 せんりょう 政策 せいさく の批判 ひはん を受 う けるなど、トルーマン大統領 だいとうりょう とマッカーサー連合 れんごう 国 こく 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん の確執 かくしつ へつながるとする者 もの もいる[11] 。
総 そう 司令 しれい 部 ぶ が政策 せいさく として最初 さいしょ に行 い ったことは検閲 けんえつ である。1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )9月 がつ に発 はっ した「プレスコード 」などで軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 的 てき 、戦前 せんぜん から戦中 せんちゅう の日本 にっぽん を肯定 こうてい 、連合 れんごう 国軍 こくぐん の行為 こうい を批判 ひはん 、原子 げんし 爆 ばく 弾 だん や無 む 差別 さべつ 空襲 くうしゅう の被害 ひがい などをラジオ や新聞 しんぶん 、雑誌 ざっし 、一般 いっぱん 市民 しみん 発行 はっこう の本 ほん などを厳 きび しく取 と り締 し まり[注釈 ちゅうしゃく 7] 言論 げんろん を統制 とうせい した。プレスコード通達 つうたつ 直前 ちょくぜん には「言論 げんろん 及 およ び新聞 しんぶん の自由 じゆう に関 かん する覚書 おぼえがき 」(SCAPIN -16)を発 はっ し言論 げんろん の自由 じゆう の制限 せいげん は最小 さいしょう 限度 げんど に止 と める、GHQ及 およ び連合 れんごう 国 こく 批判 ひはん にならずまた世界 せかい の平和 へいわ 愛好 あいこう 的 てき なるものは奨励 しょうれい とされたが、これに違反 いはん したとして朝日新聞社 あさひしんぶんしゃ は二 に 日間 にちかん の業務 ぎょうむ 停止 ていし 命令 めいれい を受 う けた。また、貧困 ひんこん や人種 じんしゅ 差別 さべつ など米国 べいこく 社会 しゃかい の暗黒 あんこく 面 めん を描 えが いたアメリカ文学 ぶんがく 作品 さくひん の翻訳 ほんやく 出版 しゅっぱん も許可 きょか しなかった[12] 。
「掲載 けいさい 禁止 きんし 、削除 さくじょ 理由 りゆう の類型 るいけい 」―占領 せんりょう 軍 ぐん 批判 ひはん 、検閲 けんえつ への言及 げんきゅう 、本国 ほんごく 主義 しゅぎ 的 てき 宣伝 せんでん 、封建 ほうけん 思想 しそう の賛美 さんび など30項目 こうもく もあった[13] 。
連合 れんごう 国 こく 兵 へい の暴行 ぼうこう 事件 じけん
連合 れんごう 兵 へい の私行 しこう に関 かん して面白 おもしろ くない印象 いんしょう を与 あた える記事 きじ
連合 れんごう 国軍 こくぐん 将校 しょうこう に対 たい して日本人 にっぽんじん が怨恨 えんこん 、不満 ふまん を起 お こす恐 おそ れのある記事 きじ
食糧 しょくりょう 事情 じじょう の窮迫 きゅうはく を誇大 こだい に表現 ひょうげん した記事 きじ
連合 れんごう 軍 ぐん の政策 せいさく を非難 ひなん する記事 きじ
国内 こくない における各種 かくしゅ の動 うご きに連合 れんごう 国 こく 司令 しれい 部 ぶ が介在 かいざい しているように印象 いんしょう づける記事 きじ
などであった[14] 。
さらに上記 じょうき 「検閲 けんえつ 指針 ししん 」の違反 いはん 者 しゃ は米 べい 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 法廷 ほうてい で訴追 そつい され、沖縄 おきなわ における強制 きょうせい 重労働 じゅうろうどう 3年 ねん 乃至 ないし 5年 ねん であった。「Apr 29, 1949:The editor of the magazine “Emancipation News” was sentenced to five years of hard labor(Braw 1991, chapter 7)」[15] [16] 。
連合 れんごう 国軍 こくぐん による最初 さいしょ の仕事 しごと は、日本 にっぽん 全国 ぜんこく の軍 ぐん 施設 しせつ に進駐 しんちゅう し日本 にっぽん 軍 ぐん の武装 ぶそう 解除 かいじょ を進 すす めることであった。イギリス軍 ぐん やアメリカ軍 ぐん により残存 ざんそん していた使用 しよう 可能 かのう な兵器 へいき 類 るい は全 すべ てスクラップ、もしくはテストのために持 も ち去 さ られ、その一方 いっぽう で施設 しせつ としての軍 ぐん 用地 ようち はその多 おお くを駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん が引 ひ き継 つ ぎ、占領 せんりょう 政策 せいさく の礎 いしずえ とした。例 たと えば、当時 とうじ の最先端 さいせんたん 科学 かがく 分野 ぶんや で日本 にっぽん が著 いちじる しい進歩 しんぽ を遂 と げていた理研 りけん のサイクロトロン 研究 けんきゅう や、ロケット戦闘 せんとう 機 き 「桜花 おうか 」、巨大 きょだい 潜水 せんすい 艦 かん など根 ね こそぎ接収 せっしゅう され、それらの研究 けんきゅう 環境 かんきょう も破壊 はかい された[17] 。日本 にっぽん の研究所 けんきゅうじょ の調査 ちょうさ を担当 たんとう した米国 べいこく の科学 かがく 者 しゃ らは、日本 にっぽん のサイクロトロン実験 じっけん 設備 せつび を詳細 しょうさい に見 み てそのレベルの高 たか さに驚 おどろ き「なぜ日本 にっぽん は原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を製造 せいぞう しなかったのか」と疑問 ぎもん を呈 てい し、英国 えいこく もGHQ最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ 宛 あ てに「鍋 なべ 釜 がま 以外 いがい は日本 にっぽん に作 つく らせるな」と申 もう し入 い れをした記録 きろく も残 のこ っている[17] 。
物理 ぶつり 的 てき な軍事 ぐんじ 力 りょく 剥奪 はくだつ の次 つぎ に進 すす めたのが法的 ほうてき な整備 せいび であり「国民 こくみん 主権 しゅけん 」「基本 きほん 的 てき 人権 じんけん の尊重 そんちょう 」という民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の基本 きほん を備 そな えると共 とも に、「戦争 せんそう 放棄 ほうき 」を謳 うた った憲法 けんぽう (日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう )を作成 さくせい し日本 にっぽん 政府 せいふ に与 あた えた(日本 にっぽん の戦争 せんそう 放棄 ほうき は幣 ぬさ 原 はら 喜重郎 きじゅうろう 首相 しゅしょう も考 かんが えていたとマッカーサーは記録 きろく している。また、幣 ぬさ 原 ばら は自 みずか らの著書 ちょしょ である『幣 ぬさ 原 はら 喜重郎 きじゅうろう ―外交 がいこう 五 ご 十 じゅう 年 ねん 』のなかで、戦争 せんそう 放棄 ほうき や軍事 ぐんじ 力 りょく の解体 かいたい を考 かんが えていた事 こと を明 あき らかにしている)。また、天皇 てんのう ・皇室 こうしつ の神聖 しんせい 性 せい の除去 じょきょ 、国家 こっか 神道 しんとう の廃止 はいし 、軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 教育 きょういく の廃止 はいし 、第 だい 六 ろく 潜水 せんすい 艇 てい に代表 だいひょう される多 おお くの軍人 ぐんじん の顕彰 けんしょう 施設 しせつ の破壊 はかい など、明治 めいじ からの社会 しゃかい 思想 しそう を解体 かいたい した。
民主 みんしゅ 国家 こっか にするための国民 こくみん の改造 かいぞう として、「婦人 ふじん 参政 さんせい 権 けん 」「労働 ろうどう 組合 くみあい 法 ほう の制定 せいてい 」「教育 きょういく 制度 せいど 改革 かいかく 」「圧政 あっせい 的 てき な法 ほう 制度 せいど の撤廃 てっぱい 」「経済 けいざい の民主 みんしゅ 化 か 」の5大改革 だいかいかく 指令 しれい を発 はっ し、日本 にっぽん 政府 せいふ に実行 じっこう させた。労働 ろうどう 組合 くみあい はすぐに解禁 かいきん され、男女 だんじょ 同権 どうけん 論 ろん に基 もと づく婦人 ふじん 参政 さんせい 権 けん は直後 ちょくご の衆議院 しゅうぎいん 選挙 せんきょ から実行 じっこう された。圧政 あっせい 的 てき といわれた治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう と特別 とくべつ 高等 こうとう 警察 けいさつ はこれを廃止 はいし し戦時 せんじ 中 ちゅう にこれらの罪状 ざいじょう で逮捕 たいほ ・服役 ふくえき していた政治 せいじ 犯 はん を釈放 しゃくほう した。
経済 けいざい 界 かい においては経済 けいざい 民主 みんしゅ 化 か のために三井 みつい ・三菱 みつびし ・住友 すみとも ・安田 やすだ の四大 しだい 財閥 ざいばつ を解体 かいたい した(財閥 ざいばつ 解体 かいたい )。さらに地方 ちほう 自治 じち 法 ほう が制定 せいてい され、都道府県 とどうふけん 知事 ちじ は官選 かんせん から直接 ちょくせつ 公選 こうせん へと変更 へんこう されたほか、地方 ちほう 行財政 ぎょうざいせい や警察 けいさつ を統括 とうかつ していた内務省 ないむしょう が解体 かいたい ・廃止 はいし された。警察 けいさつ もGHQの民政 みんせい 局 きょく (GS)から非 ひ 民主 みんしゅ 的 てき な警察 けいさつ 制度 せいど であるとして解体 かいたい を強 し いられ、国家 こっか 地方 ちほう 警察 けいさつ と約 やく 1,700もの自治体 じちたい 警察 けいさつ に解体 かいたい ・細分 さいぶん 化 か された。
農地 のうち 改革 かいかく によって大 だい 地主 じぬし から強制 きょうせい 的 てき に土地 とち を買 か い上 あ げて小作 こさく 人 じん に分配 ぶんぱい した。これは、大 だい 地主 じぬし に経済 けいざい 的 てき に隷属 れいぞく する状況 じょうきょう から小作 こさく 人 じん を解放 かいほう し、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ を根付 ねつ かせることに寄与 きよ した一方 いっぽう 、自作農 じさくのう となった農民 のうみん を保守 ほしゅ 化 か させる結果 けっか となり、農村 のうそん は保守 ほしゅ 勢力 せいりょく の牙城 がじょう となった。また、北海道 ほっかいどう を除 のぞ いて大 だい 規模 きぼ 農業 のうぎょう 事業 じぎょう を難 むずか しくさせ、農業 のうぎょう の国際 こくさい 競争 きょうそう 力 りょく は戦前 せんぜん と比 くら べても極度 きょくど に低下 ていか し、以後 いご の食料 しょくりょう 自給 じきゅう 率 りつ 低下 ていか に拍車 はくしゃ をかけ現在 げんざい に至 いた っている。なお、全 すべ ての小作 こさく 地 ち が農地 のうち 改革 かいかく の対象 たいしょう になったわけではなく、実態 じったい には地域 ちいき によりばらつきがあった。
明治維新 めいじいしん による学制 がくせい を抜本 ばっぽん 的 てき に改組 かいそ する形 かたち で学制 がくせい 改革 かいかく が行 おこな われた。教育 きょういく 方針 ほうしん は連合 れんごう 国 こく 側 がわ で矯正 きょうせい させ、旧 きゅう 教育 きょういく 基本 きほん 法 ほう と学校 がっこう 教育 きょういく 法 ほう を制定 せいてい させた。これにより初等 しょとう 教育 きょういく ・中等 ちゅうとう 教育 きょういく ・高等 こうとう 教育 きょういく 課程 かてい の学校 がっこう 教育 きょういく 制度 せいど は「単線 たんせん 教育 きょういく 」が新 あら たに導入 どうにゅう され、6・3・3・4の学校 がっこう 制度 せいど (小学校 しょうがっこう 6年間 ねんかん ・中学校 ちゅうがっこう 3年間 ねんかん ・高等 こうとう 学校 がっこう 3年間 ねんかん ・大学 だいがく 4年間 ねんかん )を新設 しんせつ し、それまでの複線 ふくせん 教育 きょういく と修身 しゅうしん の科目 かもく ・教育 きょういく 勅語 ちょくご を廃止 はいし させた。
公 おおやけ 教育 きょういく における中等 ちゅうとう 教育 きょういく 課程 かてい での男女 だんじょ 別 べつ 学 がく から男女 だんじょ 共学 きょうがく への移行 いこう 、新制 しんせい 小学校 しょうがっこう 6年間 ねんかん (初等 しょとう 教育 きょういく 課程 かてい )新制 しんせい 中学校 ちゅうがっこう 3年間 ねんかん (前期 ぜんき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく 課程 かてい )による義務 ぎむ 教育 きょういく の9年間 ねんかん への延長 えんちょう などを行 おこな い、後期 こうき 中等 ちゅうとう 教育 きょういく 機関 きかん として新制 しんせい 高等 こうとう 学校 がっこう ・高校 こうこう 三 さん 原則 げんそく を発足 ほっそく させた。高等 こうとう 教育 きょういく の面 めん ではエリート 養成 ようせい 機関 きかん という社会 しゃかい 的 てき 役割 やくわり も担 にな っていた旧制 きゅうせい 高等 こうとう 学校 がっこう ・旧制 きゅうせい 大学 だいがく を廃止 はいし させ、教員 きょういん 養成 ようせい 機関 きかん であった師範 しはん 学校 がっこう を学士 がくし 課程 かてい 4年間 ねんかん の新制 しんせい 大学 だいがく 学部 がくぶ へ格上 かくあ げした。これらは教育 きょういく のアメリカニゼーション に寄与 きよ すべく、2度 ど に亘 わた って来日 らいにち した教育 きょういく 使節 しせつ 団 だん の報告 ほうこく 書 しょ に基 もと づいて実行 じっこう された(アメリカ教育 きょういく 使節 しせつ 団 だん 報告 ほうこく 書 しょ )。
医療 いりょう 制度 せいど 改革 かいかく
編集 へんしゅう
連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ の指令 しれい により、薬事 やくじ 法 ほう が改正 かいせい され明治 めいじ の近代 きんだい 医療 いりょう 導入 どうにゅう 以来 いらい 概念 がいねん 自体 じたい は存在 そんざい していたものの曖昧 あいまい であった医薬 いやく 分業 ぶんぎょう 制度 せいど が導入 どうにゅう された。
日本語 にほんご のロ ろ ーマ字 まじ 化 か 計画 けいかく と断念 だんねん
編集 へんしゅう
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )春 はる 、「日本語 にほんご は漢字 かんじ が多 おお いために覚 おぼ えるのが難 むずか しく、識字 しきじ 率 りつ が上 あ がりにくいために民主 みんしゅ 化 か を遅 おく らせている」と考 かんが えた民間 みんかん 情報 じょうほう 教育 きょういく 局 きょく (CIE) の世論 せろん 社会 しゃかい 調査 ちょうさ 課長 かちょう であるジョン・ペルゼル [18] の発案 はつあん で、日本語 にほんご をロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき にしようとする計画 けいかく が起 お こされた。
ペルゼルは、大学院 だいがくいん で人類 じんるい 学 がく の修士 しゅうし 号 ごう を取得 しゅとく した人類 じんるい 学者 がくしゃ で、戦前 せんぜん には考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ プロジェクトに参加 さんか して日本 にっぽん を訪 おとず れたことがあったものの、近代 きんだい の日本 にっぽん の教育 きょういく については全 まった くの無知 むち であり、日本人 にっぽんじん の学習 がくしゅう 意識 いしき が高 たか く、古 ふる くからイギリス やドイツ 、フランス などの他 ほか の先進 せんしん 国 こく に比 くら べて識字 しきじ 率 りつ が高 たか かった上 うえ に1872年 ねん に学制 がくせい から始 はじ まった義務 ぎむ 教育 きょういく 推進 すいしん 運動 うんどう が進 すす み、1915年 ねん には尋常 じんじょう 小学校 しょうがっこう の通学 つうがく 率 りつ が90%を超 こ えるなど、学齢 がくれい 期 き の国民 こくみん の就学 しゅうがく が普遍 ふへん 化 か していたことを知 し らなかった。
当時 とうじ 東大 とうだい 助手 じょしゅ だった言語 げんご 学者 がくしゃ の柴田 しばた 武 たけし は、民間 みんかん 情報 じょうほう 教育 きょういく 局 きょく の指示 しじ によってこの読 よ み書 か き全国 ぜんこく 調査 ちょうさ のスタッフに選 えら ばれ漢字 かんじ テストの出題 しゅつだい を任 まか された。これは日本 にっぽん 初 はつ の「無 む 作為 さくい 抽出 ちゅうしゅつ 法 ほう (ランダムサンプリング)」の実施 じっし でもあり、統計数理研究所 とうけいすうりけんきゅうしょ 研究 けんきゅう 員 いん の統計 とうけい 学者 がくしゃ だった林 はやし 知己 ともみ 夫 おっと が被験者 ひけんしゃ のサンプリングを行 おこな った。
こうして1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )8月 がつ 、文部省 もんぶしょう 教育 きょういく 研修 けんしゅう 所 しょ (現在 げんざい の国立 こくりつ 教育 きょういく 政策 せいさく 研究所 けんきゅうじょ )によって調査 ちょうさ は実施 じっし された、15歳 さい から64歳 さい までの約 やく 1万 まん 7千 せん 人 にん の老若男女 ろうにゃくなんにょ を対象 たいしょう とした全国 ぜんこく 試験 しけん 調査 ちょうさ 「日本人 にっぽんじん の読 よ み書 か き能力 のうりょく 調査 ちょうさ 」であったが、その結果 けっか は、漢字 かんじ の読 よ み書 か きができない者 もの は2.1%にとどまり「識字 しきじ 率 りつ が100%に近 ちか い」という、ペルゼルの母国 ぼこく のアメリカはおろか、世界 せかい 的 てき に見 み ても例 れい を見 み ない高 たか いレベルだった。
柴田 しばた はテスト後 ご にペルゼルに呼 よ び出 だ され、「字 じ が読 よ めない人 ひと が非常 ひじょう に多 おお いという結果 けっか でないと困 こま る」と遠回 とおまわ しに言 い われたが、柴田 しばた は「調査 ちょうさ 結果 けっか は捻 ね じ曲 ま げられない」と突 つ っぱね、ペルゼルもそれ以上 いじょう の無理押 むりお しはしなかったという[19] [20] 。結局 けっきょく 、日本語 にほんご のロ ろ ーマ字 まじ 化 か は撤回 てっかい された。
「慰安 いあん 所 しょ 」の設置 せっち
編集 へんしゅう
終戦 しゅうせん 直後 ちょくご の8月 がつ 18日 にち 、内務省 ないむしょう は全国 ぜんこく の警察 けいさつ に対 たい して連合 れんごう 国軍 こくぐん の将兵 しょうへい 向 む けの慰安 いあん 所 しょ (軍用 ぐんよう 売春 ばいしゅん 施設 しせつ )の設置 せっち を指令 しれい し、8月 がつ 20日 はつか には近衛 このえ 文麿 ふみまろ 国務相 こくむしょう が「特殊 とくしゅ 慰安 いあん 施設 しせつ 協会 きょうかい (RAA)」の設置 せっち を決 き めた。「(連合 れんごう 国軍 こくぐん の将兵 しょうへい による)性 せい 犯罪 はんざい から子女 しじょ を守 まも るため」という大義名分 たいぎめいぶん を基 もと に、アメリカ軍 ぐん 兵士 へいし やイギリス軍 ぐん 兵士 へいし を中心 ちゅうしん とした日本 にっぽん 各地 かくち に慰安 いあん 所 しょ が設置 せっち された。
非 ひ 共産 きょうさん 化 か と再 さい 軍備 ぐんび
編集 へんしゅう
国内 こくない 経済 けいざい の疲弊 ひへい から社会 しゃかい 主義 しゅぎ が流行 りゅうこう し労働 ろうどう 運動 うんどう は非常 ひじょう に盛 も り上 あ がったが、アメリカやイギリス、オーストラリアなどの資本 しほん 主義 しゅぎ 国 こく とソビエト連邦 れんぽう との対立 たいりつ 、いわゆる冷戦 れいせん が起 お こると、左派 さは 勢力 せいりょく たる共産党 きょうさんとう の勢力 せいりょく 拡大 かくだい が恐 おそ れられた[注釈 ちゅうしゃく 8] ために対 たい 日 にち 政策 せいさく の方針 ほうしん 転換 てんかん が行 おこな われて、日本 にっぽん 列島 れっとう を『反共 はんきょう の防波堤 ぼうはてい 』にする計画 けいかく が進 すす み、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 もの の追放 ついほう (レッドパージ )を極秘 ごくひ 裏 うら に行 い った。同時 どうじ に軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ ・超 ちょう 国家 こっか 主義 しゅぎ 者 もの などの公職 こうしょく 追放 ついほう を解除 かいじょ することである程度 ていど の右派 うは 勢力 せいりょく を回復 かいふく し、左傾 さけい 化 か した世論 せろん のバランスを取 と ろうとした。いわゆる「逆 ぎゃく コース 」である。
GHQの意向 いこう で解体 かいたい された日本 にっぽん 警察 けいさつ も、国家 こっか 地方 ちほう 警察 けいさつ と自治体 じちたい 警察 けいさつ に分散 ぶんさん していることによる不 ふ 効率 こうりつ や、平均 へいきん 町村 ちょうそん 財政 ざいせい の3割 わり 以上 いじょう に及 およ ぶ財政 ざいせい 負担 ふたん に耐 た えられなくなった地方自治体 ちほうじちたい の要望 ようぼう により、占領 せんりょう 期間 きかん 中 ちゅう から警察 けいさつ 法 ほう が段階 だんかい 的 てき に改正 かいせい され、住民 じゅうみん 投票 とうひょう の付託 ふたく で自治体 じちたい 警察 けいさつ の存廃 そんぱい ができるようになると、ほんの数 すう 年 ねん で一 いち 千 せん 以上 いじょう の自治体 じちたい 警察 けいさつ が廃止 はいし され、国家 こっか 地方 ちほう 警察 けいさつ に吸収 きゅうしゅう されていった。
また、工業 こうぎょう の早期 そうき 回復 かいふく による経済 けいざい 的 てき 自立 じりつ が求 もと められた。朝鮮 ちょうせん 戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ によって連合 れんごう 国軍 こくぐん の一部 いちぶ が朝鮮半島 ちょうせんはんとう に移 うつ ると、日本 にっぽん 国内 こくない の軍事 ぐんじ 的 てき 空白 くうはく を埋 う めるために、警察 けいさつ 予備 よび 隊 たい の創設 そうせつ と海上保安庁 かいじょうほあんちょう の強化 きょうか (海上 かいじょう 警備 けいび 隊 たい を創設 そうせつ )を実施 じっし して予定 よてい を繰 く り上 あ げて日本 にっぽん の再 さい 軍備 ぐんび を行 おこな った。その後 ご 、日本 にっぽん 国 こく との平和 へいわ 条約 じょうやく および(旧 きゅう )日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく の発効 はっこう に至 いた り、日本 にっぽん は西側 にしがわ 陣営 じんえい の一員 いちいん として国際 こくさい 社会 しゃかい への復帰 ふっき を果 は たした。
GHQ/SCAPによるこれらの政策 せいさく は、後 のち に良 よ くも悪 わる くも論 ろん じられるが、日本 にっぽん が主権 しゅけん 回復 かいふく した後 のち も、日本 にっぽん の国家 こっか の形態 けいたい や日本人 にっぽんじん の精神 せいしん ・思想 しそう に多大 ただい な影響 えいきょう を及 およ ぼし続 つづ けていると考 かんが えられている。
日本 にっぽん 政府 せいふ は敗戦 はいせん によって軍人 ぐんじん や強硬 きょうこう 派 は 政治 せいじ 家 か ・官僚 かんりょう が失脚 しっきゃく し、吉田 よしだ 茂 しげる (外務 がいむ 大臣 だいじん 、後 こう 首相 しゅしょう )など国際 こくさい 協調 きょうちょう 派 は が主導 しゅどう 権 けん を握 にぎ った。吉田 よしだ らはイタリア などの枢軸 すうじく 諸国 しょこく が早期 そうき 講和 こうわ によって賠償 ばいしょう や領土 りょうど 割譲 かつじょう を要求 ようきゅう されていく様子 ようす を見 み た。健全 けんぜん な戦後 せんご 復興 ふっこう のためには高額 こうがく 賠償金 ばいしょうきん の支払 しはら い、領土 りょうど 分割 ぶんかつ を回避 かいひ する「寛大 かんだい な講和 こうわ 」が必要 ひつよう であり、日本 にっぽん 政府 せいふ は「よき敗者 はいしゃ 」として振舞 ふるま うことに注力 ちゅうりょく し、講和 こうわ を急 いそ ぐことは「寛大 かんだい 」を勝 か ち得 え ないと判断 はんだん し、占領 せんりょう 期間 きかん を引 ひ き延 の ばしながら連合 れんごう 国 こく に対 たい して日本 にっぽん が有利 ゆうり になる時期 じき を見計 みはか らった。非 ひ 軍事 ぐんじ 民主 みんしゅ 国家 こっか 建設 けんせつ によって国際 こくさい 的 てき な評価 ひょうか を得 え るべく、連合 れんごう 国軍 こくぐん の政策 せいさく はほぼ忠実 ちゅうじつ に実行 じっこう した。
一方 いっぽう 、冷戦 れいせん の激化 げきか により、日本 にっぽん との講和 こうわ もアメリカ やイギリス など自由 じゆう 主義 しゅぎ 陣営 じんえい とソ連 それん などの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 陣営 じんえい の間 あいだ で、主導 しゅどう 権 けん をめぐる駆 か け引 ひ きの対象 たいしょう となり、同時 どうじ に非 ひ 武装 ぶそう を国是 こくぜ とした日本 にっぽん の防衛 ぼうえい をどうするかが大 おお きな課題 かだい となった。米国 べいこく 内 ない では国防省 こくぼうしょう が日本 にっぽん への軍 ぐん の継続 けいぞく 駐留 ちゅうりゅう を企図 きと して国務省 こくむしょう 主導 しゅどう の講和 こうわ 計画 けいかく に反対 はんたい した。日本 にっぽん 政府 せいふ は米国 べいこく に対 たい し、米 べい 軍 ぐん の継続 けいぞく 駐留 ちゅうりゅう ・将来 しょうらい の日本 にっぽん の再 さい 武装 ぶそう を確認 かくにん する取 と り決 き めを行 おこな い、見返 みかえ りに米国 べいこく の施政 しせい 権 けん 下 か にある沖縄 おきなわ ・奄美 あまみ ・小笠原 おがさわら に対 たい する日本 にっぽん の潜在 せんざい 的 てき 主権 しゅけん を認 みと め、「賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう 権 けん の放棄 ほうき 」「領土 りょうど 保全 ほぜん 」「日本 にっぽん 防衛 ぼうえい の日米 にちべい 協力 きょうりょく 」を柱 はしら とした米国 べいこく 主導 しゅどう による「対 たい 日 にち 講和 こうわ 7原則 げんそく 」が決定 けってい した。
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )の講和 こうわ 会議 かいぎ には英 えい 仏 ふつ 蘭 らん の要求 ようきゅう によって各国 かっこく の旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち も参加 さんか した一方 いっぽう 、内戦 ないせん で立場 たちば が微妙 びみょう な「中国 ちゅうごく 」 (中華民国 ちゅうかみんこく (台湾 たいわん )及 およ び中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく )と「朝鮮 ちょうせん 」 (大韓民国 だいかんみんこく (韓国 かんこく )及 およ び朝鮮民主主義人民共和国 ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく (北朝鮮 きたちょうせん ) )は招 まね かれず、ソ連 それん は米国 べいこく 主導 しゅどう ・中国 ちゅうごく (中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく )不参加 ふさんか に不満 ふまん を持 も ち、講和 こうわ 阻止 そし の活動 かつどう を行 おこな った。また、旧 きゅう 植民 しょくみん 地 ち の東南 とうなん アジア数 すう カ国 かこく は独立 どくりつ 後 ご の財源 ざいげん を確保 かくほ すべく、「日本 にっぽん による侵略 しんりゃく の被害 ひがい 者 しゃ 」 を訴 うった えて賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう 権 けん の放棄 ほうき に反対 はんたい したため、日本 にっぽん は2国 こく 間 あいだ 交渉 こうしょう によって個別 こべつ の賠償 ばいしょう に応 おう じ、国際 こくさい 社会 しゃかい に誠実 せいじつ さをアピールした。
これらの結果 けっか 、講和 こうわ 条約 じょうやく には会議 かいぎ 参加 さんか 52カ国 かこく の内 うち 、調印 ちょういん 式典 しきてん をボイコットしたソ連 それん など3国 こく を除 のぞ く49カ国 かこく が調印 ちょういん し対 たい 日 にち 国交 こっこう 回復 かいふく した。条約 じょうやく により、日本 にっぽん は朝鮮半島 ちょうせんはんとう の独立 どくりつ 及 およ び朝鮮 ちょうせん の放棄 ほうき を承認 しょうにん 、台湾 たいわん ・澎湖諸島 しょとう の放棄 ほうき 、樺太 からふと ・千島 ちしま 列島 れっとう の放棄 ほうき 、南洋 なんよう 諸島 しょとう の放棄 ほうき 、沖縄 おきなわ ・奄美 あまみ ・小笠原 おがさわら がアメリカの施政 しせい 権 けん 下 か におかれることの承認 しょうにん 、東京 とうきょう 裁判 さいばん の結果 けっか の承認 しょうにん を行 おこな った。同時 どうじ に日米 にちべい 安全 あんぜん 保障 ほしょう 条約 じょうやく に調印 ちょういん してアメリカ軍 ぐん の国内 こくない 駐留 ちゅうりゅう を承認 しょうにん し、続 つづ いて台湾 たいわん 島 とう に拠点 きょてん を移 うつ した中華民国 ちゅうかみんこく の中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 政府 せいふ を承認 しょうにん する日 にち 華 はな 平和 へいわ 条約 じょうやく を締結 ていけつ することで反共 はんきょう の姿勢 しせい を打 う ち出 だ し、正式 せいしき に西側 にしがわ 陣営 じんえい に組 く み込 こ まれた。
主権 しゅけん 回復 かいふく した日本 にっぽん は、国際 こくさい 連合 れんごう に加盟 かめい するために国連 こくれん 安保理 あんぽり で拒否 きょひ 権 けん を持 も つソ連 それん との国交 こっこう 回復 かいふく を1956年 ねん (昭和 しょうわ 31年 ねん )11月に実現 じつげん させ、ソ連 それん の承認 しょうにん を受 う けて同年 どうねん 12月 がつ 18日 にち に国際 こくさい 連合 れんごう に加盟 かめい 、国際 こくさい 社会 しゃかい へ復帰 ふっき した。その後 ご は安全 あんぜん 保障 ほしょう 上 じょう の米国 べいこく 依存 いぞん 下 か で経済 けいざい 的 てき 繁栄 はんえい を目指 めざ し、1970年代 ねんだい には主要 しゅよう 先進 せんしん 国 こく の一 ひと つとなった。アメリカが統治 とうち していた日本 にっぽん 領土 りょうど は1972年 ねん (昭和 しょうわ 47年 ねん )の沖縄 おきなわ 返還 へんかん により全 すべ て返還 へんかん されたが、米 べい 軍 ぐん 基地 きち に関 かん する紛争 ふんそう は続 つづ いている。またソ連 それん が占領 せんりょう した北方領土 ほっぽうりょうど については講和 こうわ 条約 じょうやく から現在 げんざい まで未解決 みかいけつ である。
なお、同 おな じく占領 せんりょう され、同 どう 時期 じき に経済 けいざい 的 てき 繁栄 はんえい を手 て にした西 にし ドイツ の主権 しゅけん 回復 かいふく は1955年 ねん 、ソ連 それん との和解 わかい は1970年 ねん 、国連 こくれん 加盟 かめい は1973年 ねん であり、東西 とうざい ドイツが再 さい 統合 とうごう される1990年 ねん まで講和 こうわ 会議 かいぎ は行 おこな われていなかった(ドイツ最終 さいしゅう 規定 きてい 条約 じょうやく を参照 さんしょう )。
当時 とうじ の日本 にっぽん 政府 せいふ は、占領 せんりょう の否定 ひてい 的 てき 感覚 かんかく 低減 ていげん を目 め してイギリス、アメリカ、オーストラリア軍 ぐん からなる連合 れんごう 国軍 こくぐん を「進駐軍 しんちゅうぐん (しんちゅうぐん)」と称 しょう するように報道 ほうどう 機関 きかん に指導 しどう した[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
調達 ちょうたつ 庁 ちょう の資料 しりょう [21] には、7年間 ねんかん の占領 せんりょう 期間 きかん 中 ちゅう にアメリカ軍兵 ぐんびょう に殺害 さつがい された者 もの が2,536人 にん 、傷害 しょうがい を負 お わされた者 もの は3,012人 にん としている。漫画 まんが 家 か の手塚 てづか 治虫 おさむ も街角 まちかど で殴 なぐ り倒 たお された[22] 。またアメリカ軍兵 ぐんびょう に日本人 にっぽんじん 女性 じょせい が襲 おそ われる事件 じけん が2万 まん 件 けん といわれ、強姦 ごうかん の際 さい に日本 にっぽん の警察官 けいさつかん が事実 じじつ 上 じょう の見張 みは り役 やく になる場合 ばあい もあった[23] などと述 の べる者 もの も一部 いちぶ に見 み られる。さらにアメリカ軍 ぐん 第 だい 8軍 ぐん は組織 そしき 的 てき に戦利 せんり 品 ひん を収集 しゅうしゅう ・配布 はいふ していた[24] 。
これらの犯罪 はんざい は、占領 せんりょう 政策 せいさく に連合 れんごう 国軍 こくぐん の治外法権 ちがいほうけん が盛 も り込 こ まれていたため、GHQによって存在 そんざい 自体 じたい が隠蔽 いんぺい され、日本 にっぽん はもちろんのこと、本国 ほんごく に於 お いても刑事 けいじ 裁判 さいばん に発展 はってん することは全 まった くなかった。占領 せんりょう 政策 せいさく が終 お わってからかなり後 のち になって、日本 にっぽん の歴史 れきし 研究 けんきゅう 家 か たちによってようやくその存在 そんざい が明 あき らかになった。
日本 にっぽん 国民 こくみん に対 たい しアメリカ文化 ぶんか の浸透 しんとう を図 はか るべく、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の映画 えいが の統括 とうかつ 配給 はいきゅう 窓口 まどぐち 会社 かいしゃ CMPE (Central Motion Picture Exchange)を東京 とうきょう に設立 せつりつ した。このCMPEに一時 いちじ 在籍 ざいせき した淀川 よどがわ 長治 ながはる によれば、「忘 わす れもしないメイヤーという名 な の支配人 しはいにん は映画 えいが より国策 こくさく に心 しん を砕 くだ く、あたかもマッカーサー気取 きど りの中 なか 年男 としおとこ だった」そうで、ヨーロッパ映画 えいが びいきの記者 きしゃ を試写 ししゃ から締 し め出 だ したりの傲岸 ごうがん 不遜 ふそん ぶりに、1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )にこの会社 かいしゃ が解体 かいたい された際 さい には映画 えいが 関係 かんけい 者 しゃ たちは喝采 かっさい を挙 あ げたという。一方 いっぽう の国産 こくさん 映画 えいが は、終戦 しゅうせん 後 ご の焼 や け野原 のはら や進駐軍 しんちゅうぐん による支配 しはい を示 しめ す情景 じょうけい を撮影 さつえい することが禁 きん じられたため、長 なが い間 あいだ 街頭 がいとう ロケすらできない状態 じょうたい に置 お かれた。
子供 こども 達 たち の文化 ぶんか 媒体 ばいたい であった紙芝居 かみしばい では、「黄金 おうごん バット 」の「髑髏 しゃれこうべ 怪人 かいじん 」というキャラクターを「スーパーマン 」のような「たくましい金髪 きんぱつ 碧眼 へきがん の白人 はくじん キャラクター」に一時期 いちじき 変更 へんこう させている。しかしこれは全 まった く支持 しじ されることなく無視 むし された。
非 ひ 軍事 ぐんじ 化 か の一環 いっかん として日本 にっぽん 国内 こくない の武道 ぶどう (剣道 けんどう など)を統括 とうかつ していた政府 せいふ の外郭 がいかく 団体 だんたい である大 だい 日本 にっぽん 武徳 ぶとく 会 かい を解散 かいさん させ、関係 かんけい 者 しゃ 1,300余 よ 名 めい を公職 こうしょく 追放 ついほう した。また、全国 ぜんこく に日本 にっぽん 刀 がたな の提出 ていしゅつ を命 めい じる刀 かたな 狩 か り が行 おこな われ、膨大 ぼうだい な刀剣 とうけん 類 るい が没収 ぼっしゅう され廃棄 はいき された(東京 とうきょう 都 と 北 きた 区 く 赤羽 あかはね に集 あつ められたことから赤羽 あかはね 刀 がたな と呼 よ ばれている)。さらにその矛先 ほこさき は映画 えいが 界 さかい にまで及 およ び、チャンバラ 映画 えいが が禁止 きんし されて嵐 あらし 寛 ひろし 寿郎 としお や片岡 かたおか 千恵 ちえ 蔵 ぞう ら日本 にっぽん を代表 だいひょう する時代 じだい 劇 げき 俳優 はいゆう が仕事 しごと を失 うしな った。さらには「丹下 たんげ 左 ひだり 膳 ぜん 余話 よわ 百 ひゃく 萬 まん 両 りょう の壺 つぼ 」などの時代 じだい 劇 げき のフィルムにまではさみが入 い れられたといわれる。
進駐軍 しんちゅうぐん の兵士 へいし が利用 りよう する『進駐軍 しんちゅうぐん クラブ』により最新 さいしん の英 えい 米 べい の文化 ぶんか がもたらされた。日本人 にっぽんじん 立 た ち入 い り禁止 きんし のクラブも多 おお かったが、給仕 きゅうじ や演奏 えんそう 者 しゃ は日本人 にっぽんじん を採用 さいよう する方針 ほうしん がとられた。当時 とうじ のアメリカではスウィング・ジャズ がヒットしており、ジャズができる出演 しゅつえん 者 しゃ が採用 さいよう されたことで生活 せいかつ 基盤 きばん ができ、日本 にっぽん においてジャズ が浸透 しんとう する下地 したじ ともなった[25] 。出演 しゅつえん 者 しゃ の出演 しゅつえん 料 りょう は日本 にっぽん 側 がわ の終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 事務 じむ 局 きょく 、1949年 ねん 6月 がつ からは特別 とくべつ 調達 ちょうたつ 庁 ちょう より出 で ていた。各 かく 軍政 ぐんせい 部 ぶ が日本 にっぽん 側 がわ に要求 ようきゅう を出 だ した結果 けっか 、日米 にちべい 間 あいだ で問題 もんだい になり特別 とくべつ 調達 ちょうたつ 庁 ちょう が演奏 えんそう 家 か の格付 かくづけ 審査 しんさ を行 おこな った。楽器 がっき を演奏 えんそう できる人間 にんげん が少 すく なかったため軍楽隊 ぐんがくたい 出身 しゅっしん やクラシック奏者 そうしゃ など様々 さまざま な出自 しゅつじ の者 もの が集 あつ まった。著名 ちょめい 人 じん としては笠置 かさぎ シヅ子 しづこ やジョージ川口 かわぐち などがいた。これらの音楽 おんがく 文化 ぶんか を題材 だいざい とした作品 さくひん としてこの世 よ の外 そと へ クラブ進駐軍 しんちゅうぐん などがある。
クラブで提供 ていきょう される酒類 しゅるい は欧米 おうべい 人 じん が好 この むビール やウィスキー であったため需要 じゅよう が急増 きゅうぞう し、進駐軍 しんちゅうぐん 向 む けの非課税 ひかぜい 酒 しゅ を製造 せいぞう する大手 おおて メーカーは潤 うるお った[26] 。これに関連 かんれん し笹 ささ の川 かわ 酒造 しゅぞう のような日本酒 にほんしゅ の酒造 しゅぞう 会社 かいしゃ が需要 じゅよう を見越 みこ してウイスキー製造 せいぞう の免許 めんきょ を取得 しゅとく する動 うご きもあった[27] 。
沖縄 おきなわ ではクラブから大量 たいりょう に発生 はっせい した空 あ き瓶 びん を利用 りよう して琉球 りゅうきゅう ガラス が生 う まれた。
戦後 せんご に行 おこな われた学校 がっこう 給食 きゅうしょく への食糧 しょくりょう 援助 えんじょ には、アメリカで余剰 よじょう 品 ひん となった小麦 こむぎ や脱脂粉乳 だっしふんにゅう が充 あ てられ、戦後 せんご 世代 せだい の庶民 しょみん にパンを主食 しゅしょく として食 た べる食 しょく 習慣 しゅうかん が浸透 しんとう した[28] 。一方 いっぽう 、昭和 しょうわ 30年代 ねんだい までジャーナリズムや農学 のうがく 者 しゃ を動員 どういん してコメ食 しょく を否定 ひてい するキャンペーンが行 おこな われた。その背景 はいけい には余剰 よじょう 穀物 こくもつ の受 う け入 い れ促進 そくしん と、将来 しょうらい の食品 しょくひん 市場 いちば の拡大 かくだい を見越 みこ して日本人 にっぽんじん の食 しょく 嗜好 しこう をより洋風 ようふう 的 てき に変化 へんか させる意図 いと があった[28] 。進駐軍 しんちゅうぐん の基地 きち 周辺 しゅうへん ではステーキ やハンバーガー 、ホットドッグ など、アメリカの国民 こくみん 食 しょく が庶民 しょみん にも伝 つた わった[29] 。
1945年 ねん (昭和 しょうわ 20年 ねん )
降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ に調印 ちょういん
9月2日 にち :日本 にっぽん 政府 せいふ が戦艦 せんかん ミズーリ で降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ 調印 ちょういん 。GHQ指令 しれい 第 だい 一 いち 号 ごう (陸海 りくかい 軍 ぐん 解体 かいたい 、軍需 ぐんじゅ 生産 せいさん の全面 ぜんめん 停止 ていし 等 とう )が出 で る。
9月8日 にち :連合 れんごう 国軍 こくぐん 、東京 とうきょう を占領 せんりょう する。以後 いご 、都内 とない の建物 たてもの 600箇所 かしょ 以上 いじょう を接収 せっしゅう 。
9月 がつ 10日 とおか :「言 げん 論及 ろんきゅう ビ新聞 しんぶん ノ自由 じゆう ニ関 せき スル覚書 おぼえがき 」(SCAPIN -16)発令 はつれい 。連合 れんごう 国軍 こくぐん が検閲 けんえつ を始 はじ める。
9月15日 にち :東京 とうきょう ・日比谷 ひびや の第一生命 だいいちせいめい 館 かん を接収 せっしゅう 。
9月16日 にち :連合 れんごう 国軍 こくぐん 本部 ほんぶ が横浜 よこはま から第一生命 だいいちせいめい 館 かん に移転 いてん 。
9月17日 にち :マッカーサー、東京 とうきょう の本部 ほんぶ に入 はい る。
9月18日 にち :朝日新聞 あさひしんぶん への二 に 日間 にちかん の発行 はっこう 停止 ていし を命令 めいれい (SCAPIN-34)。
9月19日 にち :言論 げんろん 統制 とうせい のためのプレスコード が出 だ される。
9月 がつ 20日 はつか :連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん の法的 ほうてき 根拠 こんきょ を定 さだ めたポツダム緊急 きんきゅう 勅 みことのり 令 れい が公布 こうふ 、同日 どうじつ から施行 しこう される。
9月22日 にち :放送 ほうそう に対 たい する検閲 けんえつ 、ラジオコード(SCAPIN-43)を指令 しれい 。
9月27日 にち :昭和 しょうわ 天皇 てんのう 、GHQ本部 ほんぶ へ行幸 ぎょうこう 。密談 みつだん が行 おこな われる。
10月2日 にち :連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総本部 そうほんぶ (GHQ/SCAP)設置 せっち 。一般 いっぱん 命令 めいれい 第 だい 4号 ごう により「民間 みんかん 情報 じょうほう 教育 きょういく 局 きょく 」が米 べい 太平洋 たいへいよう 陸軍 りくぐん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ (GHQ/USAFPAC)より移行 いこう [30] 。
10月4日 にち :自由 じゆう の指令 しれい (「政治 せいじ 的 てき 、公民 こうみん 的 てき 及 およ び宗教 しゅうきょう 的 てき 自由 じゆう に対 たい する制限 せいげん の除去 じょきょ の件 けん (覚書 おぼえがき )」、「政治 せいじ 警察 けいさつ 廃止 はいし に関 かん する覚書 おぼえがき 」)発令 はつれい 。
10月8日 にち :事前 じぜん 検閲 けんえつ を朝日新聞 あさひしんぶん 、毎日新聞 まいにちしんぶん 、讀賣 よみうり 報知 ほうち 、日本 にっぽん 産業 さんぎょう 経済 けいざい 、東京 とうきょう 新聞 しんぶん の在京 ざいきょう 五 ご 紙 し に対 たい して開始 かいし 。
10月9日 にち :東 ひがし 久邇 くに 宮内 くない 閣 かく 総 そう 辞職 じしょく し、幣 ぬさ 原内 はらうち 閣 かく が成立 せいりつ 。
10月11日 にち :女性 じょせい の解放 かいほう と参政 さんせい 権 けん の授与 じゅよ 、労働 ろうどう 組合 くみあい 組織 そしき 化 か の奨励 しょうれい と児童 じどう 労働 ろうどう の廃止 はいし 、学校 がっこう 教育 きょういく の自由 じゆう 化 か 、秘密 ひみつ 警察 けいさつ 制度 せいど と思想 しそう 統制 とうせい の廃止 はいし 、経済 けいざい の集中 しゅうちゅう 排除 はいじょ と経済 けいざい 制度 せいど の民主 みんしゅ 化 か を指示 しじ 。
10月15日 にち :治安 ちあん 維持 いじ 法 ほう の廃止 はいし 。国内 こくない の日本 にっぽん 軍 ぐん 、武装 ぶそう 解除 かいじょ を完了 かんりょう 。
11月18日 にち :皇族 こうぞく 資産 しさん 凍結 とうけつ の指令 しれい 。
12月6日 にち :近衛 このえ 文麿 ふみまろ や木戸 きど 幸一 こういち など民間 みんかん 人 じん 9人 にん の逮捕 たいほ を命令 めいれい 。
12月7日 にち :いわゆる農地 のうち 解放 かいほう 指令 しれい (農地 のうち の小作 こさく 人 じん への分配 ぶんぱい )。
12月8日 にち :太平洋戰爭 たいへいようせんそう 史 し を全国 ぜんこく の新聞 しんぶん へ掲載 けいさい させる。
12月9日 にち :農地 のうち 改革 かいかく を指示 しじ 。眞相 しんそう はかうだ の放送 ほうそう を開始 かいし 。
12月15日 にち :神道 しんとう 指令 しれい を指示 しじ (政教 せいきょう 分離 ぶんり 等 ひとし )。
12月31日 にち :「修身 しゅうしん 、日本 にっぽん 歴史 れきし 及ビ地理 ちり 停止 ていし ニ関 せき スル件 けん 」(覚書 おぼえがき )(SCAPIN-519)を発令 はつれい 。修身 しゅうしん 、国史 こくし 、地理 ちり の授業 じゅぎょう は中止 ちゅうし 、教科書 きょうかしょ は蒐集 しゅうしゅう される。
1946年 ねん (昭和 しょうわ 21年 ねん )
1月 がつ 4日 にち :軍人 ぐんじん ・戦犯 せんぱん ・軍国 ぐんこく 主義 しゅぎ 者 しゃ 及 およ び同 どう 傾向 けいこう 政治 せいじ 家 か などの公職 こうしょく 追放 ついほう を指示 しじ 。
2月 がつ :イギリス連邦 れんぽう 占領 せんりょう 軍 ぐん が本格 ほんかく 的 てき な日本 にっぽん 進駐 しんちゅう を開始 かいし 。直 ただ ちに中国 ちゅうごく 地方 ちほう および四国 しこく 地方 ちほう の占領 せんりょう 任務 にんむ を、1945年 ねん 9月 がつ より同地 どうち に進駐 しんちゅう していたアメリカ軍 ぐん から引 ひ き継 つ いだ。
2月 がつ 3日 にち :マッカーサー、民政 みんせい 局 きょく 長 なが コートニー・ホイットニー に自作 じさく の憲法 けんぽう 案 あん のメモを渡 わた し、憲法 けんぽう モデルを作成 さくせい するよう命 めい じる。
2月 がつ 13日 にち :ホイットニー局長 きょくちょう 、新 しん 憲法 けんぽう モデル文章 ぶんしょう を吉田 よしだ 茂 しげる らに見 み せる。
3月6日 にち :日本 にっぽん 政府 せいふ 、「憲法 けんぽう 改正 かいせい 草案 そうあん 要綱 ようこう 」(戦争 せんそう の放棄 ほうき 、象徴 しょうちょう 天皇 てんのう 、主権 しゅけん 在民 ざいみん )を公表 こうひょう 。
極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん 市ヶ谷 いちがや 法廷 ほうてい 大 だい 法廷 ほうてい
1947年 ねん (昭和 しょうわ 22年 ねん )
1月 がつ 31日 にち :マッカーサー、二 に ・一 いち ゼネスト中止 ちゅうし 命令 めいれい 。伊井 いい 、NHKでスト中止 ちゅうし を発表 はっぴょう (後 のち に占領 せんりょう 政策 せいさく 違反 いはん で逮捕 たいほ )。
5月:総 そう 司令 しれい 部 ぶ 内 ない に賠償 ばいしょう 局 きょく を設置 せっち 。
5月:GHQ、日本 にっぽん 政府 せいふ に対 たい し「帝国 ていこく 」の語 かたり の使用 しよう を禁 きん じる。
5月3日 にち :日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 施行 しこう 。
7月 がつ 11日 にち :マッカーサーの進言 しんげん により、米国 べいこく 政府 せいふ が連合 れんごう 国 こく に対 たい し、対 たい 日 にち 講和 こうわ 会議 かいぎ の開催 かいさい を提案 ていあん 。
7月 がつ 22日 にち :ソ連 それん が米国 べいこく 提案 ていあん の対 たい 日 にち 講和 こうわ 会議 かいぎ に反対 はんたい 。
1948年 ねん (昭和 しょうわ 23年 ねん )
1949年 ねん (昭和 しょうわ 24年 ねん )
3月1日 にち :GHQ/SCAP経済 けいざい 顧問 こもん ジョゼフ・ドッジ 、超 ちょう 均衡 きんこう 予算 よさん 、補助 ほじょ 金 きん 全廃 ぜんぱい 、復興 ふっこう 金融 きんゆう 金庫 きんこ の貸出 かしだし 禁止 きんし など、収支 しゅうし 均衡 きんこう 予算 よさん の編成 へんせい を指示 しじ (ドッジ・ライン )。
5月3日 にち :帰国 きこく 中 ちゅう のチャールズ・ケーディス 大佐 たいさ が民政 みんせい 局 きょく 次長 じちょう を辞任 じにん 。
5月 がつ 10日 とおか :浦和 うらわ 事件 じけん の判決 はんけつ の刑期 けいき は不当 ふとう であるという旨 むね のGHQの指摘 してき により行 おこな われた国政 こくせい 調査 ちょうさ 権 けん 調査 ちょうさ は越権 えっけん 行為 こうい であるとして最高裁判所 さいこうさいばんしょ が抗議 こうぎ を申入 もうしい れ(参議院 さんぎいん は裁判官 さいばんかん 会議 かいぎ によるの申入 もうしい れが越権 えっけん 行為 こうい であると回答 かいとう )。
9月15日 にち :シャウプ税制 ぜいせい 使節 しせつ 団 だん 、税制 ぜいせい の抜本 ばっぽん 的 てき 改編 かいへん を発表 はっぴょう 。(詳細 しょうさい はシャウプ勧告 かんこく を参照 さんしょう )
11月1日 にち :米 べい 国務省 こくむしょう 、「対 たい 日 にち 講和 こうわ 条約 じょうやく について検討 けんとう 中 ちゅう 」と声明 せいめい 。講和 こうわ 案 あん に賠償 ばいしょう ・領土 りょうど 割譲 かつじょう が無 な いことが報道 ほうどう される。これ以降 いこう 、国内 こくない では西側 にしがわ との「単独 たんどく 講和 こうわ 論 ろん 」と東側 ひがしがわ を含 ふく めた「全面 ぜんめん 講和 こうわ 論 ろん 」が対立 たいりつ (世論 せろん 調査 ちょうさ では全面 ぜんめん 講和 こうわ が優位 ゆうい )。
1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )
1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )
1952年 ねん (昭和 しょうわ 27年 ねん )
江戸 えど 時代 じだい (幕末 ばくまつ )、日本 にっぽん を黒船 くろふね 来航 らいこう で、江戸 えど 幕府 ばくふ を脅迫 きょうはく し[32] 、強制 きょうせい 的 てき に開国 かいこく させたアメリカ海軍 かいぐん のマシュー・ペリー 提督 ていとく (1794年 ねん -1858年 ねん )
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ (日本 にっぽん の降伏 ごうぶく )の際 さい 、左上 ひだりうえ の星条旗 せいじょうき の星 ほし は31個 いっこ あり、マシュー・ペリーが日本 にっぽん に開国 かいこく を要求 ようきゅう した当時 とうじ の星条旗 せいじょうき である[33] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が主導 しゅどう して日本 にっぽん を占領 せんりょう する90年 ねん 以上 いじょう 前 まえ 、アメリカ軍 ぐん が江戸 えど 時代 じだい (幕末 ばくまつ )の黒船 くろふね 来航 らいこう で、江戸 えど 幕府 ばくふ に対 たい して、脅迫 きょうはく し、強制 きょうせい 的 てき に日本 にっぽん 開国 かいこく [32] させたマシュー・ペリー提督 ていとく の意識 いしき をしていた。
日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 文書 ぶんしょ の際 さい も、マッカーサーはペリー提督 ていとく が4隻 せき の軍艦 ぐんかん を率 ひき いて日本 にっぽん にやってきたときに旗艦 きかん のポーハタンが停泊 ていはく したのと緯度 いど ・経度 けいど がまったく同 おな じ場所 ばしょ に停泊 ていはく させたとされる[34] 。
また、日本 にっぽん 降伏 ごうぶく の調印 ちょういん を終 お えたマッカーサーは米 べい 国民 こくみん 向 む けに演説 えんぜつ をおこなった。
今日 きょう 、
銃声 じゅうせい は
止 や み、
悲惨 ひさん な
悲劇 ひげき は
終 お わった。
我々 われわれ は
偉大 いだい な
勝利 しょうり を
勝 か ち
取 と った。
今日 きょう の
私 わたし たちは92
年 ねん 前 まえ の
同胞 どうほう 、ペリー
提督 ていとく に
似 に た
姿 すがた で
東京 とうきょう に
立 た っている。
— ダグラス・マッカーサー この事 こと からマッカーサーは、ペリー来航 らいこう を一 いち 度目 どめ の日本 にっぽん 占領 せんりょう だとし、1945年 ねん は二 に 度目 どめ の占領 せんりょう だと認識 にんしき し、ペリーのように再 ふたた び日本 にっぽん をアメリカが強制 きょうせい 的 てき に開国 かいこく させるという事 こと を意識 いしき した。
^ GHQ(G eneral H eadq uarters)は総 そう 司令 しれい 部 ぶ ・総本部 そうほんぶ ・総 そう 本店 ほんてん など軍事 ぐんじ 以外 いがい にも企業 きぎょう など組織 そしき の頂上 ちょうじょう 機関 きかん の意 い である。日本 にっぽん では「連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ 」という意味 いみ で使 つか われる事 こと が殆 ほとん どであるが、日本 にっぽん 以外 いがい ではその意味 いみ で使 つか われる事 こと は殆 ほとん どなく、「GHQ/SCAP 」と呼称 こしょう するのが一般 いっぱん 的 てき である。
^ 日本 にっぽん 教育 きょういく 制度 せいど ニ対 たい スル管理 かんり 政策 せいさく (昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 二 に 十 じゅう 二 に 日 にち 連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ヨリ終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく 経由 けいゆ 日本 にっぽん 帝国 ていこく 政府 せいふ ニ対 たい スル覚書 おぼえがき )、教育 きょういく 及ビ教育 きょういく 関係 かんけい 官 かん ノ調査 ちょうさ 、除外 じょがい 、認可 にんか ニ関 せき スル件 けん (昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 年 ねん 十 じゅう 月 がつ 三 さん 十 じゅう 日 にち 連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 部 ぶ ヨリ終戦 しゅうせん 連絡 れんらく 中央 ちゅうおう 事務 じむ 局 きょく 経由 けいゆ 日本 にっぽん 帝国 ていこく 政府 せいふ ニ対 たい スル覚書 おぼえがき )等 とう で使用 しよう されている。
^ 同日 どうじつ 撮影 さつえい された3枚 まい のうち、同年 どうねん 9月 がつ 29日 にち に公開 こうかい された1枚 まい
^ 太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき (英語 えいご 版 ばん ) 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 兼 けん 太平洋艦隊 たいへいようかんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん チェスター・ニミッツ 元帥 げんすい の担当 たんとう 戦域 せんいき にある日本 にっぽん 本土 ほんど への上陸 じょうりく 作戦 さくせん で南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん のマッカーサーが陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい を指揮 しき するために新設 しんせつ されたポスト。マッカーサー自身 じしん が最高 さいこう 司令 しれい 官 かん の南西 なんせい 太平洋 たいへいよう 戦域 せんいき と陸軍 りくぐん 省 しょう 直轄 ちょっかつ のアラスカ軍 ぐん 管区 かんく には指揮 しき 権 けん が及 およ ばない[5] 。1947年 ねん にアメリカ軍 ぐん の再編 さいへん で統合 とうごう 軍 ぐん 制度 せいど となり、極東 きょくとう 軍 ぐん が設置 せっち された際 さい に廃止 はいし [6] 。
^ ポツダム勅 みことのり 令 れい とも称 しょう され、日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 施行 しこう 後 ご はポツダム政令 せいれい である。
^ 共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく 台頭 たいとう に伴 ともな い方針 ほうしん を変更 へんこう している。さらに、中華民国 ちゅうかみんこく は、中国 ちゅうごく 地域 ちいき の統治 とうち 権 けん を失 うしな い、台湾 たいわん 島 とう (現 げん 台湾 たいわん )に亡命 ぼうめい した。
^ 検閲 けんえつ 物 もの はGHQの文官 ぶんかん プランゲ博士 はかせ が米国 べいこく メリーランド大学 だいがく へ移管 いかん して後年 こうねん にプランゲ文庫 ぶんこ として公開 こうかい されている。
^ 日本 にっぽん 社会党 しゃかいとう (現在 げんざい の社会 しゃかい 民主党 みんしゅとう )が結成 けっせい されたのは1947年 ねん 11月。
^ プレスコード によるダブルスピーク で、連合 れんごう 国軍 こくぐん 将兵 しょうへい の犯罪 はんざい を「大男 おおおとこ 」などと報 ほう じている。
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^ “連合 れんごう 国軍 こくぐん 最高 さいこう 司令 しれい 官 かん 総 そう 司令 しれい 部 ぶ |アジ歴 れき グロッサリー ”. www.jacar.go.jp . 2023年 ねん 9月 がつ 4日 にち 閲覧 えつらん 。
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