この項目 こうもく では、陸奥 みちのく 国 こく (現 げん ・福島 ふくしま 県 けん )の会津 あいづ 城 じょう について説明 せつめい しています。
若松 わかまつ 城 しろ (わかまつじょう)は、福島 ふくしま 県 けん 会津若松 あいづわかまつ 市 し 追手 おうて 町 まち にあった日本 にっぽん の城 しろ 。別名 べつめい 鶴 つる ヶ城 じょう (つるがじょう)で、地元 じもと ではこの名 な で呼 よ ばれることが多 おお い。また、同名 どうめい の城 しろ が他 た にある ため、会津若松 あいづわかまつ 城 じょう (あいづ わかまつじょう)とも呼 よ ばれる。さらに文献 ぶんけん では黒川 くろかわ 城 しろ (くろかわじょう)や、会津 あいづ 城 じょう (あいづじょう)とされることもある。現在 げんざい の天守 てんしゅ 等 ひとし は復元 ふくげん であり、若松 わかまつ 城跡 じょうせき (わかまつじょうせき/わかまつじょうあと)として国 くに の史跡 しせき に指定 してい されている。
廊下 ろうか 橋 きょう
若松 わかまつ 城 じょう は梯 はしご 郭 くるわ 式 しき の平山 ひらやま 城 しろ で、本丸 ほんまる を中心 ちゅうしん に西 にし 出丸 でまる 、北 きた 出丸 でまる 、二 に の丸 まる 、三 さん の丸 まる が周囲 しゅうい に配置 はいち されていた。城下町 じょうかまち の南端 なんたん に位置 いち し、会津 あいづ 藩 はん の政庁 せいちょう として会津 あいづ の政治 せいじ の中心 ちゅうしん であった。藩主 はんしゅ の会津 あいづ 松平 まつへい 家 か は徳川 とくがわ 将軍家 しょうぐんけ と密接 みっせつ な関係 かんけい にあり幕末 ばくまつ には戊辰戦争 ぼしんせんそう の激戦 げきせん 地 ち となった。現在 げんざい 、城跡 じょうせき は「鶴 づる ヶ城 じょう 公園 こうえん 」となっており、そのほとんどが国 くに の史跡 しせき に指定 してい されている[ 1] 。史跡 しせき 外 がい の三ノ丸 さんのまる 跡 あと には陸上 りくじょう 競技 きょうぎ 場 じょう 、市営 しえい プールおよび福島 ふくしま 県立 けんりつ 博物館 はくぶつかん がある。天守閣 てんしゅかく は鉄筋 てっきん コンクリートで外観 がいかん 復元 ふくげん され、内部 ないぶ は若松 わかまつ 城 じょう 天守閣 てんしゅかく 郷土 きょうど 博物館 はくぶつかん となっている。
1384年 ねん (南朝 なんちょう :元 もと 中 なか 元年 がんねん 、北朝 ほくちょう :至徳 しとく 元年 がんねん )、蘆 あし 名 めい 氏 し 7代 だい 当主 とうしゅ の蘆 あし 名 めい 直盛 なおもり が小田 おだ 垣 かき の館 かん または東 ひがし 黒川 くろかわ 館 かん という館 かん を造 つく ったのが若松 わかまつ 城 じょう のはじまりとされる[ 2] 。諸説 しょせつ あるが、遅 おそ くとも15世紀 せいき 半 なか ばまでには黒川 くろかわ 城 しろ (くろかわじょう)、(または小高 おだか 木城 きじょう )とその城下 じょうか が成立 せいりつ していた。以後 いご 、代々 だいだい 蘆 あし 名 めい 氏 し の城 しろ であった。戦国 せんごく 時代 じだい 中 ちゅう 後期 こうき には、蘆 あし 名 めい 氏 し 中興 ちゅうこう の祖 そ ・盛 もり 氏 し が出 で て、黒川 くろかわ 城 しろ を中心 ちゅうしん に広大 こうだい な版図 はんと を築 きず いた。
1589年 ねん (天正 てんしょう 17年 ねん )、蘆 あし 名 めい 氏 し と連年 れんねん 戦 たたか いを繰 く り返 かえ していた伊達 だて 政 まさし 宗 むね は豊臣 とよとみ 秀吉 ひでよし の制止 せいし を無視 むし して蘆 あし 名 めい 義広 よしひろ を攻 せ め、蘆 あし 名 めい 氏 し を滅 ほろ ぼし黒川 くろかわ 城 じょう を手 て にし、米沢 よねざわ 城 じょう から本拠 ほんきょ を移 うつ した。しかし、政 せい 宗 むね は1590年 ねん (天正 てんしょう 18年 ねん )に秀吉 ひでよし に臣従 しんじゅう し、会津 あいづ を召 め し上 あ げられ、米沢 よねざわ 城 じょう に本拠 ほんきょ を戻 もど した。
代 か わって黒川 くろかわ 城 じょう に入 はい ったのは蒲生 がもう 氏 し 郷 きょう で、1592年 ねん (文 ぶん 禄 ろく 元年 がんねん )より大名 だいみょう に相応 ふさわ しい近世 きんせい 城郭 じょうかく に改造 かいぞう し、城下町 じょうかまち を整備 せいび した。氏 し 郷 きょう は、町 まち の名 な を黒川 くろかわ から「若松 わかまつ 」へと改 あらた め、蒲生 がもう 群 ぐん 流 りゅう の縄張 なわば りによる城 しろ 作 づく りを行 おこな った。なお「若松 わかまつ 」の名 な は、出身 しゅっしん 地 ち の日野 ひの 城 じょう (中野 なかの 城 じょう )に近 ちか い馬見 うまみ 岡 おか 綿 めん 向 こう 神社 じんじゃ (現在 げんざい の滋賀 しが 県 けん 蒲生 がもう 郡 ぐん 日野 ひの 町 まち 村井 むらい にある神社 じんじゃ 、蒲生 がもう 氏 し の氏神 うじがみ )の参道 さんどう 周辺 しゅうへん にあった「若松 わかまつ の杜 もり 」に由来 ゆらい し、同 おな じく領土 りょうど であった松坂 まつさか の「松 まつ 」という一文字 ひともじ もこの松 まつ に由来 ゆらい すると言 い われている。
1593年 ねん (文 ぶん 禄 ろく 2年 ねん )、望楼 ぼうろう 型 がた 7重 じゅう (5重 じゅう 5階 かい 地下 ちか 2階 かい とも、また7重 じゅう には「何 なん 段 だん にも重 かさ なる」の意味 いみ もある)の天守 てんしゅ が竣工 しゅんこう し、名 な は「鶴 つる ヶ城 じょう 」に改 あらた められた。近年 きんねん の発掘 はっくつ 調査 ちょうさ で蒲生 がもう 時代 じだい の石垣 いしがき の基 もと 底部 ていぶ が確認 かくにん され、鐙 あぶみ 瓦 かわら (軒 のき 丸 まる 瓦 かわら )、宇瓦(軒 のき 平 ひら 瓦 かわら )、鬼瓦 おにがわら の一部 いちぶ に金箔 きんぱく が貼 は られたものが出土 しゅつど している[ 3] 。
1598年 ねん (慶長 けいちょう 3年 ねん )、氏 し 郷 きょう の子 こ ・秀行 ひでゆき は家中 いえじゅう 騒動 そうどう のために92万 まん 石 せき から18万 まん 石 せき に下 さ げられ下野 げや 国 こく 宇都宮 うつのみや に移 うつり 封 ふう された。越後 えちご 国 こく 春日山 かすがやま より上杉 うえすぎ 景勝 かげかつ が120万 まん 石 せき で入 にゅう 封 ふう 。1600年 ねん (慶長 けいちょう 5年 ねん )、徳川 とくがわ 家康 いえやす は関ヶ原 せきがはら の戦 たたか い で西 にし 軍 ぐん に加担 かたん した景勝 けいしょう を30万 まん 石 せき に下 さ げ、出羽 でわ 国 こく 米沢 よねざわ に移 うつり 封 ふう した。
翌 よく 1601年 ねん (慶長 けいちょう 6年 ねん )には蒲生 がもう 秀行 ひでゆき が再 ふたた び入城 にゅうじょう したが、1627年 ねん (寛永 かんえい 4年 ねん )、嫡男 ちゃくなん の忠 ちゅう 郷 きょう に嗣子 しし がなく没 ぼっ したため、秀行 ひでゆき の次男 じなん ・忠 ちゅう 知 ち が後嗣 こうし となり伊予 いよ 国 こく 松山 まつやま に移 うつり 封 ふう された。代 か わって伊予 いよ 松山 まつやま より加藤 かとう 嘉明 よしあき が入 にゅう 封 ふう 。子 こ の明成 めいせい は西 にし 出丸 でまる 、北 きた 出丸 でまる などの造 みやつこ 築 ちく を行 おこな い、1611年 ねん (慶長 けいちょう 16年 ねん )に起 お きた会津 あいづ 地震 じしん により倒壊 とうかい した天守 てんしゅ を今日 きょう 見 み られる層 そう 塔 とう 型 がた 天守 てんしゅ に組 く みなおさせている。
1643年 ねん (寛永 かんえい 20年 ねん )、加藤 かとう 明 あきら 成 なり は改易 かいえき され、出羽 でわ 国 こく 山形 やまがた より3代 だい 将軍 しょうぐん 徳川 とくがわ 家光 いえみつ の庶弟である保科 ほしな 正之 まさゆき が23万 まん 石 せき で入 にゅう 封 ふう 。以後 いご 、明治維新 めいじいしん まで会津 あいづ 松平 まつへい 家 か (保科 ほしな 氏 し から改名 かいめい )の居城 きょじょう となった。
1868年 ねん (慶応 けいおう 4年 ねん )、戊辰戦争 ぼしんせんそう の戦闘 せんとう の一 ひと つである会津 あいづ 戦争 せんそう (会津 あいづ 城 じょう 籠城 ろうじょう 戦 せん )にて、会津 あいづ 勢 ぜい の立 た て篭 こ もる鶴 づる ヶ城 じょう は新 しん 政府 せいふ 軍 ぐん に包囲 ほうい され砲撃 ほうげき を受 う けた。1か月 げつ 間 あいだ 籠城 ろうじょう の後 のち 、板垣 いたがき 退助 たいすけ による降伏 ごうぶく 勧告 かんこく を受諾 じゅだく して9月22日 にち (太陽暦 たいようれき 11月6日 にち )開城 かいじょう した。
戦後 せんご 、天守 てんしゅ を含 ふく む多 おお くの建造 けんぞう 物 ぶつ の傷 いた みは激 はげ しかったが修復 しゅうふく は行 おこな われず、しばらく放置 ほうち された後 のち 、解体 かいたい された(下記 かき 参照 さんしょう )。
損傷 そんしょう した若松 わかまつ 城 じょう (会津 あいづ 戦争 せんそう 後 ご 撮影 さつえい )[ 4]
1868年 ねん 11月6日 にち (明治 めいじ 元年 がんねん 9月22日 にち )に開城 かいじょう すると新 しん 政府 せいふ 軍 ぐん に引 ひ き渡 わた され、兵部 ひょうぶ 省 しょう の所管 しょかん となり、仙台 せんだい 鎮台 ちんだい が管理 かんり した。翌年 よくねん には会津 あいづ 藩 はん に代 か わって若松 わかまつ 県 けん が発足 ほっそく し県庁 けんちょう を城内 じょうない の建物 たてもの に置 お いたため、若松 わかまつ 県 けん が城 しろ の管理 かんり を委任 いにん された。
1872年 ねん (明治 めいじ 5年 ねん )5月 がつ に、パリ外国 がいこく 宣教 せんきょう 会 かい のマロン 神父 しんぷ (Jean-Marie Marin)とスイス 人 ひと で横浜 よこはま 居留 きょりゅう 地 ち で生糸 きいと 輸出 ゆしゅつ 商 しょう を営 いとな み、デンマーク 領事 りょうじ も兼 か ねていたエドゥアール・ド・バヴィエ (Eduard de Bavier)らが、養蚕 ようさん 視察 しさつ のため函館 はこだて から横浜 よこはま まで旅行 りょこう をし、若松 わかまつ 城 じょう に立 た ち寄 よ った。その時 とき 、バヴィエらに雇 やと われ、旅行 りょこう に同行 どうこう した日本人 にっぽんじん 写真 しゃしん 師 し の小山 こやま 弥三郎 やさぶろう が撮影 さつえい したのが、今 いま に残 のこ る取 と り壊 こわ し前 まえ の若松 わかまつ 城 じょう の古 こ 写真 しゃしん とされてきた。その後 ご の会津若松 あいづわかまつ 市 し の調査 ちょうさ でイタリアにより鮮明 せんめい な写真 しゃしん があり、その画像 がぞう から城 しろ の東面 とうめん を写 うつ したことがわかり、小山 こやま の写真 しゃしん とは向 む きが異 こと なると判明 はんめい した。さらに3点 てん 目 め の南東 なんとう 面 めん をとった写真 しゃしん を国内 こくない で発見 はっけん 、撮影 さつえい の向 む きは小山 こやま と共通 きょうつう するものの、3点 てん 目 め は天守 てんしゅ の傷 いた みが少 すく なく撮影 さつえい 時期 じき が小山 こやま より古 ふる いと推定 すいてい され、2018年 ねん 時点 じてん で撮影 さつえい 者 しゃ などの詳細 しょうさい は不明 ふめい である[ 6] 。この旅行 りょこう 記 き はフランス語 ふらんすご で『函館 はこだて から横浜 よこはま までの旅 たび 』という題名 だいめい で1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )にリヨン で教会 きょうかい の雑誌 ざっし に掲載 けいさい され[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 、H・チースリク(独 どく : Hubert Cieslik 、1914年 ねん -1998年 ねん )による日本語 にほんご の部分 ぶぶん 訳 やく は1968年 ねん (昭和 しょうわ 43年 ねん )に『宣教師 せんきょうし の見 み た明治 めいじ の頃 ころ (函館 はこだて より江戸 えど へ)』として上梓 じょうし されている[ 9] 。
1873年 ねん (明治 めいじ 6年 ねん )1月 がつ 、明治 めいじ 政府 せいふ による全国 ぜんこく 城郭 じょうかく 存廃 そんぱい ノ処分 しょぶん 並 なみ 兵営 へいえい 地 ち 等 とう 撰 せん 定方 さだかた (廃 はい 城 じょう 令 れい )により存 そん 城 じょう 処分 しょぶん と決定 けってい (すなわち陸軍 りくぐん 省 しょう の財産 ざいさん に決定 けってい )された。同年 どうねん 12月 がつ には若松 わかまつ 県 けん 権 けん 令 れい 沢 さわ 簡徳 から『旧 きゅう 若松 わかまつ 城 じょう 廃 はい 毀之儀 ぎ ニ付 づけ 建言 けんげん 』[ 注釈 ちゅうしゃく 2] により、政府 せいふ に城郭 じょうかく 建造 けんぞう 物 ぶつ の取壊 とりこわ しが建言 けんげん された。1874年 ねん (明治 めいじ 7年 ねん )1月 がつ には陸軍 りくぐん 省 しょう から仙台 せんだい 鎮台 ちんだい へ「旧 きゅう 若松 わかまつ 城 じょう は営所建築 けんちく の場所 ばしょ であるので、石垣 いしがき や立 たて 樹 き 等 とう を除 のぞ き旧来 きゅうらい の建物 たてもの で必要 ひつよう 無 な いものは取壊 とりこわ し払下 はらいさ げすべく取 と り計 はか らう事 こと 」旨 むね の通達 つうたつ [ 12] がされ、同年 どうねん 末 まつ までに天守 てんしゅ をはじめとする建造 けんぞう 物 ぶつ はすべて解体 かいたい された。
本丸 ほんまる にあった櫓 ろ の一 ひと つである「御 ご 三 さん 階 かい 」は上記 じょうき 建言 けんげん 以前 いぜん の1870年 ねん (明治 めいじ 3年 ねん )、阿弥陀寺 あみだじ (会津若松 あいづわかまつ 市 し 七 なな 日 にち 町 まち )に移築 いちく され、現存 げんそん する。また本丸 ほんまる 大 だい 書院 しょいん から御 ご 三 さん 階 かい と共 とも に同 どう 寺 てら に移 うつ された唐破風 からはふ の表玄関 おもてげんかん は、御 ご 三 さん 階 かい の玄関 げんかん に転用 てんよう されている。
1874年 ねん 撮影 さつえい とされる画像 がぞう (毎日新聞社 まいにちしんぶんしゃ 収蔵 しゅうぞう )
城郭 じょうかく 地 ち の払 はらい 下 か と史跡 しせき 指定 してい
編集 へんしゅう
雪景色 ゆきげしき 鉄 てつ 門 もん と干 ひ 飯 めし 櫓 ろ
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )明治 めいじ 政府 せいふ による藩主 はんしゅ または官庁 かんちょう が払 はら い下 さ げを申請 しんせい した散在 さんざい 地 ち は、公売 こうばい にしないという方針 ほうしん [ 注釈 ちゅうしゃく 3] により、城 しろ 地 ち 約 やく 29haの払 はら い下 さ げが決定 けってい 。旧 きゅう 会津 あいづ 藩士 はんし 遠藤 えんどう 敬止 けいし は、城跡 じょうせき を一括 いっかつ して保存 ほぞん するため私財 しざい 2,500円 えん で譲 ゆず り受 う け、旧 きゅう 藩主 はんしゅ 松平 まつだいら 家 か に寄付 きふ した。
1908年 ねん (明治 めいじ 41年 ねん )に三ノ丸 さんのまる の東側 ひがしがわ と城 しろ 外 がい にわたり陸軍 りくぐん の連隊 れんたい 練兵 れんぺい 場 じょう が設置 せっち され、三ノ丸 さんのまる の一部 いちぶ とその濠 ほり や土 ど 塁 るい 約 やく 6haが撤去 てっきょ されたが、本丸 ほんまる 、二 に ノ丸 まる 、三ノ丸 さんのまる の一部 いちぶ 、北 きた 出丸 でまる 、西 にし 出丸 でまる 及 およ び付属 ふぞく する濠 ほり は残 のこ され、現在 げんざい の史跡 しせき 指定 してい 部分 ぶぶん 約 やく 23haは保存 ほぞん された。
1917年 ねん (大正 たいしょう 6年 ねん )に若松 わかまつ 市 し は会津 あいづ 藩 はん 士 し (白虎隊 びゃっこたい 士 し )であった東京 とうきょう 帝国 ていこく 大学 だいがく の山川 やまかわ 健次郎 けんじろう 総長 そうちょう に仲介 ちゅうかい を頼 たの み、同学 どうがく 農 のう 科 か 大学 だいがく 教授 きょうじゅ の本多 ほんだ 静六 せいろく から「若松 わかまつ 公園 こうえん 設計 せっけい 方針 ほうしん 」が示 しめ される[ 14] と、城跡 じょうせき の近代 きんだい 公園 こうえん 化 か 計画 けいかく に着手 ちゃくしゅ した。地権 ちけん については、城跡 じょうせき の所有 しょゆう 者 しゃ であった旧 きゅう 藩主 はんしゅ の松平 まつだいら 家 か と交 か わした土地 とち 譲渡 じょうと 契約 けいやく を10年 ねん 賦 ふ により、1927年 ねん (昭和 しょうわ 2年 ねん )までに償還 しょうかん 、若松 わかまつ 市 し の所有 しょゆう となった。公園 こうえん 近代 きんだい 化 か の方針 ほうしん に基 もと づき二 に ノ丸 まる や西 にし 出丸 でまる の一部 いちぶ の石垣 いしがき 等 とう が撤去 てっきょ されたことを受 う け、福島 ふくしま 県 けん は旧 きゅう 史蹟 しせき 名勝 めいしょう 天然 てんねん 紀 き 念 ねん 物 ぶつ 保存 ほぞん 法 ほう の規定 きてい にしたがい城跡 じょうせき の緊急 きんきゅう 保存 ほぞん を国 くに に申請 しんせい する。1930年 ねん (昭和 しょうわ 5年 ねん )の仮 かり 指定 してい を経 へ て1934年 ねん (昭和 しょうわ 9年 ねん )12月28日 にち 、文部省 もんぶしょう 告示 こくじ 第 だい 312号 ごう によって国 くに の史跡 しせき に本 ほん 指定 してい された[ 15] 。
この「若松 わかまつ 公園 こうえん 設計 せっけい 方針 ほうしん 」では、後 のち に史跡 しせき 区域 くいき 内 ない に組 く み込 こ まれた旧 きゅう 追手 おって 前 まえ から北 きた 出丸 でまる までの追 つい 手前 てまえ 西 にし 濠 ほり 上 じょう への架橋 かきょう や、水位 すいい の異 こと なる南町 みなみまち 通 どおり 濠 ほり と旧 きゅう 五 ご 軒 けん 丁 ちょう 濠 ほり との間 あいだ の土橋 どばし を撤去 てっきょ し、ボートレース場 じょう とする計画 けいかく も示 しめ されたが実行 じっこう されなかった。
天守 てんしゅ 再建 さいけん と保存 ほぞん 整備 せいび 計画 けいかく
編集 へんしゅう
黒 くろ 瓦 かわら の頃 ころ の天守 てんしゅ
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、戦後 せんご の財政 ざいせい 非常 ひじょう 事態 じたい 解決 かいけつ 策 さく の一環 いっかん として、本丸 ほんまる 内 うち で競輪 けいりん 場 じょう が設置 せっち されていたこともあるが1957年 ねん (昭和 しょうわ 32年 ねん )には城 しろ 外 がい に移転 いてん された。本丸 ほんまる は1960年 ねん (昭和 しょうわ 35年 ねん )までには現在 げんざい の形状 けいじょう に復旧 ふっきゅう された。現在 げんざい の天守 てんしゅ は1965年 ねん (昭和 しょうわ 40年 ねん )に鉄筋 てっきん コンクリート造 づくり により外観 がいかん 復興 ふっこう 再建 さいけん されたもので、内部 ないぶ は「若松 わかまつ 城 じょう 天守閣 てんしゅかく 郷土 きょうど 博物館 はくぶつかん 」[ 16] として公開 こうかい されている。
1990年 ねん (平成 へいせい 2年 ねん )に茶室 ちゃしつ 「麟閣」(福島 ふくしま 県 けん 指定 してい 重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい )が本丸 ほんまる の元 もと の場所 ばしょ に移築 いちく 復元 ふくげん され[ 17] 、1993年 ねん (平成 へいせい 5年 ねん )に外濠 そとぼり 跡 あと 等 とう の外郭 がいかく 遺構 いこう の一部 いちぶ が国 くに の史跡 しせき に追加 ついか 指定 してい された。1997年 ねん (平成 へいせい 9年 ねん )に史跡 しせき 内 ない の駐車 ちゅうしゃ 場 じょう や運動 うんどう 施設 しせつ 等 とう を史跡 しせき 外 がい へ移転 いてん する内容 ないよう 等 とう を含 ふく む長期 ちょうき 的 てき 、総合 そうごう 的 てき な「史跡 しせき 若松 わかまつ 城跡 じょうせき 総合 そうごう 整備 せいび 計画 けいかく 」[ 18] が策定 さくてい された。2001年 ねん (平成 へいせい 13年 ねん )に本丸 ほんまる 内 ない の干 ひ 飯 めし 櫓 ろ (ほしいやぐら)と南 みなみ 走 はし 長屋 ながや が木造 もくぞう で復元 ふくげん された[ 19] 。
2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )から、黒 くろ 瓦 かわら だった天守 てんしゅ の屋根 やね 瓦 かわら を明治 めいじ 時代 じだい に解体 かいたい される以前 いぜん の赤 あか 瓦葺 かわらぶき に復元 ふくげん する工事 こうじ が行 おこな われ2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )3月 がつ に竣工 しゅんこう した(3月 がつ の初 はじ めには覆 おお いが外 はず され、11日 にち の東日本 ひがしにっぽん 大震災 だいしんさい 後 ご の27日 にち にリニューアルオープン)。
展示 てんじ された天守閣 てんしゅかく 銀 ぎん 鯱 しゃち (右 みぎ より南 みなみ 鯱 しゃち (雌 めす )と北 きた 鯱 しゃち (雄 ゆう ))
現在 げんざい の復元 ふくげん 天守 てんしゅ 棟 とう 上 じょう には鯱 しゃち があげられているが、明治 めいじ 初年 しょねん の古 こ 写真 しゃしん には鯱 しゃち が確認 かくにん できていない。これを理由 りゆう に、2010年 ねん (平成 へいせい 22年 ねん )からの改修 かいしゅう 工事 こうじ にあわせて、取 と り外 はず すべきだという意見 いけん があった。一方 いっぽう 、江戸 えど 時代 じだい の絵図 えず には鯱 しゃち が描 えが かれているものもあり、正確 せいかく なところはわからないというのが実情 じつじょう である。
この鯱 しゃち は、復元 ふくげん 工事 こうじ を担当 たんとう したハザマ の当時 とうじ の会長 かいちょう より寄贈 きぞう されたもので、全身 ぜんしん の鱗 うろこ は銀箔 ぎんぱく 、牙 きば は金製 きんせい 、瞳 ひとみ の中心 ちゅうしん に2カラットのダイヤモンドが埋 う め込 こ まれている。同社 どうしゃ は名古屋 なごや 城 じょう 天守 てんしゅ の復元 ふくげん 工事 こうじ も受 う け持 も っており、名古屋 なごや 城 じょう の金 かね 鯱 しゃち と対 たい になるように、銀 ぎん 鯱 しゃち とした。金閣寺 きんかくじ 、銀閣寺 ぎんかくじ に倣 なら ったものである。
名古屋 なごや 城 じょう 復元 ふくげん では、金 きむ 鯱 しゃち の瞳 ひとみ にもダイヤモンドを埋 う め込 こ もうとしたものの、市民 しみん の猛 もう 反発 はんぱつ を受 う けて断念 だんねん したが、会津若松 あいづわかまつ 城 じょう のものは完全 かんぜん に寄贈 きぞう 品 ひん であるので、反対 はんたい は起 お きなかった。
1976年 ねん (昭和 しょうわ 51年 ねん )度 ど 国土 こくど 航空 こうくう 写真 しゃしん より
城 しろ 域 いき が位置 いち する台地 だいち の西端 せいたん に主 しゅ 郭 くるわ 。内 うち 濠 ほり を隔 へだ てて東側 ひがしがわ に二 に ノ丸 まる 、三ノ丸 さんのまる と続 つづ き、台地 だいち 下 か の北側 きたがわ に北 きた 出丸 でまる 、西側 にしがわ に西 にし 出丸 でまる がある。三ノ丸 さんのまる 以外 いがい の各 かく 門 もん は枡形 ますがた 石垣 いしがき 門 もん になっていた。主 しゅ 郭 くるわ は、天守 てんしゅ とそこから南 みなみ と東 ひがし に伸 の びる走 はし 長屋 ながや (多聞 たもん 櫓 ろ )により区分 くわ けされており、南東 なんとう 側 がわ の御殿 ごてん 等 とう を配置 はいち した区域 くいき が本丸 ほんまる 、その北 きた から西側 にしがわ をL字 じ に取 と り囲 かこ む区域 くいき が帯 おび 郭 かく となっている。主 しゅ 郭 くるわ の虎口 ここう は全 すべ て帯 たい 郭 くるわ に接続 せつぞく しており、天守 てんしゅ の下 した にある鉄 てつ 門 もん を経 へ て本丸 ほんまる に至 いた る。現在 げんざい の縄張 なわばり は、主 しゅ 郭 くるわ の東 ひがし 、北 きた 、西 にし の三 さん 方 ぽう の虎口 ここう (桝形 ますがた )の外側 そとがわ を馬出 うまだし で防御 ぼうぎょ し、その馬出 まいだし の虎口 ここう も桝形 ますがた とする防御 ぼうぎょ プランであり、郭 かく の構成 こうせい はシンプルだが相当 そうとう に厳重 げんじゅう な縄張 なわば りとなっている。
元々 もともと は東西 とうざい に伸 の びる舌 した 状 じょう 台地 だいち を堀切 ほっきり で区切 くぎ った連 れん 郭 くるわ 式 しき の縄張 なわばり であり、三 さん の丸 まる 側 がわ が大手 おおて であった。後 のち に城下 じょうか の街道 かいどう の整備 せいび により大手 おおて を北側 きたがわ に変更 へんこう し、防御 ぼうぎょ のために北 きた と西 にし にあった馬出 まいだし を出丸 でまる として拡張 かくちょう し現在 げんざい の縄張 なわばり となった。現在 げんざい 残 のこ る城下町 じょうかまち も、主 しゅ として城 しろ の北側 きたがわ に広 ひろ がっている。
北 きた 、西 にし の出丸 でまる は、主 しゅ 郭 かく が位置 いち する台地 だいち の下 した にあり、出丸 でまる を突破 とっぱ しようとする敵 てき を高低 こうてい 差 さ を利用 りよう して攻撃 こうげき 可能 かのう となっている。主 しゅ 郭 くるわ の櫓 ろ は出丸 でまる の虎口 ここう を制圧 せいあつ 可能 かのう な位置 いち に配置 はいち されているなど、重層 じゅうそう 火力 かりょく が発揮 はっき できるように考慮 こうりょ されており、特 とく に大手 おおて である北 きた 出丸 でまる 虎口 ここう は、出丸 でまる 、主 しゅ 郭 くるわ 帯 たい 郭 かく 、櫓 ろ 、隣接 りんせつ する出丸 でまる からの射撃 しゃげき が集中 しゅうちゅう し、その防御 ぼうぎょ の堅 かた さから「鏖丸(みなごろしまる)」と称 しょう されたと伝 つた わっている。東側 ひがしがわ の二 に ノ丸 まる も馬出 まいだし 状 じょう の郭 くるわ であるが、高低 こうてい 差 さ を利用 りよう できないため堀切 ほりきり を水 みず 濠 ほり まで掘下 ほりさ げて約 やく 20mの高 こう 石垣 いしがき とし、橋 はし は城内 きうち 唯一 ただいち の木橋 きばし (廊下 ろうか 橋 きょう )とすることで防御 ぼうぎょ している。出丸 でまる を持 も たない本丸 ほんまる 南側 みなみがわ は、濠 ほり と湯川 ゆかわ により三 さん 重 じゅう に防御 ぼうぎょ されていた。
本丸 ほんまる 天守 てんしゅ 、櫓 ろ (干 ひ 飯 めし 櫓 ろ 、月見 つきみ 櫓 ろ 、茶 ちゃ 壷 つぼ 櫓 ろ )、門 もん (鉄 てつ 門 もん 、裏門 うらもん )
帯 おび 郭 かく 櫓 ろ (東 ひがし 櫓 ろ 、北 きた 櫓 ろ 、弓 ゆみ 櫓 ろ 、西 にし 櫓 ろ )、門 もん (太鼓 たいこ 門 もん 、廊下 ろうか 橋門 はしかど 、西中 にしなか 門 もん )、橋 はし (東 ひがし の二 に ノ丸 まる 側 がわ に廊下 ろうか 橋 きょう 、北 きた の北 きた 出丸 でまる と西 にし の西 にし 出丸 でまる の間 あいだ に土橋 どばし )
二 に ノ丸 まる 門 もん (東門 ひがしもん 、南 みなみ 門 もん )
三ノ丸 さんのまる 門 もん (埋 うめ 門 もん 、南 みなみ 門 もん 、無常 むじょう 口 こう )
北 きた 出丸 でまる 櫓 ろ (西北 せいほく 櫓 ろ 、東北 とうほく 櫓 ろ )、門 もん (追手 おって 門 もん 、棟 むね 門 もん )
西出 にしで 丸 まる 櫓 ろ (西北 せいほく 櫓 ろ 、西南 せいなん 櫓 ろ )、門 もん (西 にし 追手 おって 門 もん 、内 うち 讃岐 さぬき 門 もん )
内 うち 濠 ほり 追手 おって 前 ぜん 西 にし 濠 ほり 、元 もと 鐘 かね 撞堂下 か 三 さん 角 かく 濠 ほり 、南町 みなみまち 通 どおり 濠 ほり 、旧 きゅう 五 ご 軒 けん 丁 ちょう 濠 ほり 、瓢箪 ひょうたん 濠 ほり 、三 さん 岐濠
JR 会津若松 あいづわかまつ 駅 えき 前 ぜん 1番 ばん バス乗 の り場 ば 「千 せん 石 せき ・神明 しんめい 線 せん 神明 しんめい 先回 さきまわ り」に乗車 じょうしゃ し「鶴 づる ヶ城西 じょうさい 口 こう 」下車 げしゃ (バス所要 しょよう 時間 じかん 8~12分 ふん 。徒歩 とほ 5分 ふん )
JR会津若松 あいづわかまつ 駅前 えきまえ 1番 ばん バス乗 の り場 ば 「エコろん号 ごう 」に乗車 じょうしゃ し「鶴 づる ヶ城 じょう 会館 かいかん 前 まえ 」下車 げしゃ (バス所要 しょよう 時間 じかん 13分 ふん 。徒歩 とほ 5分 ふん )
JR会津若松 あいづわかまつ 駅前 えきまえ 2番 ばん バス乗 の り場 ば 「西若松 にしわかまつ 駅 えき 行 い き」に乗車 じょうしゃ し「鶴 づる ヶ城西 じょうさい 口 こう 」下車 げしゃ (バス所要 しょよう 時間 じかん 8分 ふん 。徒歩 とほ 5分 ふん )
JR会津若松 あいづわかまつ 駅前 えきまえ 3番 ばん バス乗 の り場 ば 「米 べい 代 だい 経由 けいゆ 西若松 にしわかまつ 駅 えき 行 ぎょう 」に乗車 じょうしゃ し「鶴 づる ヶ城西 じょうさい 口 こう 」下車 げしゃ (バス所要 しょよう 時間 じかん 8分 ふん 。徒歩 とほ 5分 ふん )
JR会津若松 あいづわかまつ 駅前 えきまえ 4番 ばん バス乗 の り場 ば まちなか周遊 しゅうゆう バス 「ハイカラさん」または「あかべぇ」に乗車 じょうしゃ し「鶴 づる ヶ城 じょう 入口 いりくち 」または「鶴 づる ヶ城 じょう 三 さん の丸 まる 口 こう 」下車 げしゃ 。 (ハイカラさんバス所要 しょよう 時間 じかん 20~22分 ふん 。あかべぇバス所要 しょよう 時間 じかん 29~31分 ふん 。徒歩 とほ 5分 ふん )
会津若松 あいづわかまつ バスターミナルから「高田 たかだ ・永井野 ながいの 行 ゆき 」「本郷 ほんごう 行 こう 」に乗車 じょうしゃ し「鶴 づる ヶ城西 じょうさい 口 こう 」下車 げしゃ 。(バス所要 しょよう 時間 じかん 12分 ふん 。徒歩 とほ 5分 ふん )
高速 こうそく バス (仙台 せんだい ・福島 ふくしま ・郡山 こおりやま ・いわき )「鶴 づる ヶ城 じょう ・合同庁舎 ごうどうちょうしゃ 前 まえ 」で下車 げしゃ 。徒歩 とほ 約 やく 10分 ふん 。
団体 だんたい で観光 かんこう バスでの観光 かんこう の場合 ばあい 、鶴 つる ヶ城 じょう 会館 かいかん にバスを駐車 ちゅうしゃ する。
自家用車 じかようしゃ の場合 ばあい 、市営 しえい 有料 ゆうりょう 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう 「西 にし 出丸 でまる 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう ・東口 ひがしぐち 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう ・南口 みなみぐち 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう 」または、鶴 つる ヶ城 じょう 会館 かいかん 有料 ゆうりょう 駐車 ちゅうしゃ 場 じょう を利用 りよう 。
桜 さくら が満開 まんかい の鶴 づる ヶ城 じょう 公園 こうえん
^ 原書 げんしょ はリヨンで同 どう 1874年 ねん 、信仰 しんこう 弘 ひろ 布 ぬの のため宣教師 せんきょうし の探訪 たんぼう 記 き としてカトリック教会 きょうかい の絵 え 入 にゅう 週刊 しゅうかん 誌 し に掲載 けいさい [ 7] [ 8] 。
^ 『旧 きゅう 若松 わかまつ 城 じょう 廃 はい 毀之儀 ぎ ニ付 づけ 建言 けんげん 』(1873年 ねん 12月 がつ )の記述 きじゅつ には「若松 わかまつ 城 じょう については陸軍 りくぐん 省 しょう の方針 ほうしん として保存 ほぞん する城 しろ として決定 けってい したものの、戊辰戦争 ぼしんせんそう の時 とき の砲撃 ほうげき で相当 そうとう 痛 いた んでおり、補修 ほしゅう するにも見 み るに堪 こた えない状況 じょうきょう である。近頃 ちかごろ 、旧 きゅう 会津 あいづ 藩士 はんし どもが青森 あおもり 県 けん から移住 いじゅう してきているが、頑陋の輩 やから がこの状況 じょうきょう を見 み て悲愴 ひそう 感慨 かんがい の情 じょう を起 お こすよりは、むしろ取 と り壊 こわ して陸軍 りくぐん の部隊 ぶたい を設置 せっち した方 ほう が費用 ひよう をはぶくだけでなく、彼 かれ らの悲愴 ひそう 感慨 かんがい の心 しん を消 け すことができる。私 わたし (注 ちゅう =沢 さわ 簡徳)が言 い うまでも無 な く、戦争 せんそう の仕方 しかた が昔 むかし と一変 いっぺん し今 いま では役 やく にたない。欧米 おうべい 諸国 しょこく の制度 せいど を模倣 もほう して全国 ぜんこく の城 しろ を改造 かいぞう すべきであり、若松 わかまつ 城 じょう もこのような事情 じじょう から断然 だんぜん 廃棄 はいき すべきだ」といった内容 ないよう がある。また「城郭 じょうかく 絵図 えず 面 めん 差 さ し出 だ すべきところ絵具 えのぐ で描 えが いては実際 じっさい の景況 けいきょう が分 わ からないので写真 しゃしん 6枚 まい 差 さ し上 あ げ候 こう 」と取 と り壊 こわ し前 まえ の若松 わかまつ 城 じょう の写真 しゃしん が添付 てんぷ された。現在 げんざい 、国 くに の重要 じゅうよう 文化財 ぶんかざい として国立 こくりつ 公文書 こうぶんしょ 館 かん に保存 ほぞん されている[ 10] 。「001天守 てんしゅ 東 ひがし 南面 なんめん 」のカットほか「002天守 てんしゅ 西北 せいほく 面 めん 」「003 天守 てんしゅ 東 ひがし 南面 なんめん 及旧県庁 けんちょう 側面 そくめん 」「004 城内 じょうない 倉庫 そうこ 及長屋 や 」「005 東 ひがし 外郭 がいかく 面 めん 」「006 外 がい 櫓 ろ 西 にし 面 めん 」をウェブ上 じょう で閲覧 えつらん できる[ 11] 。
^ 通達 つうたつ 名 めい は『不用 ふよう 城郭 じょうかく 中元 ちゅうげん 藩主 はんしゅ ニ於テ払 はらい 受ヲ志願 しがん シ及散在地 ざいち ノ官庁 かんちょう ニ於テ受払 うけはらい ヲ企 くわだて 望 もち スルトキハ公売 こうばい ニ付 づけ セス払 はらい 渡 わたり シヲ認許 にんきょ ス』。本文 ほんぶん に「別紙 べっし 陸軍 りくぐん 大臣 だいじん 請議不用 ふよう 城郭 じょうかく 中元 ちゅうげん 藩主 はんしゅ ニ於テ払 はらい 受ヲ志願 しがん シ及散在地 ざいち ノ内 うち 官庁 かんちょう ニ於テ払 はらい 受ヲ企 くわだて 望 もち スルトキハ公売 こうばい ニ付 づけ セス相当 そうとう 代価 だいか ヲ以テ払 はらい 渡 わたり ノ件 けん ハ来 らい 二 に 十 じゅう 三 さん 年度 ねんど 以降 いこう ハ会計 かいけい 法 ほう ノ明文 あきふみ モ有 ゆう 之 の 公売 こうばい ニ付 づけ スヘキハ勿論 もちろん ナレトモ本件 ほんけん ハ二 に 十 じゅう 二 に 年度 ねんど 中 ちゅう ニ執行 しっこう ノ趣 おもむき ニ付 づけ 本 ほん 議 ぎ ノ通 どおり 相当 そうとう 代価 だいか ヲ以テ売却 ばいきゃく ノ儀 ぎ 執行 しっこう シ可 か 然 しか ト認 みとめ ム(改行 かいぎょう )右 みぎ 閣議 かくぎ ニ供 きょう ス」とある[ 13] 。