土肥 原 賢二
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1883 | |
1948 | |
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1904 | |
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生涯
生 い立 ち
活動
その
第 二 次 世界 大戦 終結 後
人物
- 蔣介
石 は、土肥 原 の人徳 の深 さに脅威 を感 じ「土匪 原 (「土肥 」に音 の似 た侮蔑 語 「土匪 」を重 ねたもの)」と憎 しみを込 めて呼 び、蔣が独自 に作成 し連合 軍 に送 ろうとしていた日本 軍 戦犯 順位 の資料 で1番 に上 げられていたが、性格 は温厚 であったといわれている。 - 20
年 余 りを中国 で勤務 したため、中国 語 が堪能 で中国 の知 り合 いも多 くいたと言 われ、「帝国 陸軍 きっての中国 通 」と呼 ばれた。満 洲 事変 の後 、市長 の居 なくなった奉天 の臨時 市長 となり、運営 経費 を個人 名義 で借 り入 れた事 もあった(後 にこの借金 の返済 を巡 って苦労 することとなり、本人 を含 む家族 は質素 な借家 に住 んだとされている)。 軍規 に厳 しく「中国 民衆 から徴発 するな、部落 を焼 くな、女 を犯 すな」と言 ったと片倉 衷が述 べている。また得意 とした謀略 については、「謀略 はテクニックではなく、誠 の心 である」と言 ったともいわれる。人格 を重 んじ、特 に教育 方面 に高 い関心 を持 っていた。知識 偏重 のエリート主義 意識 が強 い軍人 が多 かった陸軍 組織 の中 では珍 しく、玉川学園 の小原 國芳 の唱 える新 教育 の理解 者 であり、支援 者 でもあった。
親族
年譜
明治 37年 (1904年 )明治 38年 (1905年 )4月 -歩兵 第 49連隊 附 。明治 40年 (1907年 )- 6
月 -歩兵 第 15連隊 附 。 - 12月 -
中尉 に昇進 。
- 6
大正 元年 (1912年 )11月 -陸軍 大 学校 卒業 (24期 )。大正 2年 (1913年 )大正 7年 (1918年 )6月 -参謀 本部 員 。大正 8年 (1919年 )7月 -少佐 に昇進 。大正 9年 (1920年 )大正 10年 (1921年 )6月 -欧米 出張 。大正 11年 (1922年 )- 8
月 -参謀 本部 員 。 - 12月 -
参謀 本部 附 (中国 出張 。坂西 機関 補佐 官 。)
- 8
大正 12年 (1923年 )8月 -中佐 に昇進 。大正 15年 (1926年 )3月 -歩兵 第 2連隊 附 。昭和 2年 (1927年 )昭和 3年 (1928年 )3月 20日 -奉天 督 軍 顧問 。昭和 4年 (1929年 )3月 16日 -歩兵 第 30連隊 長 。昭和 6年 (1931年 )昭和 7年 (1932年 )昭和 8年 (1933年 )10月 16日 -関東軍 司令 部 附 (奉天 特務 機関 長 )。昭和 11年 (1936年 )昭和 12年 (1937年 )3月 1日 -第 14師団 長 。昭和 13年 (1938年 )6月 18日 -参謀 本部 附 。大本営 附 仰 付 (土肥 原 機関 長 )。昭和 14年 (1939年 )5月 19日 -第 5軍 司令 官 。昭和 15年 (1940年 )- 6
月 -参謀 本部 附 。 - 9月28
日 -軍事 参議 官 。 - 10月28
日 -陸軍 士官 学校 校長 (兼任 )。
- 6
昭和 16年 (1941年 )昭和 18年 (1943年 )5月 1日 -東部 軍 司令 官 。昭和 19年 (1944年 )3月 22日 - シンガポール第 7方面 軍 司令 官 。昭和 20年 (1945年 )- 1948
年 (昭和 23年 )1月 31日 、公職 追放 仮 指定 を受 けた[4]。
栄典
位階
- 1904
年 (明治 37年 )12月8日 -正 八 位 [5][6] - 1908
年 (明治 41年 )3月 20日 -従 七 位 [5] - 1913
年 (大正 2年 )5月 20日 -正 七 位 [5] - 1918
年 (大正 7年 )7月 10日 -従 六 位 [5] - 1923
年 (大正 12年 )8月 6日 -正 六 位 [5] - 1927
年 (昭和 2年 )9月1日 -従 五 位 [5][7] - 1932
年 (昭和 7年 )5月16日 -正 五 位 [5] - 1936
年 (昭和 11年 )4月 15日 -従 四 位 [5][8] - 1938
年 (昭和 13年 )5月2日 -正 四 位 [5] - 1941
年 (昭和 16年 )5月15日 -従 三 位 [5] - 1944
年 (昭和 19年 )6月15日 -正 三 位 [5]
勲章 等
- 1906
年 (明治 39年 )4月 1日 -勲 六 等 単 光 旭日 章 ・功 五 級 金鵄勲章 ・明治 三 十 七 八 年 従軍 記章 [5] - 1913
年 (大正 2年 )5月31日 -勲 五 等 瑞宝章 [5] - 1915
年 (大正 4年 )11月7日 -勲 四 等 旭日 小 綬章 ・大正 三 四 年 従軍 記章 [5] - 1932
年 (大正 7年 )9月29日 -金杯 一 個 [5] - 1923
年 (大正 12年 )9月30日 -勲 三 等 瑞宝章 [5] - 1934
年 (昭和 9年 ) - 1937
年 (昭和 12年 )11月9日 -勲一等 瑞宝章 [5] - 1940
年 (昭和 15年 )
外国 勲章 佩用 允許
出典
- ^ どいはらと
表記 する辞典 もある。 - ^
臼井 勝美 ・稲葉 正夫 『現代 史 資料 9日 中 戦争 2』284頁 , みすず書房 - ^
岡村 寧 次 、土肥 原 賢二 が大将 に進級 『東京日日新聞 』(昭和 16年 4月 29日 夕刊 )『昭和 ニュース事典 第 7巻 昭和 14年 -昭和 16年 』本編 p784昭和 ニュース事典 編纂 委員 会 毎日 コミュニケーションズ刊 1994年 - ^
総理 庁 官房 監査 課 編 『公職 追放 に関 する覚書 該当 者 名簿 』日比谷 政経 会 、1949年 、「昭和 二 十 三 年 一 月 三 十 一 日 仮 指定 者 」210頁 。 - ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v
法廷 証 第 104号 : [土肥 原 賢 二關 スル人事 局 履歴 書 ] - ^ 『
官報 』第 6441号 「叙任 及辞令 」1904年 12月17日 。 - ^ 『
官報 』第 264号 「叙任 及辞令 」1927年 11月14日 。 - ^ 『
官報 』第 2786号 「叙任 及辞令 」1936年 4月 18日 。 - ^ 『
官報 』第 2129号 「叙任 及辞令 」1934年 2月 8日 。 - ^ 『
官報 』第 4438号 ・付録 「辞令 二 」1941年 10月 23日 。 - ^ 『
官報 』第 3037号 ・付録 「辞令 二 」1937年 2月 19日 。
参考 文献
- 『
秘録 土肥 原 賢二 -日 中 友好 の捨石 』、土肥 原 賢二 刊行 会 、芙蓉 書房 、1972年 発行