慶応 けいおう 2年 ねん (1866年 ねん )、土佐 とさ 藩 はん 領内 りょうない で商家 しょうか の子 こ として生 う まれる。一家 いっか は直吉 なおきち の幼少 ようしょう 期 き に現在 げんざい の高知 こうち 市 し に移 うつ り住 す む。家 いえ が貧 まず しいため学校 がっこう にも行 い けず、10歳 さい 頃 ごろ から高知 こうち 市内 しない に丁稚 でっち 奉公 ほうこう に出 で る。荷車 にぐるま を引 ひ いて紙 かみ くずを集 あつ めたり砂糖 さとう 店 てん や乾物 かんぶつ 屋 や 、質屋 しちや への丁稚 でっち 奉公 ほうこう へ出 で た。独学 どくがく で経済 けいざい や中国 ちゅうごく 古典 こてん などを学 まな び、明治 めいじ 19年 ねん (1886年 ねん )、20歳 さい で神戸 こうべ の砂糖 さとう 問屋 とんや ・鈴木 すずき 商店 しょうてん に入 はい る。鈴木 すずき 商店 しょうてん はすでに神戸 こうべ 八 はち 大 だい 貿易 ぼうえき 商 しょう の1つに数 かぞ えられるようになっていた。明治 めいじ 27年 ねん (1894年 ねん )に当主 とうしゅ の鈴木 すずき 岩治 いわじ 郎 ろう が死去 しきょ すると、未亡人 みぼうじん の鈴木 すずき よね[2] が直吉 なおきち と柳田 やなぎだ 富士 ふじ 松 まつ の両 りょう 番頭 ばんがしら に委任 いにん し、事業 じぎょう を継続 けいぞく する。その直後 ちょくご 、直吉 なおきち は樟脳 しょうのう の取引 とりひき で損失 そんしつ を出 だ すがよねはそのままの体制 たいせい で経営 けいえい を続 つづ ける。
明治 めいじ 32年 ねん (1899年 ねん )、直吉 なおきち は当時 とうじ の台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ 民政 みんせい 長官 ちょうかん 後藤 ごとう 新平 しんぺい と交渉 こうしょう し、専売 せんばい 制 せい を目論 もくろ んでいた後藤 ごとう と通 つう じ台湾 たいわん 樟脳 しょうのう 油 ゆ の販売 はんばい 権 けん のうち65%を獲得 かくとく 。虫除 むしよ けの必需 ひつじゅ 品 ひん で、欧米 おうべい にも輸出 ゆしゅつ し大 おお きな利益 りえき を上 あ げた。明治 めいじ 35年 ねん (1902年 ねん )に鈴木 すずき 商店 しょうてん が鈴木 すずき 合名 ごうめい に改組 かいそ されたときには、社員 しゃいん (合名 ごうめい 会社 かいしゃ においては役員 やくいん 兼 けん 出資 しゅっし 者 しゃ の意味 いみ )に加 くわ えられた。明治 めいじ 36年 ねん (1903年 ねん )に住友 すみとも 樟脳 しょうのう 製造 せいぞう 所 しょ を買収 ばいしゅう 。福岡 ふくおか 県 けん に大里 おおさと 製糖 せいとう 所 しょ を設立 せつりつ した。明治 めいじ 38年 ねん (1905年 ねん )、神戸製鋼所 こうべせいこうしょ の前身 ぜんしん の小林 こばやし 製鋼 せいこう 所 しょ を買収 ばいしゅう 、大正 たいしょう 4年 ねん (1915年 ねん )には米沢 よねざわ の織物 おりもの 工場 こうじょう を買収 ばいしゅう し人造 じんぞう 絹糸 けんし の事業 じぎょう を始 はじ める(のちの帝人 ていじん )。
大正 たいしょう 3年 ねん (1914年 ねん )、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が始 はじ まると世界中 せかいじゅう で投機 とうき 的 てき な買 か い付 つ けを行 おこな う。直吉 なおきち は同年 どうねん 11月 がつ に当時 とうじ ロンドン 支店 してん 長 ちょう の高畑 たかはた 誠一 せいいち に宛 あ て「BUY ANY STEEL,ANY QUANTITY,AT ANY PRICE. 」(意訳 いやく :金 かね に糸目 いとめ をつけず、ありったけの鉄 てつ ・物資 ぶっし を買 か え。)と電報 でんぽう を打 う ったという[3] 。ものすごい勢 いきお いの買 か い付 つ けに、当時 とうじ 世間 せけん は金子 かねこ の正気 しょうき を疑 うたが ったという。国内 こくない は鉄 てつ 不足 ふそく であったが、アメリカ向 む けに完成 かんせい した船 ふね と引換 ひきかえ に鉄 てつ で支払 しはら いを受 う けるとの交渉 こうしょう をまとめ大 おお きな利益 りえき を得 え た。この利益 りえき で多 おお くの企業 きぎょう を系列 けいれつ 傘下 さんか に収 おさ め、工場 こうじょう を増 ふ やし海外 かいがい にも支店 してん 網 もう を広 ひろ げて鈴木 すずき 商店 しょうてん を一大 いちだい コンツェルンに築 きず きあげた。これらの事業 じぎょう 拡大 かくだい の資金 しきん を提供 ていきょう していたのは台湾 たいわん 銀行 ぎんこう であった。
貿易 ぼうえき を日本人 にっぽんじん の手 て にという情熱 じょうねつ が初期 しょき の直吉 なおきち の原動力 げんどうりょく となっていたが、後 のち にその情熱 じょうねつ は日本 にっぽん 国内 こくない の三井 みつい 、三菱 みつびし という既成 きせい 財閥 ざいばつ に向 む かう。大正 たいしょう 6年 ねん (1917年 ねん )11月に高畑 たかはた に宛 あ て書 が いた手紙 てがみ では「戦乱 せんらん の変遷 へんせん を利用 りよう し大儲 おおもう けを為 な し三井 みつい 三菱 みつびし を圧倒 あっとう する乎、然 しか らざるも彼等 かれら と並 なら んで天下 てんか を三 さん 分 ふん する乎、是 ぜ 鈴木 すずき 商店 しょうてん 全員 ぜんいん の理想 りそう とする所 ところ 也、小生 しょうせい 、是 ぜ が為 ため 生命 せいめい を五 ご 年 ねん や十 じゅう 年 ねん 縮小 しゅくしょう するもさらに厭 いと うところに非 ひ ず」と記 しる している[3] [4] 。
大正 たいしょう 7年 ねん (1918年 ねん )7月 がつ 23日 にち から始 はじ まった米 べい 騒動 そうどう の際 さい は、米 こめ を買 か い占 し めているというデマが原因 げんいん で鈴木 すずき 商店 しょうてん の焼打 やきう ちに発展 はってん する。この時 とき 、直吉 なおきち の首 くび に10万 まん 円 えん の賞金 しょうきん が掛 か けられたといわれている。この際 さい に、直吉 なおきち は外国 がいこく 産 さん 米 まい を輸入 ゆにゅう しようと奔走 ほんそう しており、濡 ぬ れ衣 ぎぬ であったが一切 いっさい の弁明 べんめい を行 おこな わなかった。しかし、この態度 たいど が一層 いっそう の誤解 ごかい を生 う む原因 げんいん ともなった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の反動 はんどう で株価 かぶか 、工業 こうぎょう 製品 せいひん 価格 かかく 、船舶 せんぱく 運賃 うんちん が軒並 のきな み下落 げらく 。ワシントン軍縮 ぐんしゅく 会議 かいぎ の影響 えいきょう で日本 にっぽん 海軍 かいぐん の艦船 かんせん の建造 けんぞう が中止 ちゅうし された影響 えいきょう も受 う けた。株式 かぶしき を上場 じょうじょう せずに銀行 ぎんこう からの借 か り入 い れのみで、運転 うんてん 資金 しきん をまかなっていた鈴木 すずき 商店 しょうてん は大 おお きな打撃 だげき を受 う ける。鈴木 すずき 商店 しょうてん の資本 しほん 金 きん 1億 おく 3000万 まん 円 えん に対 たい し、借入金 かりいれきん が10億 おく 円 えん を超 こ えていた。
大正 たいしょう 12年 ねん (1923年 ねん )9月1日 にち 、関東大震災 かんとうだいしんさい が発生 はっせい すると政府 せいふ は震災 しんさい 手形 てがた 割引 わりびき 損失 そんしつ 補償 ほしょう 令 れい を公布 こうふ 。これは震災 しんさい 前 まえ に銀行 ぎんこう が割 わ り引 び いた手形 てがた のうち、決済 けっさい 不能 ふのう になった損失 そんしつ を日本銀行 にっぽんぎんこう が補填 ほてん するというものであった。この制度 せいど 成立 せいりつ には、直吉 なおきち から政治 せいじ 家 か への働 はたら きかけがあったといわれている。鈴木 すずき 商店 しょうてん と台湾 たいわん 銀行 ぎんこう はこの制度 せいど を利用 りよう し、損失 そんしつ の穴埋 あなう めを行 おこな う。政府 せいふ も黙認 もくにん の態度 たいど をとっていた。
昭和 しょうわ 2年 ねん (1927年 ねん )3月 がつ 、金融 きんゆう 恐慌 きょうこう が起 お こるとコ こ ール市場 るしじょう に資本 しほん を頼 たよ っていた台湾 たいわん 銀行 ぎんこう は、最大 さいだい の貸 か し手 て である三井 みつい 銀行 ぎんこう の資本 しほん 引 ひ き揚 あ げにより追 お い詰 つ められ、鈴木 すずき 商店 しょうてん への新規 しんき 融資 ゆうし を打 う ち切 き りを通告 つうこく 。三井 みつい 物産 ぶっさん や三菱商事 みつびししょうじ のように系列 けいれつ 銀行 ぎんこう を持 も たなかったため資金 しきん 調達 ちょうたつ が不能 ふのう となり4月 がつ 5日 にち 、鈴木 すずき 商店 しょうてん は事業 じぎょう 停止 ていし ・清算 せいさん に追 お い込 こ まれた。
高畑 たかはた 誠一 せいいち らは鈴木 すずき 商店 しょうてん の商社 しょうしゃ 部門 ぶもん を引継 ひきつ ぎ日本 にっぽん 商業 しょうぎょう (のち日商 にっしょう 、現在 げんざい の双 そう 日 び の源流 げんりゅう 企業 きぎょう の一 ひと つ)として再 さい 出発 しゅっぱつ したが、直吉 なおきち は高畑 たかはた らとは別 べつ に主家 しゅか である鈴木 すずき 家 か の再興 さいこう を図 はか って昭和 しょうわ 6年 ねん (1931年 ねん )に太陽 たいよう 曹達 そうだ の取締役 とりしまりやく に就任 しゅうにん 。後 のち に太陽産業 たいようさんぎょう と名称 めいしょう を変 か えて、一時 いちじ は神戸製鋼所 こうべせいこうしょ などの20社 しゃ 以上 いじょう を系列 けいれつ に持 も った。台湾 たいわん 銀行 ぎんこう の担保 たんぽ に取 と られていた帝人 ていじん 株 かぶ を買戻 かいもど したが、これに関連 かんれん した汚職 おしょく の疑惑 ぎわく が持 も ち上 あ がった(帝人 ていじん 事件 じけん )。晩年 ばんねん まで北海道 ほっかいどう や南洋 なんよう での開発 かいはつ 事業 じぎょう を進 すす めようとしていた。
昭和 しょうわ 19年 ねん (1944年 ねん )2月 がつ 27日 にち 、病気 びょうき 療養 りょうよう 中 ちゅう ところ兵庫 ひょうご 県 けん 御影 みかげ 町 まち の自宅 じたく にて死去 しきょ 。本葬 ほんそう は同年 どうねん 3月 がつ 9日 にち 、神戸 こうべ 市営 しえい 葬儀 そうぎ 場 じょう で神式 しんしき によって行 おこな われた[5] 。
直吉 なおきち 自身 じしん は私財 しざい を蓄 たくわ えることはなく鈴木 すずき 商店 しょうてん 全 ぜん 盛時 せいじ も借家 しゃくや 住 ず まいであり、常 つね に数 すう 人 にん の書生 しょせい に学費 がくひ を援助 えんじょ し亡 な くなったときにはわずかな現金 げんきん しか残 のこ っていなかったという。直吉 なおきち は「鈴木 すずき 商店 しょうてん はある宗旨 しゅうし の本山 ほんざん である。自分 じぶん はそこの大和尚 だいおしょう で、関係 かんけい 会社 かいしゃ は末寺 まつじ であると考 かんが えてやってきた。鈴木 すずき の宗旨 しゅうし を広 ひろ めるために(店 みせ に)金 かね を積 つ む必要 ひつよう はあるが、自分 じぶん の懐 ふところ を肥 こ やすのは盗 ぬす っ人 と だ。死 し んだ後 のち に金 きむ (私財 しざい )をのこした和尚 おしょう はくわせ者 しゃ だ」と言 い ったという[6] 。
神戸大学 こうべだいがく 大学院 だいがくいん 経営 けいえい 学 がく 研究 けんきゅう 科 か 教授 きょうじゅ の加護 かご 野 の 忠男 ただお は、直吉 なおきち について以下 いか 概略 がいりゃく のように評 ひょう している[3] 。
後藤 ごとう 新平 しんぺい をはじめとする政治 せいじ 家 か との接近 せっきん によって政商 せいしょう とみられることもあり、鈴木 すずき 商店 しょうてん 崩壊 ほうかい のきっかけとなった米 べい 買 か い占 し めの汚名 おめい から社会 しゃかい 的 てき 配慮 はいりょ に欠 か ける商人 しょうにん と解 かい されることもあった。一方 いっぽう で現場 げんば 主導 しゅどう の分権 ぶんけん 的 てき 経営 けいえい という『日本 にっぽん 的 てき 経営 けいえい 』の一 ひと つのモデルを試 こころ みた起業 きぎょう 家 か の一人 ひとり であり、また強引 ごういん と見 み られる事業 じぎょう の拡張 かくちょう も、貿易 ぼうえき の主導 しゅどう 権 けん を日本人 にっぽんじん の手 て に、という明治 めいじ のナショナリズムに突 つ き動 うご かされたものであり、倒産 とうさん 後 ご に私財 しざい 蓄財 ちくざい がなかったこともその表 あらわ れである。しかし、そのような私欲 しよく がなかったことが、かえってリスクに鈍感 どんかん になり独走 どくそう に歯止 はど めがきかなかった。
鈴木 すずき 商店 しょうてん が経営 けいえい 難 なん に陥 おちい ったとき役員 やくいん の間 あいだ から赤字 あかじ の工場 こうじょう を閉鎖 へいさ すべきだと言 い う声 こえ が出 で たが工場 こうじょう 閉鎖 へいさ した場合 ばあい 、社員 しゃいん を大量 たいりょう 解雇 かいこ しなければならなかったので直吉 なおきち は“社員 しゃいん は家族 かぞく である!! ”として工場 こうじょう 閉鎖 へいさ に断固 だんこ 反対 はんたい した[4] 。
鈴木 すずき 商店 しょうてん が株式会社 かぶしきがいしゃ 化 か などの組織 そしき の近代 きんだい 化 か に中 なか 々至 いた らなかった要因 よういん として、金子 かねこ 自身 じしん が株主 かぶぬし の意向 いこう に左右 さゆう されやすい株式会社 かぶしきがいしゃ という会社 かいしゃ 形態 けいたい を嫌 きら っていたという点 てん が指摘 してき される。これは、株式会社 かぶしきがいしゃ 化 か 論争 ろんそう で社内 しゃない に派閥 はばつ が生 う まれる原因 げんいん となった。
会社 かいしゃ が巨大 きょだい 企業 きぎょう になっても、自 みずか らが一人 ひとり で取 と り仕切 しき ろうとする癖 くせ があり、結果 けっか として金子 かねこ が組織 そしき 全体 ぜんたい の様子 ようす を把握 はあく し切 き れない状況 じょうきょう が生 う まれ、その例 れい として支店 してん が会社 かいしゃ に黙 だま って余分 よぶん に投機 とうき して資産 しさん を隠 かく れて留保 りゅうほ するなどの一人 ひとり 歩 ある きが見 み られた。
父 ちち :金子 かねこ 甚七
母 はは :金子 かねこ タミ
本人 ほんにん :金子 かねこ 直吉 なおきち
妻 つま :金子 かねこ 徳子 とくこ