(Translated by https://www.hiragana.jp/)
後藤新平 - Wikipedia

後藤ごとう新平しんぺい

日本にっぽん政治せいじ

後藤ごとう 新平しんぺい(ごとう しんぺい、きゅう字体じたい後藤ごとう󠄁 新平しんぺい󠄁1857ねん7がつ24にち安政あんせい4ねん6月4にち〉- 1929ねん昭和しょうわ4ねん4がつ13にち)は、日本にっぽん医師いし官僚かんりょう政治せいじ位階いかい勲等くんとう爵位しゃくいせい勲一等くんいっとう伯爵はくしゃく

後藤ごとうごとう 新平しんぺいしんぺい
後藤ごとう󠄁 新平しんぺい󠄁
生年月日せいねんがっぴ 1857ねん7がつ24にち
安政あんせい4ねん6月4にち
出生しゅっしょう 陸奥みちのくこく胆沢いさわぐん鹽竈しおがまむら
げん岩手いわてけん奥州おうしゅう水沢みずさわ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1929-04-13) 1929ねん4がつ13にち(71さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん京都きょうと
出身しゅっしんこう 須賀川すかがわ学校がっこう
げん福島県立医科大学ふくしまけんりついかだいがく
称号しょうごう せい
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
伯爵はくしゃく
配偶はいぐうしゃ 後藤ごとう和子かずこ
親族しんぞく 鶴見つるみ祐輔ゆうすけむすめ婿むこ
椎名しいな悦三郎えつさぶろうおい

日本の旗 だい18・20だい逓信ていしん大臣だいじん
内閣ないかく だい2かつら内閣ないかく (18)
だい3かつら内閣ないかく (20)
在任ざいにん期間きかん 1908ねん7がつ14にち - 1911ねん8がつ30にち (18)
在任ざいにん期間きかん 1912ねん12月21にち - 1913ねん2がつ20日はつか (20)

日本の旗 だい30・34だい内務ないむ大臣だいじん
内閣ないかく 寺内てらうち内閣ないかく (30)
だい2山本やまもと内閣ないかく (34)
在任ざいにん期間きかん 1916ねん10月9にち - 1918ねん4がつ23にち (30)
在任ざいにん期間きかん 1923ねん9月2にち - 1924ねん1がつ7にち (34)

内閣ないかく 寺内てらうち内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1918ねん4がつ23にち - どう9月29にち

その職歴しょくれき
日本の旗 初代しょだい鉄道てつどういん総裁そうさい
(1908ねん12月5にち - 1911ねん8がつ30にち
テンプレートを表示ひょうじ

愛知あいち学校がっこうながけん病院びょういんちょう台湾たいわん総督そうとく民政みんせい長官ちょうかんみなみまんしゅう鉄道てつどうまんてつ初代しょだい総裁そうさい逓信ていしん大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん外務がいむ大臣だいじん東京とうきょうだい7だい市長しちょうボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい初代しょだい総長そうちょう東京とうきょう放送ほうそうきょく(のちの日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい初代しょだい総裁そうさい拓殖大学たくしょくだいがくだい3だい学長がくちょう歴任れきにんした。

計画けいかく規模きぼおおきさから「だい風呂敷ふろしき」とあだされた、植民しょくみん経営けいえいしゃであり、都市とし計画けいかくである。台湾たいわん総督そうとく府民ふみんせい長官ちょうかんまんてつ総裁そうさい歴任れきにんし、日本にっぽん南方なんぽう大陸たいりく進出しんしゅつささえ、鉄道てつどういん総裁そうさいとして国内こくない鉄道てつどう整備せいびした。関東大震災かんとうだいしんさいのち内務ないむ大臣だいじんけん帝都ていと復興ふっこういん総裁そうさいとして東京とうきょう帝都ていと復興ふっこう計画けいかく立案りつあん推進すいしんにも従事じゅうじした[1]

生涯しょうがい

編集へんしゅう

ち・医師いし時代じだい

編集へんしゅう

仙台せんだいはん水沢すいたくじょうしたに、仙台せんだいはん一門いちもん留守るす家臣かしん後藤ごとうみのるたかし利恵りえ長男ちょうなんとしてまれる[2]江戸えど時代じだい後期こうき蘭学らんがくしゃ高野たかの長英ちょうえい本家ほんけすじ後藤ごとう出身しゅっしん遠縁とおえんたる。今日きょうでは高野たかの長英ちょうえい後藤ごとう新平しんぺい斎藤さいとうみのるして「水沢すいたくさん偉人いじん」としょうするが、新平にっぺい幼少ようしょうごした江戸えど時代じだい末期まっきには、高野たかの長英ちょうえいとのつながりから「謀反むほんじん」として、新平しんぺいはいじめられる幼少ようしょうおくった[3]

新平にっぺい家系かけい詳細しょうさいについては後藤ごとう新平しんぺい項目こうもく参照さんしょうのこと。

1867ねん、11さい留守るすくにやすしおく小姓こしょうとなる[4]

廃藩置県はいはんちけん胆沢いさわけんだい参事さんじであった安場やすばたもつみとめられ、海軍かいぐん大将たいしょう斎藤さいとうみのるとともに13さい書生しょせいとしててられ、県庁けんちょう勤務きんむした。15さい上京じょうきょうし、東京とうきょう太政官だじょうかんしょうしょうむら省三しょうぞうした門番もんばんけん雑用ざつようやくになる。安場やすば岩倉いわくら使節しせつだん随行ずいこう福島ふくしま県令けんれいとなり、そのえんで16さい福島ふくしまひろし学校がっこうはいった。

後藤ごとう本人ほんにん最初さいしょから政治せいじこころざしていたとされるが、恩師おんし安場やすば岡田おかだ阿川あがわひかりひろしすすめもあって、17さい須賀川すかがわ学校がっこう入学にゅうがく同校どうこうでは成績せいせき優秀ゆうしゅうで、卒業そつぎょう山形やまがたけん鶴岡つるおか病院びょういん勤務きんむまっていたが、安場やすば愛知あいちけんれいつとめることになり、それについていくことにして愛知あいちけん学校がっこうげん名古屋大学なごやだいがく医学部いがくぶ)の医者いしゃとなる。ここでかれ目覚めざましく昇進しょうしんして24さい学校がっこうちょうけん病院びょういんちょうとなり、病院びょういんかかわる事務じむたっている。またこのあいだ明治めいじ15ねん1882ねん4がつ6にち岐阜ぎふ神道しんとうちゅうきょういん開催かいさいされた板垣いたがき退助たいすけ政論せいろん演説えんぜつかいで、板垣いたがき暴漢ぼうかんされ負傷ふしょうする事件じけん発生はっせい後藤ごとう板垣いたがき退助たいすけ診察しんさつしている。このさい後藤ごとうは「かく本懐ほんかいでございましょう」とったという。後藤ごとう診察しんさつけたのち板垣いたがきは「かれ政治せいじにできないのが残念ざんねんだ」とくちにしたという。またこの時期じき安場やすば次女じじょ和子わこつまにもらう。

明治めいじ14ねん(1881ねん)、愛知あいちけん千鳥ヶ浜ちどりがはま海水浴かいすいよくじょうひらかれ、これは後藤ごとう指導しどうによるとつたえられている。この前年ぜんねん開設かいせつされた日本にっぽん最古さいこ医療いりょう目的もくてき海水浴かいすいよく施設しせつすな海岸かいがん岡山おかやまけん倉敷くらしき)にぎ、おなねん開設かいせつされた富岡とみおか海岸かいがん横浜よこはま金沢かなざわ)、兵庫ひょうごけん須磨すま海岸かいがんならぶもので、医療いりょうとしての海水浴かいすいよく先見せんけんあかりっていた。

医師いしとしてたか評価ひょうかける一方いっぽうで、先進せんしんてき機関きかん西洋せいよう医学いがく本格ほんかくてきまなべないまま医者いしゃとなったことに、つよ劣等れっとうかんいていたともつたわっている。

明治めいじ15ねん1882ねん)2がつ愛知あいちけん学校がっこうでの実績じっせき才能さいのう見出みいだされ、軍医ぐんい石黒いしぐろ忠悳ただのりみとめられて内務省ないむしょう衛生局えいせいきょくはいり、医者いしゃとしてよりも官僚かんりょうとして病院びょういん衛生えいせいかんする行政ぎょうせい従事じゅうじすることとなった。

明治めいじ23ねん1890ねん)、ドイツ留学りゅうがく西洋せいよう文明ぶんめいすぐれた部分ぶぶんつよみとめる一方いっぽう同時どうじにコンプレックスをいだくことになったという。帰国きこく留学りゅうがくちゅう研究けんきゅう成果せいかみとめられて医学いがく博士はかせごうあたえられ、明治めいじ25ねん1892ねん)12月には長與ながよ專齋せんさい推薦すいせん内務省ないむしょう衛生えいせい局長きょくちょう就任しゅうにんした。

明治めいじ26ねん1893ねん)、相馬そうま事件じけん連座れんざして5ヶ月かげつあいだにわたって収監しゅうかんされた。最終さいしゅうてきには無罪むざいとなったものの衛生えいせい局長きょくちょう非職ひしょくとなり失脚しっきゃくし、長與ながよ專齋せんさいにも見捨みすてられる破目われめとなった。

生物せいぶつがく原則げんそく」にのっとった台湾たいわん統治とうち

編集へんしゅう

内務省ないむしょう衛生えいせい局員きょくいん時代じだいきょく次長じちょうとして上司じょうしだった陸軍りくぐんしょう医務いむ局長きょくちょうけん大本営だいほんえい野戦やせん衛生えいせい長官ちょうかん石黒いしぐろ忠悳ただのりが、陸軍りくぐん次官じかんけん軍務ぐんむ局長きょくちょう児玉こだま源太郎げんたろう後藤ごとう推薦すいせんしたことによって、明治めいじ28ねん1895ねん)4がつ1にちにちしん戦争せんそう帰還きかんへいたいする検疫けんえき業務ぎょうむおこな臨時りんじ陸軍りくぐん検疫けんえき事務じむかんちょうとして官界かんかい復帰ふっきし、広島ひろしま宇品うじなこう似島にのしま似島にのしま検疫けんえきしょ)で検疫けんえき業務ぎょうむ従事じゅうじして、その行政ぎょうせい手腕しゅわんたくみさから、臨時りんじ陸軍りくぐん検疫けんえき部長ぶちょうとして上司じょうしだった児玉こだまにとまる。

明治めいじ31ねん1898ねん)3がつ、その児玉こだま台湾たいわん総督そうとくとなると後藤ごとう抜擢ばってきし、みずからの補佐ほさやくである民政みんせい局長きょくちょう(1898ねん6がつ20日はつか民政みんせい長官ちょうかん)とした。そこで後藤ごとうは、徹底てっていした調査ちょうさ事業じぎょうおこなって現地げんち状況じょうきょう知悉ちしつしたうえ経済けいざい改革かいかくインフラ建設けんせつ強引ごういんすすめた。こういった手法しゅほう後藤ごとうみずから「生物せいぶつがく原則げんそく」にのっとったものであると説明せつめいしている(比喩ひゆで「ヒラメタイにすることは出来できない」とかたっている)。それは「社会しゃかい習慣しゅうかん制度せいどは、生物せいぶつ同様どうよう相応そうおう理由りゆう必要ひつようせいから発生はっせいしたものであり、無理むり変更へんこうすれば当然とうぜんおおきな反発はんぱつまねく。よって現地げんち知悉ちしつし、状況じょうきょうわせた施政しせいをおこなっていくべきである」という思想しそうだった。

台湾たいわん調査ちょうさ事業じぎょう

編集へんしゅう

まず台湾たいわんにおける調査ちょうさ事業じぎょうとして臨時りんじ台湾たいわん旧慣きゅうかん調査ちょうさかい発足ほっそくさせ、京都きょうと帝国ていこく大学だいがく教授きょうじゅ民法みんぽう学者がくしゃ岡松おかまつまいり太郎たろう招聘しょうへいし、みずからはどうかい会長かいちょう就任しゅうにんした。またおなじく京都きょうとみかどだい教授きょうじゅ行政ぎょうせい法学ほうがくしゃ織田おだよろずをリーダーとして、当時とうじまだ研究けんきゅうせいであった中国ちゅうごく哲学てつがく研究けんきゅうしゃ狩野かの直喜なおき中国ちゅうごく加藤かとうしげるなどをくわえて、清朝せいちょうほう制度せいど研究けんきゅうをさせた。これらの研究けんきゅう成果せいかが『清国きよくに行政ぎょうせいほう』であり、その網羅もうらてき研究けんきゅう内容ないよう近世きんせい近代きんだい中国ちゅうごく研究けんきゅうかせない資料しりょうとなっている。

人材じんざい招聘しょうへい

編集へんしゅう

開発かいはつ同時どうじ人材じんざい招聘しょうへいにもちからそそいだ。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから新渡戸にとべ稲造いなぞうまねいたさいには、病弱びょうじゃく理由りゆうことわ新渡戸にとべ執務しつむしつにベッドをむことなどの特別とくべつ条件じょうけん提示ていじして結局けっきょく承諾しょうだくさせている。スカウトされた新渡戸にとべは、殖産しょくさんきょくちょう心得こころえ臨時りんじ台湾たいわんとうつとむ局長きょくちょうとして台湾たいわんでのサトウキビサツマイモ普及ふきゅう改良かいりょうおおきな成果せいかのこしている。また、生涯しょうがい腹心ふくしんとなった中村なかむらただしおおやけ出会であったのも台湾たいわん総督そうとく時代じだいだった。また、欧州おうしゅう留学りゅうがくちゅうった林学りんがくしゃ河合かわい鈰太ろう招聘しょうへい[5][6]河合かわいおもね里山さとやま森林しんりん資源しげん調査ちょうさ、ひいてはおもね里山さとやま森林しんりん鉄路てつろ開通かいつう多大ただい成果せいかをもたらしている。衛生局えいせいきょく時代じだいった医学いがくしゃ高木たかぎ友枝ともえは、台湾たいわんでのペストやマラリア撲滅ぼくめつ実現じつげんするために後藤ごとう招聘しょうへい台湾たいわん総督そうとく学校がっこう校長こうちょうおよび設立せつりつした総督そうとく研究所けんきゅうじょ所長しょちょうえた[7]

阿片あへんややきんさく

編集へんしゅう

当時とうじ中国ちゅうごく本土ほんど同様どうよう台湾たいわんでも阿片あへん吸引きゅういん庶民しょみんあいだ蔓延まんえんしており、これがおおきな社会しゃかい問題もんだいとなっていた。また、「日本人にっぽんじん阿片あへん禁止きんししようとしている」という危機ききかん抗日こうにち運動うんどうがねのひとつともなっていった。これにたい後藤ごとうは、阿片あへん性急せいきゅう禁止きんしする方法ほうほうらなかった。

後藤ごとうはまず、阿片あへん高率こうりつぜいをかけて購入こうにゅうしにくくさせるとともに吸引きゅういん免許めんきょせいとして次第しだい常習じょうしゅうしゃらしていく方法ほうほう採用さいようした。この方法ほうほう成功せいこうし、阿片あへん常習じょうしゅうしゃ徐々じょじょ減少げんしょうした。総督そうとく統計とうけいによると、明治めいじ33ねん(1900ねん)には16まん9せんにんいた阿片あへん常習じょうしゅうしゃ大正たいしょう6ねん(1917ねん)には6まん2せんにん昭和しょうわ3ねん(1928ねん)には2まん6せんにんにまで減少げんしょうしている。こののち総督そうとくでは昭和しょうわ20ねん(1945ねん)に阿片あへん吸引きゅういん免許めんきょ発行はっこう全面ぜんめん停止ていし施策しさく導入どうにゅうから50ねんちかくをかけて台湾たいわんでは阿片あへん根絶こんぜつ達成たっせいされた。

しかし後藤ごとう阿片あへん政策せいさくには、後藤ごとう自身じしんが、杉山すぎやましげるまるらをパートナーとして阿片あへん利権りけんうら社会しゃかいとのかかわりをふかめていったという見方みかた存在そんざいする。さらに後藤ごとうはまた、台湾たいわん総督そうとく阿片あへん専売せんばい収入しゅうにゅう増加ぞうかはかるために、阿片あへん吸食しゃ阿片あへんけむりあぶらモルヒネ含有がんゆうりょう極秘ごくひうららして、よりたか阿片あへんけむりあぶらけることをおこない、その秘密ひみつまもとおすため、総督そうとく専売せんばいきょくが、後藤ごとう癒着ゆちゃくしたほし製薬せいやく創立そうりつしゃほしいち後藤ごとう盟友めいゆうである杉山すぎやましげるまる書生しょせい出身しゅっしん以外いがい製薬せいやく業者ぎょうしゃによる粗製そせいモルヒネの分割ぶんかつはら運動うんどう強硬きょうこうこばんだことから、ほし製薬せいやくをめぐる疑獄ぎごく事件じけんである台湾たいわん阿片あへん事件じけん発生はっせいしたことがあきらかにされている[8]

まんてつ総裁そうさい

編集へんしゅう

明治めいじ39ねん1906ねん)、みなみまんしゅう鉄道てつどう初代しょだい総裁そうさい就任しゅうにんし、大連たいれん拠点きょてんまんしゅう経営けいえい活躍かつやくした。ここでも後藤ごとう中村なかむらただしおおやけ岡松おかまつまいり太郎たろう台湾たいわん時代じだい人材じんざいおお起用きようするとともに30だい、40だい若手わかて優秀ゆうしゅう人材じんざい招聘しょうへいし、まんてつのインフラ整備せいび衛生えいせい施設しせつ拡充かくじゅう大連たいれんなどの都市とし建設けんせつたった。またまんしゅうでも「生物せいぶつがくてき開発かいはつ」のために調査ちょうさ事業じぎょう不可欠ふかけつかんがえ、まんてつ調査ちょうさ発足ほっそくさせている。

当時とうじ清朝せいちょう官僚かんりょうなかまんしゅうおおきな関心かんしんっていたのは袁世凱中心ちゅうしんとする北洋ほくよう軍閥ぐんばつであり、明治めいじ40ねん1907ねん)4がつひがしさんしょうけんおけたっては、かれ腹心ふくしんである人物じんぶつおお要職ようしょく配置はいちされた。かれらは日本にっぽんまんしゅうにおける権益けんえき独占どくせんこのまず、さかんにアメリカをもうとし、その経済けいざいりょくを以ってまんてつ並行へいこうする路線ろせん建設けんせつしようとした。これは大連たいれん中心ちゅうしんまんてつ経営けいえいすすめていた日本にっぽんにとっておおきな脅威きょういであった。

そこで後藤ごとうは袁に直接ちょくせつ書簡しょかんおくってこれが条約じょうやく違反いはんであることを主張しゅちょうし、この計画けいかく頓挫とんざさせた。ただしまんてつへの連絡れんらくせん建設けんせつ援助えんじょ清国きよくにじんまんてつ株式かぶしき所有しょゆう重役じゅうやく就任しゅうにんなどを承認しょうにんし、反日はんにち勢力せいりょく懐柔かいじゅうはかろうとしている。またにち戦争せんそうこうきたまんしゅう勢力せいりょくいま確保かくほしていたロシア帝国ていこくとの関係かんけい修復しゅうふくにも尽力じんりょくし、まんてつのレールをロシアから輸入ゆにゅうしたり、伊藤いとう博文ひろぶみとロシアがわ要路ようろしゃとの会談かいだん企図きとしたりしている(ただしこの会談かいだん伊藤いとうハルビン暗殺あんさつされたため実現じつげんしなかった)。

当時とうじ日本にっぽん政府せいふではまんしゅうにおける日本にっぽん優先ゆうせんてき権益けんえき確保かくほとなえるこえ主流しゅりゅうであったが、後藤ごとうはむしろにちしんさんこく協調きょうちょうしてたがいに利益りえき方法ほうほうかんがえていたのである。

拓殖大学たくしょくだいがく学長がくちょう

編集へんしゅう
 
拓殖大学たくしょくだいがく昭和しょうわ4ねん卒業そつぎょう写真しゃしん中央ちゅうおう後藤ごとう新平しんぺい学長がくちょうひだりとなり永田ながた秀次郎ひでじろう次期じき学長がくちょう
 
後藤ごとう新平しんぺい

大正たいしょう8ねん1919ねん)、拓殖大学たくしょくだいがく前身ぜんしんかつら太郎たろう創立そうりつした台湾たいわん協会きょうかい学校がっこう学長がくちょう就任しゅうにん在職ざいしょく大正たいしょう8ねん(1919ねん2がつ24にち[9]-昭和しょうわ4ねん1929ねん4がつ13にち)。拓殖大学たくしょくだいがくとの関係かんけい台湾たいわん総督そうとく府民ふみんせい長官ちょうかん時代じだい設立せつりつあいだもない「台湾たいわん協会きょうかい学校がっこう」の理解りかいしゃとしてたびたび入学にゅうがくしき卒業そつぎょうしき講演こうえんして物心ぶっしん両面りょうめんにおいて支援しえんしていたが[10]大正たいしょう8ねん(1919ねん)よりだい3だい学長がくちょうとして直接ちょくせつ拓殖大学たくしょくだいがく経営けいえいたずさわることとなった。そして当時とうじ公布こうふされた大学だいがくれいもとづく「大学だいがく旧制きゅうせい大学だいがく)」に昇格しょうかくすべく各般かくはん整備せいびりかかり、大正たいしょう11ねん1922ねん)6がつ5にち大学だいがく昇格しょうかくげるなど[11]くなる昭和しょうわ4ねん(1929ねん)4がつまで学長がくちょうとして拓殖大学たくしょくだいがくいしずえきずいた。 学内がくないでの様子ようす当時とうじ記録きろくとして「はく学生がくせいたいしては慈愛じあいちた態度たいどもっせっせられ(中略ちゅうりゃく)、学生がくせいしたしむべき学長がくちょう先生せんせいとして、慈父じふたいするやうな心安こころやすさをかんじてゐた」と当時とうじ記録きろくにあるように[12]学生がくせいたちしんからしたわれていた。大正たいしょう9ねん1920ねん)5がつ12にちには、早稲田大学わせだだいがくがい講師こうしとして「国大こくだい学生がくせい覚悟かくご」とだいする講義こうぎおこなっている[13]当時とうじ邸宅ていたくは、水道橋すいどうばしえきから後楽園こうらくえん方面ほうめんりて秋葉原あきはばら方向ほうこう坂道さかみちのぼ途中とちゅうにある、昭和しょうわだいいち高校こうこうまえ公園こうえんであった。

関東大震災かんとうだいしんさい世界せかい最大さいだい規模きぼ帝都ていと復興ふっこう計画けいかく

編集へんしゅう

だい2かつら内閣ないかく逓信ていしん大臣だいじん初代しょだい鉄道てつどういん総裁そうさい在職ざいしょく明治めいじ41ねん(1908ねん)7がつ14にち - 明治めいじ44ねん(1911ねん8がつ30にち)、寺内てらうち内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん在職ざいしょく大正たいしょう5ねん(1916ねん)10がつ9にち - 大正たいしょう7ねん(1918ねん)4がつ23にち)・外務がいむ大臣だいじん大正たいしょう7ねん(1918ねん)4がつ23にち - 9月28にち)、しばし国政こくせいからはなれて東京とうきょう市長しちょう大正たいしょう9ねん(1920ねん)12月17にち - 大正たいしょう12ねん(1923ねん)4がつ20日はつか)、だい2山本やまもと内閣ないかくふたた内務ないむ大臣だいじん大正たいしょう12ねん(1923ねん)9がつ2にち - 大正たいしょう13ねん(1924ねん)1がつ7にちとう歴任れきにんした。

鉄道てつどういん総裁そうさい時代じだいには、職員しょくいん人事じんじ大幅おおはば刷新さっしんおこなった。これにたいしては内外ないがいから批判ひはんつよく「汽車きしゃがゴトゴト(後藤ごとう)してシンペイ(新平しんぺい)でたまらない」と揶揄やゆされた。

組閣そかく最中さいちゅう関東大震災かんとうだいしんさい洗礼せんれいけただい2山本やまもと内閣ないかくでは、後藤ごとう内務ないむ大臣だいじんけん帝都ていと復興ふっこういん総裁そうさいとしてすみやかに震災しんさい復興ふっこう計画けいかく立案りつあんした。それはだい規模きぼ区画くかく整理せいり公園こうえん幹線かんせん道路どうろ整備せいびともなうもので、13おくえんという当時とうじ国家こっか予算よさんやく1ねんぶん巨額きょがく予算よさんのため、財界ざいかい政友せいゆうかいからのもう反対はんたいった。そのうえ後藤ごとうのお膝元ひざもとである帝都ていと復興ふっこういんも、積極せっきょくふく総裁そうさい松木まつきみき一郎いちろう建築けんちく局長きょくちょう佐野さの利器りきらと、消極しょうきょく拙速せっそく主義しゅぎ予算よさん削減さくげんしようとするふく総裁そうさい宮尾みやおしゅん計画けいかく局長きょくちょう池田いけだひろしらとにれ、総裁そうさいである後藤ごとうには両派りょうは対立たいりつ調停ちょうていするだけのちからがなかった[14]。さらに総理そうり諮詢しじゅんおうじて重要じゅうよう案件あんけん審議しんぎ最終さいしゅうてき政府せいふあん承認しょうにんした震災しんさい復興ふっこう審議しんぎかいでは、枢密院すうみついん大物おおものとして政官せいかんかいおおきな影響えいきょうりょく伊東いとう巳代治みよじ得意とくい憲法けんぽうろん復興ふっこういんあん反対はんたい急先鋒きゅうせんぽうとなり、11月24にち会合かいごうでは3あいだにわたって熱弁ねつべんふる原案げんあん糾弾きゅうだん結局けっきょくこれで審議しんぎかい大勢おおぜい原案げんあん大幅おおはば削減さくげんかたむいてしまった。結局けっきょく議会ぎかい承認しょうにんした予算よさんは5おく7500まんえんぎず、当初とうしょ計画けいかく縮小しゅくしょうせざるをなくなった。それでも現在げんざい東京とうきょう都市とし骨格こっかく公園こうえん公共こうきょう施設しせつ整備せいび骨格こっかくは、いまなおこの復興ふっこう計画けいかくうところがおおきい。震災しんさい復興ふっこう計画けいかく方法ほうほうについて、後藤ごとうは19世紀せいき中葉ちゅうようフランスだい帝政ていせいしたセーヌけん知事ちじだったジョルジュ・オスマンおこなった「パリ改造かいぞう」を参考さんこうに、土地とち地権ちけんしゃから大胆だいたん収用しゅうようする手法しゅほうろうとした。しかし日本にっぽん土地とちたいする絶対ぜったいてき私有しゆう感覚かんかくきわめてつよく、財産ざいさんけん内在ないざいてき外在がいざいてき制約せいやく大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい27じょう2こう日本国にっぽんこく憲法けんぽうだい29じょう2こう3こう)にたいする理解りかいあさかったため、地主じぬし地権ちけんしゃはげしい抵抗ていこうけることとなった。

道路どうろ建設けんせつたっては、東京とうきょうから放射状ほうしゃじょうびる道路どうろ環状かんじょう道路どうろ双方そうほう必要ひつようせいつよ主張しゅちょうし、計画けいかく縮小しゅくしょうされながらも実際じっさい建設けんせつされた。南北なんぼくじくとしての昭和しょうわどお東西とうざいじくとしての靖国やすくにどお当初とうしょ名称めいしょうは「大正たいしょうどおり」)、環状かんじょうせん基本きほんとなる明治めいじどお環状かんじょう5号線ごうせん)など、一定いってい街路がいろは、がりなりにも実際じっさい建設けんせつおこなわれている。当初とうしょあんでは、主要しゅよう街路がいろ幅員ふくいんひろ歩道ほどうふくめ70mから90m、中央ちゅうおうまたは車道しゃどう歩道ほどうあいだ緑地りょくちたいつというだい規模きぼ構想こうそうで、自動車じどうしゃ普及ふきゅうする以前いぜん時代じだいではその意義いぎ理解りかいされにくかった。

今日きょうでは行幸ぎょうこうどおなどにそれにちかかたち建設けんせつされた姿すがたることができる。現在げんざい東京とうきょう幹線かんせん道路どうろもうおおきな部分ぶぶん後藤ごとうっているとってよく、とく下町したまち地区ちくでは帝都ていと復興ふっこう事業じぎょう以降いこうあらたに街路がいろ新設しんせつおこなわれておらず、帝都ていと復興ふっこう遺産いさん現在げんざいインフラとしてそのまま利用りようされている。また、昭和しょうわどおりの地下ちかぞうせんさいし、拡幅かくふく退きをともなわず工事こうじ実施じっしでき、その先見せんけんせいあらためて評価ひょうかされた事例じれいもある。昭和しょうわどおりは、高速こうそく道路どうろ立体りったい交差こうさにより昭和しょうわ40年代ねんだい以降いこうおおきく姿すがたえたが[15]巨大きょだい設計せっけいしたことがこうそう現在げんざい大動脈だいどうみゃくとしての役割やくわりたしている。

後藤ごとう地方ちほう自治じちのプロとして、小学校しょうがっこう地域ちいき中核ちゅうかくとする地域ちいきコミュニティの再編さいへんすすめた。一方いっぽうで、後藤ごとう帝都ていと復興ふっこう計画けいかく模範もはんとしたパリだい改造かいぞうは、為政者いせいしゃにとって厄介やっかいなものだったフランス革命かくめい以来いらいのパリの地域ちいきコミュニティを破壊はかいすることをかくれた目的もくてきとしていたため、不可避ふかひてき付随ふずいして、旧来きゅうらい地域ちいきコミュニティの結束けっそくてんをかなりの部分ぶぶん破壊はかいしてしまったという問題もんだい指摘してきするものもいる。

ソ連それん外交がいこうとその

編集へんしゅう

後藤ごとうまんてつ時代じだいかかわったロシア帝国ていこくだいいち世界せかい大戦たいせん後期こうきロシア革命かくめい崩壊ほうかいし、社会しゃかい主義しゅぎ共産きょうさん主義しゅぎかかげるソビエト連邦れんぽうソ連それん)が成立せいりつした。後藤ごとう東京とうきょう市長しちょうだった大正たいしょう12ねん1923ねん)、国民こくみん外交がいこう旗手きしゅとして、ソ連それん外交がいこうかんアドリフ・ヨッフェ伊豆いず熱海あたみ会談かいだんし、ソ連それんとの国交こっこう正常せいじょう契機けいきつくった。ヨッフェは、当時とうじモスクワ滞在たいざいしていたアメリカ共産党きょうさんとういん片山かたやません推薦すいせんけて派遣はけんされた。黎明会れいめいかい組織そしきした内藤ないとう民治たみじ田口たぐち運蔵うんぞうひとし社会しゃかい主義しゅぎしゃだけでなく、右翼うよく団体だんたいくろりゅうかい」の内田うちだ良平りょうへいも、中華民国ちゅうかみんこく北京ぺきんにいるヨッフェに使者ししゃおくって仲立なかだちにあたった。一部いちぶから後藤ごとうは「あか男爵だんしゃく」といわれたが、あくまで日本にっぽんとロシアの国民こくみん友好ゆうこうとなえ、共産きょうさん主義しゅぎというイデオロギーたんなるロシア主義しゅぎとしておそれず、むしろソビエト・ロシアの体制たいせい軟化なんかさせるために、にち関係かんけい正常せいじょうされること展望てんぼうしていた。

大正たいしょう13ねん1924ねん)、社団しゃだん法人ほうじん東京放送とうきょうほうそうきょく設立せつりつされ、初代しょだい総裁そうさいとなる。試験しけん放送ほうそうよく大正たいしょう14ねん1925ねん3月22にち日本にっぽんはじめてのラジオかり放送ほうそう開始かいし総裁そうさいとして初日しょにち挨拶あいさつおこなった[16]大正たいしょう15ねん1926ねん)、東京とうきょう放送ほうそうきょく大阪おおさか放送ほうそうきょく名古屋なごや放送ほうそうきょく合併がっぺいし、社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい発展はってんてき解消かいしょうする)。

 
後藤ごとう新平しんぺいはか青山あおやま霊園れいえん

昭和しょうわ3ねん(1928ねん)、後藤ごとうソ連それん訪問ほうもんしてスターリン会見かいけん国賓こくひん待遇たいぐうける。少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめい会長かいちょうとして渡航とこう。そのさい少年しょうねんたち1にんが1つぶおくったべいによるにぎめしきながら渡航とこうしたという。当時とうじ情勢じょうせいてきにちちゅう結合けつごう関係かんけい重要じゅうようせい新旧しんきゅう大陸たいりく対峙たいじろん)は後藤ごとう暗殺あんさつ直前ちょくぜん伊藤いとう博文ひろぶみにもあつかたった信念しんねんであり、田中たなか義一ぎいち内閣ないかくひらけつとむしょう設置せっち構想こうそう背後はいご構想こうそうしたまんしゅう委任いにん統治とうち構想こうそう、もしくはまんしゅうにおける緩衝かんしょうこくいえ設立せつりつ打診だしんせんとしたものとも指摘してきされるが、詳細しょうさいいまだに不明ふめいである。まんてつ総裁そうさい松岡まつおか洋右ようすけにち中立ちゅうりつ条約じょうやく締結ていけつほうソしたさい後藤ごとう新平しんぺい精神せいしんぐものは自分じぶんである」と、ソ連それんがわから盗聴とうちょうされていることをりつつわざと大声おおごえさけんだとされる。

なお、しばしば総理そうり大臣だいじん候補こうほとして名前なまえ沙汰ざたされながら結局けっきょく就任しゅうにんできなかった原因げんいんとして、だい3かつら内閣ないかく逓信ていしん大臣だいじん当時とうじだいいち憲政けんせい擁護ようご運動うんどうぜん首相しゅしょうにして政友せいゆうかい総裁そうさい西園寺さいおんじ公望きんもち失脚しっきゃく画策かくさくし、最後さいご元老げんろうとなった西園寺さいおんじきらわれていたことがおおきいと徳富とくとみ蘇峰そほうかたっている。

晩年ばんねん

編集へんしゅう

明治めいじ36ねん(1903ねん)11がつ20日はつか貴族きぞくいんみことのりせん議員ぎいんとなり[17]終生しゅうせい在籍ざいせきした。晩年ばんねん政治せいじ倫理りんり[18]とな各地かくち遊説ゆうぜいした。

昭和しょうわ4ねん(1929ねん)4がつ4にち午前ごぜん7ぎ、岡山おかやまひらかれる日本にっぽん性病せいびょう予防よぼう協会きょうかい総会そうかいかう途中とちゅう米原まいばらえき付近ふきん走行そうこうちゅうきゅう行列ぎょうれつ車内しゃないで、一等いっとう寝台しんだいのコンパートメントからがり窓際まどぎわようとしたところを、うしろによろめいた。くちからあわき、んでも意識いしきがなかった。後藤ごとうにとっては3度目どめとなる脳溢血のういっけつだった。たまたまおな列車れっしゃわせた財部たからべあやもと海軍かいぐん大臣だいじん)らがけ、つぎ大津おおつえきろすことも検討けんとうされたが、病院びょういん充実じゅうじつした京都きょうとえきかった。京都きょうとえきでは列車れっしゃめたまま、医学いがく博士はかせ松浦まつうら武雄たけおんで強心剤きょうしんざいすうかい注射ちゅうしゃするなど治療ちりょうたった。松浦まつうらはさらに、京都きょうと駅長えきちょう許可きょか列車れっしゃまどガラスをやぶって後藤ごとう身体しんたいをホームに用意よういした担架たんかかせてえき貴賓きひんしつうつしたが意識いしきもどらず、京都府立医科大学きょうとふりついかだいがく医院いいん入院にゅういんしたまま4がつ13にち死去しきょした[19]戒名かいみょう天真てんしんいん殿どのさちやま棲霞だい居士こじ[20]

三島みしまどおりの『スカウトじゅう』によれば、後藤ごとうたおれる三島みしまのこした言葉ことばは「よくけ、かねのこしてものしただ。仕事しごとのこしてものなかだ。ひとのこしてものうえだ。よくおぼえておけ」であったという。

平成へいせい31ねん(2019ねん)4がつ台湾たいわん台北たいぺいにある臨済護国ごこくぜんてらにあるデスマスク新平にっぺい本人ほんにんものであるとかった[21]。3つつくられたデスマスクのうちの1つで、新平にっぺい生前せいぜんしたしくしていた台湾たいわん実業じつぎょう辜顕さかえ献納けんのうしたものである。

栄典えいてん

編集へんしゅう
位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ
 
ボーイスカウト制服せいふく姿すがた後藤ごとう新平しんぺい
  • 内務ないむ大臣だいじん在任ざいにんちゅう度重たびかさなる雑誌ざっし発禁はっきん処分しょぶんによりきゅうした大杉おおすぎさかえ不意ふい訪問ほうもんける。「いま非常ひじょう生活せいかつこまっているんです。少々しょうしょう無心むしんいてもらえるでしょうか」と大杉おおすぎたいして後藤ごとうは「あなたはじつにいいあたまってそしていいうでっているというはなしですがね。どうしてそんなにこまるんです。」とこたえ、「政府せいふぼくらの職業しょくぎょう邪魔じゃまするからです。」「が、とくわたしのところへ無心むしんにきたわけは。」「政府せいふぼくらをこまらせるんだから、政府せいふ無心むしんにくるのは当然とうぜんだとおもったのです。そしてあなたならそんなはなしかろうとおもってきたんです。」「そうですか、かりました。」というようなやりとりののち、300えん大杉おおすぎ手渡てわたしている。大杉おおすぎによれば、伊藤いとう野枝のえ遠縁とおえんにあたる頭山とうやまみつるから紹介しょうかいされた杉山すぎやましげるまるに、たいはなしゃでの交渉こうしょう山口やまぐち孤剣こけん白柳しらやなぎ秀湖しゅうこれいげて「国家こっか社会しゃかい主義しゅぎぐらいのところになれ」と軟化なんかせまられ、すぐそのいえしたものの、杉山すぎやまくちから後藤ごとう新平しんぺい名前なまえ度々たびたびたことから後藤ごとうへの無心むしんおもいついたとかたっている(『大杉おおすぎさかえ自叙伝じじょでん』より)
  • 金権きんけん政治せいじ典型てんけいで、「黄金おうごん万能ばんのう主義しゅぎ権化ごんげ」といったかたち度々たびたび批判ひはんされた。問題もんだいにされがちだったのは台湾たいわん民政みんせい長官ちょうかん時代じだい樟脳しょうのう専売せんばい利権りけんむすびついた、「政商せいしょう」とわれた金子かねこ直吉なおきちひきいる鈴木すずき商店しょうてんとの関係かんけいであった[47]
  • 東京とうきょう市長しちょう時代じだい、3にん補佐ほさやく永田ながた秀次郎ひでじろう池田いけだひろし前田まえだ多門たもん)を「畳屋たたみや」としょうした。畳屋たたみや由来ゆらいは"たたみ"のきゅう字体じたいたたみ(3つの""のしたに"むべ"がある)をもじって、3にん補佐ほさやくがいずれも名前なまえなかに""のふくんでおり、「東京とうきょう市政しせいひさしいけまえの3にんまかせておけばむべ(よろ)しい」のである[48]ほかにも「サンタクロース」(「三田みた苦労くろうす」のもじり)という別名べつめいもある。
  • 軽井沢かるいざわでは、新渡戸にとべ稲造いなぞうとともに1918ねんに「軽井沢かるいざわ夏期かき大学だいがく」を開設かいせつ校舎こうしゃあめりか設計せっけい現存げんそんせず)、このもよおしは戦前せんぜん戦後せんご一時いちじ中断ちゅうだんはさみ、現在げんざいまで毎年まいとしつづけられている[49]。また、わかつつみ康次郎やすじろう沓掛くつかけげん中軽井沢なかかるいざわ周辺しゅうへん開拓かいたくすすめたのは後藤ごとうであり、このつつみ事業じぎょうはのちの西武せいぶグループ原点げんてんとなった。くわえてつつみには前述ぜんじゅつ東京とうきょうでの事業じぎょう同様どうよう軽井沢かるいざわ開発かいはつする道路どうろ幅員ふくいんひろ設計せっけいするよう助言じょげん、それは1925ねん開通かいつうした県道けんどう43号線ごうせん通称つうしょう「プリンスどおり」)で実現じつげんされている。
  • 日本にっぽんボーイスカウト活動かつどうふかかかわりをち、ボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい初代しょだい総長そうちょうつとめている。スカウト運動うんどう普及ふきゅうのためにみずから10まんえん大金たいきん日本にっぽん連盟れんめい寄付きふし、さらに全国ぜんこく巡回じゅんかい講演こうえんかい数多かずおお実施じっしした。ボーイスカウトのはんズボンの制服せいふく姿すがた写真しゃしん現在げんざいのこっている。制服せいふく姿すがた後藤ごとう集会しゅうかいあらわれると、かれしたうスカウトたちから「ぼくとうきな総長そうちょうは、しろいおひげ鼻眼鏡はなめがねだんふくつけてつえもって、いつも元気げんきでニコニコ」と歌声うたごえがったという。
  • 上記じょうき巡回じゅんかい一環いっかんで、おな水沢すいたく出身しゅっしん朝鮮ちょうせん総督そうとく斎藤さいとうみのるたずねたさい挨拶あいさつでは、「吾輩わがはいがかような子供こどもっぽい服装ふくそうをしてたのは偶然ぐうぜんではない。理由りゆうがある。いまこの会長かいちょうをやっているため普及ふきゅう宣伝せんでんということもあるが、朝鮮ちょうせんであろうが、内地ないちだろうがつねにこうである。そのわけはだい政治せいじは、しかつめらしいことばかりっていては、だめだ。稚気ちきがないといかんということを念頭ねんとうにおいているので、自分じぶんりっする意味いみにおいても、つねにこういう服装ふくそうをしているのだ。こどもにならんと本当ほんとうだい政治せいじにはなれんよ」とかたった[50]
  • 晩年ばんねんソビエト連邦れんぽうとの国交こっこう回復かいふく尽力じんりょくする一方いっぽうかず論理ろんり支配しはいされる政党せいとう政治せいじ批判ひはんし、倫理りんり確立かくりつによる選挙せんきょ粛正しゅくせいとな全国ぜんこく遊説ゆうぜいした。
  • シチズン時計しちずんとけい名付なづおやでもある(後藤ごとう親交しんこうのあった社長しゃちょうから新作しんさく懐中時計かいちゅうどけい命名めいめいたのまれ、「市民しみんからあいされるように」と、市民しみん意味いみするCITIZENのおくった)。
  • 虎ノ門とらのもん事件じけん責任せきにんらされ内務省ないむしょうめた正力しょうりき松太郎まつたろう読売新聞よみうりしんぶん経営けいえいしたとき、上司じょうし内務ないむ大臣だいじん)だった後藤ごとう自宅じたく抵当ていとうれて資金しきん調達ちょうたつし、なにわずにした。その正力しょうりき事業じぎょう成功せいこう借金しゃっきんかえそうとしたが、もうすで後藤ごとうはこのひとではなかった。そこで、正力しょうりき後藤ごとう故郷こきょうである水沢すいざわまち当時とうじ)に恩返おんがえしをはかるべくりたかねの2ばいちかかね寄付きふした。この資金しきん使つかって、1941ねん日本にっぽんはつ公民館こうみんかん後藤ごとうはく記念きねん公民館こうみんかん)が建設けんせつされた。
  • 地下鉄ちかてつちち早川はやかわ徳次とくじの「東京とうきょう地下鉄ちかてつつくりたい」という構想こうそう理解りかいしめし、支援しえんしゃつらねたひとりであった。
  • 現在げんざいちゅうにち中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく大使館たいしかん後藤ごとうてい跡地あとちである。
  • 美濃部みのべ亮吉りょうきち東京とうきょう都知事とちじ時代じだいに「わたし後藤ごとう新平しんぺいとよく政策せいさくとかがているといわれるが、どうしても都知事とちじ総理そうり大臣だいじん給料きゅうりょうおなじにすることができなかった」と発言はつげんしたが、後藤ごとう東京とうきょう市長しちょう給料きゅうりょう全額ぜんがく東京とうきょう寄付きふしていた。
  • 後藤ごとうちまたで「だい風呂敷ふろしき」のほか、「このさい主義しゅぎ」ともばれ[51]関東大震災かんとうだいしんさいに「このさい」という言葉ことば伝播でんぱして羽田空港はねだくうこう乗馬じょうばじょう建設けんせつなどみな震災しんさいに「このさい」やろうではないかとこえげた[52]。そのことを社会しゃかい主義しゅぎしゃ演歌えんか添田唖蝉坊そえだあぜんぼう風刺ふうしして「コノサイソング」という演歌えんかうたはじめた[52]庶民しょみんはこの風刺ふうし演歌えんかをさらにうたにして甘粕あまかす事件じけん風刺ふうしした[52]

反米はんべい左翼さよく

編集へんしゅう

後藤ごとうは1902ねん視察しさつ以来いらいアメリカの台頭たいとうつよ懸念けねんするようになり、日本にっぽん中国ちゅうごく・ヨーロッパのユーラシア大陸たいりく連携れんけいして対抗たいこうするべきだとかんがえていた[53]

(2007, pp. 261–266)は、せんあいだ日本にっぽんにおいてもっと有力ゆうりょく反米はんべいしんソの政治せいじだった後藤ごとう新平しんぺい[ちゅう 1][ちゅう 2]は、したるように、親族しんぞくおおくの著名ちょめい左翼さよく活動かつどう反米はんべい左翼さよく庇護ひごしゃであり、その影響えいきょうりょく後藤ごとう死後しご現代げんだいまでつづいた。そのため、べい対立たいりつ冷戦れいせんイデオロギーのしたおやであるかかが、その人物じんぶつたいする優劣ゆうれつ善悪ぜんあく判断はんだん直結ちょっけつしがちであっただい世界せかい大戦たいせん日本にっぽん学界がっかいにおいて、後藤ごとう実績じっせき以上いじょうたか評価ひょうかする方向ほうこう学界がっかい世論せろんみちびかれたのではないか、としている。また同書どうしょでは、このことと、後藤ごとう直系ちょっけい官僚かんりょうから、岩永いわなが裕吉ゆうきち同盟どうめい通信つうしんしゃ社長しゃちょう)、下村しもむらひろし朝日新聞社あさひしんぶんしゃふく社長しゃちょう)、おかみのる大阪おおさか毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ会長かいちょう)、正力しょうりき松太郎まつたろう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ社長しゃちょう)、前田まえだ多門たもん東京とうきょう朝日新聞社あさひしんぶんしゃ論説ろんせつ委員いいん)が中央ちゅうおうマスメディア企業きぎょう幹部かんぶてんじ、また後藤ごとう盟友めいゆう杉山すぎやましげるまるげんようしゃにおける後輩こうはい緒方おがた竹虎たけとら朝日新聞社あさひしんぶんしゃ主筆しゅひつとして社長しゃちょうをしのぐ実力じつりょくったことにより、後藤ごとうけい勢力せいりょくがマスメディア業界ぎょうかい牢固ろうこたる地盤じばんきずいたことが相俟あいまって、戦後せんご言論げんろんかいで、後藤ごとう過大かだい評価ひょうかされる原因げんいんになったのではないか、としている。

また、日本にっぽん左翼さよくというと「たん皇室こうしつ」というイメージをいだかれがちであるが、した鶴見つるみ和子かずこ美智子みちこ皇后こうごう鶴見つるみ良行よしゆき秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう関係かんけいられるように、後藤ごとう新平しんぺい由来ゆらいする反米はんべい左翼さよく勢力せいりょくは、皇族こうぞくふといパイプをっている。

佐野さのまなぶ
獄中ごくちゅう転向てんこう有名ゆうめい日本にっぽん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんちょう佐野さのまなぶは、後藤ごとう新平しんぺい女婿じょせいである佐野さのぴょうふとしおとうとで、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ大学院だいがくいんまなび、日本にっぽん勧業かんぎょう銀行ぎんこう勤務きんむ。その後藤ごとう伝手つてまんてつ東亜とうあ経済けいざい調査ちょうさきょく嘱託しょくたく社員しゃいんとなり、さらに早稲田大学わせだだいがく商学部しょうがくぶ講師こうしとなった。佐野さのまなぶ1922ねん7がつ日本にっぽん共産党きょうさんとうだいいち共産党きょうさんとう)に入党にゅうとうし、翌年よくねん2がつとう大会たいかい市川いちかわ大会たいかい)で執行しっこう委員いいん国際こくさい幹事かんじ選出せんしゅつされた。そしてヨッフェ来日らいにちちゅう同年どうねん5がつまつだいいち共産党きょうさんとう事件じけん6月5にち)による検挙けんきょのがれてソ連それん亡命ぼうめいしたが、そのさい後藤ごとうは、佐野さのまなぶ亡命ぼうめいかんする情報じょうほうをヨッフェ経由けいゆソ連それんながし、亡命ぼうめい援助えんじょした[54]佐野さのまなぶだいいち共産党きょうさんとう事件じけん検挙けんきょまぬかれたことについては、当時とうじから、後藤ごとう援助えんじょしたのではないかと、政友せいゆうかい議会ぎかいだい2山本やまもと内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん後藤ごとう追及ついきゅうしていた[55]佐野さのまなぶ1925ねん7がつ帰国きこくして共産党きょうさんとう再建さいけんだい共産党きょうさんとう)。1925ねん1がつにち基本きほん条約じょうやく調印ちょういんによりソ連それん大使館たいしかん開設かいせつされ、そこに商務しょうむかん肩書かたがきで派遣はけんされていたコミンテルン代表だいひょうカール・ヤンソンから活動かつどう資金しきんて、『無産むさんしゃ新聞しんぶん』の主筆しゅひつつとめた。1926ねん3月、だいいち共産党きょうさんとう事件じけん禁錮きんこ10ヶ月かげつ判決はんけつけ、同年どうねんまつまで下獄げごくした佐野さのまなぶは、1927ねん12月に共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんちょう就任しゅうにん労働ろうどう運動うんどう出身しゅっしん鍋山なべやまさだおやとともにとう指導しどうした。さらに佐野さのまなぶは、1928ねんさんいち事件じけんでも、その前日ぜんじつ日本にっぽんってほうソして一斉いっせい検挙けんきょのが[ちゅう 3]、コミンテルンだい6かい大会たいかい日本にっぽん共産党きょうさんとう首席しゅせき代表だいひょうとして出席しゅっせき後藤ごとう最後さいごほうにもモスクワにおり、その半年はんとしにコミンテルン常任じょうにん執行しっこう委員いいん選任せんにんされた。このころのことについて佐野さのまなぶは、ヨッフェの「自殺じさつのまへ、ヨッフェのこまつてゐる最中さいちゅうに、ジノヴィエフわたしをよびつけてヨッフェの滞日たいにちちゅう生活せいかつ態度たいどほりほりいた。わたしはヨッフェに同情どうじょうしてゐたのでらないの一点いってんばりをやつた」、またスターリンに面会めんかいし、「ななねんテーゼプラウダしてくれるやうにたのんだが、後藤ごとう新平しんぺいこんモスコーにてゐるから見合みあわせておく」とわれたと回想かいそうしている[56]。しかし後藤ごとう新平しんぺい死去しきょ直後ちょくご1929ねん6がつ中国ちゅうごく上海しゃんはい検挙けんきょされ、1932ねん10月に東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょ治安ちあん維持いじほう違反いはんにより無期むき懲役ちょうえき判決はんけつけた。よく1933ねん6がつ鍋山なべやまさだおやとともに共同きょうどう転向てんこう声明せいめい発表はっぴょうした佐野さのまなぶは、1934ねん5月の東京とうきょう控訴こうそいん判決はんけつ懲役ちょうえき15ねん減刑げんけいされて控訴こうそしん判決はんけつ確定かくていし、1943ねん10月に出獄しゅつごくした。
佐野さのせき
インターナショナル』の訳詞やくししゃ一人ひとりとしてられる共産党きょうさんとうけい演劇えんげきじん佐野さのせき佐野さのぴょうふとし長男ちょうなんで、後藤ごとう新平しんぺい初孫はつまごであるため可愛かわいがられた。後藤ごとう佐野さのせきのことを、「自分じぶんまごマルクス主義まるくすしゅぎものとして大正たいしょう時代じだい女装じょそうしてまわっていたんですからね、おもしろいじゃないですか。そういうことをとてもよろこんでいた」と鶴見つるみ俊輔しゅんすけ証言しょうげんしている[57]後藤ごとう新平しんぺい生前せいぜん稽古けいこじょうとして佐野さのせきらの左翼さよく演劇えんげき活動かつどう拠点きょてんとなったのは、小石川こいしかわ籠町かごまちにある佐野さのぴょうたいていで、あやふとし息子むすこ活動かつどう資金しきん援助えんじょおこなった[58]。しかし後藤ごとう新平しんぺい死去しきょしたよく1930ねん5がつ佐野さのせきは「共産党きょうさんとうシンパ事件じけん」で治安ちあん維持いじほう違反いはん容疑ようぎにより逮捕たいほされた。せきちちあやふとしはは静子しずこ後藤ごとう新平しんぺい長女ちょうじょ)は、まだぼっしてあいだもない後藤ごとう新平しんぺいいきのかかった政界せいかい検察けんさつ関係かんけいしゃうら工作こうさくおこない、「直接ちょくせつにも間接かんせつにも日本にっぽん共産党きょうさんとう支持しじする行為こういあるいはこれにるいする行動こうどう一切いっさいしない」と誓約せいやくして、逮捕たいほしゃとはべつに、一人ひとり起訴きそ猶予ゆうよ保釈ほしゃくされた[59]。そして1931ねん6がつからモスクワではじまる国際こくさい労働ろうどうしゃ演劇えんげき同盟どうめい(IATB)だい1かい拡大かくだい評議ひょうぎいん総会そうかいへの出席しゅっせきもとめるドイツ共産党きょうさんとういん演劇えんげきじん千田せんだ是也これやからの手紙てがみに、同年どうねん5がつ出国しゅっこくし、以後いご二度にど日本にっぽんもどらなかった。
平野ひらの義太郎よしたろう
講座こうざ三太郎さんたろう」の一人ひとりである平野ひらの義太郎よしたろうは、後藤ごとう新平しんぺい岳父がくふ安場やすばたもつ孫娘まごむすめ後藤ごとうにとっては義理ぎりめいにあたるよしみ智子さとこおっとで、平野へいや後藤ごとうの「晩年ばんねん屡々しばしば鍼灸しんきゅうする機会きかいをもつた」とべている[60]平野へいや第一高等学校だいちこうとうがっこう時代じだい後藤ごとう女婿じょせい鶴見つるみ祐輔ゆうすけおとうと外交がいこうかんとなる鶴見つるみけん鶴見つるみ良行よしゆきちち)と同期どうきで、弁論べんろんはいり、鶴見つるみけん一緒いっしょに、鶴見つるみ祐輔ゆうすけ自宅じたくひらいた「火曜かようかい」に出席しゅっせきした。平野へいやよしみ智子さとことの結婚けっこんすすめたのは鶴見つるみけんだった[61]1921ねん3がつ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ卒業そつぎょうし、同年どうねん5がつどう学部がくぶ助手じょしゅ1923ねん6がつどう学部がくぶ助教授じょきょうじゅとなった平野へいやは、1927ねんからフランクフルト大学だいがく社会しゃかい研究所けんきゅうじょ留学りゅうがくし、ソ連それん傾倒けいとうするヘンリク・グロスマン師事しじした。しかし後藤ごとう新平しんぺい死去しきょしたよく1930ねん1がつ帰国きこくした平野へいやは、佐野さのせき同様どうように、同年どうねん5がつの「共産党きょうさんとうシンパ事件じけん」で検挙けんきょされ、7がつ依願いがん免官めんかんとなった。平野へいやは、鶴見つるみ祐輔ゆうすけした後藤ごとう新平しんぺい正伝せいでん後藤ごとう新平しんぺいぜん4かん後藤ごとう新平しんぺいはく伝記でんき編纂へんさんかい、1937-1938ねん編纂へんさん作業さぎょう参加さんかし、鶴見つるみ祐輔ゆうすけ太平洋たいへいよう協会きょうかいでは企画きかく部長ぶちょう弘報こうほう部長ぶちょうなどをつとめ、敗戦はいせんどう協会きょうかい解散かいさんするさいには、もと調査ちょうさ部長ぶちょう山田やまだ文雄ふみお協会きょうかい資産しさん二分にぶんした[62]。これが、鶴見つるみ和子かずこ俊輔しゅんすけあねおとうとらが雑誌ざっし思想しそう科学かがく』を刊行かんこうする機構きこうてき財政ざいせいてき基盤きばんとなった[63]平野へいやは1958ねんのち鶴見つるみ俊輔しゅんすけらが「ベトナムに平和へいわを!市民しみん連合れんごう」(ベ平連べへいれん事務じむ局長きょくちょう起用きようした、当時とうじ共産党きょうさんとう専従せんじゅう活動かつどう吉川よしかわ勇一ゆういち結婚けっこんするさい仲人なこうどつとめている[64]
鶴見つるみ和子かずこ
後藤ごとう新平しんぺい女婿じょせい鶴見つるみ祐輔ゆうすけ長女ちょうじょである社会しゃかい学者がくしゃ鶴見つるみ和子かずこは、戦後せんご武田たけだ清子きよこ武谷たけや三男みつお都留つる重人しげと鶴見つるみ俊輔しゅんすけ丸山まるやま真男まさお渡辺わたなべとしらが思想しそう科学かがく研究けんきゅうかい結成けっせいする中心ちゅうしん人物じんぶつとなり[65]共産党きょうさんとう入党にゅうとうして1950ねんごろまで党員とういんだったが[66]、その親中しんちゅうてんじた[ちゅう 4]。そして筋金入すじがねいりの反米はんべい主義しゅぎしゃ北朝鮮きたちょうせんシンパの武者小路むしゃのこうじ公秀きんひで所長しょちょうとして上智大学じょうちだいがく国際こくさい関係かんけい研究所けんきゅうじょ設立せつりつされるさい武者小路むしゃのこうじまねきをけて、1969ねん4がつ成蹊大学せいけいだいがく文学部ぶんがくぶ助教授じょきょうじゅから上智大学じょうちだいがく外国がいこく学部がくぶ教授きょうじゅ国際こくさい関係かんけい研究所けんきゅうじょいんてん[67]1989ねん3月の定年ていねんまでそのしょくにあった。同年どうねん6がつ天安門てんあんもん事件じけんにおける中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふ人民じんみん解放かいほうぐん民主みんしゅ運動うんどう武力ぶりょく弾圧だんあつ西側にしがわ諸国しょこくつよ非難ひなんし、日本にっぽん政府せいふたいちゅう借款しゃっかん停止ていしなどの外交がいこう制裁せいさい実施じっししてにちちゅう関係かんけい悪化あっかすると、鶴見つるみ和子かずこ同年どうねん8がつまつから9がつにかけていちはやく、江蘇ちぁんすーしょう小城おぎ研究けんきゅうかいまねきで、宇野うの重昭しげあき石川いしかわ照子てることともに訪中ほうちゅうしている[68]。また1949ねん新制しんせい東京とうきょう大学だいがくだい1期生きせいとして入学にゅうがくした吉川よしかわ勇一ゆういちは、世田谷せたがや成城せいじょう自宅じたく柳田やなぎだ國男くにお創設そうせつした「民俗みんぞくがく研究所けんきゅうじょ」にかよっていたが[69]、その柳田やなぎだてい真向まむかいにんでいたのが鶴見つるみ祐輔ゆうすけ和子わこ父子ふしで、鶴見つるみ和子かずこもしばしば柳田やなぎだていたずね、もてなしをけていた[70]。なお、2007ねん7がつ28にち新宿しんじゅく中村屋なかむらや本店ほんてんもよおされた鶴見つるみ和子かずこいち周忌しゅうきつどいには、美智子みちこ皇后こうごう臨席りんせきした[71]鶴見つるみ和子かずこ本人ほんにん生前せいぜん明仁あきひと天皇てんのう美智子みちこ皇后こうごうへのふか尊敬そんけいねんかたっていた[72]美智子みちこ皇后こうごうはそのも、鶴見つるみ和子かずこしのぶ「山百合やまゆり」に出席しゅっせきしている[73]鶴見つるみ俊輔しゅんすけによれば、「美智子みちこ皇后こうごうあね和子わこたいして、彼女かのじょ学友がくゆうだった女官にょかんとおして『宮中きゅうちゅうまでてほしい』とおびになったことがありました。そのとき、『あなたがこのあいだの講演こうえん慰安いあん問題もんだいげてくださって、とてもありがたかった』とおっしゃった。あねたおれて宇治うじ施設しせつはいったときも、『京都きょうとくからてくれないか』と連絡れんらくた。当日とうじついもうとたくして、車椅子くるまいすあね御所ごしょげました。天皇てんのう皇后こうごうあねさんにんだけでおはなしをしたわけです。それだけ今上きんじょう天皇てんのう皇后こうごうあね共感きょうかんをもっておられたんですね」とのことである[74]。「美智子みちこ皇后こうごう相談役そうだんやく」としてられる精神せいしん神谷かみや美恵子みえこは、鶴見つるみ祐輔ゆうすけとともに「新渡戸にとべ四天王してんのう」とばれた後藤ごとう新平しんぺい側近そっきん一人ひとりとしてかぞえられる前田まえだ多門たもん長女ちょうじょであり、鶴見つるみ俊輔しゅんすけは「神谷かみや美恵子みえこは、聖者せいじゃである」としている[75]神谷かみや美恵子みえこあにフランス文学ぶんがくしゃ前田まえだ陽一よういちは、皇太子こうたいし時代じだい今上きんじょう天皇てんのうフランス語ふらんすご師匠ししょうであり、共産党きょうさんとうぜん中央ちゅうおう委員いいんかい議長ぎちょう不破ふわ哲三てつぞうフランス語ふらんすご師匠ししょうでもあった[76]。そして、やはり「新渡戸にとべ四天王してんのう」の一人ひとりである田島たじま道治みちはるは、戦後せんごだい2だい宮内くない長官ちょうかん初代しょだい宮内庁くないちょう長官ちょうかん歴任れきにんし、おなじく新渡戸にとべ門下もんか後輩こうはいである三谷みたに隆信たかのぶ侍従じじゅうちょうとコンビをんで宮中きゅうちゅう改革かいかく尽力じんりょくした。田島たじま宇佐美うさみあつし宮内庁くないちょう長官ちょうかんゆずってからも宮中きゅうちゅうへの影響えいきょうりょく行使こうしし、東宮とうぐう教育きょういく常時じょうじ参与さんよ小泉こいずみ信三しんぞうとともに、「東宮とうぐうさま縁談えんだんについて平民へいみんからとはあやしからん」とするこうじゅん皇后こうごうらの反対はんたいって、美智子みちこ皇太子こうたいし実現じつげんするのにおおきく貢献こうけんした[77]
鶴見つるみ俊輔しゅんすけ
鶴見つるみ和子かずこおとうとである哲学てつがくしゃ鶴見つるみ俊輔しゅんすけは、60ねん安保あんぽときには政治せいじ学者がくしゃ高畠たかはた通敏みちとしとともに「こえなきこえかい」を組織そしきしてきし内閣ないかくによる日米にちべい安全あんぜん保障ほしょう条約じょうやく改定かいてい反対はんたい[ちゅう 5]ベトナム戦争せんそうには高畠たかはたらとともに「こえなきこえかい」を母体ぼたいとして「ベトナムに平和へいわを!市民しみん連合れんごう」(ベ平連べへいれん)を結成けっせいし、代表だいひょう作家さっか小田おだみのるむかえ、事務じむ局長きょくちょうには共産党きょうさんとうから除名じょめい処分しょぶんけていた吉川よしかわ勇一ゆういちえて、みずからもベ平連べへいれん中心ちゅうしんてき人物じんぶつとなり、KGB支援しえん[78]活発かっぱつ反米はんべい運動うんどう展開てんかいした。そのさい鶴見つるみ俊輔しゅんすけは、杉山すぎやましげるまるまご杉山すぎやまりゅうまるを「げんようしゃ国際こくさい部長ぶちょう」の肩書かたがきでベ平連べへいれんんだ[ちゅう 6]
鶴見つるみ良行よしゆき
アジア学者がくしゃ人類じんるい学者がくしゃ鶴見つるみ良行よしゆきは、鶴見つるみ祐輔ゆうすけおとうと外交がいこうかんであった鶴見つるみけん息子むすこで、鶴見つるみ和子かずこ俊輔しゅんすけあねおとうと従弟じゅうていである。日本にっぽん知的ちてき風土ふうどにあるおやてき傾向けいこう是正ぜせいして日米にちべい関係かんけい改善かいぜんするためにロックフェラー財団ざいだんなどが資金しきん提供ていきょうして設立せつりつされた公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん国際こくさい文化ぶんか会館かいかん[79]企画きかく部長ぶちょうであるにもかかわらず、鶴見つるみ良行よしゆきベ平連べへいれんの「英語えいご使づかい」[80]、「外務省がいむしょう[81]として反米はんべい運動うんどう有力ゆうりょく活動かつどうになったことにたいし、左右さゆうりょう陣営じんえいから文化ぶんか会館かいかんへの批判ひはん相次あいついだが、鶴見つるみ良行よしゆきはベトナム戦争せんそう反対はんたい世論せろんをバックにった。これにきゅうした国際こくさい文化ぶんか会館かいかん理事りじちょう松本まつもと重治しげはるは、鶴見つるみ良行よしゆき企画きかく部長ぶちょうからはずして嘱託しょくたくとするわりに、まん60さいになるまでつくえ手当てあてあたえた[82]元老げんろう松方まつかた正義まさよしまごである松本まつもと重治しげはる高木たかぎはちしゃく松本まつもと重治しげはる親戚しんせき門下もんかで、台湾たいわん総督そうとく時代じだい以来いらい後藤ごとう新平しんぺい子分こぶんだった新渡戸にとべ稲造いなぞう孫弟子まごでしであり、やはり松本まつもと親戚しんせきで「新渡戸にとべ四天王してんのう」の後藤ごとう新平しんぺい側近そっきん一人ひとりである岩永いわなが裕吉ゆうきち伝手つて同盟どうめい通信つうしんしゃ前身ぜんしんである新聞しんぶん聯合れんごうしゃ入社にゅうしゃし、聯合れんごう同盟どうめい上海しゃんはい支局しきょくちょう同盟どうめい通信つうしんしゃ初代しょだい編集へんしゅう局長きょくちょうとなり、敗戦はいせんには同社どうしゃ常務じょうむ理事りじつとめていた後藤ごとうけいマスメディアじんだった。秋篠宮あきしののみやぶんじん親王しんのう鶴見つるみ良行よしゆきのファンで鶴見つるみ良行よしゆき直接ちょくせつおしえをけ、そのつよ影響えいきょうけた[83]

フリーメイソンリーとの関係かんけい

編集へんしゅう

文化ぶんか人類じんるいがくもの綾部あやべ恒雄つねおによれば、後藤ごとう新平しんぺいフリーメイソンであった[84]。フリーメイソンリーを「国際こくさいてきなつながりをもつ様々さまざま職業しょくぎょうのトップエリートによる最高さいこう情報じょうほう交換こうかんのネットワーク」とする中田なかた安彦やすひこは、後藤ごとう新平しんぺいがドイツ留学りゅうがくちゅう1892ねんだい5かい万国ばんこく赤十字せきじゅうじ会議かいぎ日本赤十字社にほんせきじゅうじしゃ委員いいんとして出席しゅっせきするまでにフリーメイソンリーの一員いちいんとしてむかれられていたとており、「後藤ごとう赤十字せきじゅうじという国際こくさい結社けっしゃつうじてフリーメイソンに入会にゅうかいし、その日本にっぽん代表だいひょうする“黒幕くろまく”としてとき権力けんりょくしゃ献策けんさくつづけ、それがときには成功せいこうし、ときには失敗しっぱいした」としている[85]ボーイスカウト運動うんどうはフリーメイソンリーとの関係かんけいふかいが、後藤ごとう新平しんぺいが「少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめい」(現在げんざい財団ざいだん法人ほうじんボーイスカウト日本にっぽん連盟れんめい)の初代しょだい総裁そうさいとなったのも、フリーメイソンリーとのつながりからであろうとしている[86]

著作ちょさく

編集へんしゅう

著書ちょしょ

編集へんしゅう
  • 海水かいすいこうようろん 海浜かいひん療法りょうほうはる曦書ろう、1882ねん3がつ 
  • 国家こっか衛生えいせい原理げんり後藤ごとう新平しんぺい、1889ねん9がつNDLJP:836881 
    • 国家こっか衛生えいせい原理げんり』(3はん後藤ごとう新平しんぺい、1923ねん8がつNDLJP:971387 
    • 国家こっか衛生えいせい原理げんり小野寺おのでら伸夫のぶお解題かいだい創造そうぞう出版しゅっぱん、1978ねん11月。 
  • 衛生えいせい制度せいどろん後藤ごとう新平しんぺい、1890ねん9がつNDLJP:836717 
    • 滝沢たきざわ利行としゆき へん衛生えいせい制度せいどろん大空おおぞらしゃ近代きんだい日本にっぽん養生ようじょうろん衛生えいせいろん集成しゅうせい だい8かん〉、1992ねん10がつ 
  • 後藤ごとう新平しんぺいくん演説えんぜつ筆記ひっき宮部みやべまさしあつ筆記ひっきだい日本にっぽん私立しりつ衛生えいせいかい神戸こうべささえかいかり事務所じむしょ、1892ねん11月。NDLJP:783115 
  • 後藤ごとう内務ないむ衛生えいせい技師ぎし演説えんぜつ筆記ひっき西本にしもと茂吉しげよし筆記ひっき赤穂あこうぐん役所やくしょ、1892ねん12月。NDLJP:836882 
  • 後藤ごとう内務ないむ技師ぎし演説えんぜつ筆記ひっき永木ながきまこと太郎たろう筆記ひっき兵庫ひょうごけん明石あかしぐん役所やくしょ、1893ねん1がつNDLJP:836883 
  • 疾病しっぺい保険ほけんほう柳下やぎした釧之すけ、1893ねん3がつNDLJP:800528 
  • 赤痢せきりびょうせきスル演説えんぜつ筆記ひっき小林こばやし常吉つねきち、1893ねん4がつNDLJP:835272 
  • だい国民こくみんうた山田やまだ源一郎げんいちろう作曲さっきょく、如山どう、1909ねん10がつNDLJP:855532 
  • 立石たていし駒吉こまきち へん後藤ごとう新平しんぺい論集ろんしゅう伊藤いとう元治郎もとじろう、1911ねん1がつNDLJP:992298 
  • 平木ひらき照雄てるお へん処世しょせいくん拾遺しゅうい』如山どう、1911ねん5がつNDLJP:757181 
  • 田中たなかおさむきち へん青年せいねんくんたからぶんかん、1912ねん3がつ 
  • 日本にっぽん植民しょくみんろん公民こうみん同盟どうめい出版しゅっぱん公民こうみん同盟どうめい叢書そうしょ だい8かん〉、1915ねん9がつNDLJP:933426 
  • 日本にっぽん膨脹ぼうちょうろん通俗つうぞくだい学会がっかい通俗つうぞく大学だいがく文庫ぶんこ だい3へん〉、1916ねん2がつNDLJP:933452 
  • 菊地きくちあきらなぎさ へん修養しゅうようちからひがしもりどう書店しょてん、1918ねん11月。NDLJP:959288 
  • 自治じち生活せいかつしん精神せいしんしん時代じだいしゃ、1919ねん2がつNDLJP:933341 
  • さんじゅうさん へん後藤ごとうおとこ修養しゅうよう日本にっぽん書院しょいん、1919ねん6がつNDLJP:961902 
  • 自治じち修養しゅうよう東亜とうあどう袖珍しゅうちん名家めいか文庫ぶんこ だい5へん〉、1919ねん9がつNDLJP:933318 
  • 自治じち生活せいかつしん精神せいしん内観ないかんしゃ、1920ねん12月。NDLJP:964844 
  • 日本にっぽん植民しょくみん政策せいさくいちまだら拓殖たくしょく新報しんぽうしゃ、1921ねん3がつNDLJP:980879 
  • 後藤ごとう男爵だんしゃく男児だんじ鉄腕てつわん日本にっぽん書院しょいん、1921ねん2がつNDLJP:961797 
  • 江戸えど自治じちせい二松ふたまつどう書店しょてん、1922ねん3がつNDLJP:968651 
  • 日本にっぽん膨脹ぼうちょうろんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい、1924ねん9がつNDLJP:977651 
  • 人生じんせい燃料ねんりょう問題もんだい記念きねん講演こうえん大会たいかい燃料ねんりょう協会きょうかい創立そうりつさんしゅうねん記念きねん大会たいかい)』燃料ねんりょう協会きょうかい出張所しゅっちょうしょ、1925ねん7がつNDLJP:10566529 
  • 公民こうみん読本とくほん少年しょうねんまき東京とうきょうたからぶんかん、1926ねん1がつNDLJP:942906 
  • 公民こうみん読本とくほん青年せいねんまき東京とうきょうたからぶんかん、1926ねん1がつNDLJP:942907 
  • 公民こうみん読本とくほん成人せいじんまき東京とうきょうたからぶんかん、1926ねん1がつNDLJP:942908 
  • 人生じんせい燃料ねんりょう問題もんだい大正たいしょういちよんねんろくがつななにち燃料ねんりょう協会きょうかい創立そうりつさんしゅうねん記念きねん大会たいかいける講演こうえん)』燃料ねんりょう協会きょうかい出張所しゅっちょうしょ、1926ねん1がつNDLJP:10566583 
  • ひろしせん直面ちょくめんして政治せいじ倫理りんり提唱ていしょうす』ひろしせん準備じゅんびかい、1926ねん5がつNDLJP:1019381 
  • 政治せいじ倫理りんりだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい、1926ねん9がつNDLJP:1019432 
  • 政治せいじ倫理りんり運動うんどういち周年しゅうねん政教せいきょうしゃ、1927ねん6がつ 
  • 道徳どうとく国家こっか政治せいじ倫理りんり政教せいきょうしゃ、1927ねん12月。NDLJP:1465820 
  • 『ロシアよりかえりて』朝日新聞社あさひしんぶんしゃ朝日あさひ民衆みんしゅう講座こうざ だい6輯〉、1928ねん3がつNDLJP:1100157 
  • 日本にっぽん植民しょくみん政策せいさくいちむら日本にっぽん膨脹ぼうちょうろん中村なかむらあきら解題かいだい日本にっぽん評論ひょうろんしゃ明治めいじ文化ぶんか叢書そうしょ〉、1944ねん12月。 

新版しんぱん刊行かんこう

編集へんしゅう
  • 拓殖大学たくしょくだいがく創立そうりつひゃくねん編纂へんさんしつ へん後藤ごとう新平しんぺい 背骨せぼねのある国際こくさいじん拓殖大学たくしょくだいがく、2001ねん4がつISBN 9784990068523 
  • 後藤ごとう新平しんぺい歿八じゅう周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい へん自治じち藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいとはなに自治じち公共こうきょう共生きょうせい平和へいわ〉、2009ねん4がつISBN 9784894346413 
  • 後藤ごとう新平しんぺい歿八じゅう周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい へん官僚かんりょう政治せいじ藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいとはなに自治じち公共こうきょう共生きょうせい平和へいわ〉、2009ねん6がつISBN 9784894346925 
  • 後藤ごとう新平しんぺい歿八じゅう周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい へん都市としデザイン』藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいとはなに自治じち公共こうきょう共生きょうせい平和へいわ〉、2010ねん5がつISBN 9784894347366 
  • 後藤ごとう新平しんぺい歿八じゅう周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい へん世界せかい認識にんしき藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいとはなに自治じち公共こうきょう共生きょうせい平和へいわ〉、2010ねん11月。ISBN 9784894347731 
  • 鈴木すずき一策いっさく へん国難こくなんらい藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいぜん仕事しごと〉、2019ねん9がつISBN 9784865782394 
  • 平木ひらき白星はくせいあん へん後藤ごとう新平しんぺいげききょく平和へいわ藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいぜん仕事しごと〉、2020ねん9がつISBN 9784865782813 
  • 後藤ごとう新平しんぺい研究けんきゅうかい へん政治せいじ倫理りんり藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいぜん仕事しごと〉、2021ねん3がつISBN 9784865783087 
  • 楠木くすのきけんみちへん解説かいせつ へん国家こっかとはなにか』藤原ふじわら書店しょてん〈シリーズ後藤ごとう新平しんぺいぜん仕事しごと〉、2021ねん9がつISBN 9784865783254 

翻訳ほんやく

編集へんしゅう
  • 勃古『普通ふつう生理せいり衛生えいせいがく上巻じょうかんちゅう愛社あいしゃ、1888ねん2がつ 
    • 勃古『普通ふつう生理せいり衛生えいせいがく上巻じょうかん訂正ていせい3はん)、ちゅう愛社あいしゃ、1888ねん12月。NDLJP:1083993 
  • 勃古『普通ふつう生理せいり衛生えいせいがくちゅうまきちゅう愛社あいしゃ、1888ねん2がつ 
    • 勃古『普通ふつう生理せいり衛生えいせいがくちゅうまき訂正ていせい3はん)、ちゅう愛社あいしゃ、1888ねん12月。NDLJP:1083995 
  • 勃古『普通ふつう生理せいり衛生えいせいがく下巻げかんちゅう愛社あいしゃ、1888ねん2がつ 
    • 勃古『普通ふつう生理せいり衛生えいせいがく下巻げかん訂正ていせい3はん)、ちゅう愛社あいしゃ、1888ねん12月。NDLJP:1083996 
  • ギユンテル『黴菌ばいきん図譜ずふ後藤ごとう新平しんぺい、1893ねん10がつNDLJP:834072 
  • ヨゼフ・オルツェウスキー『官僚かんりょう政治せいじ冨山とやまぼう、1911ねん11月。 
  • フリードリッヒ・パウルゼン『政党せいとう代議だいぎせい冨山とやまぼう、1912ねん6がつNDLJP:784193 
  • ハンス・デルブリユツク『政治せいじ民意みんい有斐閣ゆうひかく、1915ねん4がつNDLJP:952422 
  • パウルゼン『政党せいとう政策せいさく道徳どうとく通俗つうぞくだい学会がっかい東西とうざい時論じろん だい4へん〉、1916ねん3がつ 
  • アーネスト・チー・ウヰリアムス『英国えいこく改造かいぞう貿易ぼうえき後藤ごとう新平しんぺい、1920ねん1がつ 

監修かんしゅう

編集へんしゅう
  • ビスマルク しる有賀ありが長雄ながお花房はなふさ直三郎なおさぶろう澤井さわい要一よういち長尾ながおしゅん二郎じろう野口のぐち輔・山吉やまよし盛光もりみつ青山あおやまだい太郎たろう やく森孝もりたかさん へん『ビスマルク演説えんぜつしゅう上巻じょうかん、ビスマルク演説えんぜつしゅう刊行かんこうかい、1919ねん1がつNDLJP:957449 
  • ビスマルク ちょ有賀ありが長雄ながお花房はなふさ直三郎なおさぶろう澤井さわい要一よういち長尾ながおしゅん二郎じろう野口のぐち輔・山吉やまよし盛光もりみつ青山あおやまだい太郎たろう やく森孝もりたかさん へん『ビスマルク演説えんぜつしゅうちゅうまき、ビスマルク演説えんぜつしゅう刊行かんこうかい、1919ねん5がつNDLJP:957450 
  • ビスマルク ちょ有賀ありが長雄ながお花房はなふさ直三郎なおさぶろう澤井さわい要一よういち長尾ながおしゅん二郎じろう野口のぐち輔・山吉やまよし盛光もりみつ青山あおやまだい太郎たろう やく森孝もりたかさん へん『ビスマルク演説えんぜつしゅう下巻げかん、ビスマルク演説えんぜつしゅう刊行かんこうかい、1919ねん6がつNDLJP:957451 

共著きょうちょ

編集へんしゅう

評価ひょうか

編集へんしゅう
  • 後藤ごとう和子かずこ後藤ごとうはあのとお大雑把おおざっぱですから、だれにでもおまじわりをしておりますため、随分ずいぶんのぞましくないひと周囲しゅういにおりますので、これだけがまこと心配しんぱいでなりません」[87]

銅像どうぞう

編集へんしゅう

広島ひろしまみなみ似島にのしまには1938ねん昭和しょうわ13ねん)に似島にのしまだいいち検疫けんえきしょ創設そうせつ尽力じんりょくした後藤ごとう新平しんぺいぞうつくられ、金属きんぞくるい回収かいしゅうれいけるために3分割ぶんかつされて防空壕ぼうくうごう保管ほかんされていた時期じきもあったが、1992ねん平成へいせい4ねん)に似島にのしま学園がくえんない移設いせつ建立こんりゅうされた[88]。その2024ねんれい6ねん)に後藤ごとう新平しんぺいぞう海岸かいがん沿いへ移設いせつされ、そのさい説明せつめいばんあらたにもうけられた[89]

えんじた俳優はいゆう

編集へんしゅう

家族かぞく親族しんぞく

編集へんしゅう

おい政治せいじ椎名しいな悦三郎えつさぶろう[92]むすめ婿むこ政治せいじ鶴見つるみ祐輔ゆうすけ[2]まご社会しゃかい学者がくしゃ鶴見つるみ和子かずこ[2]哲学てつがくしゃ鶴見つるみ俊輔しゅんすけ[2]演出えんしゅつ佐野さのせきよしまご法学ほうがくしゃ内山うちやま尚三しょうぞう[93]曾孫そうそん歴史れきし鶴見つるみ太郎たろう[94]

また、後藤ごとう孫娘まごむすめ長男ちょうなん後藤ごとういちぞうむすめ)はあじもと創業そうぎょう鈴木すずき忠治ただはるろくなん三菱自動車みつびしじどうしゃ販売はんばい社長しゃちょうつとめた鈴木すずき正雄まさおとつぎ、鈴木すずき正雄まさおむすめ(すなわち後藤ごとう曾孫そうそん)はもと内閣ないかく総理そうり大臣だいじんかつら太郎たろうまごとついだ(かつらむすめ婿むこである長崎ながさき英造えいぞうまご)。

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう

注釈ちゅうしゃく

編集へんしゅう
  1. ^ ロシア革命かくめい直後ちょくごは、アメリカへの対抗たいこう目的もくてきとして、シベリア出兵しゅっぺい積極せっきょくろんしゃであった[53]
  2. ^ 後藤ごとう新平しんぺいは、その最後さいごほうソで1928ねん1がつ7にちにスターリンと会見かいけんしたさい、スターリンにたいして「日本にっぽんニハえいべい政策せいさく追従ついしょうしゃアリ。しかレドモ日本にっぽんすんで独立どくりつ対外たいがい政策せいさく確立かくりつスル必要ひつようはさまラレツヽアリテ、ソノタメニハこくトノ握手あくしゅ必要ひつようトシツヽアルナリ」とべている。鶴見つるみ祐輔ゆうすけ後藤ごとう新平しんぺい だいよんかん勁草書房しょぼう復刻ふっこくばん、1967ねん)865ぺーじによる。
  3. ^ 佐野さのまなぶが2共産党きょうさんとう一斉いっせい検挙けんきょをタイミングよくまぬかれていることから、佐野さのまなぶ後藤ごとう新平しんぺい公安こうあん警察けいさつ共産党きょうさんとうおくんだスパイであるとするものもあるが、そう断定だんていする証拠しょうこしめされていない(きん現代げんだい研究けんきゅうかいへん実録じつろく 野坂のさかさんさん 共産きょうさん主義しゅぎ運動うんどう“スパイ秘史ひし”』マルジュしゃ、1997ねん)。
  4. ^ 鶴見つるみ和子かずこは「わたし後藤ごとう新平しんぺいさんからいだのは、反面はんめん教師きょうしとしては権力けんりょく志向しこうきらいというのですが、もうひとつは中国ちゅうごくへの関心かんしんですね。後藤ごとう新平しんぺいさんは、中国ちゅうごく安定あんていさせるためにロシアとむすぼうとしたのです」と、みずからの親中しんちゅうてきスタンスが後藤ごとう新平しんぺいゆずりであるとべている(鶴見つるみ和子かずこ祖父そふ後藤ごとう新平しんぺい」『コレクション 鶴見つるみ和子かずこ曼荼羅まんだらはなまき――わがしょう藤原ふじわら書店しょてん、1998ねん、33ぺーじ)。
  5. ^ にち協会きょうかいげん日本にっぽんユーラシア協会きょうかい)によれば、「こえなきこえかい」のデモの指揮しきにち協会きょうかいおこなっていた(「回想かいそうにち協会きょうかいのあゆみ」編纂へんさん委員いいんかいへん回想かいそうにち協会きょうかいのあゆみ』にち協会きょうかい、1974ねん、96ぺーじ)。
  6. ^ 小田おだみのるほか「びかけ」1965ねん4がつ15にち(ベトナムに平和へいわを!市民しみん連合れんごうへん資料しりょう・「ベ平連べへいれん運動うんどう 上巻じょうかん河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1974ねん)5ぺーじ。ただし吉川よしかわ勇一ゆういちによると、「杉山すぎやまさんは、ベ平連べへいれん後半こうはんでは、ベ平連べへいれんへの批判ひはんてき態度たいどをもつようになったようだ」という。ベ平連べへいれんへの批判ひはんてき文献ぶんけん

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ 関東大震災かんとうだいしんさい帝都ていと復興ふっこう成就じょうじゅした後藤ごとう新平しんぺいすごさ”. yahooニュース. (2017ねん9がつ6にち). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/400f7aa74171bab9155100cf38fd8d9194780cc5 2020ねん2がつ28にち閲覧えつらん 
  2. ^ a b c d 日本にっぽん有名ゆうめい一族いちぞく』、177ぺーじ、179ぺーじ
  3. ^ “「だい4の偉人いじん」になれない小沢おざわもと代表だいひょう. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2011ねん5がつ26にち). https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2400Y_U1A520C1NNH000/ 2024ねん5がつ23にち閲覧えつらん 
  4. ^ こしさわあきら後藤ごとう新平しんぺい大震災だいしんさい帝都ていと復興ふっこう筑摩書房ちくましょぼう〈ちくま新書しんしょ〉、34ぺーじ 
  5. ^ 繁体字はんたいじ中国語ちゅうごくご遺忘いぼうてき歷史れきしなぞだん おもね里山さとやま森林しんりん鐵路てつろ誕生たんじょうてき真相しんそう2011-03-01,あきらあさひ
  6. ^ 河合かわい 鈰太ろう コトバンク
  7. ^ 小高おだかけん (1988-07-30). 血清けっせい薬院やくいん. 日本にっぽん史学しがく雑誌ざっし (日本にっぽん学会がっかい) (だい34かんだい3ごう): p392. ISSN 0549-3323. http://jsmh.umin.jp/journal/34-3/386-413.pdf. 
  8. ^ りゅうあきらおさむ台湾たいわん統治とうち阿片あへん問題もんだい』(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1983ねん)81-116ぺーじ、189-190ぺーじ、194-195ぺーじ
  9. ^ 拓殖大学たくしょくだいがく創立そうりつひゃくねん編纂へんさん専門せんもん委員いいんかい拓殖大学たくしょくだいがくひゃくねん 大正たいしょうへん学校がっこう法人ほうじん拓殖大学たくしょくだいがく、2010ねん、97ぺーじ
  10. ^ 拓殖大学たくしょくだいがくひゃくねん 大正たいしょうへん』97-98ぺーじ
  11. ^ 拓殖大学たくしょくだいがくひゃくねん 大正たいしょうへん』107-117ぺーじ
  12. ^ 拓殖大学たくしょくだいがくひゃくねん 大正たいしょうへん』101-102ぺーじ
  13. ^ 早稲田大学わせだだいがくひゃくねんだいさんかん、482ぺーじ
  14. ^ 2007, pp. 174–176.
  15. ^ こしさわあきら東京とうきょう都市とし計画けいかく』(岩波いわなみ新書しんしょ、1991ねん)58~86ぺーじおよびこしさわあきら東京とうきょう都市とし計画けいかく物語ものがたり』(ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ、2001ねん)44~64ぺーじ
  16. ^ 無線むせん放送ほうそうたいする抱負ほうふ」、社団しゃだん法人ほうじん東京とうきょう放送ほうそうきょくへん『ラヂオ講演こうえんしゅう だいいち輯』日本にっぽんラジオ協会きょうかい、1925ねん11月、1~7ぺーじ
  17. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、12ぺーじ
  18. ^ 後藤ごとう 1926.
  19. ^ はら武史たけし (2020ねん11月7にち). “歴史れきしのダイヤグラム】車内しゃない発症はっしょう後藤ごとう新平しんぺい覚悟かくご”. 朝日新聞あさひしんぶん. 2020ねん11月16にち閲覧えつらん
  20. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)126ぺーじ
  21. ^ 後藤ごとう新平しんぺいのデスマスク、台湾たいわん発見はっけん! nippon.com、2022ねん9がつ24にち閲覧えつらん
  22. ^ 官報かんぽうだい907ごうしょうくん叙任じょにん」1886ねん7がつ10日とおか
  23. ^ 官報かんぽうだい2591ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん2がつ23にち
  24. ^ 官報かんぽうだい2839ごう叙任じょにん及辞れい」1892ねん12月13にち
  25. ^ 官報かんぽうだい4242ごう叙任じょにん及辞れい」1897ねん8がつ21にち
  26. ^ 官報かんぽうだい4473ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん5がつ31にち
  27. ^ 官報かんぽうだい6007ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん7がつ11にち
  28. ^ 官報かんぽうだい7028ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん12月1にち
  29. ^ 官報かんぽうだい8424ごう叙任じょにん及辞れい」1911ねん7がつ21にち
  30. ^ 官報かんぽうだい685ごう叙任じょにん及辞れい」1929ねん4がつ15にち
  31. ^ 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」1895ねん12月18にち
  32. ^ 官報かんぽうだい4350ごう叙任じょにん及辞れい」1898ねん1がつ4にち
  33. ^ 官報かんぽうだい5395ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん6がつ28にち
  34. ^ 官報かんぽうだい5829ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1902ねん12月6にち
  35. ^ 官報かんぽうだい6118ごう帝国ていこく議会ぎかい - 貴族きぞくいん」1903ねん11月21にち
  36. ^ 官報かんぽうだい6832ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1906ねん4がつ12にち
  37. ^ 官報かんぽうだい7014ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん11月14にち
  38. ^ 官報かんぽうだい7626ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん11月26にち
  39. ^ 官報かんぽうだい205ごう付録ふろく辞令じれい」1913ねん4がつ9にち
  40. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  41. ^ 官報かんぽうだい2431ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1920ねん9がつ8にち
  42. ^ 官報かんぽうだい3047ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1922ねん9がつ26にち
  43. ^ 官報かんぽう号外ごうがい授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1928ねん11がつ10日とおか
  44. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  45. ^ 官報かんぽうだい7389ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん2がつ17にち
  46. ^ 官報かんぽうだい8152ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん8がつ23にち
  47. ^ 筒井つついきよしちゅう関東大震災かんとうだいしんさい後藤ごとう新平しんぺい復興ふっこういん挫折ざせつ
  48. ^ こしさわあきら後藤ごとう新平しんぺい大震災だいしんさい帝都ていと復興ふっこう』(ちくま新書しんしょ、2011ねん)p.193。
  49. ^ "軽井沢かるいざわまちの100ねんまな夏季かき大学だいがく 8がつ開講かいこう 自然しぜん交通こうつう文化ぶんかなどのくちで6にん講師こうしまねく". 信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶんデジタル. 信濃毎日新聞しなのまいにちしんぶんしゃ. 7 July 2023. 2024ねん3がつ12にち閲覧えつらん
  50. ^ 阿部あべせんいちかいはなせんずいだん』(ラジオ岩手いわてへん昭和しょうわ33ねん)pp. 91-92
  51. ^ 都市とし計画けいかく Who was Who (14) 後藤ごとう新平しんぺい - 日本にっぽん都市とし計画けいかく学会がっかい
  52. ^ a b c だい56かいNSRI都市とし環境かんきょうフォーラム (no.296) 『デモクラシーの帝都ていと東京とうきょう世界せかいだい一級いっきゅうとなりえた時代じだい都市とし建築けんちく松葉まつば一清かずきよ 武蔵野美術大学むさしのびじゅつだいがく教授きょうじゅ 2012ねん9がつ11にち (火), pp. 30-31
  53. ^ a b 庄司しょうじ潤一郎じゅんいちろう (2003ねん). “戦史せんし研究けんきゅう年報ねんぽう だい6ごう”. www.nids.mod.go.jp. だい1世界せかい大戦たいせん日本にっぽんへの衝撃しょうげき. 防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ. 2020ねん5がつ23にち閲覧えつらん
  54. ^ 裕司ゆうじ日本にっぽん海軍かいぐんきた樺太からふと油田ゆでん利権りけん獲得かくとく工作こうさく」(海軍かいぐん研究けんきゅうかいへん日本にっぽん海軍かいぐん研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2014ねん)59-60ぺーじ黒川くろかわはじめ鶴見つるみ俊輔しゅんすけでん』(新潮社しんちょうしゃ、2018ねん)25ぺーじ
  55. ^ 後藤ごとう新平しんぺいをめぐる権力けんりょく構造こうぞう研究けんきゅう』208-209ぺーじ
  56. ^ 佐野さのまなぶ共産きょうさん主義しゅぎ指導しどうしゃ回想かいそう」(佐野さのまなぶ著作ちょさくしゅう刊行かんこうかいへん発行はっこう佐野さのまなぶ著作ちょさくしゅう だいいちかん』1957ねん)999-1000ぺーじ
  57. ^ 鶴見つるみ俊輔しゅんすけ「〈コメント〉祖父そふ後藤ごとう新平しんぺいについて」(『たまきだい21ごう、2005ねん4がつ)265ぺーじ
  58. ^ 千田せんだ是也これや『もうひとつの新劇しんげき――千田せんだ是也これや自伝じでん』(筑摩書房ちくましょぼう、1975ねん)121-124ぺーじ藤田ふじた富士男ふじお『ビバ! エル・テアトロ! ほのお演出えんしゅつ 佐野さのせき生涯しょうがい』(オリジン出版しゅっぱんセンター、1989ねん)70-75ぺーじ岡村おかむら春彦はるひこ自由じゆうじん佐野さのせき生涯しょうがい』(岩波書店いわなみしょてん、2009ねん)32-35ぺーじ、46-47ぺーじ、51ぺーじ
  59. ^ 藤田ふじた『ビバ! エル・テアトロ!』117-118ぺーじ岡村おかむら自由じゆうじん佐野さのせき生涯しょうがい』88-89ぺーじ
  60. ^ 平野ひらの義太郎よしたろう民族みんぞく政治せいじがく理論りろん』(日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1943ねん)81ぺーじ
  61. ^ 鶴見つるみけんいちだか時代じだい平野ひらのくんおも」(平野ひらの義太郎よしたろう じん学問がくもん編集へんしゅう委員いいんかいへん平野ひらの義太郎よしたろう じん学問がくもん大月書店おおつきしょてん、1981ねん)20-22ぺーじ
  62. ^ りくさんろう戦中せんちゅう戦争せんそう直後ちょくご平野へいや先生せんせい いちきゅうよんさんよんろくねん」(『平野ひらの義太郎よしたろう』)82ぺーじ、86ぺーじ
  63. ^ 安田やすだ常雄つねお「『思想しそう科学かがく』・『解題かいだい」(安田やすだ常雄つねお天野あまの正子まさこへん復刻ふっこくばん思想しそう科学かがく』・『別巻べっかん 戦後せんご啓蒙けいもう思想しそうのこしたもの』久山ひさやましゃ、1992ねん)215ぺーじ
  64. ^ 新村しんむらたけし平野ひらの義太郎よしたろうさんをしのぶ」(『平野ひらの義太郎よしたろう』)77ぺーじ
  65. ^ 安田やすだ「『思想しそう科学かがく』・『解題かいだい」215ぺーじ鶴見つるみ俊輔しゅんすけ思想しそう言葉ことば 態度たいど知識ちしき――『思想しそう科学かがく小史しょうし」(『思想しそう』2009ねんだい5ごう
  66. ^ 鶴見つるみ俊輔しゅんすけ上野うえの千鶴子ちづこ小熊こぐま英二えいじ戦争せんそうのこしたもの 鶴見つるみ俊輔しゅんすけ戦後せんご世代せだいく』(しん曜社、2004ねん)291-292ぺーじ
  67. ^ 「ゼミでしたこと 出会であった人々ひとびと――鶴見つるみ先生せんせいインタヴュー――」(『コレクション 鶴見つるみ和子かずこ曼荼羅まんだらたまきまき――うちはつてき発展はってんろんによるパラダイム転換てんかん藤原ふじわら書店しょてん、1999ねん)321-322ぺーじ
  68. ^ のうさわ壽彦としひこ作成さくせい鶴見つるみ和子かずこ校閲こうえつ「『鶴見つるみ和子かずこ研究けんきゅう年譜ねんぷ」(『鶴見つるみ和子かずこ曼荼羅まんだら Ⅸ』)410ぺーじ
  69. ^ 吉川よしかわいさむいち公式こうしきサイトない略歴りゃくれき」1949ねん
  70. ^ のうさわ作成さくせい鶴見つるみ校閲こうえつ「『鶴見つるみ和子かずこ研究けんきゅう年譜ねんぷ」374ぺーじ
  71. ^ 内山うちやま章子あきこいち周忌しゅうきまでのご報告ほうこく」(『たまきだい31ごう、2007ねん11月)69ぺーじ
  72. ^ 武者小路むしゃのこうじ公秀きんひで鶴見つるみ和子かずこ複数ふくすう東洋とうよう複数ふくすう西洋せいよう 世界せかいむすぶ』(藤原ふじわら書店しょてん、2004ねん)193ぺーじ
  73. ^ 朝日新聞あさひしんぶんデジタル:「水俣みなまたくるしみいまも」石牟礼いしむれさん、皇后こうごうさまに手紙てがみ - 社会しゃかい[リンク]
  74. ^ 鶴見つるみ俊輔しゅんすけ上坂かみさか冬子ふゆこ「“さわやか”だっただい東亜とうあ戦争せんそう」(『Voice』2008ねん9がつごう)163ぺーじ
  75. ^ 鶴見つるみ俊輔しゅんすけ神谷かみや美恵子みえこ管見かんけん」(みすず書房しょぼう編集へんしゅうへん神谷かみや美恵子みえこ世界せかい』みすず書房しょぼう、2004ねん)86ぺーじ
  76. ^ 不破ふわ哲三てつぞういちだか記念きねんさいおもなど」(「前田まえだ陽一よういち そのひとそのぶん編集へんしゅう刊行かんこう委員いいんかいへん発行はっこう前田まえだ陽一よういち そのひとそのぶん』1989ねん)237-240ぺーじ
  77. ^ 加藤かとう恭子きょうこ田島たじま道治みちはる――昭和しょうわに「奉公ほうこう」した生涯しょうがい』(TBSブリタニカ、2002ねん)388-394ぺーじ
  78. ^ Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation, Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.
  79. ^ 松本まつもと重治しげはる聞書ききがき・わがしん自叙伝じじょでん』(講談社こうだんしゃ、1992ねん)184ぺーじ
  80. ^ 小田おだみのる「ヨシユキさん《a concerned citizen》」(『鶴見つるみ良行よしゆき著作ちょさくしゅう月報げっぽうだい10ごう、2002ねん6がつ)1-3ぺーじ
  81. ^ 武藤むとういちひつじ仮説かせつ生産せいさんするヴィジョナリー」(『鶴見つるみ良行よしゆき著作ちょさくしゅう月報げっぽうだい10ごう)4ぺーじ
  82. ^ かた寛子ひろこ「〈解説かいせつ人間にんげん松本まつもと重治しげはるについて」(『聞書ききがき・わがしん自叙伝じじょでん』)215-216ぺーじ
  83. ^ 江森えもりたかし秋篠宮あきしののみやさま』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1998ねん)27-34ぺーじ
  84. ^ 綾部あやべ恒雄つねお秘密ひみつ結社けっしゃ』(講談社こうだんしゃ、2010ねん)193ぺーじ
  85. ^ 中田なかた安彦やすひこ後藤ごとう新平しんぺいは『日本にっぽんのセシル・ローズ』である」(副島そえじま隆彦たかひこ+SNSI副島そえじま国家こっか戦略せんりゃく研究所けんきゅうじょ『フリーメイソン=ユニテリアン教会きょうかい明治めいじ日本にっぽんうごかした』なりかぶと書房しょぼう、2014ねん)243-246ぺーじ、274-275ぺーじ
  86. ^ 中田なかた後藤ごとう新平しんぺいは『日本にっぽんのセシル・ローズ』である」253ぺーじ
  87. ^ 実業じつぎょう日本にっぽんしゃ
  88. ^ 広島ひろしまみなみ似島にのしま”. 広島ひろしま. 2024ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  89. ^ 広島ひろしま似島にのしま検疫けんえきしょ設置せっち後藤ごとう新平しんぺい銅像どうぞう 似島にのしま学園がくえんないから海岸かいがん沿いに移設いせつ”. 中国ちゅうごく新聞しんぶん. 2024ねん6がつ4にち閲覧えつらん
  90. ^ そう参加さんかしゃ140めいによるだい演劇えんげき
  91. ^ 後藤ごとう新平しんぺい生涯しょうがいえがれい4ねん3がつ市民しみんげき 奥州おうしゅう文化ぶんか振興しんこう財団ざいだん”. 『岩手いわてにちにち新聞しんぶん』 (2021ねん10がつ12にち). 2022ねん1がつ10日とおか閲覧えつらん
  92. ^ にちかん基本きほん条約じょうやく調印ちょういん尽力じんりょく しい名家めいか資料しりょうはつ一般いっぱん公開こうかい 悦三郎えつさぶろうぼつ40ねん調査ちょうさシンポも開催かいさい 奥州おうしゅうで21にちから”. 産経新聞さんけいしんぶん. (2009ねん9がつ19にち). https://www.sankei.com/article/20190919-B7OKRZBSZFPYRKGX5NJEWYIY7U/ 2020ねん1がつ21にち閲覧えつらん 
  93. ^ 日本にっぽん有名ゆうめい一族いちぞく』、179ぺーじ
  94. ^ 日本にっぽん有名ゆうめい一族いちぞく』、178-179ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 鶴見つるみ祐輔ゆうすけ後藤ごとう新平しんぺいぜん4かん後藤ごとう新平しんぺいはく伝記でんき編纂へんさんかい、1937-1938ねん/勁草書房しょぼう、1965-1967ねん
  • 『〈決定けっていばん正伝せいでん 後藤ごとう新平しんぺいぜん8かんいちうみ知義ともよし校訂こうてい藤原ふじわら書店しょてん、2004-2007ねん
    • 正伝せいでん 後藤ごとう新平しんぺい 別巻べっかん 後藤ごとう新平しんぺい大全たいぜん』(御厨みくりやたかへん同上どうじょう)。類書るいしょほか多数たすう
  • 後藤ごとう新平しんぺいの「仕事しごと」』(藤原ふじわら書店しょてん編集へんしゅうへん後藤ごとう新平しんぺいぜん仕事しごと」、藤原ふじわら書店しょてん、2007ねん
  • ほし亮一りょういち後藤ごとう新平しんぺいでん 未来みらいつめてきた明治めいじじん平凡社へいぼんしゃ、2005ねん
  • 山岡やまおかあつし一郎いちろう後藤ごとう新平しんぺい 日本にっぽん羅針盤らしんばんとなったおとこくさおもえしゃ、2007ねん
  • 田中たなか重光しげみつあか男爵だんしゃく 後藤ごとう新平しんぺいくさむらぶんしゃ、2011ねん

小説しょうせつ

編集へんしゅう

研究けんきゅうしょ

編集へんしゅう
5めい渋沢しぶさわ栄一えいいち益田ますだたかし安田やすだ善次郎ぜんじろう大倉おおくら喜八郎きはちろう浅野あさの総一郎そういちろう
  • 季刊きかんたまき歴史れきし環境かんきょう文明ぶんめい】』29ごう(2007ねんはる)、特集とくしゅう世界せかい後藤ごとう新平しんぺい後藤ごとう新平しんぺい世界せかい」、藤原ふじわら書店しょてん、2007ねん4がつ
  • 小谷野こやのあつし日本にっぽん有名ゆうめい一族いちぞく 近代きんだいエスタブリッシュメントの系図けいずしゅう』(幻冬舎げんとうしゃ新書しんしょ、2007ねん9がつISBN 9784344980556

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

外部がいぶリンク

編集へんしゅう
公職こうしょく
先代せんだい
水野みずの錬太郎れんたろう
一木いちき喜徳郎きとくろう
  内務ないむ大臣だいじん
だい39だい:1923ねん9がつ2にち - 1924ねん1がつ7にち
だい34だい:1916ねん10がつ9にち - 1918ねん4がつ23にち
次代じだい
水野みずの錬太郎れんたろう
水野みずの錬太郎れんたろう
先代せんだい
水野みずの錬太郎れんたろう
一木いちき喜徳郎きとくろう
  港湾こうわん調査ちょうさかい会長かいちょう
1923ねん - 1924ねん
1916ねん - 1918ねん
次代じだい
水野みずの錬太郎れんたろう
水野みずの錬太郎れんたろう
先代せんだい
水野みずの錬太郎れんたろう
  神社じんじゃ調査ちょうさかい会長かいちょう
  保健ほけん衛生えいせい調査ちょうさかい会長かいちょう
  道路どうろ会議かいぎ議長ぎちょう

1923ねん - 1924ねん
次代じだい
水野みずの錬太郎れんたろう
先代せんだい
新設しんせつ
  帝都ていと復興ふっこういん総裁そうさい
1923ねん - 1924ねん
次代じだい
水野みずの錬太郎れんたろう
先代せんだい
田尻たじり稲次郎いねじろう
  東京とうきょう市長しちょう
だい7だい:1920ねん12月17にち - 1923ねん4がつ27にち
次代じだい
永田ながた秀次郎ひでじろう
先代せんだい
本野ほんの一郎いちろう
  外務がいむ大臣だいじん
だい33だい:1918ねん4がつ23にち - 9月29にち
次代じだい
内田うちだ康哉こうさい
先代せんだい
はやしただし
堀田ほったただしよう
  逓信ていしん大臣だいじん
だい20だい:1912ねん12月21にち - 1913ねん2がつ30にち
だい18だい:1908ねん7がつ14にち - 1911ねん8がつ30にち
次代じだい
元田もとだはじめ
はやしただし
先代せんだい
はらたかし
  鉄道てつどういん総裁そうさい
1912ねん - 1913ねん
次代じだい
床次とこなみ竹二郎たけじろう
先代せんだい
元田もとだはじめ
  拓殖たくしょくきょく総裁そうさい
1912ねん - 1913ねん
次代じだい
元田もとだはじめ
先代せんだい
平井ひらいはれ二郎じろう
帝国ていこく鉄道てつどうちょう総裁そうさい
  鉄道てつどういん総裁そうさい
初代しょだい:1908ねん12月5にち - 1911ねん8がつ30にち
次代じだい
はらたかし
先代せんだい
新設しんせつ
  拓殖たくしょくきょくふく総裁そうさい
1910ねん - 1911ねん
次代じだい
欠員けついん→)宮尾みやおしゅん
先代せんだい
曽根そね静夫しずお
民政みんせい局長きょくちょう
  台湾たいわん総督そうとく府民ふみんせい長官ちょうかん
だい3だい:1898ねん6がつ20日はつか - 1906ねん12月13にち
民政みんせい局長きょくちょう
1898ねん3がつ2にち - 6がつ20日はつか
次代じだい
しゅく辰巳たつみ
先代せんだい
曽根そね静夫しずお
  台湾たいわん中央ちゅうおう衛生えいせいかい会長かいちょう
1898ねん - 1906ねん
次代じだい
しゅく辰巳たつみ
先代せんだい
新設しんせつ
  台湾たいわん総督そうとく鉄道てつどう部長ぶちょう
1899ねん - 1906ねん
臨時りんじ台湾たいわん鉄道てつどう敷設ふせつ部長ぶちょう
1899ねん
次代じだい
長谷川はせがわ謹介
先代せんだい
新設しんせつ
  臨時りんじ台湾たいわん土地とち調査ちょうさきょくなが
1898ねん - 1902ねん
次代じだい
中村なかむらただしおおやけ
先代せんだい
後藤ごとう新平しんぺい
台湾たいわん樟脳しょうのう局長きょくちょう
大島おおしま久満ひさみつ
台湾たいわん総督そうとく製薬せいやく所長しょちょう
  台湾たいわん総督そうとく専売せんばい局長きょくちょう
1901ねん - 1902ねん
次代じだい
しゅく辰巳たつみ
先代せんだい
有田ありたただしもり
局長きょくちょう心得こころえ
  台湾たいわん樟脳しょうのうきょくなが
1900ねん - 1901ねん
次代じだい
後藤ごとう新平しんぺい
台湾たいわん総督そうとく専売せんばい局長きょくちょう
先代せんだい
中浜なかはま東一郎とういちろう
三宅みやけしげる
  医術いじゅつ開業かいぎょう試験しけん委員いいんちょう
1896ねん - 1898ねん
1893ねん
次代じだい
足立あだちひろし
中浜なかはま東一郎とういちろう
先代せんだい
高田たかだ善一ぜんいち
  薬剤師やくざいし試験しけん委員いいんちょう
1895ねん - 1898ねん
次代じだい
足立あだちひろし
先代せんだい
辻岡つじおかきよし
所長しょちょう
  衛生局えいせいきょく東京とうきょう試験しけん所長しょちょう心得こころえ
1883ねん - 1884ねん
次代じだい
長井ながい長義ながよし
所長しょちょう
先代せんだい
横井よこい信之のぶゆき
愛知あいちけん公立こうりつ病院びょういんちょう
愛知あいちけん公立こうりつ医学いがく校長こうちょう
愛知あいち病院びょういんなが
愛知あいち学校がっこうなが

1881ねん - 1884ねん
愛知あいちけん公立こうりつ病院びょういんちょう心得こころえ
愛知あいちけん公立こうりつ医学いがく校長こうちょう心得こころえ
1880ねん - 1881ねん
次代じだい
熊谷くまがい幸之助こうのすけ
愛知あいち病院びょういんちょう
鈴木すずき孝之助こうのすけ
愛知あいち医学いがく校長こうちょう
その役職やくしょく
先代せんだい
寺内てらうち正毅まさき
にち協会きょうかい会頭かいとう
1919ねん - 1929ねん
次代じだい
斎藤さいとうみのる
先代せんだい
新設しんせつ
東京とうきょう市政しせい調査ちょうさかい会長かいちょう
1922ねん - 1929ねん
次代じだい
阪谷さかたに芳郎よしお
先代せんだい
新設しんせつ
少年しょうねんだん日本にっぽん連盟れんめい総長そうちょう
1924ねん - 1929ねん
総裁そうさい
1922ねん - 1924ねん
次代じだい
斎藤さいとうみのる
先代せんだい
青木あおき周蔵しゅうぞう(→停会ていかい
にちどく協会きょうかい会頭かいとう
1926ねん - 1929ねん
次代じだい
山本やまもと悌二郎ていじろう
先代せんだい
新設しんせつ
にちどく文化ぶんか協会きょうかい会長かいちょう
1927ねん - 1929ねん
次代じだい
大久おおひさ保利ほりたけし
先代せんだい
田尻たじり稲次郎いねじろう
東京とうきょう教育きょういくかい会長かいちょう
1922ねん - 1925ねん
次代じだい
松平まつだいらよりゆき寿ことぶき
帝都ていと教育きょういくかい会長かいちょう
先代せんだい
石塚いしづか英蔵えいぞう
台湾たいわん教育きょういくかい会長かいちょう
1904ねん - 1906ねん
次代じだい
しゅく辰巳たつみ
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
陞爵
伯爵はくしゃく
後藤ごとう新平しんぺい初代しょだい
1928ねん - 1929ねん
次代じだい
後藤ごとういちぞう
先代せんだい
陞爵
子爵ししゃく
後藤ごとう新平しんぺい初代しょだい
1922ねん - 1928ねん
次代じだい
陞爵
先代せんだい
叙爵じょしゃく
男爵だんしゃく
後藤ごとう新平しんぺい初代しょだい
1906ねん - 1922ねん
次代じだい
陞爵