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仙台藩 - Wikipedia

仙台せんだいはん

日本にっぽん江戸えど時代じだいに、陸奥みちのくこく所在しょざいしたはん

仙台せんだいはん(せんだいはん)は、江戸えど時代じだいから明治めいじ初期しょきにかけて陸奥みちのくこく仙台せんだいじょうはんちょうき、外様とざま大名だいみょう伊達だて本家ほんけおさめたはんである。伊達だてはん(だてはん)とばれることもある。表高おもてだかは62まんいしであり、所領しょりょうとして現在げんざい宮城みやぎけん全域ぜんいき岩手いわてけん南部なんぶおよび福島ふくしまけん新地しんじまちけいやく60まんせきいちえん知行ちぎょうおさめ、現在げんざい茨城いばらきけん[1]および滋賀しがけん合計ごうけいやく2まんせきがあったが、戊辰戦争ぼしんせんそうのちに28まんせきげんふうとなり、その石高こくだか廃藩置県はいはんちけんむかえた[2]

仙台せんだいはん
62まんせき→28まんせき


たてはんねん 慶長けいちょう6ねん1601ねん
初代しょだい藩主はんしゅ 伊達だてまさしむね
はいはんねん 明治めいじ4ねん7がつ14にち
1871ねん8がつ29にち
最終さいしゅう藩主はんしゅ 伊達だてそうあつし
きゅうくに 陸奥みちのくこく常陸ひたちこく下総しもうさこく近江おうみこく
居城いじろ 仙台せんだいじょう

国主こくしゅ
種類しゅるい 外様とざま大名だいみょう
格式かくしき 国主こくしゅ
江戸城えどじょうひかえあいだ 大広間おおひろま
爵位しゃくい 伯爵はくしゃく
藩主はんしゅ 伊達だて
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概要がいよう

編集へんしゅう

外様とざま大名だいみょう伊達だてまさしむね樹立じゅりつし、以降いこう明治めいじ廃藩置県はいはんちけんまで代々だいだい伊達だて本家ほんけ統治とうちした。伊達だて本家ほんけは、大広間おおひろまつめ国持くにもち大名だいみょう代々だいだい徳川とくがわ将軍家しょうぐんけより松平まつだいらせいゆるされ[3]歴代れきだい藩主はんしゅのほぼ全員ぜんいん陸奥むつまもる官位かんいあたえられ、世嗣せいし殿上てんじょう元服げんぷくたまものいみなへんいみな授与じゅよがあった。

表高おもてだか62まん0056せき54しょう4ごうで、しょはんのうちでだい3[ちゅう 1]だかささえはん一関いちのせきはんふくめ、18世紀せいき初頭しょとうには100まんせきえた。地方ちほう知行ちぎょうによって多数たすう陪臣ばいしんかかえ、直属ちょくぞく家臣かしんやく7000にん江戸えど中期ちゅうき以降いこうにはやく1まんにん)、陪臣ばいしんをあわせて2まんすうせんから3まん兵力へいりょく江戸えど中期ちゅうき以降いこうやく3まん5000にん)をようした。領内りょうない産出さんしゅつまいだい消費しょうひ江戸えど食料しょくりょうささえ、しアワビフカヒレ長崎ながさきたわらぶつとして外貨がいかかせいだ。

仙台せんだい開府かいふまで

編集へんしゅう
 
伊達だてまさしむね肖像しょうぞう

仙台せんだいはん成立せいりつする以前いぜん16世紀せいきなかごろ、現在げんざい宮城みやぎけん北部ほくぶから岩手いわてけん南部なんぶにかけての領域りょういき大崎おおさき葛西かさいおさめていた。また、宮城みやぎけん中部ちゅうぶ留守るす国分こくぶ黒川くろかわ領土りょうどだった。ここに南側みなみがわから、信達しんだち地方ちほう置賜おきたま地方ちほう本拠ほんきょとする伊達だて勢力せいりょくばしており、これらのしょ勢力せいりょく伊達だて影響えいきょうけるようになっていた[4]

1590ねん天正てんしょう18ねん)、天下てんか統一とういつ目指めざ豊臣とよとみ秀吉ひでよし小田原おだわらこう北条ほうじょうくだしたのち宇都宮うつのみや奥州おうしゅう仕置しおきおこなった。伊達だてまさしむねはこの前年ぜんねん会津あいづあし名家めいかほろぼして広大こうだい領土りょうど実現じつげんしていたが、奥州おうしゅう仕置しおきにより旧領きゅうりょうのみが伊達だて所領しょりょうとしてみとめられ、会津あいづりょう没収ぼっしゅうされた。また、この仕置しおきによって、大崎おおさき葛西かさい留守るす黒川くろかわ改易かいえきされた。大崎おおさきおよび葛西かさい旧領きゅうりょう12ぐんには木村きむらよしきよしふうじられたが、まもなく葛西かさい大崎おおさき一揆いっきこった。この一揆いっきせいしゅう蒲生がもうきょうによって鎮圧ちんあつされ、一揆いっき責任せきにんわれた領主りょうしゅよしきよし所領しょりょうげられた。この一揆いっきにはせいむね関与かんようたがわれ、秀吉ひでよし伊達だて本拠ほんきょだった信達しんだち地方ちほう置賜おきたま地方ちほうげ、きゅう大崎おおさき葛西かさいりょうぜんぐんと、刈田かりたぐんのぞいておおよそ現在げんざい宮城みやぎけんちゅう南部なんぶたる部分ぶぶんせいむね領土りょうどとする仕置しおきをおこなった[4]

秀吉ひでよしぬと、せいむね徳川とくがわ家康いえやす接近せっきんした。1600ねん慶長けいちょう5ねん)の家康いえやすによる会津あいづ征伐せいばつでは、せいむね家康いえやすから上杉うえすぎ景勝かげかつたいするそなえをもとめられた。このとき家康いえやすせいむねたいして、秀吉ひでよし没収ぼっしゅうされた伊達だてぐん置賜おきたまぐんなどの旧領きゅうりょう回復かいふくし、所領しょりょうを100まんせきにまで加増かぞうするという約束やくそくをした(いわゆる「ひゃくまんせきのお墨付すみつき」)[4]せいむね上杉うえすぎりょう白石しらいしじょうたたか上杉うえすぎぜいやぶり、上杉うえすぎぜいまれた山形やまがた最上もがみ義光よしみつ援軍えんぐんおくったが、援軍えんぐんには合戦かっせん傍観ぼうかんさせた。一方いっぽうせいむねおな徳川とくがわほうである南部なんぶ利直としなお領地りょうちで、和賀わがただしおや支援しえんして岩崎いわさき一揆いっきこさせた。関ヶ原せきがはらたたかのち論功行賞ろんこうこうしょうで、家康いえやすせいむねみとめたあらたな領地りょうち刈田かりたぐんのみだった[4]

 
仙台せんだいじょう大手門おおてもんすみ仙台せんだい空襲くうしゅう焼失しょうしつし、のち再建さいけんされたもの。

露骨ろこつ野心やしん家康いえやすから警戒けいかいされたせいむねは、戦勝せんしょう有力ゆうりょく大名だいみょうなか最後さいごまで帰国きこくゆるされず、江戸えど天下てんか普請ふしん動員どういんされるなど、2年間ねんかん領国りょうごくがいごした。このあいだ1601ねん慶長けいちょう6ねん)、せいむね国分こくぶ居城きょじょうであった千代ちよじょう修築しゅうちく実質じっしつ新築しんちく)、「仙台せんだいじょう」と改称かいしょうし、それまでの居城きょじょうだった岩出いわで山城やましろからここにうつった。同時どうじ城下町じょうかまち建設けんせつし、せいむね初代しょだい藩主はんしゅとする仙台せんだいはん(62まんせき)が成立せいりつした。1611ねん慶長けいちょう16ねん)に仙台せんだいおとずれたスペインりょうメキシコたいにち特派とくは大使たいしセバスティアン・ビスカイノは、仙台せんだいじょうからろした仙台せんだい城下町じょうかまち様子ようすを「江戸えどおなじくらいのおおきさだが、建物たてものはもっと立派りっぱ」と報告ほうこくしている。この時期じき仙台せんだい城下町じょうかまち人口じんこうは5まんにん推定すいていされている[5]

慶長けいちょうおう使節しせつだん派遣はけん

編集へんしゅう
 
欧州おうしゅうにおける報告ほうこくしょえがかれた支倉はせくら常長つねなが肖像しょうぞう。Faxicuraとの記載きさいがある

せいむね仙台せんだいはんスペインとの通商つうしょう太平洋たいへいよう貿易ぼうえき)を企図きとし、1613ねん慶長けいちょう18ねん)、仙台せんだい領内りょうない西洋せいようしき帆船はんせん黒船くろふね)、サン・ファン・バウティスタごう建造けんぞうした。当時とうじフェリペ3せい国王こくおうとするスペイン帝国ていこくは、世界せかい最大さいだい植民しょくみん帝国ていこくであった。せいむね家臣かしん支倉はせくら常長つねなが外交がいこう使節しせつ任命にんめいすると、常長つねなが中心ちゅうしんとするいちぎょう180余人よにんをノビスパニア(メキシコ)、イスパニア(スペイン)、およびローマ派遣はけんした(慶長けいちょうおう使節しせつ)。当時とうじは、西日本にしにほんはん中心ちゅうしん東南とうなんアジア地域ちいきとの貿易ぼうえき南蛮なんばん貿易ぼうえき)がさかんであったが、せいむね仙台せんだいはんみずからが外国がいこく出向でむいて、ヨーロッパ貿易ぼうえきをすることでおおきな利潤りじゅんようとした。せいむね使節しせつおくった目的もくてきとして、スペインとの軍事ぐんじ同盟どうめい、さらにはそれを利用りようしての倒幕とうばくがあったとのせつもある[6]慶長けいちょうおう使節しせつだん派遣はけんは、たいスペイン貿易ぼうえき志向しこうする徳川とくがわ幕府ばくふ承認しょうにん、すなわち“外交がいこうけん”をたものであった[7]。なお、支倉はせくら常長つねながらは、はじめて太平洋たいへいよう大西おおにしひろし横断おうだん成功せいこうした日本人にっぽんじんでもある。

しかし翌年よくねん幕府ばくふ禁教きんきょうれいし、キリシタンおよび宣教師せんきょうし弾圧だんあつはじめる。この情報じょうほうがヨーロッパにもつたわり、仙台せんだいはんによるスペインとの外交がいこう交渉こうしょう失敗しっぱいわった[ちゅう 2]

幕末ばくまつには藩士はんし玉虫たまむしひだり太夫たゆう日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく使節しせつだんくわわっている[11]

危機きき中興ちゅうこう

編集へんしゅう
 
伊達だて騒動そうどうきた酒井さかい上屋敷かみやしきあと
千代田ちよだまるうち

せいむね1614ねん慶長けいちょう19ねん)からの大坂おおさかじんにもさんじんし、そのは、北上川きたかみがわ河川かせん改修かいしゅうなどの治水ちすい事業じぎょうおこなった。せいむね死後しごあといだ2だい藩主はんしゅちゅうむねは、内政ないせい充実じゅうじつさせるとともに、正室せいしつに2だい将軍しょうぐん徳川とくがわ秀忠ひでただ養女ようじょであるひめ池田いけだ輝政てるまさむすめ家康いえやす孫娘まごむすめ)をむかえるなど、将軍家しょうぐんけとの関係かんけいふかめ、幕府ばくふ従順じゅうじゅん態度たいどしめして警戒けいかいこうと努力どりょくした。しかし、ひめとのあいだ世子せいしひかりむね夭折ようせつすると、櫛笥くしげたかしむすめかいひめとのあいだまれたつなむね後継こうけいしゃになる。ちゅうむねぼっすると、伊達だて騒動そうどうばれるいえ騒動そうどうきる。かいひめあね隆子たかここう西にし天皇てんのう生母せいぼで、つなむね天皇てんのう従兄弟いとこになり、幕府ばくふ警戒けいかいされたとわれ、つなむね隠居いんきょさせられ、幼君ようくんかめせんだいてられた。かめせんだい成人せいじんし、4だい藩主はんしゅ綱村つなむらとなったが、綱村つなむら浪費ろうひによって多額たがく借金しゃっきんし、はん財政ざいせい致命ちめいてき状態じょうたいおとしいれたため、重臣じゅうしんらと対立たいりつして隠居いんきょまれた。

5だい藩主はんしゅ吉村よしむらはん財政ざいせい再建さいけんみ、かいまいせい利用りようして利益りえきげる一方いっぽう幕府ばくふたい仙台せんだいはんないどう利用りようすることを条件じょうけんぜにねが許可きょかた。石巻いしのまき鋳銭場いせんば現代げんだい石巻いしのまきえきまえ地名ちめいのこる)を設置せっちし、寛永かんえい通宝つうほう鋳造ちゅうぞうした。このほかに「仙台平せんだいひら」とばれる絹織物きぬおりもの生産せいさん鉱山こうざん開発かいはつうまさん奨励しょうれいおこなった。これらの財政ざいせい再建さいけんさく成功せいこうにより、吉村よしむら中興ちゅうこうとなえられる。

しかし、6だい藩主はんしゅ宗村むねむらだい発生はっせいしたたかられき飢饉ききんによりかいまいバブルが崩壊ほうかいすると、ふたたはん財政ざいせい破綻はたんする。7だい藩主はんしゅ重村しげむら失政しっせい天明てんめいだい飢饉ききんがあいまって、借金しゃっきん増大ぞうだいするいちぽうであった。19世紀せいき初頭しょとう一時期いちじき家老がろう中村なかむらけいさだ施策しさくにより小康しょうこう状態じょうたいたが、その天保てんぽうだい飢饉ききん海岸かいがん防備ぼうびへの対策たいさく費用ひよう捻出ねんしゅつにより、財政難ざいせいなん壊滅かいめつてき状況じょうきょうへと逆戻ぎゃくもどりしていった。

1836ねん天保てんぽう6ねん)の飢饉ききんへの対応たいおうは、はんによる現物げんぶつ支給しきゅう資金しきん調達ちょうたつ限界げんかいえたため、かく地域ちいきまかされることとなった。白石しろいし片倉かたくられいでは、秋田あきた佐竹さたけきたに3000ひょうれをもうれるなど、過去かこわされたわずかなえんたよったやりくりがおこなわれた。1837ねん天保てんぽう7ねん)にはいると城下じょうかでも扶持ふちまい支給しきゅうとどこおった下級かきゅう藩士はんし騒動そうどうこす、強盗ごうとう放火ほうか多発たはつするなど不穏ふおん状況じょうきょうとなった。同年どうねん2がつには新発田しばたはん豪商ごうしょう市島いちじま次郎じろうはちいえから確保かくほした8000ひょう海路かいろにより到着とうちゃくして救済きゅうさい目途もくとったが、いずれにせよおおくの餓死がししゃ[12]

戊辰戦争ぼしんせんそう敗北はいぼく北海道ほっかいどう開拓かいたく

編集へんしゅう

戊辰戦争ぼしんせんそうこると、明治めいじしん政府せいふから会津あいづはん討伐とうばついのちけて、軍勢ぐんぜい会津あいづとのはんさかいにまですすめた。しかし、藩政はんせいにぎっていた家老がろう但木ただき土佐とさ筋金入すじがねいりの佐幕さばくであり、おなじく佐幕さばく会津あいづはんたたかうつもりははじめからなく、進軍しんぐんかたちだけのものでそれ以上いじょう行動こうどうこさなかった。その会津あいづはん交渉こうしょうおこない、しん政府せいふもとめていた「会津あいづはん全面ぜんめんてき降伏ごうぶくする」ことで合意ごういたが、その数日すうじつ会津あいづはん方針ほうしん転換てんかんして降伏ごうぶく拒否きょひしたため仙台せんだいはん面目めんぼくうしなった。この問題もんだいたいして奥羽おうう14はん白石しらいししろ集結しゅうけつしてはないをおこなった結果けっか白石しらいし会議かいぎ)、会津あいづはん庄内しょうないはん赦免しゃめんもとめる奥羽おううえつ列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいされ、仙台せんだいはんがその盟主めいしゅとなった。

会津あいづ庄内しょうないりょうはん赦免しゃめんもとめる奥羽おううしょはん嘆願たんがんしょは、仙台せんだい派遣はけんされた奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとく総督そうとく九条くじょうみちこうとどけられたが、ふく総督そうとく醍醐だいご忠敬ちゅうけいしも参謀さんぼう世良せら修蔵しゅうぞうが「がつちゅう出陣しゅつじん先立さきだってだい総督そうとくうかがった指令しれい会津あいづ藩主はんしゅ松平まつだいら容保かたもり死罪しざいとあること、また容保かたもりはたしてしん恭順きょうじゅん謝罪しゃざいねがうとならば、諸国しょこくへい退しりぞけ、開城かいじょうしてみずか軍門ぐんもんきたってしゃするが至当しとうであるのに、実情じつじょうれば、かえって現地げんち交戦こうせんじょうあるは顕著けんちょであるから、けっして許容きょようすべきものにあらず」と反対はんたいし、それらの意見いけんけたきゅうじょうにより却下きゃっかされた。

列藩れっぱん同盟どうめい手詰てづまりにおちいなか仙台せんだい藩士はんし姉歯あねは武之たけゆきすすむらが世良せら殺害さつがいするという事件じけんきた。世良せらしん政府せいふによる会津あいづ討伐とうばついのちかたちだけのものしていた仙台せんだいはん不満ふまんっており、融和ゆうわさくうご仙台せんだいはん批判ひはんしたため仙台せんだいはん強硬きょうこうからのいかりをっていた。さらに奥羽おううしょはん列藩れっぱん同盟どうめい結成けっせいしたこと世良せらにとっても予想よそうがい出来事できごとであり、奥羽おううへの不信ふしんかんをますますたかめることになった。奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくは、奥羽おううしょはん兵力へいりょく会津あいづ討伐とうばつ主力しゅりょく計算けいさんしていたためしん政府せいふから派遣はけんされた兵力へいりょくは500めい程度ていどしかおらず、この時点じてん会津あいづ庄内しょうない平定へいていすること不可能ふかのうとなった。世良せらおなじくしも参謀さんぼうであった大山おおやまかくこれすけに、大坂おおさか京都きょうとしん政府せいふぐん主力しゅりょく白河しらかわ方面ほうめん集結しゅうけつさせて、また酒田港さかたこうにも援軍えんぐん派遣はけんさせ、会津あいづ庄内しょうない挟撃きょうげきするむね密書みっしょおくった。その密書みっしょを、以前いぜんから世良せら暗殺あんさつねらっていた姉歯あねは武之たけゆきしんらがれ、その一文いちぶんに「奥羽おううみなてきぎゃくげきだいさくいたりこうづけ」とかれていたこと激怒げきどし、但木ただき土佐とさ了承りょうしょううえで、料亭りょうてい就寝しゅうしんしていた世良せら襲撃しゅうげきし、暗殺あんさつした。

しん政府せいふぐんしも参謀さんぼう殺害さつがいしてしまったことにより、仙台せんだいはん盟主めいしゅとする列藩れっぱん同盟どうめいしん政府せいふとの全面ぜんめん戦争せんそう決意けついする。仙台せんだいはんは、奥羽おうう鎮撫ちんぶ総督そうとくぐん撃破げきはしてきゅうじょう醍醐だいごらの身柄みがら確保かくほし、仙台せんだい城下じょうか軟禁なんきんした。これと呼応こおうして、会津あいづはん白河しらかわじょう攻略こうりゃくした。しかし、融和ゆうわてき赦免しゃめん目的もくてきとした列藩れっぱん同盟どうめい軍事ぐんじてき同盟どうめい変貌へんぼうしたこと拒否きょひかんはん多数たすうあり、とく久保田くぼたはんは、しん政府せいふへの開戦かいせん要請ようせいした仙台せんだいはん使者ししゃて、同盟どうめいから脱退だったいした。仙台せんだいはんないでも重臣じゅうしん三好みよしきよしぼう抗戦こうせん無謀むぼうであるとしてしん政府せいふへの帰順きじゅんうったえていたが、但木ただき土佐とさにより自害じがいまれた。

1868ねん慶応けいおう4ねん)の白河しらかわこうたたかでは会津あいづはんとも列藩れっぱん同盟どうめいぐん主力しゅりょくとなり、平潟ひらかた戦線せんせんにおいても磐城いわきひらはんとも主力しゅりょくになったが、仙台せんだいはんぐん官軍かんぐんより銃器じゅうきりょう性能せいのう圧倒的あっとうてきおとっており、官軍かんぐんへの内通ないつうしゃ続々ぞくぞく各所かくしょ決戦けっせん相次あいついで敗戦はいせん退却たいきゃくしていった。

磐城いわきたたかでは、相馬そうま中村なかむらはんともしん政府せいふぐんたたかうも敗北はいぼくし、このさい仙台せんだいはんりょう防衛ぼうえい優先ゆうせんしてはんさかいである宇多うだぐん駒ヶ嶺こまがみねむらまでげたため孤立こりつ無援むえんおちいった相馬そうま中村なかむらはんしん政府せいふ降伏ごうぶくした。仙台せんだいはん北上ほくじょうするしん政府せいふぐん相馬そうまこう駒ヶ嶺こまがみね付近ふきんたたかったが、さんにわたる攻防こうぼうせんはすべて仙台せんだいはん大敗たいはいわり、はんさかい駒ヶ嶺こまがみね陥落かんらくする。敗北はいぼくかさなるにつれてはんないからは伊達だて一門いちもん中心ちゅうしん降伏ごうぶくろんすようになり、但木ただき土佐とさ対立たいりつしていた遠藤えんどうまことしん藩主はんしゅ伊達だてけいくに主戦しゅせん排除はいじょうったえるなど仙台せんだいはんない混乱こんらんおちいり、本拠地ほんきょち若松わかまつしろ窮地きゅうちにある会津あいづはん救援きゅうえんすることすら出来できなかった。そしてむかえたはたまきとうげたたかでは、しん政府せいふぐん死者ししゃ7めいたいして仙台せんだいはんは46めい死者ししゃ大敗たいはいきっし、9がつ10日とおか、ついにけいくに判断はんだん仙台せんだいはん降伏ごうぶくした。それまで藩政はんせいにぎっていた但木ただきらは退陣たいじんし、わって遠藤えんどうまことしん家老がろうとなり、但木ただきらの身柄みがら謀反ぼうほん首謀しゅぼうしゃとしてしん政府せいふわたし、その主戦しゅせん切腹せっぷくさせた。但木ただき東京とうきょうにて叛逆はんぎゃく首謀しゅぼうつみ斬首ざんしゅとなった。10月には駐屯ちゅうとんしてきた広島ひろしまはんへい地元じもと信仰しんこう無視むしして白鳥しらとりりをはじめたのをきっかけに、船岡ふなおか領主りょうしゅ柴田しばた家臣かしんしん政府せいふぐんけて発砲はっぽうし、領主りょうしゅ柴田しばたひろ切腹せっぷく家臣かしんら2にん斬首ざんしゅされる事件じけん発生はっせいしている(白鳥しらとり事件じけん[13][14]

政府せいふにより謀反むほんせめわれた藩主はんしゅけいくに12月7にち謹慎きんしんおよび領地りょうち没収ぼっしゅうとなった。しかし12にちには息子むすこそうはじめに28まんせきあらためてあたえられた[15]

このげんふうへの対応たいおう仙台せんだいはんは、在郷ざいきょう家臣かしんらに帰農きのうめいじ、直轄ちょっかつりょう出来できるだけ保持ほじする一方いっぽうで、まんせききゅうだいりょうはんない領主りょうしゅ領地りょうちすうひゃくせきあるいはすうじゅうせき大幅おおはば削減さくげんした。陪臣ばいしんしゅとしてまんせききゅう領主りょうしゅ家来けらい20,000にんあまり)を解雇かいこして士族しぞくせきあたえなかった。このため伊達だてくにただしくになり兄弟きょうだいをはじめとする領主りょうしゅたちは、みずからの家臣かしんだん救済きゅうさいのため、私費しひとうじて北海道ほっかいどう開拓かいたくのために移住いじゅう開始かいしした。

仙台せんだいはん直営ちょくえい事業じぎょうとしては、ぶんりょうとしてあたえられた沙流さるぐん三好みよしきよしあつしほしまこと太郎たろう開拓かいたくしたものがある。また、城下町じょうかまち仙台せんだいでは、さむらいまちだったひがし一番丁いちばんちょう没落ぼつらく士族しぞくたちが商売しょうばいはじめ、これが現在げんざい中心ちゅうしん商業しょうぎょう一番町いちばんちょう」へとつながっていく。

政府せいふ接収せっしゅうしていた仙台せんだいはん主要しゅよう施設しせつには政府せいふ施設しせつ設置せっちされていった。仙台せんだいじょうまるには東北とうほく鎮台ちんだい仙台せんだい鎮台ちんだい陸軍りくぐんだい師団しだん)がかれ、さんまるへいじょうになった。伊達だてまさしむね隠居いんきょした若林わかばやししろ若林わかばやし由来ゆらいになった)は、宮城みやぎしゅうかん現在げんざい宮城みやぎ刑務所けいむしょ)となり、西南せいなん戦争せんそうなか捕縛ほばくへい収容しゅうよう施設しせつになっていた。

蝦夷えぞ支配しはいのために白老しらおいかれた仙台せんだいはん陣屋じんや白老しらおい仙台せんだいはん陣屋じんやあととしてのこっている。

廃藩置県はいはんちけん仙台せんだいけん誕生たんじょう

編集へんしゅう

1869ねん明治めいじ2ねん12月7にち陸奥みちのくこくが5分割ぶんかつされたため、仙台せんだいはん陸奥みちのく国領こくりょうりく中国ちゅうごく陸前りくぜんこく磐城いわきこくわたることになったが、戊辰戦争ぼしんせんそうやぶれた仙台せんだいはん同日どうじつ62まんいしから28まんせきげんふうされ、陸前りくぜんこくよりさらにせまげん宮城みやぎけん中部ちゅうぶめるのみとなった(はこかん戦争せんそう終結しゅうけつまえだが仙台せんだいはん蝦夷えぞりょううしなったとられる)。

1871ねん明治めいじ4ねん7がつ14にち廃藩置県はいはんちけんにより、仙台せんだいはん廃止はいしされ、おな領域りょういき仙台せんだいけんかれた。はいはん仙台せんだいはん債務さいむは、国内こくないに110まん8000えんあまり、国外こくがいやく11まん8000えん政府せいふ国内こくない債務さいむだい部分ぶぶん対外たいがい債務さいむ一部いちぶ破棄はきし、一部いちぶをかつて仙台せんだいはん蔵元くらもとつとめた豪商ごうしょう升屋ますやはらわせることとし、のこりを政府せいふ公債こうさいとしてけた[16]。これによって、仙台せんだいはんは、仙台せんだいけん角田つのだけん登米とよねけん胆沢いさわけんかれた。最終さいしゅうてきに、きゅう仙台せんだいはん北部ほくぶ現在げんざい岩手いわてけん北上ほくじょうからみなみ地域ちいき沿岸えんがんでは気仙けせんぐん)は岩手いわてけんまれ、現在げんざい新地しんじまち福島ふくしまけん編入へんにゅうされ、そののほとんどの部分ぶぶん宮城みやぎけんへとなっていく。

同年どうねん4がつ23にち石巻いしのまきけん石巻いしのまきかれた東山ひがしやまみち鎮台ちんだい本営ほんえいが、同年どうねん8がつ20日はつか廃止はいしされ、わりに東北とうほく鎮台ちんだい本営ほんえい仙台せんだいかれることになった[17]同年どうねん11月1にち当時とうじ仙台せんだい中心ちゅうしんである国分こくぶまちもと外人がいじん[ちゅう 3]東北とうほく鎮台ちんだい本営ほんえい仮設かせつされた[18]

歴代れきだい藩主はんしゅ

編集へんしゅう
伊達だて(だて)松平まつだいら陸奥むつもり

外様とざま 大広間おおひろま 国主こくしゅ大身たいしん国持くにもち) 62まんせき→28まんせき

  1. せいむね
  2. ちゅうむね
  3. つなむね
  4. 綱村つなむら[ちゅう 4]
  5. 吉村よしむら
  6. 宗村むねむら
  7. 重村しげむら
  8. ひとしむら
  9. しゅうはじめ[ちゅう 5]
  10. ひとしそう
  11. ひとしよし
  12. ひとしくに
  13. けいくに 戊辰戦争ぼしんせんそう謹慎きんしん処分しょぶんおよび領地りょうち没収ぼっしゅう[19]
  14. そうはじめ 28まんせき相続そうぞくみとめられる[20]伯爵はくしゃく
  15. そうあつし そうはじめ幼少ようしょうにつき仙台せんだいはん知事ちじ就任しゅうにん廃藩置県はいはんちけん男爵だんしゃく

経済けいざい人口じんこう

編集へんしゅう

仙台せんだいはんおも産物さんぶつこめである。江戸えど時代じだいには、北上川きたかみがわ流域りゅういき湿地しっちたい開拓かいたくなどの新田にった開発かいはつにより、18世紀せいき以降いこう内高うちだかやく100まんせきたっするほどおおくのべい農作物のうさくもつ収穫しゅうかくできるようになった。また、かいまいせいばれる事実じじつじょう専売せんばい制度せいど導入どうにゅうされていた。そのこめ海路かいろ江戸えどはこんでおおきな利益りえきた。萱場かやば木工もっこうの『古伝こでんみつよう』によると、だい凶作きょうさくでないかぎ仙台せんだいはん毎年まいとしやく25まん - 30まんせきべい農産物のうさんぶつおも大豆だいず)を輸出ゆしゅつしていたが、このうち10まんせき江戸えど以外いがい輸出ゆしゅつされる「だついし」となり、また南部なんぶはんから輸入ゆにゅうされた「北米ほくべい」5まんせきくわえ、石巻いしのまきより江戸えど毎年まいとしやく20まん - 25まんせきべい農産物のうさんぶつ輸送ゆそうされた。このうち江戸えどでの登米とよねやくまいのぞやく半分はんぶんの10まんせきが「仙台せんだいまい」として江戸えど流通りゅうつうしたという。仙台せんだいまい江戸えどへの輸出ゆしゅつはじまったのは寛永かんえい9ねん(1632ねん)で、明和めいわ7ねん(1770ねん)にかれた 『煙霞えんか綺談きだん』は「こん江戸えど三分一さんぶいち奥州おうしゅうまいなり」と記述きじゅつしている。一部いちぶべい海産物かいさんぶつとともに大坂おおさかにもはこばれ、仙台せんだいはんだいさか蔵屋敷くらやしき設置せっちしていた。石巻いしのまきはこれらの航路こうろ拠点きょてんとしておおいに発展はってんした。

以下いか一関いちのせきはんふくめた仙台せんだいはんないだか(1かん=10せき換算かんさん)の変遷へんせんをまとめる。表高おもてだかは62まん0056せき54しょうだが、新田にった開発かいはつにより18世紀せいき初頭しょとう内高うちだかは100まんせきえた[21]

仙台せんだい一関いちのせきはん内高うちだか変遷へんせん
元号げんごう 西暦せいれき こう (石高こくだか換算かんさん) 出典しゅってん
天正てんしょう 1591ねんごろ 428,142.57 仙台せんだいこくぐん方式ほうしき
ぶんろく 1595ねんごろ 513,771.08 仙台せんだいこくぐん方式ほうしき
慶長けいちょう3ねん 1598ねん 557,602.00 仙台せんだい叢書そうしょべつしゅう
慶長けいちょう6ねん 1601ねん 600,000.00 伊達だて記録きろく抜書ぬきがき
寛永かんえい11ねん 1634ねん (りょうだか) 600,000.00 将軍家しょうぐんけこうはんぶつ
(本地ほんじぶん) 654,110.88 寛永かんえいそう検地けんち
寛永かんえい17ねん 1640ねん 745,293.38 せんこくぐん方式ほうしき (寛永かんえいそう検地けんちだか)
寛文ひろふみ3ねん 1663ねん 829,801.82 せんこく郡村こおりむらしょ旧記きゅうきしょう
のべたから4ねん 1676ねん 850,057.30 御蔵おぐらにゅうのべたからよんねんこれしょじょう
貞享ていきょう元年がんねん 1684ねん 930,195.42 せんこく郡村こおりむらしょ旧記きゅうきしょう
貞享ていきょう2ねん 1685ねん 930,208.76 せんこく郡村こおりむらしょ旧記きゅうきしょう
貞享ていきょう3ねん 1686ねん 935,383.23 せんこく郡村こおりむらしょ旧記きゅうきしょう
元禄げんろく 1690ねんごろ 945,084.40 せんこく郡村こおりむらしょ旧記きゅうきしょう
宝永ほうえい7ねん 1710ねん 839,991.80 武家ぶけ手控てびかえ
とおる2ねん 1717ねん 995,880.00 仙台せんだい叢書そうしょべつしゅう
とおる3ねん 1718ねん 1,007,676.91 出入でいりしょくかん
もとぶん3ねん 1738ねん 1,016,486.99 出入でいりしょくかん
のべとおる元年がんねん 1744ねん 1,019,953.62 出入でいりしょくかん
たかられき4ねん 1754ねん 1,021,831.68
(奥州おうしゅうぶん) 999,002.76
古伝こでんみつよう
文化ぶんか12ねん/文化ぶんか13ねん 1815ねん/1816ねん 1,017,218,30 伊達だて出入でいり文書ぶんしょ
文政ぶんせい7ねん 1824ねん 1,009.461.00 財用ざいようかたじゅうヶ条かじょう申達しんたつとめ
天保てんぽう9ねん 1838ねん 1,014,909.76 伊達だて勘定かんじょうかた
よしみなが5ねん 1852ねん 1,012,829.42
(奥州おうしゅうぶん) 947,736.95
伊達だて勘定かんじょうかた
安政あんせい元年がんねん 1856ねん 1,013,521.62 伊達だて出入でいり文書ぶんしょ
明治めいじ元年がんねん 1868ねん (奥州おうしゅうぶん) 980,000.00 きゅう仙台せんだいはんおさむ概要がいよう

以上いじょうはんない租税そぜい算出さんしゅつ基礎きそとなる内高うちだかでの数字すうじであるが、寛政かんせい9ねん(1797ねん)にかれた萱場かやば木工もっこうの『古伝こでんみつよう』によると、奥州おうしゅう領分りょうぶんないだか99まん9002せき76しょうたいしてみつぎ租率53%の52まん9476せき76しょう2ごう8しゃく税収ぜいしゅうとし、実際じっさいべい収穫しゅうかくだか税収ぜいしゅうの3ばい雑穀ざっこく収穫しゅうかくだか税収ぜいしゅうとほぼおなじであるという過剰かじょう仮定かていにより、仙台せんだいはん奥州おうしゅう領分りょうぶんべい雑穀ざっこくだか合計ごうけい税収ぜいしゅうの4ばい内高うちだかの2.12ばい)の211まん7906せき15しょう1ごう見積みつもっている。また江戸えど時代じだい末期まっき安井やすい息軒そくけんの『読書どくしょあまりてき』には「ひゃくまんせきあまり」、おなじく江戸えど時代じだい末期まっき帆足ほあし万里ばんりの『ひがしせんおっとろん』には「ひゃくじゅうまんせき」との記述きじゅつがある。このことから仙台せんだいはんだかは200まん - 250まんせきたっしたとするせつひろ流布るふしているが、これらの数字すうじいずれも推論すいろんもとづく誇張こちょうされた数字すうじであり、実態じったいとかけはなれている[ちゅう 6]地租ちそ改正かいせいきゅう仙台せんだいはん領分りょうぶん明治めいじ10ねん - 明治めいじ12ねんさんヶ年かねん平均へいきん農作物のうさくもつまい換算かんさん石高こくだかは130まんせきうちべい91まんせき大豆だいず12まんせき米価べいか換算かんさんで12まんせき相当そうとう)、大麦おおむぎ22まんせき米価べいか換算かんさんで10まんせき相当そうとう)など)であり[22]豊作ほうさくべい収穫しゅうかくだかだけで内高うちだか上回うわまわることがあったというのが実態じったいである。

寛永かんえい17ねん(1640ねん)の検地けんちだか7まん4529かん338ぶん(74まん5293せき38しょう相当そうとう)にめる田畑たはたこう反別たんべつ以下いかとおりで、べい収穫しゅうかくだかそう農産のうさんだかの8わり以上いじょうめていた。また雑穀ざっこくとしては大豆だいず重要じゅうよう商品しょうひん作物さくもつとしてひろ栽培さいばいされたが、冷害れいがいつよいとされるヒエ商品しょうひん価値かちひくく、あまり栽培さいばいされなかった[21]

寛永かんえい17ねんそう検地けんち
はたけ茶畑ちゃばた こう (石高こくだか換算かんさん) 反別たんべつ 1まちたり収量しゅうりょう
608,571.66 5まん0244まち4たん2うね22 12せき11しょう2ごう2しゃく
はたけ 126,048.98 4まん5109まち6たん6うね13 2せき79しょう4ごう3しゃく
茶畑ちゃばた 10,672.74 305まち4たん7うね19 3せき49しょう3ごう9しゃく
合計ごうけい 745,293.38 9まん5659まち5たん6うね24 7せき79しょう4しゃく

またのべたから4ねん(1676ねん)にはくら入地いりじが31%をめていたが、貞享ていきょう年間ねんかん(1684ねんごろ)では以下いかのような知行ちぎょう構成こうせいとなっており、くら入地いりじ若干じゃっかん減退げんたいしている。

貞享ていきょう年間ねんかん知行ちぎょう
こう反別たんべつ 合計ごうけい 本地ほんじ 新田にった 茶畑ちゃばた
こう合計ごうけい石高こくだか換算かんさん 935,383.23 765,606.48 159,487.57 10,289.18
 うち御蔵おぐらいれ 278,809.43 214,253.67 54,472.43 10,083.33
 うち給人きゅうにん 655,131.69 549,937.13 104,909.09 195.43
 うちじょ屋敷やしき 1,442.11 1415.68 16.05 10.38
本地ほんじ新田にった反別たんべつ (町歩ちょうぶ) 126,190 99.606 26.584
 うち 66,183 52,663 13.520
 うちはたけ 60,007 46,943 13.064
1まちたり収量しゅうりょう 7せき41しょう2ごう5しゃく 7せき68しょう6ごう3しゃく 5せき99しょう9ごう4しゃく

田畑たはた反別たんべつ安永やすなが4ねん(1775ねん)には13まん1031まち7たん3うねにまで増加ぞうかし、御蔵おぐら入地いりじ割合わりあいも、幕末ばくまつ安政あんせい3ねん(1858ねん)には39%まで増加ぞうかした。しかしながら依然いぜんとして御蔵おぐら入地いりじ割合わりあいひくく、これが凶作きょうさくなどの緊縮きんしゅく財政ざいせいにはおおきな負担ふたん仙台せんだいはんあたえた。たとえばちゅう津川つがわ武蔵むさしの『在方ざいかた全体ぜんたい犠等品々しなじな奉行ぶぎょうしゅ聞届ききとどけ取調とりしらべじゅうヶ条かじょう申達しんたつこうとめ』によると、文政ぶんせい6ねん(1823ねん)において御蔵おぐら入地いりじからの年貢ねんぐは、べい7まん1900せき大豆だいず4300せきかね4まん2000りょうぎなかった[21]

このようにこめたよりすぎた経済けいざいは、はん産品さんぴん開発かいはつ動機どうきうしなわせ、はん財政ざいせいべい出来でき不出来ふできおよびべい相場そうば状況じょうきょうによって翻弄ほんろうされ、不安定ふあんていであった。とくかいまいせい凶作きょうさくよわく、凶作きょうさくきればはんだい借金しゃっきんかかえ、豊作ほうさくでかつべい相場そうば高値たかね推移すいいとしには積年せきねん借金しゃっきん一気いっき返済へんさいできてしまうといった具合ぐあいである。まさに「農業のうぎょう博打ばくちである」という格言かくげんはん経営けいえいであった。仙台せんだいはん幕府ばくふ提出ていしゅつした報告ほうこくしょによれば、天明てんめい3ねん(1783ねん)、天明てんめい4ねん(1784ねん)にはそれぞれ56まん5000せき、53まん2000せきそんだか計上けいじょうし、内高うちだかベースでのべい生産せいさんだか平年へいねん半分はんぶんであったという。また天保てんぽう7ねん(1836ねん)には91まん5784せきそんだか計上けいじょうし、べい生産せいさんだかは10まんせきしかなかった[ちゅう 7]

また、凶作きょうさくこると領内りょうない大変たいへん食料しょくりょう不足ふそく見舞みまわれ、農民のうみんだけではなく武士ぶし階級かいきゅうものまでが餓死がししたとつたえられているが、これははんにはまったられない現象げんしょうであった。実際じっさい天明てんめい元年がんねん(1781ねん)に50まん2124にんかぞえた陸奥むつりょう内郡うちこおりかた人口じんこうは、天明てんめいだい飢饉ききん寛政かんせい元年がんねん(1789ねん)には40まん9632にんにまで減少げんしょうしている。死因しいんとしてはだい凶作きょうさくによる餓死がしよりも、体力たいりょくおとろえたところで流行りゅうこうした疫病えきびょう(「傷寒しょうかん」(ちょうチフスか)、「びょう」など)のほうはるかにおおきく、餓死がし20まんにんというのはおおげさな伝聞でんぶんといえるものの、はん全体ぜんたい人口じんこうが10まんにん単位たんい減少げんしょうしたのは事実じじつである。凶作きょうさく原因げんいんとしては、やませによる冷害れいがい天明てんめい3ねん(1783ねん)にきた浅間山あさまやまだい噴火ふんかのほか、新田にった開発かいはつ集中しゅうちゅうした北上川きたかみがわ洪水こうずいによる度重たびかさなる水害すいがいげられる。一方いっぽう飢饉ききん人為じんいてき要因よういんとしてはかいまい廻米かいまい制度せいどげられる。たとえば天明てんめいだい飢饉ききんでは凶作きょうさく前年ぜんねん天明てんめい2ねん(1782ねん)に投機とうきてき廻米かいまいのため、食糧しょくりょう備蓄びちくくずしたことも飢饉ききん拍車はくしゃけたと五十嵐いがらしそう左衛門さえもんの『飢饉ききんろく』で糾弾きゅうだんされている。18世紀せいきちゅうごろから幕末ばくまつまでは、仙台せんだいはん新田にった開発かいはつとどこおり、ほぼ内高うちだか100まんせきのまま推移すいいした。

以下いか一関いちのせきはんふくめた仙台せんだいはん構成こうせいべつ人口じんこう変遷へんせんをまとめる[21]ひょうにまとめた人口じんこうほか陸奥むつりょう一関いちのせきはんぐんかた人口じんこうについては年代ねんだいのものも記録きろくとしてのこっているが、これらについては江戸えど時代じだい日本にっぽん人口じんこう統計とうけい参照さんしょう。またひょうちゅうとおる2ねん(1717ねん)の数値すうち地域ちいきべつ人口じんこうで、陸奥むつりょう一関いちのせきはんぐんかた人口じんこうこうしめされている数字すうじ武家ぶけとうふくむ。

 
仙台せんだいはん陸奥むつりょうぐんかた人口じんこう一関いちのせきはんのぞく)、仙台せんだい一関いちのせきはんそう人口じんこう変遷へんせん[21][ちゅう 8]
仙台せんだい一関いちのせきはん構成こうせいべつ人口じんこう変遷へんせん
身分みぶん地域ちいき 寛文ひろふみ8ねん

(1668ねん

のべたから2ねん

(1674ねん

貞享ていきょう3ねん

(1686ねん

元禄げんろく3ねん

(1690ねん

元禄げんろく8ねん

(1695ねん

元禄げんろく15ねん

(1702ねん

とおる2ねん

(1717ねん

とおる17ねん

(1732ねん

ひろし2ねん

(1742ねん

たかられき7ねん

(1757ねん

天明てんめい6ねん

(1786ねん

寛政かんせい元年がんねん

(1789ねん

とおる2ねん

(1802ねん

文政ぶんせい8ねん

(1825ねん

文政ぶんせい11ねん

(1828ねん

慶応けいおう3ねん

(1867ねん

一門いちもんしょしょくみしょ職人しょくにん 151,211 176,057 194,203 205,916 × 185,570 133,174 143,208 149,465
 仙台せんだいはん 202,541 × 182,678 171,639 130,509 140,438 146,352
 岩沼いわぬま一関いちのせきはん 3,375 × 2,892 2,665 2,770 3,113
仙台せんだい町方まちかた 18,493 20,073 22,501 22,706 × 20,374 11,610 13,302 13,749
仙台せんだい寺院じいんかた 9,209 9,224 2,554 2,884 × 6,249 4,007 4,496 4,695
ぐんかた 428,955 515,472 557,019 599,241 588,251 617,323 × 647,427 603,868 447,491 478,064 519,893
 陸奥むつりょう 473,892 512,941 507,900 542,268 819,162 559,204 534,901 411,496 409,632 440,799 481,180 490,571 556,983
 岩沼いわぬま一関いちのせきはん 41,580 25,756 26,694 31,314 26,293 21,877 20,259 21,671 23,032
 近江おうみりょう 8,332 9,095 9,380 8,917 7,982 8,089 8,129
 常陸ひたちりょう 9,990 10,194 9,840 9,299 7,611 7,358 7,402
 下総しもうさりょう (1712ねん以降いこう) 150 155 143 147 150
そう人口じんこう 607,868 720,826 776,277 819,749 869,846 816,061 596,282 598,001 639,070 687,802 699,334

ひょうしめすように、仙台せんだいはんそう人口じんこうめる武家ぶけ割合わりあいは22 - 25%と非常ひじょうたかかった。しかしながら明治めいじ2ねん時点じてんで3まん3128いえ17まん2239にんいた士分しぶんうち陪臣ばいしん2まん3477いえ11まん5771にんのほぼすべてと、伊達だて直属ちょくぞく家臣かしんだん9651いえ5まん6468にんうち1993いえ9965にん帰農きのうすることとなり、士卒しそつぞく地位ちいたのは士族しぞく2まん9408にんそつぞく1まん3091にんのみである。

水産すいさんぎょうでは三陸さんりくおき漁場ぎょじょうち、良港りょうこうめぐまれたことなどから、三陸海岸さんりくかいがんれるアワビサメを、あわびやフカヒレに加工かこうして「長崎ながさきたわらぶつ」としてきよし輸出ゆしゅつしていた。とく三陸さんりくさんしアワビは仙台せんだいはんりょう気仙けせんぐん吉浜よしはまむらげん岩手いわてけん大船渡おおふなと)から名前なまえって「きちひんあわび(カッパンパオ)」とばれていた。

ほそくら鉱山こうざんから採掘さいくつされるぎん涌谷わくやまち採掘さいくつされるきむ、など鉱山こうざん資源しげん日本にっぽん国内こくないとしては豊富ほうふであり、鉄鋼てっこうぎょう奨励しょうれいした。

仙台せんだいうまさんてきした地域ちいきであったことからはんをあげて育成いくせいつとめていた[23]

上記じょうきほかしおうるし煙草たばこ紅花べにばなはんせん売品ばいひんであった。

このようなめぐまれた環境かんきょうではあったが、御蔵おぐら入地いりじからの年貢ねんぐやく10まん - 20まんせき程度ていど変動へんどうした。江戸えど時代じだい後期こうき以降いこう先述せんじゅつかたよったはん財政ざいせいに、天明てんめいだい飢饉ききん天保てんぽうだい飢饉ききんなどの凶作きょうさく欧米おうべい列強れっきょうたいする海岸かいがん防備ぼうびによる出費しゅっぴはん財政ざいせい直撃ちょくげきした。天保てんぽう10ねんには幕府ばくふ許可きょかをもらって参勤交代さんきんこうたい延期えんきする状況じょうきょうであったが、幕末ばくまつにはしばみん藩札はんさつ発行はっこうおこなって経済けいざい混乱こんらんこし、但木ただき成行しげゆきは、表高おもてだか62まんせきでありながら10まんせき分限ぶげんでのはん財政ざいせい運営うんえい宣言せんげんした。

知行ちぎょう構成こうせい

編集へんしゅう

はんりょう

編集へんしゅう

のぞ陸奥みちのく国内こくない21ぐんは、20の代官だいかんけられ、これをおく中奥なかおく北方ほっぽう南方なんぽうの4にんぐん奉行ぶぎょう統括とうかつした。

ぐん奉行ぶぎょう 代官だいかん 代官だいかんしょ
おきぐん奉行ぶぎょう 江刺えさしぐん 岩谷堂いわやどう代官だいかんしょ江刺えさしぐん片岡かたおかむら
胆沢いさわ郡上ぐじょう胆沢いさわ 水沢みずさわ代官だいかんしょ胆沢いさわぐん塩竈しおがまむら
胆沢いさわぐん胆沢いさわ
磐井いわいぐん西にし岩井いわい
前沢まえさわ代官だいかんしょ胆沢いさわぐん前沢まえさわむら
山目やまのめ代官だいかんしょ磐井いわいぐん山目やまのめむら
磐井いわいぐん東山ひがしやま北方ほっぽう
磐井いわいぐん東山ひがしやま南方なんぽう
大原おおはら代官だいかんしょ磐井いわいぐん大原おおはらむら
千厩せんまや代官だいかんしょ磐井いわいぐん千厩せんまやむら
気仙けせんぐん
本吉もとよしぐん北方ほっぽう
今泉いまいずみ代官だいかんしょ気仙けせんぐん今泉いまいずみむら
気仙沼けせんぬま代官だいかんしょ本吉もとよしぐん気仙沼けせんぬま本郷ほんごう
中奥なかおくぐん奉行ぶぎょう 栗原くりはらぐん一迫いちはさま
栗原くりはらぐんせり
宮野みやの代官だいかんしょ栗原くりはらぐんかみ・しも宮野みやのむら
栗原くりはらぐん三迫みさこ
磐井いわいぐんりゅう
金成かねなり代官だいかんしょ栗原くりはらぐん金成かねなりむら
栗原くりはらぐん佐沼さぬま
登米とよねぐん
佐沼さぬま代官だいかんしょ栗原くりはらぐん北方きたかたむら
本吉もとよしぐん南方なんぽう
桃生ものうぐん桃生ものう
横山よこやま代官だいかんしょ本吉もとよしぐん北沢きたざわむら
飯野いいのがわ代官だいかんしょ桃生ものうぐん相野谷あいのやむら
牡鹿おしかぐん 石巻いしのまき代官だいかんしょ牡鹿おしかぐん石巻いしのまきむら
北方きたかたぐん奉行ぶぎょう 遠田えんたぐん
栗原くりはらぐん栗原くりはら
田尻たじり代官だいかんしょ遠田えんたぐん田尻たじりむら
桃生ものうぐん深谷ふかや こうふち代官だいかんしょ桃生ものうぐんひろふちむら
玉造たまつくりぐん
志田しだぐん
岩出山いわでやま代官だいかんしょ玉造たまつくりぐん岩出山いわでやま本郷ほんごう
古川ふるかわ代官だいかんしょ志田しだぐん古川ふるかわむら
加美かみぐん
黒川くろかわぐん黒川くろかわ
中新田なかにいだ代官だいかんしょ加美かみぐん中新田なかにいだむら
吉岡よしおか代官だいかんしょ黒川くろかわぐん今村いまむら
宮城みやぎぐん高城たかぎ
黒川くろかわぐん大谷おおや
桃生ものうぐん宮戸みやととう
高城たかぎ代官だいかんしょ宮城みやぎぐん高城本たかじょうほんきょう
南方なんぽうぐん奉行ぶぎょう 宮城みやぎぐん国分こくぶ 原町はらまち代官だいかんしょ宮城みやぎぐんみなみむら
宮城みやぎぐんくがかた
宮城みやぎぐん浜方はまかた
塩竈しおがま代官だいかんしょ宮城みやぎぐん塩竈しおがまむら
名取なとりぐん北方ほっぽう
名取なとりぐん南方なんぽう
長町ながまち代官だいかんしょ名取なとりぐん根岸ねぎしむら
増田ますだ代官だいかんしょ名取なとりぐん増田ますだむら
柴田しばたぐん
刈田かりたぐん
大河原おおかわら代官だいかんしょ柴田しばたぐん大河原おおがわらむら
白石しらいし代官だいかんしょ刈田かりたぐん白石しらいし本郷ほんごう
伊具いぐぐん
亘理わたりぐん
宇多うだぐん
金津かなづ代官だいかんしょ伊具いぐぐん尾山おやまむら
亘理わたり代官だいかんしょ亘理わたりぐん小堤こづつみむら

関ヶ原せきがはらたたかいの功績こうせきにより、慶長けいちょう5ねん(1600ねん)に刈田かりたぐん3まん8000せき加増かぞうけるが、せいむね不服ふふくうったつづけ、慶長けいちょう6ねん(1601ねん)には近江おうみこく蒲生がもうぐんない5000せき慶長けいちょう11ねん(1606ねん)には常陸ひたちこく信太しだぐん筑波つくばぐん河内かわちぐんない1まんせき寛永かんえい11ねん(1634ねん)には近江おうみこく蒲生がもうぐんない5000せき加増かぞうった。この結果けっか陸奥むつ国内こくないいちえん知行ちぎょうに60まんせき陸奥むつ国外こくがいとして近江おうみこくに1まんせき常陸ひたちこくに1まんせき合計ごうけい62まんせきとなり、これが幕末ばくまつまでの仙台せんだいはん基本きほんてき石高こくだかとなった。その常陸ひたち国内こくない伊達だて所領しょりょう替地かえちなんおこなわれ、正徳しょうとく2ねん(1712ねん)に下総しもふさこく豊田とよだぐんないまれたことにより、以降いこう幕末ばくまつまで本土ほんどにおけるささえはんふく仙台せんだいはん所領しょりょう62まん0056いし54ます1おく1185まん1999リットル9.3 - 9.9まんトン)が確定かくていした。

徳川とくがわ家宣いえのぶの『継目つぎめばんぶつ記載きさい石高こくだか(表高おもてだか)と維新いしんの『きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう記載きさい石高こくだか(内高うちだか)
きゅうくに ぐんめい 継目つぎめばんぶつ きゅうこう旧領きゅうりょう取調とりしらべちょう
むらすう 石高いしたか(表高おもてだか) むらすう 石高いしたか(内高うちだか)
陸奥みちのくこく 桃生ものうぐん いちえん 65 19,748.470 65 73,441.62000
牡鹿おしかぐん いちえん 60 5,420.460 60 14,927.35000
登米とよねぐん いちえん 24 18,271.060 24 41,791.37000
磐井いわいぐん いちえん 86 59,317.010 86 84,007.06000
本吉もとよしぐん いちえん 33 15,173.100 33 21,682.68000
気仙けせんぐん いちえん 24 12,900.700 24 15,626.76000
胆沢いさわぐん いちえん 37 47,582.450 37 75,764.26000
加美かみぐん いちえん 38 24,779.650 38 39,247.46000
玉造たまつくりぐん いちえん 21 17,723.070 21 24,906.98000
栗原くりはらぐん いちえん 92 81,354.890 93 136,492.99000
志田しだぐん いちえん 64 29,256.060 64 57,192.83000
遠田えんたぐん いちえん 58 31,040.770 58 62,372.49000
刈田かりたぐん いちえん 33 19,991.560 33 23,539.23000
柴田しばたぐん いちえん 35 19,885.620 35 30,527.78000
伊具いぐぐん いちえん 36 26,534.810 36 39,442.94000
亘理わたりぐん いちえん 26 15,867.700 26 23,581.81000
名取なとりぐん いちえん 61 44,514.940 61 64,249.90000
宮城みやぎぐん いちえん 78 47,578.630 78 75,435.82000
黒川くろかわぐん いちえん 49 31,311.410 49 43,611.09000
江刺えさしぐん いちえん 41 26,627.400 41 38,815.27000
宇多うだぐんうち 9 5,120.240 9 7,012.74700
小計しょうけい 970 600,000.000 971 993,670.43700
常陸ひたちこく 信太しだぐんうち 13 5,344.970 13 5,598.66466
筑波つくばぐんうち 3 3,202.929 3 3,662.04050
河内かわちぐんうち 1 1,238.249 1 2,213.82700
小計しょうけい 17 9,786.148 17 11,474.53216
下総しもうさこく 豊田とよだぐんうち 1 270.396 1 295.99000
近江おうみこく 蒲生がもうぐんうち 18 8,842.794 18 12,220.49600
野洲やすぐんうち 2 1,157.206 2 1,157.20600
小計しょうけい 20 10,000.000 20 13,377.70200
合計ごうけい 1,008 620,056.544 1,009 1,018,818.66116

江戸えど時代じだい後期こうきになると、蝦夷えぞにも領地りょうち警衛けいえい存在そんざいした。幕府ばくふ北方ほっぽうからのロシアの脅威きょういそなえるため、寛政かんせい11ねん(1799ねん)にひがし蝦夷えぞを、文化ぶんか4ねん(1807ねん)には西にし蝦夷えぞ天領てんりょうとし、奥羽おううよんはん津軽つがる盛岡もりおか久保田くぼた荘内そうない)に警備けいびめいじた。文化ぶんか5ねん(1808ねん)には幕府ばくふ仙台せんだいはんたいしてもはこかん国後くなしり択捉えとろふへの出兵しゅっぺいめいじ、仙台せんだいはんやく2,000めいへい派遣はけんしている。派兵はへい文政ぶんせい4ねん(1821ねん)までつづいたのち、これらの地域ちいき一旦いったん松前まさきはんりょうふくした。

また幕末ばくまつ安政あんせい2ねん(1855ねん)、ふたた幕府ばくふ松前まさきはんりょうのぞ蝦夷えぞ天領てんりょうとし、奥羽おうう6はん盛岡もりおか仙台せんだい会津あいづ久保田くぼた荘内そうない津軽つがる)に警備けいびめいじ、仙台せんだいはんひがし蝦夷えぞ白老しらおいから択捉えとろふまでの警備けいび担当たんとうすることとなった。そのさい仙台せんだいはん現在げんざい北海道ほっかいどう白老しらおいまち陣屋じんやき、また、根室ねむろ厚岸あっけし択捉えとろふ国後くなしりにそれぞれ出張しゅっちょう陣屋じんやかまえた。安政あんせい6ねん(1859ねん)11月には白老しらおい十勝とかち厚岸あっけし国後くなしり択捉えとろふ仙台せんだいはん所領しょりょうとすることがみとめられ、仙台せんだいはんあずかりの天領てんりょう警備けいびまもる日高ひだか釧路くしろ歯舞はぼまい色丹しこたん)をふく仙台せんだいはん領地りょうち警備けいびは、北海道ほっかいどうぜん面積めんせきのほぼさんぶんいちめることとなった。

現在げんざいとの対応たいおう

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陸奥むつ国内こくない
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ふしないぜん座標ざひょうしめした地図ちず - OSM
ふしないぜん座標ざひょう出力しゅつりょく - KML

現在げんざい岩手いわてけん南部なんぶ仙台せんだいはん陸奥みちのくこくりょう面積めんせきやく1/3)、宮城みやぎけん全域ぜんいきどう2/3)、福島ふくしまけんはまどお北部ほくぶにおよび、表高おもてだかは60まんせき(=1おく0823まん4000リットル≒9.0 - 9.6まんトン)。なお、現在げんざい当地とうちでの水稲すいとう生産せいさんりょうは、江戸えど時代じだい表高おもてだかの5ばい以上いじょうだかの3ばい以上いじょうにあたる50まんトン以上いじょう(300まんせき以上いじょう)となっている。

現在げんざい自治体じちたいとの対比たいひ

けん 自治体じちたい そう面積めんせき 2010ねんさん
水稲すいとう生産せいさんりょう
2005ねん
国勢調査こくせいちょうさ
(km2) (%) (トン) ひと (%)
せん
だい
はん

りく
おく
くに
りょう
岩手いわてけん 北上ほくじょう きゅう相去あいさりむらいき北緯ほくい3915ふん42.6びょう 東経とうけい1416ふん52.7びょう / 北緯ほくい39.261833 東経とうけい141.114639 / 39.261833; 141.114639 (岩手いわてけん北上ほくじょう一部いちぶきゅう相去あいさりむら)
きゅう稲瀬いなせむらいき北緯ほくい3914ふん43.4びょう 東経とうけい1417ふん16.9びょう / 北緯ほくい39.245389 東経とうけい141.121361 / 39.245389; 141.121361 (岩手いわてけん北上ほくじょう一部いちぶきゅう稲瀬いなせむら)
きゅう福岡ふくおかむらいき北緯ほくい3917ふん45.3びょう 東経とうけい14112ふん12.5びょう / 北緯ほくい39.295917 東経とうけい141.203472 / 39.295917; 141.203472 (岩手いわてけん北上ほくじょう一部いちぶきゅう福岡ふくおかむら)
65.33[24] 32.5 不明ふめい 11,299[25] 13.8
釜石かまいし きゅう唐丹とうにむらいき北緯ほくい3912ふん31.3びょう 東経とうけい14151ふん59.9びょう / 北緯ほくい39.208694 東経とうけい141.866639 / 39.208694; 141.866639 (岩手いわてけん釜石かまいし一部いちぶきゅう唐丹とうにむら) 81.25[26] 不明ふめい 2,258[27]
胆沢いさわぐん金ケ崎かねがさきまち北緯ほくい3911ふん44.6びょう 東経とうけい1416ふん58.7びょう / 北緯ほくい39.195722 東経とうけい141.116306 / 39.195722; 141.116306 (岩手いわてけん金ケ崎かねがさきまち全域ぜんいき) 全域ぜんいき 179.77[28] 12,700[29] 16,396[30]
奥州おうしゅう北緯ほくい398ふん40.3びょう 東経とうけい1418ふん20.9びょう / 北緯ほくい39.144528 東経とうけい141.139139 / 39.144528; 141.139139 (岩手いわてけん奥州おうしゅう全域ぜんいき) 993.35[28] 60,800[29] 130,171[30]
西磐井にしいわいぐん平泉ひらいずみまち北緯ほくい3859ふん11.9びょう 東経とうけい1416ふん49.7びょう / 北緯ほくい38.986639 東経とうけい141.113806 / 38.986639; 141.113806 (岩手いわてけん平泉ひらいずみまち全域ぜんいき) 63.39[28] 3,770[29] 8,819[30]
一関いちのせき北緯ほくい3856ふん4.8びょう 東経とうけい1417ふん36.4びょう / 北緯ほくい38.934667 東経とうけい141.126778 / 38.934667; 141.126778 (岩手いわてけん一関いちのせき全域ぜんいき) 1,256.25[28] 38,920[29] 135,722[30]
気仙けせんぐん住田すみたまち北緯ほくい398ふん30.8びょう 東経とうけい14134ふん33.7びょう / 北緯ほくい39.141889 東経とうけい141.576028 / 39.141889; 141.576028 (岩手いわてけん住田すみたまち全域ぜんいき) 334.83[28] 1,120[29] 6,848[30]
大船渡おおふなと北緯ほくい394ふん54.8びょう 東経とうけい14142ふん30.7びょう / 北緯ほくい39.081889 東経とうけい141.708528 / 39.081889; 141.708528 (岩手いわてけん大船渡おおふなと全域ぜんいき) 323.30[28] 776[29] 43,331[30]
陸前高田りくぜんたかた北緯ほくい390ふん54.4びょう 東経とうけい14137ふん46.1びょう / 北緯ほくい39.015111 東経とうけい141.629472 / 39.015111; 141.629472 (岩手いわてけん陸前高田りくぜんたかた全域ぜんいき) 232.29[28] 1,860[29] 24,709[30]
宮城みやぎけん
北緯ほくい3816ふん7.8びょう 東経とうけい14052ふん19.5びょう / 北緯ほくい38.268833 東経とうけい140.872083 / 38.268833; 140.872083 (宮城みやぎけん全域ぜんいき)
35市町村しちょうそん 7,285.76[28] 67.1 400,032[31] 2,360,218[32] 85.9
福島ふくしまけん 相馬そうまぐん新地しんじまち北緯ほくい3752ふん34.8びょう 東経とうけい14055ふん10.5びょう / 北緯ほくい37.876333 東経とうけい140.919583 / 37.876333; 140.919583 (福島ふくしまけん新地しんじまち全域ぜんいき) 46.35[28] 0.4 3,500[33] 8,584[34] 0.3

合計ごうけい 10,861.87 100.0 523,478 2,748,355 100.0
陸奥むつ国外こくがい
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現在げんざい茨城いばらきけん南部なんぶ滋賀しがけん中央ちゅうおう飛地とびち分散ぶんさんして存在そんざいしており、それらの合計ごうけい石高こくだかやく2まんせきおよんだ。以下いか2012ねん平成へいせい24ねん12月1にち時点じてんでの住所じゅうしょ付記ふきする[35][36]

ささえはん分家ぶんけ

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内分ないぶんささえはんとしては、陸奥むつ国内こくない岩沼いわぬまはん一関いちのせきはん中津山なかつやまはんがあり、仙台せんだいはん知行ともゆき域内いきないかぶしまのようなかたち[37]存在そんざいした。これらのはん仙台せんだいはんからも一門いちもん家格かかくあたえられて仙台せんだい城下じょうか屋敷やしきっていた。

  • 岩沼いわぬま藩主はんしゅおよびのべたから9ねん(1681ねん)から一関いちのせき藩主はんしゅである田村たむらは、せいむね正室せいしつあいひめまごによって再興さいこうされて以来いらい伊達だて一門いちもんとなっている。
  • 中津山なかつやまはん - だい3だい藩主はんしゅつなむね伊達だてむらが3まんせきぶんされたてはん江戸城えどじょう登城とじょうちゅう旗本はたもととのいさかいをこしたためいちだい改易かいえきされた。

また、仙台せんだいはん別家べっけとして伊予いよこくせいむね長男ちょうなんしゅうむねはんとする宇和島うわじまはんとそのささえはん吉田よしだはんがあるが、宇和島うわじまはんりょうしゅうむね大坂おおさかじんにおける軍功ぐんこうたいしてのしんおん給与きゅうよであり、仙台せんだいはんからのぶんによるささえはんではない[ちゅう 9]

明治維新めいじいしんはんりょう変遷へんせん

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明治めいじ元年がんねん(1868ねん)、明治めいじ政府せいふより戊辰戦争ぼしんせんそう責任せきにんわれてげんふうされた仙台せんだいはんは、以下いか変遷へんせんをたどった。

仙台せんだいはんから没収ぼっしゅうされた白石しらいししろ盛岡もりおかはんうたてふうじしたことで白石しらいしはん発足ほっそくしたが、わずか半年はんとし盛岡もりおか復帰ふっきしたため、同地どうちには白石しらいしけん(のち角田つのだけん改称かいしょう)が設置せっちされた。

仙台せんだいはんとして存続そんぞくした地域ちいき廃藩置県はいはんちけん仙台せんだいけんとなった。仙台せんだいけん角田つのだけんおよび登米とよねけん一部いちぶ編入へんにゅうののち宮城みやぎけん改称かいしょうし、現在げんざいいたる(磐城いわきこく地域ちいきたいらけんに、玉造たまつくりぐん登米とよねけん残部ざんぶ一関いちのせきけん編入へんにゅうされた時期じきもある。宇多うだぐんのみ現在げんざい福島ふくしまけん)。

また、きゅう盛岡もりおかはんりょう統合とうごうされた胆沢いさわけん江刺えさしけんは、一関いちのせきけんへの編入へんにゅうて、現在げんざい岩手いわてけんとなっている(気仙けせんぐん宮城みやぎけん編入へんにゅうされた時期じきもある)。

蝦夷えぞ領地りょうちについては、いったん全域ぜんいき開拓かいたく使直轄ちょっかつりょうとされたのちあらためて日高ひだかこく沙流さるぐん一部いちぶ領有りょうゆうし、さらに開拓かいたくから撤退てったいした熊本くまもとはんから根室ねむろこく標津しべつぐん目梨めなしぐん佐賀さがはんからせん島国しまぐに振別ふるべつぐん高知こうちはんからしゃぐんしべぐん移管いかんけた。また、仙台せんだい藩士はんし伊達だてくになり胆振いぶりこく有珠うすぐんのち虻田あぶたぐん室蘭むろらんぐん領有りょうゆう)、石川いしかわ邦光くにみつ胆振いぶりこく室蘭むろらんぐん片倉かたくらくにけん胆振いぶりこく幌別ほろべつぐん伊達だてくにただし伊達だて宗広むねひろ亘理わたりたねもと石狩いしかりこく空知そらちぐんをそれぞれ領有りょうゆうした。

支配しはい体制たいせい

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仙台せんだいはんでは藩士はんしろくとして、一般いっぱんはんではろくまいあたえられるのとはちがい、知行ちぎょうあたえる制度せいどっていた。ただし、すべての家臣かしん知行ちぎょうっていたわけではかった(詳細しょうさい下記かき参照さんしょう)。

これは藩主はんしゅ動員どういんできるへいすうより、家臣かしん動員どういんできるへいすう総数そうすうのほうがはるかにおおきいという軍制ぐんせい自然しぜんつくりだし、どちらかというと中世ちゅうせいちか支配しはい体系たいけいである。知行ちぎょうないでは一定いってい裁判さいばんけんみとめられていた。仙台せんだいはん大藩たいはんであるので、その家臣かしんにも3まんせき・2まんせきといった大名だいみょうきゅう知行ちぎょうものもいた。仙台せんだいはんでは上級じょうきゅう家臣かしん一門いちもん一家いっか一族いちぞくじゅん一家いっか着座ちゃくざ太刀たちじょう大番おおばんと7つの家格かかく分類ぶんるいした。また、藩士はんしはんないらばるしろ要害ようがいかんしょ在所ざいしょ居住きょじゅうし、仙台せんだい屋敷やしきっていた。

このような支配しはい体制たいせい打破だはするための改革かいかく目指めざしたことが伊達だて騒動そうどうがおきた原因げんいんひとつだと主張しゅちょうするものもいる[ちゅう 10]

防衛ぼうえいライン・しろ要害ようがい

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はん全体ぜんたい戦略せんりゃく

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仙台せんだいはんないしろ要害ようがいおおまかな配置はいち

たい羽前うぜん 奥州おうしゅう街道かいどう沿 防衛ぼうえいライン
浮牛じょう
金ヶ崎かねがさきしろ
水沢すいたくじょう 岩谷堂いわやどうじょう ひとくびじょう 人首川ひとかべがわ
一関いちのせきじょう
佐沼さぬましろ 登米とよね寺池てらいけじょう
高清水たかしみずじょう
岩出いわで山城やましろ 宮沢みやざわしろ 西館にしだて 涌谷わくやじょう 江合川えあいがわ
仙台せんだいじょう
若林わかばやししろ
川崎かわさきじょう 岩沼いわぬまじょう
平沢ひらさわかん 船岡ふなおかしろ 亘理わたりじょう
白石しらいししろ 角田つのだしろ 坂元さかもとしろ
金山かなやまじょう 谷地小屋やちごやじょう
  • この書体しょたいささえはんしろ表向おもてむきのしゅたる用途ようと要害ようがいではないとされているもの、小規模しょうきぼ要害ようがいなど。
  • あお北上川きたかみがわ沿いのしろ要害ようがい
  • あおみどりりく前浜まえはま街道かいどうはまどお沿いのしろ要害ようがい
  • みどり阿武隈川あぶくまがわ沿いのしろ要害ようがい
  • 防衛ぼうえいライン」: 河川かせんと2つ以上いじょうしろ要害ようがいもちいたもの。単独たんどくしろ要害ようがい河川かせんわせは以下いか説明せつめい

仙台せんだいはん南側みなみがわは、城下町じょうかまち仙台せんだいいたる3つルート(うみがわから、陸前りくぜんはま街道かいどう阿武隈川あぶくまがわ沿い・奥州おうしゅう街道かいどう)のたてふか防御ぼうぎょ中心ちゅうしんで、それらのルートの結節けっせつてんにも重要じゅうようしろ要害ようがいかれた。以下いかに、江戸えど時代じだい後期こうきまで存続そんぞくしたしろ要害ようがいとうしめす。

  • 仙台せんだいはん南西なんせい山形やまがたあいだのルートとう防御ぼうぎょ
平沢ひらさわかん 宮城みやぎけん刈田かりたぐん蔵王ざおうまち平沢ひらさわ
川崎かわさきじょう 伊達だてくにけん 一門いちもん 宮城みやぎけん柴田しばたぐん川崎かわさきまち前川まえかわ館山たてやま
谷地小屋やちごやじょう 亘理わたり伊達だて 福島ふくしまけん相馬そうまぐん新地しんじまち谷地小屋やちごやかんまえ
坂元さかもとしろ だいじょう孫三郎まごさぶろう伊達だてそうあきら 一家いっか大進たいしん 宮城みやぎけん亘理わたりぐん山元やまもとまち坂元さかもと館下たてした
亘理わたりじょう 亘理わたり伊達だて 一門いちもん大進たいしん 宮城みやぎけん亘理わたりぐん亘理わたりまち亘理わたり旧館きゅうかん
金山かなやまじょう 中島なかじま 一族いちぞく 宮城みやぎけん伊具いぐぐん丸森まるもりまち金山かなやま館山たてやま
角田つのだしろ 石川いしかわ邦光くにみつ 一門いちもん大進たいしん 宮城みやぎけん角田つのだ角田つのだ
 
白石しらいししろ天守てんしゅ代々だいだい片倉かたくらまもった。
白石しらいししろ 片倉かたくら 一家いっか大進たいしん 宮城みやぎけん白石しらいし益岡ますおか
奥州おうしゅう街道かいどう白石しらいし城下じょうか
  • みなみからの動向どうこう次第しだいでは馬牛沼ばにゅうぬまのあたりを防衛ぼうえいせんいちせんまじえる計画けいかくもあった。
  • 奥州おうしゅう街道かいどうCと阿武隈川あぶくまがわBの結節けっせつてん
舟岡ふなおかじょう 柴田しばた伊達だて家臣かしんよん末裔まつえい 一家いっか大進たいしん 宮城みやぎけん柴田しばたぐん柴田しばたまち船岡ふなおか館山たてやま
奥州おうしゅう街道かいどう船迫ふなさこ宿やど
  • 奥州おうしゅう街道かいどうCと陸前りくぜんはま街道かいどうAとの結節けっせつてん
岩沼いわぬまじょう 古内ふるうち すわ大進たいしん 宮城みやぎけん岩沼いわぬまさき
奥州おうしゅう街道かいどう岩沼いわぬま宿やど
  • 奥州おうしゅう街道かいどうC沿い。広瀬川ひろせがわ北岸ほくがん仙台せんだい城下じょうか入口いりくち防御ぼうぎょ
若林わかばやししろ せいむね隠居いんきょしょ 宮城みやぎけん仙台せんだい若林わかばやし古城こじょう
奥州おうしゅう街道かいどう仙台せんだい城下じょうか
  • 仙台せんだいじょう

仙台せんだいじょう自体じたいは、きたから東側ひがしがわにかけて広瀬川ひろせがわかこまれ、その内側うちがわにはきたまる空堀からぼりひがしまるるいさんまるすいほりなどがきずかれた。本丸ほんまる東側ひがしがわ広瀬川ひろせがわ沿いのがけ南側みなみがわりゅうくち渓谷けいこく西側にしがわ青葉山あおばやま丘陵きゅうりょう自然しぜん障壁しょうへきかこまれ、難攻不落なんこうふらく要塞ようさいとなっている。また、青葉山あおばやま丘陵きゅうりょう存在そんざいにより完全かんぜんてきかこまれることがなく、兵糧ひょうろうたいする兵站へいたんみち確保かくほされている。1610ねんごろに仙台せんだいたずねたビスカイノは、仙台せんだいじょうのことを当時とうじ日本にっぽんもっと強固きょうこ最良さいりょうのもののひとつであると本国ほんごく報告ほうこくしている。

仙台せんだいじょう 伊達だて本家ほんけ 仙台せんだい藩主はんしゅ 宮城みやぎけん仙台せんだい青葉あおば青葉山あおばやま
奥州おうしゅう街道かいどう仙台せんだい城下じょうか
  • 仙台せんだい城下じょうか

仙台せんだいじょう城下町じょうかまち当然とうぜん防御ぼうぎょせん前提ぜんてい都市とし計画けいかくされている。南側みなみがわ広瀬川ひろせがわによってまもられ、奥州おうしゅう街道かいどう沿いに長町ながまち方面ほうめんからすすんだ場合ばあい河原町かわらまち渡河とかすることになるが、すぐ西にし若林わかばやしじょう配置はいちされ、河原町かわらまちから北側きたがわには足軽あしがる屋敷やしき集中しゅうちゅうしている。奥州おうしゅう街道かいどう仙台せんだい城下じょうか中心ちゅうしん仙台せんだいじょう大手おおてもんつらなる芭蕉ばしょうつじまでのあいだなんがる地点ちてんがあり、直進ちょくしんできないようになっている。東側ひがしがわ若林わかばやしじょうから原町はらまち方面ほうめんまでてん神宮じんぐう薬師堂やくしどうとう寺社じしゃつらなり、北側きたがわ北山きたやま丘陵きゅうりょう沿ってはなわ王寺おうじひとし寺社じしゃ配置はいちされた。西側にしがわからの交通こうつう山岳さんがくけわしく困難こんなんである。

仙台せんだい北側きたがわには東西とうざいつらなる「松島まつしま丘陵きゅうりょう」があり、仙台平野せんだいへいや南北なんぼく分断ぶんだんしている。松島まつしま丘陵きゅうりょう北側きたがわは、広大こうだい仙北せんぼく平野へいやとなっているため、防衛ぼうえいには仙台せんだいはん南側みなみがわのようなルート沿いの「たてふか防御ぼうぎょ」ではなく、「防衛ぼうえいライン」をよこ方向ほうこう東西とうざい)にくことになる。仙北せんぼく平野へいや防衛ぼうえいラインは「江合川えあいがわ」である。

  • 江合川えあいがわの「防衛ぼうえいライン」(ひがしから)
涌谷わくやじょう 涌谷わくや伊達だて 一門いちもん大進たいしん 宮城みやぎけん遠田えんたぐん涌谷わくやまち城山しろやま
西館にしだて 後藤ごとう 宿老しゅくろう 宮城みやぎけん遠田えんたぐん美里みさとまち不動堂ふどうどう西館にしだてづるあたま公園こうえん
宮沢みやざわしろ 長沼ながぬま すわ 宮城みやぎけん大崎おおさき古川ふるかわ宮沢みやざわ
奥州おうしゅう街道かいどう古川ふるかわ宿やど
岩出いわで山城やましろ 岩出山いわでやま伊達だて 一門いちもん大進たいしん 宮城みやぎけん大崎おおさき岩出山いわでやま城山しろやまゆう備館

仙北せんぼく平野へいや防衛ぼうえいには、奥州おうしゅう街道かいどう沿いの防衛ぼうえいと、北上川きたかみがわ沿いの防衛ぼうえいわせて、たてふか防御ぼうぎょ実現じつげんしている。

高清水たかしみずじょう 石母田いしもた 一族いちぞく大進たいしん 宮城みやぎけん栗原くりはらこう清水東しみずひがしかん
奥州おうしゅう街道かいどう高清水たかしみず宿やど
佐沼さぬましろ 亘理わたり 一家いっか大進たいしん 宮城みやぎけん登米とよねはさままち佐沼さぬまないまち
  • 北上川きたかみがわ沿い(みなみから)大身たいしん家臣かしんらの要害ようがいならぶ。この地帯ちたい防御ぼうぎょ重要じゅうようしていたことがうかがえる。
登米とよね寺池てらいけじょう 白石しらいし
登米とよね伊達だて
一門いちもん大進たいしん 宮城みやぎけん登米とよね登米とよねまち寺池てらいけさくら小路こうじ上町うえまち
一関いちのせきじょう 田村たむら 一関いちのせきはん藩主はんしゅ
伊達だて外戚がいせき
岩手いわてけん一関いちのせき
奥州おうしゅう街道かいどう一関いちのせき宿やど
水沢すいたくじょう 留守るす
水沢みずさわ伊達だて
一門いちもん大進たいしん 岩手いわてけん奥州おうしゅう水沢すいたく大手町おおてまち
奥州おうしゅう街道かいどう水沢みずさわ宿やど
金ヶ崎かねがさきしろ 大町おおまち 一族いちぞく大進たいしん 岩手いわてけん胆沢いさわぐん金ケ崎かねがさきまち西根にしね白糸しらいと刈屋かりや
奥州おうしゅう街道かいどう金ヶ崎かねがさき宿やど
  • 人首川ひとかべがわ沿いの防衛ぼうえいライン
ひとくびじょう 沼辺ぬまべ 岩手いわてけん奥州おうしゅう江刺えさしべいさと
岩谷堂いわやどうじょう 岩城いわき
岩谷いわたにどう伊達だて
一門いちもん大進たいしん 岩手いわてけん奥州おうしゅう江刺えさし岩谷堂いわやどう
浮牛じょう 中島なかじま 一族いちぞく 岩手いわてけん北上ほくじょう口内くちないまち松坂まつさか
  • 盛岡もりおかはんとの非公式ひこうしき交渉こうしょうにも使用しようされていたようである。盛岡もりおかはん様々さまざま要因よういんかさなり、政情せいじょう不安ふあんで、百姓ひゃくしょう一揆いっき件数けんすう日本一にっぽんいちであった。難治なんじはんである。その境界きょうかいとなるので、なにかと問題もんだいったのであろう。

戦術せんじゅつてき重要じゅうよう施設しせつ

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仙台せんだいはんないには、長期ちょうき籠城ろうじょうせん見据みすえただい規模きぼしろおよび港湾こうわん合計ごうけい4ヶ所かしょあった。

  • 籠城ろうじょうせんしろ
  • 鎌倉かまくらがた要害ようがい
    • 松島湾まつしまわん狭義きょうぎ)- 瑞巌寺ずいがんじ
      松島まつしまは、「鎌倉かまくら」と同様どうよう三方さんぽうやま松島まつしま丘陵きゅうりょう)にかこまれ、さらに前面ぜんめん松島湾まつしまわん狭義きょうぎ)はおおとう暗礁あんしょうおおわんとなっている。また、しましまあいだには各所かくしょ水道すいどうがあり、潮流ちょうりゅうはやい。そのため、四方しほうとも大軍たいぐんすすめるには困難こんなんである。そんな松島まつしまにあって、さらにがけかこまれた地区ちくにある瑞巌寺ずいがんじたたみには、寺院じいんとしてはいな分厚ぶあついたられており、瑞巌寺ずいがんじ自体じたい防衛ぼうえい拠点きょてんとなるよう建築けんちくされたとかんがえられる。
    • 塩竈しおがまわん - 鹽竈しおがま神社じんじゃ山城やましろがた
      塩竈しおがま前面ぜんめん塩竈しおがまわんは、松島湾まつしまわんくらべるとやや水深すいしんがあり、しますくないが、松島まつしま同様どうように「鎌倉かまくらがた地形ちけいである。鹽竈しおがま神社じんじゃみなとかこやまの1つの頂上ちょうじょうちかくにあって、山城やましろとしての機能きのうっている。みなとそそ谷川たにがわ沿低地ていちからがるきゅう階段かいだん表参道おもてさんどうとし、そのやまかこまれている。そのため、伊達だてのみならず、歴史れきしてき多賀城たがじょう奥州おうしゅう藤原ふじわらなどの保護ほごけた。

重臣じゅうしん

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家臣かしん家格かかく

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  • 一門いちもん
    • 一門いちもん大名だいみょう) - ささえはん内分ないぶん大名だいみょうこと将軍しょうぐんちょくしんであるが、仙台せんだいはんからも一門いちもん家格かかくあたえられている。
    • 一門いちもん家臣かしん) - 戦国せんごく時代じだい有力ゆうりょく大名だいみょうだったいえや、縁戚えんせき関係かんけいにあるいえで、客分きゃくぶんあつかい。常時じょうじ藩政はんせいには関与かんよしない。
  • 一家いっか - 戦国せんごく時代じだい在地ざいち有力ゆうりょく領主りょうしゅてるむねのころまでに臣従しんじゅうした有力ゆうりょく家臣かしん伊達だて庶流のいえなど。
  • じゅん一家いっか - 戦国せんごく時代じだい有力ゆうりょく大名だいみょう家臣かしんや、在地ざいち領主りょうしゅ
  • 一族いちぞく - 伊達だて代々だいだい家臣かしんで、一家いっかそうよりもふるくから臣従しんじゅうしたいえおおい。
  • 永代ながよすわ - 家老がろうかく
    • 宿老しゅくろう永代えいたいすわ一番いちばんすわ) - 伊達だて代々だいだい家臣かしん家政かせいつかさどった。公式こうしき文書ぶんしょには奉行ぶぎょうしょく[ちゅう 11]同格どうかくれんあらわした。奉行ぶぎょうしょく就任しゅうにんした場合ばあい一家いっか待遇たいぐうけた。
    • すわ永代えいたいすわばんすわ) - 藩政はんせいのトップ。正月しょうがつ藩主はんしゅ太刀たちうま献上けんじょうし、すわいてさかずきをもらう。せいむねのころに登用とうようされ[ちゅう 12]奉行ぶぎょうしょく歴任れきにんしたいえおおい。
      • すわ士分しぶん
      • すわ士分しぶん以外いがい
  • 太刀たちじょう - 正月しょうがつ藩主はんしゅ太刀たち献上けんじょうさかずきをもらう。おも歴々れきれきいえから降格こうかくしたいえおおい。
    • 太刀たちじょう一番いちばんすわ永代ながよさかずき頂戴ちょうだい
    • 太刀たちじょうばんすわ
  • 大番おおばん
    • 召出 - 正月しょうがつ宴会えんかいることができる。宿老しゅくろう以上いじょう分家ぶんけや、たいらからののぼりはんおおい。
      • 召出一番いちばんすわ
      • 召出ばんすわ
    • たいら - 一般いっぱんさむらいそうで召出ととも大番おおばんともばれる。360にん1くみで10くみ組織そしきされた。おも騎馬きばたい構成こうせい詰所つめしょにより格付かくづけされた。
      • とらあいだばん
      • 中之なかのあいだばん
      • つぎあいだばん
      • 広間ひろまばん
  • くみ - 下級かきゅうさむらいそう士分しぶんとされるもの(もっとこまかく分類ぶんるいされている)
  • そつ足軽あしがる職人しょくにん小人こどもなど) - 下級かきゅうさむらいそう士分しぶんとされないもの

一族いちぞく以上いじょう家柄いえがら歴々れきれきい、衣服いふく制限せいげん緩和かんわ乗物のりものによる登城とじょうといったような特権とっけんあたえられた。また、宿老しゅくろう奉行ぶぎょうしょくいているとき歴々れきれき同様どうよう特権とっけん発生はっせいした。

太刀たちじょう以上いじょう家柄いえがら門閥もんばつった。

くみ以上いじょう家柄いえがら士分しぶんにあたり、それよりした家柄いえがら士分しぶん以外いがいとしてあつかわれた。

それぞれの家格かかくいえさら家臣かしんだん陪臣ばいしん)を形成けいせいしている。大進たいしん歴々れきれきいえになると陪々しんまでおり、たいらクラスよりもろくだかおお陪臣ばいしん存在そんざいする。

ろくだか

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  • 3000せき以上いじょう大進たいしん) - 衣服いふく制限せいげん緩和かんわ乗物のりものによる登城とじょうといったような特権とっけんあたえられた。
  • 100せき以上いじょう - 軍役ぐんえき規定きていにより馬上もうえ出陣しゅつじん義務付ぎむづけられる。たいらで100せき以上いじょういえ伊達だてしん掲載けいさいされた。
  • 100せき未満みまん

ろく支給しきゅう形態けいたいとしては、地方ちほう支給しきゅう蔵米くらまい支給しきゅう切米きりまい支給しきゅう扶持ふちかた支給しきゅうなどがあった。また、一家いっか黒川くろかわよりじゅん一家いっか天童てんどうほう石高こくだかおおいというように「家格かかくたかい=石高こくだかおおい」とはかならずしもえない場合ばあい存在そんざいする。また、仙台せんだいはんでは太刀たちじょう以上いじょう家格かかくによる地方ちほう知行ちぎょう対象たいしょうきゅう人前ひとまえ(きゅうにんまえ)ともしょうし、百姓ひゃくしょう土地とち支配しはいして租税そぜいおさめさせる「百姓ひゃくしょう前地まえじ」と給人きゅうにんめい請地うけち家臣かしん自身じしん私有地しゆうち近世きんせい以後いご安堵あんどされてきゅう編入へんにゅうされたもの)に由来ゆらいしてみずからの家臣かしん奉公人ほうこうにん耕作こうさくさせたり、小作こさくとして経営けいえいする「奉公人ほうこうにん前地まえじ」に細分さいぶんされていた[38]

知行ちぎょう拝領はいりょう形態けいたい

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  • しろ拝領はいりょう - 白石しらいししろ片倉かたくらのみ
  • 要害ようがい拝領はいりょう - 実質じっしつてきにはしろわらない要害ようがい拝領はいりょう
  • ところ拝領はいりょう - 町場ちょうば拝領はいりょう
  • 在所ざいしょ拝領はいりょう - 知行ちぎょう所内しょない居屋敷いやしき家中いえじゅう足軽あしがる屋敷やしき山林さんりんとう拝領はいりょう
  • 在郷ざいきょう - 知行ちぎょう所内しょない自前じまえ居屋敷いやしき家中いえじゅう足軽あしがる屋敷やしき設置せっち

役職やくしょく

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仙台せんだいはん役職やくしょく参照さんしょう

藩邸はんていおよび江戸えどにおける菩提寺ぼだいじ

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  • 江戸えど藩邸はんていは、文政ぶんせい年間ねんかんには芝口しばぐち三町目さんちょうめかいしゅ上屋敷かみやしきしば愛宕下あたごした中屋敷なかやしき麻布まふ深川ふかがわさるまち品川しながわ木挽こびきまちの5箇所かしょ下屋敷しもやしきがあった。また京都きょうと藩邸はんてい長者ちょうじゃまち小川東おがわひがしはいまちの2箇所かしょにあった。江戸えど上屋敷かみやしき敷地しきちは、のち新橋しんばし停車場ていしゃじょう建設けんせつ利用りようされ、現在げんざい日本にほんテレビタワーっている。下屋敷しもやしきがあった麻布まふ品川しながわには仙台せんだいざか地名ちめいのこされている。
    • 上屋敷かみやしきせいむね時代じだいには日比谷ひびや御門みかどがいにあり、現在げんざい日比谷公園ひびやこうえん一部いちぶひだり上杉うえすぎ米沢よねざわはん)、毛利もうり長州ちょうしゅうはん)の上屋敷かみやしきさん大名だいみょうなら[39]。『江戸えど屏風びょうぶ』では毛利もうりくら規模きぼはほぼおなじだが、伊達だて上杉うえすぎ両家りょうけ装飾そうしょくかね多用たようされ、御成おなり御殿ごてん御成門おなりもん[40]があり豪華ごうかえがかれている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、江戸えど時代じだい初期しょき武鑑ぶかんでは、薩摩さつまはん石高こくだかのうちの琉球りゅうきゅう王国おうこくぶん12まんせきふくめないで序列じょれつめたために、薩摩さつまはんよりうえだい2かれることもあった。
  2. ^ この時期じきせいむねがスペインや大久保おおくぼ長安ながやすむすんで倒幕とうばくはかっていたというせつがある。こうしたせつ明治めいじ時代じだいから存在そんざいしたが[8][9]、これには批判ひはんもある[10]
  3. ^ 仙台せんだいはんでは、本陣ほんじんのことを外人がいじんしょうした。現在げんざい仙台せんだい青葉あおば国分こくぶまち丁目ちょうめ。のちに南條なんじょう小児科しょうにか医院いいん開院かいいんした場所ばしょ現在げんざい同院どういんはない。
  4. ^ 後見人こうけんにん伊達だて宗勝むねかつ田村たむらそうりょう
  5. ^ 後見人こうけんにん堀田ほったただしあつし
  6. ^ 読書どくしょあまりてき』は仙台せんだいこうこく石高こくだかを200まんせき記述きじゅつしているが、その根拠こんきょしるせず、それにもかかわらず飢饉ききん餓死がししゃすうまんにんしたという文章ぶんしょうつながる。一方いっぽうひがしせんおっとろんは、仙台せんだいはんについて「150まん人口じんこうつたえられており、250まんせきえるにちがいない」という、前提ぜんていとなる人口じんこう自体じたい過剰かじょうとなる伝聞でんぶんによる石高こくだか推論すいろんである。『ひがしせんおっとろん』では佐渡さど12まんせき(1まん7,000せき)、隠岐おき6まんせき(5,000せき)と、太閤たいこう検地けんちの10ばい数値すうちしめされており注意ちゅういようする。
  7. ^ ただし、幕末ばくまつ仙台せんだいはんは、幕府ばくふたいしてほぼ毎年まいとし50まんせきそんだか報告ほうこくつづけており、実態じったい以上いじょう被害ひがい報告ほうこくすることで普請ふしん免除めんじょ正当せいとうしたとみられる。
  8. ^ 人口じんこう復元ふくげん方法ほうほうおも高木たかぎ正朗まさお新屋あらやひとし(2006ねん)による。なお人口じんこうかんしては古文書こもんじょにみられる数字すうじ尊重そんちょうし、記録きろくのない時期じきかんしては、江戸えど時代じだい初期しょき人口じんこう会津あいづはん公式こうしき人口じんこう記録きろく(『会津あいづ実記じっき』)、江戸えど時代じだい末期まっき人口じんこう西磐井にしいわいぐん狐禅寺こぜんじむらした油田あぶらたむらとうげむら中村なかむら東磐井ひがしいわいぐんあか生津なまづむら大籠おおかごむら新沼しんぬまむら増沢ますざわむら保呂羽ほろわむら人別にんべつあらためちょう人口じんこうもと再現さいげんしている。
  9. ^ それにもかかわらず仙台せんだいはんがわ宇和島うわじまはん配下はいかあつかいしたため、りょうはん関係かんけい良好りょうこうとはいえないものとなった。(本家ほんけまつ論争ろんそうこう参照さんしょうのこと)
  10. ^ 伊達だてふるくからの家臣かしんには、江戸えど時代じだい前期ぜんきまでに改易かいえき降格こうかく中枢ちゅうすうからはずれるなどのったいえすくなくない。奥州おうしゅう仕置しおきによる旧領きゅうりょう喪失そうしつせいむね指示しじしたがったことから豊臣とよとみ秀吉ひでよしによって改易かいえきとなったもと戦国せんごく大名だいみょうそうなど丁重ていちょうぐうさざるをないいえあらたにいくつもさい上層じょうそうくわわったことは、従来じゅうらい勢力せいりょく均衡きんこうくずし、不満ふまん新旧しんきゅう対立たいりつしょうじ、伊達だて騒動そうどうにまで影響えいきょうした可能かのうせいいなめない。
  11. ^ 仙台せんだいはんでは家老がろうしょく奉行ぶぎょうしょうした。
  12. ^ ただし、譜代ふだい家臣かしん家格かかくたかいえ分家ぶんけすじ親族しんぞくなどもおおく、すべてがせいむね時代じだいあらたにかかえられたわけではない。

出典しゅってん

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  1. ^ 仙台せんだいりょうばしら
  2. ^ 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)「仙台せんだいはん
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  9. ^ 阿部あべ秀助ひですけ大久保おおくぼ長安ながやす伊達だてまさしむね」『史学しがくかいいち、1903ねん
  10. ^ 小林こばやし清治きよじ伊達だてまさしむね研究けんきゅう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2008ねん、239-242ぺーじ)。
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  39. ^ 現地げんち説明せつめいばん仙台せんだいはん伊達だてまさしそう 終焉しゅうえん」(2014ねん仙台せんだい
  40. ^ 慶長けいちょう15ねん1610ねん)に秀忠ひでただ上杉うえすぎていへの御成おなりがあり、のう茶会ちゃかいなどの饗応きょうおうおこなわれている。(「国宝こくほう 上杉うえすぎ文書ぶんしょ」)

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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先代せんだい
陸奥みちのくこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1601ねん - 1871ねん 仙台せんだいはん仙台せんだいけん
次代じだい
宮城みやぎけん
白石しらいしはん
桃生ものうけん栗原くりはらけん江刺えさしけん一関いちのせきけん