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金子直吉 - Wikipedia

金子かねこ直吉なおきち

日本にっぽん実業じつぎょう鈴木すずき商店しょうてん実質じっしつてき経営けいえいしゃ(1866 - 1944)

金子かねこ 直吉なおきち(かねこ なおきち、慶応けいおう2ねん6月13にち1866ねん7がつ24にち) - 昭和しょうわ19ねん1944ねん2がつ27にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう丁稚でっち奉公ほうこうからこし、鈴木すずき商店しょうてんの「だい番頭ばんがしら」として大正たいしょう時代じだいには三井みつい財閥ざいばつ住友すみとも財閥ざいばつ三菱みつびし財閥ざいばつをしのぐ規模きぼ企業きぎょうグループに拡大かくだいさせ財界ざいかいナポレオンともいわれた[1]

かねこ なおきち

金子かねこ 直吉なおきち
生誕せいたん 1866ねん7がつ24にち
日本の旗 日本にっぽん 土佐とさこく
死没しぼつ (1944-02-27) 1944ねん2がつ27にち(77さいぼつ
墓地ぼち 高知こうち筆山ひつざん神戸こうべついたに霊園れいえん
出身しゅっしんこう 丁稚でっち奉公ほうこう
職業しょくぎょう 実業じつぎょう
受賞じゅしょう せいろくくんよんとう瑞宝章ずいほうしょう
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略歴りゃくれき

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鈴木すずき商店しょうてん入社にゅうしゃまで

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慶応けいおう2ねん(1866ねん)、土佐とさはん領内りょうない商家しょうかとしてまれる。一家いっか直吉なおきち幼少ようしょう現在げんざい高知こうちうつむ。いえまずしいため学校がっこうにもけず、10さいごろから高知こうち市内しない丁稚でっち奉公ほうこうる。荷車にぐるまいてかみくずをあつめたり砂糖さとうてん乾物かんぶつ質屋しちやへの丁稚でっち奉公ほうこうた。独学どくがく経済けいざい中国ちゅうごく古典こてんなどをまなび、明治めいじ19ねん1886ねん)、20さい神戸こうべ砂糖さとう問屋とんや鈴木すずき商店しょうてんはいる。鈴木すずき商店しょうてんはすでに神戸こうべはちだい貿易ぼうえきしょうの1つにかぞえられるようになっていた。明治めいじ27ねん1894ねん)に当主とうしゅ鈴木すずき岩治いわじろう死去しきょすると、未亡人みぼうじん鈴木すずきよね[2]直吉なおきち柳田やなぎだ富士ふじまつりょう番頭ばんがしら委任いにんし、事業じぎょう継続けいぞくする。その直後ちょくご直吉なおきち樟脳しょうのう取引とりひき損失そんしつすがよねはそのままの体制たいせい経営けいえいつづける。

世界せかいてき企業きぎょうへの舵取かじと

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明治めいじ32ねん1899ねん)、直吉なおきち当時とうじ台湾たいわん総督そうとく民政みんせい長官ちょうかん後藤ごとう新平しんぺい交渉こうしょうし、専売せんばいせい目論もくろんでいた後藤ごとうつう台湾たいわん樟脳しょうのう販売はんばいけんのうち65%を獲得かくとく虫除むしよけの必需ひつじゅひんで、欧米おうべいにも輸出ゆしゅつおおきな利益りえきげた。明治めいじ35ねん1902ねん)に鈴木すずき商店しょうてん鈴木すずき合名ごうめい改組かいそされたときには、社員しゃいん合名ごうめい会社かいしゃにおいては役員やくいんけん出資しゅっししゃ意味いみ)にくわえられた。明治めいじ36ねん1903ねん)に住友すみとも樟脳しょうのう製造せいぞうしょ買収ばいしゅう福岡ふくおかけん大里おおさと製糖せいとうしょ設立せつりつした。明治めいじ38ねん1905ねん)、神戸製鋼所こうべせいこうしょ前身ぜんしん小林こばやし製鋼せいこうしょ買収ばいしゅう大正たいしょう4ねん1915ねん)には米沢よねざわ織物おりもの工場こうじょう買収ばいしゅう人造じんぞう絹糸けんし事業じぎょうはじめる(のちの帝人ていじん)。

大正たいしょう3ねん1914ねん)、だいいち世界せかい大戦たいせんはじまると世界中せかいじゅう投機とうきてきけをおこなう。直吉なおきち同年どうねん11がつ当時とうじロンドン支店してんちょう高畑たかはた誠一せいいちて「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE.」(意訳いやくかね糸目いとめをつけず、ありったけのてつ物資ぶっしえ。)と電報でんぽうったという[3]。ものすごいいきおいのけに、当時とうじ世間せけん金子かねこ正気しょうきうたがったという。国内こくないてつ不足ふそくであったが、アメリカけに完成かんせいしたふね引換ひきかえてつ支払しはらいをけるとの交渉こうしょうをまとめおおきな利益りえきた。この利益りえきおおくの企業きぎょう系列けいれつ傘下さんかおさめ、工場こうじょうやし海外かいがいにも支店してんもうひろげて鈴木すずき商店しょうてん一大いちだいコンツェルンにきずきあげた。これらの事業じぎょう拡大かくだい資金しきん提供ていきょうしていたのは台湾たいわん銀行ぎんこうであった。

貿易ぼうえき日本人にっぽんじんにという情熱じょうねつ初期しょき直吉なおきち原動力げんどうりょくとなっていたが、のちにその情熱じょうねつ日本にっぽん国内こくない三井みつい三菱みつびしという既成きせい財閥ざいばつかう。大正たいしょう6ねん1917ねん)11月に高畑たかはたいた手紙てがみでは「戦乱せんらん変遷へんせん利用りよう大儲おおもうけを三井みつい三菱みつびし圧倒あっとうする乎、しからざるも彼等かれらならんで天下てんかさんふんする乎、鈴木すずき商店しょうてん全員ぜんいん理想りそうとするところ也、小生しょうせいため生命せいめいねんじゅうねん縮小しゅくしょうするもさらにいとうところにず」としるしている[3][4]

時勢じせい急変きゅうへん暗転あんてん

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大正たいしょう7ねん1918ねん7がつ23にちからはじまったべい騒動そうどうさいは、こめめているというデマが原因げんいん鈴木すずき商店しょうてん焼打やきうちに発展はってんする。このとき直吉なおきちくびに10まんえん賞金しょうきんけられたといわれている。このさいに、直吉なおきち外国がいこくさんまい輸入ゆにゅうしようと奔走ほんそうしており、ぎぬであったが一切いっさい弁明べんめいおこなわなかった。しかし、この態度たいど一層いっそう誤解ごかい原因げんいんともなった。

だいいち世界せかい大戦たいせん反動はんどう株価かぶか工業こうぎょう製品せいひん価格かかく船舶せんぱく運賃うんちん軒並のきな下落げらくワシントン軍縮ぐんしゅく会議かいぎ影響えいきょう日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせん建造けんぞう中止ちゅうしされた影響えいきょうけた。株式かぶしき上場じょうじょうせずに銀行ぎんこうからのれのみで、運転うんてん資金しきんをまかなっていた鈴木すずき商店しょうてんおおきな打撃だげきける。鈴木すずき商店しょうてん資本しほんきん1おく3000まんえんたいし、借入金かりいれきんが10おくえんえていた。

大正たいしょう12ねん1923ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいすると政府せいふ震災しんさい手形てがた割引わりびき損失そんしつ補償ほしょうれい公布こうふ。これは震災しんさいまえ銀行ぎんこういた手形てがたのうち、決済けっさい不能ふのうになった損失そんしつ日本銀行にっぽんぎんこう補填ほてんするというものであった。この制度せいど成立せいりつには、直吉なおきちから政治せいじへのはたらきかけがあったといわれている。鈴木すずき商店しょうてん台湾たいわん銀行ぎんこうはこの制度せいど利用りようし、損失そんしつ穴埋あなうめをおこなう。政府せいふ黙認もくにん態度たいどをとっていた。

昭和しょうわ2ねん1927ねん)3がつ金融きんゆう恐慌きょうこうこるとル市場るしじょう資本しほんたよっていた台湾たいわん銀行ぎんこうは、最大さいだいである三井みつい銀行ぎんこう資本しほんげによりめられ、鈴木すずき商店しょうてんへの新規しんき融資ゆうしりを通告つうこく三井みつい物産ぶっさん三菱商事みつびししょうじのように系列けいれつ銀行ぎんこうたなかったため資金しきん調達ちょうたつ不能ふのうとなり4がつ5にち鈴木すずき商店しょうてん事業じぎょう停止ていし清算せいさんまれた。

高畑たかはた誠一せいいちらは鈴木すずき商店しょうてん商社しょうしゃ部門ぶもん引継ひきつ日本にっぽん商業しょうぎょう(のち日商にっしょう現在げんざいそう源流げんりゅう企業きぎょうひとつ)としてさい出発しゅっぱつしたが、直吉なおきち高畑たかはたらとはべつ主家しゅかである鈴木すずき再興さいこうはかって昭和しょうわ6ねん1931ねん)に太陽たいよう曹達そうだ取締役とりしまりやく就任しゅうにんのち太陽産業たいようさんぎょう名称めいしょうえて、一時いちじ神戸製鋼所こうべせいこうしょなどの20しゃ以上いじょう系列けいれつった。台湾たいわん銀行ぎんこう担保たんぽられていた帝人ていじんかぶ買戻かいもどしたが、これに関連かんれんした汚職おしょく疑惑ぎわくがった(帝人ていじん事件じけん)。晩年ばんねんまで北海道ほっかいどう南洋なんようでの開発かいはつ事業じぎょうすすめようとしていた。

晩年ばんねん

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昭和しょうわ19ねん(1944ねん)2がつ27にち病気びょうき療養りょうようちゅうところ兵庫ひょうごけん御影みかげまち自宅じたくにて死去しきょ本葬ほんそう同年どうねん3がつ9にち神戸こうべ市営しえい葬儀そうぎじょう神式しんしきによっておこなわれた[5]

評価ひょうか

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直吉なおきち自身じしん私財しざいたくわえることはなく鈴木すずき商店しょうてんぜん盛時せいじ借家しゃくやまいであり、つねすうにん書生しょせい学費がくひ援助えんじょくなったときにはわずかな現金げんきんしかのこっていなかったという。直吉なおきちは「鈴木すずき商店しょうてんはある宗旨しゅうし本山ほんざんである。自分じぶんはそこの大和尚だいおしょうで、関係かんけい会社かいしゃ末寺まつじであるとかんがえてやってきた。鈴木すずき宗旨しゅうしひろめるために(みせに)かね必要ひつようはあるが、自分じぶんふところやすのはぬすだ。んだのちきむ私財しざい)をのこした和尚おしょうはくわせしゃだ」とったという[6]

神戸大学こうべだいがく大学院だいがくいん経営けいえいがく研究けんきゅう教授きょうじゅ加護かご忠男ただおは、直吉なおきちについて以下いか概略がいりゃくのようにひょうしている[3]

後藤ごとう新平しんぺいをはじめとする政治せいじとの接近せっきんによって政商せいしょうとみられることもあり、鈴木すずき商店しょうてん崩壊ほうかいのきっかけとなったべいめの汚名おめいから社会しゃかいてき配慮はいりょける商人しょうにんかいされることもあった。一方いっぽう現場げんば主導しゅどう分権ぶんけんてき経営けいえいという『日本にっぽんてき経営けいえい』のひとつのモデルをこころみた起業きぎょう一人ひとりであり、また強引ごういんられる事業じぎょう拡張かくちょうも、貿易ぼうえき主導しゅどうけん日本人にっぽんじんに、という明治めいじのナショナリズムにうごかされたものであり、倒産とうさん私財しざい蓄財ちくざいがなかったこともそのあらわれである。しかし、そのような私欲しよくがなかったことが、かえってリスクに鈍感どんかんになり独走どくそう歯止はどめがきかなかった。

鈴木すずき商店しょうてん経営けいえいなんおちいったとき役員やくいんあいだから赤字あかじ工場こうじょう閉鎖へいさすべきだとこえたが工場こうじょう閉鎖へいさした場合ばあい社員しゃいん大量たいりょう解雇かいこしなければならなかったので直吉なおきちは“社員しゃいん家族かぞくである!!”として工場こうじょう閉鎖へいさ断固だんこ反対はんたいした[4]

鈴木すずき商店しょうてん株式会社かぶしきがいしゃなどの組織そしき近代きんだいなかいたらなかった要因よういんとして、金子かねこ自身じしん株主かぶぬし意向いこう左右さゆうされやすい株式会社かぶしきがいしゃという会社かいしゃ形態けいたいきらっていたというてん指摘してきされる。これは、株式会社かぶしきがいしゃ論争ろんそう社内しゃない派閥はばつまれる原因げんいんとなった。

会社かいしゃ巨大きょだい企業きぎょうになっても、みずからが一人ひとり仕切しきろうとするくせがあり、結果けっかとして金子かねこ組織そしき全体ぜんたい様子ようす把握はあくれない状況じょうきょうまれ、そのれいとして支店してん会社かいしゃだまって余分よぶん投機とうきして資産しさんかくれて留保りゅうほするなどの一人ひとりあるきがられた。

受章じゅしょう

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参考さんこう文献ぶんけん

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  1. ^ 福澤ふくさわももかいは「しゅのうしゃ金子かねこわが財界ざいかいに於るナポレオンにすべき英雄えいゆうだ」とひょうした(財界ざいかいじん物我ぶつがかん
  2. ^ 2014ねん4がつ9にち読売よみうりテレビ制作せいさく玉岡たまおかかおる原作げんさくで「おいえさん」というドラマが放送ほうそうされた。「明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ激動げきどう時代じだいけたおんな物語ものがたり日本一にっぽんいち商社しょうしゃつくったおんな主人しゅじんと、彼女かのじょゆめかなえるため生涯しょうがいささげただい番頭ばんがしら奇跡きせきなみだする」というコピーでよねを天海あまみ祐希ゆき奉公人ほうこうにん金子かねこ直吉なおきち小栗おぐりしゅんえんじた。
  3. ^ a b c 加護かご忠男ただおちょ「ニッポンの企業きぎょう金子かねこ直吉なおきち」(2005ねん11月21-30にち 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん
  4. ^ a b NHKそのとき歴史れきしうごいた』2001ねん7がつ4にち放送ほうそう金融きんゆう恐慌きょうこう日本にっぽんるがす 〜巨大きょだい商社しょうしゃ鈴木すずき商店しょうてん挫折ざせつ
    NHK取材しゅざいはんへん『そのとき歴史れきしうごいた コミックばん 経済けいざい立国りっこくへん収録しゅうろく たいひろこころざし作画さくが巨大きょだい商社しょうしゃ鈴木すずき商店しょうてん挫折ざせつ」(2009ねん11月22にち初版しょはん発行はっこう ISBN 4-8342-7372-5
  5. ^ きゅう鈴木すずき商店しょうてん大黒柱だいこくばしら死去しきょ昭和しょうわ17ねん5がつ17にち 朝日新聞あさひしんぶん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p68 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  6. ^ 出典しゅってん:1999ねん9がつ12にち 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん

関係かんけいする人物じんぶつ

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外部がいぶリンク

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