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国家神道 - Wikipedia

国家こっか神道しんとう

近代きんだい日本にっぽんにおける事実じじつじょう国教こっきょう制度せいど

国家こっか神道しんとう(こっかしんとう、きゅう字体じたい國家こっかしん󠄀みち󠄁)は、近代きんだい天皇てんのうせいした日本にっぽんにおいてつくられた一種いっしゅ国教こっきょう制度せいど[1][2]、あるいは祭祀さいし形態けいたい歴史れきしがくてき概念がいねんである。 皇室こうしつ祖先そせんしんとされるてんあきら大神おおがみまつ伊勢神宮いせじんぐう全国ぜんこく神社じんじゃ頂点ちょうてん総本山そうほんざんとし、国家こっか神道しんとう区別くべつして管理かんりした「神社じんじゃ神道しんとう(じんじゃしんとう)」(神社じんじゃ中心ちゅうしんとする神道しんとう)をかたりである[3]

靖国神社やすくにじんじゃえがかれている五拾ごじっぜに紙幣しへい

王政おうせい復古ふっこ実現じつげんしたしん政府せいふは、1868ねん明治めいじもと)、祭政さいせい一致いっち神祇官じんぎかん再興さいこう布告ふこくして神道しんとう国教こっきょうすすめ、神仏しんぶつ判然はんぜんれい神社じんじゃから仏教ぶっきょうてき要素ようそ除去じょきょした。その政府せいふ主導しゅどう神道しんとう国民こくみん教化きょうかさく不振ふしんわると、政府せいふは「神社じんじゃ宗教しゅうきょうにあらず」という論理ろんりで、神社じんじゃを「国家こっかむねまつ」と位置いちづけ、神社じんじゃ神道しんとうしょ宗教しゅうきょうとはことなる公的こうてきあつかいとした。ここに国家こっか神道しんとう成立せいりつし、教化きょうかなど宗教しゅうきょうてき側面そくめんにかかわる教派きょうは神道しんとう役割やくわり分担ぶんたんされることになった[3]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)に、GHQによる神道しんとう指令しれいによって解体かいたい[4]。「国家こっか神道しんとう」という言葉ことばはこのときはじめて一般いっぱんひろまったものである[3]

概要がいよう 編集へんしゅう

 
楊洲周延しゅうえんさく本朝ほんちょうはいしんすめらぎきょう1878ねん明治めいじ11ねん明治天皇めいじてんのう皇后こうごう左右さゆうえがかれた烏帽子えぼし姿すがたの5にんは、明治天皇めいじてんのう先祖せんぞにあたる天皇てんのうで、そのうしろにちょうころも(ながぎぬ:すそなが衣装いしょう)を日本にっぽん神話しんわかみ々をはいする。 神武じんむ天皇てんのうゆみたずさえ、そのゆみには「金鵄きんし」とばれる黄金おうごんとび(とび)がまっている。明治天皇めいじてんのう皇后こうごう主役しゅやくとしながら、神武じんむ天皇てんのうかみ々の1はしらとしてあらわしている。[5][6]

定義ていぎ 編集へんしゅう

神道しんとう指令しれいでは、国家こっか神道しんとうは「日本にっぽん政府せいふ法令ほうれいって宗派しゅうは神道しんとうあるい教派きょうは神道しんとう区別くべつせられたる一派いっぱす」とされており、この定義ていぎもとづけば、国家こっか神道しんとう神社じんじゃ宗教しゅうきょうろんられ、神官しんかん教導きょうどうしょく分離ぶんりおこなわれた1882ねん明治めいじ15ねん)あるいは内務省ないむしょう神社じんじゃきょく成立せいりつし、神社じんじゃ行政ぎょうせい宗教しゅうきょう行政ぎょうせい区別くべつしてあつかうようになった1900ねん明治めいじ33ねん以降いこうおこなわれた、神社じんじゃ神職しんしょく祭祀さいしなどにたいする様々さまざま国家こっかてき制度せいどすことになる[7]

研究けんきゅうしゃにおける「国家こっか神道しんとう」の定義ていぎかんしては、いわゆる「広義こうぎ国家こっか神道しんとう」と「狭義きょうぎ国家こっか神道しんとう」という2種類しゅるい定義ていぎかれる[7]。「広義こうぎ国家こっか神道しんとう」は、ひろ皇室こうしつ神道しんとう神社じんじゃ神道しんとう合体がったいした「国教こっきょうてき地位ちいにあった神道しんとうであるとか、「明治維新めいじいしんからだい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんいたるまで、国家こっかのイデオロギーてき基礎きそとなった事実じじつじょう日本にっぽん国教こっきょう」といった概念がいねん規定きてい[7]一方いっぽうで「狭義きょうぎ国家こっか神道しんとう」は「戦前せんぜん国家こっかによって管理かんりされ、国家こっか法令ほうれいによって行政ぎょうせい対象たいしょうとなった神社じんじゃ神道しんとう」とする限定げんていてき定義ていぎ[7]

前者ぜんしゃ代表だいひょうろんしゃである村上むらかみ重良しげよしは、国家こっか神道しんとうは、宗教しゅうきょう範疇はんちゅうえる国家こっか祭祀さいしとしてほか公認こうにん宗教しゅうきょう君臨くんりんする体制たいせいであり、教育きょういく勅語ちょくご天皇てんのうせいてき国民こくみん教化きょうか基準きじゅんとして発布はっぷされて国家こっか神道しんとうのイデオロギーてき基礎きそをなし、一神教いっしんきょうてき天皇てんのうかん現人神あらひとがみ ) が戦争せんそう宗教しゅうきょう弾圧だんあつしたとし、近代きんだいを「国家こっか神道しんとう体制たいせい」が右肩みぎかたがりに強化きょうかされていった時代じだいとらえたうえで、昭和しょうわ前期ぜんきを「天皇てんのうせいファシズム」の時代じだいとし、国家こっか神道しんとうはこの段階だんかいにおいて絶頂ぜっちょうむかえ、国民こくみんたいする精神せいしんてき支配しはい武器ぶきとなったと主張しゅちょうした[8]

一方いっぽう、こういった村上むらかみ主張しゅちょうたいしては反論はんろん相次あいついだ。あしちんは、村上むらかみらの国家こっか神道しんとうろんを、国家こっか神道しんとう概念がいねん各人かくじん各様かくようにほしいままに乱用らんようするものであり、明白めいはくにしてロジカルな理論りろん史観しかん史論しろん成立せいりつないと指摘してきし、「国家こっか神道しんとう」の定義ていぎを、GHQの「神道しんとう指令しれい」にしめされた定義ていぎのままにもちいるべきとした[8]。これがいわゆる「狭義きょうぎ国家こっか神道しんとう」の立場たちばであり、これをいだ阪本さかもとただしまるは、近代きんだい天皇てんのうせい規定きていしたイデオロギーやイデオロギー装置そうちは、神道しんとうのみならず仏教ぶっきょう儒教じゅきょう、キリストきょうしん宗教しゅうきょう、あるいは通俗つうぞくてき道徳どうとく思想しそう西洋せいよう思想しそうなど様々さまざまであり、近代きんだい天皇てんのうせいのイデオロギーを「国家こっか神道しんとう」の一言ひとこと表現ひょうげんすることはできないとし、村上むらかみらの国家こっか神道しんとうろんは、天皇てんのうせい、あるいは国家こっか主義しゅぎ国粋こくすい主義しゅぎ関係かんけいするイデオロギーやイデオロギー装置そうちならばすべて国家こっか神道しんとう総括そうかつ包含ほうがんしてしまうものであると批判ひはんした[8]

他方たほう村上むらかみの「広義こうぎ国家こっか神道しんとうろん修正しゅうせいてき継承けいしょうする意見いけんもあり、しまそのすすむは、天皇てんのう現人神あらひとがみかん神社じんじゃ神道しんとう国家こっか神道しんとう基底きていではないとして、神社じんじゃ神道しんとう国家こっか神道しんとう基体きたいとする見方みかた村上むらかみせつ欠点けってん指摘してきし、国家こっか神道しんとうは、「天皇てんのう国家こっかたっと国民こくみんとして結束けっそくすることと、日本にっぽんかみ々の崇敬すうけいむすびついて信仰しんこう生活せいかつ主軸しゅじくとなった神道しんとう形態けいたい」であると定義ていぎし、皇室こうしつ祭祀さいし学校がっこう教育きょういく国民こくみん行事ぎょうじ・マスメディアと神社じんじゃ神道しんとうとがわさって形作かたちづくられたものであるとして、皇室こうしつ祭祀さいし国家こっか神道しんとう中心ちゅうしんてき要素ようそ定義ていぎした[8]

近年きんねんでは、国家こっか神道しんとうという概念がいねん規定きてい名称めいしょうそのものをさい検討けんとうするうごきもひろがっており、安丸やすまる良夫よしおは、村上むらかみろんを「国家こっか神道しんとう体制たいせい」なるもので近代きんだい日本にっぽん宗教しゅうきょうおおってしまう結果けっかとなり、多様たよう宗教しゅうきょう現象げんしょうをひとつのおりのなかにいたてるような性急せいきゅうさがかんじられる、として批判ひはんし、近代きんだいにおいてしょ宗教しゅうきょううえ君臨くんりんしたのは「国家こっか神道しんとう」ではなく、教育きょういく勅語ちょくごあらわされた「国体こくたいろんてきイデオロギー」であり、天皇てんのう権威けんい神道しんとうふく特定とくてい権威けんいむすびつくものではなかったと指摘してきした[8]

また、いそぜん順一じゅんいちは「天皇てんのうせい国家こっか神社じんじゃだけでなく、時期じきによって学校がっこう教育きょういく宗教しゅうきょう教団きょうだんなど、さまざまな回路かいろとおして国民こくみん規律きりつ抑圧よくあつすすめていったのであり、それを一律いちりつ国家こっか神道しんとうづけることは当時とうじ理解りかい乖離かいりするものである」と指摘してきし、国家こっか神道しんとう政府せいふ神社じんじゃ政策せいさくとして限定げんていてき定義ていぎづけたうえで、それを天皇てんのうせい国家こっかささえるイデオロギー装置そうち一部いちぶとして位置いちづけなおす必要ひつようがあると指摘してきした[8]。すなわち、いそまえは「近代きんだい天皇てんのうせい国家こっかささえるイデオロギー装置そうち」の全体ぜんたいなかひとつとして、「国家こっか神道しんとう」を意義いぎづけるべきであると指摘してきしたのである[8]

同様どうよう見解けんかいをとるもの山口やまぐちあきらしんがあり、山口やまぐちは「近代きんだい日本にっぽんにおける国家こっか宗教しゅうきょうとの関係かんけい研究けんきゅうすることは、すなわち国家こっか神道しんとう研究けんきゅうすることである、とはえなくなった」とし、国家こっか神道しんとう研究けんきゅうという枠組わくぐみにとらわれずに近代きんだい日本にっぽんにおける国家こっか宗教しゅうきょうとの関係かんけいへと接近せっきんする必要ひつようがあるとした[8]

新田にったひとしは、国家こっか神道しんとう根幹こんかんをなす神社じんじゃ宗教しゅうきょうろん政府せいふ採用さいようさせたのは浄土真宗じょうどしんしゅうであることなど、近代きんだい日本にっぽん宗教しゅうきょう政策せいさくたいする浄土真宗じょうどしんしゅう一貫いっかんしたつよ影響えいきょうりょくから、近代きんだい日本にっぽん政教せいきょう関係かんけい全体ぜんたい包含ほうがんする用語ようごとして、「国家こっか神道しんとう」という用語ようごもちいるのは適切てきせつではないと指摘してきし、わりに「公認こうにんきょう制度せいど」などととらなおすべきであるとし、「現人神あらひとがみ」の思想しそう神道しんとうのみならず仏教ぶっきょう儒教じゅきょう要素ようそ色濃いろこくあり、一般いっぱん国民こくみんへの神社じんじゃ参拝さんぱい強制きょうせいといえる現象げんしょう満州まんしゅう事変じへん以降いこうのものでしかないとして、「現人神あらひとがみ」「神社じんじゃ神道しんとう」「神社じんじゃ参拝さんぱい強制きょうせい」などを主要しゅよう構成こうせい要素ようそとする 「広義こうぎ国家こっか神道しんとうろんりたないと主張しゅちょうした[8]

内容ないよう 編集へんしゅう

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうでは、文面ぶんめんじょう信教しんきょう自由じゆう明記めいきされていた[9]ため、仏教ぶっきょうかく宗派しゅうはキリスト教きりすときょう教派きょうは神道しんとうその国家こっか公認こうにんされた宗教しゅうきょう教団きょうだん並立へいりつみとめられた[10]。しかし、神社じんじゃ宗教しゅうきょうではないものとする神社じんじゃ宗教しゅうきょうろん[2]という公権こうけんほう解釈かいしゃく[11]立脚りっきゃくし、“神道しんとう神社じんじゃを「国家こっかむねまつ」として公的こうてき位置付いちづけることは憲法けんぽう信教しんきょう自由じゆうとは矛盾むじゅんしない”との公式こうしき見解けんかいしめされた[10]。また自由じゆうけん一元いちげんてき外在がいざい制約せいやくろんで「法律ほうりつおよ臣民しんみん義務ぎむそむかぬかぎり」という留保りゅうほがされていた。このように宗教しゅうきょうてき信仰しんこうと、神社じんじゃ神社じんじゃ祭祀さいしへの敬礼けいれい区分くぶんされたが、宗教しゅうきょうへの礼拝れいはい一切いっさい否定ひていした完全かんぜん一神教いっしんきょう視点してんキリスト教徒きりすときょうとや、厳格げんかく政教せいきょう分離ぶんり主張しゅちょうした浄土真宗じょうどしんしゅうとのあいだ軋轢あつれきんだめんもある。政府せいふ神社じんじゃ宗教しゅうきょうろん解釈かいしゃくった背景はいけいとして、伊藤いとう博文ひろぶみ中心ちゅうしんとする明治めいじ政府せいふは、憲法けんぽう制定せいていにあたって「くににおいて宗教しゅうきょうちから微弱びじゃくであり、神道しんとうであっても仏教ぶっきょうであっても、ひとつも国家こっか基軸きじくたるべきものはない」とかんがえ、皇室こうしつ国家こっか基軸きじくとするべきであるとかんがえた結果けっか、「国教こっきょう」をてないアメリカがた政教せいきょう分離ぶんり導入どうにゅうした[12]ことや、長州ちょうしゅうはんとの関係かんけいつよかった島地しまじ黙雷もくらいらの浄土真宗じょうどしんしゅう勢力せいりょくが、神道しんとう国教こっきょうふせぐため積極せっきょくてきに「神道しんとう未開みかいのアニミズムのるいであって、宗教しゅうきょう要件ようけんたさない」などと神道しんとう宗教しゅうきょうろん進言しんげんして宗教しゅうきょうかいから神道しんとうそうとしたこともおおきな要因よういんである[13]

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい28じょう条文じょうぶんでは「日本にっぽん臣民しんみん安寧あんねい秩序ちつじょさまたげケス及臣民しんみんタルノ義務ぎむカサルげんニ於テ信教しんきょう自由じゆうゆうス」となっていたが[9]、この「臣民しんみんタルノ義務ぎむ」の範囲はんい立法りっぽう段階だんかい議論ぎろん対象たいしょうとなっており、起草きそうしゃである伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえあつし神社じんじゃへの崇敬すうけい臣民しんみん義務ぎむふくまれないという見解けんかいっていた[ちゅう 1]昭和しょうわはいってから美濃部みのべ達吉たつきち[ちゅう 2]神社じんじゃきょく [ちゅう 3]には神社じんじゃ崇敬すうけい憲法けんぽうじょう臣民しんみん義務ぎむととらえる姿勢しせいがあったが、内務省ないむしょう公式こうしき見解けんかいとしてしめされることはなかった。

なお、神社じんじゃ宗教しゅうきょうろんられた結果けっか神社じんじゃ神道しんとう神職しんしょくらは布教ふきょう神葬しんそうさいその一切いっさい宗教しゅうきょうてき活動かつどうきんじられた[14]神社じんじゃきょくも、神職しんしょくらの思想しそう表明ひょうめい神葬しんそうさいなどの宗教しゅうきょう活動かつどうかんしてはきびしく規制きせいし、宗教しゅうきょうとの宗論しゅうろん抑制よくせいした[15]従軍じゅうぐん聖職せいしょくしゃ制度せいども、もっぱら僧侶そうりょキリスト教きりすときょうしゃのみにみとめられ、昭和しょうわ14ねんまで神職しんしょくにはどう制度せいどみとめられなかった[16]。また、仏教ぶっきょうキリスト教きりすときょう教団きょうだんからは、神社じんじゃにおいて宗教しゅうきょう活動かつどう祈祷きとうおこなわれているとの非難ひなんがることもしばしばあり、1930ねん昭和しょうわ5ねん)には、浄土真宗じょうどしんしゅう10神社じんじゃたいする宗教しゅうきょうてき拝礼はいれい吉凶きっきょう禍福かふく祈念きねんなどの禁止きんし要求ようきゅうして神社じんじゃ宗教しゅうきょうろん徹底てってい政府せいふ要望ようぼうした[17]

1899ねん文部省もんぶしょう訓令くんれいだい12ごう一般いっぱん教育きょういくヲシテ宗教しゅうきょうがい特立とくりつセシムルノけん」によって官立かんりつ私立しりつすべての学校がっこうでの宗教しゅうきょう教育きょういく禁止きんしされ、「宗教しゅうきょうではない」とされた国家こっか神道しんとう宗教しゅうきょう超越ちょうえつした教育きょういく基礎きそとされた。1890ねん(10がつ30にち帝国ていこく憲法けんぽう施行しこうよりまえ)には教育きょういく勅語ちょくご発布はっぷされ、国民こくみん道徳どうとく基本きほんしめされ、国家こっか神道しんとう事実じじつじょう教典きょうてんとなった[1]

だい世界せかい大戦たいせんGHQにより「神道しんとう指令しれい」(後述こうじゅつ)がされ、国家こっか神道しんとう解体かいたいかったが[18]国家こっか神道しんとうめぐ政教せいきょう関係かんけいについては論争ろんそうつづいている。

おも政策せいさくおよ制度せいど 編集へんしゅう

神社じんじゃ法的ほうてき性格せいかく 編集へんしゅう

神社じんじゃについて、その法人ほうじんかく具体ぐたいてき規定きていした法令ほうれい存在そんざいしなかったが、行政ぎょうせいじょう運用うんよう判例はんれいによれば、神社じんじゃは「財産ざいさんけん主体しゅたい」であり、

  • 公法人こうほうじん
  • 財団ざいだん法人ほうじん
  • 営造えいぞうぶつ法人ほうじん

性格せいかくゆうするものとされた。かく神社じんじゃ国家こっか管理かんりする台帳だいちょう一種いっしゅである神社じんじゃ明細めいさいちょう登録とうろくされた。

神道しんとう行政ぎょうせい管轄かんかつ機関きかん 編集へんしゅう

近代きんだいにおける神道しんとう行政ぎょうせい管轄かんかつ機関きかんとしては、まず1867ねん慶応けいおう3ねん)にはっせられた王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいや、翌年よくねんの「祭政さいせい一致いっち布告ふこく」の理念りねんもとづいて復興ふっこうされた神祇官じんぎかん設置せっちされた[19]。しかし、神祇官じんぎかん実務じつむおもうようにはかず、1871ねん8がつ神祇官じんぎかん太政官だじょうかんいち組織そしきである「神祇じんぎしょう」へと格下かくさげされ、さらに翌年よくねんには神仏しんぶつ合同ごうどう組織そしきであるきょうしょうへと改組かいそされるにいたった[20]。このきょうしょう神仏しんぶつ双方そうほう反発はんぱつによりわずか3ねん解散かいさんした[20]。その内務省ないむしょう一部いちぶきょくで、しかも宗教しゅうきょう行政ぎょうせい一般いっぱん管轄かんかつするにぎない社寺しゃじきょくにおいて神道しんとう行政ぎょうせい管轄かんかつされることとなった[21]。その、1900ねん明治めいじ33ねん)に社寺しゃじきょくから神社じんじゃきょく分離ぶんりして、神道しんとう行政ぎょうせい宗教しゅうきょう行政ぎょうせい区分くぶんされるようになった[21]神社じんじゃきょくのち神祇じんぎいん改組かいそされるが、有効ゆうこう政策せいさくがないまま敗戦はいせんにより廃止はいしされた[22]

神社じんじゃ制度せいど神社じんじゃ政策せいさく 編集へんしゅう

1871ねん明治めいじ4ねん)に政府せいふ神社じんじゃを「国家こっかむねまつ」と宣言せんげんし、古代こだい延喜えんぎしきかみめいちょうなどをもとに近代きんだい社格しゃかく制度せいどもうけて、かんぬさしゃ国幣社こくへいしゃさと村社そんしゃ府県ふけんしゃかくしゃなどに全国ぜんこく神社じんじゃ分類ぶんるい[23]、「社寺しゃじりょうじょうれい」により、社領しゃりょうおおくが国有こくゆう吸収きゅうしゅうされた[24]神社じんじゃへの公費こうひ支出ししゅつ制度せいどかんしては、かん国幣社こくへいしゃ国庫こっこよりその経費けいひ支出ししゅつされることとなっていたが、1877ねんに「かん国幣社こくへいしゃ保存ほぞんきん制度せいど」が導入どうにゅうされ、こう15年間ねんかん一定いっていがく支給しきゅうし、それ以降いこう神社じんじゃへの財政ざいせい支出ししゅつることとされ、実質じっしつてき公的こうてき援助えんじょがなくなることとなった(これにかんしては1906ねん明治めいじ39ねん)に撤回てっかいされ、ふたた公費こうひ支出ししゅつされた)[21]府県ふけんしゃ以下いか神社じんじゃたいしては地方ちほうより幣帛へいはくりょうきょうしん可能かのうとされたが、義務ぎむとはされなかった[25]。また、政府せいふは1906ねん明治めいじ39ねん)から1910ねん明治めいじ43ねん)にかけて、地方ちほう負担ふたん軽減けいげんや、神社じんじゃ町村ちょうそん精神せいしんてき支柱しちゅう位置付いちづけることを目的もくてきに、一村いちむらいちしゃ目安めやすとした神社じんじゃ合祀ごうしおこない、全国ぜんこく神社じんじゃが4わりほど減少げんしょうした[26]

神職しんしょく政策せいさく神職しんしょく制度せいど 編集へんしゅう

国家こっかむねまつ」に相応ふさわしくないとされた世襲せしゅう神職しんしょくすべ廃止はいしされ、以後いごくに選任せんにんする官吏かんり公務員こうむいん)とされた[27]。しかし、1873ねん明治めいじ6ねん)には府県ふけんしゃ以下いか神社じんじゃ神官しんかん公費こうひからの給与きゅうよ支払しはらいが停止ていしされ、1879ねん明治めいじ10ねん)には府県ふけんしゃ以下いか神官しんかん官吏かんり身分みぶん廃止はいしし、僧侶そうりょ同様どうよう民間みんかん宗教しゅうきょうしゃあつかわれるようになった(その、1894ねん明治めいじ27ねん)に判任官はんにんかん待遇たいぐう復帰ふっき[28]。1887ねん明治めいじ20ねん)にはかん国幣社こくへいしゃの「神官しんかん」という呼称こしょうはいして「神職しんしょく」とさだめた[28]神職しんしょくは、当初とうしょは「だいきょう宣布せんぷみことのり」が発令はつれいされ、宣教せんきょう使神祇官じんぎかん時代じだい)や教導きょうどうしょくきょうしょう時代じだい)として布教ふきょうになうこととなったが[20]上述じょうじゅつ神社じんじゃ宗教しゅうきょうろん採用さいようにより、1872ねん明治めいじ15ねん)に「神官しんかん教導きょうどうしょく分離ぶんり」がおこなわれて神社じんじゃ神道しんとう神職しんしょく宗教しゅうきょうてき活動かつどう制限せいげんされ、神葬しんそうさいとともに布教ふきょうきんじられた[14]。なお、そういった宗教しゅうきょうてき側面そくめん教派きょうは神道しんとうがれることとなった。

祭式さいしき制度せいど祭式さいしき政策せいさく 編集へんしゅう

また、祭式さいしき制度せいどほう整備せいびおこなわれ、祭祀さいし制度せいど整備せいびすすみ、1875ねん明治めいじ8ねん)に式部しきぶりょうたち神社じんじゃ祭式さいしき」が制定せいていされ、はじめて全国ぜんこく神社じんじゃ祭式さいしき統一とういつされた[29]1907ねん明治めいじ40ねん)には内務省ないむしょうより「神社じんじゃ祭式さいしき行事ぎょうじ作法さほう」がはっせられてそれぞれの神社じんじゃ祭式さいしき行儀ぎょうぎ礼法れいほう統一とういつされた[29]。さらに、1914ねん大正たいしょう3ねん)には「かん国幣社こくへいしゃ以下いか神社じんじゃ祭祀さいしれい」が公布こうふされ、神社じんじゃ祭典さいてん大祭たいさいちゅうさいしょうさい区分くぶんされた[29]。さらにその細則さいそくとして「かん国幣社こくへいしゃ以下いか神社じんじゃ祭式さいしき」がさだめられた[29]。なお、皇室こうしつ祭祀さいしについては「皇室こうしつ祭祀さいしれいおよびそのしき神宮じんぐう祭式さいしきについては「神宮じんぐう祭祀さいしれいおよび「神宮じんぐう明治めいじ祭式さいしき」によりさだめられた[29]。また、天皇てんのう践祚せんそ即位そくいれい大嘗祭だいじょうさいおよ立太子りったいしれいについては登極とうきょくれいたてもうかれいによりさだめられた[29]

外地がいち神社じんじゃ造営ぞうえい 編集へんしゅう

台湾たいわん朝鮮ちょうせん南洋なんよう諸島しょとうなどの外地がいちにも神社じんじゃてられた。これはもともとは外地がいち在留ざいりゅうする日本人にっぽんじん自分じぶんたちのためにてたものであった。

外地がいち神社じんじゃ建立こんりゅうにあたり、おおくの神道しんとうらは現地げんちかみ々をまつるべきだと主張しゅちょうしたが、政府せいふ同意どういせず、欧米おうべい列強れっきょう植民しょくみんへのキリスト教きりすときょう伝道でんどう土着どちゃく信仰しんこう残滓ざんし払拭ふっしょくといった発想はっそう同様どうようおお明治天皇めいじてんのうてんあきら大神おおがみ祭神さいじんとした。これは明治めいじ政府せいふ宗教しゅうきょう勢力せいりょく完全かんぜん国家こっか従属じゅうぞくき、宗教しゅうきょう勢力せいりょく意向いこう政策せいさく立案りつあん過程かていから排除はいじょすることに成功せいこうした先進せんしんこくなかでも稀有けう世俗せぞく政権せいけんだったこともしめしているが同時どうじこれら時期じき逆説ぎゃくせつてきに「神道しんとう暗黒あんこく時代じだい」とする意見いけん根拠こんきょともなっている[よう出典しゅってん]

外地がいち建立こんりゅうされたおもな神社じんじゃとしては朝鮮ちょうせん神宮じんぐう台湾たいわん神宮じんぐう南洋なんよう神社じんじゃ関東かんとう神宮じんぐう樺太からふと神社じんじゃ樺太からふとのちに1943ねん内地ないち編入へんにゅう)などがげられる。台湾たいわんについては台湾たいわん神社じんじゃ参照さんしょう

GHQの国家こっか神道しんとうかんとそれにたいする批判ひはん 編集へんしゅう

GHQの国家こっか神道しんとうかん 編集へんしゅう

GHQからた「国家こっか神道しんとう」は、軍国ぐんこく主義しゅぎちょう国家こっか主義しゅぎウルトラナショナリズム)に思想しそうてき裏付うらづけられた危険きけん思想しそうであり、以下いかげる理由りゆうをもとに、日本にっぽん支配しはい国民こくみん民族みんぞくおよぼそうとする日本人にっぽんじん使命しめい擁護ようごし、正当せいとうするおしえ、信仰しんこう理論りろん包含ほうがんするものであると定義ていぎしている[30]

  • 日本にっぽん天皇てんのうは、その家系かけい血統けっとうあるいは特殊とくしゅ起源きげんつがゆえに、他国たこく元首げんしゅよりもすぐれているとの教義きょうぎ(doctrine)[30]
  • 日本にっぽん国民こくみんは、その家系かけい血統けっとうあるいは特殊とくしゅ起源きげんつがゆえに、国民こくみんよりもすぐれているとの教義きょうぎ[30]
  • 日本にっぽん列島れっとうは、その神性しんせい特殊とくしゅ起源きげんつがゆえに、他国たこくよりもすぐれているとの教義きょうぎ[30]
  • その日本にっぽん国民こくみんだまして侵略しんりゃくてき戦争せんそうはじめさせたり、国民こくみんとの紛争ふんそう解決かいけつする手段しゅだんとしての武力ぶりょく行使こうし美化びかするような、あらゆる教義きょうぎ[30]

これらはいずれも、太平洋戦争たいへいようせんそう敗北はいぼく昭和しょうわ天皇てんのうはっした「新日本建設しんにほんけんせつかんする詔書しょうしょ」、通称つうしょう人間にんげん宣言せんげん」によって否定ひていされた。

このようなGHQの国家こっか神道しんとうかんは、日本にっぽん占領せんりょう政策せいさくにおいて宗教しゅうきょう政策せいさく担当たんとうしたアメリカの宗教しゅうきょう学者がくしゃD・C・ホルトム英語えいごばん論理ろんり意見いけんおおきな影響えいきょうあたえている[31]。ホルトムは、加藤かとうげんさとし神道しんとうろん影響えいきょうけており、加藤かとう神道しんとうを「国家こっかてき神道しんとう」「宗派しゅうはてき神道しんとう」に分類ぶんるいし、さらに「国家こっかてき神道しんとう」を「神社じんじゃ神道しんとう」と「国体こくたい神道しんとう」に分類ぶんるいした[31]。ホルトムは、これに影響えいきょうけつつ、加藤かとう主張しゅちょうした「神社じんじゃ神道しんとう」と「国体こくたい神道しんとう」とを同一どういつし、国家こっか神道しんとう神社じんじゃ神道しんとう同一どういつして定義ていぎした[31]

GHQの国家こっか神道しんとうかんへの批判ひはん 編集へんしゅう

おなじく占領せんりょう宗教しゅうきょう政策せいさくかんする助言じょげんおこなったアメリカの宗教しゅうきょう学者がくしゃウィリアム・ウッダードは、このようなGHQの国家こっか神道しんとう理解りかい疑義ぎぎていし、「国家こっか神道しんとう (State Shinto)」とはたん神社じんじゃ国家こっか管理かんり状態じょうたいすものでしかなく、1930年代ねんだいから1940年代ねんだい初期しょきに、国民こくみん強制きょうせいされたちょう国家こっか主義しゅぎてき軍国ぐんこく主義しゅぎてき教義きょうぎ儀礼ぎれい慣行かんこうは、神道しんとうとはまった区別くべつされる、別箇べっこかつ独立どくりつ現象げんしょうであって、神道しんとう一派いっぱではないとし、そのようなイデオロギーを「国体こくたい狂信きょうしん主義しゅぎ( State Cult, Kokutai Cult )」と総称そうしょうし、「国家こっか神道しんとう」とは明確めいかく区別くべつされるものとした[8]

また、GHQの占領せんりょう政策せいさくにおいて、GHQの担当たんとうしゃ折衝せっしょうたった日本にっぽん宗教しゅうきょう学者がくしゃである岸本きしもと英夫ひでおは『戦後せんご宗教しゅうきょう回想かいそうろく所収しょしゅうの「あらしなか神社じんじゃ神道しんとう」で、GHQの国家こっか神道しんとうかんを、「国家こっか神道しんとう偏狭へんきょう国家こっか主義しゅぎ思想しそうかたまった、きわめて煽動せんどうてき宗教しゅうきょうであるとみなすことが、世界せかいつよ一般いっぱんてき世論せろんになっていた」「ある意味いみでは、連合れんごうこくがわでは、国家こっか神道しんとうちから過大かだい評価ひょうかしていたともいえよう。みずからがえがきした、国家こっか神道しんとう幻影げんえいにおびえていたともられる」「かん国幣社こくへいしゃ神官しんかん以外いがいに、いわゆる挑発ちょうはつてき国家こっか主義しゅぎ指導しどうしゃはたくさんいたにもかかわらず、かれらは、神官しんかんこそ偏狭へんきょう国家こっか主義しゅぎ思想しそう煽動せんどうしゃであったとしんんでいた」「神社じんじゃといえば、すべてかん国幣社こくへいしゃてき性格せいかくをもっていて、直接ちょくせつ国家こっかによって管理かんり経営けいえいされているものとかんがえていた」「かんしゃ民社みんしゃとの区別くべつらず、しかも神社じんじゃかずからいえば、かん国幣社こくへいしゃはきわめて少数しょうすうで、そのだい部分ぶぶん民社みんしゃであるというようなことはらなかった。すべての神社じんじゃを、いちまとめにして、かん国幣社こくへいしゃなみにかんがえていたのである」などと回想かいそうしている[32]

かたり 編集へんしゅう

国家こっか神道しんとう」の語彙ごいだい世界せかい大戦たいせんまえより存在そんざいし、議会ぎかい神道しんとうがく内務省ないむしょう陸軍りくぐんしょう[疑問ぎもんてん]などでは「国家こっか神道しんとう」およびその同義語どうぎごもちいているれいがみられる。宗教しゅうきょう学者がくしゃしまそのすすむ戦前せんぜんたんに「神道しんとう」もしくは「すめらぎどう」とばれていたものも、内容ないようてきには戦後せんご広義こうぎの「国家こっか神道しんとう」に相当そうとうする概念がいねんだとし、今泉いまいずみじょうすけの「すめらぎどうろんれいとしてげる[33]

  • 1908ねん明治めいじ41ねん)3がつ2にち小田おだ貫一かんいち衆議院しゅうぎいん議員ぎいんすんで宗教しゅうきょう神道しんとう[、]国家こっか神道しんとううんウモノハあかりラカニぶんカッテイタケレドモガかっていた」(帝国ていこく議会ぎかい神職しんしょく養成ようせい国庫こっこ補助ほじょかんする建議けんぎあん委員いいんかい」における発言はつげん[34]
  • 1911ねん明治めいじ44ねん)2がつ小田おだ貫一かんいち国家こっか神道しんとううんフモノハあかりカニぶんツテきょタ」「神社じんじゃきょくニ於テハ国家こっか神道しんとうナルモノヲ扱ヒ、宗教しゅうきょうきょくニ於テハ耶蘇やそ仏法ぶっぽう及神どう各派かくはぞくスルトコロノ、そく宗教しゅうきょう神道しんとう支配しはいスル」(帝国ていこく議会ぎかいにおける発言はつげん
  • 1924ねん大正たいしょう13ねん)、加藤かとうげんさとし陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう教授きょうじゅ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく神道しんとう講座こうざ助教授じょきょうじゅ)は「神道しんとう」を「宗派しゅうはてき神道しんとう」と「国家こっかてき神道しんとう」とにけ、さらに「国家こっかてき神道しんとう」を「神社じんじゃ神道しんとう」と「国体こくたい神道しんとう」とに区分くぶんするせつてた[35][36]
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)、宮地みやじ直一なおかず内務省ないむしょう神社じんじゃきょく考証こうしょう課長かちょう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅなど)は「大化たいか改新かいしんは、祭祀さいしはじまり、惟神かんながらみちによりて樹立じゅりつせられし国家こっか中興ちゅうこう大業おおわざにして、此時に振起ふりおこせられし国家こっか神道しんとう精神せいしんは、此後ひさしきにわた持続じぞくせられて」 [37]などと、「国家こっか神道しんとう」のかたり頻繁ひんぱんもちいている [38]

ただし、教派きょうは神道しんとうの「『神道しんとう各派かくは』から区別くべつされたかみながらのみちとく国家こっか神道しんとうともばれるが、法律ほうりつ行政ぎょうせい実務じつむ以前いぜんからそれを神社じんじゃぶのがれい[39]」であり、「国家こっか神道しんとう」のかたり政治せいじ内務省ないむしょう、その神社じんじゃきょく陸軍りくぐん上層じょうそう神道しんとうがくなどのでの専門せんもん用語ようごであって、一般いっぱん民衆みんしゅう流通りゅうつうした語彙ごいではなかった。現在げんざいでは「神社じんじゃ」の語義ごぎ変化へんかしているため、「神社じんじゃ」ではなく「国家こっか神道しんとう」のかたりをもちいるのが通例つうれいである。

研究けんきゅう史上しじょうでは村上むらかみ重良しげよしの1970ねん著書ちょしょ国家こっか神道しんとう』の影響えいきょうおおきかった[36][40]

歴史れきし 編集へんしゅう

近世きんせいとの関係かんけい 編集へんしゅう

応仁おうにんらんにより、律令制りつりょうせいのもとで神社じんじゃ管掌かんしょうした神祇官じんぎかん庁舎ちょうしゃ焼失しょうしつし、以来いらい吉田よしだ白川しらかわはく王家おうけ私邸してい神祇官じんぎかんだいとして祭祀さいし神社じんじゃ管掌かんしょう継続けいぞくしていた。とく吉田よしだ寺社じしゃ法度はっと制定せいていによって江戸えど幕府ばくふより神社じんじゃ管掌かんしょう公認こうにんされ、支配しはいてき勢力せいりょくとなっていた。

幕末ばくまつになると黒船くろふね来航らいこうなどの外交がいこう問題もんだい発生はっせいし、朝廷ちょうてい江戸えど幕府ばくふ全国ぜんこく有力ゆうりょく社寺しゃじ攘夷じょうい祈願きがんをおこない、また、民間みんかんでは国学こくがく復古ふっこ神道しんとう隆盛りゅうせいから国難こくなん打開だかいのために神祇官じんぎかん再興さいこうろん浮上ふじょうしていた。とくにペリーの来航らいこうについて幕府ばくふじか朝廷ちょうてい奏聞そうもんし、以後いごも、幕府ばくふ外交がいこう問題もんだいについて朝廷ちょうてい判断はんだんあおいだため、朝廷ちょうてい権威けんい次第しだいたかまるのと相対そうたいてき幕府ばくふ権威けんい低下ていかし、尊王そんのう攘夷じょうい思想しそう討幕とうばく運動うんどうあいまって大政奉還たいせいほうかんおよ王政おうせい復古ふっこ実現じつげんへとつながった。

大政奉還たいせいほうかんのち、1868ねん1がつ3にち王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいによって明治維新めいじいしんはじまった。すで平田ひらた国学こくがくもの大国おおくに隆正たかまさと、かれ活躍かつやくした石見いわみ津和野つわのはん国学こくがくしゃたちは明治維新めいじいしん精神せいしん神武じんむ創業そうぎょう精神せいしんもとづくものとし、近代きんだい日本にっぽん王政おうせい復古ふっこによる祭政さいせい一致いっち国家こっかとすることを提唱ていしょうしていた[41]が、王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいには王政おうせい復古ふっこ神武じんむ創業そうぎょうかたりえ、従来じゅうらい理想りそうとしてとなえられていた王政おうせい復古ふっこと「諸事しょじ神武じんむ創業そうぎょうはじめばら」くことが、実際じっさい国家こっかそうせいさいして現実げんじつせいび、「まん御一新ごいっしん」のスローガンとして公的こうてき意義いぎつようになった。

明治めいじ政府せいふしん政府せいふ樹立じゅりつ基本きほん精神せいしんである祭政さいせい一致いっち実現じつげんと、開国かいこく以来いらい治安ちあん問題もんだい(浦上うらかみむら事件じけんなど)に発展はってんしていたキリスト教きりすときょう流入りゅうにゅう防禦ぼうぎょのため、律令制りつりょうせい崩壊ほうかい以降いこうおとろえていた神祇官じんぎかん復興ふっこうさせ、中世ちゅうせい以来いらい混沌こんとんとした様相ようそうせていた神道しんとう組織そしき整備せいびをおこなった。

憲法けんぽう政治せいじでの神社じんじゃ立場たちば 編集へんしゅう

 
靖国神社やすくにじんじゃ

近代きんだいすすめるにあたり、日本にっぽん手本てほんとした欧米おうべいにおいては、社会しゃかい制度せいど安定あんていたも基軸きじくとしてキリスト教きりすときょう存在そんざいおもきをめていることが注目ちゅうもくされ、明治めいじ初期しょきにはキリスト教きりすときょう国教こっきょうすることが言論げんろんかい中心ちゅうしん提案ていあんされていた。一方いっぽう帝国ていこく憲法けんぽう制定せいてい伊藤いとう博文ひろぶみをはじめとする政府せいふ高官こうかんは、キリストきょうのみならず仏教ぶっきょう神道しんとうについても、日本にっぽん社会しゃかい基軸きじくとするには力不足ちからぶそくであるとの認識にんしきであった[42]

結局けっきょく国家こっか基軸きじく皇室こうしつもとめられ、神道しんとうふくめたかく宗教しゅうきょう明文めいぶんじょう特別とくべつあつかいをけなかった[43]

また、明治維新めいじいしん直後ちょくご一時いちじてき神社じんじゃ重視じゅうし政策せいさくは、ほどなくして反転はんてん神社じんじゃ統廃合とうはいごうや「民営みんえい」をうなが方向ほうこうへとかじ[44]。まず、維新いしん神社じんじゃおおくは一時いちじてき補償ほしょうきんえに境内けいだいおおくが国庫こっこ帰属きぞくしており[ちゅう 4]明治めいじ9ねん(1876ねん)からはきょうしょう指導しどうかくしゃ仏堂ぶつどう整理せいり開始かいし[45]明治めいじ17ねん(1884ねんまつまでに伊勢神宮いせじんぐうおよび一部いちぶかん国幣社こくへいしゃやく150しゃ)をのぞいたほとんどすべての神社じんじゃ自立じりつ経営けいえいもとめられた[46]

明治めいじ20ねん(1887ねん)からはかん国幣社こくへいしゃへの支出ししゅつも15ねん分割ぶんかつの「基金ききん」というかたち徐々じょじょ減額げんがくし、最終さいしゅうてきには、伊勢神宮いせじんぐう靖国神社やすくにじんじゃ忠魂ちゅうこんしゃのぞいては祭典さいてん神饌しんせん幣帛へいはくりょうきょうされるのみとなる予定よていであった。これについては神職しんしょくらが運動うんどうおこない、明治めいじ39ねん(1906ねん)、かん国幣社こくへいしゃたいしての経費けいひ支出ししゅつ継続けいぞくすることとなった[47]

しかし同年どうねんいち町村ちょうそんいちしゃ原則げんそく統廃合とうはいごうをおこなうとする「神社じんじゃ合祀ごうしれい」がされた。同年どうねん以来いらい内務省ないむしょうすう年間ねんかんかけて神社じんじゃ整理せいり事業じぎょうをおこなった(神社じんじゃ整理せいり)。合祀ごうしいちじるしかったのが三重みえけん和歌山わかやまけんで、三重みえけんの6500しゃ神社じんじゃが7ぶんの1以下いかに、和歌山わかやまけんの3700しゃ神社じんじゃが6ぶんの1以下いか合祀ごうしされた。最初さいしょの3年間ねんかん全国ぜんこくの4まんしゃこわされた。1913ねんごろ事業じぎょうはほぼ完了かんりょうし、しゃすうは19まんしゃから12まんしゃ激減げきげんした。この措置そちには、地域ちいき氏神うじがみ信仰しんこうおおきな打撃だげきあたえるなどの理由りゆう反対はんたい意見いけんおおされた。民俗みんぞく学者がくしゃ博物学はくぶつがくしゃ南方みなかた熊楠くまぐすは『日本にっぽん日本人にっぽんじん』などで10年間ねんかんにわたって反対はんたい運動うんどうをおこなった。

神道しんとう事務じむきょく 祭神さいじん論争ろんそう 編集へんしゅう

1880-1881ねん論争ろんそう東京とうきょう日比谷ひびやもうけられた神道しんとう事務じむきょく神殿しんでん祭神さいじんをめぐって神道しんとうかいはげしい教理きょうり論争ろんそうこった。神道しんとう事務じむきょく事務じむきょく神殿しんでんにおける祭神さいじんとして造化ぞうかさんかみてん御中おんちゅう主神しゅしんこう御産おさんしんかみさんしん)とてんあきら大神おおがみよんはしらまつることとしたが、その中心ちゅうしんになっていたのは伊勢神宮いせじんぐうだい宮司ぐうじ田中たなか頼庸よりつねら「伊勢いせ」の神官しんかんであった。これにたいして千家せんげ尊福たかとみ中心ちゅうしんとする「出雲いずも」は「かそけあらわ一如いちにょ」をかかげ、祭神さいじんだい国主こくしゅ大神おおがみくわえたはしらにすべきとした。

伊勢いせのなかにも出雲いずも支持しじしゃおおたが、伊勢いせ幹部かんぶはこれを危惧きぐし、明治天皇めいじてんのうみことのりさいにより収拾しゅうしゅうした(神道しんとう事務じむきょく神殿しんでん宮中きゅうちゅうさん殿どの遙拝ようはい殿どの決定けってい事実じじつじょう出雲いずも敗北はいぼく)。政府せいふは、神道しんとう共通きょうつうする教義きょうぎ体系たいけい創造そうぞう不可能ふかのうせいと、近代きんだい国家こっか復古ふっこ神道しんとうてききょうせつによって直接ちょくせつ民衆みんしゅう統制とうせいすることの不可能ふかのうせい認識にんしきしたといわれている。

朝鮮ちょうせん神宮じんぐう 祭神さいじん論争ろんそう 編集へんしゅう

1919ねん朝鮮ちょうせん神宮じんぐうきょうしろ)の造営ぞうえいさいして政府せいふ明治天皇めいじてんのうてんあきら大神おおがみとを祭神さいじんとした。これにたいし、国学こくがくしゃ賀茂真淵かものまぶち末裔まつえい靖国神社やすくにじんじゃさん代目だいめ宮司ぐうじ賀茂かもひゃくは「朝鮮ちょうせん民族みんぞく祖神そしん」の「だんくん」もまつるべきであると主張しゅちょうした。

国家こっか神道しんとう終焉しゅうえん 編集へんしゅう

神社じんじゃ宗教しゅうきょうせつ 編集へんしゅう

明治維新めいじいしん当初とうしょ、「宗教しゅうきょう」(religion)という用語ようごは、キリストきょう説明せつめいする専門せんもん用語ようごとしてあつかわれていた。そして、キリストきょう文脈ぶんみゃくにおいての「宗教しゅうきょう」は、「自然しぜん宗教しゅうきょう」にたいする「天啓てんけい宗教しゅうきょう」の優越ゆうえつせい、「多神教たしんきょう」にたいする「一神教いっしんきょう」の優越ゆうえつせい強調きょうちょうするニュアンスがあった。神道しんとう仏教ぶっきょう前者ぜんしゃ、キリストきょう後者こうしゃ特徴とくちょうっていたことから、「宗教しゅうきょう」という用語ようご自体じたいキリスト教きりすときょう優越ゆうえつせい(の主張しゅちょう)を前提ぜんていとしていた[48]

仏教ぶっきょうは、井上いのうえ円了えんりょう活動かつどうによって、キリストきょうがわ設定せっていした土俵どひょううえって、キリストきょう対比たいひする「宗教しゅうきょう」としての立場たちば確立かくりつさせた。たいして神道しんとうけい人々ひとびとは、一部いちぶがいわゆる教派きょうは神道しんとうとして自己じこ主張しゅちょうこころみ、宗教しゅうきょう土俵どひょうとうとしたが、多数たすう神社じんじゃ宗教しゅうきょうとはことなるものとして自己じこ主張しゅちょうした[49]

また、明治めいじ初期しょきにおいて、神霊しんれい憑依ひょういやそれによって託宣たくせん行為こういせいしん信仰しんこうなどが低俗ていぞくなものや迷信めいしんとして否定ひていされ、おおくの民俗みんぞく行事ぎょうじ禁止きんしされた。そのため、出雲いずも神道しんとうけいなどの信仰しんこう偏狭へんきょう解釈かいしゃくによりおおきく後退こうたいした。また、神社じんじゃ祭神さいじんも、その土地とち古来こらいからまつられていたかみ々ではなく、『古事記こじき』、『日本書紀にほんしょき』などの皇統こうとうにつながるかみ々に変更へんこうされたものがおおい。そのため、地域ちいきでの伝承でんしょう途絶とだえた場合ばあいにはその神社じんじゃ古来こらい祭神さいじん不明ふめいになってしまっている場合ばあいがある。

その姉崎あねざき正治しょうじ従来じゅうらいの「宗教しゅうきょう」の定義ていぎうたがい、キリストきょう仏教ぶっきょう中心ちゅうしんてきで、出来上できあがった組織そしきばかりに注目ちゅうもくするその態度たいど批判ひはんした。そして、宗教しゅうきょう本質ほんしつ個人こじん内面ないめん問題もんだいへと還元かんげんすることによって宗教しゅうきょうはばひろがってゆき、神社じんじゃたいする崇敬すうけいという感情かんじょう宗教しゅうきょう一環いっかんではないかとうたがわれるようになり、神社じんじゃ宗教しゅうきょうせつさぶった[50]

戦前せんぜん上智大学じょうちだいがくでは、神社じんじゃ宗教しゅうきょうであるという理論りろんで、クリスチャンでも神社じんじゃ参拝さんぱい可能かのうであると説明せつめいするようになった[51]

宗教しゅうきょうせつ 編集へんしゅう

菱木ひしき政晴まさはる世界せかいには言語げんごによる教義きょうぎ表現ひょうげん軽視けいしする宗教しゅうきょうもあり、比較ひかく宗教しゅうきょうがく文化ぶんか人類じんるいがく成果せいかをもちいることによって困難こんなんなく抽出ちゅうしゅつ可能かのうであるとして以下いかのようにまとめている[52]

  • 聖戦せいせん - 自国じこく戦闘せんとう行為こういつねただしく、それに参加さんかすることは崇高すうこう義務ぎむである[ちゅう 5]
  • 英霊えいれい - そうした戦闘せんとう従事じゅうじしてねばかみになる。そのためにんだものをまつる。
  • 顕彰けんしょう - それ(英霊えいれい)を模範もはんとし、それを見習みならってのちにつづけ。

ここで、「かみになる」という英霊えいれい教義きょうぎは、死者ししゃになんらかの宗教しゅうきょうてき(超越ちょうえつてきちょう自然しぜんてき)な意味いみけをおこなうことにより、死者ししゃをほめあげることをう。そして、「顕彰けんしょう教義きょうぎまれた侵略しんりゃくへの動員どういんという政治せいじ目的もくてきを、聖戦せいせん教義きょうぎ英霊えいれい教義きょうぎ宗教しゅうきょうてきトリックで粉飾ふんしょくするものだ」と指摘してきしている。また、国家こっか神道しんとう教義きょうぎ中心ちゅうしんが「天皇てんのう現人神あらひとがみ思想しそう」や「まんせい一系いっけい思想しそう」にあるとするせつについては、それらは仏教ぶっきょうとう同様どうよう国家こっか神道しんとう素材そざいひとつとしてもちいられている皇室こうしつ神道しんとう中心ちゅうしん教義きょうぎであるにぎないとしている。

柳川やながわ啓一けいいち以下いかの4てんげて「国家こっか神道しんとう明確めいかく教義きょうぎゆうしていた」と指摘してきしている[54]

  • 天皇てんのう神話しんわてき祖先そせんであるてんあきら大神だいじんから万世ばんせい一系いっけい血統けっとうをつぐかみ子孫しそんであり、みずか現御神あきつみかみ(あきつみかみ)である。
  • 古事記こじき』、『日本書紀にほんしょき』の神話しんわ国土こくど形成けいせい天壌無窮てんじょうむきゅうかみみことのりにみえるように、日本にっぽん特別とくべつかみ保護ほごけた神国しんこくである。
  • 世界せかい救済きゅうさいするのは日本にっぽん使命しめい他国たこくへの進出しんしゅつ聖戦せいせん
  • 道徳どうとくめんにおいては、天皇てんのうおやであり、臣民しんみんであるから、天皇てんのうへのちゅうこうともなるという忠孝ちゅうこう一本いっぽんせつ

天皇てんのう神格しんかくせいと「現人神あらひとがみ 編集へんしゅう

古来こらいより天皇てんのう神格しんかくせい多岐たきわたって主張しゅちょうされたが、明治維新めいじいしん以前いぜん尊皇そんのう攘夷じょうい倒幕とうばく運動うんどうあいまって、古事記こじき日本書紀にほんしょきひとし記述きじゅつ根拠こんきょとする天皇てんのう神格しんかくせいは、現人神あらひとがみ(あらひとがみ)として言説げんせつされた。また、ぶく美静よししず津和野つわの国学こくがくしゃ構想こうそうしていた祭政さいせい一致いっち具現ぐげん過程かていでは、天皇てんのうが「神道しんとうつかさど一種いっしゅ教主きょうしゅてき存在そんざい」としても位置いちづけられた。幕府ばくふ朝廷ちょうてい両立りょうりつ体制たいせい近代きんだい国家こっかとしての日本にっぽん創成そうせいしていくには不都合ふつごうであったがゆえ倒幕とうばく運動うんどうであり、天皇てんのう中心ちゅうしんとする強力きょうりょく君主くんしゅ国家こっかきずいていきたい明治めいじしん政府せいふ意向いこうとも一致いっちしたため、万世ばんせいいちけい天皇てんのう祭政さいせい両面りょうめん頂点ちょうてんとする思想しそう形成けいせいされていった。

具体ぐたいてき国民こくみん教導きょうどう失敗しっぱいした宣教せんきょう使廃止はいしされたのち神仏しんぶつ合同ごうどうでおこなわれたきょうしょうによる国民こくみん教導きょうどうでは、「敬神けいしん愛国あいこくむねたいすべきこと」、「天地人てんちじんどうあきらかにすべきこと」、「すめらぎじょう奉戴ほうたいあさむね(ちょうし。天皇てんのう命令めいれい指示しじ)を遵守じゅんしゅせしむべきこと」の3つ、「三条さんじょう教則きょうそく」が設定せっていされた。この「三条さんじょう教則きょうそく」をめぐ解説かいせつしょ仮名垣魯文かながきろぶんの『さんのりきょうの棲道』(1873ねん)など多数たすうされた。これらのなかには「かみまごだから現人神あらひとがみしょうたてまつる」とするれい複数ふくすう存在そんざいした。

また、きょうしょう廃止はいし以降いこうもその思想しそうてき展開てんかいとして、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく宗教しゅうきょうがくこうじた加藤かとうげんさとしは『国体こくたい本義ほんぎ』(1912ねん)で「現人神あらひとがみとももうげてをるのでありまして、かみより一段いちだんひくかみではなくして、かみそれ自身じしんである」とべている。憲法けんぽう学者がくしゃ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ上杉うえすぎ慎吉しんきちの「すめらぎどう概説がいせつ」(1913ねん国家こっか学会がっかい雑誌ざっし」27かん1ごう)は「概念がいねん上神かずわとすべきは唯一ゆいいつ天皇てんのう」とべ、これが昭和しょうわ初期しょきには陸軍りくぐん正統せいとう憲法けんぽう学説がくせつとなっていった[55]陸軍りくぐん中将ちゅうじょう石原いしはら莞爾かんじ自著じちょ最終さいしゅう戦争せんそうろん戦争せんそう大観たいかん』(原型げんけいは1929ねん7がつ中国ちゅうごく長春ちょうしゅんべた「講話こうわ要領ようりょう」)ちゅう

人類じんるいしんから現人神あらひとがみ信仰しんこう悟入ごにゅうしたところに、王道おうどう文明ぶんめいはじめてその真価しんか発揮はっきする。最終さいしゅう戦争せんそうすなわ王道おうどう覇道はどう決勝けっしょうせん結局けっきょく天皇てんのう信仰しんこうするものとしからざるものの決勝けっしょうせんであり、具体ぐたいてきには天皇てんのう世界せかい天皇てんのうとならせられるか、西洋せいよう大統領だいとうりょう世界せかい指導しどうしゃとなるかを決定けっていするところの、人類じんるい歴史れきしなか空前絶後くうぜんぜつごだい事件じけんである。

べるなど、昭和しょうわ維新いしん運動うんどう以後いご軍国ぐんこく主義しゅぎ台頭たいとうによって、天皇てんのうりた軍部ぐんぶによる政治せいじ介入かいにゅう頻発ひんぱつした。満州まんしゅう事変じへんはこの石原いしはら最終さいしゅう戦争せんそうろんにもとづいてはじめられた。

GHQによる神道しんとうへの危険きけんは、神国しんこく現人神あらひとがみ聖戦せいせんなどの思想しそう対象たいしょうとなっており、昭和しょうわ天皇てんのうが1946ねんはっした「新日本建設しんにほんけんせつかんする詔書しょうしょ」(通称つうしょう人間にんげん宣言せんげん」)もこのような背景はいけいされたものとかんがえられている[56]

年表ねんぴょう 編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう 編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく 編集へんしゅう

  1. ^ 具体ぐたいてきには「安寧あんねい秩序ちつじょさまたげケス」はしゅとして刑法けいほうはん抵触ていしょくしないことし、「臣民しんみんタルノ義務ぎむカサル」は20じょう・21じょう明記めいきされた兵役へいえき納税のうぜい義務ぎむ宗教しゅうきょうじょう理由りゆう拒否きょひすることが出来できない、という見解けんかいであった。
  2. ^ 美濃部みのべ達吉たつきちかけい克彦かつひこは「神社じんじゃ格別かくべつとして、神道しんとう国教こっきょうとしたのは不文ふぶん憲法けんぽうもとづくものであるとの学説がくせつ主張しゅちょうした。」(あしちん彦 1987, p. 132)
  3. ^ 神社じんじゃきょくは「国民こくみん神社じんじゃ参拝さんぱいシマスノハわが国体こくたい本義ほんぎもと当然とうぜん責務せきむ」(1939ねん1がつ帝国ていこく議会ぎかいよう資料しりょう宗教しゅうきょう団体だんたい法案ほうあんせきスル質疑しつぎ応答おうとう資料しりょう」)としている。
  4. ^ 神社じんじゃ保有ほゆうする森林しんりん鎮守ちんじゅもり)を材木ざいもくとして財源ざいげんにするねらいがあったといわれる。
  5. ^ アーサー・ポンソンビーによれば、これは戦争せんそう遂行すいこうのためのプロパガンダもちいられる要素ようそひとつでもある[53]

出典しゅってん 編集へんしゅう

  1. ^ a b 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』(小学館しょうがくかん)”国家こっか神道しんとう" コトバンク
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  3. ^ a b c 岩井いわいひろし知恵ちえぞう』(朝日新聞社あさひしんぶんしゃ)”国家こっか神道しんとう" コトバンク
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参考さんこう文献ぶんけん 編集へんしゅう

関連かんれん項目こうもく 編集へんしゅう

外部がいぶリンク 編集へんしゅう