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若松城 - Wikipedia

若松わかまつしろ

福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつにあったしろ

若松わかまつしろ(わかまつじょう)は、福島ふくしまけん会津若松あいづわかまつ追手おうてまちにあった日本にっぽんしろ別名べつめいつるじょう(つるがじょう)で、地元じもとではこのばれることがおおい。また、同名どうめいしろにあるため、会津若松あいづわかまつじょう(あいづ わかまつじょう)ともばれる。さらに文献ぶんけんでは黒川くろかわしろ(くろかわじょう)や、会津あいづじょう(あいづじょう)とされることもある。現在げんざい天守てんしゅひとし復元ふくげんであり、若松わかまつ城跡じょうせき(わかまつじょうせき/わかまつじょうあと)としてくに史跡しせき指定していされている。

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若松わかまつしろ
福島ふくしまけん
若松城(外観復元天守)
若松わかまつじょう外観がいかん復元ふくげん天守てんしゅ
別名べつめい つるじょう会津若松あいづわかまつじょう黒川くろかわしろ
城郭じょうかく構造こうぞう はしごくるわしき平山ひらやまじょう
天守てんしゅ構造こうぞう 望楼ぼうろうがた7じゅう1593ねんぶんろく2ねんちく
そうとうがた5じゅう5かい地下ちか2かい1611ねん慶長けいちょう16ねんあらため
そうとうがた5じゅう5かいRCづくり 1965ねん昭和しょうわ40ねん外観がいかん復興ふっこう
築城ちくじょうぬし あしめい直盛なおもり
築城ちくじょうねん 1384ねん南朝なんちょうもとなか元年がんねん北朝ほくちょう至徳しとく元年がんねん
おも改修かいしゅうしゃ 蒲生がもうきょう加藤かとう明成めいせい
おも城主じょうしゅ
黒川くろかわしろ

あしめい伊達だてまさしむね

若松わかまつしろ
蒲生がもう上杉うえすぎ景勝かげかつ加藤かとう保科ほしな会津あいづ松平まつへい
はいじょうねん 1874ねん明治めいじ7ねん
遺構いこう 石垣いしがきるいほり
指定してい文化財ぶんかざい くに史跡しせき
再建さいけん造物ぞうぶつ 天守てんしゅもん長屋ながや
位置いち 北緯ほくい3729ふん15.78びょう 東経とうけい13955ふん47.23びょう / 北緯ほくい37.4877167 東経とうけい139.9297861 / 37.4877167; 139.9297861座標ざひょう: 北緯ほくい3729ふん15.78びょう 東経とうけい13955ふん47.23びょう / 北緯ほくい37.4877167 東経とうけい139.9297861 / 37.4877167; 139.9297861
地図
地図ちず
若松城の位置(福島県内)
若松城
若松わかまつしろ
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概要がいよう

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廊下ろうかきょう

若松わかまつじょうはしごくるわしき平山ひらやましろで、本丸ほんまる中心ちゅうしん西にし出丸でまるきた出丸でまるまるさんまる周囲しゅうい配置はいちされていた。城下町じょうかまち南端なんたん位置いちし、会津あいづはん政庁せいちょうとして会津あいづ政治せいじ中心ちゅうしんであった。藩主はんしゅ会津あいづ松平まつへい徳川とくがわ将軍家しょうぐんけ密接みっせつ関係かんけいにあり幕末ばくまつには戊辰戦争ぼしんせんそう激戦げきせんとなった。現在げんざい城跡じょうせきは「づるじょう公園こうえん」となっており、そのほとんどがくに史跡しせき指定していされている[1]史跡しせきがい三ノ丸さんのまるあとには陸上りくじょう競技きょうぎじょう市営しえいプールおよび福島ふくしま県立けんりつ博物館はくぶつかんがある。天守閣てんしゅかく鉄筋てっきんコンクリートで外観がいかん復元ふくげんされ、内部ないぶ若松わかまつじょう天守閣てんしゅかく郷土きょうど博物館はくぶつかんとなっている。

歴史れきし沿革えんかく

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中世ちゅうせいから近世きんせい

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中世ちゅうせいかん城郭じょうかく

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1384ねん南朝なんちょうもとなか元年がんねん北朝ほくちょう至徳しとく元年がんねん)、あしめい7だい当主とうしゅあしめい直盛なおもり小田おだかきかんまたはひがし黒川くろかわかんというかんつくったのが若松わかまつじょうのはじまりとされる[2]諸説しょせつあるが、おそくとも15世紀せいきなかばまでには黒川くろかわしろ(くろかわじょう)、(または小高おだか木城きじょう)とその城下じょうか成立せいりつしていた。以後いご代々だいだいあしめいしろであった。戦国せんごく時代じだいちゅう後期こうきには、あしめい中興ちゅうこうもりて、黒川くろかわしろ中心ちゅうしん広大こうだい版図はんときずいた。

1589ねん天正てんしょう17ねん)、あしめい連年れんねんたたかいをかえしていた伊達だてまさしむね豊臣とよとみ秀吉ひでよし制止せいし無視むししてあしめい義広よしひろめ、あしめいほろぼし黒川くろかわじょうにし、米沢よねざわじょうから本拠ほんきょうつした。しかし、せいむね1590ねん天正てんしょう18ねん)に秀吉ひでよし臣従しんじゅうし、会津あいづげられ、米沢よねざわじょう本拠ほんきょもどした。

近世きんせい城郭じょうかく

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わって黒川くろかわじょうはいったのは蒲生がもうきょうで、1592ねんぶんろく元年がんねん)より大名だいみょう相応ふさわしい近世きんせい城郭じょうかく改造かいぞうし、城下町じょうかまち整備せいびした。きょうは、まち黒川くろかわから「若松わかまつ」へとあらため、蒲生がもうぐんりゅう縄張なわばりによるしろづくりをおこなった。なお「若松わかまつ」のは、出身しゅっしん日野ひのじょう中野なかのじょう)にちか馬見うまみおか綿めんこう神社じんじゃ現在げんざい滋賀しがけん蒲生がもうぐん日野ひのまち村井むらいにある神社じんじゃ蒲生がもう氏神うじがみ)の参道さんどう周辺しゅうへんにあった「若松わかまつもり」に由来ゆらいし、おなじく領土りょうどであった松坂まつさかの「まつ」という一文字ひともじもこのまつ由来ゆらいするとわれている。

1593ねんぶんろく2ねん)、望楼ぼうろうがた7じゅう(5じゅう5かい地下ちか2かいとも、また7じゅうには「なんだんにもかさなる」の意味いみもある)の天守てんしゅ竣工しゅんこうし、は「つるじょう」にあらためられた。近年きんねん発掘はっくつ調査ちょうさ蒲生がもう時代じだい石垣いしがきもと底部ていぶ確認かくにんされ、あぶみかわらのきまるかわら)、宇瓦(のきひらかわら)、鬼瓦おにがわら一部いちぶ金箔きんぱくられたものが出土しゅつどしている[3]

1598ねん慶長けいちょう3ねん)、きょう秀行ひでゆき家中いえじゅう騒動そうどうのために92まんせきから18まんせきげられ下野げやこく宇都宮うつのみやうつりふうされた。越後えちごこく春日山かすがやまより上杉うえすぎ景勝かげかつが120まんせきにゅうふう1600ねん慶長けいちょう5ねん)、徳川とくがわ家康いえやす関ヶ原せきがはらたたか西にしぐん加担かたんした景勝けいしょうを30まんせきげ、出羽でわこく米沢よねざわうつりふうした。

よく1601ねん慶長けいちょう6ねん)には蒲生がもう秀行ひでゆきふたた入城にゅうじょうしたが、1627ねん寛永かんえい4ねん)、嫡男ちゃくなんちゅうきょう嗣子ししがなくぼっしたため、秀行ひでゆき次男じなんちゅう後嗣こうしとなり伊予いよこく松山まつやまうつりふうされた。わって伊予いよ松山まつやまより加藤かとう嘉明よしあきにゅうふう明成めいせい西にし出丸でまるきた出丸でまるなどのみやつこちくおこない、1611ねん慶長けいちょう16ねん)にきた会津あいづ地震じしんにより倒壊とうかいした天守てんしゅ今日きょうられるそうとうがた天守てんしゅみなおさせている。

1643ねん寛永かんえい20ねん)、加藤かとうあきらなり改易かいえきされ、出羽でわこく山形やまがたより3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつの庶弟である保科ほしな正之まさゆきが23まんせきにゅうふう以後いご明治維新めいじいしんまで会津あいづ松平まつへい保科ほしなから改名かいめい)の居城きょじょうとなった。

1868ねん慶応けいおう4ねん)、戊辰戦争ぼしんせんそう戦闘せんとうひとつである会津あいづ戦争せんそう会津あいづじょう籠城ろうじょうせん)にて、会津あいづぜいもるづるじょうしん政府せいふぐん包囲ほういされ砲撃ほうげきけた。1かげつあいだ籠城ろうじょうのち板垣いたがき退助たいすけによる降伏ごうぶく勧告かんこく受諾じゅだくして9月22にち(太陽暦たいようれき11月6にち)開城かいじょうした。

戦後せんご天守てんしゅふくおおくの建造けんぞうぶついたみははげしかったが修復しゅうふくおこなわれず、しばらく放置ほうちされたのち解体かいたいされた(下記かき参照さんしょう)。

きん現代げんだい

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損傷そんしょうした若松わかまつじょう会津あいづ戦争せんそう撮影さつえい[4]

開城かいじょう建物たてもの処遇しょぐう

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1868ねん11月6にち明治めいじ元年がんねん9月22にち)に開城かいじょうするとしん政府せいふぐんわたされ、兵部ひょうぶしょう所管しょかんとなり、仙台せんだい鎮台ちんだい管理かんりした。翌年よくねんには会津あいづはんわって若松わかまつけん発足ほっそく県庁けんちょう城内じょうない建物たてものいたため、若松わかまつけんしろ管理かんり委任いにんされた。

1872ねん明治めいじ5ねん)5がつに、パリ外国がいこく宣教せんきょうかいマロン神父しんぷ(Jean-Marie Marin)とスイスひと横浜よこはま居留きょりゅう生糸きいと輸出ゆしゅつしょういとなみ、デンマーク領事りょうじねていたエドゥアール・ド・バヴィエ(Eduard de Bavier)らが、養蚕ようさん視察しさつのため函館はこだてから横浜よこはままで旅行りょこうをし、若松わかまつじょうった。そのとき、バヴィエらにやとわれ、旅行りょこう同行どうこうした日本人にっぽんじん写真しゃしん小山こやま弥三郎やさぶろう撮影さつえいしたのが、いまのここわまえ若松わかまつじょう写真しゃしんとされてきた。その会津若松あいづわかまつ調査ちょうさでイタリアにより鮮明せんめい写真しゃしんがあり、その画像がぞうからしろ東面とうめんうつしたことがわかり、小山こやま写真しゃしんとはきがことなると判明はんめいした[5]。さらに3てん南東なんとうめんをとった写真しゃしん国内こくない発見はっけん撮影さつえいきは小山こやま共通きょうつうするものの、3てん天守てんしゅいたみがすくなく撮影さつえい時期じき小山こやまよりふるいと推定すいていされ、2018ねん時点じてん撮影さつえいしゃなどの詳細しょうさい不明ふめいである[6]。この旅行りょこうフランス語ふらんすごで『函館はこだてから横浜よこはままでのたび』という題名だいめい1874ねん明治めいじ7ねん)にリヨン教会きょうかい雑誌ざっし掲載けいさいされ[注釈ちゅうしゃく 1]、H・チースリク(どく: Hubert Cieslik、1914ねん-1998ねん)による日本語にほんご部分ぶぶんやく1968ねん昭和しょうわ43ねん)に『宣教師せんきょうし明治めいじころ函館はこだてより江戸えどへ)』として上梓じょうしされている[9]

1873ねん明治めいじ6ねん)1がつ明治めいじ政府せいふによる全国ぜんこく城郭じょうかく存廃そんぱい処分しょぶんなみ兵営へいえいとうせん定方さだかたはいじょうれい)によりそんじょう処分しょぶん決定けってい(すなわち陸軍りくぐんしょう財産ざいさん決定けってい)された。同年どうねん12がつには若松わかまつけんけんれいさわ簡徳から『きゅう若松わかまつじょうはい毀之づけ建言けんげん[注釈ちゅうしゃく 2]により、政府せいふ城郭じょうかく建造けんぞうぶつ取壊とりこわしが建言けんげんされた。1874ねん明治めいじ7ねん)1がつには陸軍りくぐんしょうから仙台せんだい鎮台ちんだいへ「きゅう若松わかまつじょうは営所建築けんちく場所ばしょであるので、石垣いしがきたてとうのぞ旧来きゅうらい建物たてもの必要ひつよういものは取壊とりこわ払下はらいさげすべくはからうことむね通達つうたつ[12]がされ、同年どうねんまつまでに天守てんしゅをはじめとする建造けんぞうぶつはすべて解体かいたいされた。

本丸ほんまるにあったひとつである「さんかい」は上記じょうき建言けんげん以前いぜん1870ねん明治めいじ3ねん)、阿弥陀寺あみだじ会津若松あいづわかまつななにちまち)に移築いちくされ、現存げんそんする。また本丸ほんまるだい書院しょいんからさんかいともどうてらうつされた唐破風からはふ表玄関おもてげんかんは、さんかい玄関げんかん転用てんようされている。

 
1874ねん撮影さつえいとされる画像がぞう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ収蔵しゅうぞう

城郭じょうかくはらい史跡しせき指定してい

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雪景色ゆきげしき てつもんめし

1890ねん明治めいじ23ねん明治めいじ政府せいふによる藩主はんしゅまたは官庁かんちょうはらげを申請しんせいした散在さんざいは、公売こうばいにしないという方針ほうしん[注釈ちゅうしゃく 3]により、しろやく29haのはらげが決定けっていきゅう会津あいづ藩士はんし遠藤えんどう敬止けいしは、城跡じょうせき一括いっかつして保存ほぞんするため私財しざい2,500えんゆずけ、きゅう藩主はんしゅ松平まつだいら寄付きふした。

1908ねん明治めいじ41ねん)に三ノ丸さんのまる東側ひがしがわしろがいにわたり陸軍りくぐん連隊れんたい練兵れんぺいじょう設置せっちされ、三ノ丸さんのまる一部いちぶとそのほりるいやく6haが撤去てっきょされたが、本丸ほんまるまる三ノ丸さんのまる一部いちぶきた出丸でまる西にし出丸でまるおよ付属ふぞくするほりのこされ、現在げんざい史跡しせき指定してい部分ぶぶんやく23haは保存ほぞんされた。

1917ねん大正たいしょう6ねん)に若松わかまつ会津あいづはん白虎隊びゃっこたい)であった東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく山川やまかわ健次郎けんじろう総長そうちょう仲介ちゅうかいたのみ、同学どうがくのう大学だいがく教授きょうじゅ本多ほんだ静六せいろくから「若松わかまつ公園こうえん設計せっけい方針ほうしん」がしめされる[14]と、城跡じょうせき近代きんだい公園こうえん計画けいかく着手ちゃくしゅした。地権ちけんについては、城跡じょうせき所有しょゆうしゃであったきゅう藩主はんしゅ松平まつだいらわした土地とち譲渡じょうと契約けいやくを10ねんにより、1927ねん昭和しょうわ2ねん)までに償還しょうかん若松わかまつ所有しょゆうとなった。公園こうえん近代きんだい方針ほうしんもとづきまる西にし出丸でまる一部いちぶ石垣いしがきとう撤去てっきょされたことをけ、福島ふくしまけんきゅう史蹟しせき名勝めいしょう天然てんねんねんぶつ保存ほぞんほう規定きていにしたがい城跡じょうせき緊急きんきゅう保存ほぞんくに申請しんせいする。1930ねん昭和しょうわ5ねん)のかり指定してい1934ねん昭和しょうわ9ねん12月28にち文部省もんぶしょう告示こくじだい312ごうによってくに史跡しせきほん指定していされた[15]

この「若松わかまつ公園こうえん設計せっけい方針ほうしん」では、のち史跡しせき区域くいきないまれたきゅう追手おってまえからきた出丸でまるまでのつい手前てまえ西にしほりじょうへの架橋かきょうや、水位すいいことなる南町みなみまちどおりほりきゅうけんちょうほりとのあいだ土橋どばし撤去てっきょし、ボートレースじょうとする計画けいかくしめされたが実行じっこうされなかった。

天守てんしゅ再建さいけん保存ほぞん整備せいび計画けいかく

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くろかわらころ天守てんしゅ

だい世界せかい大戦たいせん戦後せんご財政ざいせい非常ひじょう事態じたい解決かいけつさく一環いっかんとして、本丸ほんまるうち競輪けいりんじょう設置せっちされていたこともあるが1957ねん昭和しょうわ32ねん)にはしろがい移転いてんされた。本丸ほんまる1960ねん昭和しょうわ35ねん)までには現在げんざい形状けいじょう復旧ふっきゅうされた。現在げんざい天守てんしゅ1965ねん昭和しょうわ40ねん)に鉄筋てっきんコンクリートづくりにより外観がいかん復興ふっこう再建さいけんされたもので、内部ないぶは「若松わかまつじょう天守閣てんしゅかく郷土きょうど博物館はくぶつかん[16]として公開こうかいされている。

1990ねん平成へいせい2ねん)に茶室ちゃしつ「麟閣」(福島ふくしまけん指定してい重要じゅうよう文化財ぶんかざい)が本丸ほんまるもと場所ばしょ移築いちく復元ふくげんされ[17]1993ねん平成へいせい5ねん)に外濠そとぼりあととう外郭がいかく遺構いこう一部いちぶくに史跡しせき追加ついか指定していされた。1997ねん平成へいせい9ねん)に史跡しせきない駐車ちゅうしゃじょう運動うんどう施設しせつとう史跡しせきがい移転いてんする内容ないようとうふく長期ちょうきてき総合そうごうてきな「史跡しせき若松わかまつ城跡じょうせき総合そうごう整備せいび計画けいかく[18]策定さくていされた。2001ねん平成へいせい13ねん)に本丸ほんまるないめし(ほしいやぐら)とみなみはし長屋ながや木造もくぞう復元ふくげんされた[19]

2010ねん平成へいせい22ねん)から、くろかわらだった天守てんしゅ屋根やねかわら明治めいじ時代じだい解体かいたいされる以前いぜんあか瓦葺かわらぶき復元ふくげんする工事こうじおこなわれ2011ねん平成へいせい23ねん)3がつ竣工しゅんこうした(3がつはじめにはおおいがはずされ、11にち東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさいの27にちにリニューアルオープン)。

天守閣てんしゅかくしゃち

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展示てんじされた天守閣てんしゅかくぎんしゃちみぎよりみなみしゃちめす)ときたしゃちゆう))

現在げんざい復元ふくげん天守てんしゅとうじょうにはしゃちがあげられているが、明治めいじ初年しょねん写真しゃしんにはしゃち確認かくにんできていない。これを理由りゆうに、2010ねん平成へいせい22ねん)からの改修かいしゅう工事こうじにあわせて、はずすべきだという意見いけんがあった。一方いっぽう江戸えど時代じだい絵図えずにはしゃちえがかれているものもあり、正確せいかくなところはわからないというのが実情じつじょうである。

このしゃちは、復元ふくげん工事こうじ担当たんとうしたハザマ当時とうじ会長かいちょうより寄贈きぞうされたもので、全身ぜんしんうろこ銀箔ぎんぱくきば金製きんせいひとみ中心ちゅうしんに2カラットのダイヤモンドがまれている。同社どうしゃ名古屋なごやじょう天守てんしゅ復元ふくげん工事こうじっており、名古屋なごやじょうかねしゃちたいになるように、ぎんしゃちとした。金閣寺きんかくじ銀閣寺ぎんかくじならったものである。

名古屋なごやじょう復元ふくげんでは、きむしゃちひとみにもダイヤモンドをもうとしたものの、市民しみんもう反発はんぱつけて断念だんねんしたが、会津若松あいづわかまつじょうのものは完全かんぜん寄贈きぞうひんであるので、反対はんたいきなかった。

縄張なわばり

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1976ねん昭和しょうわ51ねん国土こくど航空こうくう写真しゃしんより

しろいき位置いちする台地だいち西端せいたんしゅくるわうちほりへだてて東側ひがしがわまる三ノ丸さんのまるつづき、台地だいち北側きたがわきた出丸でまる西側にしがわ西にし出丸でまるがある。三ノ丸さんのまる以外いがいかくもん枡形ますがた石垣いしがきもんになっていた。しゅくるわは、天守てんしゅとそこからみなみひがしびるはし長屋ながや多聞たもん)により区分くわけされており、南東なんとうがわ御殿ごてんとう配置はいちした区域くいき本丸ほんまる、そのきたから西側にしがわをLかこ区域くいきおびかくとなっている。しゅくるわ虎口ここうすべたいくるわ接続せつぞくしており、天守てんしゅしたにあるてつもん本丸ほんまるいたる。現在げんざい縄張なわばりは、しゅくるわひがしきた西にしさんぽう虎口ここう桝形ますがた)の外側そとがわ馬出うまだし防御ぼうぎょし、その馬出まいだし虎口ここう桝形ますがたとする防御ぼうぎょプランであり、かく構成こうせいはシンプルだが相当そうとう厳重げんじゅう縄張なわばりとなっている。

元々もともと東西とうざいびるしたじょう台地だいち堀切ほっきり区切くぎったれんくるわしき縄張なわばりであり、さんまるがわ大手おおてであった。のち城下じょうか街道かいどう整備せいびにより大手おおて北側きたがわ変更へんこうし、防御ぼうぎょのためにきた西にしにあった馬出まいだし出丸でまるとして拡張かくちょう現在げんざい縄張なわばりとなった。現在げんざいのこ城下町じょうかまちも、しゅとしてしろ北側きたがわひろがっている。

きた西にし出丸でまるは、しゅかく位置いちする台地だいちしたにあり、出丸でまる突破とっぱしようとするてき高低こうてい利用りようして攻撃こうげき可能かのうとなっている。しゅくるわ出丸でまる虎口ここう制圧せいあつ可能かのう位置いち配置はいちされているなど、重層じゅうそう火力かりょく発揮はっきできるように考慮こうりょされており、とく大手おおてであるきた出丸でまる虎口ここうは、出丸でまるしゅくるわたいかく隣接りんせつする出丸でまるからの射撃しゃげき集中しゅうちゅうし、その防御ぼうぎょかたさから「鏖丸(みなごろしまる)」としょうされたとつたわっている。東側ひがしがわまる馬出まいだしじょうくるわであるが、高低こうてい利用りようできないため堀切ほりきりみずほりまで掘下ほりさげてやく20mのこう石垣いしがきとし、はし城内きうち唯一ただいち木橋きばし廊下ろうかきょう)とすることで防御ぼうぎょしている。出丸でまるたない本丸ほんまる南側みなみがわは、ほり湯川ゆかわによりさんじゅう防御ぼうぎょされていた。

  • 本丸ほんまる 天守てんしゅめし月見つきみちゃつぼ)、もんてつもん裏門うらもん
  • おびかく ひがしきたゆみ西にし)、もん太鼓たいこもん廊下ろうか橋門はしかど西中にしなかもん)、はしひがしまるがわ廊下ろうかきょうきたきた出丸でまる西にし西にし出丸でまるあいだ土橋どばし
  • まる もん東門ひがしもんみなみもん
  • 三ノ丸さんのまる もんうめもんみなみもん無常むじょうこう
  • きた出丸でまる 西北せいほく東北とうほく)、もん追手おってもんむねもん
  • 西出にしでまる 西北せいほく西南せいなん)、もん西にし追手おってもんうち讃岐さぬきもん
  • うちほり 追手おってぜん西にしほりもとかね撞堂さんかくほり南町みなみまちどおりほりきゅうけんちょうほり瓢箪ひょうたんほりさん岐濠

現地げんち情報じょうほう

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交通こうつうアクセス

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  • JR会津若松あいづわかまつえきぜん1ばんバスせんせき神明しんめいせん 神明しんめい先回さきまわり」に乗車じょうしゃし「づる城西じょうさいこう下車げしゃ(バス所要しょよう時間じかん8~12ふん徒歩とほ5ふん)
  • JR会津若松あいづわかまつ駅前えきまえ1ばんバス「エコろんごう」に乗車じょうしゃし「づるじょう会館かいかんまえ下車げしゃ(バス所要しょよう時間じかん13ふん徒歩とほ5ふん)
  • JR会津若松あいづわかまつ駅前えきまえ2ばんバス西若松にしわかまつえきき」に乗車じょうしゃし「づる城西じょうさいこう下車げしゃ(バス所要しょよう時間じかん8ふん徒歩とほ5ふん)
  • JR会津若松あいづわかまつ駅前えきまえ3ばんバスべいだい経由けいゆ西若松にしわかまつえきぎょう」に乗車じょうしゃし「づる城西じょうさいこう下車げしゃ(バス所要しょよう時間じかん8ふん徒歩とほ5ふん)
  • JR会津若松あいづわかまつ駅前えきまえ4ばんバスまちなか周遊しゅうゆうバス「ハイカラさん」または「あかべぇ」に乗車じょうしゃし「づるじょう入口いりくち」または「づるじょうさんまるこう下車げしゃ。 (ハイカラさんバス所要しょよう時間じかん20~22ふん。あかべぇバス所要しょよう時間じかん29~31ふん徒歩とほ5ふん)
  • 会津若松あいづわかまつバスターミナルから「高田たかだ永井野ながいのゆき」「本郷ほんごうこう」に乗車じょうしゃし「づる城西じょうさいこう下車げしゃ。(バス所要しょよう時間じかん12ふん徒歩とほ5ふん)
  • 高速こうそくバス仙台せんだい福島ふくしま郡山こおりやま・いわき)「づるじょう合同庁舎ごうどうちょうしゃまえ」で下車げしゃ徒歩とほやく10ふん
  • 団体だんたい観光かんこうバスでの観光かんこう場合ばあいつるじょう会館かいかんにバスを駐車ちゅうしゃする。
  • 自家用車じかようしゃ場合ばあい市営しえい有料ゆうりょう駐車ちゅうしゃじょう西にし出丸でまる駐車ちゅうしゃじょう東口ひがしぐち駐車ちゅうしゃじょう南口みなみぐち駐車ちゅうしゃじょう」または、つるじょう会館かいかん有料ゆうりょう駐車ちゅうしゃじょう利用りよう
 
さくら満開まんかいづるじょう公園こうえん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 原書げんしょはリヨンでどう1874ねん信仰しんこうひろぬののため宣教師せんきょうし探訪たんぼうとしてカトリック教会きょうかいにゅう週刊しゅうかん掲載けいさい[7][8]
  2. ^ きゅう若松わかまつじょうはい毀之づけ建言けんげん』(1873ねん12がつ)の記述きじゅつには「若松わかまつじょうについては陸軍りくぐんしょう方針ほうしんとして保存ほぞんするしろとして決定けっていしたものの、戊辰戦争ぼしんせんそうとき砲撃ほうげき相当そうとういたんでおり、補修ほしゅうするにもるにこたえない状況じょうきょうである。近頃ちかごろきゅう会津あいづ藩士はんしどもが青森あおもりけんから移住いじゅうしてきているが、頑陋のやからがこの状況じょうきょう悲愴ひそう感慨かんがいじょうこすよりは、むしろこわして陸軍りくぐん部隊ぶたい設置せっちしたほう費用ひようをはぶくだけでなく、かれらの悲愴ひそう感慨かんがいしんすことができる。わたしちゅうさわ簡徳)がうまでもく、戦争せんそう仕方しかたむかし一変いっぺんいまではやくにたない。欧米おうべい諸国しょこく制度せいど模倣もほうして全国ぜんこくしろ改造かいぞうすべきであり、若松わかまつじょうもこのような事情じじょうから断然だんぜん廃棄はいきすべきだ」といった内容ないようがある。また「城郭じょうかく絵図えずめんすべきところ絵具えのぐえがいては実際じっさい景況けいきょうからないので写真しゃしん6まいこう」とこわまえ若松わかまつじょう写真しゃしん添付てんぷされた。現在げんざいくに重要じゅうよう文化財ぶんかざいとして国立こくりつ公文書こうぶんしょかん保存ほぞんされている[10]。「001天守てんしゅひがし南面なんめん」のカットほか「002天守てんしゅ西北せいほくめん」「003 天守てんしゅひがし南面なんめん及旧県庁けんちょう側面そくめん」「004 城内じょうない倉庫そうこ及長」「005 ひがし外郭がいかくめん」「006 がい西にしめん」をウェブじょう閲覧えつらんできる[11]
  3. ^ 通達つうたつめいは『不用ふよう城郭じょうかく中元ちゅうげん藩主はんしゅニ於テはらい受ヲ志願しがんシ及散在地ざいち官庁かんちょうニ於テ受払うけはらいくわだてもちスルトキハ公売こうばいづけセスはらいわたりシヲ認許にんきょス』。本文ほんぶんに「別紙べっし陸軍りくぐん大臣だいじん請議不用ふよう城郭じょうかく中元ちゅうげん藩主はんしゅニ於テはらい受ヲ志願しがんシ及散在地ざいちうち官庁かんちょうニ於テはらい受ヲくわだてもちスルトキハ公売こうばいづけセス相当そうとう代価だいかヲ以テはらいわたりけんらいじゅうさん年度ねんど以降いこう会計かいけいほう明文あきふみゆう公売こうばいづけスヘキハ勿論もちろんナレトモ本件ほんけんじゅう年度ねんどちゅう執行しっこうおもむきづけほんどおり相当そうとう代価だいかヲ以テ売却ばいきゃく執行しっこうしかみとめム(改行かいぎょうみぎ閣議かくぎきょうス」とある[13]

出典しゅってん

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