(Translated by https://www.hiragana.jp/)
大杉栄 - Wikipedia

大杉おおすぎさかえ

日本にっぽん政府せいふ主義しゅぎしゃ思想家しそうか作家さっか (1885-1923)

大杉おおすぎ さかえ(おおすぎ さかえ、大杉おおすぎさかえ1885ねん明治めいじ18ねん1がつ17にち[1] - 1923ねん大正たいしょう12ねん9月16にち[2])は、日本にっぽん政府せいふ主義しゅぎしゃ思想家しそうか作家さっかジャーナリスト翻訳ほんやく社会しゃかい運動うんどうエスペランティスト自由じゆう恋愛れんあい主義しゅぎしゃでもあった。

大杉おおすぎおおすぎ さかえさかえ
雑誌ざっし改造かいぞう」に掲載けいさいされた大杉おおすぎ(1921ねんごろ)。
生年せいねん 1885ねん1がつ17にち
生地きじ 日本の旗 日本にっぽん愛媛えひめけん那珂なかぐん丸亀まるがめ
没年ぼつねん (1923-09-16) 1923ねん9月16にち(38さいぼつ
ぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう麹町こうじまち大手町おおてまち
げん東京とうきょう千代田ちよだ大手町おおてまち
大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん憲兵けんぺいたい司令しれい
思想しそう 政府せいふ主義しゅぎ
テンプレートを表示ひょうじ

生涯しょうがい

編集へんしゅう

幼少ようしょう

編集へんしゅう

大杉おおすぎ1885ねん明治めいじ18ねん)に愛媛えひめけん[注釈ちゅうしゃく 1]那珂なかぐん丸亀まるがめげん香川かがわけん丸亀まるがめ)でまれた。父親ちちおや大杉おおすぎひがし(おおすぎ あずま)は愛知あいちけんうみひがしぐんこしおさむむらげん愛知あいちけん津島つしま出身しゅっしん大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん近衛このえ師団しだん前身ぜんしんである常時じょうじ陸軍りくぐん軍人ぐんじんで、代々だいだい庄屋しょうや家系かけい親戚しんせきにも軍人ぐんじん多数たすういる家庭かてい環境かんきょうだった。そのひがし東京とうきょううつって近衛このえ少尉しょういとして勤務きんむし、大隊だいたいちょう仲介ちゅうかいによってはは・とよ(ゆたか[1])と結婚けっこんした。さかえ次男じなん[注釈ちゅうしゃく 2]で、はる、きく、しん、まつゑ、いさむすすむ、あき、あやめの兄弟きょうだい姉妹しまいがいるだい家族かぞくだった。容姿ようし性格せいかく母親ははおやだったとわれる[3]1888ねん明治めいじ21ねん)12月から東京とうきょう麹町こうじまち富士見ふじみ小学校しょうがっこう付属ふぞく幼稚ようちしつえん)に通園つうえんする[4]ちちひがし1889ねん明治めいじ22ねん)5がつ近衛このえ師団しだん近衛このえ連隊れんたい)から新潟にいがたけん北蒲原きたかんばらぐん新発田しばた本村ほんそんげん新発田しばた)の歩兵ほへいだい16連隊れんたい赴任ふにんしたため[4]、14さいまでの長期間ちょうきかん新発田しばたらした。新発田しばた本村ほんそん尋常じんじょう小学校しょうがっこう新発田しばた高等こうとう小学校しょうがっこう北蒲原きたかんばら尋常じんじょう中学校ちゅうがっこうげん新潟県立新発田高等学校にいがたけんりつしばたこうとうがっこう)でまな[5]にちしん戦争せんそうにち戦争せんそうにも従軍じゅうぐんしたひがしからいのりにれて軍人ぐんじんとして仕込しこまれたこともあって、元帥げんすい目指めざすという高邁こうまい精神せいしん[3]1898ねん明治めいじ31ねん)4がつ名古屋なごや陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうめいよう)を受験じゅけんしたが不合格ふごうかくとなり[5]1899ねん明治めいじ32ねん)4がつさい受験じゅけんして合格ごうかくし、同年どうねん9がつめいようだい3期生きせいとして入学にゅうがくした[6]。ドイツ希望きぼうするも定員ていいんたなかったことからフランス語ふらんすごまわされたが、これは思想家しそうか誕生たんじょう役立やくだった[3][6]

学生がくせい時代じだい社会しゃかい主義しゅぎへの接近せっきん

編集へんしゅう

名古屋なごや陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこうでは武道ぶどう熱中ねっちゅうするあまり学業がくぎょう成績せいせきからぬてんがあり、学校がっこうないでは奔放ほんぽう生活せいかつおくった。同性愛どうせいあいはしって[注釈ちゅうしゃく 3]修学旅行しゅうがくりょこうでは下級生かきゅうせいによる性的せいてきじゃれにたいして禁足きんそく30にち処分しょぶんけた[7]。「下士官かしかんどもの追究ついきゅう残酷ざんこく」「尊敬そんけい親愛しんあいかんじない上官じょうかんへの服従ふくじゅう盲従もうじゅう」というかんがえから教官きょうかんたいして反抗はんこう[8]することがえて憂鬱ゆううつになり、「(故郷こきょうである)新発田しばた自由じゆうそらおもう」ようにいたったとの理由りゆうから軍医ぐんいによって脳神経のうしんけいしょう診断しんだんされ、休暇きゅうかあたえられた。さかえ幼年ようねん学校がっこうそとれば快活かいかつ少年しょうねんとしてごせたが学校がっこうもどるとふたた凶暴きょうぼう少年しょうねんとなり、同期どうき生徒せいと喧嘩けんか相手あいてからナイフでされる騒動そうどうこし、1901ねん明治めいじ34ねん)12月に在学ざいがくわずか2ねん退学たいがく処分しょぶんとなった[9]退学たいがく直前ちょくぜんさかえ成績せいせき極端きょくたんなもので、実科じっかでは主席しゅせき学科がっかでは次席じせきであるにもかかわらず、操行そうこうでは最下位さいかいだった。

軍隊ぐんたい生活せいかつ窮屈きゅうくつから解放かいほうされたさかえ父親ちちおやゆるしをずに文学ぶんがくこころざすことを[10]語学ごがく研究けんきゅうしょうして1902ねん明治めいじ35ねん)1がつ上京じょうきょうして[10][11]神田かんだ猿楽さるがくまち東京とうきょう学院がくいん中学ちゅうがく5ねんきゅう受験じゅけん)に通学つうがくし、よる四谷よつや箪笥たんすまちげん四谷よつや三栄さんえいまち)のフランス語ふらんすご学校がっこうとおった[11]同年どうねん6がつはは・とよが新潟にいがた病院びょういん急逝きゅうせいした[12]。このころさかえ牛込うしごめ下宿げしゅくさき友人ゆうじんすすめられて「進化しんかろん」を原書げんしょみ、足尾あしお鉱毒こうどく事件じけんへの追及ついきゅう運動うんどうさかえとも下宿げしゅくしていた友人ゆうじん参加さんかしたことに触発しょくはつされ、定価ていかもっとやすかった「まんあさほう」を購読こうどくして軍隊ぐんたいがい社会しゃかいけた。幸徳こうとく秋水しゅうすいさかい利彦としひこもこのころり、かれらの提唱ていしょうする非戦論ひせんろん共鳴きょうめいして平民へいみんしゃ結成けっせいるとおとずれて講演こうえんかい参加さんかした[13]。1902ねん10がつじゅんてん中学校ちゅうがっこう5ねん編入へんにゅうがくした[10][12]1903ねん明治めいじ36ねん)3がつじゅんてん中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょう[12]同年どうねん9がつ東京とうきょう外国がいこく学校がっこうげん東京外国語大学とうきょうがいこくごだいがく仏語ふつご入学にゅうがく[14]

1903ねん3がつ、いろいろなキリスト教会きょうかい出席しゅっせきし、海老名えびな弾正だんじょう牧師ぼくしであった日本にっぽん組合くみあい本郷ほんごう基督教きりすときょうかいげん日本にっぽん基督教きりすときょうだんゆみまち本郷ほんごう教会きょうかい)に定着ていちゃくし、同年どうねん10がつ海老名えびなから受洗じゅせんきょう会員かいいんとなるが、1904ねん明治めいじ37ねん)2がつにち戦争せんそう開戦かいせん海老名えびなの「国家こっかてき大和魂やまとだましいてきクリストきょう」に反発はんぱつ教会きょうかいとの関係かんけい[15]

1904ねん3がつ平民へいみんしゃ開催かいさいされた社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうかい出席しゅっせきした[16]大杉おおすぎ次第しだい社会しゃかい主義しゅぎ感化かんかされて頻繁ひんぱん平民へいみんしゃ出入でいりしたり、のちにこの時期じき回想かいそうして雑誌ざっし改造かいぞう」に自叙伝じじょでんとして発表はっぴょうしたが、この自叙伝じじょでんさかえ死後しご未完みかんながらも単行本たんこうぼんにまとめられた[17]

社会しゃかい主義しゅぎ感化かんか

編集へんしゅう
 
1920ねんごろ

1905ねん明治めいじ38ねん)3がつごろ平民へいみんしゃ発行はっこうしていた週刊しゅうかん平民へいみん新聞しんぶん」の後継こうけいである「直言ちょくげん」にさかいいた紹介しょうかい記事きじによってエスペラントり、1905ねん明治めいじ38ねん)7がつ東京とうきょう外国がいこく学校がっこう仏語ふつご学科がっか選科せんか修了しゅうりょうした[18]。その翌年よくねんにかけて東京とうきょう本郷ほんごうにある習性しゅうせい小学校しょうがっこうエスペラント学校がっこう開校かいこうさせ[19]1906ねん明治めいじ39ねん)3がつには東京とうきょう市内しない電車でんしゃ運賃うんちん値上ねあげに反対はんたいする市民しみん大会たいかい関与かんよしたとして兇徒きょうと聚集ざいにより逮捕たいほされたが、6がつ釈放しゃくほうされた[20]。しかし、同年どうねん11がつには新聞しんぶん掲載けいさいされた「新兵しんぺい諸君しょくんあずかふ」が新聞紙しんぶんし条例じょうれい違反いはん起訴きそされ[21]、これ以降いこう言論げんろん活動かつどう社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどうかかわっていった。1908ねん明治めいじ41ねん)1がつ17にちにはいわゆる屋上おくじょう演説えんぜつ事件じけん[注釈ちゅうしゃく 4]によって治安ちあん警察けいさつほう違反いはん容疑ようぎ逮捕たいほされた[22]同年どうねん6がつ22にちには東京とうきょう神田かんだにあった映画えいがかんにしきてるかん」で発生はっせいした赤旗あかはた事件じけんによってふたた逮捕たいほされ[23]、これまでの量刑りょうけいふくんで2ねん6ヶ月かげつにわたって千葉刑務所ちばけいむしょ収容しゅうようされた[24]獄中ごくちゅうではさらに語学ごがくまなびながらアナキズムほん多数たすう読破どくはした[25]1910ねん明治めいじ43ねん)9がつには東京とうきょう監獄かんごくうつされて秋水しゅうすいらの大逆だいぎゃく事件じけん関連かんれんした取調とりしらべをけるが11月に出所しゅっしょし、さかいらと「売文ばいぶんしゃ」を結成けっせいする[26]

1911ねん明治めいじ44ねん1がつ24にち秋水しゅうすいらが処刑しょけいされた[27]ことで社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう一時いちじてき後退こうたいするなかで、大杉おおすぎ荒畑あらはた寒村かんそんとも1912ねん大正たいしょう元年がんねん)10がつ近代きんだい思想しそう[28]1914ねん大正たいしょう3ねん)10がつ平民へいみん新聞しんぶん発刊はっかんし、定例ていれい社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうかい開催かいさいして運動うんどう活発かっぱつさせようとするが、いずれも発禁はっきん処分しょぶんけて経済けいざいてき収入しゅうにゅう途絶とだえる[29]同年どうねん同月どうげつチャールズ・ダーウィンによる「The Origin of Species」を「たね起原きげん」という題名だいめい翻訳ほんやく出版しゅっぱんする[30]が、アナキズムの立場たちば鮮明せんめいにしてきた大杉おおすぎ態度たいど荒畑あらはた以前いぜんからの同志どうしから反発はんぱつけ、復活ふっかつさせた近代きんだい思想しそう1916ねん大正たいしょう5ねんはじめに廃刊はいかんとなった[31]同年どうねんには伊藤いとう野枝のえとの恋愛れんあいはじまり[32]大杉おおすぎ次第しだい研究けんきゅうかいへの参加さんかっていく。しかしだいすぎにはつまほり保子やすこ[注釈ちゅうしゃく 5]との結婚けっこん生活せいかつつづ状況じょうきょうにおいて、11月9にち以前いぜんからの恋愛れんあい相手あいてだった神近かみちか市子いちこによってされる日蔭ひかげ茶屋ちゃや事件じけん発生はっせいした[33][注釈ちゅうしゃく 6]大杉おおすぎ事件じけんによって重傷じゅうしょううが世間せけん市子いちこ同情どうじょうてきだった。その理由りゆうとして市子いちこ大杉おおすぎこなにして経済けいざいめんでサポートしていたためで、野枝のえ魔性ましょうおんな悪魔あくまのようにうわさしていた大杉おおすぎ評判ひょうばんはあっというち、同志どうしからも完全かんぜん孤立こりつした。大杉おおすぎ野枝のえとの共同きょうどう生活せいかつはじめるが生活せいかつ資金しきんにも事欠ことかくようになった。また、大杉おおすぎ自由じゆう恋愛れんあいろんしゃで、つま保子やすことの結婚けっこん居候いそうろうちゅう強姦ごうかんしたことによる結婚けっこん[疑問ぎもんてん][34]で、当時とうじ保子やすこ深尾ふかお婚約こんやくしていたが破棄はきとなった。さらに大杉おおすぎ保子やすこ入籍にゅうせきせず、市子いちこつづけて野枝のえとも愛人あいじん関係かんけいとなって、野枝のえ長女ちょうじょ魔子まこ(のちに改名かいめいして真子しんじ)を妊娠にんしんした。大杉おおすぎ女性じょせいからつね経済けいざいてき援助えんじょけていたが、大杉おおすぎ愛情あいじょう野枝のえとその子供こどもである魔子まこうつったのを嫉妬しっとした市子いちこによって日蔭ひかげ茶屋ちゃや事件じけん発生はっせいしたのである。事件じけんによって市子いちこ入獄にゅうごくし、大杉おおすぎ保子やすこ離別りべつしたために野枝のえ家庭かていつが依然いぜんとして入籍にゅうせきはせず、次女じじょ・エマ[注釈ちゅうしゃく 7]さんじょ・エマ[注釈ちゅうしゃく 8]よんじょ・ルイズ[注釈ちゅうしゃく 9]長男ちょうなん・ネストル[注釈ちゅうしゃく 10]もうけた。次女じじょ・エマ以外いがい大杉おおすぎ野枝のえ死後しご野枝のえ実家じっかられ、戸籍こせきとどけるとき改名かいめいされたものである。

1917ねん大正たいしょう6ねん)9がつ長女ちょうじょ魔子まこ[注釈ちゅうしゃく 11]誕生たんじょうし、村木むらき源次郎げんじろうだけは大杉おおすぎいえ同居どうきょして家事かじ手伝てつだ[35]同年どうねんまつ大杉おおすぎらは労働ろうどうしゃまちとしてられた東京とうきょう亀戸かめいど移住いじゅうし、野枝のえと『文明ぶんめい批評ひひょう』を創刊そうかんする[36]大杉おおすぎのもとには和田わだ久太郎きゅうたろう久板ひさいた卯之助うのすけくわわり[37]、このけん前年ぜんねんロシア革命かくめい勃発ぼっぱつ影響えいきょうもあって労働ろうどう運動うんどうがる機運きうんとなった。1918ねん大正たいしょう7ねん)2がつには同志どうしたちとの関係かんけい修復しゅうふくはかろうと研究けんきゅうかい定期ていきてき開催かいさいさせ[38]サンディカリズム立場たちば労働ろうどう運動うんどうへの影響えいきょうつよめながら九州きゅうしゅう関西かんさい周回しゅうかいし、大阪おおさかではべい騒動そうどう騒乱そうらんたりにした[39]1919ねん大正たいしょう8ねん)1がつには近藤こんどう憲二けんじらが主催しゅさいし、労働ろうどうしゃ参集さんしゅうしていた北風きたかぜかい研究けんきゅうかい統合とうごうさせて「労働ろうどう運動うんどう精神せいしん」をテーマに講演こうえんつづける[40]同年どうねん9がつには「東京とうきょう労働ろうどう同盟どうめいかい」と改称かいしょうして機関きかん労働ろうどう運動うんどう』を刊行かんこうさせ[41]拠点きょてんとなる労働ろうどう運動うんどうしゃ仲間なかまあつまる。

海外かいがいでの社会しゃかい主義しゅぎ活動かつどう

編集へんしゅう
 
売文ばいぶんしゃのメンバー。
ひだり手前てまえから、新居にいかくしろいシャツ)、大杉おおすぎさかえさかい利彦としひこ山崎やまざき今朝弥けさや山川やまかわひとし近藤こんどう栄蔵えいぞうひだりおく人物じんぶつ不明ふめい
 
大杉おおすぎ伊藤いとう野枝のえ(1920年代ねんだい
 
来日らいにちちゅうバートランド・ラッセル対談たいだんする大杉おおすぎ(1921ねん[42]

1920ねん大正たいしょう9ねん)のきょうにおいても労働ろうどう争議そうぎ増加ぞうかし、次第しだい大杉おおすぎ活動かつどうひろがっていく。ピョートル・クロポトキン著作ちょさく翻訳ほんやくくわえて演説えんぜつかい開催かいさいや、メーデーをまえにしての事前じぜん検束けんそくける[43]。10月には中華民国ちゅうかみんこく上海しゃんはい開催かいさいされた社会しゃかい主義しゅぎしゃ集会しゅうかいくわわって11月に帰国きこく[44]、12月9にちには社会しゃかい主義しゅぎしゃ同盟どうめい結成けっせいけて鎌倉かまくらにあった大杉おおすぎ自宅じたくに40めいあまりがあつまる[45]

1921ねん大正たいしょう10ねん)1がつコミンテルンからの資金しきんでアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ共同きょうどう機関きかんとしての労働ろうどう運動うんどうだい)を刊行かんこうさせるが、ちょうチフス悪化あっかさせて入院にゅういんする[46]。さらに6がつにはボルの井伊いいらに裏切うらぎられて共同きょうどう路線ろせん破綻はたんし、労働ろうどう運動うんどうわずか13ごう廃刊はいかんまれる[47]。それでも同年どうねん12がつにはアナキストだけで労働ろうどう運動うんどうだいさん)を復刊ふっかんさせる[48]

1922ねん大正たいしょう11ねん)2がつ大杉おおすぎ福岡ふくおかけん八幡やはたげん福岡ふくおかけん北九州きたきゅうしゅう)での官営かんえい八幡やはた製鐵せいてつしょ罷工ひこう2周年しゅうねん記念きねん演説えんぜつかい参加さんかする[49]。ここでは労働ろうどう運動うんどうにおいてソビエト政府せいふのアナキストたちへの弾圧だんあつ報告ほうこくし、信友のぶともかい有志ゆうし労働ろうどう運動うんどうしゃ同志どうし労働ろうどう組合くみあい連合れんごう目指めざすために全国ぜんこく労働ろうどう組合くみあいそう連合れんごうかい発足ほっそく努力どりょくするが、9月30にちサンディカリズムそう同盟どうめいとの対立たいりつにボルも介在かいざいして結成けっせい失敗しっぱいとなり[50]アナ・ボル論争ろんそう激化げきかした。のち大杉おおすぎへの追悼ついとうすぎよ!おとこよ!」を執筆しっぴつする中浜なかはまあきらはこのタイミングで大杉おおすぎ接近せっきんし、労働ろうどう運動うんどう労働ろうどう争議そうぎ現場げんば報告ほうこく頻繁ひんぱん掲載けいさいした。8月には富川とみかわまちで「自由じゆう労働ろうどうしゃ同盟どうめい」を結成けっせい[51]して新潟にいがた中津なかつがわでの朝鮮ちょうせんじん労働ろうどうしゃ虐殺ぎゃくさつ実態じったい調査ちょうさおもむいたほか、10月にはギロチンしゃ古田ふるた大次郎だいじろうらと結成けっせいする。大杉おおすぎは12月、翌年よくねんにドイツのベルリンひらかれる予定よてい国際こくさいアナキスト大会たいかい参加さんかするためふたた日本にっぽん脱出だっしゅつする[52]

1923ねん大正たいしょう12ねん)1がつ5にち上海しゃんはいからフランス船籍せんせきアンドレ・ルボンごう乗船じょうせんし、中国人ちゅうごくじん偽装ぎそうして中華民国ちゅうかみんこくからフランスかった[53]。マフノ運動うんどう中心ちゅうしん人物じんぶつであるネストル・マフノ接触せっしょくはか目的もくてきもあり、アジアでのアナキストの連合れんごう意図いとし、上海しゃんはいおよびフランスで中国ちゅうごくのアナキストらと会談かいだんかさねる。2月13にちマルセイユ到着とうちゃく[54]するが大会たいかい延期えんきとなり、フランスから国境こっきょうえるのも困難こんなんになるなか大杉おおすぎパリ近郊きんこうサン・ドニのメーデーで演説えんぜつおこない、警察けいさつ逮捕たいほされる[55]異国いこく逮捕たいほされた大杉おおすぎラ・サンテ監獄かんごくおくられ、そこで大杉おおすぎ本人ほんにん発覚はっかくして裁判さいばん強制きょうせい退去たいきょ処分しょぶんとなる[56]。そのままフランスの日本にっぽん領事館りょうじかん手配てはいでマルセイユから箱根はこねまる乗船じょうせんし、7がつ11にち神戸こうべもど[57]。そのさい大杉おおすぎはパリにある日本にっぽん大使館たいしかんからの反対はんたい意見いけんによって、乗船じょうせん切符きっぷとう船室せんしつになったことをうら記述きじゅつを「日本にっぽん脱出だっしゅつ」にいている。滞在たいざいについてはとどこおふつちゅうから発表はっぴょうされ、これらも日本にっぽん脱出だっしゅつとしてまとめられる。かつてゆたか多摩たま刑務所けいむしょ収監しゅうかんちゅう翻訳ほんやくはつ日本語にほんごやく)したファーブル昆虫こんちゅうが「昆虫こんちゅう」の出版しゅっぱんされたが、これ以降いこう大杉おおすぎ東京とうきょうき、8がつまつにアナキストの連合れんごう意図いとしてあつまりをひらくが、進展しんてんはかまえ関東大震災かんとうだいしんさい遭遇そうぐうする。

 
1923ねん12月16にち東京とうきょう谷中やなか斎場さいじょうにて、大杉おおすぎ伊藤いとう野枝のえたちばな宗一そういち社会しゃかいそうおこなわれた。
 
静岡しずおかあおい沓谷くつのやいち丁目ちょうめ市営しえい沓谷くつのや霊園れいえんにあるはか(2019ねん9がつ

関東大震災かんとうだいしんさいからわずか2週間しゅうかん1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ16にち自宅じたくちかくからつま伊藤いとう野枝のえおいで6さいたちばな宗一そういち[注釈ちゅうしゃく 12]とも憲兵けんぺいたい特高とっこう連行れんこうされ、憲兵けんぺいたい司令しれい憲兵けんぺい大尉たいい分隊ぶんたいちょう)の甘粕あまかす正彦まさひこらによって殺害さつがいされ、遺体いたい井戸いど遺棄いきされた(甘粕あまかす事件じけん[58]。38さいぼつ殺害さつがい実行じっこうはんとして憲兵けんぺい大尉たいい甘粕あまかすとその部下ぶか軍法ぐんぽう会議かいぎにかけられ、有罪ゆうざい判決はんけつとなった。公判こうはん内容ないよう毎回まいかい新聞しんぶん報道ほうどうされた。

震災しんさい政府せいふ朝鮮ちょうせん日本にっぽんのアナキストの連合れんごうグループや不逞ふていしゃぼくれつ金子かねこ文子ふみこ大逆だいぎゃく事件じけん調査ちょうさした。そのなかでメンバーの一人ひとり獄死ごくしした新山にいやま初代はつよ震災しんさい直前ちょくぜんの8がつ大杉おおすぎ勉強べんきょうかいでの講師こうし依頼いらいしており、大杉おおすぎびかけで開催かいさいした集会しゅうかいにも出席しゅっせきしていた。これらの事実じじつ警察けいさつがまとめた訊問じんもん調書ちょうしょ記載きさいされ、公判こうはん記録きろくとしてアナーキズム(『ぞく現代げんだい資料しりょう』3、みすず書房しょぼう、1988ねん7がつ)に収載しゅうさいされている。

12月16にち自由じゆう連合れんごう労働ろうどう組合くみあいとアナキストかく団体だんたい主催しゅさいとなり、殺害さつがいされた3にん合同ごうどうそうおこなわれる[59]。このさい右翼うよく団体だんたい大化たいかかいのメンバーが弔問ちょうもんきゃくよそおって大杉おおすぎ遺骨いこつ事件じけんきた(大杉おおすぎさかえ遺骨いこつ奪取だっしゅ事件じけん)。遺骨いこつは9にち大化たいかかい会長かいちょう岩田いわた富美夫とみお警察けいさつとどて、翌年よくねん5がつ警察けいさつから遺族いぞく返還へんかんされた[60]労働ろうどう運動うんどうしゃ和田わだ久太郎きゅうたろう村木むらき源次郎げんじろうはギロチンしゃ中浜なかはまあきら古田ふるた大次郎だいじろうらと共同きょうどうして殺害さつがいへの報復ほうふく意図いとし、翌年よくねんいち周忌しゅうきまでに政府せいふ攻撃こうげきくわだてるが失敗しっぱいした[61]

大杉おおすぎ遺骨いこつ野枝のえ郷里きょうりである福岡ふくおかけん埋葬まいそうされたが、野枝のえ地域ちいきからこころよおもわれていなかったこともあって損壊そんかい相次あいつ[62]静岡しずおかけん静岡しずおか共同きょうどう墓地ぼちあらためてはかつくられた[63]2023ねんれい5ねん9月16にち甘粕あまかす事件じけんから100ねんむかえた節目ふしめとして墓前ぼぜんさいおこなわれ、やく50にん参列さんれつした[64]

大杉おおすぎは、家族かぞくでもききとれないほど重度じゅうど吃音きつおん生涯しょうがいなやまされつづけていた。とくこう発音はつおんではまばたきさせて「金魚きんぎょみこむようなくちつきになった」という。陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう時代じだいも「下弦かげんつき」とどうしても発言はつげんできず、「上弦じょうげんではありません」とってそのをやりごしたり(そのわり「性格せいかくがひねくれている」と教官きょうかん心証しんしょうがいしたという)、後藤ごとう新平しんぺいのもとへかねりにかったところ、500えんりる予定よていだったものが「ゴ」の発音はつおんず、仕方しかたなく300えんりたエピソードもある。

後藤ごとう新平しんぺい内務ないむ大臣だいじんからの資金しきん援助えんじょ

編集へんしゅう

前述ぜんじゅつのように後藤ごとうから300えん資金しきん援助えんじょけたとされる。1923ねん大正たいしょう12ねん12月17にち衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかいにおいて後藤ごとうだい2山本やまもと内閣ないかく内務ないむ大臣だいじんとしてった答弁とうべんによれば、寺内てらうち内閣ないかく内務ないむ大臣だいじんとして大杉おおすぎに2かいにわたってけい500えんわたしており、大杉おおすぎへの資金しきん提供ていきょうは「歴代れきだい内務ないむ大臣だいじんガヤッテきょッタコトテアル」とべている[65]

著作ちょさく

編集へんしゅう

自叙伝じじょでん

編集へんしゅう
  • 獄中ごくちゅう』 1919ねん
  • 自叙傳じじょでん』 1923ねん
  • 日本にっぽん脱出だっしゅつ』 1923ねん

翻訳ほんやく

編集へんしゅう

機関きかん大杉おおすぎさかえ編集へんしゅう刊行かんこう関与かんよ

編集へんしゅう
  • 近代きんだい思想しそう
  • 平民へいみん新聞しんぶん
  • 文明ぶんめい批評ひひょう
  • 労働ろうどう運動うんどう

(いずれも復刻ふっこくばん刊行かんこうされている)

論文ろんぶんとう

編集へんしゅう
  • なま闘争とうそう』 1914ねん、1923ねん4がつ30にち
  • 社会しゃかいてき個人こじん主義しゅぎ』 1915ねん発禁はっきん
  • 労働ろうどう運動うんどう哲学てつがく』 1916ねん発禁はっきん
  • 乞食こじき名誉めいよ』1920ねん伊藤いとう野枝のえとの共著きょうちょ
  • 『クロポトキン研究けんきゅう』 1920ねん
  • 正義せいぎもとめるしん』 1921ねん9がつ9にち
  • 悪戯あくぎ』1921ねん
  • 二人ふたり革命かくめい』 1922ねん伊藤いとう野枝のえとの共著きょうちょ
  • 漫文まんぶん漫画まんが』 1922ねん 望月もちづきかつらとの共著きょうちょ
  • 無政府むせいふ主義しゅぎしゃたロシア革命かくめい』1922ねん

近藤こんどう憲二けんじ編集へんしゅう

編集へんしゅう
  • 随筆ずいひつしゅうせい闘争とうそう』1923ねん
  • 日本にっぽん脱出だっしゅつ』 1923ねん
  • 自叙傳じじょでん』 1923ねん
  • 自由じゆう先驅せんく』 1924ねん
  • 大杉おおすぎさかえ全集ぜんしゅう』アルスばん 1925ねん - 1926ねん

同志どうし著作ちょさく

編集へんしゅう
  • 懺悔ざんげ』1926ねん 古田ふるた大次郎だいじろう 春秋しゅんじゅうしゃ
  • 獄窓ごくそうから』1930ねん 和田わだ久太郎きゅうたろう
  • 死刑しけいしゅうおも』 1930ねん発禁はっきん 古田ふるた大次郎だいじろう

追悼ついとうごう

編集へんしゅう
  • 改造かいぞう』 1923ねん11がつ 大杉おおすぎさかえ追想ついそうごう
  • 中央公論ちゅうおうこうろん』 1923ねん11月「回想かいそうする大杉おおすぎ佐藤さとう春夫はるお
  • 労働ろうどう運動うんどう』1924ねん3がつ大杉おおすぎさかえ伊藤いとう野枝のえ追悼ついとうごう
  • 祖国そこく自由じゆう』 1925ねん9がつ 大杉おおすぎさかえ追悼ついとうごう

1960,70年代ねんだい刊行かんこう著作ちょさく関連かんれんしょ

編集へんしゅう

1980ねん以降いこう出版しゅっぱん

編集へんしゅう
  • 大杉おおすぎさかえやく ファーブル昆虫こんちゅう』(ジャン=アンリ ファーブル(ちょ),小原おはら秀雄ひでお(ちょ),大杉おおすぎさかえ(わけ)、明石書店あかししょてん、2005ねん
  • にちろく大杉おおすぎさかえでん』(大杉おおすぎゆたか社会しゃかい評論ひょうろんしゃ、2009ねん
  • 日本にっぽん脱出だっしゅつ』(大杉おおすぎゆたか解説かいせつ土曜どようしゃ、2011ねん
  • 自叙伝じじょでん』(大杉おおすぎゆたか解説かいせつ土曜どようしゃ、2011ねん
  • 獄中ごくちゅう』(大杉おおすぎゆたか解説かいせつ土曜どようしゃ、2012ねん
  • 『KAWADEどう手帖てちょう 大杉おおすぎさかえ』(河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2012ねん
  • 大杉おおすぎさかえ仲間なかまたち』(ぱる出版しゅっぱん、2013ねん
  • 大杉おおすぎさかえ追想ついそう』(大杉おおすぎゆたか解説かいせつ土曜どようしゃ、2013ねん
  • 『My Escapes from Japan』(マイケル・シャワティーやく土曜どようしゃ、2014ねん)『日本にっぽん脱出だっしゅつ英訳えいやくばん
  • 大杉おおすぎさかえ書簡しょかんしゅう』(大杉おおすぎゆたかへん土曜どようしゃ、2018ねん

関連かんれん作品さくひん

編集へんしゅう

小説しょうせつ

編集へんしゅう
  • 乱調らんちょうにあり――伊藤いとう野枝のえ大杉おおすぎさかえ瀬戸内せとうち寂聴じゃくちょうしる岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ、2017ねん
  • 諧調かいちょういつわりなり――伊藤いとう野枝のえ大杉おおすぎさかえ(うえした)』 瀬戸内せとうち寂聴じゃくちょうしる岩波いわなみ現代げんだい文庫ぶんこ、2017ねん

テレビドラマ

編集へんしゅう

演劇えんげき

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ 1876ねん明治めいじ9ねん)のだい2府県ふけん統合とうごうによって香川かがわけん松山まつやまけん宇和島うわじまけん統合とうごうされ、1888ねん明治めいじ21ねん)まで愛媛えひめけんという1つのけんだった。
  2. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』12ぺーじでは長男ちょうなん
  3. ^ 中村なかむらつね次兄じけい中村中なかむらなか恋仲こいなかとなったとわれるが。なか器械体操きかいたいそう授業じゅぎょうむね強打きょうだしたのが原因げんいん急逝きゅうせいしている。
  4. ^ 平民へいみん書房しょぼうおこなわれていた金曜きんようかいたいして警察けいさつ解散かいさんめいじたことに反発はんぱつし、さかい平民へいみん書房しょぼうの2かいから群衆ぐんしゅうけて警官けいかん迫害はくがいうったえた事件じけん
  5. ^ 文学ぶんがくしゃほり成之しげゆきむすめで、さかいつまいもうとにあたる。
  6. ^ 神奈川かながわけん葉山はやままちにあった旅館りょかんで、現在げんざいは「日影ひかげ茶屋ちゃや」の屋号やごう日本にっぽん料理りょうりてんとして営業えいぎょうしている。老舗しにせあり】神奈川かながわけん葉山はやままち 日影ひかげ茶屋ちゃや葉山はやまとともにあゆ名店めいてん産経新聞さんけいしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん8がつ6にち(2018ねん10がつ18にち閲覧えつらん参照さんしょう
  7. ^ のち改名かいめいして「幸子さちこ」。
  8. ^ のちに改名かいめいして「笑子えみこ」。
  9. ^ のちに改名かいめいして「留意りゅうい」。『ルイズ - ちちもらいしめいは』(松下まつした竜一りゅういちちょ)に、彼女かのじょのたどった半生はんせいえがかれている。
  10. ^ のちに改名かいめいして「さかえ」。
  11. ^ 誕生たんじょうまえ悪魔あくまわれたことを逆手さかてにとって命名めいめいしたもの。大杉おおすぎ溺愛できあいした。
  12. ^ 大杉おおすぎいもうと長男ちょうなんで、むねいちはか名古屋なごや日泰寺にったいじにある。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ a b にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 12
  2. ^ >にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 480
  3. ^ a b c 村上むらかみ 1925, p.230
  4. ^ a b にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 13
  5. ^ a b にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 15
  6. ^ a b にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 17
  7. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 18-19
  8. ^ 大杉おおすぎ 1923, pp.110-134
  9. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 19-20.
  10. ^ a b c 村上むらかみ 1925, p.231
  11. ^ a b にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 20
  12. ^ a b c にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 21
  13. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 20-21.
  14. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 22.
  15. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 21,24.
  16. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 24.
  17. ^ 大杉おおすぎ 1923
  18. ^ 官報かんぽうだい6610ごう明治めいじ38ねん7がつ13にち、p.552
  19. ^ 東京とうきょう外国がいこく学校がっこう一覧いちらん』には卒業そつぎょう職業しょくぎょうとしてエスペラント学校がっこう教師きょうしとある。東京とうきょう外国がいこく学校がっこう一覧いちらん したがえ明治めいじ39ねんいたり明治めいじ40ねん東京とうきょう外国がいこく学校がっこう、1906ねん11月30にち、100ぺーじNDLJP:813025/57 
  20. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 33-36.
  21. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 46.
  22. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん, p. 60-61.
  23. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』68-70ぺーじ
  24. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』71-72ぺーじ
  25. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』72ぺーじ
  26. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』76-78ぺーじ
  27. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』80-81ぺーじ
  28. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』95-96ぺーじ
  29. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』133-134ぺーじ
  30. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』135ぺーじ
  31. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』161、168-171ぺーじ
  32. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』174ぺーじ
  33. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』197-198ぺーじ
  34. ^ 市原いちはら正恵まさえ「もうひとりの明治めいじ社会しゃかい主義しゅぎしゃ――深尾ふかお韶の生涯しょうがい」『思想しそう科学かがくだい75かん思想しそう科学かがくしゃ、1977ねん、83-97ぺーじ
  35. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』211-212ぺーじ
  36. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』217-219ぺーじ
  37. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』221-222ぺーじ
  38. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』224-225ぺーじ
  39. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』241-242ぺーじ
  40. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』252-253ぺーじ
  41. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』293-295ぺーじ
  42. ^ 濱田はまだ康行やすゆき邦訳ほうやく昆虫こんちゅう』をめぐって」『学士がくしかい会報かいほうだい869かん学士がくしかい、2008ねん3がつ、60-64ぺーじCRID 1050282813972050176hdl:2115/330312024ねん6がつ17にち閲覧えつらん 
  43. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』318、326-327ぺーじ
  44. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』341-342ぺーじ
  45. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』345-346ぺーじ
  46. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』355-361ぺーじ
  47. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』370-371ぺーじ
  48. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』390-391ぺーじ
  49. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』394-395ぺーじ
  50. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』414-415ぺーじ
  51. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』411ぺーじ
  52. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』431-432ぺーじ
  53. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』435ぺーじ
  54. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』437ぺーじ
  55. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』449-450ぺーじ
  56. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』451-454ぺーじ
  57. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』456-459ぺーじ
  58. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』480-484ぺーじ
  59. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』492-493ぺーじ
  60. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』494ぺーじ
  61. ^ にちろく大杉おおすぎさかえでん』495-496ぺーじ
  62. ^ 無名むめい墓石はかいし山中さんちゅうに」『読売新聞よみうりしんぶん』2023ねん9がつ9にち九州きゅうしゅうばん27めん
  63. ^ 静岡しずおか大杉おおすぎさかえらの墓前ぼぜんさいいろとりどりのバラ献花けんか”. 朝日新聞あさひしんぶんDIGITAL (2019ねん9がつ16にち). 2023ねん9がつ12にち閲覧えつらん
  64. ^ 権力けんりょく横暴おうぼうわすれない」甘粕あまかす事件じけんから100ねん 静岡しずおか最後さいご墓前ぼぜんさい”. 西日本にしにほん新聞しんぶん (2023ねん9がつ17にち). 2023ねん9がつ18にち閲覧えつらん
  65. ^ 裕司ゆうじ後藤ごとう新平しんぺいをめぐる権力けんりょく構造こうぞう研究けんきゅうみなみまどしゃ、2007ねん、223ぺーじISBN 978-4-8165-0354-2国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかん書誌しょしID:000008588257 

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 市原いちはら正恵まさえ静岡しずおかにおける大杉おおすぎさかえ伊藤いとう野枝のえたちばな宗一そういち追悼ついとうさんじゅうねん」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 伊藤いとう英一ひでかず「「大杉おおすぎさかえのビラき」・いちきゅうよんねんなつ平民へいみん新聞しんぶん名古屋なごやより」のなぞ」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい7ごう、1994ねん3がつ
  • 上杉うえすぎしょう大杉おおすぎさかえ」、田中たなかひろしへん近代きんだい日本にっぽんのジャーナリスト』、御茶おちゃみず書房しょぼう、1987ねん2がつ
  • 梅森うめもり直之なおゆき規律きりつ反抗はんこう日々ひび大杉おおすぎさかえ名古屋なごや幼年ようねん学校がっこうはちさんにち」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい9ごう、1996ねん9がつ
  • 梅森うめもり直之なおゆきあてじんなき民主みんしゅ主義しゅぎ大杉おおすぎさかえにおける「生命せいめい」と「主体しゅたい」」、飯島いいじまのぼるぞうへんりょう大戦たいせんあいだ政治せいじ思想しそう』、しん評論ひょうろん、1998ねん3がつISBN 4-7948-0397-4
  • 梅森うめもり直之なおゆき芸術げいじゅつとしての労働ろうどう運動うんどう大杉おおすぎさかえにおける「歴史れきし」の問題もんだい」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 大沢おおさわ正道せいどう大杉おおすぎさかえ研究けんきゅう』、どうなりしゃ、1968ねん7がつ法政大学ほうせいだいがく出版しゅっぱんきょくより1971ねん7がつどう標題ひょうだい新版しんぱん発行はっこう)。
  • 大澤おおさわ正道せいどう大杉おおすぎさかえ研究けんきゅう拾遺しゅうい」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 大澤おおさわ正道せいどうへん大杉おおすぎさかえ年譜ねんぷ」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 大杉おおすぎゆたか大杉おおすぎさかえおや弟妹ていまいとのきずな」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 大杉おおすぎゆたかにちろく大杉おおすぎさかえでん』、2010ねん9がつ
  • 太田おおた雅夫まさお大杉おおすぎさかえ自筆じひつ原稿げんこう落書らくがき-「死灰しかいなかから」の原稿げんこう中心ちゅうしんに」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 大和田おおわだしげる大杉おおすぎさかえ叛逆はんぎゃく精神せいしんとメディア戦略せんりゃく」、『國文學こくぶんがく 解釈かいしゃく教材きょうざい研究けんきゅうだい47かんだい9ごう臨時りんじごう、2002ねん7がつ
  • 岡崎おかざき正道せいどう大杉おおすぎさかえ国家こっか社会しゃかい秩序ちつじょ」への挑戦ちょうせん」、岡崎おかざき正道せいどう異端いたん反逆はんぎゃく思想しそう近代きんだい日本にっぽんにおける革命かくめい維新いしん」、ぺりかんしゃ、1999ねん1がつ
  • 荻野おぎの正博まさひろ自由じゆうそら大杉おおすぎさかえ明治めいじ新発田しばた』、新潟にいがた日報にっぽう事業じぎょうしゃ出版しゅっぱん、1988ねん9がつ
  • 川上かわかみあきらただし大杉おおすぎさかえのみた中国ちゅうごく」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 近藤こんどう真柄まがらほか『きゅうがつつきたちばな宗一そういち少年しょうねん墓碑ぼひ保存ほぞん運動うんどうじゅうねん』、たちばな宗一そういち少年しょうねん墓碑ぼひ保存ほぞんかい、1985ねん9がつ
  • 後藤ごとうあきらしんじ大杉おおすぎさかえ佐々木ささきぜんとの交友こうゆう平民へいみんしゃ参加さんかころ」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい16ごう特集とくしゅう平民へいみんしゃひゃくねん)、2003ねん11月。
  • 竹中たけなかろう貝原かいばらひろしイラスト)『大杉おおすぎさかえ』(『For Beginners』イラストばんオリジナル)、現代書館げんだいしょかん、1985ねん5がつ
  • 竹中たけなかろうだんかげ 大杉おおすぎさかえ』(『ちくま文庫ぶんこ』)、筑摩書房ちくましょぼう、2000ねん3がつ
  • 西山にしやまたく大杉おおすぎさかえの「あたらしきむら批評ひひょう-アナキズムと共同きょうどうたい主義しゅぎ接点せってん」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 矢崎やさき雅也まさや大杉おおすぎさかえ個人こじん主義しゅぎとその自我じが思想しそう」、明治大学めいじだいがく大学院だいがくいん政治せいじがく研究けんきゅう論集ろんしゅうだい16ごう、2002ねん9がつ
  • 矢崎やさき雅也まさや大杉おおすぎさかえ思想しそう形成けいせいと「個人こじん主義しゅぎ」』、あずましんどう、2005ねん9がつISBN 4-88713-629-3
  • 堀切ほりきりとしだか解説かいせつ大杉おおすぎさかえほか死因しいん鑑定かんていしょ」、『大正たいしょう労働ろうどう文学ぶんがく研究けんきゅう創刊そうかんごう、1978ねん10がつ
  • 堀切ほりきりとしだか解題かいだいほり保子やすこ伊藤いとう野枝のえ神近かみちか市子いちこ資料しりょう」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 松本まつもと伸夫のぶお日本にっぽんてき風土ふうどをはみだしたおとこ-パリの大杉おおすぎさかえ』、雄山閣ゆうざんかく出版しゅっぱん、1995ねん4がつ
  • 宮本みやもと正男まさお大杉おおすぎさかえとエスペラント運動うんどう』、黒色こくしょく戦線せんせんしゃ、1988ねん
  • 村田むらた裕和ひろかず「「近代きんだい思想しそう」における大杉おおすぎさかえ批評ひひょう実践じっせんせいについて」、『たていのちかん文学ぶんがくだい581ごう、2003ねん9がつ
  • 望月もちづき明美あけみ大正たいしょう千駄木せんだぎ大杉おおすぎ」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 山泉やましみずすすむ大杉おおすぎさかえ、コミンテルンに遭遇そうぐうす-(づけ増林ましばやし聴取ちょうしゅしょ松本まつもと愛敬あいきょう関係かんけい資料しりょう」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 山泉やましみずすすむへん大杉おおすぎさかえちょ書目しょもくろく稿こう)」、『初期しょき社会しゃかい主義しゅぎ研究けんきゅうだい15ごう特集とくしゅう大杉おおすぎさかえ)、2002ねん12月。
  • 米沢よねざわ幸三こうぞう大杉おおすぎさかえのユートピア思想しそう」、『無政府むせいふ主義しゅぎ研究けんきゅうだい8ごう、1977ねん12月。
  • Herbert Worm, Studien uber den jungen Osugi Sakae und die Meiji-Sozialisten zwischen Sozialdemokratie und Anarchismus unter besonderer Berucksichtigung der Anarchismusrezeption, Hamburg : Gesellschaft fur Natur- und Volkerkunde Ostasiens, 1981.

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう