(Translated by https://www.hiragana.jp/)
帝人事件 - Wikipedia

帝人ていじん事件じけん

1934ねん日本にっぽん発生はっせいした疑獄ぎごく事件じけん

帝人ていじん事件じけん(ていじんじけん)は、戦前せんぜん1934ねん昭和しょうわ9ねん)にこった疑獄ぎごく事件じけん齋藤さいとう内閣ないかくそう辞職じしょく原因げんいんとなったが、起訴きそされた全員ぜんいん無罪むざいとなった。

斎藤さいとうみのる

帝国ていこく人造じんぞう絹絲けんし株式会社かぶしきがいしゃげん:帝人ていじん)は鈴木すずき商店しょうてん系列けいれつであったが、1927ねん昭和しょうわ2ねん)の恐慌きょうこう鈴木すずき商店しょうてん倒産とうさんすると、帝人ていじん株式かぶしき22まんかぶ台湾たいわん銀行ぎんこう担保たんぽになった。業績ぎょうせき良好りょうこう株価かぶかがったため、このかぶをめぐる暗躍あんやくこっていた。もと鈴木すずき商店しょうてん金子かねこ直吉なおきちかぶ買戻かいもどすため、文部もんぶ大臣だいじん鳩山はとやま一郎いちろうや、「ばんまちかい」という財界ざいかいじんグループにはたらきかけ、11まんかぶ買戻かいもどした。その帝人ていじん増資ぞうし決定けっていしたため、株価かぶかおおきく値上ねあがりした。

ばん町会ちょうかい関東大震災かんとうだいしんさいまえごろ河合かわい良成よしなり岩倉いわくらこう後藤ごとう圀彦が、懇意こんいごう誠之助せいのすけ男爵だんしゃくばんまち自宅じたくおとず食事しょくじともにするかいとして設立せつりつした[1][2]

1934ねん昭和しょうわ9ねん1がつ17にち、『時事新報じじしんぽう』(武藤むとう山治やまじ社長しゃちょう)が「ばんまちかい」を批判ひはんする記事きじばんまちかい問題もんだいをあばく」を掲載けいさい、そのなか帝人ていじんかぶをめぐる贈収賄ぞうしゅうわい疑惑ぎわくげた。

議会ぎかい関連かんれん追及ついきゅうされた鳩山はとやまは「明鏡止水めいきょうしすい心境しんきょう」とべ、これが辞任じにん意思いし表示ひょうじだと報道ほうどうされたため、嫌気いやけがさして辞任じにんした。なお、同年どうねん3がつ武藤むとう射殺しゃさつ事件じけんきたが、ほん事件じけんとの関係かんけい不明ふめいである。

こい事件じけん

編集へんしゅう

立憲りっけん政友せいゆうかい代議士だいぎし岡本おかもと一巳かずみは1934ねん3がつ7にち東京とうきょう憲兵けんぺいたい小山こやま松吉まつきち司法しほう大臣だいじんはじひがしかぶ取引とりひきいん沼間ぬまま敏朗としろうおよ小林こばやし武次郎たけじろう2めいたい涜職とくしょく告発こくはつをした。小林こばやしが1928ねん日本にっぽん共産党きょうさんとうさんいち事件じけんのシンパとして検挙けんきょされたさい当時とうじ検事けんじ総長そうちょうであった小山こやま法相ほうしょうらが待合まちあいあそびの饗応きょうおうけてけい軽減けいげんはかったというもので、かつら太郎たろう愛人あいじん待合まちあいこいじゅう女将おかみこいこと安藤あんどうあきらおんなみずか証人しょうにんつなどし、なぞ事件じけんとして注目ちゅうもくされた。 しかし、調しらべの結果けっか人違ひとちがいによる無実むじつ告発こくはつとされ、もって岡本おかもと誣告ぶこく偽証ぎしょう教唆きょうさざい安藤あんどう偽証罪ぎしょうざいとして4がつ2にち逮捕たいほされ、予審よしん結果けっか、どちらも有罪ゆうざいとなった[3]

起訴きそ斎藤さいとう内閣ないかくそう辞職じしょく

編集へんしゅう

その帝人ていじん社長しゃちょう台湾たいわん銀行ぎんこう頭取とうどりばんまちかい永野ながのまもる大蔵省おおくらしょう次官じかん銀行ぎんこう局長きょくちょうぜん16にん起訴きそされた。これにより政府せいふ批判ひはんたかまり、同年どうねん7がつ3にち斎藤さいとう内閣ないかくそう辞職じしょくした。

起訴きそされた人物じんぶつつぎのとおり。

なお、事件じけん逮捕たいほしゃ勾留こうりゅう期間きかんは200にちおよんだが、商行為しょうこういかぶ売買ばいばいがあるだけで、賄賂わいろ使つかわれたといわれる帝人ていじんかぶ1300かぶ事件じけんきるまえの1933ねん昭和しょうわ8ねん)6がつ19にち以来いらい富国ふこく徴兵ちょうへい保険ほけん会社かいしゃ地下ちかだい金庫きんこなかはいったままになっているなど犯罪はんざい痕跡こんせきがどこにもなかった。

無罪むざい判決はんけつ

編集へんしゅう

裁判さいばん1935ねん昭和しょうわ10ねん6月22にち東京とうきょう刑事けいじ地方裁判所ちほうさいばんしょにて開廷かいてい裁判さいばんちょう藤井ふじいいちろう)、16にん被告ひこくはいずれも罪状ざいじょう否認ひにんした[4]

1936ねん二・二六事件ににろくじけんもと総理そうり大臣だいじん斎藤さいとうみのる暗殺あんさつと、11月のにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい締結ていけつはさんで、1937ねん昭和しょうわ12ねん)には起訴きそされた全員ぜんいんだいいちしん無罪むざいとなり確定かくていした。このときひだり陪審ばいしんとして判決はんけつ起案きあんしたのはだい日本にっぽん武徳ぶとくかい石田いしだかずがい (のち最高さいこう裁判所さいばんしょ長官ちょうかん)であった。

公判こうはんつうじてさんは「司法しほうファッショ」として、検察けんさつによる強引ごういん取調とりしら手法しゅほうきびしく批判ひはんした[5]

背景はいけい

編集へんしゅう
法曹ほうそうかい司法省しほうしょう

帝国ていこく弁護士べんごしかい斎藤さいとう内閣ないかくそう辞職じしょくあわせるように1934ねん7がつワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく廃止はいし通告つうこくもとめる声明せいめい発表はっぴょうし、もって日本にっぽん政府せいふ条約じょうやく廃止はいしさせ、世界せかいてき軍拡ぐんかく時代じだい決定けっていづけた[6]小山こやま松吉まつきち司法しほう大臣だいじん事件じけん渦中かちゅうの、1934ねんおよび1936ねん、『ナチスの刑法けいほう』、『ナチスの法制ほうせいおよ立法りっぽう綱要こうよう』など、ナチス主義しゅぎしゃ翻訳ほんやく論文ろんぶん司法省しほうしょうから公刊こうかんした[7]

枢密院すうみついんふく議長ぎちょう 平沼ひらぬま騏一郎きいちろう

司法しほう官僚かんりょう出身しゅっしん当時とうじ枢密院すうみついんふく議長ぎちょう平沼ひらぬま騏一郎きいちろういち事件じけん暗殺あんさつされたいぬやしなえあつし後継こうけいないかく総理そうり大臣だいじん地位ちいねらっていたが、後継こうけい推薦すいせんけんがある元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもちからその志向しこうファシズムてきであるとしてきらわれ、推薦すいせん候補こうほにすらのぼらず、また枢密院すうみついん議長ぎちょう昇格しょうかく要望ようぼう西園寺さいおんじ反対はんたいふく議長ぎちょうのままかれていた。このため、西園寺さいおんじとこれを支持しじする立憲りっけん政友せいゆうかい主流しゅりゅうただし、どうとう総裁そうさいであり平沼ひらぬま直系ちょっけい鈴木すずき喜三郎きさぶろう西園寺さいおんじにより後継こうけい総理そうり就任しゅうにん阻止そしされていた。)をふかうらんで、どう党内とうない不満ふまん分子ぶんしみながら捜査そうさすすめていったという。[8]

政友せいゆうかい内紛ないふん

歴史れきし学者がくしゃ佐々木ささきたかしは「この事件じけん一般いっぱん平沼ひらぬま使嗾しそうけた若手わかて検事けんじ捏造ねつぞうしたものといわれているが、これには「西園寺さいおんじこう政局せいきょく」の「平沼ひらぬま陰謀いんぼうせつてき先入観せんにゅうかん多分たぶん混入こんにゅうしているものとおもわれ、平沼ひらぬま何処どこまで関与かんよしていたかはわからないというべきである」「この事件じけん元来がんらい政友せいゆうかい内紛ないふんとして発生はっせいし、そこにあかりとう事件じけん空洞くうどうたいする検事けんじ不満ふまんや、ぐん右翼うよくとう様々さまざま思惑おもわく雪崩込なだれこんで肥大ひだいしたとみるべきであり、最初さいしょからしょいきおい連合れんごうの「だい陰謀いんぼう」が計画けいかくされていたとみるのは穿うがぎである」としている[9]

政友せいゆうかい内紛ないふんというのは、中島なかじましょうしょう斡旋あっせんし、鳩山はとやま一郎いちろう政友せいゆうかい主流しゅりゅう)が主導しゅどうした政友せいゆうかい民政みんせいとうによるせいみん連携れんけい運動うんどうたいし、政友せいゆうかい主流しゅりゅうであった久原くはら房之助ふさのすけ党内とうない主導しゅどうけんうばうために、この政友せいゆうかい民政みんせいとう連携れんけい運動うんどうつぶそうとしたことをす。政友せいゆうかい民政みんせいとう連携れんけい運動うんどう斡旋あっせんした中島なかじましょうしょう足利尊氏あしかがたかうじ問題もんだい辞任じにん余儀よぎなくされ、鳩山はとやま一郎いちろう久原くはら代議士だいぎしによる疑獄ぎごく暴露ばくろ五月雨さみだれ演説えんぜつ事件じけん)により攻撃こうげきけている。[10]

のちに河井かわい信太郎しんたろう帝人ていじん事件じけんひょうして、つぎのようにかたっている。

塩野しおの司法しほう大臣だいじんだい英断えいだんにより控訴こうそ断念だんねんしたが、検事けんじ証拠しょうこひん検討けんとうおこたっていたことが無罪むざい致命傷ちめいしょうになった。掛物かけものによくえがかれている、みずなか日影ひかげさる藤蔓ふじづるにつかまってしゃくろうとしているになぞらえて、かげかたちもないものを一生懸命いっしょうけんめいにすくいげようとしているのが検察けんさつ基礎きそであって、検察けんさつにはあらそうことができなかった。」[11]

関連かんれん項目こうもく

編集へんしゅう

脚注きゃくちゅう

編集へんしゅう
  1. ^ 河合かわい良成よしなり帝人ていじん事件じけん 30ねん証言しょうげん』p26-32
  2. ^ 波多野はたのまさる正力しょうりき支援しえん思惑おもわく」『日米にちべい野球やきゅう?メジャーをいかけた70ねんPHP新書しんしょ
  3. ^ 時事通信社じじつうしんしゃ法曹ほうそう告発こくはつした岡本おかもと代議士だいぎし時事じじ年鑑ねんかん昭和しょうわ10年版ねんばん。402ぺーじ
  4. ^ 公判こうはんひらく、じゅうろく被告ひこくいずれも罪状ざいじょう否認ひにん東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ10ねん6がつ23にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp417 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  5. ^ 三土みつちもとてつしょう心境しんきょう披瀝ひれき事実じじつ審理しんり終了しゅうりょう中外ちゅうがい商業しょうぎょう新報しんぽう昭和しょうわ11ねん12月24にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp422 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  6. ^ 帝国ていこく弁護士べんごしかいはな条約じょうやく廃止はいし通告つうこくかんする声明せいめい どう理由りゆうしょ」『正義まさよし』1934ねん9がつごう
  7. ^ 司法省しほうしょう司法しほう資料しりょう』。
  8. ^ 昭和しょうわ天皇てんのう47 いち事件じけん波紋はもん 福田ふくだ和也かずや」 (『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう』)2009ねん平成へいせい21ねん5)がつ特別とくべつごう
  9. ^ 佐々木ささきたかし挙国一致きょこくいっちないかく枢密院すうみついん平沼ひらぬま騏一郎きいちろう斎藤さいとう内閣ないかく」(『日本にっぽん歴史れきし』352ごう、1977ねん,p.77)
  10. ^ 菅谷すがや幸浩ゆきひろ(2007)「帝人ていじん事件じけん斎藤さいとう内閣ないかく崩壊ほうかい--昭和しょうわせん前期ぜんき中間なかま内閣ないかく研究けんきゅういち視角しかくとして」『日本にっぽん政治せいじ研究けんきゅう』,p.33~60
  11. ^ 検察けんさつ読本とくほん』 (河井かわい信太郎しんたろう, 商事しょうじ法務ほうむ研究けんきゅうかい) p9

関連かんれん書籍しょせき

編集へんしゅう
  • 帝人ていじん事件じけん2(今村いまむらつとむ三郎さぶろう訴訟そしょう記録きろく)』 専修大学せんしゅうだいがく今村いまむら法律ほうりつ研究けんきゅうしつ
  • 野中のなかもりたかし帝人ていじん疑獄ぎごく』(千倉ちくら書房しょぼう、1935ねん
  • 河合かわい良成よしなり帝人ていじん事件じけんさんじゅうねん証言しょうげん』(講談社こうだんしゃ、1970ねん
  • 菅谷すがや幸浩ゆきひろ帝人ていじん事件じけんから国体こくたい明徴めいちょう声明せいめいへ」(筒井つついきよしちゅうへん昭和しょうわ講義こうぎ2─専門せんもん研究けんきゅうしゃ戦争せんそうへのみち─』筑摩書房ちくましょぼう、2016ねん
  • 菅谷すがや幸浩ゆきひろ昭和しょうわせん前期ぜんき政治せいじ国家こっかぞう─「挙国一致きょこくいっち」を目指めざして─』(木鐸ぼくたくしゃ、2019ねん) 
  • 菅谷すがや幸浩ゆきひろ帝人ていじん事件じけん」(筒井つついきよしちゅうへん昭和しょうわ研究けんきゅう最前線さいぜんせん大衆たいしゅう軍部ぐんぶ・マスコミ、戦争せんそうへのみち─』朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2022ねん
  • 松浦まつうらただしこう財界ざいかい政治せいじ経済けいざい――井上いのうえ準之助じゅんのすけごう誠之助せいのすけ池田いけだ成彬せいひん時代じだい』(東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい, 2002ねん

外部がいぶリンク

編集へんしゅう