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陸軍幼年学校 (日本) - Wikipedia

陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう (日本にっぽん)

陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう(りくぐんようねんがっこう、きゅう字体じたい陸軍りくぐん幼年ようねん學校がっこう󠄁)は、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんにおいて、選抜せんばつしたまん13さい以上いじょうまん15さい未満みまん男子だんしおも旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう2年生ねんせい)を、将来しょうらい陸軍りくぐん現役げんえき兵科へいか将校しょうこうとして教育きょういくするためにもうけられた全寮ぜんりょうせい教育きょういく機関きかんぐん学校がっこう)。プロイセン陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうKadettenanstalt)にはんをとって設立せつりつされた。通称つうしょう略称りゃくしょうりくよう幼年ようねんこう幼年ようねん学校がっこう

明治めいじ後期こうきころ陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう

概要がいよう

編集へんしゅう

帝国ていこく陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうには幾度いくど変容へんようがあり、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう本科ほんか制度せいどとなった1920ねん以降いこう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう」は、将来しょうらい将校しょうこう候補者こうほしゃすなわち陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう(「陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう」、陸士りくし。これはのちこと「陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう」に改称かいしょう独立どくりつ)に入校にゅうこうしその生徒せいと生徒せいと)とならんしゃを、受験じゅけんまん13さい以上いじょう・15さい未満みまん若年じゃくねん生徒せいととしてれて教育きょういくする、旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう相当そうとう全寮ぜんりょうせい教育きょういく機関きかんであった。1940ねん昭和しょうわ15ねん)の昭和しょうわ15ねんみことのりれいだい89ごう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうれいだいいちじょうでは「陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう生徒せいと陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう生徒せいとたるに必要ひつようなる素養そようあずかうるため軍事ぐんじじょう必要ひつよう考慮こうりょして普通ふつう学科がっか教授きょうじゅ軍人ぐんじん精神せいしん涵養かんようするところとす」と定義ていぎされている[1]

陸士りくし生徒せいとりくよう出身しゅっしんしゃりくようぐみ[2])と、りくようすすまずに一般いっぱん旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこうまなんでから陸軍りくぐん現役げんえき兵科へいか将校しょうこう志願しがんした中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃ中学ちゅうがくぐみ[2])からおも構成こうせいされる[注釈ちゅうしゃく 1]陸士りくし卒業生そつぎょうせいきゅう1明治めいじ10ねん10がつ卒業そつぎょう)から昭和しょうわ20ねん敗戦はいせんまでのあいだやく5まん1せんめいりくようぐみ明治めいじ7ねん4がつ卒業生そつぎょうせいから昭和しょうわ20ねん終戦しゅうせん在校生ざいこうせいまででやく1まん9せんめいであり、人数にんずうとしては中学ちゅうがくぐみ過半数かはんすうめる[3]りくよう生徒せいと陸士りくし生徒せいとわせて「将校しょうこう生徒せいと」とも呼称こしょうされた。

1920年代ねんだい以降いこう基本きほんてき将校しょうこう任官にんかんながれとして、りくおさなまたは中学ちゅうがくから陸士りくし(1896ねんから1903ねん陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう、1903ねんから1920ねん陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう本科ほんか、この中央ちゅうおう幼年ようねん中央ちゅうおう幼年ようねん本科ほんか地方ちほう幼年ようねん中央ちゅうおう幼年ようねんりくよう卒業そつぎょうしゃのみが入校にゅうこうした。ちゅうよう本科ほんか改変かいへんされた1920ねんから1937ねん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう、1937ねんから1945ねん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうとなり、陸士りくしへはりくよう卒業そつぎょうしゃのみならず中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃ入校にゅうこうする)にすすんだ生徒せいとは、陸士りくしにおいて旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこうじゅんずる「普通ふつうがく」をおもまなび、卒業そつぎょう指定していされている兵科へいか兵種へいしゅおよ原隊げんたい士官しかん候補こうほせいとなり、やく半年はんとしあいだたい勤務きんむ(このあいだ形式けいしきてきなものであるが階級かいきゅう上等じょうとうへいから伍長ごちょう進級しんきゅう)をて、軍曹ぐんそう階級かいきゅうあたえられ今度こんど陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう本科ほんか陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう本科ほんか。これはのち陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう改称かいしょうし、さらに陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたい関係かんけい兵科へいか将校しょうこう専門せんもんてき養成ようせいする陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう分離ぶんり独立どくりつ)に入校にゅうこう陸士りくし本科ほんか陸士りくし)においてより専門せんもんてきかつ高度こうど軍事ぐんじがくまなび、卒業そつぎょう原隊げんたいにおいて見習みならい士官しかん階級かいきゅう曹長そうちょう)となりすうヵ月かげつれてにん陸軍りくぐん少尉しょういとなった。陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこうすす兵科へいか将校しょうこう候補者こうほしゃ航空こうくう兵科へいか将校しょうこう候補者こうほしゃ)の場合ばあい、その専門せんもんせいから卒業そつぎょう士官しかん候補こうほせいとしてのたい勤務きんむいか短期間たんきかんで、また本科ほんか卒業そつぎょう見習みならい士官しかんとしてのたい勤務きんむはない。陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう帝国ていこく陸軍りくぐんにおいて本流ほんりゅうとなる現役げんえき兵科へいか将校しょうこうへとすす階段かいだんにおいて最初さいしょいちとなる。なお、明治めいじ後期こうきからはりくよう卒業そつぎょうしゃ陸士りくし入校にゅうこう試験しけん免除めんじょされ、エスカレーターしきすすむ。

1896ねん明治めいじ29ねん)から1903ねん明治めいじ36ねん)までは、上述じょうじゅつ陸士りくしにのちに改変かいへんされる学校がっこうを「陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう」とし東京とうきょうに1こう設置せっち上述じょうじゅつ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうとのちになる学校がっこうを「陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう」としょう仙台せんだい東京とうきょう名古屋なごや大阪おおさか広島ひろしま熊本くまもとかく地方ちほう設置せっちし、かく地方ちほう幼年ようねん仙台せんだい陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうなどと地名ちめいこうめいかんした。1903ねんには、「陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう」と「東京とうきょう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう」が合併がっぺいされ、従来じゅうらい陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうは「陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう本科ほんか」に、東京とうきょう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうは「陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう」と改変かいへんされた。陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう本科ほんか制度せいどとなる1920ねん大正たいしょう9ねん以降いこうに「陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう本科ほんか」は「陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう」、陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうは「東京とうきょう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう」、各地かくち陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうも「陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう」(大阪おおさか陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう場合ばあい大阪おおさか陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう改称かいしょう)となる(#歴史れきし)。

藤井ふじいさんよんは、地方ちほう幼年ようねん学校がっこう生徒せいと150めい)の運営うんえい経費けいひが、生徒せいと600にん旧制きゅうせい高等こうとう学校がっこうのそれとほぼ同額どうがくであり、幼年ようねん学校がっこうで「生徒せいと1めいたいし、教職員きょうしょくいん2めい」の体制たいせいられていたことに言及げんきゅうし、下記かきのようにべている[4]

今日きょういたるまで、日本にっぽんでもっとも整備せいびされた教育きょういく機関きかん陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうだった。 — 藤井ふじいさんよん[4]

選抜せんばつ

編集へんしゅう

将来しょうらい陸軍りくぐん将校しょうこうとなることが事実じじつじょう約束やくそくされており、わかくして軍服ぐんぷくつつみ、規律きりつただしい集団しゅうだん教育きょういくけるエリート集団しゅうだんたるりくよう生徒せいと当時とうじ小学生しょうがくせい中学ちゅうがく1 - 2年生ねんせい男子だんし羨望せんぼうてきであり志望しぼうしゃおおかった。りくよう入校にゅうこうしゃ選抜せんばつする召募しょうぼ試験しけん倍率ばいりつは、時代じだいによって変動へんどうしたがおおむね20ばい程度ていどたもち、中学校ちゅうがっこうのトップクラスでも合格ごうかく容易よういでなかった[4]

太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそうなか旧制きゅうせい鶴岡つるおか中学校ちゅうがっこうげん山形やまがた県立けんりつ鶴岡つるおかみなみ高等こうとう学校がっこう)に在学ざいがくしていた渡部わたなべ昇一しょういちは、下記かきのように回想かいそうしている[5]

  • 鶴岡つるおか中学ちゅうがくでは、りくよう志望しぼうする1年生ねんせい・2年生ねんせいたいして、毎日まいにち始業しぎょうまえに1あいだの「特別とくべつ授業じゅぎょう」を実施じっししていた。
  • りくよう難関なんかんであり、渡部わたなべ鶴岡つるおか中学ちゅうがく在学ざいがくしているあいだに、鶴岡つるおか中学ちゅうがくからりくよう入校にゅうこうしたものは1めいのみであった。

陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう生徒せいと採用さいよう試験しけん合格ごうかく入校にゅうこうすると同時どうじ軍籍ぐんせきはいるため「召募しょうぼ試験しけん[1]」とばれ(士官しかん学校がっこう採用さいよう試験しけんおなじ)[4]身体しんたい検査けんさ学科がっか試験しけん実施じっしされた[6]。まず身体しんたい検査けんさおこなわれ、身体しんたい検査けんさ合格ごうかくしたもののみが、学科がっか試験しけん国語こくご作文さくぶん地理ちり歴史れきし数学すうがく理科りか[6])を受験じゅけんできた[6]

りくよう受験じゅけん資格しかくは、まん13さい以上いじょうまん15さい未満みまん[4][6]願書がんしょ提出ていしゅつする翌年よくねん入校にゅうこうするとしの、3月31にちにおける年齢ねんれい[6][注釈ちゅうしゃく 2]という年齢ねんれい制限せいげんのみであり、2かいまで受験じゅけんできた[4]召募しょうぼ試験しけんにおいてもとめられる学力がくりょく中学校ちゅうがっこう1ねんだい2学期がっき修了しゅうりょう程度ていどであったが[6]受験じゅけんさいして学歴がくれき不問ふもんであった[4][6]りくよう召募しょうぼ試験しけんこう倍率ばいりつであったためりくよう生徒せいとおおくは中学校ちゅうがっこう出身しゅっしんしゃであったが、少数しょうすうながら高等こうとう小学校しょうがっこう出身しゅっしんしゃ存在そんざいする[注釈ちゅうしゃく 3]

特待とくたいせいとなる資格しかくつ「戦死せんしした、または公務こうむによる負傷ふしょう疾病しっぺい死亡しぼうした、陸海りくかいぐん軍人ぐんじん、または文官ぶんかん遺児いじ」は、一定いってい成績せいせきであれば順位じゅんいかかわらずに合格ごうかくとされた[4]りくよう生徒せいと選抜せんばつにあたっては理数りすうけい素養そよう重視じゅうしされており、数学すうがく満点まんてんで、一定いってい基準きじゅんたしていれば優先ゆうせんてき合格ごうかくとされた[4]。さらに、召募しょうぼ試験しけん合格ごうかくしゃ入校にゅうこう予定よていかくりくようにおいて精密せいみつ身体しんたい検査けんさけ、これにあらためて合格ごうかくしたものれてりくよう生徒せいととなった。

武官ぶかん子息しそくおも対象たいしょうとする月謝げっしゃ減免げんめん措置そち影響えいきょうし、りくよう入校にゅうこうしゃのうち30% - 50%程度ていど武官ぶかん子息しそくであった[10]統計とうけい[11])。

月謝げっしゃ

編集へんしゅう

毎月まいつき納金のうきん月謝げっしゃ)は、士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん経理けいり学校がっこう)が無償むしょうであったのにたいして、幼年ようねん学校がっこう有償ゆうしょうであった。れいとして、1938ねん昭和しょうわ13ねん時点じてんでのりくよう月謝げっしゃ授業じゅぎょうりょう寮費りょうひ)は20えんであり[6][12][注釈ちゅうしゃく 4]父兄ふけい小遣こづかい5えんくわえた25えん毎月まいつき送金そうきんした[13]

ただし、

(a)戦死せんしした、または公務こうむによる負傷ふしょう疾病しっぺい死亡しぼうした、陸海りくかいぐん軍人ぐんじん(「軍人ぐんじん」にはへいふくむ、以下いかおなじ)、または文官ぶんかん[注釈ちゅうしゃく 5](「文官ぶんかん」には公吏こうりふくまない、以下いかおなじ)の遺児いじ
(b)恩給おんきゅうほうにより普通ふつう恩給おんきゅう増加ぞうか恩給おんきゅうける権利けんりている、陸海りくかいぐん軍人ぐんじん、または陸海りくかいぐんじゅん軍人ぐんじん[注釈ちゅうしゃく 6]子息しそく
(c)陸海りくかいぐん現役げんえき佐官さかん以下いか高等こうとう武官ぶかん子息しそく
(d)11ねん以上いじょう軍務ぐんむ精励せいれいする、陸海りくかいぐん現役げんえきじゅん士官しかん以下いか軍人ぐんじん子息しそく
(e)15ねん以上いじょう軍務ぐんむ精励せいれいする、陸海りくかいぐんそう任官にんかん判任官はんにんかんたる文官ぶんかん子息しそく
(f)とく国家こっか功労こうろうがある陸海りくかいぐん軍人ぐんじん、または文官ぶんかん[注釈ちゅうしゃく 5]で、死亡しぼうしたもの遺児いじ

のいずれかに該当がいとうする場合ばあいは、資産しさん状況じょうきょうまえ、特待とくたいせい月謝げっしゃ全額ぜんがく免除めんじょ)またははん特待とくたいせい月謝げっしゃ半額はんがく免除めんじょ)とされた(昭和しょうわ13ねん時点じてん規定きていによる)[6]

中学校ちゅうがっこう月謝げっしゃとの比較ひかく

編集へんしゅう

中学校ちゅうがっこう月謝げっしゃれいとして、1935ねん昭和しょうわ10ねん時点じてんでの愛知あいち県立けんりつ中学校ちゅうがっこう月謝げっしゃ授業じゅぎょうりょうのみ)は4えん70せんであった[14]1940ねん昭和しょうわ15ねん)に刊行かんこうされた書籍しょせき監修かんしゅう教育きょういく総監そうかん)には、りくよう生徒せいとちち談話だんわというかたちで「りくよう月謝げっしゃが20えん小遣こづかいをくわえた毎月まいつき送金そうきんがくは25えん)であるのにたいし、自宅じたくから中学校ちゅうがっこうかよわせる場合ばあい毎月まいつき20えん必要ひつようである」むねしるされている[13]

教育きょういく

編集へんしゅう

りくようにおける3年間ねんかん教育きょういくでは、陸軍りくぐん教授きょうじゅたる文官ぶんかん教官きょうかんによる旧制きゅうせい中学校ちゅうがっこう2年生ねんせいから5年生ねんせい課程かてい相当そうとう普通ふつうがく(「学科がっか教育きょういく」)がおもとなる。くわえて比較的ひかくてき簡素かんそ軍事ぐんじがく(「訓育くんいく」)や精神せいしん訓話くんわ武官ぶかんたる生徒せいとかんなどにまなんだ。学課がっか一般いっぱん中学ちゅうがく大差たいさはないが、りくようでは語学ごがくドイツフランス語ふらんすごロシア英語えいごの4つから1つを選択せんたく[15]英語えいごは1938ねん昭和しょうわ13ねん)よりせんようくまよう導入どうにゅう[16]〉)、音楽おんがく図画ずが重視じゅうしされていたというちがいがある[17]

1921ねん大正たいしょう10ねん)、りくよう卒業そつぎょうしゃ高等こうとう学校がっこう受験じゅけん資格しかくあたえられるようになった[10]

訓育くんいくはん

編集へんしゅう

修業しゅうぎょう期間きかんやく3年間ねんかんだい1学年がくねんだい2学年がくねんだい3学年がくねんすすみ、同期どうき生徒せいとたちは50めい定員ていいん訓育くんいくはんぞくし、さらにこの訓育くんいくはんは1クラス25めい定員ていいんがくはんにわかれる。1938ねん時点じてんでは生徒せいと寝室しんしつは10めい定員ていいんであり、これには後述こうじゅつの「模範もはん生徒せいと」が1めいつき起居ききょともにする。かく訓育くんいくはんには自習じしゅうしつもうけられ、かく生徒せいとにはつくえがあたえられる。従来じゅうらい召募しょうぼ人数にんずうは1ごとに50めい定員ていいんであったが、まんしゅう事変じへん以降いこう順次じゅんじ増員ぞういんされていき、1940ねん昭和しょうわ15ねん入校にゅうこうだい44期生きせいでは150めいとなっている。そのため当時とうじ訓育くんいくはんは「だいいち訓育くんいくはん」・「だい訓育くんいくはん」などとわけられる。1945ねん昭和しょうわ20ねん)のだい世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんどき全国ぜんこくかく6こうりくようには、だい47期生きせいまでは3訓育くんいくはんであったものが、だい48だい49期生きせい1個いっこ訓育くんいくはんに50-60めい生徒せいと在籍ざいせきおお場合ばあいでは6訓育くんいくはん(1やく300めい)まで編成へんせいされていた[18]

りくよう生徒せいと陸士りくし生徒せいと一般いっぱん将兵しょうへい同様どうように、休日きゅうじつとして日曜にちよう祭日さいじつには外出がいしゅつみとめられていたほか、長期ちょうき休暇きゅうかとして「夏休なつやすみ」と「冬休ふゆやすみ」があたえられていた。また大型おおがた行事ぎょうじとしてなつには遊泳ゆうえい演習えんしゅうあきには運動会うんどうかい修学旅行しゅうがくりょこうがあった。酒保しゅほしゅうなかいちにち日曜にちようひらかれた。

職員しょくいん

編集へんしゅう

1940ねん改正かいせい陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうれい」においてはりくよう職員しょくいんとして「校長こうちょう」・「副官ふっかん」・「学校がっこう」・「教官きょうかん」・「訓育くんいく部長ぶちょう」・「生徒せいとかん主事しゅじ」・「生徒せいとかん」・「下士官かしかんはんにん文官ぶんかん」をくこととなっている[19]おおむね「校長こうちょう」は少将しょうしょう大佐たいさきゅう、「訓育くんいく部長ぶちょう」と「生徒せいとかん主事しゅじ」は中佐ちゅうさきゅうかく生徒せいとかん」は少佐しょうさきゅうである。とく訓育くんいくはんにおいて指導しどう中心ちゅうしんとなる「生徒せいとかん」は、おさな生徒せいとたちにとってとく重要じゅうよう存在そんざいとなった。だい大戦たいせん後半こうはんちゅう軍隊ぐんたいではだい隊長たいちょうきゅう中堅ちゅうけん将校しょうこうたる生徒せいとかん激化げきかする戦地せんちへの転出てんしゅつ相次あいつぎ、末期まっきには1学年がくねんたいして1ないし2めいという状態じょうたいになっていったため、あらたに尉官いかんの「訓育くんいく班長はんちょう」をかく訓育くんいくはん生徒せいとかん補佐ほさするようになった[20]

模範もはん生徒せいと取締とりしまり生徒せいと

編集へんしゅう

生徒せいとあいだにおいては、だい1学年がくねんだい2学年がくねん訓育くんいくはんでは、品行ひんこう方正ほうせいかつ学術がくじゅつ優秀ゆうしゅうだい3学年がくねん上級生じょうきゅうせいとくめいぜられ、下級生かきゅうせいおな寝室しんしつ自習じしゅうしつにおいて寝台しんだい自習じしゅうつくえともにし、日夜にちやその指導しどうにあたる「模範もはん生徒せいと旧称きゅうしょう指導しどう生徒せいと)」としょう制度せいどがある(類似るいじする制度せいど陸士りくしにも存在そんざいした)[21]。「模範もはん生徒せいと」にかぎらず、下級生かきゅうせい日常にちじょうにおいて上級生じょうきゅうせい直接的ちょくせつてき指導しどうあおぐ。

貴様きさまおれ」の関係かんけいであるどう学年がくねんでも、かくはん寝室しんしつ日直にっちょくべつ輪番りんばんせいの「取締とりしまり生徒せいと」としょう制度せいどがあり、当番とうばんとなった取締とりしまり生徒せいと学科がっかなどにおいて自身じしんはん引率いんそつなどをおこなった。

教官きょうかん上級生じょうきゅうせいからの制裁せいさいについて、にちちゅう戦争せんそうささえ事変じへん勃発ぼっぱつあいだもない1938ねんはる広島ひろしま陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうこうよう)にだい42期生きせいとして入校にゅうこうし、3年間ねんかんごした村上むらかみ兵衛ひょうえりくよう42卒業そつぎょうだい57期生きせいとして陸士りくしすすみ、少尉しょうい任官にんかん近衛このえあゆみへいだい6連隊れんたい連隊れんたい旗手きしゅ陸士りくし隊長たいちょうたる陸軍りくぐん中尉ちゅうい敗戦はいせんむかえ、戦後せんご作家さっかとなる。こうようだい1学年がくねん当時とうじ上級生じょうきゅうせいだい3学年がくねんだい40だい2学年がくねんだい41期生きせい)は皆無かいむであったと証言しょうげんしている[22][23]

幼年ようねん学校がっこうでは、ビンタ――なぐられるということは、それ自体じたい、むしろめずらしいのだが、とくにさん年生ねんせいいち年生ねんせいなぐるということは絶無ぜつむにひとしかった。
なぐるとすれば、だんだん生意気なまいきになってくる年生ねんせいにたいして、である。

冬休ふゆやすみがぎると、さん年生ねんせい士官しかん学校がっこう入学にゅうがくで、こいじょうだい母校ぼこう)をってった。
しばらくは、年生ねんせいいち年生ねんせいだけになり、きゅう威張いばした年生ねんせい天下てんか、しかしいち年生ねんせいからすると、年生ねんせいさん年生ねんせいよりひとまわり人間にんげんちいさくえるので、そこにおのずから火花ひばなった。
わたしがはじめてなぐられたのもの、そのころである。

一方いっぽうで、同期生どうきせいに「全校ぜんこういち」としょうされるほどには目立めだって美男びなんないし可愛かわいかおをしていた、たけまど用語ようごにおける「稚児ちごさん」や「ショーネン」に該当がいとうする村上むらかみ生徒せいとは、その美貌びぼうにより「模範もはん生徒せいと」をふく上級生じょうきゅうせいからあまりしぼられなかったという自覚じかくっている[24]

制服せいふく

編集へんしゅう
 
1900年代ねんだい初頭しょとうごろ陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうないし仙台せんだい陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう生徒せいと。のちの陸軍りくぐん大将たいしょう土肥どいはら賢二けんじ

制服せいふく軍服ぐんぷく)のふくせい時代じだいによって幾度いくど変容へんようがあるが、だい改正かいせいされた1938ねん昭和しょうわ13ねんみことのりれいだい392ごう陸軍りくぐんふくせい改正かいせい」における陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう生徒せいとふくせいでは、上質じょうしつ生徒せいと専用せんようのものが制定せいていされている。一般いっぱん下士官かしかんへいようふゆなつころもはかまとはまったことなる貼付ちょうふしきものいれ(ポケット)、ショルダーループがた肩章けんしょう桜花おうか刻印こくいんぼたんかぶらそでそでかえし)をゆうし、こう品質ひんしつ生地きじ仕立したてなたて折襟おりえりふく制定せいていされており、また緋色ひいろたまえん(パイピング)が肩章けんしょうと、そでくさびがたふゆころものみ)にほどこされた。とくえりには見習みならい士官しかん士官しかん候補こうほせい陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう生徒せいとのものにじゅんずる、伝統でんとう金色きんいろ金属きんぞく星章せいしょうである特別とくべつ徽章きしょうがつく[25]。この特別とくべつ徽章きしょう1943ねん昭和しょうわ18ねん)の昭和しょうわ18ねんみことのりれいだい774ごう陸軍りくぐんふくせいちゅう改正かいせい」によって、星章せいしょうにさらに緋色ひいろ桜花おうか刺繍ししゅうがついた華麗かれいなものとなり、また従来じゅうらい無地むじであった肩章けんしょうには桜花おうかのついた金色きんいろ金属きんぞく星章せいしょう追加ついかされている[26]時代じだいによりこのりくよう生徒せいとえり星章せいしょう有無うむちがいがあるが、りくよう生徒せいと軍帽ぐんぼう星章せいしょう帽章ぼうしょう)とあいまって「ほし生徒せいと」とも呼称こしょうされていた。

さらに士官しかん候補こうほせい陸士りくし生徒せいとなどと同様どうように、旭日きょくじつあきら桜花おうか桜葉おうば刻印こくいんしたバックルをそなえた帯革おびかわ(ベルト)をりくよう生徒せいと着用ちゃくようする。手袋てぶくろしろ手袋てぶくろ)の着用ちゃくよう区分くぶん士官しかん候補こうほせい将校しょうこう候補者こうほしゃ)・陸士りくし生徒せいとりくけい生徒せいとおなじくりくよう生徒せいと将校しょうこうじゅんずるため、これを使用しようする。また、1900ねん明治めいじ33ねんごろからは陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう生徒せいとでも外出がいしゅつ帯剣たいけんするようになり[27]以降いこうおもさんじゅうねんしき銃剣じゅうけん使用しようした。

1870ねん明治めいじ3ねん)、横浜よこはま語学ごがく研究所けんきゅうじょ大阪おおさかへい学寮がくりょう編入へんにゅう幼年ようねん学舎がくしゃとしたことにはじまる。1871ねん明治めいじ4ねん)、大阪おおさかへい学寮がくりょう陸軍りくぐんへい学寮がくりょう海軍かいぐんへい学寮がくりょう分離ぶんりされ、同年どうねん東京とうきょう移転いてんした。1872ねん明治めいじ5ねん)、陸軍りくぐん兵学へいがくれい改正かいせいともな陸軍りくぐんへい学寮がくりょう幼年ようねん学舎がくしゃから独立どくりつするかたちとして幼年ようねん学校がっこう設立せつりつされた。さらに1874ねん明治めいじ7ねん)、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸士りくし)が陸軍りくぐんへい学寮がくりょうよりはなれて独立どくりつよく1875ねん明治めいじ8ねん)、幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐんへい学寮がくりょうより分離ぶんり独立どくりつ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう改称かいしょうされたが、1877ねん明治めいじ10ねん)には陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうれられ一時いちじ消滅しょうめつした。

1886ねん明治めいじ19ねん)4がつ教育きょういくれいわって中学校ちゅうがっこうれいひとし公布こうふされると、よく1887ねん明治めいじ20ねん)、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう官制かんせいおよび陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう官制かんせい制定せいていされ、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう再度さいど設立せつりつされた。1889ねん明治めいじ22ねん)6がつ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう官制かんせい廃止はいしし、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい制定せいていされた。

にちしん戦争せんそう1896ねん明治めいじ29ねん)5がつ陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい廃止はいしされ、わって陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう条例じょうれいおよび陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい制定せいていされた。すなわち、陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう東京とうきょうに1こう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう仙台せんだい東京とうきょう名古屋なごや大阪おおさか広島ひろしま熊本くまもとかく1こう陸軍りくぐんしょう管轄かんかつ学校がっこうとして設立せつりつされた。これにより、地方ちほう幼年ようねん学校がっこう入校にゅうこうし3年間ねんかんまなび、卒業そつぎょうすると今度こんど中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう入校にゅうこうして2年間ねんかんまなぶという、地方ちほう中央ちゅうおうわせて5年間ねんかん修業しゅうぎょう年限ねんげんとなった。すると、文部省もんぶしょう管轄かんかつ旧制きゅうせい尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう修業しゅうぎょう年限ねんげん5ねん)と酷似こくじする制度せいどとなり、教育きょういくかい新聞しんぶんなどから地方ちほう幼年ようねん学校がっこう廃止はいしろん活発かっぱつした。帝国ていこく議会ぎかいでも貴族きぞくいん久保田くぼたゆずる廃止はいしろんとなえ、地方ちほう幼年ようねん学校がっこう廃止はいし建議けんぎあんだい11かい帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつする準備じゅんびもなされたが、衆議院しゅうぎいん解散かいさんによってタイミングをうしなってしまう。また、当時とうじ中学校ちゅうがっこうでは学校がっこう騒動そうどう問題もんだいとなっていたこと、中学校ちゅうがっこう自由じゆう教育きょういくけてきた人材じんざい信用しんようならないという観念かんねん陸軍りくぐんがわにあったことから、結局けっきょく廃止はいしにはいたらなかった。

1898ねん明治めいじ31ねん)5がつ12にち中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう東京とうきょう牛込うしごめ市ケ谷いちがや本村ほんそんまちきゅう野戦やせん砲兵ほうへいだい1連隊れんたいあと新築しんちくされた校舎こうしゃ移転いてんした[28]1903ねん明治めいじ36ねん)、政府せいふ財政難ざいせいなんにより陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう東京とうきょう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう合併がっぺいはかられた。その結果けっか同年どうねん6がつ29にち陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい全部ぜんぶ改正かいせい明治めいじ36ねんみことのりれいだい108ごう)、陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい一部いちぶ改正かいせい明治めいじ36ねんみことのりれいだい109ごう)し、従来じゅうらい陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう本科ほんかに、東京とうきょう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうとした。また、きゅう東京とうきょう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう校長こうちょうしょく廃止はいしし、陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう校長こうちょう本科ほんか校長こうちょうねた[29]

1920ねん大正たいしょう9ねん)、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうれい制定せいていされ、同年どうねん8がつ10日とおか陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう本科ほんか陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうに、陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう東京とうきょう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうに、陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう名古屋なごや陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう場合ばあい名古屋なごや陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう)とそれぞれ改称かいしょうされた。しかし、1922ねん大正たいしょう11ねん)のワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく代表だいひょうされる世界せかいてき軍縮ぐんしゅく傾向けいこうのなか、同年どうねん大阪おおさかこう廃止はいしされた。つづいて1923ねん大正たいしょう12ねん名古屋なごやこう1924ねん大正たいしょう13ねん仙台せんだいこう1925ねん大正たいしょう14ねん広島ひろしまこう1926ねん大正たいしょう15ねん熊本くまもとこう順次じゅんじ廃止はいしされ、東京とうきょう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうのみとなった。しかしよく1936ねん昭和しょうわ11ねん)にはふたた広島ひろしまこう復活ふっかつ。さらに1937ねん昭和しょうわ12ねん)には仙台せんだいこう1939ねん昭和しょうわ14ねん)には熊本くまもとこう、1940ねんには大阪おおさかこうおよび名古屋なごやこう順次じゅんじ復活ふっかつした。れいとして大阪おおさかこう場所ばしょ楠木くすのき正成まさしげ居城きょじょうちかくの千代田ちよだむらげん河内長野かわちながの)にうつし、4がつ1にちだい44期生きせい入校にゅうこうした。

1945ねん太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう敗戦はいせんともない、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん航空こうくう士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうなどとともに廃止はいしされ、解散かいさんした。 東京とうきょう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう敷地しきち農耕のうこうとなり、1946ねん昭和しょうわ21ねん3月1にち昭和しょうわ天皇てんのう行幸ぎょうこう昭和しょうわ天皇てんのう戦後せんご巡幸じゅんこう)があった[30]

りくようぐみ中学ちゅうがくぐみ

編集へんしゅう

帝国ていこく陸軍りくぐんないでは、りくよう出身しゅっしんしゃ優遇ゆうぐうされ、要職ようしょく独占どくせんした。中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃ傍流ぼうりゅうであった」という見解けんかい存在そんざいする[2]

武石たけいしのり論考ろんこう

編集へんしゅう

武石たけいしのり陸士りくし17明治めいじ38ねん3がつ卒業そつぎょう[31])から陸士りくし55昭和しょうわ16ねん7がつ卒業そつぎょう[31])についてりくよう出身しゅっしんしゃりくようぐみ)と中学校ちゅうがっこう出身しゅっしんしゃ中学ちゅうがくぐみ)の出身しゅっしん家庭かてい調査ちょうさし、

  1. りくようぐみは「近代きんだいセクター(武官ぶかんかん公吏こうり文官ぶんかん)・教員きょういん警察官けいさつかん会社かいしゃいん医師いし弁護士べんごし政治せいじなど)」の占有せんゆうりつたかく、当時とうじのエリートの代表だいひょうである高等こうとう学校がっこうせいみかど大生おおうをも上回うわまわっていた。
  2. 中学ちゅうがくぐみは「農業のうぎょうセクター」の占有せんゆうりつたかい。
  3. りくようぐみ出身しゅっしん家庭かていおおくをめる「近代きんだいセクター」のなかでも武官ぶかんめる割合わりあいつねたかく、りくよう生徒せいとの2わりから3わり武官ぶかん子息しそくめられていた。

という3てん指摘してきしている[2]

武石たけいしのりは、

  1. 父兄ふけいぞくする経済けいざい階層かいそう比較ひかくすると、りくようぐみ中学ちゅうがくぐみ上回うわまわっていた。
  2. 出身しゅっしん出身しゅっしん中学校ちゅうがっこう所在地しょざいち)で比較ひかくすると、りくようぐみ東京とうきょう出身しゅっしんしゃもっとおおかったとられるのにたいし、中学ちゅうがくぐみ出身しゅっしん全国ぜんこく分散ぶんさんしていた。

べている[2]

陸軍りくぐん将校しょうこう進級しんきゅう補職ほしょくたいしては、陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせきりくまさる卒業そつぎょう成績せいせき決定的けっていてき影響えいきょうおよぼしていたとされる[2]陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせきでは、上位じょうい下位かいりくようぐみおおく、その中間ちゅうかん中学ちゅうがくぐみおおいとされてきた[4]

武石たけいしのりは、陸士りくし15明治めいじ36ねん11月卒業そつぎょう[31])から陸士りくし46昭和しょうわ9ねん6がつ卒業そつぎょう[31])について陸士りくし卒業そつぎょう序列じょれつ調査ちょうさ

  1. りくようぐみうえ中位ちゅういそうかたよりをせる。
  2. 中学ちゅうがくぐみちゅう下位かいそうかたよりをせる。
  3. 成績せいせき上位じょういそう大半たいはんりくようぐみめる。

という3てん指摘してきし、下記かきのようにべている[2]

いずれにせよ,集団しゅうだんとしてのりくようぐみ中学ちゅうがくぐみとでは,少尉しょうい任官にんかんという陸軍りくぐん将校しょうこうと しての第一歩だいいっぽ時点じてんでスタートラインがかなりことなっていた。 — 武石たけいしのり[2]

武石たけいしのりは、陸士りくし15から陸士りくし44昭和しょうわ7ねん7がつ卒業そつぎょう[31])のりくだい卒業そつぎょうしゃについて、陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせきべつに「少尉しょうい任官にんかんからりくだい入校にゅうこうするまでの平均へいきん所要しょよう年数ねんすう」と「りくだい優等ゆうとう卒業そつぎょうしゃ恩賜おんしぐみ)の人数にんずう」を調査ちょうさし、

  1. 陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせき上位じょういであるほど、りくだい卒業そつぎょうしゃ比率ひりつたかい。
  2. りくだい卒業そつぎょうしゃ実数じっすう輩出はいしゅつりつ双方そうほうで、りくようぐみ中学ちゅうがくぐみ上回うわまわる。
  3. りくだい恩賜おんしぐみ卒業そつぎょう席次せきじ上位じょうい6めい[32])の輩出はいしゅつすうではりくようぐみ中学ちゅうがくぐみを「2ばいから3ばい」と圧倒あっとうしており、首席しゅせき次席じせきさんせき上位じょうい3めいかぎると、りくようぐみ68めいたい中学ちゅうがくぐみは10めいとさらにひろがる。
  4. 少尉しょうい任官にんかんからりくだい入校にゅうこうまでの所要しょよう年数ねんすう検討けんとうすると、りくだい入試にゅうしにおいて、りくようぐみ中学ちゅうがくぐみより優遇ゆうぐうされていたとはみとめがたい。
  5. りくだい受験じゅけんするには所属しょぞくちょう連隊れんたいちょうなど)の推薦すいせん必要ひつようであり、所属しょぞくちょう推薦すいせんするのは陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせき上位じょういものであるのが自然しぜんであるため、陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせき上位じょういであることがおおりくようぐみ有利ゆうりになったことはあろう。

という5てん指摘してきしている[2]

りくだい合格ごうかくするには3ねん程度ていどをかけての受験じゅけん勉強べんきょう必要ひつようとされていた[33]りくだい受験じゅけん資格しかくゆうしたのは「所属しょぞくちょう推薦すいせんけた、陸士りくし卒業そつぎょうして少尉しょうい任官にんかんたい部隊ぶたい勤務きんむ)2ねん以上いじょう中尉ちゅうい少尉しょうい」であったが[34]中尉ちゅうい少尉しょうい期間きかんりくだい受験じゅけん勉強べんきょうをするためには、所属しょぞくちょう便宜べんぎはかってくれることが重要じゅうようであり、かつ優秀ゆうしゅう部下ぶかりくだい入校にゅうこうすることは所属しょぞくちょうにとってよろこばしいことであった[35]

所属しょぞくちょうからりくだい入校にゅうこう期待きたいされた中尉ちゅうい少尉しょういたいしては

  1. 連隊れんたい旗手きしゅ連隊れんたい本部ほんぶでの勤務きんむとなるため、余暇よかおおい)にえらぶこと。
  2. 陸士りくし隊長たいちょう余暇よかおおい)に派遣はけんすること。
  3. りくだい入試にゅうし日程にっていじょう(4がつ師団しだん所在地しょざいち初審しょしん、8がつ初審しょしん合格ごうかく通知つうち、12月に東京とうきょうりくだい再審さいしん合否ごうひ決定けってい)、受験じゅけん勉強べんきょうみの時期じきおこなわれる秋季しゅうき演習えんしゅう(10がつまつから11がつ)への参加さんか免除めんじょし、さらに11月なかばから休暇きゅうかあたえて上京じょうきょうさせて勉強べんきょう専念せんねんさせること。

などがおこなわれた[35]

陸士りくし36大正たいしょう13ねん7がつ卒業そつぎょう[36][31])の塚本つかもとまことは、中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう東京とうきょう地方ちほう幼年ようねん学校がっこう)を[36]大正たいしょう9ねん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう本科ほんか同年どうねん陸士りくし改称かいしょう)に入校にゅうこうしたが[37]下記かきのようにべている[37]

隊長たいちょうおおくは余暇よかもとめて陸軍りくぐんだい学校がっこう受験じゅけん勉強べんきょうをしていたが、…… — 塚本つかもとまこと[37]

武石たけいしのりは、中央ちゅうおうさん官衙かんが陸軍りくぐんしょう参謀さんぼう本部ほんぶ教育きょういく総監そうかん)の課長かちょうきゅう以上いじょう補職ほしょくされたもの陸士りくし15から陸士りくし39昭和しょうわ2ねん7がつ卒業そつぎょう[31]))について、りくだい卒業そつぎょう席次せきじりくようぐみ中学ちゅうがくぐみべつ陸士りくし卒業そつぎょう席次せきじ調査ちょうさし、

  1. りくようぐみ(217めい)にたいし、中学ちゅうがくぐみ(68めい)はやく3ぶんの1にまる。
  2. 陸士りくしりくだい双方そうほう成績せいせき上位じょういであるほど、さん官衙かんが課長かちょう就任しゅうにんできる可能かのうせいたかかった。
  3. 陸士りくし成績せいせき上位じょういであれば、りく大卒だいそつ履歴りれきゆうさない「てんぐみ」でも中央ちゅうおうさん官衙かんが課長かちょうへのみちまれれいではあるが局長きょくちょうへのみちひらかれていた。

という3てん指摘してきしている[2]。さらに、陸士りくし優等ゆうとう卒業そつぎょうりくだい優等ゆうとう卒業そつぎょうであれば90%が中将ちゅうじょう以上いじょういたったのにたいし、りくだい優等ゆうとう卒業そつぎょうのみの場合ばあい中将ちゅうじょう以上いじょういたったのは76%にまり、明確めいかくみとめられるという今西いまにし英造えいぞう見解けんかい紹介しょうかいしている[2]

武石たけいしのりは、帝国ていこく陸軍りくぐんにおいて陸士りくし卒業そつぎょう成績せいせきりくだい卒業そつぎょう成績せいせき進級しんきゅう補職ほしょくおおきく影響えいきょうしたため、陸士りくしりくだい双方そうほうにおいて成績せいせき上位じょういしゃおお輩出はいしゅつしているりくようぐみが、中学ちゅうがくぐみ比較ひかくして、よりたか階級かいきゅういたってなが現役げんえきまり、より重要じゅうようなポストに補任ほにんされる結果けっかとなったものである、と結論けつろんしている[2]

藤井ふじいさんよん論考ろんこう

編集へんしゅう

藤井ふじいさんよんは、りくようぐみ陸軍りくぐん先進せんしんこく言語げんごであるドイツフランス語ふらんすご仮想かそう敵国てきこく言語げんごであるロシアまなんだのにたいし、英語えいごしかまなんでいない中学ちゅうがくぐみが、りくだい合格ごうかくりつりくだい卒業そつぎょう席次せきじ双方そうほうにおいてハンデをっていたと指摘してきする[38]

藤井ふじいさんよんは、

  1. 中央ちゅうおうさん官衙かんが要職ようしょく筆頭ひっとうえる参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょう参謀さんぼう本部ほんぶだい課長かちょう昭和しょうわ11ねん6がつから12ねん11がつまではだいさん課長かちょう)についてみると、陸士りくし15以降いこうでは中学ちゅうがくぐみ補職ほしょくされたのは今村いまむらひとし陸士りくし19りくだい27首席しゅせき)のみで、りくようぐみめた[38]今村いまむらは、作戦さくせん課長かちょう在任ざいにんちゅう満州まんしゅう事変じへんきると、処理しょり方針ほうしんめぐって孤立こりつ無援むえん状態じょうたいおちいり、とく失策しっさくがなかったにもかかわらず、わずか半年はんとし在任ざいにん更迭こうてつされる悲運ひうんった[38]
  2. 陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく軍事ぐんじ課長かちょうについてみると、昭和しょうわはいってからはりくようぐみ独占どくせんした[39]
  3. 人事じんじあつか部署ぶしょについてみると、陸軍りくぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう昭和しょうわはいってから中学ちゅうがくぐみ補職ほしょくされたのは川島かわしま義之よしゆき陸士りくし10)のみですべりくようぐみめ、陸軍りくぐんしょう人事じんじきょく補任ほにん課長かちょうりくようぐみ独占どくせんし、参謀さんぼう人事じんじあつか参謀さんぼう本部ほんぶ庶務しょむ課長かちょうりくようぐみ独占どくせんしており(りくようぐみでない牛島うしじま貞雄さだお陸士りくし12)は陸軍りくぐん教導きょうどうだん出身しゅっしん)、「人事じんじりくようぐみ独占どくせん」という状況じょうきょうであった[39]
  4. 陸士りくし19は、にち戦争せんそうちゅう初級しょきゅう将校しょうこう大量たいりょう損耗そんこう狼狽ろうばいした当局とうきょく臨時りんじ募集ぼしゅうしたであり、1,200めいという異例いれい多数たすう採用さいようし、中学ちゅうがくぐみのみから構成こうせいされる特異とくいであった[38]陸士りくし19りくだい恩賜おんしぐみはいったもの今村いまむらひとしりくだい27首席しゅせき[40]昭和しょうわ18ねん5がつ大将たいしょう[41])、田中たなかしずいちりくだい28恩賜おんし[40]昭和しょうわ18ねん9がつ大将たいしょう[42])、河辺かわべ正三しょうさんりくだい27恩賜おんし[40]昭和しょうわ20ねん3がつ大将たいしょう[43])、本間ほんま雅晴まさはる陸士りくし19歩兵ほへい恩賜おんし[31]りくだい27恩賜おんし[40]中将ちゅうじょう昭和しょうわ17ねん8がつ予備よびやく[44]だい14ぐん司令しれいかんとしてフィリピン攻略こうりゃくたったさい不手際ふてぎわわれた))の4めいかぞえるが、いずれも人事じんじじょう不遇ふぐうであった[38]

という4てん指摘してきし、りくようぐみには親身しんみ面倒めんどうてくれる先輩せんぱいがいたのにたい[39]中学ちゅうがくぐみにはそれがなく[39]幼年ようねん学校がっこうばつという「えざるかべ」が合理ごうりてき人事じんじはばんだめんがあるとべている[39]

各校かくこう

編集へんしゅう

りくよう陸士りくしこうにはおおくの「たけまど用語ようご」および「隠語いんご」が存在そんざいし、おもりくようではりくよう生徒せいと意味いみする「KD」・「カデ」・「カデット」・「C」を筆頭ひっとうに、以下いかいちれいとする用語ようご使用しようされていた[45]初期しょき帝国ていこく陸軍りくぐんフランス陸軍りくぐんドイツ陸軍りくぐんならっていたことから、フランス語ふらんすごドイツ由来ゆらいする用語ようご散見さんけんされる。

  • 「Dコロ」 - 「りくよう出身しゅっしんしゃ[46]中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃりくよう出身しゅっしんしゃたいして使つか蔑称べっしょう[46]。「カデ=KD」のDに由来ゆらい[46]
  • 「Pコロ」 - 「中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃ[46]りくよう出身しゅっしんしゃ中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃたいして使つか蔑称べっしょう[46]語源ごげんはドイツのPlatpatrone=空包くうほう[46]りくよう出身しゅっしんしゃ自分じぶんたちをScharfepatrone=実包じっぽう見立みたてて、中学ちゅうがく出身しゅっしんしゃおとだけの空包くうほうぎない、と揶揄やゆしたもの[46]
  • 稚児ちごさん」[47] - 上級生じょうきゅうせい生徒せいとかん教官きょうかん寵愛ちょうあいけているとされるものす。

校長こうちょう

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歴代れきだい校長こうちょう

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陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうだいいち
陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうだい
  • 藤井ふじいつつみそう 工兵こうへい中佐ちゅうさ:1887ねん6がつ - 1889ねん6がつ3にち
  • 職務しょくむ取扱とりあつかい藤井ふじいつつみそう 工兵こうへい中佐ちゅうさ:1889ねん6がつ11にち - 7がつ10日とおか
  • 心得こころえ古川ふるかわせんほまれ 工兵こうへい少佐しょうさ:1889ねん7がつ10日とおか - 1889ねん11月2にち
  • 古川ふるかわせんほまれ 工兵こうへい中佐ちゅうさ:1889ねん11月2にち - 1890ねん8がつ25にち
  • 山内やまうち長人ながと 歩兵ほへい中佐ちゅうさ:1890ねん8がつ25にち - 1892ねん12月7にち
  • 佐々木ささきただし 歩兵ほへい中佐ちゅうさ:1892ねん12月7にち -
  • けん事務じむ取扱とりあつかい波多野はたのあつし 歩兵ほへい大佐たいさ:1894ねん9がつ13にち - 1895ねん8がつ10日とおか
  • 粟屋あわやみき 歩兵ほへい中佐ちゅうさ:1895ねん8がつ10日とおか - 1896ねん5がつ15にち
陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう

おも地方ちほう校長こうちょう

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関係かんけいしゃ

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だい大戦たいせん敗戦はいせん在校ざいこうちゅう生徒せいと

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敗戦はいせん閉校へいこうしたため、全員ぜんいん旧制きゅうせい中学ちゅうがく復学ふくがくした。

中途ちゅうと退校たいこうしゃ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 陸士りくし生徒せいととなるものは、「(1)りくようぐみ」と「(2)中学ちゅうがくぐみ(16さい以上いじょう20さい未満みまん)」にくわえ、陸軍りくぐん内部ないぶからの志望しぼうしゃとして、「(3)陸軍りくぐん現役げんえき下士官かしかんからの志望しぼうしゃ(26さい未満みまん)」と「(4)幹部かんぶ候補こうほせいきのえみきおつみき)・操縦そうじゅう候補こうほせい現役げんえきへいからの志望しぼうしゃ(いずれも25さい未満みまん)」があったが、(3)と(4)で陸士りくし生徒せいと採用さいようされるもの少数しょうすうとどまった[3]
  2. ^ たとえば1939年度ねんど昭和しょうわ14年度ねんど志願しがんしゃ(1938ねん願書がんしょ提出ていしゅつして1939ねん4がつ入校にゅうこう)は、1924ねん4がつ2にち - 1926ねん4がつ1にち出生しゅっしょうであることをようする[6]
  3. ^ 高等こうとう小学校しょうがっこうからりくようすすんだ著名ちょめい軍人ぐんじんには、後宮こうきゅうあつし大将たいしょう[7]遠藤えんどう三郎さぶろう中将ちゅうじょう[8]つじ政信まさのぶ大佐たいさ[9]がいる。
  4. ^ 帝国ていこく陸軍りくぐんは、りくよう運営うんえい経費けいひとしてりくよう生徒せいと1にんあたり毎月まいつき80えん計上けいじょうしており、父兄ふけい負担ふたんがくはその1/4であった[13]
  5. ^ a b (a)と(f)の規定きていにおける「文官ぶんかん」は、「陸海りくかいぐん文官ぶんかん」に限定げんていされないとめる。
  6. ^ 出典しゅってんに「じゅん軍人ぐんじん」とあり、注釈ちゅうしゃくされていない[6]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうれい改正かいせい署名しょめい原本げんぽん昭和しょうわじゅうねんみことのりれいだいはちきゅうごう請求せいきゅう番号ばんごう23468100)”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかんデジタルアーカイブ. 2021ねん9がつ29にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 武石たけいしのり陸軍りくぐん将校しょうこう選抜せんばつ昇進しょうしん構造こうぞう - りくようぐみ中学ちゅうがくぐみというふたつの集団しゅうだん -」『教育きょういく社会しゃかいがく研究けんきゅうだい87しゅう日本にっぽん教育きょういく社会しゃかい学会がっかい、2010ねん、25-45ぺーじdoi:10.11151/eds.87.252018ねん6がつ11にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b 藤井ふじい 2018, pp. 75–82, だいしょう 幼年ようねん学校がっこうという存在そんざい-兵科へいか将校しょうこう補充ほじゅうげん
  4. ^ a b c d e f g h i j 藤井ふじい 2018, pp. 82–86, だいしょう 幼年ようねん学校がっこうという存在そんざい-幼年ようねん学校がっこう目的もくてき沿革えんかく
  5. ^ 渡部わたなべ 2015, p. 47
  6. ^ a b c d e f g h i j k 教育きょういく総監そうかん監修かんしゅう陸軍りくぐん将校しょうこう生徒せいと試験しけん常置じょうち委員いいんへん)『陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう 陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう 受験じゅけん入校にゅうこう手引てびきだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃ、1938ねん、19-26ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1437791。"だい 陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう受験じゅけん入校にゅうこう手続てつづき"。 
  7. ^ 半藤はんどう 2013, 位置いちNo. 1030-1137, だいしょう 緒戦しょせん連勝れんしょうべいぐん反攻はんこう-後宮こうきゅうあつし 東条とうじょうえらんだ高級こうきゅう参謀さんぼう次長じちょう
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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  • 邑理栄子えいこ日本にっぽん陸軍りくぐんエリート養成ようせい制度せいど研究けんきゅう : 陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう体制たいせい発足ほっそくとその展開てんかい神戸大学こうべだいがく博士はかせ (学術がくじゅつ) かぶとだい2502ごう〉、2002ねんhdl:20.500.14094/D1002502NAID 500000226584