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極東国際軍事裁判 - Wikipedia

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん

1946ねんから1948ねんにかけて日本にっぽん東京とうきょうおこなわれた、だい世界せかい大戦たいせんかんする軍事ぐんじ裁判さいばん

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん(きょくとうこくさいぐんじさいばん、きゅう字体じたい極東きょくとう國際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん󠄁英語えいご: The International Military Tribunal for the Far East、1946ねん昭和しょうわ21ねん)5がつ3にち - 1948ねん昭和しょうわ23ねん)11月12にち)とは、広田ひろた弘毅こうき東条とうじょう英機ひできもと内閣ないかく総理そうり大臣だいじんなど日本にっぽん指導しどうしゃ28めいが「1928ねん昭和しょうわ3ねん)1がつ1にちから1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ2にち」にかけて「侵略しんりゃく戦争せんそう」をこす共同きょうどう謀議ぼうぎおこな[1] 、「平和へいわ愛好あいこうしょ国民こくみん利益りえきならびに日本にっぽん国民こくみん自身じしん利益りえき毀損きそん」したとして[1]平和へいわたいするつみ(Aきゅう犯罪はんざい)、通常つうじょう戦争せんそう犯罪はんざい(Bきゅう犯罪はんざいおよ人道じんどうたいするつみ(Cきゅう犯罪はんざい)の容疑ようぎさばいたものである。

裁判所さいばんしょかれた市ヶ谷いちがやきゅう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう講堂こうどう
公判こうはんちゅう法廷ほうていない

東京とうきょう裁判さいばん(とうきょうさいばん、英語えいご: Tokyo Trial)ともばれる[2][3]

概要がいよう

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本裁ほんだちばんは、連合れんごうこくによって東京とうきょう市ヶ谷いちがや設置せっちされた極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ法廷ほうていにおいて、ポツダム宣言せんげんだい10こう法的ほうてき根拠こんきょとし[2]連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょう日本にっぽんにて連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざいじんとして指定していした日本にっぽん指導しどうしゃなどを、さばいたいちしんせい軍事ぐんじ裁判さいばんである。[注釈ちゅうしゃく 1]

裁判さいばんは、例外れいがいてき罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎはんして[4]事後じごほう遡及そきゅうてき適用てきようおこなわれ[5][6]連合れんごうこくがわ戦争せんそう責任せきにんわれなかったことや、連合れんごうこくがわ証言しょうげんばかりが採用さいようされ、日本にっぽんがわ有利ゆうり証拠しょうこ却下きゃっかされていたことなどから、日本にっぽん国内こくないでは保守ほしゅそう中心ちゅうしんに「連合れんごうこくによる復讐ふくしゅう」ではないかといったこえがある。一方いっぽうかり裁判さいばん進行しんこう問題もんだいがあったとされても、日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざいについてはおおくの客観きゃっかんてき証拠しょうこによって正確せいかく認定にんていがなされており、弁解べんかい余地よちがないものがおおい。

共同きょうどう謀議ぼうぎ」の始期しきを1928ねん昭和しょうわねん)1がつ1にちからとしたのは検事けんじがわ田中たなか上奏じょうそうぶん偽物にせもの)をしんじたからと推測すいそくされるが、検事けんじはたいさおじゅん将軍しょうぐん出廷しゅっていさせこの文書ぶんしょ証明しょうめいしようとしたが、この証言しょうげんはやし逸郎いつお弁護士べんごし反対はんたい尋問じんもんによりやぶられた[7]

南京なんきん事件じけん』の認定にんてい

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この東京とうきょう裁判さいばん法廷ほうていは、にちちゅう戦争せんそうにちはな事変じへんちゅう日本にっぽんぐんによる中国ちゅうごく大陸たいりく南京なんきん占領せんりょうのさいに、やく2がつあいだにわたって20まんにん以上いじょう中国人ちゅうごくじん殺害さつがいされたと認定にんていした(南京なんきん事件じけん[8][9]。この「20まんにん」という犠牲ぎせいしゃすう中心ちゅうしんに、事件じけん当時とうじ人口じんこう「20まんにん」や5まんにん人口じんこう増加ぞうかてんなどから、事件じけん真偽しんぎ実態じったいについて、東京とうきょう裁判さいばん判断はんだん是非ぜひをめぐる議論ぎろんつづいている(南京なんきん事件じけん論争ろんそう)。不作為ふさくい責任せきにんをめぐる議論ぎろんもある(後述こうじゅつ)。

この裁判さいばんでは、その過程かていにおいて南京なんきん事件じけん認定にんてい[8][9]がなされ、近代きんだいでは「日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざい」として世界せかいてき問題もんだい指摘してきされており、日本にっぽん戦争せんそう犯罪はんざい歴史れきし外交がいこう問題もんだい発展はってんすることもめずらしくない。

被告人ひこくにん

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Aきゅう平和へいわたいするつみ」で有罪ゆうざいになった被告人ひこくにんは23めい、Bきゅう通常つうじょう戦争せんそう犯罪はんざい」で有罪ゆうざいになった被告人ひこくにんは7めい、Cきゅう人道じんどうたいするつみ」で有罪ゆうざいとなった被告人ひこくにんはいない。

裁判さいばんちゅう病死びょうしした2めい病気びょうきによって免訴めんそされた1めいのぞく25めい有罪ゆうざい判決はんけつけ、うち7めい死刑しけいとなった。

なお、日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやくにより「the judgments[10] 」を『受諾じゅだく』し、『異議いぎべる立場たちばにない』というのが日本にっぽん政府せいふ立場たちばである[11]

また、ほぼどう時期じきかさなって、BCきゅうのみに該当がいとうするとして起訴きそされた戦争せんそう犯罪はんざいさばいた裁判さいばん横浜よこはまおこなわれており、こちらは横浜よこはま裁判さいばんばれる。

沿革えんかく

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ドイツの降伏ごうぶくのちイギリスフランスアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくソビエト連邦れんぽうの4かこく調印ちょういんした国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょうもとづいてドイツニュルンベルク裁判さいばん実施じっしされた。それを参照さんしょうして極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ条例じょうれい英語えいごばんさだめられた。11カ国かこくインドオランダカナダ、イギリス、アメリカ、オーストラリア中国ちゅうごくソ連それん、フランス、ニュージーランドフィリピン)が裁判所さいばんしょ裁判官さいばんかん検察官けんさつかん提供ていきょうした。弁護べんごがわ日米にちべい弁護士べんごし構成こうせいされた。極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん起訴きそされた被告人ひこくにん合計ごうけい28めいであった[2]

開廷かいていまでの経緯けいい

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アメリカのたいにち政策せいさく

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敵国てきこく戦争せんそう犯罪はんざいあつかいについての初期しょき議論ぎろん

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1944ねん8がつから終戦しゅうせん以降いこう政策せいさく方針ほうしん敵国てきこく戦争せんそう犯罪はんざいじんあつかいについて議論ぎろんされた。ヘンリー・モーゲンソー財務ざいむ長官ちょうかんナチス指導しどうしゃ即決そっけつ処刑しょけい主張しゅちょうし、他方たほうヘンリー・スティムソン陸軍りくぐん長官ちょうかんは「文明ぶんめいてき裁判さいばん」による懲罰ちょうばつ主張しゅちょうした[12]。アメリカの新聞しんぶんはモーゲンソーの即決そっけつ処刑しょけいろんもう攻撃こうげきし、ルーズベルト大統領だいとうりょう裁判さいばん方式ほうしき支持しじすることとなった[12]。スティムソンは裁判さいばんは「報復ほうふく」の対極たいきょくにあるとみなしていた[13]

なお、東京とうきょう裁判さいばんニュルンベルク裁判さいばんとのおおきなちがいは、ニュルンベルク裁判さいばんでは起訴きそされたひとみな有名人ゆうめいじんで、戦前せんぜんから欧米おうべいれているものおおくいた。それにくら東京とうきょう裁判さいばんでは一部いちぶ中国ちゅうごくからうらまれているひともいたもののおおくは無名むめいであった。その、ニュルンベルク裁判さいばん他国たこく検事けんじ判決はんけつはなったのにたいし、東京とうきょう裁判さいばんでは主席しゅせき検事けんじジョセフ・キーナン以外いがいみとめられなかった。

国務こくむ陸軍りくぐん海軍かいぐん三省調整委員会極東小委員会

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アメリカたいにち政策せいさく検討けんとうする機関きかんとして1944ねん12月に国務こくむ陸軍りくぐん海軍かいぐんさんしょう調整ちょうせい委員いいんかい (SWNCC) が設立せつりつされた[14]。さらにその下位かい組織そしき極東きょくとうしょう委員いいんかい (Subcommittee for the Far East,SFE) が1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ設立せつりつされ、日本にっぽん朝鮮ちょうせん占領せんりょう政策せいさくあん作成さくせいされた[14][15]裁判さいばん方式ほうしきにするか、指導しどうしゃ処刑しょけい方式ほうしきかの検討けんとうもなされ、1945ねん8がつ9にち報告ほうこくしょ (SFE106) ではたいどく政策せいさく踏襲とうしゅうし、「共同きょうどう謀議ぼうぎ」の起訴きそ満州まんしゅう事変じへんまでさかのぼること、日本にっぽんにはドイツのような組織そしきてき迫害はくがい行為こういはなかったので人道じんどうたいするつみ問責もんせきしても無駄むだであると報告ほうこくされた[15]

8がつ13にち会議かいぎでは日本にっぽんたいしても平和へいわたいするつみ人道じんどうたいするつみ責任せきにんしゃふくめることが合意ごういされ、8がつ24にちのSWNCC57/1で占領せんりょうぐん直接ちょくせつ逮捕たいほをし、容疑ようぎしゃ自殺じさつ殉教者じゅんきょうしゃになることをふせぐ、連合れんごうこくあいだ対等たいとうせい保障ほしょう各国かっこく首席しゅせき判事はんじすこと、判決はんけつ権限けんげんはマッカーサーにあるとされた[16]

連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい委員いいんかいによるたいにち勧告かんこく

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1943ねん昭和しょうわ18ねん10がつ20日はつかに17カ国かこく共同きょうどう設立せつりつした連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい委員いいんかい(UNWCC)は戦争せんそう犯罪はんざい証拠しょうこ調査ちょうさ担当たんとうする機関きかんであったが、終戦しゅうせんには政策せいさく提言ていげんなどをおこなうようになっており、オーストラリア代表だいひょうライトきょうたいにち政策せいさく勧告かんこく提言ていげんし、1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ8にちには極東きょくとう太平洋たいへいよう特別とくべつ委員いいんかい設置せっちし、委員いいんちょうには中華民国ちゅうかみんこくちゅうえい大使たいし顧維ひとし就任しゅうにんし、8がつ29にちたいにち勧告かんこく採択さいたくされた[17]

SWNCC57/3指令しれい

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アメリカ統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶがJCS1512、またアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない日本にっぽん占領せんりょう問題もんだい討議とうぎする国務こくむ陸軍りくぐん海軍かいぐん調整ちょうせい委員いいんかいが1945ねん昭和しょうわ20ねん10月2にちにSWNCC57/3指令しれいをマッカーサーにたいしてはっし、日本にっぽんにおける軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ設置せっち準備じゅんび開始かいしされた[18]

しかし、ダグラス・マッカーサーはこうした「国際こくさい裁判さいばん」には否定ひていてきで、57/3指令しれい公表こうひょうすれば、日本にっぽん政府せいふがダメージをけて直接ちょくせつ軍政ぐんせいをせざるをえない、東條とうじょう英機ひできさば権限けんげん自分じぶんあたえるよう同年どうねん10月7にち陸軍りくぐんあて電報でんぽうべ、アメリカ単独たんどく法廷ほうてい主張しゅちょうし、ハーグ条約じょうやくたいべい戦争せんそうさばくことによる「戦争せんそう犯罪はんざい」に反対はんたいした[19]。GHQ参謀さんぼうだい部長ぶちょうチャールズ・ウィロビーによれば、マッカーサーが東京とうきょう裁判さいばん反対はんたいしたのは南北戦争なんぼくせんそう南部なんぶ怨恨えんこん根深ねぶかのこったことをっていたからだとべている[19]

スティムソン、マクロイ陸軍りくぐん次官補じかんほらはマッカーサーの提言ていげん採用さいようせず、57/3指令しれい国際こくさい裁判さいばん方針ほうしん固守こしゅした[20]

イギリス外務省がいむしょうはアメリカのたいにち基本きほん政策せいさくたいして消極しょうきょくてきで、日本人にっぽんじん指導しどうしゃ国際こくさい裁判さいばんにも賛同さんどうしていなかった。もともとイギリスは、1944ねん昭和しょうわ19ねん)9がつ以来いらい、ドイツ指導しどうしゃ即決そっけつ処刑しょけいべいソにうったえていた。イギリスは、裁判さいばん方式ほうしき長期ちょうきするし、またドイツに宣伝せんでん機会きかいあたえるし、伝統でんとうてき軍事ぐんじ裁判さいばん各国かっこくおこなえばよいというかんがえだった[21]結局けっきょく英国えいこくは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)5がつに、ドイツ指導しどうしゃ国際こくさい裁判さいばん同意どういした。

ただし、この時点じてんでもまだ日本にっぽん指導しどうしゃ国際こくさい裁判さいばんには同意どういしていなかった。のち、イギリス連邦れんぽう政府せいふ自治省じちしょうおよびイギリス連邦れんぽう自治領じちりょうのオーストラリアやニュージーランドによる裁判さいばん積極せっきょくてき関与かんよをうけたが、イギリスは同年どうねん12がつ12にち、アメリカに技術ぎじゅつてき問題もんだい決定けっていけん委任いにんした[22]

中華民国ちゅうかみんこく

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中華民国ちゅうかみんこく国民こくみん政府せいふでは、カイロ会談かいだん直前ちょくぜんの1943ねん昭和しょうわ18ねん)10がつまごぶん長男ちょうなんまご重慶たーちん英字えいじナショナル・ヘラルド天皇てんのうおよび天皇てんのう崇拝すうはい一掃いっそうせよとろんじた[23][24]。その重慶たーちん設置せっちされた連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい委員いいんかい極東きょくとうしょう委員いいんかいはアメリカ、イギリス、中華民国ちゅうかみんこく、オランダで構成こうせいされ、日本人にっぽんじん戦犯せんぱんリストを選定せんていした[24]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)6がつ作成さくせいされた「おかせせん以来いらい敵国てきこく主要しゅようざいはん調査ちょうさひょう」では、「にちすめらぎ裕仁ひろひと」をはじめとする「陸軍りくぐんざいはん」173にん、「海軍かいぐんざいはん」13にん、「政治せいじざいはん」41にん、「特殊とくしゅざいはん」20にん選定せんていされた[24][25]。7月17にち国民こくみん参政さんせいかいは、天皇てんのう戦争せんそう犯罪はんざいじんとして指名しめいし、天皇てんのうせい廃止はいし主張しゅちょうしたが、国民党こくみんとう政府せいふ米国べいこく方針ほうしんわせて、訴追そついしないとした[24][26]

同年どうねん9がつの「日本にっぽん主要しゅよう戦争せんそうざいはんめいたん」では178にん選定せんていされ[27]、その日本にっぽんおかせはな主要しゅようざいはん」として本庄ほんじょうしげる土肥どいはら賢二けんじたに寿夫としおだい6師団しだんちょう)、橋本はしもと欣五郎きんごろう板垣いたがき征四郎せいしろうはた俊六しゅんろくささえ派遣はけんぐんそう司令しれいかん)、東條とうじょう英機ひでき和知わちたかふとしげん特務とくむ機関きかんちょう)、かげただしあきらささえ派遣はけんぐんそう司令しれい)、酒井さかいたかしだい23ぐん司令しれいかん)、磯谷いそがいれんかい香港ほんこん総督そうとく)、喜多きた誠一せいいちだい1方面ほうめんぐん司令しれいかん)の12にん、さらに1946ねん1がつに「だい2批日本にっぽん主要しゅよう戦犯せんぱんめいたん」として、みなみ次郎じろう荒木あらき貞夫さだお平沼ひらぬま騏一郎きいちろう阿部あべ信行のぶゆき米内よない光政みつまさ小磯こいそ国昭くにあき嶋田しまだ繁太郎しげたろう広田ひろた弘毅こうき松岡まつおか洋右ようすけ東郷とうごう茂徳しげのり梅津うめづ美治よしはるろう松井まついいし寺内てらうち寿一ひさいち牟田むたくちれん河辺かわべ正三しょうさんたに正之まさゆき山田やまだおつさん有田ありた八郎はちろう青木あおき一男かずお末次すえつぐ信正のぶまさ西尾にしお寿ひさしづくりら21にん合計ごうけい33にん戦犯せんぱん名簿めいぼをGHQに提出ていしゅつした[24]。またBCきゅう戦犯せんぱんは83にん選定せんていされ、極東きょくとうしょう委員いいんかいは1947ねん3がつまでに日本にっぽん軍人ぐんじん戦犯せんぱん合計ごうけい3147にん選定せんていし、このうち国民党こくみんとう政府せいふ指名しめいしたものは、2523にんにのぼった[24]

12月23にちには、中央ちゅうおう憲兵けんぺい司令しれい天津てんしん情報じょうほうぐみちゅう東北とうほく情報じょうほういん箕山みのやまの「日本にっぽん再起さいき防止ぼうし 共同きょうどう管制かんせい政策せいさく」では天皇てんのう退位たいいもとめ、万世ばんせいいちけい皇統こうとう思想しそうをひっくりかえすと主張しゅちょうした[24][28]

またよく1946ねんから1948ねん文書ぶんしょ日本にっぽん天皇てんのうけい問題もんだい」では天皇てんのう日本にっぽん侵略しんりゃくてき軍国ぐんこく主義しゅぎ精神せいしんてき基礎きそであるため排除はいじょもとめた[24][29]

国際こくさい検察けんさつきょく設置せっち

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1945ねん昭和しょうわ20ねん12月6にち、アメリカ代表だいひょう検事けんじジョセフ・キーナン来日らいにちする[30]よく7にち、マッカーサーは事後じごほう批判ひはん回避かいひ早期そうき開廷かいてい東条とうじょう内閣ないかく閣僚かくりょう起訴きそをキーナンにめいじた[30]よく12月8にち、GHQのいちきょくとして国際こくさい検察けんさつきょく (IPS) が設置せっちされた[30]

国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょう特別とくべつ宣言せんげん

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1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ19にち、ニュルンベルク裁判さいばん根拠こんきょとなった国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょう参照さんしょうして極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ条例じょうれい極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょう)がさだめられた[31](1946ねん4がつ26にち一部いちぶ改正かいせい)。

同日どうじつ連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんマッカーサー元帥げんすい極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ設立せつりつかんする特別とくべつ宣言せんげんはっした[31]。この宣言せんげんは、ポツダム宣言せんげんおよび降伏ごうぶく文書ぶんしょ、1945ねん12月26にちモスクン会議かいぎによってマッカーサーにたいしてアメリカ・イギリス・ソ連それん、そして中華民国ちゅうかみんこくから付与ふよされた、日本にっぽん政府せいふ降伏ごうぶく条件じょうけん実施じっしするために連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかん一切いっさい命令めいれいおこなうという権限けんげんもとづく[32]

アメリカ国務省こくむしょうは1945ねんまつにフランス政府せいふたい判事はんじ検察官けんさつかん指名しめいするよう要請ようせいしたが、フランスが悠長ゆうちょうであったためよく1946ねん1がつ22にち催促さいそくした[33]。フランスははじめインドシナ高等こうとう弁務べんむかんのダルジャンリューの意見いけんもあり、パリ大学だいがくのジャン・エスカラをえらんだ[33]。エスカラは1920年代ねんだい蒋介石しょうかいせき中華民国ちゅうかみんこく法律ほうりつ顧問こもんをつとめたこともあったが、要請ようせいことわり、学者がくしゃ紹介しょうかいするにとどめた[33]一方いっぽうだい二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが政府せいふたいして派遣はけんする法律ほうりつ植民しょくみんでの経験けいけんがあるものがよいと提言ていげんし、マダガスカルや西にしアフリカの控訴こうそいん判事はんじ歴任れきにんしたアンリ・アンビュルジュが指名しめいされた[33]。しかしアンビュルジュも出発しゅっぱつ直前ちょくぜんになって固辞こじし、アンリ・ベルナールが指名しめいされた[34]

日本にっぽん裁判さいばん対策たいさく

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終戦しゅうせん日本にっぽんでは自主じしゅ裁判さいばん構想こうそうされたが、美山みやま要蔵ようぞう日記にっきにもあるように残虐ざんぎゃく行為こうい実行じっこうしゃのみが裁判さいばん対象たいしょうとなってしまい、戦争せんそう裁判さいばん戦勝せんしょうこくによる「勝者しょうしゃさば」であるとの覚悟かくごがあったとされる[35]

1945ねん昭和しょうわ20ねん10月3にちひがし久邇くに宮内くないかくは「戦争せんそう責任せきにんかんする応答おうとう要領ようりょうあん)」を作成さくせい[36]、その11月5にち終戦しゅうせん連絡れんらく幹事かんじかいは「戦争せんそう責任せきにんかんする応答おうとう要領ようりょう」を作成さくせいし、天皇てんのう追及ついきゅうからまもること、国家こっか弁護べんご個人こじん弁護べんご同時どうじ追求ついきゅうするとかれた[37]

外務省がいむしょう外局がいきょく終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょく主任しゅにん中村なかむら豊一とよかず同年どうねん11月20にち戦争せんそう裁判さいばん対策たいさく提言ていげんし、弁護べんごだん資料しりょう提供ていきょう臨時りんじ戦争せんそう犯罪はんざいじん関係かんけい調査ちょうさ委員いいんかい設置せっち戦争せんそう犯罪はんざいじん審理しんり対策たいさく委員いいんかい提言ていげんしたが、外務省がいむしょう政府せいふ指導しどうになるという理由りゆう却下きゃっかした[35]

その吉田よしだしげるが12月に法務ほうむ審議しんぎしつ設置せっちした[38]よく1946ねん昭和しょうわ21ねん)2がつには内外ないがい法政ほうせい研究けんきゅうかい発足ほっそくし、高柳たかやなぎ賢三けんぞう田岡たおか良一りょういち石橋いしばし湛山たんざんらが戦争せんそう犯罪はんざいじん法的ほうてき根拠こんきょ開戦かいせん責任せきにんなどについての研究けんきゅう報告ほうこくをおこなった[39]

また意外いがいなことに巣鴨すがも拘置こうちしょでは裁判さいばんまえ尋問じんもん段階だんかいから収監しゅうかんしゃどうしの会話かいわ自由じゆうでいくらでも口裏くちうらわすことが可能かのうであった。そのためか、個々ここ人間にんげん裁判さいばんたいする姿勢しせい諦観ていかんつつまれて殊更ことさらあらそおうとはしないものなどもいて差異さいもあったものの、全員ぜんいんがこれをほうせんととらえ、無罪むざい主張しゅちょうすることでは一致いっちしていた。また、暴力ぼうりょく行為こうい右翼うよくられたものおおいBCきゅう戦犯せんぱんもともに収監しゅうかんされており、橋本はしもと欣五郎きんごろうなどはそのようなき3、4めいがいたのを刑期けいきちゅうのことであるがられている[40]このことから、裁判さいばん進行しんこうにしたがって個々人ここじん戦略せんりゃくのズレや責任せきにんいなどはある程度ていどあったものの、幾多いくた隠蔽いんぺい欺瞞ぎまんおこなわれ、おおくの真相しんそうかくされ、あるいはいつわられたことは想像そうぞうかたくない[独自どくじ研究けんきゅう?]

裁判さいばん

編集へんしゅう

国際こくさい検察けんさつきょくから執行しっこう委員いいんかい

編集へんしゅう

1946ねん昭和しょうわ21ねん2がつ2にち、イギリス代表だいひょう検事けんじ来日らいにちする[41]2がつ13にちジョセフ・キーナンアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく代表だいひょう検事けんじがアメリカ以外いがい検事けんじ参与さんよであるとの通達つうたつすと、イギリス、えい連邦れんぽう検事けんじはこれに反発はんぱつし、3月2にち各国かっこく検事けんじをメンバーとした執行しっこう委員いいんかい設立せつりつされる[42]

執行しっこう委員いいんかい一覧いちらん

被告人ひこくにん選定せんてい

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1946ねん昭和しょうわ21ねん)1がつ被告人ひこくにん選定せんていにあたってイギリスはニュルンベルク裁判さいばん同様どうよう知名度ちめいど基準きじゅんに10にん指名しめいした[44]執行しっこう委員いいんかいの4がつ4にち会議かいぎでは29めいえらばれるが、4がつ8にちには石原いしはら莞爾かんじ真崎まさき三郎さぶろう田村たむらひろし除外じょがいされた[45]。4月13にちにはソ連それん検事けんじ来日らいにちしたが、ソ連それんがわ天皇てんのう訴追そついもとめなかった[46]。そのかわり4がつ17にちソ連それん鮎川あいかわ義介ぎすけ重光しげみつまもる梅津うめづ美治よしはるろう富永とみなが恭次きょうじ藤原ふじわら銀次ぎんじろう起訴きそ提案ていあんし、そのうち重光しげみつ梅津うめづ追加ついかされ、被告人ひこくにん28めい確定かくていした[47]

被告人ひこくにん一覧いちらん

起訴きそじょう作成さくせい過程かてい

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1946ねん昭和しょうわ21ねん4がつ5にち執行しっこう委員いいんかいでイギリスのアーサー・S・コミンズ・カー検事けんじ起訴きそじょうあん発表はっぴょう、そのなかで「平和へいわたいするつみ」の共同きょうどう謀議ぼうぎを、1931ねん〜1945ねんの「全般ぜんぱんてき共同きょうどう謀議ぼうぎ」と4つの時期じきにおよぶ個別こべつてき共同きょうどう謀議ぼうぎ満州まんしゅう事変じへんにちちゅう戦争せんそうさんこく同盟どうめいぜん連合れんごうこくたいする戦争せんそう)の5つに分割ぶんかつした[48]。また平和へいわたいするつみでは死刑しけい求刑きゅうけいできないので、通例つうれい戦争せんそう犯罪はんざいであるおおやけ戦法せんぽう違反いはんさばくべきであると主張しゅちょうした[49]

訴因そいん殺人さつじん」と「人道じんどうたいするつみ

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極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん独自どくじ訴因そいんに「殺人さつじん」がある。ニュルンベルク・極東きょくとう憲章けんしょうには記載きさいがないが、これはマッカーサーが「殺人さつじんひとしい」真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき追及ついきゅうするための独立どくりつ訴因そいんとして検察けんさつ要望ようぼうし、追加ついかされたものである[50]。これによって「人道じんどうたいするつみ」はどう裁判さいばんにおける訴因そいんとしては単独たんどく意味いみがなくなったともいわれる[50]。しかも、1946ねん4がつ26にち憲章けんしょう改正かいせいにおいては「一般いっぱん住民じゅうみんたいする」という文言もんごん削除さくじょされた。最終さいしゅうてきに「人道じんどうたいするつみ」が起訴きそ方針ほうしんのこされた理由りゆうは、連合れんごうこくがわがニュルンベルク裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばんとのあいだ統一とういつせいもとめたためであり、また法的ほうてき根拠こんきょのない訴因そいん殺人さつじん」の補強ほきょう根拠こんきょとして使つかうためだったといわれる[50]。このような起訴きそ方針ほうしんについてオランダ、中華民国ちゅうかみんこく、フィリピンは「アングロサクソンしょくつよすぎる」として批判ひはんし、中国ちゅうごくがわ検事けんじむかいあきら(浚)は、南京なんきん事件じけん殺人さつじん訴因そいんだけでなく、広東かんとんかんこうでの日本にっぽんぐんによる偶発ぐうはつてき行為こうい追加ついかさせた[50]

ニュルンベルク裁判さいばん基本きほんほうである国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょうはじめて規定きていされた「人道じんどうたいするつみ」が南京なんきん事件じけんについて適用てきようされたと誤解ごかいされていることもあるが、南京なんきん事件じけんについて連合れんごうこく交戦こうせんほう違反いはんとして問責もんせきしたのであって、「人道じんどうかんするつみ」が適用てきようされたわけではなかった[51]南京なんきん事件じけん訴因そいんのうちだいるい殺人さつじん」(訴因そいん45-50)であつかわれた[52]

なお、731部隊ぶたいとうられる日本にっぽんぐん人道的じんどうてき人体じんたい実験じっけん生物せいぶつ兵器へいきどくガス兵器へいき研究けんきゅう開発かいはつについては、これらのデータを入手にゅうしゅ秘匿ひとくしたかったべいぐん日本にっぽんがわ責任せきにんしゃであった石井いしい四郎しろう免責めんせき引換ひきかえにこれを入手にゅうしゅすることにしたため、また、きゅう日本にっぽんぐん実際じっさい戦闘せんとうでのどくガス使用しようについては、べいぐん日本にっぽんぐんにちちゅう戦争せんそうでの使用しよう証拠しょうこつかんでいたものの、当時とうじはじまりしていた冷戦れいせんなかでこの分野ぶんやでは陣営じんえいがわ有利ゆうりべいぐんが、すで国際こくさい条約じょうやくでは使用しよう禁止きんしされていたとはいえ、東京とうきょう裁判さいばんげてみずかどくガス使用しよう完全かんぜん戦争せんそう犯罪はんざいとし、自軍じぐんしばるようなことはけたかったため、それぞれ東京とうきょう裁判さいばんではあつかわれなかったとするせつがある[よう出典しゅってん]

昭和しょうわ天皇てんのう訴追そつい問題もんだい

編集へんしゅう

オーストラリアなど連合れんごうこくなかには昭和しょうわ天皇てんのう訴追そついたいして積極せっきょくてきくにもあった[53]はくつよし主義しゅぎ国是こくぜとしていたオーストラリアは、人種じんしゅ差別さべつ感情かんじょうもとづくたいにち恐怖きょうふおよびたいにち嫌悪けんお感情かんじょうつようえに、差別さべつしていた対象たいしょう日本にっぽんぐんからかえ本土ほんどへの攻撃こうげきけたこともあり、日本にっぽんへの懲罰ちょうばつもっと熱心ねっしんだった[54]。また太平洋たいへいようへの覇権はけん利権りけん獲得かくとくのためには、日本にっぽん徹底的てっていてき無力むりょくすることで自国じこく安全あんぜん確保かくほしようとしていた[55]。エヴァット外相がいしょうは1945ねん9がつ10日とおか、「天皇てんのうふくめて日本人にっぽんじん戦犯せんぱん全員ぜんいん撲滅ぼくめつすることがオーストラリアの責務せきむ」とべている。1945ねん8がつ14にち連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい委員いいんかい (UNWCC) で昭和しょうわ天皇てんのう戦犯せんぱんくわえるかどうかが協議きょうぎされたが、アメリカ政府せいふ戦犯せんぱんくわえるべきではないという意見いけん伝達でんたつした[56]。1946ねん1がつ、オーストラリア代表だいひょう昭和しょうわ天皇てんのうふくめた46にん戦犯せんぱんリストを提出ていしゅつしたが、アメリカ、イギリス、フランス、中華民国ちゅうかみんこく、ニュージーランドはこのリストを決定けっていするための証拠しょうこ委員いいんかい所在地しょざいちロンドンにいとして反対はんたいし、このリストはたいにち理事りじかい国際こくさい検察けんさつきょく参考さんこうとしておくられるにとどまった[57]。8月17にちには、イギリスから占領せんりょうコストの削減さくげん観点かんてんから、天皇てんのう起訴きそ政治せいじてきあやまりとする意見いけんがオーストラリアにとどいていたが、オーストラリアは日本にっぽんきゅう体制たいせい完全かんぜん破壊はかいするためには天皇てんのう有罪ゆうざいにしなければならないとの立場たちばつらぬ[58]、10月にはUNWCCへの採択さいたくせまったが、べいえい阻止そしされた[59]

アメリカ陸軍りくぐんしょうでも天皇てんのう起訴きそろん起訴きそろん対立たいりつがあったが、マッカーサーによる昭和しょうわ天皇てんのうとの会見かいけんて、天皇てんのう不可欠ふかけつせい重視じゅうしされた。さらに1946ねん昭和しょうわ21ねん1がつ25にち、マッカーサーはアイゼンハワー参謀さんぼう総長そうちょうあて電報でんぽうにおいて、天皇てんのう起訴きそ場合ばあいは、占領せんりょうぐん大幅おおはば増強ぞうきょう必要ひつよう主張しゅちょうした。このようなアメリカの立場たちばからすると、オーストラリアの積極せっきょくてき起訴きそろん邪魔じゃまなものでしかなかった[60]

なお、オーストラリア同様どうようイギリス連邦れんぽう構成こうせいこくであるニュージーランドは捜査そうさ結果けっか次第しだいでは天皇てんのう起訴きそすべしとしていたが、GHQによる天皇てんのう利用りようについては冷静れいせい対応たいおうをとるべきとカール・ベレンセン駐米ちゅうべい大使たいしはピーター・フレイザー首相しゅしょう進言しんげん首相しゅしょう同意どういした[60]。またソ連それん天皇てんのう問題もんだい提起ていきしないことをソ連それん共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい決定けっていした[46][61]

同年どうねん4がつ3にち最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんである極東きょくとう委員いいんかい (FEC) はFEC007/3政策せいさく決定けっていにより、「了解りょうかい事項じこう」として天皇てんのう起訴きそ合意ごういされ、「戦争せんそう犯罪はんざいじんとしての起訴きそから日本国にっぽんこく天皇てんのう免除めんじょする」ことが合意ごういされた[62]4がつ8にち、オーストラリア代表だいひょう検事けんじマンスフィールドは天皇てんのう訴追そつい正式せいしき提議ていぎしたが却下きゃっかされ、以降いこう天皇てんのう訴追そついおこなわれなかった[57]

海軍かいぐんから改組かいそしただい復員ふくいんしょうでは、裁判さいばん開廷かいてい半年はんとしまえから昭和しょうわ天皇てんのう訴追そつい回避かいひ量刑りょうけい減刑げんけい目的もくてききゅう軍令ぐんれいのスタッフを中心ちゅうしんに、秘密裏ひみつり裁判さいばん対策たいさくおこなわれ、総長そうちょうだった永野ながの修身しゅうしん以下いか幹部かんぶたちと想定そうてい問答もんどう制作せいさくしている。また、BCきゅう戦犯せんぱん関係かんけいする捕虜ほりょ処刑しょけいとうでは、ぐん中央ちゅうおうへの責任せきにん天皇てんのう訴追そついにつながりかねないことをけるという名分めいぶんで、出来できるだけしたものわせ、最悪さいあくでも現場げんば司令しれいかん責任せきにんをとどめる弁護べんご方針ほうしん策定さくていなどがされた。このような合意ごうい容易ようい形成けいせいされたことには、階級かいきゅう社会しゃかいえい海軍かいぐんはんとしてまれた日本にっぽん海軍かいぐん体質たいしつ淵源えんげんもとめるかんがかたがある。さらに、陸軍りくぐん戦争せんそう首謀しゅぼうしゃであることにする方針ほうしんかかげられていた。

同年どうねん3月6にちにはGHQとの事前じぜん折衝せっしょうにあたっていた米内よない光政みつまさへマッカーサーの意向いこうとして天皇てんのう訴追そつい回避かいひと、東條とうじょう以下いか陸軍りくぐん責任せきにんおもむねつたえられたという。また、敗戦はいせん首相しゅしょうである鈴木すずき貫太郎かんたろう弁護べんごがわ証人しょうにんとして出廷しゅっていさせるうごきもあったが、天皇てんのうへの訴追そついおそれた周囲しゅうい反対はんたいで、えとなっている[63]

なお昭和しょうわ天皇てんのうは「わたし退位たいいぜん責任せきにんることでおさめてもらえないものだろうか」とったとされる[64]

起訴きそじょう提出ていしゅつ

編集へんしゅう

起訴きそじょう提出ていしゅつは1946ねん昭和しょうわ21ねん4がつ29にち[注釈ちゅうしゃく 2]おこなわれた[65]

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんにおいて訴因そいんは55項目こうもくであったが、おおきくはだい一類いちるい平和へいわたいするつみ」(訴因そいん1-36)、だいるい殺人さつじん」(訴因そいん37-52)、だいさんるい通例つうれい戦争せんそう犯罪はんざいおよ人道じんどうたいするつみ」(53-55)の3種類しゅるいにわかれた[52]判決はんけつでは最終さいしゅうてきに10項目こうもく訴因そいんにまとめられた[66]

裁判官さいばんかん判事はんじ

編集へんしゅう
 
裁判官さいばんかん判事はんじ(1946ねん7がつ29にち
  • ウィリアム・ウェッブ(オーストラリア連邦れんぽう派遣はけん) - 裁判さいばんちょう連邦れんぽう最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ[67]
  • マイロン・C・クレマー少将しょうしょうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく派遣はけん)- 陸軍りくぐんしょう法務ほうむ総監そうかんジョン・パトリック・ヒギンズから交代こうたい
  • ウィリアム・パトリック(グレートブリテンおよびきたアイルランド連合れんごう王国おうこく派遣はけん)- スコットランド刑事けいじ上級じょうきゅう裁判所さいばんしょ判事はんじ
  • イワン・M・ザリヤノフ少将しょうしょう(ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう派遣はけん)- 最高裁判所さいこうさいばんしょ判事はんじりくだい法学部ほうがくぶちょう- 法廷ほうてい公用こうようである英語えいご使用しようできなかった[68][69]
  • アンリー・ベルナール(フランス共和きょうわこく派遣はけん)- 軍事ぐんじ法廷ほうてい主席しゅせき検事けんじ - 法廷ほうてい公用こうようである英語えいご十分じゅうぶん使用しようできなかった[70]後述こうじゅつのパール判事はんじやレーリンク判事はんじとはべつかんがかた少数しょうすう意見いけんべる[71]
  • うめなんじ中華民国ちゅうかみんこく派遣はけん) - 立法院りっぽういん委員いいんちょう代理だいりシカゴ大学だいがく・ロー・スクール法務ほうむ博士はかせ取得しゅとくしゃだが、法曹ほうそう経験けいけんはなかった。
  • ベルト・レーリンク(オランダ王国おうこく派遣はけん) - ユトレヒト司法しほう裁判所さいばんしょ判事はんじ少数しょうすう意見いけんべるが、判決はんけつあいだもない新聞しんぶんインタビューで、少数しょうすう意見いけん公開こうかいすることは裁判さいばん権威けんいそこなうとしてかれ自身じしん反対はんたいしていたが、一部いちぶ裁判官さいばんかん公表こうひょうしたために公開こうかいいたったとべている。
  • エドワード・スチュワート・マクドゥガル(カナダ派遣はけん)- ケベックしゅう裁判所さいばんしょ判事はんじ
  • エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣はけん)- 最高裁判所さいこうさいばんしょ判事はんじ
  • ラダ・ビノード・パール(インド派遣はけん) - 税法ぜいほうせんもん弁護士べんごしのちにカルカッタ高等こうとう裁判所さいばんしょにおいて臨時りんじ判事はんじ代行だいこう東京とうきょう裁判さいばんでは平和へいわたいするつみ人道じんどうたいするつみとが事後じごほうにあたる、あるいは国家こっか行為こういとして決定けっていされておこなわれたことで個人こじんさばくべきでないとして全員ぜんいん無罪むざい主張しゅちょう裁判さいばん以後いご国際こくさいほうせんもん活動かつどう
  • デルフィン・ハラニーリャ(フィリピン派遣はけん) - 司法しほう長官ちょうかん最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ日本にっぽん戦争せんそう責任せきにん追及ついきゅう急先鋒きゅうせんぽうで、被告人ひこくにん全員ぜんいん死刑しけい主張しゅちょう[72]日本にっぽんぐん捕虜ほりょとしてバターン行進こうしん経験けいけん[73]弁護べんごがわ被害ひがいしゃがわによる客観きゃっかんせい欠如けつじょ理由りゆう忌避きひもうてたが、却下きゃっかされた[74]

弁護べんごだん結成けっせい

編集へんしゅう
 
鵜澤うざわそうあきら

GHQは1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月には戦犯せんぱん容疑ようぎしゃ非公式ひこうしき弁護人べんごにんさがすことを許可きょかしていた[75]

日本人にっぽんじん弁護べんごだん
日本人にっぽんじん弁護べんごだんは、団長だんちょう鵜澤うざわそうあきら弁護士べんごしとし、ふく団長だんちょう清瀬きよせ一郎いちろうはやし逸郎いつお穂積ほづみしげるたけし瀧川たきがわ政次郎まさじろう高柳たかやなぎ賢三けんぞう三宅みやけ正太郎しょうたろう(早期そうき辞任じにん)、小野おの清一郎せいいちろうらが参加さんかした「極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん日本にっぽん弁護べんごだん」が結成けっせいされた[31]。しかし、日本人にっぽんじん弁護べんごだん内部ないぶでは、自衛じえい戦争せんそうろん国家こっか弁護べんごをはかる鵜澤うざわ清瀬きよせはやしら)と個人こじん弁護べんごはか高柳たかやなぎ穂積ほづみ三宅みやけ)らがおり、さらに国家こっか弁護べんご内部ないぶでも鵜澤うざわ清瀬きよせ対立たいりつなどがあった[76]日本人にっぽんじん弁護べんごだん正式せいしき結成けっせい開廷かいてい翌日よくじつの1946ねん昭和しょうわ21ねん5月4にちであった[77]
アメリカじん弁護べんごだん
ニュルンベルク裁判さいばんでは弁護人べんごにんはドイツじんしかゆるされなかったが[78]東京とうきょう裁判さいばんではアメリカじん弁護人べんごにん任命にんめいされた。日暮ひぐれ吉延よしのぶによればこれは「勝者しょうしゃによる報復ほうふく批判ひはんまぬかれるためだった[79]とする。
1946ねん昭和しょうわ21ねん4がつ1にち結成けっせいされたアメリカじん弁護べんごだん団長だんちょう海軍かいぐん大佐たいさビヴァリー・コールマン(横浜よこはま裁判さいばん裁判さいばんちょう)。弁護人べんごにんとしては海軍かいぐん大佐おおさジョン・ガイダーほか6めいであった。しかしコールマンが主席しゅせき弁護人べんごにんくようマッカーサーにもとめたところ、受理じゅりされず、コールマンらは辞職じしょくする。実際じっさいには、アメリカ本国ほんごくでもっと有利ゆうり仕事しごとつけたためとするせつもある。わって陸軍りくぐん少佐しょうさフランクリン・ウォレン、陸軍りくぐん少佐しょうさベン・ブルース・ブレイクニーらが派遣はけんされ、新橋しんばし第一だいいちホテル宿舎しゅくしゃとした[80]

開廷かいてい

編集へんしゅう

1946ねん昭和しょうわ21ねん5月3にち午前ごぜん1120ふん市ヶ谷いちがやきゅう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう講堂こうどうにおいて裁判さいばん開廷かいていした。27おくえん裁判さいばん費用ひよう当時とうじ連合れんごう国軍こくぐん占領せんりょうにあった大日本帝国だいにっぽんていこく政府せいふ支出ししゅつした。

 
ウィリアム・F・ウェッブ裁判さいばんちょう
 
判事はんじせき

連合れんごうこくのうち、イギリスアメリカ中国ちゅうごくフランスオランダソ連それんの7かこくと、イギリス連邦れんぽうない自治領じちりょうであったオーストラリア[注釈ちゅうしゃく 5]ニュージーランドカナダ[注釈ちゅうしゃく 6]、そして当時とうじ独立どくりつのためのプロセスが進行しんこうちゅうだったインド[注釈ちゅうしゃく 7]フィリピン[注釈ちゅうしゃく 8]判事はんじ派遣はけんした。

同日どうじつ午後ごご大川おおかわ周明しゅうめい被告人ひこくにんまえすわっている東条とうじょう英機ひできあたまをたたき[82]翌日よくじつ病院びょういん移送いそうされた[83]

罪状ざいじょう認否にんぴ

編集へんしゅう

同年どうねん5月6にち大川おおかわをのぞく被告人ひこくにん全員ぜんいん無罪むざい主張しゅちょうした[83]。この罪状ざいじょう認否にんぴ手続てつづきは定型ていけい手続てつづきであって、無罪むざい主張しゅちょうするのは普通ふつうられることである。フィルムでみるかぎり、全体ぜんたいおごそかにっているようにえるが、そのときの様子ようす毎日新聞まいにちしんぶん記者きしゃはラジオで「傲然ごうぜんたる態度たいど」と形容けいようし、読売新聞よみうりしんぶん記者きしゃ同様どうよう形容けいようをしている[83]

なお、罪状ざいじょう認否にんぴ手続てつづきは欧米おうべいほうにおける手続てつづきであり、裁判官さいばんかんの「有罪ゆうざい無罪むざいか(Guilty or Not Guilty)」のといたいして、被告人ひこくにんが「無罪むざい(Not Guilty)」とこたえることにより、事件じけん事実じじつかんする審判しんぱん事実じじつしん)をし、「有罪ゆうざい(Guilty)」とこたえると、検察けんさつがわ主張しゅちょうみとめ、量刑りょうけいのみをおこなう(法律ほうりつしん)と法廷ほうてい慣習かんしゅうである。東京とうきょう裁判さいばんでこの慣習かんしゅう厳密げんみつ適用てきようされるものではないが、被告人ひこくにんらの目的もくてきひとつである、ほうせんしょうする、いわば法廷ほうてい闘争とうそうためには、被告人ひこくにん自身じしん無罪むざい主張しゅちょう必要ひつようとなる。とはいえ、被告人ひこくにんらはそれぞれ自身じしん訴因そいんひとひとつについて、本来ほんらいは其々自由じゆう認否にんぴおこなうことができ、すべ一律いちりつ認否にんぴそろえなければならないものではないし、また、その認否にんぴがなにか他人たにん拘束こうそくあるいは影響えいきょうするものでもない。また、そのことをよく理解りかいしておこなえるよう、GHQがわはもともと一人ひとりいちにん専任せんにん弁護人べんごにんけている。城山しろやま三郎さぶろう落日らくじつもえ』において、開廷かいていまえ広田ひろた弘毅こうきが「無罪むざいとはえない」と抵抗ていこうするのを弁護士べんごしだん説得せっとくするエピソードがかたられている(ただし、この小説しょうせつ広田ひろたをドラマチックに美化びかしてかれているものであるため、どこまで事実じじつかは検討けんとうようがある)。

弁護べんごがわ管轄かんかつけん忌避きひ動議どうぎ

編集へんしゅう

同年どうねん5月13にち清瀬きよせ一郎いちろう弁護人べんごにん管轄かんかつけん忌避きひ動議どうぎで、ポツダム宣言せんげん時点じてんられていた戦争せんそう犯罪はんざい交戦こうせんほう違反いはんのみで、それ以後いご作成さくせいされた平和へいわたいするつみ人道じんどうたいするつみ殺人さつじんざい管轄かんかつけんが、ほん裁判所さいばんしょにはないとろんじた[84]

この管轄かんかつけん問題もんだいは、判事はんじだんなやませ、同年どうねん5月17にち公判こうはんでウェッブ裁判さいばんちょうは「理由りゆう将来しょうらい宣告せんこくします」とべて理由りゆう説明せつめいすることになしにこの裁判所さいばんしょ管轄かんかつけんはあると宣言せんげんした[85]

しかし、その同年どうねん6がつからなつにかけてウェッブ裁判さいばんちょう平和へいわたいするつみたい判事はんじだん慎重しんちょう対処たいしょすべきで、「せんあいだ戦争せんそう違法いほうをもって戦争せんそう国際こくさいほうじょう犯罪はんざいとするのは不可能ふかのうだから、極東きょくとう裁判所さいばんしょ降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういん時点じてん存在そんざいした戦争せんそう犯罪はんざいだけを管轄かんかつすべきだ。もし条約じょうやく根拠こんきょなしに被告人ひこくにん有罪ゆうざいにすれば、裁判所さいばんしょ司法しほう殺人さつじんしゃとして世界せかい非難ひなんびてしまう。憲章けんしょう国際こくさいほう変更へんこうくわえているとすれば、そのあたらしい部分ぶぶん無視むしするのが判事はんじ義務ぎむだ」と問題もんだい提起ていきをしたという[86]日暮ひぐれ吉延よしのぶはこのウェッブ裁判さいばんちょう発言はつげん裁判所さいばんしょ威厳いげん保持ほじのためであったとしたうえで、パール判決はんけつによくていたと指摘してきしている[86]

補足ほそく動議どうぎ

編集へんしゅう

同年どうねん5月14にち午前ごぜんジョージ・A・ファーネス弁護人べんごにん裁判さいばん公平こうへいすためには中立ちゅうりつこく判事はんじ起用きよう必要ひつようであるとのべた[87]。またベン・ブルース・ブレイクニー弁護人べんごにんは、戦争せんそう犯罪はんざいではない、戦争せんそうには国際こくさいほうがあり合法ごうほうである、戦争せんそう国家こっか行為こういであって個人こじん行為こういではないため個人こじん責任せきにんさばくのは間違まちがっている、戦争せんそう合法ごうほうである以上いじょう戦争せんそうでの殺人さつじん合法ごうほうであり、戦争せんそう法規ほうき違反いはんさばけるのは軍事ぐんじ裁判所さいばんしょだけであるが、東京とうきょう法廷ほうてい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょではないとのべ、さらに戦争せんそう合法ごうほうてき殺人さつじんれいとしてアメリカの原爆げんばく投下とうかれいに、原爆げんばく投下とうか立案りつあんした参謀さんぼう総長そうちょう殺人さつじんざい意識いしきしていなかったではないか、ともべた[87]

よく5月15にちづけ朝日新聞あさひしんぶんは「原子げんしばくだんによる広島ひろしま殺傷さっしょう殺人さつじんざいにならないのかー東京とうきょう裁判さいばん起訴きそじょうには平和へいわたいするつみと、人道じんどうたいするつみがあげられている。真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきによって、キツド提督ていとくはじめべいぐんころしたことが殺人さつじんざいならば原子げんしばくだん殺人さつじん如何いか東京とうきょう裁判さいばんだいにち米人べいじんブレークニイ弁護人べんごにん弁護べんごだん動議どうぎ説明せつめいなかでこのことを説明せつめいした」と報道ほうどうした[87]。また全米ぜんべい法律ほうりつ協会きょうかいもブレイクニー発言はつげん機関きかん全文ぜんぶん掲載けいさいした[87]

検察けんさつがわ立証りっしょう

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立証りっしょう段階だんかい

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以下いか立証りっしょう段階だんかい日程にってい項目こうもくである[88]

  • 1946ねん昭和しょうわ21ねん
    • 6月4にち検察けんさつがわ立証りっしょう開始かいし冒頭ぼうとう陳述ちんじゅつ
    • 6月13にち一般いっぱん段階だんかい国家こっか組織そしき世論せろん指導しどうなど
    • 7がつ1にちまんしゅう事変じへん段階だんかい
    • 8がつ6にちささえ戦争せんそう段階だんかい
    • 9月19にちにちどくさんこく同盟どうめい段階だんかい
    • 9月30にちふつしるし段階だんかい
    • 10月8にちソ連それん段階だんかい
    • 10月21にち一般いっぱんてき戦争せんそう準備じゅんび段階だんかい
    • 11月4にち太平洋戦争たいへいようせんそう段階だんかい
    • 11月27にち残虐ざんぎゃく行為こうい段階だんかい
  • 1947ねん昭和しょうわ22ねん

キーナン冒頭ぼうとう陳述ちんじゅつ

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1946ねん昭和しょうわ21ねん6月4にち首席しゅせき検察官けんさつかんつとめたジョセフ・キーナン冒頭ぼうとう陳述ちんじゅつにおいて、本裁ほんだちばんについて「これは普通ふつう一般いっぱん裁判さいばんではありません」「ぜん世界せかい破滅はめつからすくうために文明ぶんめい断乎だんこたる闘争とうそう一部いちぶ開始かいししている」、被告人ひこくにん日本にっぽん軍部ぐんぶ)は「文明ぶんめいたい宣戦せんせん布告ふこくしました」とべた[89][90]。キーナンは日本にっぽん不義ふぎなる体質たいしつにち戦争せんそうにまでさかのぼって、侵略しんりゃく戦争せんそうをするのは国家こっかでなく個人こじんであると主張しゅちょうした[88]。キーナンは陳述ちんじゅつえるとすぐに帰国きこくし、不在ふざいあいだ決定けっていけんだれにあるのかわからない状態じょうたいであった[91]えい連邦れんぽう検察けんさつじんはキーナンを尊大そんだい自分じぶん目立めだつことばかりかんがえているとかたっていた[91]

裁判さいばん進行しんこうおそく、ニュージーランドの判事はんじ検事けんじ検察けんさつのおよび裁判さいばんちょう運営うんえい方法ほうほう問題もんだいであるとして辞意じいしめしている[92]

証人しょうにん喚問かんもん

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証人しょうにんにはドナルド・ニュージェント、大内おおうち兵衛ひょうえ瀧川たきがわ幸辰ゆきとし前田まえだ多門たもん伊藤いとうじゅつ鈴木すずきひがしみんぬさはら喜重郎きじゅうろう清水しみずこうこれすけ徳川とくがわ義親よしちか若槻わかつき礼次郎れいじろう田中たなか隆吉りゅうきちらがなった[93]

またもとまんしゅうこく皇帝こうていあいしんさとし溥儀ふぎ出廷しゅっていした[94]。ハバロフスクに抑留よくりゅうちゅう溥儀ふぎ中国ちゅうごくから漢奸かんかん裁判さいばんにかけられるかもしれないという脅威きょういもあり、「すべて日本にっぽん責任せきにん自分じぶん責任せきにんはない」と証言しょうげんした[94]8がつ21にちにブレイクニ弁護人べんごにん溥儀ふぎ書簡しょかんして反対はんたい尋問じんもんおこなうと「まった偽造ぎぞうであります」といい、重光しげみつまもる歌舞伎かぶき芝居しばいのようであったと回想かいそうしている[95]溥儀ふぎ自伝じでんで、自身じしんまもるために偽証ぎしょうおこない、まんしゅうこく執政しっせい就任しゅうにんなどの自発じはつてきった日本にっぽんぐんへの協力きょうりょく日本にっぽんがわによると主張しゅちょうし、関東軍かんとうぐん吉岡よしおか安直あんちょくなどにつみをなすりつけたことをみとめている。またみずからの偽証ぎしょう日本にっぽん行為こうい徹底的てっていてき解明かいめいさまたげたとして、「わたししんいまかれ(キーナン検事けんじ)にたいするおわびの気持きもちでいっぱいだ」と回想かいそうしている[96]

アンリ・ベルナール判事はんじ溥儀ふぎ証言しょうげんについて「溥儀ふぎは、まんしゅうこく最初さいしょからすべ日本にっぽん支配しはいにあったとべているが、かれ自身じしんがすでに、1932ねん3がつ10日とおか本庄ほんじょう関東軍かんとうぐん司令しれいかんたいして同意どうい提案ていあんする書簡しょかんいているではないか。この書簡しょかん署名しょめい強制きょうせいのもとになされたものであるという事実じじつ証明しょうめいされなかったのだから、溥儀ふぎ法廷ほうていおこなった興味深きょうみぶか供述きょうじゅつからしょうじたような結果けっかなどよりも、本官ほんかんはその書簡しょかんによってしめされたものをしんじる」とべている[97]

弁護べんごがわ反証はんしょう

編集へんしゅう

検察けんさつがわ立証りっしょう終了しゅうりょうすると、弁護べんごだんは1947ねん昭和しょうわ22ねん1がつ27にち公訴こうそ棄却ききゃく動議どうぎ提出ていしゅつし、デイヴィッド・スミス弁護人べんごにんはアメリカ連邦れんぽう裁判所さいばんしょへの提起ていきかんがえているとのべた(判決はんけつ提訴ていそ広田ひろた判例はんれい参照さんしょう[84]同年どうねん2がつ24にち弁護べんごがわ反証はんしょう開始かいしされた[98]

弁護人べんごにんによる被告人ひこくにんべつ動議どうぎつぎとお[99]内容ないようらんのソートボタンでもと順序じゅんじょもどる。

被告人ひこくにん 弁護人べんごにん 内容ないよう
あらき/ 

荒木あらき貞夫さだお

ローレンス・マクマナス 01/1928ねん共同きょうどう謀議ぼうぎ参加さんかしたと検察けんさつ主張しゅちょうするが、満州まんしゅう事変じへん勃発ぼっぱつ陸相りくしょうではなかった。荒木あらきによる残虐ざんぎゃく行為こうい証拠しょうこ提出ていしゅつされていない。
といはら/ 

土肥どいはら賢二けんじ

フランクリン・ウォレン 02/戦争せんそう共同きょうどう謀議ぼうぎ時期じきにはつね出先でさきぐん上官じょうかん命令めいれいふくしていた。残虐ざんぎゃく行為こうい証拠しょうこ提出ていしゅつされていない。
はしもと/ 

橋本はしもと欣五郎きんごろう

E・ハリス 03/満州まんしゅう事変じへん勃発ぼっぱつには参謀さんぼう本部ほんぶロシア班長はんちょうささえ戦争せんそう勃発ぼっぱつには民間みんかんじんであった。さくらかい共同きょうどう謀議ぼうぎ一部いちぶであったことは証明しょうめいされていない。残虐ざんぎゃく行為こうい証拠しょうこ提出ていしゅつされていない。1937ねんのレディバードごう事件じけん錯誤さくごによるもの。
はた/ 

はた俊六しゅんろく

アリスティディス・ラザラス 04/戦争せんそう勃発ぼっぱつには政府せいふしょ機関きかん無関係むかんけいちゅうささえ派遣はけんぐん着任ちゃくにんしたのは南京なんきん陥落かんらくから2がつで、南京なんきんはすでに平穏へいおんだった。
ひらぬま/ 

平沼ひらぬま騏一郎きいちろう

サムエル・J・クライマン 05/共同きょうどう謀議ぼうぎ無関係むかんけい中国ちゅうごくでの残虐ざんぎゃく行為こうい起訴きそされたが証拠しょうこがない。中国ちゅうごく侵略しんりゃくきたときにはすで首相しゅしょう辞職じしょくしていた。
 

ひろた/広田ひろた弘毅こうき

デイヴィッド・スミス 06/南京なんきん事件じけん責任せきにんうことが「奇妙きみょう」である。広田ひろた内閣ないかくちゅう日本にっぽん平和へいわで、広田ひろたが「自存じそん自衛じえいたたかい」とべたこともない、広田ひろた起訴きそ自体じたいだいなる誤算ごさん
ほしの/ 

星野ほしの直樹なおき

ジョージ・キャリントン・ウィリアムス 07/いち官吏かんりにすぎない。告発こくはつされた内容ないよう満州まんしゅうへの外資がいし導入どうにゅう計画けいかく誤解ごかいしたものである。
いたかき/ 

板垣いたがき征四郎せいしろう

フロイド・マタイス 08/満州まんしゅう事変じへん本庄ほんじょうしげる関東軍かんとうぐん司令しれいかんぐん中央ちゅうおうしたがった。広東かんとんかんこうでの「殺人さつじん陸相りくしょうだったというだけで刑事けいじ責任せきにんうに不十分ふじゅうぶん。シンガポールの残虐ざんぎゃく行為こういでも検察けんさつは「なんらかの責任せきにん」があるとべたにすぎない。
 

かや/きょうせん

マイケル・レヴィン 09/専門せんもん行政ぎょうせいかんであり、広東かんとんかんこうでの「殺人さつじんには蔵相ぞうしょうしている。開戦かいせん残虐ざんぎゃく行為こうい責任せきにんはない。
きと/ 

木戸きど幸一こういち

ウィリアム・ローガン 10/満州まんしゅう事変じへん内大臣ないだいじん秘書官ひしょかんちょう共同きょうどう謀議ぼうぎには参加さんかせず。さんこく同盟どうめい責任せきにんはない。内大臣ないだいじん残虐ざんぎゃく行為こういおかすべき地位ちいにない。
きむら/ 

木村きむら兵太郎へいたろう

ジョゼフ・ハワード 11/軍人ぐんじんとしての義務ぎむ以上いじょうをしていない。陸軍りくぐん次官じかんちゅう権限けんげん陸相りくしょう通達つうたつかく司令しれいかん通達つうたつすることのみ。1944ねん、ビルマ方面ほうめんぐん司令しれいかん着任ちゃくにんしたとき、日本にっぽんぐん敗走はいそうちゅう在任ざいにんちゅう捕虜ほりょ管理かんりした証拠しょうこはない。
こいそ/ 

小磯こいそ國昭くにあき

アルフレッド・ブルックス 12/満州まんしゅう事変じへんみなみ陸相りくしょう命令めいれいぬさげん政策せいさくしたがって遂行すいこうした。太平洋戦争たいへいようせんそう[だい東亜とうあ戦争せんそう]は自衛じえいてき合法ごうほう戦争せんそう理解りかいする。首相しゅしょうには捕虜ほりょあつかいに介入かいにゅうする権能けんのうはない。
まつい/ 

松井まついいし

フロイド・マタイス 13/ちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかんとしてぐん中央ちゅうおう命令めいれい南京なんきん攻撃こうげき遂行すいこうしたにすぎない。作戦さくせんちゅう蘇州そしゅう執務しつむし、偶発ぐうはつてき残虐ざんぎゃく行為こういについて問責もんせきできる証拠しょうこはない。
みなみ/ 

みなみ次郎じろう

アルフレッド・ブルックス 14/満州まんしゅう事変じへん陸相りくしょうとして事件じけん不拡大ふかくだいつとめた。日本にっぽん陸軍りくぐん大臣だいじん権限けんげん非常ひじょう制約せいやくされており、海外かいがい派兵はへい上奏じょうそうけんつのは参謀さんぼう総長そうちょうである。
むとう/ 

武藤むとうあきら

ロジャー・コール 15/命令めいれい実践じっせんうつすことが任務にんむだった。捕虜ほりょ関係かんけいする陸軍りくぐんしょう証拠しょうこ歪曲わいきょくされている。スマトラ近衛このえ団長だんちょう在任ざいにんちゅう捕虜ほりょ正式せいしき命令めいれい系統けいとう以外いがいあつかわれたので、武藤むとう責任せきにんはない。
 

おか/おか敬純たかずみ

フランクリン・ウォレン 16/真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき政策せいさく決定けっていしゃではなかった。捕虜ほりょ処遇しょぐうについて命令めいれい権限けんげんゆうした証拠しょうこもない。
 

おおかわ/大川おおかわ周明しゅうめい

アルフレッド・ブルックス 17/告発こくはつされた行動こうどう可能かのうにする地位ちいになく、著書ちょしょ個人こじんてき野望やぼう犯罪はんざいてき意思いし唱道しょうどうしてもいない。満州まんしゅう事変じへん関連かんれん証拠しょうこ風説ふうせつてきである。
おおしま/ 

大島おおしまひろし

オーウェン・カニンガム 18/政策せいさく立案りつあんしゃぐん司令しれいかんになったこともない。通常つうじょう外国がいこく使臣ししん訴追そついきんじられている。ドイツ在勤ざいきんちゅう日本にっぽん政府せいふ指令しれいなしに交渉こうしょうしたことはない。
さとう/ 

佐藤さとうけんりょう

ジェイムズ・フリーマン 19/真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきいち課長かちょうにすぎず、戦争せんそう計画けいかく参加さんかできる地位ちいではなかった。1942ねん4がつ以降いこう軍務ぐんむ局長きょくちょうとして俘虜ふりょ収容しゅうようしょ管轄かんかつしたと検察けんさつ告発こくはつしたが、管轄かんかつ陸相りくしょうである。
しけみつ/ 

重光しげみつまもる

ジョージ・A・ファーネス 20/ささえ平和へいわ維持いじつとめた。ソ連それん検事けんじ証拠しょうこもなしに主張しゅちょうしたような、ちょうほう事件じけん交渉こうしょうソ連それん領土りょうど割譲かつじょうせよともとめた事実じじつはない。ちゅうえい大使たいし在任ざいにんちゅうさんこく同盟どうめい交渉こうしょう関与かんよしていない。捕虜ほりょ問題もんだいかんする外相がいしょう権限けんげんは、政府せいふあいだ文書ぶんしょ仲介ちゅうかいすることだけである。
しまた/ 

嶋田しまだ繁太郎しげたろう

エドワード・マクダーモット 21/真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき50にちまえうみしょう就任しゅうにんしたが、会議かいぎ参加さんかしたのは3かいだけで、それ以前いぜん軍令ぐんれい系統けいとう地位ちいになかった。残虐ざんぎゃく行為こういについて海軍かいぐんしょう出先でさき艦隊かんたい司令しれいかん統制とうせいできない。また海軍かいぐん所管しょかん俘虜ふりょ収容しゅうようしょでの非行ひこう立証りっしょうされていない。
しらとり/ 

白鳥しらとり敏夫としお

チャールズ・コードル 22/外務省がいむしょう情報じょうほう局長きょくちょうどまりの職業しょくぎょう外交がいこうかんで、満州まんしゅう事変じへんぬさげん外相がいしょう侵略しんりゃく阻止そし方針ほうしん協力きょうりょくした。イタリア外相がいしょう日記にっき証拠しょうこさんこく同盟どうめい無条件むじょうけん受諾じゅだくしなければ内閣ないかくそう辞職じしょくせしめと脅迫きょうはくしたと検察けんさつ主張しゅちょうしたが、白鳥はくちょうは1940ねん1がつ大使たいし解任かいにんされているし、また大使たいし辞任じにん内閣ないかくそう辞職じしょくとは荒唐無稽こうとうむけい
 

すすき/鈴木すずき貞一さだいち

マイケル・レヴィン 23/ささえ戦争せんそう勃発ぼっぱつには大佐たいさだった。総動員そうどういん計画けいかくは1941ねん企画きかくいん総裁そうさい就任しゅうにんするまえからほぼ成立せいりつしていた。
とうこう/ 

東郷とうごう茂徳しげのり

ベン・ブルース・ブレイクニー 24/外務省がいむしょう捕虜ほりょ管理かんり責任せきにんはない。陸軍りくぐん照会しょうかい抗議こうぎ通達つうたつしただけである。天皇てんのうから日米にちべい和平わへい交渉こうしょうめいじられ努力どりょくした。たいべい通告つうこく駐米ちゅうべい大使たいし攻撃こうげきまえ手交しゅこう訓令くんれいしており、結果けっかてき手交しゅこうおくれた責任せきにんはない。
とうしよう/ 

東條とうじょう英機ひでき

ジョージ・ブルウェット 25/共同きょうどう謀議ぼうぎ残虐ざんぎゃく行為こういについて法的ほうてき証拠しょうこがない。
 

梅津うめづ美治よしはるろう

ベン・ブルース・ブレイクニー 26/ささえ駐屯ちゅうとんぐん司令しれいかん在任ざいにんちゅう梅津うめづなにおう協定きょうてい締結ていけつ告発こくはつされたが、それは参謀さんぼうちょう仕事しごとであり、協定きょうてい騒動そうどうおさえる了解りょうかいにすぎない。関東軍かんとうぐん司令しれいかん就任しゅうにんはノモンハン事件じけん終了しゅうりょうの1週間しゅうかんまえでこの事件じけん責任せきにんはない。ソ連それん検事けんじ告発こくはつは「不在ふざい証人しょうにん集積しゅうせき」である。

弁護べんごがわ証人しょうにん

編集へんしゅう

東京とうきょう裁判さいばん出廷しゅっていした日本人にっぽんじん証言しょうげん宣誓せんせいしたうえ証言しょうげんし、かつ検察官けんさつかんによる反対はんたい尋問じんもんおこなわれた[100]。なお、ささえ人証じんしょうじんたいしての反対はんたい尋問じんもんおこなわれていない[100]

松井まつい被告人ひこくにんがわ証人しょうにん
  • 上海しゃんはい派遣はけんぐん法務ほうむかんけん検察官けんさつかん塚本つかもと浩次こうじ担当たんとうした案件あんけんだい部分ぶぶん散発さんぱつてき事件じけんで、殺人さつじんは2,3けんで、放火ほうかはん集団しゅうだんてき虐殺ぎゃくさつはんあつかっていないと証言しょうげんした[100][101]
  • 当時とうじ情報じょうほう収集しゅうしゅう主務しゅむとしていたなかささえ方面ほうめんぐん参謀さんぼう中山なかやまやすしじんは、婦女子ふじょしへの暴行ぼうこう掠奪りゃくだつ小規模しょうきぼなものがあったが、市民しみんへのだい規模きぼ虐殺ぎゃくさつ絶対ぜったいにないと宣誓せんせい供述きょうじゅつしょ証言しょうげん[100][101][102]
  • 中澤なかざわ三夫みつおだい16師団しだん参謀さんぼうちょうは、組織そしきてき集団しゅうだんてき掠奪りゃくだつ強姦ごうかんはなかったし、掠奪りゃくだつ命令めいれい黙認もくにんをしたこともない。散発さんぱつてき風紀ふうきはんはあったが処罰しょばつされている。また、南京なんきん市民しみんからは戦場せんじょうでの掠奪りゃくだつ破壊はかいだい部分ぶぶん退却たいきゃくするささえ国民党こくみんとうぐんと、それにつづいて侵入しんにゅうする窮民きゅうみん常套じょうとう手段しゅだんであると直接ちょくせついた、と証言しょうげん[100]

被告人ひこくにん陳述ちんじゅつ

編集へんしゅう

判決はんけつ

編集へんしゅう

最終さいしゅうてき訴因そいん

編集へんしゅう

当初とうしょ55項目こうもく訴因そいんがあげられたが、「日本にっぽんイタリアドイツの3こくによる世界せかい支配しはい共同きょうどう謀議ぼうぎ」「タイへの侵略しんりゃく戦争せんそう」の2つについては証拠しょうこ不十分ふじゅうぶんのため、のこりの43項目こうもくについては訴因そいんふくまれるとされ除外じょがいされ、1948ねん昭和しょうわ23ねんなつには、最終さいしゅうてきには以下いかの10項目こうもく訴因そいんにまとめられた[103]

  • 訴因そいん1 - 1928ねんから1945ねんける侵略しんりゃく戦争せんそうたいする共通きょうつう計画けいかく謀議ぼうぎ
  • 訴因そいん27 - まんしゅう事変じへん以後いごたい中華民国ちゅうかみんこくへの不当ふとう戦争せんそう
  • 訴因そいん29 - 米国べいこくたいする侵略しんりゃく戦争せんそう
  • 訴因そいん31 - 英国えいこくたいする侵略しんりゃく戦争せんそう
  • 訴因そいん32 - オランダにたいする侵略しんりゃく戦争せんそう
  • 訴因そいん33 - 北部ほくぶふつしるし進駐しんちゅう以後いごにおけるふつこく侵略しんりゃく戦争せんそう
  • 訴因そいん35 - ソ連それんたいするちょうほう事件じけん遂行すいこう
  • 訴因そいん36 - ソ連それんおよびモンゴルにたいするノモンハン事件じけん遂行すいこう
  • 訴因そいん54 - 1941ねん12月7にち〜1945ねん9がつ2にちあいだにおける違反いはん行為こうい遂行すいこう命令めいれい援護えんご許可きょかによる戦争せんそう法規ほうき違反いはん
  • 訴因そいん55 - 1941ねん12月7にち〜1945ねん9がつ2にちあいだにおける捕虜ほりょおよ一般人いっぱんじんたいする条約じょうやく遵守じゅんしゅ責任せきにん無視むしによる戦争せんそう法規ほうき違反いはん
被告人ひこくにんべつ訴因そいん量刑りょうけい
判決はんけつにおける被告人ひこくにんべつ訴因そいん量刑りょうけいつぎとお[104]大川おおかわ周明しゅうめい精神せいしん障害しょうがい認定にんていされ訴追そつい免除めんじょ永野ながの修身しゅうしん松岡まつおか洋右ようすけ判決はんけつまえ死去しきょした。
被告人ひこくにん 訴因そいん 量刑りょうけい
荒木あらき貞夫さだお 1,27 終身しゅうしん禁錮きんこけい
土肥どいはら賢二けんじ 1,27,29,31,32,35,36,54 死刑しけい
橋本はしもと欣五郎きんごろう 1,27 終身しゅうしん禁錮きんこけい
はた俊六しゅんろく 1,27,29,31,32,55 終身しゅうしん禁錮きんこけい
平沼ひらぬま騏一郎きいちろう 1,27,29,31,32,36 終身しゅうしん禁錮きんこけい
広田ひろた弘毅こうき 1,27,55 死刑しけい
星野ほしの直樹なおき 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
板垣いたがき征四郎せいしろう 1,27,29,31,32,35,36,54 死刑しけい
きょうせん 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
木戸きど幸一こういち 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
木村きむら兵太郎へいたろう 1,27,29,31,32,54,55 死刑しけい
小磯こいそ國昭くにあき 1,27,29,31,32,55 終身しゅうしん禁錮きんこけい
松井まついいし 55 死刑しけい
みなみ次郎じろう 1,27 終身しゅうしん禁錮きんこけい
武藤むとうあきら 1,27,29,31,32,54,55 死刑しけい
おか敬純たかずみ 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
大島おおしまひろし 1 終身しゅうしん禁錮きんこけい
佐藤さとうけんりょう 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
重光しげみつまもる 27,29,31,32,33,35,55 禁錮きんこけい7ねん
嶋田しまだ繁太郎しげたろう 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
白鳥しらとり敏夫としお 1 終身しゅうしん禁錮きんこけい
鈴木すずき貞一さだいち 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい
東郷とうごう茂徳しげのり 1,27,29,31,32 禁錮きんこけい20ねん
東條とうじょう英機ひでき 1,27,29,31,32,33,54 死刑しけい
梅津うめづ美治よしはるろう 1,27,29,31,32 終身しゅうしん禁錮きんこけい

判事はんじ個別こべつ意見いけんしょ

編集へんしゅう

判決はんけつはイギリス、アメリカ、中国ちゅうごくソ連それん、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの7かこく判事はんじによる多数たすう判決はんけつであった。

判事はんじだん多数たすう判決はんけつたいして、個別こべつ意見いけんしょが5つされた[105]同意どうい意見いけんとしてフィリピンのハラニーニャ意見いけんしょ別個べっこ意見いけんとしてウェブ意見いけんしょ、パール、ベルト・レーリンクアンリ・ベルナール反対はんたい意見いけんしょ提出ていしゅつした[105]極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ条例じょうれいではこれら少数しょうすう意見いけん内容ないよう朗読ろうどくすべきものとさだめられており、弁護べんごがわはこれを実行じっこうするようにもとめたが、法廷ほうていげられることはなかった。

ハラニーニャ同意どうい意見いけんしょ

編集へんしゅう

徹底てっていした親米しんべいのハラニーニャ同意どうい意見いけんしょでは、けい一部いちぶ寛大かんだいにすぎると批判ひはんし、原爆げんばく投下とうか早期そうき決戦けっせんをもたらしたとまでべられた[106]。これはパール反対はんたい意見いけんしょ批判ひはんする目的もくてきかれたとみられている[106]

パールの個別こべつ反対はんたい意見いけんしょ

編集へんしゅう

イギリスりょうインド帝国ていこく法学ほうがくしゃ裁判官さいばんかんラダ・ビノード・パール判事はんじ判決はんけつさいして判決はんけつぶんよりながい1235ページの「意見いけんしょ」(通称つうしょう「パール判決はんけつしょ」)を発表はっぴょうし、事後じごほうさばくことはできないとし全員ぜんいん無罪むざいとした。この意見いけんは「日本にっぽんさばくなら連合れんごうこく同等どうとうさばかれるべし」というものではなく、パール判事はんじがその意見いけんしょでもべているとおり、「被告人ひこくにん行為こうい政府せいふ機構きこう運用うんようとしてなしたとしたうえで、かく被告人ひこくにんかく起訴きそすべ無罪むざい決定けっていされなければならない」としたものであり、また、「司法しほう裁判所さいばんしょ政治せいじてき目的もくてき達成たっせいするものであってはならない」とし、多数たすう判決はんけつ同意どうい反対はんたい意見いけんべたものである。パールは1952ねんふたた来日らいにちしたさい、「東京とうきょう裁判さいばん影響えいきょう原子げんしばくだん被害ひがいよりも甚大じんだいだ」とのコメントをのこしている[よう出典しゅってん]かれ自身じしんは、ヒンズーほう哲学てつがく博士はかせごう論文ろんぶんとしており、判決はんけつ思想しそう価値かちかんにその影響えいきょう色濃いろこ反映はんえいしているとみる見方みかたもある。

また、パール判決はんけつかんする論争ろんそうとして中島なかじま岳志たけし小林こばやしよしのりうしむらけいらによるパール判決はんけつ論争ろんそうがある[107]

ベルナールの個別こべつ反対はんたい意見いけんしょ

編集へんしゅう

アンリ・ベルナール判事はんじうめなんじ中国ちゅうごく代表だいひょう判事はんじたいして1948ねん7がつ26にちに「正義せいぎ連合れんごうこくなかにあるのではないし、その連合れんごうこくだれもが連合れんごうというしたにいかなる特別とくべつ敬意けいいけることができるわけでもないのだ」とべている[108]。またみなみ次郎じろうまんしゅう事変じへんを「自衛じえいけん発動はつどう」と承認しょうにんしたとき多数たすう判事はんじ非難ひなんするなかベルナール判事はんじまんしゅう事変じへんは「ありふれた事件じけん」でしかなく、また「自衛じえいすべきであるとおもうときには自衛じえいけんがある」「このまりは実際じっさい攻撃こうげき侵略しんりゃくもないケースにおいても自衛じえいけん発動はつどうさまたげるものではない」とべた[109]まんしゅう事変じへん問題もんだいについては「事変じへんしょうされている事実じじつきた時点じてんでは、ささえ国民党こくみんとう政府せいふ自身じしん、まだ日本にっぽん敵国てきこくとみなしていなかった」として、当時とうじささえ衝突しょうとつ日本にっぽんがわ行為こういだけをとするのはおかしいとし[110]、また「我々われわれは、あらゆる大国たいこくみずからにとっての生命せいめいせん自国じこくないではなくほかくにいてきたことを了承りょうしょうしてきたし、今日きょうでも了承りょうしょうしているではないか。チャーチルはイギリスの生命せいめいせんをラインかわいてきた」とものべ[111]、さらに「法的ほうてき解決かいけつ、あるいは仲裁ちゅうさいのイニシアティブをとるべきであったのは、日本にっぽんによって行使こうしされる特権とっけん廃止はいしもとめていたささえがわにあった」と主張しゅちょうした[112]。また、オーウェン・カニンガム弁護人べんごにん東京とうきょう裁判さいばんを「茶番ちゃばんげき」と批判ひはんしたことについて判事はんじたちが法廷ほうていから追放ついほうしたことについては、いかなる制裁せいさい措置そち適用てきようされてはならないと批判ひはんした[113]共同きょうどう謀議ぼうぎについては定義ていぎ曖昧あいまいで、被告人ひこくにん共同きょうどう謀議ぼうぎ成功せいこうしたとする多数たすう判決はんけつについて「うたがわしく」、「正式せいしき証拠しょうこがないかぎり、このうたがいをえないし、また被告人ひこくにん有罪ゆうざいとすることはゆるされない」とのべた[114]

ベルナールの個別こべつ反対はんたい意見いけんしょでは、自然しぜんほう国家こっか上位じょういにあり、自然しぜんほうによって侵略しんりゃく戦争せんそう犯罪はんざいであることは証拠しょうこがあれば可能かのうである[115]、しかし日本にっぽん侵略しんりゃく陰謀いんぼう直接的ちょくせつてき証拠しょうこはなく、ひがしアジアを支配しはいしたいという希望きぼう存在そんざい証明しょうめいされたにすぎないから平和へいわたいするつみ被告人ひこくにん有罪ゆうざいにすることはできない。また検察官けんさつかん起訴きそした人間にんげんさばくだけであること、天皇てんのう起訴きそであったことは遺憾いかんべた[116]。また東京とうきょう裁判さいばん予審よしんおこなわれなかったことについて「訴追そついもっと重大じゅうだい性質せいしつ犯罪はんざいかんしたものであり、その立証りっしょう非常ひじょうおおきな困難こんなんをもたらすものであったという事実じじつにもかかわらず。被告人ひこくにん直接ちょくせつほん裁判所さいばんしょたいして起訴きそされ、かれらは、しんという方法ほうほうによって弁護べんごがわ資料しりょうれたり、まとめたりするように努力どりょくする機会きかいあたえられなかった。予審よしんは、検察けんさつがわからも弁護べんごがわからも独立どくりつした司法官しほうかん双方そうほう同等どうとう都合つごうのよいようにおこなうものであって、そのあいだ被告人ひこくにん弁護人べんごにん援助えんじょによって利益りえきたであろうとおもわれる。本官ほんかん意見いけんでは、この原則げんそく違反いはんからこる実際じっさい結果けっかは、本件ほんけんにおいてはとく重大じゅうだいである」と主張しゅちょうした[117]。また、「裁判所さいばんしょ欠陥けっかんのある手続てつづきを到達とうたつした判定はんていは、正当せいとうなものではありない」と東京とうきょう裁判さいばんについてだんじた[118]

レーリンクの個別こべつ反対はんたい意見いけんしょ

編集へんしゅう

ベルト・レーリンク判事はんじ個別こべつ反対はんたい意見いけんしょにおいて、侵略しんりゃく戦争せんそう犯罪はんざいになったのは1928ねん不戦ふせん条約じょうやくでなく、1945ねん8がつロンドン協定きょうていからであるとしながらも[119]罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎほう遡及そきゅうといった原則げんそく裁判官さいばんかん立法りっぽう機関きかんといった国家こっか権力けんりょく恣意しいてき制裁せいさいから個人こじん保護ほごするため原則げんそくであり当時とうじ国際こくさい関係かんけい適用てきようされるべきではないとし、ともかく自由じゆうのためにたたかった戦勝せんしょうこく必要ひつようならその原則げんそく無視むししてもよいとした。戦争せんそう防止ぼうしためあたらしい法的ほうてき解法かいほう模索もさくすべきであって、「平和へいわはんするつみ」が特別とくべつ解釈かいしゃくされるべきであるとも主張しゅちょうした。しかしニュルンベルク裁判さいばん量刑りょうけい比較ひかく身柄みがら拘束こうそくすること既存きそん国際こくさいほう一致いっちするが死刑しけいにするのは不当ふとうだとして反対はんたいした。レーリンクは帝国ていこく日本にっぽん膨張ぼうちょうを「征服せいふく戦争せんそうであり、不法ふほう拡張かくちょうであった」と規定きていし、「しん秩序ちつじょ」を構築こうちくしてアジアを解放かいほうしようとしたという被告人ひこくにんがわ主張しゅちょうみとめなかった。日本にっぽん覇権はけん主義しゅぎは1937ねん以後いご日本にっぽん政府せいふ要人ようじん言動げんどう政策せいさくによって確認かくにんされ、状況じょうきょうともなって変貌へんぼうした態度たいどにてアジア解放かいほうたいする偽善ぎぜん露出ろしゅつすると説明せつめいした。たとえは、1940ねんひがしインド諸島しょとう独立どくりつ支持しじするといった日本にっぽんが1941ねん戦争せんそう開始かいし段階だんかいでは日本にっぽんたよるよう画策かくさくし、やがって占領せんりょうには会合かいごう結社けっしゃまでも禁止きんしし、日本にっぽん領土りょうどとして帰属きぞくさせ、1944ねんはいってせんぜい不利ふりになるとまた独立どくりつ約束やくそくしながらたいにち協力きょうりょく誘導ゆうどうしようとしたと指摘してきした。結局けっきょく、「共栄きょうえいけん」スローガンは「日本にっぽんのためのアジア」構築こうちく策略さくりゃくであったという。レーリンクは意見いけんしょなかつぎのようにべた。

 「しん秩序ちつじょ」をてようとした日本にっぽん野望やぼう大戦たいせん原因げんいんであったというてんうたがいの余地よちがない。(中略ちゅうりゃく)このしん秩序ちつじょたいべい交渉こうしょう座礁ざしょうさせたのである。弁護べんごがわ最終さいしゅう弁論べんろんによれば、1941ねんまつ状況じょうきょう内部ないぶてき要因よういんかんがささえからの撤退てったい日本にっぽん立場たちばから不可能ふかのうなものでたいべい交渉こうしょう妥結だけつ不可能ふかのうであって結局けっきょくこのジレンマは戦争せんそうつながったという。ほん裁判所さいばんしょ提出ていしゅつされた証拠しょうこはそれとはちが結論けつろんいたらせる。(中略ちゅうりゃく)「しん秩序ちつじょ」は中心ちゅうしん争点そうてんであり対立たいりつ核心かくしんであった。「しん秩序ちつじょ」はきちんといわば世界せかい支配しはいできるほどの広大こうだい強力きょうりょく帝国ていこく誕生たんじょう意味いみした。米国べいこく不信ふしん妥当だとうであって、「しん秩序ちつじょ」が各種かくしゅ条約じょうやくちがえながら展開てんかいしていたという判断はんだんてきした。「アジアじんのためのアジア」というスローガンがささえた「しん秩序ちつじょ」の概念がいねん真実しんじつせいがあったか、それともドイツの国家こっか社会しゃかい主義しゅぎのようなもうひとつの内在ないざいてき理念りねんてき侵略しんりゃく手段しゅだんであったかを判断はんだんすることは本裁ほんだちばん本質ほんしつてきかかわりをつ。本裁ほんだちばん提示ていじされた証拠しょうこによれば「しん秩序ちつじょ概念がいねん事実じじつじょう侵略しんりゃく手段しゅだんそれ以上いじょうのものではなかった (Röling 1948: 739-740)[120]

また、レーリンクは広田ひろた弘毅こうきたいして「ささえがわ要求ようきゅうで、広田ひろた南京なんきん虐殺ぎゃくさつ日本にっぽんがわ不法ふほう行為こうい責任せきにんありとして裁判さいばんにかけられ、死刑しけい判決はんけつけました。わたしは、広田ひろた南京なんきん虐殺ぎゃくさつ責任せきにんありとはおもいません。しょうじたことを立場たちばではなかったのです。ですから、わたし反対はんたい判決はんけつは、かれ無罪むざい放免ほうめんとすべきという趣旨しゅしでした」とのべ[121]被告人ひこくにんについて「かれらはそのほとんどが一流いちりゅう人物じんぶつでした。」「海軍かいぐん軍人ぐんじん、それに東條とうじょうたしかにとてもあたまれました」とし、さらに「一人ひとりとして臆病おくびょうではありませんよ。本当ほんとう立派りっぱひとたちでした」と評価ひょうかしたとするひともいる[122](ただし、レーリンクの判決はんけつにはこのようなことべられておらず、本文ほんぶん内容ないようについてはいち史料しりょうにあたって確認かくにんようがある。判決はんけつでは、広田ひろた裁判さいばんにかけられた理由りゆうについて中国ちゅうごくがわ要求ようきゅう云々うんぬんとはかれておらず、またレーリンクがそのようなことの有無うむ立場たちばだったとおもえない。また、レーリンクは南京なんきん虐殺ぎゃくさつ理由りゆうとする広田ひろた死刑しけいには反対はんたいしている[123]ものの、太平洋戦争たいへいようせんそうちゅう捕虜ほりょ虐待ぎゃくたい事件じけんとうかん東条とうじょう死刑しけいには賛同さんどうし、死刑しけいまぬかれた海軍かいぐん嶋田しまだ太平洋たいへいようでの虐殺ぎゃくさつ事件じけんについて死刑しけいにすべきだったとしている)。

レーリンクは、他界たかい2ねんまえの1983ねんの5がつ東京大学とうきょうだいがく大沼おおぬまたもつあきら教授きょうじゅらが組織そしきして東京とうきょうひらかれた学会がっかい参加さんかし、すえねんかんがかたをうかがえる発表はっぴょうぶんのこしている。裁判さいばんにも強大きょうだいこく理念りねんてき経済けいざいてき理由りゆうげながら軍事ぐんじてき介入かいにゅうかえしてきたが、過去かこ日本にっぽんおかした侵略しんりゃく行為こうい正当せいとうされるのではないと明言めいげんしている[120]

ウェブ別個べっこ意見いけんしょ

編集へんしゅう

ウェブ別個べっこ意見いけんしょでは多数たすうおなじく憲章けんしょう拘束こうそくりょくみとめ、不戦ふせん条約じょうやくによって侵略しんりゃく戦争せんそう不法ふほうせい是認ぜにんした[116]。また天皇てんのう責任せきにんについて、戦争せんそう開始かいし天皇てんのう許可きょか必要ひつようだったことを主張しゅちょうし、許可きょかしなければ暗殺あんさつされたかもしれないというのは理由りゆうにならない、それは本来ほんらい統治とうちしゃすべてがっているリスクであるとし、また天皇てんのう進言しんげんもとづく行動こうどうしからなかったというのは事実じじつはんし、それは裁判さいばんあきらかになっているとした。ただし、天皇てんのう訴追そついすべきかどうかをうのは本官ほんかん仕事しごとではない、ただ天皇てんのう免責めんせきまえて被告人ひこくにん刑罰けいばつ考慮こうりょすべきであると主張しゅちょうした[116]日暮ひぐれ吉延よしのぶはこれはオーストラリア本国ほんごくけてかれたものとした[124]

判決はんけついわた

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1948ねん昭和しょうわ23ねん)7がつ27にち書記しょききょく同年どうねん8がつ3にちから判決はんけつぶん翻訳ほんやくはじめることを発表はっぴょうした。翻訳ほんやくしゃ希望きぼうしゃなかから選抜せんばつされたアメリカ陸軍りくぐん軍属ぐんぞく9にん日本人にっぽんじん26にんからなり、翻訳ほんやく作業さぎょう鉄条てつじょうもうめぐらされた服部はっとりハウス(きゅう服部はっとり金太郎きんたろうやしき)でおこなわれた。翻訳ほんやくしゃ秘密ひみつ保持ほじのため判決はんけつぶん読了どくりょうされるまで缶詰かんづ状態じょうたいとなった[125]

同年どうねん11月4にち判決はんけつのいいわたしがはじまり、11月12にちけい宣告せんこくふく判決はんけつのいいわたしが終了しゅうりょうした。判決はんけつ英文えいぶん1212ページにもなる膨大ぼうだいなもので、裁判さいばんちょうウィリアム・ウェッブは10分間ふんかんやく7ページはんはやさで判決はんけつぶんつづけたという[126]判決はんけつまえ病死びょうしした2人ふたり病気びょうきのため訴追そつい免除めんじょされた大川おおかわ周明しゅうめい1人ひとりのぞ全員ぜんいん有罪ゆうざいとなり、うち7にん絞首刑こうしゅけい、16にん終身しゅうしんけい2人ふたり有期ゆうき禁固刑きんこけいとなった。

けい執行しっこう

編集へんしゅう

7にん絞首刑こうしゅけい死刑しけい判決はんけつけたものへのけい執行しっこうは、12月23にち午前ごぜん01ふん30びょうより巣鴨すがも拘置こうちしょおこなわれ、どう35ふん終了しゅうりょうした。この当時とうじ皇太子こうたいしだった明仁あきひと親王しんのう現在げんざい上皇じょうこう)の15さい誕生たんじょうであった。これについては、作家さっか猪瀬いのせ直樹なおきみずからの著書ちょしょ[127]で、皇太子こうたいし処刑しょけい事実じじつつねおもこさせるためにえらばれた日付ひづけであると主張しゅちょうしている。

その、7にん遺体いたい横浜よこはま久保山くぼやま斎場さいじょうべいぐんによって秘密裏ひみつり火葬かそうされ、その小型こがた軍用ぐんようで「横浜よこはまひがしおよそ30マイル(やく48キロメートル)の地点ちてん太平洋たいへいよう上空じょうくう」から洋上ようじょう散骨さんこつされたことが2021ねん6がつ、アメリカの国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞうされていたべいぐん文書ぶんしょあきらかになっている[128][129]。また、のこはい一部いちぶべいぐんから回収かいしゅうした三文字さんもじ正平しょうへい弁護士べんごしらにより、静岡しずおかけん熱海あたみ興亜こうあ観音かんのんまれ一時いちじ安置あんちのち1960ねん愛知あいちけん幡豆はずぐん幡豆はずまちげん西尾にしお)にある三ヶ根山さんがねさん殉国じゅんこくななびょうまつられている[130]

訴追そついしゃへの裁判さいばん裁判さいばん終了しゅうりょう

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一方いっぽう戦犯せんぱん容疑ようぎしゃ指定していされたものの、訴追そつい開始かいしされていないものたちいまのこっていた。1948ねん昭和しょうわ23ねん)1がつ、ニュージーランドは同年どうねん12がつ31にち時点じてん戦犯せんぱん捜査そうさるよう主張しゅちょうし、アメリカがわもこれ以上いじょう軍事ぐんじ裁判さいばん継続けいぞくはほとんど意味いみがないという見解けんかいしめしていた[131]。ニュージーランドとアメリカは捜査そうさ終了しゅうりょうよく1949ねん昭和しょうわ24ねん)6がつ30にちをもって裁判さいばん終了しゅうりょうさせるべきであるという見解けんかい統一とういつし、首席しゅせき検察官けんさつかんのキーナンもこれ以上いじょう軍事ぐんじ裁判さいばんおこなうべきではないという見解けんかいしめした[132]

1948ねん昭和しょうわ23ねん7がつ29にち極東きょくとう委員いいんかいでニュージーランド代表だいひょう翌年よくねん6がつ30にち裁判さいばん終了しゅうりょうさせるべきと提議ていぎした。賛成さんせいしたのはアメリカとイギリスだけであり、そのくに明確めいかく反対はんたいしなかったが、BCきゅう戦犯せんぱん裁判さいばんについては継続けいぞくもとめるこえがった[133]。この協議きょうぎちゅう11月12にち判決はんけつくだされており、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん継続けいぞくされているのかどうかという法的ほうてき問題もんだいがった。

1949ねん昭和しょうわ24ねん2がつ18にち極東きょくとう委員いいんかいだいしょう委員いいんかいにおいてアメリカ代表だいひょうは、「Aきゅう戦犯せんぱん裁判さいばんは2がつ4にち時点じてん終了しゅうりょうし、あらたな戦犯せんぱん逮捕たいほ検討けんとうされていないという見解けんかいしめした[134]。3月31にち極東きょくとう委員いいんかいにおいて、可能かのうであれば捜査そうさ最終さいしゅう期限きげんを1949ねん6がつ30にちとし、裁判さいばんは9月30にちまでに終了しゅうりょうするという決議けつぎ採択さいたくされた[135]

裁判さいばん以後いご

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平和へいわ条約じょうやくにおける受諾じゅだく

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1951ねん昭和しょうわ26ねん9月8にち調印ちょういんされた日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく(サンフランシスコ平和へいわ条約じょうやくだい11じょうにおいて

日本にっぽんこくは、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょならびに日本にっぽん国内こくないおよ国外こくがいほか連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい法廷ほうてい裁判さいばん受諾じゅだくし、つ、日本にっぽんこく拘禁こうきんされている日本にっぽん国民こくみんにこれらの法廷ほうていしたけい執行しっこうするものとする。これらの拘禁こうきんされているもの赦免しゃめんし、減刑げんけいし、およかり出獄しゅつごくさせる権限けんげんは、かく事件じけんについてけいした1または2以上いじょう政府せいふ決定けっていおよ日本にっぽんこく勧告かんこくもとづくのそと行使こうしすることができない。極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょけい宣告せんこくしたものについては、この権限けんげんは、裁判所さいばんしょ代表だいひょうしゃした政府せいふ過半数かはんすう決定けっていおよ日本にっぽんこく勧告かんこくもとづくのそと行使こうしすることができない。

さだめられているが、これは講和こうわ条約じょうやく締結ていけつにより戦時せんじ国際こくさいほうじょう効力こうりょくうしなわれるという国際こくさいほうじょう慣習かんしゅうもとづき、なん措置そちもなく日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやく締結ていけつすると極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん日本にっぽん国内こくないかく連合れんごうこくもうけられた軍事ぐんじ法廷ほうてい判決はんけつ失効しっこう(あるいは無効むこう)となり、当事とうじしゃ請求せいきゅうにより即刻そっこく釈放しゃくほうすべき義務ぎむ締約ていやくこくされることを回避かいひするためにもうけられた条項じょうこうである。

日本にっぽんこくとの平和へいわ条約じょうやくだい11じょうの「裁判さいばん受諾じゅだく」の意味いみ---すなわちこの裁判さいばん効力こうりょくかんして---をめぐって、判決はんけつ主文しゅぶんもとづいたけい執行しっこう受諾じゅだくかんがえる立場たちばと、げられた判決はんけつ内容ないよう全般ぜんぱん受諾じゅだくかんがえる立場たちばに2ふんされている[注釈ちゅうしゃく 9] が、日本にっぽん政府せいふ後者こうしゃ解釈かいしゃくっている[注釈ちゅうしゃく 10]

戦犯せんぱん赦免しゃめん

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日本にっぽん国内こくない国民こくみんてき運動うんどうとしては、おも多数たすうをしめる各地かくちのBCきゅう戦犯せんぱんとく海外かいがい抑留よくりゅうされたままの収監しゅうかんしゃ念頭ねんとうにおいたものとして、戦犯せんぱん赦免しゃめん運動うんどう全国ぜんこくてきひろがった(おおがかりなものとしては、日弁連にちべんれんがBCきゅう戦犯せんぱん家族かぞくかくこしたもの[136]、引揚援護えんご運動うんどう団体だんたいになったもの[137][138]広島ひろしま婦人ふじん団体だんたいおこなったもの[139]などがられている)。1952ねん昭和しょうわ27ねん12月9にち衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎで「戦争せんそう犯罪はんざいによる受刑じゅけいしゃ釈放しゃくほうとうかんする決議けつぎ」が少数しょうすう労農ろうのうとうのぞ多数たすう会派かいはによって可決かけつされた。さらによく1953ねん昭和しょうわ28ねん)、極東きょくとう軍事ぐんじ裁判さいばん戦犯せんぱんとして処刑しょけいされた人々ひとびとは「公務こうむ」と認定にんていされた。

またAきゅう戦犯せんぱんとして収監しゅうかんされていた極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんによる受刑じゅけいしゃ13めい[140] は、冷戦れいせん対立たいりつ激化げきかとともにきゅう連合れんごうこく主要しゅようこく方針ほうしん変化へんかにより1956ねん昭和しょうわ31ねん)3がつまつ時点じてんですべて仮釈放かりしゃくほうされた[141]いまだBCきゅう戦犯せんぱん収監しゅうかんしゃのこなか、Aきゅう戦犯せんぱんしゃすべ釈放しゃくほうされたため、世間せけんでは不公平ふこうへいかんやむしろぎゃくではないかとの意識いしきつよまり、巣鴨すがものBCきゅう戦犯せんぱんしゃ(東京とうきょう裁判さいばん当時とうじ右翼うよく活動かつどうによる収監しゅうかんしゃだけでなく、釈放しゃくほう運動うんどう要求ようきゅうひとつである内地ないち送還そうかん請求せいきゅう成果せいかとして海外かいがいからおくかえされたBCきゅう収監しゅうかんしゃなか相手あいてこくから釈放しゃくほうまではみとめられていないものがあらたに収監しゅうかんされていた)もふくめたかたち戦犯せんぱんすべ釈放しゃくほうすべきだとのこえつよまった[142]

釈放しゃくほう運動うんどう一環いっかんとしての署名しょめい活動かつどう長期ちょうきにわたって、様々さまざま団体だんたいによっておこなわれ、あるものは海外かいがい諸国しょこくたい一括いっかつして、あるものはフィリピンあるいは共産きょうさん中国ちゅうごくたいしてというふうおこなわれたため、ふくすうかい署名しょめいするものもおおかったが、それらの署名しょめい総数そうすうで4000まんにんたっしたとわれる[143][144]

裁判さいばん評価ひょうか争点そうてん

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概要がいよう

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裁判さいばんについては、①った(連合れんごうこくがわけた(敗戦はいせんこくがわさばいた(勝者しょうしゃさば[145]、②日本にっぽんけた)がわ有利ゆうり決定けっていてき証拠しょうこ却下きゃっかされ、連合れんごうこくった)がわ有利ゆうり伝言でんごん証言しょうげんはほとんど無条件むじょうけん採用さいようされた[146]、③罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎはんして[4]事後じごほう遡及そきゅうてき適用てきようおこなわれた[5][6]、④連合れんごうこくった)がわ戦争せんそう犯罪はんざいわれなかった[5]、⑤裁判官さいばんかん検察官けんさつかん連合れんごうこくがわものだけで、中立ちゅうりつこく敗戦はいせんこくもの一人ひとりもいなかった[147]、⑥敗戦はいせんこくけた)がわ弁護人べんごにん裁判官さいばんかん判断はんだんでいつでも解任かいにんできた[6]、⑦当時とうじ国際こくさい慣習かんしゅうほうでは責任せきにんわれなかった[3]部下ぶか行為こういたいする上官じょうかん責任せきにん不作為ふさくい責任せきにん)がわれた[6]ことへの批判ひはんがある。

このような背景はいけいから「連合れんごうこくによる復讐ふくしゅう」ではないかと指摘してきされている[148]。このような批判ひはんがある一方いっぽうで、裁判さいばんについて好意こういてき意見いけん存在そんざいする。

 
被告人ひこくにんせき

アメリカ政府せいふ・GHQ要人ようじん発言はつげん

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GHQのチャールズ・ウィロビーはレーリンク判事はんじに「この裁判さいばん歴史れきしじょう最悪さいあく偽善ぎぜんでした」「日本にっぽんかれたような状況じょうきょうでは、日本にっぽんがしたようにアメリカも戦争せんそうをしていただろう」とべたという[149]

国務省こくむしょうジョージ・ケナン東京とうきょう裁判さいばんについて「ほう手続てつづきの基盤きばんになるような法律ほうりつはどこにもない。戦時せんじちゅう捕虜ほりょ戦闘せんとういんたいする虐待ぎゃくたい禁止きんしする人道的じんどうてきほうはある」「しかし、公僕こうぼくとして個人こじん国家こっかのためにする仕事しごとについて国際こくさいてき犯罪はんざいはない。国家こっか自身じしんはその政策せいさく責任せきにんがある。戦争せんそうけが国家こっか裁判さいばんである。日本にっぽん場合ばあい敗戦はいせん結果けっかとしてくわえられた災害さいがいつうじてその裁判さいばんはなされた」として、戦勝せんしょうこく敗戦はいせんこく制裁せいさいする権利けんりがないというわけではないが、「そういう制裁せいさい戦争せんそう行為こうい一部いちぶとしてなされるべきであり、正義まさよし関係かんけいがない。またそういう制裁せいさいをいかさまなほう手続てつづきで装飾そうしょくするべきではない」と批判ひはんした[150]

ケナンはさらに、国務省こくむしょうあて最高さいこう機密きみつ報告ほうこくしょなかで、この裁判さいばんは「国際こくさい司法しほう極致きょくちとして賞賛しょうさんされている」が、「そもそもの最初さいしょから深刻しんこくかんがちがい」があり、てき指導しどうしゃ処罰しょばつは「必要ひつようんだ司法しほう手続てつづきのまやかしやペテンにおおわれ、その本質ほんしつがごまかされて」おり、東京とうきょう裁判さいばん政治せいじ裁判さいばんであって、ほうではないと批判ひはんした[151]。ただし、ケナンは日本人にっぽんじんへの同情どうじょうからべたのではなく、この裁判さいばんささえている正義せいぎ理解りかいする能力のうりょく日本人にっぽんじんにはないともべ、戦犯せんぱん終戦しゅうせん即刻そっこくまとめて射殺しゃさつしたほう適切てきせつであったとものべている[152]

マッカーサーの発言はつげん

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東京とうきょう裁判さいばん事実じじつじょう主催しゅさいしゃともいえたダグラス・マッカーサーは、朝鮮ちょうせん戦争せんそう勃発ぼっぱつ直後ちょくご1950ねん10月15にちウェーキとうでのハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょうとの会談かいだんせきで、W・アヴェレル・ハリマン大統領だいとうりょう特別とくべつ顧問こもんの「北朝鮮きたちょうせん戦犯せんぱんをどうするか」との質問しつもんたいし、「戦犯せんぱんにはをつけるな。をつけてもうまくいかない」「東京とうきょう裁判さいばんとニュルンベルグ裁判さいばんには警告けいこくてき効果こうかはないだろう」とべている。

またマッカーサーは、1951ねん昭和しょうわ26ねん5月3にちひらかれた上院じょういん軍事ぐんじ外交がいこう合同ごうどう委員いいんかい[注釈ちゅうしゃく 11]において、資源しげんとぼしかった日本にっぽんが「原料げんりょう供給きょうきゅうられたら、いちせんまんからいちせんひゃくまん失業しつぎょうしゃ発生はっせいするであろうことをかれらはおそれていました。したがって戦争せんそうにむかった目的もくてきは、しゅとして治安ちあんのためだったのです」と証言しょうげんした[154][注釈ちゅうしゃく 12]。この発言はつげんからマッカーサー自身じしんが、だい東亜とうあ戦争せんそう日本にっぽん自存じそん自衛じえいのための戦争せんそうであったことをみとめたものとする主張しゅちょうがある[156]

またマッカーサーはどう委員いいんかいで「我々われわれ過去かこひゃく年間ねんかん太平洋たいへいようおかした最大さいだい政治せいじてき過誤かごは、共産きょうさん主義しゅぎしゃたち中国ちゅうごくいて強大きょうだい勢力せいりょく成長せいちょうするのを黙認もくにんしてしまった」ことにあるともべている[157]小堀こぼり桂一郎けいいちろうはこの発言はつげんを「東京とうきょう裁判さいばんあやまりだった」という認識にんしきの、もうひとべつ表現ひょうげんだったと解釈かいしゃくしている[158]

勝者しょうしゃさばき」

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首席しゅせき検察官けんさつかんジョセフ・キーナン冒頭ぼうとう陳述ちんじゅつ文明ぶんめい断乎だんこたる闘争とうそう」という表現ひょうげん[89]もとづき、東京とうきょう裁判さいばんたいする肯定こうていろんでは「文明ぶんめい」ののもとに「ほう正義まさよし」によって裁判さいばんおこなったという意味いみ文明ぶんめいさばともばれる。

一方いっぽう事後じごほう遡及そきゅうてき適用てきようであったこと、さばがわはすべて戦勝せんしょうこく任命にんめいした人物じんぶつ戦勝せんしょうこくがわ行為こういはすべて不問ふもんだったことなどから、"勝者しょうしゃさば"(英語えいごでは「Victor's justice」)ともばれる[159][160] が、国際こくさいほういて、この表現ひょうげん日本にっぽん滞在たいざい経験けいけんのあるアメリカの歴史れきし学者がくしゃリチャード・マイニアが1971ねん著書ちょしょ『Victors' Justice; The Tokyo War Crimes Trial』(邦訳ほうやく東京とうきょう裁判さいばん勝者しょうしゃさばき』1985ねん)ではじめて使つかったもので、「アメリカの原爆げんばく投下とうか行為こうい人道じんどうたいするつみ適用てきようされないのか」と被告人ひこくにん選定せんてい、すなわち連合れんごうこく戦争せんそう犯罪はんざい行為こういさばかれなかったこと、また、昭和しょうわ天皇てんのう起訴きそだけでなく証人しょうにん喚問かんもんもなされなかったこと、判事はんじ戦勝せんしょうこくだけで構成こうせいされたこと、侵略しんりゃく定義ていぎするのは勝者しょうしゃでありしたがってプロパガンダになる可能かのうせいなどを問題もんだいし、したがって侵略しんりゃく戦争せんそう理由りゆう訴追そついすることは不可能ふかのうであると主張しゅちょうした[159][161]。レーリンク判事はんじのちにこの裁判さいばんは「勝者しょうしゃさばき」であったとした[162]

2013ねん平成へいせい25ねん2がつ12にち衆院しゅういん予算よさん委員いいんかいにおいて安倍晋三あべしんぞう首相しゅしょうは「さき大戦たいせん」の総括そうかつは、日本人にっぽんじん自身じしんではなく、「東京とうきょう裁判さいばんという、わば連合れんごうこくがわ勝者しょうしゃ判断はんだんによって、その断罪だんざいがなされた」とべた[163]中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふはこの発言はつげん批判ひはん2013ねん11月12にち上海しゃんはい開催かいさいされた「東京とうきょう裁判さいばん国際こくさいシンポジウム」ではなひがしせいほう大学だいがくなにつとむはなは「東京とうきょう裁判さいばん人類じんるい正義せいぎちから邪悪じゃあく勢力せいりょくったことにともな重大じゅうだい成果せいかで、正義せいぎ法律ほうりつ日本にっぽん罪人ざいにん処罰しょばつした正当せいとう行為こうい」とのべた[164]。また、粟屋あわや憲太郎けんたろうは「東京とうきょう裁判さいばんなかにはあやまりもあるが、日本にっぽんサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく判決はんけつ受諾じゅだくして国際こくさい社会しゃかい復帰ふっきできた。それをわすれて『勝者しょうしゃさばき』というのはあやまりだ」とべた[164]

裁判さいばんでは日本にっぽんがわ有利ゆうりになるような証拠しょうこ決定的けっていてき根拠こんきょがあっても「証拠しょうこがない」として連合れんごうこくがわ棄却ききゃくされ、連合れんごうこくがわ根拠こんきょのない伝聞でんぶんのものはほとん採用さいようされた。本来ほんらい中立ちゅうりつてき立場たちばつべき判事はんじ全員ぜんいん戦勝せんしょうこくから選出せんしゅつされた。この裁判さいばん戦勝せんしょうこくによる復讐ふくしゅうショーにぎなかったのである、との見解けんかいもある[165]

共同きょうどう謀議ぼうぎ

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ニュルンベルク裁判さいばんにおいてもちいられた「国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとう(ナチとう指導しどうヒトラー内閣ないかく親衛隊しんえいたいという組織そしき」が共同きょうどうして戦争せんそう計画けいかくてたという共同きょうどう謀議ぼうぎ(conspiracy、共謀きょうぼうざい)の論理ろんりを、そのまま日本にっぽん戦争せんそうにも適用てきようしたてん問題もんだいされている。起訴きそじょうによれば、Aきゅう戦犯せんぱん28めい1928ねん昭和しょうわ3ねん)から1945ねん昭和しょうわ20ねん)まで一貫いっかんして世界せかい支配しはい陰謀いんぼうのため共同きょうどう謀議ぼうぎしたとされ、判決はんけつけた25めいちゅう23めい共同きょうどう謀議ぼうぎ有罪ゆうざいとされている。

ナチス・ドイツ体制たいせいは、たとえば1933ねん全権ぜんけん委任いにんほうなどから総統そうとうであるアドルフ・ヒトラー指導しどうしゃ原理げんりもとづくイデオロギー集団しゅうだんであったナチとうによっていちとう支配しはい体制たいせい構築こうちくされていたものであり、戦前せんぜん日本にっぽん事情じじょうとはことなっている。当時とうじ唯一ゆいいつ政党せいとうであった大政たいせい翼賛よくさんかい対立たいりつしていたきゅう政党せいとうが1940ねん合同ごうどうしてできたものであり、ナチとうのような強力きょうりょく団結だんけつっていなかった。

また、陸海りくかいぐん枢密院すうみついん重臣じゅうしん木戸きど内大臣ないだいじんなどの宮中きゅうちゅうグループの政治せいじてき影響えいきょうりょくつよく、これらのあいだでの政見せいけん統一とういつ困難こんなんであった。実際じっさい被告人ひこくにんちゅうにもたがいに政敵せいてき同士どうしのものやいちったことすらないものまでふくまれていた。この状況じょうきょう被告人ひこくにんであったきょうせん東条とうじょう内閣ないかく大蔵おおくら大臣だいじん)は「ナチスと一緒いっしょ挙国一致きょこくいっち超党派ちょうとうはてき侵略しんりゃく計画けいかくをたてたというんだろう。そんなことはない。軍部ぐんぶぱしるといい、政治せいじこまるといい、きただ、みなみだ、と国内こくないはガタガタで、おかげでろくに計画けいかく出来できずに戦争せんそうになってしまった。それを共同きょうどう謀議ぼうぎなどとは、おずかしいくらいのものだ」とひょうしている[166]。このような複雑ふくざつ政治せいじ状況じょうきょう無視むしした杜撰ずさんともいえる事実じじつ認定にんていくわえ、近衛このえ文麿ふみまろ杉山すぎやまはじめといった重要じゅうよう決定けってい参加さんかした指導しどうしゃ自殺じさつもあり、日本にっぽんがいかにして戦争せんそうかったのかという過程かてい十分じゅうぶんあきらかにされなかった。

ジョージ山岡やまおか弁護人べんごにんは「共同きょうどう謀議ぼうぎなるものは、もっと奇異きいにしてしんずべからざるもののひとつである。すくなくとも最近さいきん14年間ねんかんにわたる孤立こりつした関係かんけいのないしょ事件じけんあつめられ、ならべたてられているにすぎない」と弁護べんごした[167]

1945ねん以前いぜん国際こくさいほう共同きょうどう謀議ぼうぎについては記載きさいされていなかったという反論はんろんたいしてウェブ裁判さいばんちょう別個べっこ意見いけんしょのなかで「国際こくさいほうは、おおくのくに国内こくないほうとはことなって、純粋じゅんすい共同きょうどう謀議ぼうぎという犯罪はんざい明示めいじてきふくんでいない」「同様どうように、戦争せんそう法規ほうき慣例かんれいたんなる純粋じゅんすい共同きょうどう謀議ぼうぎ犯罪はんざいとしない」とみとめている[168]。さらに「えいべい概念がいねんもとづいて、純粋じゅんすい共同きょうどう謀議ぼうぎ犯罪はんざいとする権限けんげんはなく、また各国かっこく国内こくないほうにおいて共同きょうどう謀議ぼうぎとされている犯罪はんざい共通きょうつう特徴とくちょうみとめるものにもとづいて、そうする権限けんげんもない」とし、もし共同きょうどう謀議ぼうぎ犯罪はんざいとするならば、それは「裁判官さいばんかんによる立法りっぽう」となるとものべている[168]。しかし、多数たすう判決はんけつでは共同きょうどう謀議ぼうぎ罪状ざいじょうとしてみとめられた[168]以前いぜん国際こくさいほう記載きさいがなかったにもかかわらず審理しんりするということは、法学ほうがく原則げんそくである「法律ほうりつなくして犯罪はんざいなし、法律ほうりつなくして刑罰けいばつなし(Nullum crimen sine lege, nulla poena sine lege)」に抵触ていしょくするのかどうかが問題もんだいとされていたのであった[168]

被告人ひこくにん選定せんてい

編集へんしゅう

被告人ひこくにん選定せんていについては軍政ぐんせい責任せきにんしゃえらばれていて、軍令ぐんれい責任せきにんしゃ統帥とうすいけん自在じざい利用りようした参謀さんぼう高級こうきゅう軍人ぐんじんえらばれていないことに特徴とくちょうがあった。理由りゆうとして、統帥とうすいけんっていた天皇てんのう免訴めんそされることがまっていたために、統帥とうすいつらなる軍人ぐんじん法廷ほうていせば天皇てんのう責任せきにんろんじられるおそれがあり、マッカーサーはそれをおそれて被告人ひこくにんえらばなかったのではないかと保阪ほさかただしやすし指摘してきしている[126]

また、保阪ほさか軍令ぐんれい責任せきにんしゃさなかったことが玉砕ぎょくさいなど日本にっぽんぐん非合理ひごうりてき戦略せんりゃく白日はくじつしたさら機会きかいうしない、裁判さいばんきわめて変則へんそくてきなものにしたとも指摘してきしている[126]。このほか天皇てんのう訴追そつい回避かいひについては、「マッカーサーのアメリカ国内こくない立場たちばわるくなるのでけたい」というGHQ意向いこうが、軍事ぐんじ補佐ほさかんボナー・フェラーズじゅんしょうより裁判さいばん事前じぜん折衝せっしょうにあたっていた米内よない光政みつまさ裁判さいばんまえにもたらされている[169]

判事はんじ選定せんてい

編集へんしゅう

判事はんじ裁判官さいばんかん)については中華民国ちゅうかみんこくから派遣はけんされたうめなんじ判事はんじ自国じこくにおいて裁判官さいばんかんしょくものではなかったこと、ソビエト連邦れんぽうのザリヤノフ判事はんじとフランスのベルナール判事はんじ法廷ほうてい公用こうようである日本語にほんご英語えいごのどちらも使つかうことができなかったことなどから、この裁判さいばん判事はんじ人選じんせん適格てきかくだったかどうかを疑問ぎもんするこえもある。Aきゅう戦犯せんぱんとして起訴きそされ、有罪ゆうざい判決はんけつけた重光しげみつまもるは「わたしモスクワ政治せいじてき軍事ぐんじ裁判さいばんと、何等なんらことなるなき独裁どくさいけいである」とひょうしている[170]

法的ほうてき根拠こんきょ公平こうへいせい

編集へんしゅう

管轄かんかつけん

編集へんしゅう

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ条例じょうれい国際こくさいほうじょう占領せんりょうぐん占領せんりょう統治とうちさいしてハーグ陸戦りくせん条約じょうやくだいさん款においても許可きょかされてきた軍律ぐんりつ審判しんぱん相当そうとう[171]軍律ぐんりつ軍律ぐんりつ会議かいぎ軍事ぐんじ行動こうどうであり戦争せんそう行為こういふくまれる[172]。また戦争せんそう犯罪はんざい処罰しょばつ要求ようきゅうするポツダム宣言せんげん10こう(および7こう)を受諾じゅだくしたことにより、連合れんごうこく裁判さいばんけんふくし、かれらの採用さいようする法規ほうきによってさばかれうることになる(連合れんごうこくがわ軍法ぐんぽう軍律ぐんりつ一般いっぱん法令ほうれいだけでなく、日本にっぽんがわのそれらを代理だいり行使こうしすることもありうる)。もっとも、高級こうきゅう軍人ぐんじんとう交戦こうせん法規ほうき違反いはんについて審判しんぱんするてんについてはまだしも、言論げんろんじん国務大臣こくむだいじんひとしがそれらの立場たちば過去かこにおこなった行為こうい謀議ぼうぎ、あるいはその思想しそうたいして審判しんぱんおこなわれたことは異例いれいであった。戦争せんそう犯罪はんざい処罰しょばつについてはポツダム宣言せんげん10こう予定よていされていたが、国際こくさいほうじょうみとめられてきた従来じゅうらい戦争せんそう犯罪はんざい概念がいねん拡張かくちょうされ検討けんとうされたことに特徴とくちょうがある。

キーナン検事けんじは、来日らいにち直後ちょくご報道陣ほうどうじん質問しつもんこたえて裁判さいばん適用てきようされるのは文明ぶんめいこく慣習かんしゅうほうとなるであろうとした[173]

裁判さいばんちゅう管轄かんかつけん忌避きひ動議どうぎとしてされた実定法じっていほうじょう裁判さいばん管轄かんかつけん根拠こんきょにつき、ウェッブ裁判さいばんちょう弁護べんごがわ動議どうぎ却下きゃっかしたうえで、理由りゆうあと回答かいとうするとしたまま保留ほりゅうされ、最後さいご判決はんけつとともに開示かいじされることとなったが、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ自体じたいは、まず、その根拠こんきょを「さばくことはみとめられない」との主張しゅちょう極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ条例じょうれいによって裁判所さいばんしょ自体じたい却下きゃっかしなければならないとの形式けいしきろん処理しょりした。そのうえで、しかしながら裁判所さいばんしょ権能けんのう制約せいやくではなく国際こくさいほう範囲はんいによるとし、補足ほそくてきに、実体じったいてき正当せいとうせい根拠こんきょとして、ニュールンベルク裁判さいばんにならって、裁判所さいばんしょ条例じょうれいすで存在そんざいする国際こくさいほう表示ひょうじしたものであること、1928ねんのパリ不戦ふせん条約じょうやく調印ちょういんまたは加盟かめいしたくに国家こっか政策せいさく手段しゅだんとして戦争せんそうこしたくに国際こくさいほう違反いはんであること、またおおくのくに国家こっか代表だいひょうしゃといえど個々人ここじん国家こっか行為こういであることを理由りゆうほう違反いはんおかすことはみとめられていないことを理由りゆうとした[174]回答かいとうおくれた理由りゆうについては、ウェッブが実体じったいてき根拠こんきょしめすことにこだわったことたいほか裁判官さいばんかんがそれに理由りゆう内容ないようふくめて否定ひていてき意見いけんまとまらなかったこと、ウェッブが一部いちぶ裁判官さいばんかん画策かくさくにより一時いちじ帰国きこくする事態じたいいたった(当時とうじ日本にっぽん報道陣ほうどうじん一部いちぶではウェッブが正当せいとうせい根拠こんきょがあげられずげたようにけとめた[175]もあった。)こととうが、げられている。

なお、かり国際こくさい実定法じっていほうじょう根拠こんきょがなく前例ぜんれいのない国際こくさい刑事けいじ法廷ほうていであったと仮定かていした場合ばあい法廷ほうていそのものの管轄かんかつけん実定法じっていほうじょう根拠こんきょがない「事後じごほう」により設置せっちされ、また連合れんごうこくがわ戦争せんそう犯罪はんざい敗戦はいせんこくがわ事実じじつじょう法廷ほうていでは提訴ていそする権利けんり機会きかいがなく「ほうした平等びょうどう」がなされていないのではないかという問題もんだいがある。

また本裁ほんだちばんでは原子げんしばくだん使用しよう民間みんかんじん標的ひょうてきとした差別さべつ爆撃ばくげき実施じっしなど連合れんごうこくぐん行為こうい対象たいしょうとならず[疑問ぎもんてん][注釈ちゅうしゃく 13]証人しょうにんすべてに偽証罪ぎしょうざいわれず、罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎほう遡及そきゅう保証ほしょうされなかったという意見いけんがある。

こうした欠陥けっかんおおさから、極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんとは「裁判さいばんにふさわしくなく、たんなる一方いっぽうてき復讐ふくしゅう儀式ぎしきであり、ぜん否定ひていすべきだ」との意見いけんすくなくなく、次段じだんのとおり国際こくさいほう専門せんもんあいだでは本裁ほんだちばんたいしては否定ひていてき見方みかたをするものおおい。当時とうじ国際こくさい条約じょうやく成文せいぶん国際こくさいほう)は現在げんざいほど発達はったつしておらず、当時とうじ国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんにおいては現在げんざい国際こくさい裁判さいばん常識じょうしきことなるてんおおられた。ただし、罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎほう遡及そきゅう国際こくさいほう構成こうせいする要素ようそとして重要じゅうよう慣習かんしゅうほうという概念がいねんこうから対立たいりつするので、ほう遡及そきゅうつよかかわるなら、国際こくさいほう自体じたいがその存在そんざい否定ひていされることになる[179]本田ほんだみのる指摘してきする。

国際こくさいほう学者がくしゃハンス・ケルゼンは「戦争せんそう犯罪はんざいじん処罰しょばつは、国際こくさい正義せいぎ行為こういであるべきものであって、復讐ふくしゅうたいする渇望かつぼうたすものであってはならない。敗戦はいせんこくだけが自己じこ国民こくみん国際こくさい裁判所さいばんしょわたして戦争せんそう犯罪はんざいにたいする処罰しょばつけさせなければならないというのは、国際こくさい正義せいぎ観念かんねん合致がっちしないものである。戦勝せんしょうこくもまた戦争せんそう法規ほうき違反いはんした自国じこく国民こくみんにたいする裁判さいばんけん独立どくりつ公平こうへい国際こくさい裁判所さいばんしょすすんでわた用意よういがあってしかるべきである」と敗戦はいせんこくのみにたいする戦争せんそう裁判さいばん批判ひはんした[180][181]

国際こくさい法学ほうがくしゃクヌート・イプセンは「平和へいわたいするつみかんする国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ管轄かんかつけん当時とうじ効力こうりょくをもっていた国際こくさいほうもとづくものではなかった」とし、戦争せんそうについて当時とうじ個人こじん責任せきにん国際こくさい法的ほうてき確立かくりつしておらず、事後じごほうであった極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん条例じょうれいは「法律ほうりつなければ犯罪はんざいなし」という法学ほうがく格言かくげん違反いはんするものであったとした[182]ミネソタ大学だいがくのゲルハルト・フォン・グラーンもパール判事はんじ意見いけん支持しじし、当時とうじパリ協定きょうてい盟約めいやく不戦ふせん条約じょうやくがあったとはいえ主権しゅけん国家こっかが「侵略しんりゃく戦争せんそう」をおこなうことを禁止きんしした国際こくさいほう存在そんざいせず、「当時とうじ今日きょうも、平和へいわたいするつみなど存在そんざいしないことを支持しじする理由りゆうなどいくらでもげることができる」とのべている[183][184]

イギリスの内閣ないかく官房かんぼう長官ちょうかんでもあったハンキーきょう英語えいごばん国際こくさい連合れんごう裁判所さいばんしょについての規定きてい何人なんにんも、実行じっこうとき国内こくないほうまた国際こくさいほうにより犯罪はんざい構成こうせいしなかった作為さくいまた不作為ふさくいのために有罪ゆうざいとされることはない」(世界せかい人権じんけん宣言せんげんだい11じょうだい2こう)[185]引合ひきあいにし、「戦勝せんしょうこく判事はんじのみでもって排他はいたてき構成こうせいされた裁判所さいばんしょ」は「独立どくりつ公平こうへい裁判所さいばんしょ」とはいえず、枢軸すうじくこく犯罪はんざいじん早急そうきゅうさばくために設定せっていされた裁判所さいばんしょ条例じょうれいや、事後じごになって犯罪はんざい創設そうせつしたことは、世界せかい人権じんけん宣言せんげんだい11じょうだい2こう規定きてい相容あいいれず、ドイツと日本にっぽん軍事ぐんじ裁判さいばんが「ほう規則きそく設定せっていしたという価値かちるにりぬようにおもわれる。むしろ、重大じゅうだい退歩たいほさせたというべきである」とべている[186][187]。しかし、世界せかい人権じんけん宣言せんげん採択さいたくされたのは1948ねん12月10にちであり東京とうきょう裁判さいばんのちである。

歴史れきし学者がくしゃポール・シュローダーは「裁判所さいばんしょ構成こうせい政治せいじてき状況じょうきょう、さらに戦後せんごまもない時期じき世論せろん趨勢すうせい一体化いったいかして、事件じけんについての冷静れいせい均衡きんこうのとれた判決はんけつ不可能ふかのうにした」「歴史れきしはもしかすると、(裁判所さいばんしょたっした)結論けつろん国際こくさいほう正義せいぎ発展はってんにおいて多大ただい前進ぜんしんであったというてんについてはうたがわしくおもうだろう」と指摘してきした[188]

ロンドン大学だいがくのジョン・プリチャードはつぎのように東京とうきょう裁判さいばん問題もんだいてん摘出てきしゅつしている[189]

  • 検察けんさつ真実しんじつ解明かいめいよりも、日本にっぽん指導しどうしゃきびしく処罰しょばつすることで日本人にっぽんじんさい教育きょういくすることを目的もくてきとしていた。
  • 判事はんじたちの多数たすう検察けんさつ主張しゅちょうのみにして、弁護べんごがわ証拠しょうこ反証はんしょう反論はんろん一方いっぽうてき却下きゃっかした明確めいかく形跡けいせきがある。
  • 通常つうじょう戦争せんそう犯罪はんざい捕虜ほりょ民間みんかんじんへの残虐ざんぎゃく行為こういとう)は全体ぜんたいの5-10%であり、ドイツよりも比率ひりつひくい。
  • 戦争せんそうを「侵略しんりゃく」と「自衛じえい」にけることは困難こんなんであり、日本にっぽん歴代れきだい指導しどうそう一致いっちして侵略しんりゃく戦争せんそう企図きとした形跡けいせきもなく、したがって共同きょうどう謀議ぼうぎや、「不法ふほう戦争せんそうによる殺人さつじん」といった訴因そいん法的ほうてき根拠こんきょっていない。
  • 当時とうじ存在そんざいしなかった平和へいわたいするつみ過去かこさかのぼって適用てきようしたり、つみ根拠こんきょを1928ねんパリ不戦ふせん条約じょうやくもとめることには無理むりがある。

だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ戦勝せんしょうこく敗戦はいせんこく指導しどうしゃさばくことが国際こくさいてき協議きょうぎされたさいに、べいえいふつにちの5かこくは1919ねんパリ講和こうわ会議かいぎせんだっておこなわれた平和へいわ予備よび会議かいぎにおいて報告ほうこくしょをまとめ、「戦争せんそうほう慣習かんしゅうならびに人道じんどうほう違反いはんしたてき国民こくみんはすべて、その階級かいきゅう相違そういかかわりなく、元首げんしゅふくめて刑事けいじ訴追そついける可能かのうせいがある」として国家こっか元首げんしゅふく戦争せんそう開始かいししゃ訴追そつい余地よち明示めいじした[190]一方いっぽうどう報告ほうこくしょでは「平和へいわてき口実こうじつのもとに隠蔽いんぺいされ、いであやまった理由りゆう宣言せんげんされた侵略しんりゃく戦争せんそう開始かいしは、公衆こうしゅう良心りょうしん非難ひなんし、歴史れきし弾劾だんがいする振舞ふるまいではあるが、平和へいわ維持いじのためのハーグにおけるしょ制度せいど純粋じゅんすい選択せんたくてき性格せいかくからすれば、侵略しんりゃく戦争せんそう実定法じっていほう直接ちょくせつ違反いはんする行為こういとはみなされないかもしれ」ないとし、「侵略しんりゃく戦争せんそう不正ふせいではあるが違法いほうではないという地点ちてん逆戻ぎゃくもどりした[191]かんがあった。そして締約ていやくされたヴェルサイユ条約じょうやくにおいては「国際こくさい道義どうぎ条約じょうやくたいする最高さいこうつみおかした」としてまえドイツ皇帝こうていウィルヘルム2せい訴追そついするというだい227じょう反映はんえいされており[注釈ちゅうしゃく 14]だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつかかわる国際こくさい条約じょうやく時点じてん侵略しんりゃく戦争せんそう国際こくさい犯罪はんざいなそうとするうごき(前例ぜんれい)があったことがられている[192]。なおウィルヘルム2せい自身じしんはオランダに亡命ぼうめい裁判さいばんおこなわれなかったものの、一部いちぶものについては裁判さいばん処罰しょばつおこなわれている。

多数たすう意見いけんである極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん判決はんけつしょにおいては、「この条約じょうやく批准ひじゅん先立さきだって、締約ていやくこくのあるものは、自衛じえいのために戦争せんそうおこな権利けんり留保りゅうほし、この権利けんりのうちには、ある事態じたいがそのような行動こうどう必要ひつようとするかどうかを、みずから判断はんだんする権利けんりふくむと宣言せんげんした。国際こくさいほうにせよ、国内こくないほうにせよ、武力ぶりょくうったえることをきんじているほうは、かなら自衛じえいけんによって制限せいげんされている。自衛じえいけんのうちには、いまにも攻撃こうげきけようとしているくにが、武力ぶりょくうったえることが正常せいじょうであるかどうかを、だいいちてきには自分じぶん判断はんだんするという権利けんりふくんでいる。ケロッグ・ブリアン条約じょうやく(パリ不戦ふせん条約じょうやく)をもっと寛大かんだい解釈かいしゃくしても、自衛じえいけんは、戦争せんそううったえる国家こっかたいして、その行動こうどう正当せいとうかどうかを最後さいごてき決定けっていする権限けんげんあたえるものではない。みぎべた以外いがいのどのような解釈かいしゃくも、この条約じょうやく無効むこうにするものである。ほん裁判所さいばんしょは、この条約じょうやく締結ていけつするにあたって、諸国しょこく空虚くうきょ芝居しばいをするつもりであったとはしんじない」[193] とし、弁護べんごがわ主張しゅちょう却下きゃっかしている。

事後じごほう観点かんてん

編集へんしゅう

ラダ・ビノード・パール判事はんじ意見いけんしょのように、だい世界せかい大戦たいせん戦後せんご処理しょり構想こうそうされたさい、アメリカが1944ねん昭和しょうわ19ねんあきから翌年よくねん8がつまでの短期間たんきかん国際こくさいほう整備せいびしたことから、国際こくさい軍事ぐんじ裁判所さいばんしょ憲章けんしょう以前いぜんには存在そんざいしなかった「人道じんどうたいするつみ」と「平和へいわたいするつみ」の2つのあたらしい犯罪はんざい規定きていについては事後じごほうであるとの批判ひはん[194]刑罰けいばつ遡及そきゅう原則げんそくほう遡及そきゅう原則げんそく)にはんするとの批判ひはんがある[195]。また、戦後せんご処罰しょばつ政策せいさく実務じつむになったマレイ・バーネイズ大佐たいさは、開戦かいせん国際こくさいほうじょう犯罪はんざいではないことを認識にんしきしていたし、のちだい34だい大統領だいとうりょうになるドワイト・D・アイゼンハワー元帥げんすいも、これまでにないあたらしい法律ほうりつをつくっている自覚じかくがあったため、こうした事後じごほうとしての批判ひはんがあることは承知しょうちしていたとみられている[196]

しかし、フランスや日本にっぽんといった大陸たいりくほうけいかんがえでは、行為こうい成文せいぶんとして存在そんざいしない法律ほうりつ根拠こんきょ処罰しょばつされれば事後じごほう該当がいとうするが、アメリカやイギリスといったえいべいほうかんがえでは、行為こうい成文法せいぶんほうでとして禁止きんしされていない行為こういであってもコモン・ローうえ犯罪はんざいとして刑罰けいばつすことが可能かのうであり、それは事後じごほうには該当がいとうしない。まず、慣習かんしゅうほう実定法じっていほうひとつであり、これについては、世界せかいてき慣習かんしゅうほうでの処罰しょばつながらくおこなわれ、現在げんざいでもまだ実際じっさい存在そんざいすることもあってか、法学ほうがくしゃあいだにもあまり異論いろんない。さらにえいべいほうかんがえでは、過去かこ判決はんけつ集積しゅうせきなどからみちびされたほう原理げんりによる判決はんけつであれば、かならずしも具体ぐたいてき判例はんれいがある必要ひつようはなく、それは事後じごほうはんしないとするかんがかたがなされる。その一般いっぱんてきほう原理げんりによるとする認定にんていただしいかどうかは、えいべいほうでは手続てつづきの適正てきせいさによって保障ほしょうされるとする。だい世界せかい大戦たいせん以前いぜんにはすでに平和へいわ破壊はかいする行為こうい違法いほうであることが、おも慣習かんしゅうほうとして、もしくはヴェルサイユ条約じょうやくパリ不戦ふせん条約じょうやくなど一部いちぶ条約じょうやくにおいてすで確認かくにんされていたという意見いけんがある[197][198]東京とうきょう裁判さいばんでは、あくまで補足ほそくてき根拠こんきょとしてだが実体じったいてき根拠こんきょについては、パリ不戦ふせん条約じょうやく存在そんざい事後じごほうではない根拠こんきょとしている。日本にっぽんにおいても、軍律ぐんりつ死刑しけいなどもありながらあくまで行政ぎょうせい処分しょぶんいちしゅというかんがえで、遡及そきゅう適用てきようがありうるとされていたようである [199]東京とうきょう裁判さいばん法廷ほうてい形式けいしきをとってはいるが、議会ぎかいとうさだめた軍法ぐんぽうによらず、行政府ぎょうせいふさだめた軍律ぐんりつによる軍律ぐんりつ会議かいぎであり、行政ぎょうせい処分しょぶんである。また、当時とうじ敗戦はいせんまでの一時期いちじき存在そんざいしたナチス法理ほうりろんでは事後じごほうかならずしも否定ひていされておらず、東京とうきょう裁判さいばん参加さんかこくひとつであるソ連それん社会しゃかい主義しゅぎ法理ほうりろんにおいても同様どうようである[200]

作為さくい責任せきにん

編集へんしゅう

通例つうれい戦争せんそう犯罪はんざいとの関連かんれん指摘してきされている問題もんだいてんは、部下ぶか戦争せんそう犯罪はんざいかんするぐん指揮しきかんの「不作為ふさくい責任せきにん」という概念がいねんである[201]ぐん指揮しきかん上官じょうかん)の部下ぶかたいする監督かんとく義務ぎむ違反いはんばっせいは「上官じょうかん責任せきにん (Command Responsibility)」という概念がいねんとして形成けいせいされ、いくつかのBCきゅう戦犯せんぱん裁判さいばんにおいておおきな争点そうてんとなっており、東京とうきょう裁判さいばんにおいても重要じゅうよう意義いぎゆうしていた[201]

だい世界せかい大戦たいせん当時とうじ国際こくさい慣習かんしゅうほうでは、指揮しき命令めいれいをしたものだけを問題もんだいにし、作為さくいはん責任せきにんわせるまでにはいたっていなかった[201]国家こっか戦争せんそう遂行すいこうするなかおかされる犯罪はんざいは、実際じっさい犯罪はんざい実行じっこうするもの末端まったん兵士へいしであるとしても組織そしき問題もんだいであって、組織そしき上層じょうそう責任せきにんわれるのは当然とうぜんである。しかしこれがみとめられ国際こくさい条約じょうやくとして作為さくいによる戦争せんそう犯罪はんざい刑事けいじ処分しょぶんむねさだめたのは「戦争せんそう犯罪はんざいおよ人道じんどうはんするつみについての時効じこう適用てきようかんする1968ねん条約じょうやく」のことであった[202]とされる。

証拠しょうこ規則きそく

編集へんしゅう

ジョン・ダワーは「この裁判さいばん公正こうせいであったかどうかについての意見いけん相違そういは、軍事ぐんじ法廷ほうてい手続てつづきとしてなにを適切てきせつかんがえるかという前提ぜんていちがいにあらわれる。陸軍りくぐん長官ちょうかんスティムソンでさえ、一般いっぱん法廷ほうていでふつうにある、さらには軍法ぐんぽう会議かいぎにもあるような、訴訟そしょう手続てつづじょう規則きそく保証ほしょうもなしにこのような裁判さいばんおこなわれるとは想像そうぞうだにしなかった。軍事ぐんじ法廷ほうてい、あるいは軍事ぐんじ委員いいんかい手法しゅほう採用さいようされたのは、そうすることで、検察けんさつがわにほかの状況じょうきょうではゆるされない手続てつづじょう裁量さいりょうが、とくに証拠しょうこ証拠しょうこ能力のうりょく有無うむ裁量さいりょう可能かのうになるからである」とし、連合れんごうこく被告人ひこくにん主張しゅちょう正当せいとうすることを妨害ぼうがいするために、証拠しょうこかんして制限せいげんくわえたと指摘してきし、「勝者しょうしゃによってゆるめられた証拠しょうこ規則きそくが、裁判さいばん恣意しいせい公正こうせいはいりこむ余地よちあたえた」ことはあきらかであると批判ひはんした[203]

極東きょくとう国際こくさい裁判所さいばんしょ条例じょうれい13じょうに「本裁ほんだちばんにおいて証明しょうめいりょくあるとみとめむるいかなる証拠しょうこをも受理じゅりする」とあり、えいべいほう証拠しょうこ規則きそくほど厳格げんかくではなかった[204]。その一方いっぽうで、手続てつづきはえいべいほうかんがえによるとしたものの、一身いっしん安全あんぜんはかりたい被告人ひこくにん治安ちあん維持いじ目的もくてき達成たっせいしたい原告げんこくじんのゲームととらえられるめんもあるえいべいほう手続てつづきにたいして、東京とうきょう裁判さいばん侵略しんりゃく戦争せんそうちゅう不法ふほう行為こうい実態じったいあきらかにするという目的もくてきゆうしていたため、証明しょうめいりょく信憑しんぴょうせいがあるかという観点かんてんからある程度ていどえられるのは当然とうぜんというかんがかたもある。

協議きょうぎ経過けいか

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ベルナール判事はんじは、裁判さいばん「すべての判事はんじあつまって協議きょうぎしたことはいちもない」[205]東京とうきょう裁判さいばん問題もんだいてん指摘してきした。

オランダからのベルト・レーリンク判事はんじ当初とうしょ判事はんじわらない日本にっぽんがわでよくわれる「戦勝せんしょうこくとしての判事はんじ」としてのかんがかたっていたとされるが、大陸たいりくほうけいかんがえがつよかれえいべいほうけい裁判官さいばんかんかんがえがことなっており、パール判事はんじ反対はんたい意見いけんくというかんがえに影響えいきょうけ、自身じしん反対はんたい意見いけんとして表明ひょうめいすることにしたといわれる[206](ただし、かれ自身じしん判決はんけつちゅうかんがえはパール判事はんじかんがえとはまったことなる)。「多数たすう判事はんじたちによる判決はんけつはどんなひとにも想像そうぞうできないくらいひど内容ないようであり、わたしはそこに自分じぶんつらねることに嫌悪けんおねんいた」とニュルンベルク裁判さいばん判決はんけつ東京とうきょう裁判さいばん強引ごういんてはめようとする多数たすう判事はんじたちを批判ひはんする内容ないよう手紙てがみを1948ねん7がつ6にち友人ゆうじん外交がいこうかんおくっている[207]。ただし、レーリンク自身じしんのち東京とうきょう裁判さいばん当時とうじ国際こくさいほうかんしてはまだ素人しろうと同然どうぜんだった事実じじつみとめたうえで、当時とうじユトレヒト大学だいがくでオランダりょうひがしインドの刑法けいほうについておしえていたので、アジアのこと多少たしょうっているだろう、といった理由りゆうだけでえらばれた、と述懐じゅっかいしている。

「Aきゅう戦犯せんぱん

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Aきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎしゃとして逮捕たいほされたが、長期ちょうき勾留こうりゅう起訴きそとなったきし信介しんすけ笹川ささかわ良一りょういちらについても、有罪ゆうざい判決はんけつけていないにもかかわらず、日本にっぽん国内こくないのメディアや言論げんろんじんのみならず欧米おうべいにさえ今日きょういたるまで「Aきゅう戦犯せんぱん」とあやまって、もしくは意図いとてきれいすくなからず見受みうけられる[208]。こうした用語ようごほうは、連合れんごうこく国民こくみんのみならず日本にっぽん国民こくみんにおいてさえ、この裁判さいばんをめぐる議論ぎろんにおいて、「はじめに有罪ゆうざいありき」の前提ぜんていかんがえるひとすくなくないことをしめしており、東京とうきょう裁判さいばん肯定こうていろん、ひいては裁判さいばんそのものにたいする不信ふしんかん醸成じょうせいしている。

この判決はんけつについて、東條とうじょう木村きむらをはじめ、南京なんきん事件じけんおさえることができなかったとして訴因そいん55で有罪ゆうざい死刑しけいとなった広田ひろた松井まついりょう被告人ひこくにんふくめ、東京とうきょう裁判さいばん死刑しけい宣告せんこくされた7被告人ひこくにん全員ぜんいんBCきゅう戦争せんそう犯罪はんざいでも有罪ゆうざいとなっていたのが特徴とくちょうであった。これは「平和へいわたいするつみ」が事後じごほうであって罪刑法定ざいけいほうてい主義しゅぎ原則げんそく逸脱いつだつするのではないかとする批判ひはん配慮はいりょするものであるとともに、BCきゅう戦争せんそう犯罪はんざい重視じゅうしした結果けっかであるとの指摘してきがある[209]。とくに松井まつい訴因そいん55(通常つうじょう戦争せんそう犯罪はんざい・BCきゅう)で、また武藤むとう訴因そいん54と55で有罪ゆうざい宣告せんこくされており、「Aきゅう戦犯せんぱん」としても起訴きそされたものの「BCきゅう戦犯せんぱん」としてのみ有罪ゆうざいとなったものである。

実際じっさいには、有罪ゆうざい無罪むざい死刑しけいにするかどうかはそれぞれ多数決たすうけつめられており[175]裁判さいばん多数たすうをしめるえいべいほうけい裁判官さいばんかんほう感覚かんかく結果けっかおおきく影響えいきょうしている。えいべいほうでは保護ほご責任せきにんしゃ作為さくいによる故意こいてき致死ちしは、当時とうじ日本にっぽんにおける謀殺ぼうさつとともに"murder"の類型るいけいぞくし、この当時とうじえいおよえいりょう植民しょくみんほとんどで死刑しけい判決はんけつまぬかれないつみであった。木村きむら勿論もちろん東条とうじょう(死刑しけい反対はんたいが4ひょうあり、あと2ひょう死刑しけいまぬかれた)も事実じじつじょう泰緬鉄道たいめんてつどうでの捕虜ほりょ多数たすう管理かんり責任せきにんわれ、広田ひろた南京なんきん事件じけんでの虐殺ぎゃくさつ制止せいしうごかなかったことが過半数かはんすう死刑しけい支持しじつながったとかんがえられる。判決はんけつまえ報道陣ほうどうじんあいだ捕虜ほりょ殺害さつがいなどにかかわってなければ死刑しけいにならないらしいという観測かんそくて、日本にっぽん感覚かんかく木村きむら広田ひろた死刑しけいにならないといううわさひろがった[210]ことがぎゃくにこのてん裏付うらづけている。

死刑しけいあつかいについて

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死刑しけい多数決たすうけつによってまった。11にん裁判官さいばんかんうち、インドのパールは事後じごほう禁止きんし国家こっか行為こういであることなどを理由りゆうにしつつも多分たぶんにその専門せんもんとしていたヒンズーほう哲学てつがく思想しそう価値かちかんから[211]比較的ひかくてきはやくから全員ぜんいん無罪むざいろんをとり、判決はんけつぶんきに専念せんねんしていたとされる。

ソ連それんはもともと社会しゃかい主義しゅぎしゃなか死刑しけい廃止はいしといった理想りそうろんがあったが、過酷かこくはん革命かくめい内戦ないせんしょ外国がいこくからの干渉かんしょう戦争せんそうにより、死刑しけいおこなわれていた。戦争せんそう終結しゅうけつによりスターリンは平和へいわ共産きょうさん主義しゅぎ理想りそう表向おもてむきアピールするために死刑しけい廃止はいし、ザリヤノフは自国じこく死刑しけい廃止はいししたことを理由りゆう被告人ひこくにん死刑しけい適用てきようしないこととした。オーストラリアのウェッブは本来ほんらい殺人さつじんへの死刑しけい適用てきよう苛烈かれつなイギリスけいくにであるが、かれ自身じしん最大さいだい責任せきにんしゃである可能かのうせいがあるとかんがえる天皇てんのう訴追そついされていないこと、ナチスの行為こういにくらべればかるくそれとの比較ひかくから、これで被告人ひこくにん死刑しけいするのはバランスをしっするとして被告人ひこくにんらに死刑しけい適用てきようしないこととした。AP通信つうしんのホワイト特派とくはいんがアメリカからの情報じょうほうとして、ウェッブが死刑しけい適用てきようしない理由りゆうとして自国じこく死刑しけい適用てきようしていないことをほうじている[212]が、これはホワイト特派とくはいんかその情報じょうほう提供ていきょうしゃのいずれかがソ連それんはなし混同こんどうしたものだとおもわれる(このころ、オーストラリアではいずれのしゅう連邦れんぽうでも死刑しけい廃止はいしされておらず、各州かくしゅう廃止はいしされしたのはイギリスにややおくれて1960年代ねんだい後半こうはん死刑しけい廃止はいし運動うんどう以降いこうである)。

また、ウェッブの判決はんけつしょでも死刑しけいさない理由りゆうとして天皇てんのう起訴きそとの関係かんけいしかかれていない(ただし、報道陣ほうどうじんには判決はんけつにナチスとくらべれば悪質あくしつせいがまだひくいのでをつける必要ひつようせいについてもかたっている)。この3にん絶対ぜったい死刑しけいろんしゃとして、オランダのレーリンク、フランスのベルナールが日本にっぽんおな大陸たいりくほうくにほう感覚かんかく共通きょうつうすること、また、両国りょうこくとも戦後せんご植民しょくみん回復かいふく目指めざしており、その帝国ていこく主義しゅぎてき国民こくみん感情かんじょう意識いしきはいむことがけられなかったのか、日本にっぽんがわ比較的ひかくてき理解りかいしめしている。

東京とうきょう裁判さいばん取材しゅざいする報道陣ほうどうじんあいだでは、判決はんけつちかづくにつれ、関係かんけいしゃ取材しゅざいから情報じょうほうか、虐殺ぎゃくさつなどにかかわっていなければ死刑しけいはないだろうとの観測かんそくていた。結果けっかると、この観測かんそく自体じたいたっていたのだが、日本にっぽんえいべいほう殺人さつじん概念がいねんちがいがあり、報道陣ほうどうじんおおくの理解りかいはんし、木村きむら広田ひろた死刑しけいとなった。また、きわどいとられていた嶋田しまだは、太平洋たいへいようでの虐殺ぎゃくさつたしてぐん中枢ちゅうすう指示しじがあったものか証明しょうめいむずかしく事実じじつ認定にんてい問題もんだい虐殺ぎゃくさつ責任せきにんまぬかれた[175]

日本にっぽんでの評価ひょうか

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左派さは勢力せいりょく[だれ?]からは、本裁ほんだちばん結果けっか否定ひていすることは「戦後せんご日本にっぽんがきずきあげてきた国際こくさいてき地位ちいや、多大ただい犠牲ぎせいうえった『平和へいわ主義しゅぎ』を破壊はかいするもの」、「戦争せんそうちゅう日本にっぽん国民こくみんらされていなかった日本にっぽんぐん行動こうどう作戦さくせん全体ぜんたい確認かくにんすることができ、戦争せんそう指導しどうしゃ説明せつめい責任せきにんわせることができた」[126] として東京とうきょう裁判さいばん肯定こうてい(もしくは一部いちぶ肯定こうてい)する意見いけんもある。

また、もし日本人にっぽんじん自身じしんおこなわれていたら、もっとおおくの人間にんげん訴追そついされて死刑しけいになったとする見解けんかいもある(ただし、東条とうじょう英機ひでき被告人ひこくにん国内こくないほう国際こくさいほう違反いはんしたわけではないと主張しゅちょうする見解けんかいもある)[213]日本にっぽんにおけるマスコミの論調ろんちょう国民こくみんあいだでは、占領せんりょうふくめてかなりまで「むしろ受容じゅようされた形跡けいせきおおい」という[214]宮台みやのだい真司しんじはこの裁判さいばんを、昭和しょうわ天皇てんのう日本にっぽん国民こくみんだい部分ぶぶんからつみのぞいて戦後せんご復興ふっこうけた国際こくさい協力きょうりょく可能かのうにするために、もっぱらAきゅう戦犯せんぱんわるかったという「虚構きょこう」をてるものだったと位置いちづけ、Aきゅう戦犯せんぱんだけがわるかったわけではないにせよ、虚構きょこう図式ずしき踏襲とうしゅうするべきだと主張しゅちょうした[215]

東京とうきょう裁判さいばん史観しかん

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東京とうきょう裁判さいばん史観しかんとは、東京とうきょう裁判さいばん判決はんけつをもとにした歴史れきし認識にんしきのことで、まんしゅう事変じへんからいわゆる「太平洋戦争たいへいようせんそう」にいたる日本にっぽん行動こうどうを「一部いちぶ軍国ぐんこく主義しゅぎしゃ」による「共同きょうどう謀議ぼうぎ」にもとづいた侵略しんりゃくとするてん特色とくしょくとする[216]。この史観しかん連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれい民間みんかん情報じょうほう教育きょういくきょくにより昭和しょうわ20ねんまつから新聞しんぶん各紙かくし連載れんさいされた「太平洋戰爭たいへいようせんそう」によって一般いっぱん普及ふきゅうした[216]。この史観しかんは、「勝者しょうしゃさばき」に由来ゆらいするしつけられた歴史れきし認識にんしきとして保守ほしゅから批判ひはんがあり、また昭和しょうわ天皇てんのうや731部隊ぶたい戦争せんそう責任せきにん免責めんせきされたため進歩しんぽからも問題もんだいてん指摘してきされている[216]

はたいくによれば、1970年代ねんだいに「東京とうきょう裁判さいばん史観しかん」という造語ぞうご論壇ろんだん流通りゅうつうはじめた[217]東京とうきょう裁判さいばん否定ひていろんしゃは、東京とうきょう裁判さいばん認定にんていした「日本にっぽん対外たいがい行動こうどう侵略しんりゃく」という歴史れきしかんと、それに由来ゆらいする「自虐じぎゃく史観しかん」に反発はんぱつ矛先ほこさきけているという[218]はた渡部わたなべ昇一しょういち英語えいごがく)、西尾にしおみき(ドイツ文学ぶんがく)、江藤えとうあつし小堀こぼり桂一郎けいいちろう国文学こくぶんがく)、藤原ふじわら正彦まさひこ数学すうがく)、田母神たもかみ俊雄としお自衛隊じえいたい幹部かんぶ)といった歴史れきしがく以外いがい分野ぶんや専門せんもんや、専門せんもん論客ろんかくがこうした主張しゅちょう主力しゅりょくめ、「歴史れきし専門せんもん」はすくないと指摘してきしている[219]

これらの論者ろんしゃがあげる裁判さいばんそのものへの批判ひはんとしては以下いかのような主張しゅちょうがある。

  • 審理しんりでは日本にっぽんがわから提出ていしゅつされた3せんけんえる弁護べんご資料しりょう当時とうじ日本にっぽん政府せいふ軍部ぐんぶ外務省がいむしょう公式こうしき声明せいめいとうふくだいいち資料しりょう)がほぼ却下きゃっかされたのにもかかわらず、検察けんさつ資料しりょう伝聞でんぶんのものでも採用さいようするという不透明ふとうめいてんがあった(東京とうきょう裁判さいばん資料しりょう刊行かんこうかい)。戦勝せんしょうこくであるイギリスじん著作ちょさくである『むらさき禁城きんじょう黄昏たそがれ』すら却下きゃっかされた[220]
  • 判決はんけつぶんには、証明しょうめいりょくがない、関連かんれんせいがないなどを理由りゆうとして「とく弁護べんごがわによって提出ていしゅつされたものは、だい部分ぶぶん却下きゃっかされた」とあり、裁判所さいばんしょ自身じしんこれへの認識にんしきがあった。[221]

また江藤えとうあつしによればGHQは占領せんりょう日本にっぽんにおいてプレスコードなどをはっして徹底てっていした検閲けんえつ言論げんろん統制とうせいおこない、連合れんごうこく占領せんりょう政策せいさくたいする批判ひはんはもとより東京とうきょう裁判さいばんたいする批判ひはんふうじた。裁判さいばん問題もんだいてん指摘してき批評ひひょう排除はいじょされるとともに、ぎゃくにこれらの報道ほうどう被告人ひこくにんおかしたといわれるつみについて大々的だいだいてき取上とりあ繰返くりかえ宣伝せんでんおこなわれた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)とも主張しゅちょうしている[222]。ただし、GHQからメディアにたい宣伝せんでんするようにとの具体ぐたいてき圧力あつりょくがあったとのはなしはとくにかれない。また、占領せんりょう一般いっぱんにGHQ批判ひはんゆるされなかったのは事実じじつだが、裁判さいばん自体じたいは、路上ろじょうであればとてもことゆるされないようなことを被告人ひこくにんがわ堂々どうどう主張しゅちょうしているとひょうされる状態じょうたいであった[175]

はた裁判さいばん否定ひていろんしゃが「このんでとりあげる論点ろんてん」として以下いかれいげている[223]

  1. 侵略しんりゃく残虐ざんぎゃく行為こういも「おたがいさま」なのに「勝者しょうしゃさばき」だったゆえに敗者はいしゃれいだけがクローズアップされたと強調きょうちょうする。
  2. パール判決はんけつしょ」を「日本にっぽん無罪むざいろん」として礼賛らいさんする。
  3. 講和こうわ条約じょうやく11じょう受諾じゅだくしたのは「裁判さいばん」ではなく「判決はんけつ」とやくすべきだったと強調きょうちょうする。
  4. てき所産しょさん歴史れきしかん批判ひはん対象たいしょうとする。

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
映画えいが
テレビ
戯曲ぎきょく
  • かみひととのあいだ』(木下きのした順二じゅんじ 1972 講談社こうだんしゃ
  • ゆめ』 (井上いのうえひさし 2001ねん) - 『ゆめなみだ』『ゆめかさぶた」とわせて東京とうきょう裁判さいばんさんさくばれる
  • ゆめなみだ』(井上いのうえひさし 2003ねん
  • ゆめかさぶた』(井上いのうえひさし 2006ねん

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 極東きょくとう英語えいご: Far East)とはヨーロッパアメリカおよ経度けいどからて、もっと東方とうほう地政学ちせいがくあるいは国際こくさい政治せいじがくうえ地理ちり区分くぶん
  2. ^ a b 天長節てんちょうせつげん天皇誕生日てんのうたんじょうび)。
  3. ^ まましみや明仁あきひと親王しんのうげん明仁あきひと上皇じょうこう)の誕生たんじょう
  4. ^ 松井まついいしはAきゅうとしては無罪むざい、Bきゅうとして死刑しけい
  5. ^ 1901ねん連邦れんぽう成立せいりつ実質じっしつてきには独立どくりつしている
  6. ^ 1926ねん独自どくじ外交がいこうけん取得しゅとく
  7. ^ 裁判さいばん開始かいし時点じてんではイギリスりょうインド帝国ていこくであったが裁判さいばんちゅうの1947ねんインド連邦れんぽうとして事実じじつじょう独立どくりつ
  8. ^ 裁判さいばん開始かいし時点じてんではアメリカりょうフィリピン独立どくりつ準備じゅんび政府せいふであるフィリピン・コモンウェルス裁判さいばんちゅうの1946ねん7がつ4にち独立どくりつし、だいさん共和きょうわこく政府せいふとなっている。
  9. ^ 英語えいご原文げんぶんの「accepts the judgments」を前者ぜんしゃは「しょ判決はんけつ受諾じゅだくする」、後者こうしゃは「裁判さいばん受諾じゅだくする」とやくしたことによる意見いけん相違そういおもわれる。
  10. ^ 重要じゅうようなことはそのジャッジメントというものの中身なかみでございまして、これは実際じっさい裁判さいばん結論けつろんにおきまして、ウェッブ裁判さいばんちょうほうからこのジャッジメントをげる、このジャッジ、まさにそのジャッジメントをれたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容ないようとなる文書ぶんしょ、これは、従来じゅうらいからもうげておりますとおり、裁判所さいばんしょ設立せつりつ、あるいは審理しんり、あるいはその根拠こんきょ管轄かんかつけん問題もんだい、あるいはその様々さまざまなこの訴因そいんのもとになります事実じじつ認識にんしき、それから起訴きそじょう訴因そいんについての認定にんてい、それから判定はんてい、いわゆるバーディクトと英語えいごいますけれども、あるいはそのけい宣告せんこくでありますセンテンス、そのすべてがふくまれているというふうにかんがえております。」 平成へいせい17ねん6がつ2にち参院さんいん外交がいこう防衛ぼうえい委員いいんかい政府せいふ参考さんこうじんはやしけいいち外務省がいむしょう条約じょうやく局長きょくちょう答弁とうべん[1]
  11. ^ 朝鮮ちょうせん戦争せんそう原爆げんばく台湾たいわん国民党こくみんとう投入とうにゅうするよう主張しゅちょうした[153]、マッカーサー解任かいにんたいする公聴こうちょうかい
  12. ^ 原文げんぶんは「They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.」、[155]マッカーサーべい議会ぎかい証言しょうげんろく - ウェイバックマシン(2007ねん9がつ30にちアーカイブぶん)(webばん正論せいろん
  13. ^ ぐんまもぼうもり地域ちいきぐんする建物たてものや、交通こうつうもうへのばくげきみとめられている[176]民間みんかんじんへの規定きていがされたのは、1977ねんのジュネーブ条約じょうやく だいいち追加ついか議定ぎていしょ51じょう[177]。これにはアメリカをはじめ24ヵ国かこく締約ていやくしておらず[178]枢軸すうじくこく差別さべつばくげき空戦くうせん法規ほうき違反いはん起訴きそされていない。
  14. ^ アメリカおよび日本にっぽん現職げんしょく国家こっか元首げんしゅ国際こくさい法廷ほうてい裁判さいばんにかけることに終始しゅうし一貫いっかんして否定ひていてきであり、日本にっぽんは「ぜんどくみかど処分しょぶん問題もんだいたいする日本にっぽん覚書おぼえがき」を講和こうわ会議かいぎ提出ていしゅつし、元首げんしゅ交戦こうせん法規ほうき違反いはんたいする刑事けいじ責任せきにん容認ようにんすることに留保りゅうほ表明ひょうめいしていた。一方いっぽう退位たいいぜん皇帝こうてい個人こじん法廷ほうてい召喚しょうかんして審問しんもんするてんについては同意どういした。この経緯けいいとしてヴェルサイユ条約じょうやくには「まえ」ドイツ皇帝こうてい明確めいかく記述きじゅつされることとなる。くわしくはパリ講和こうわ会議かいぎ#戦争せんそう責任せきにん問題もんだい

出典しゅってん

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  10. ^ 日本にっぽん外務省がいむしょうわけ [2] では「裁判さいばん
  11. ^ とい7.極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばんたいして、日本にっぽん政府せいふはどのようにかんがえていますか。
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  24. ^ a b c d e f g h 城山しろやまえい国民こくみん政府せいふたいにち戦犯せんぱんリスト」と蒋介石しょうかいせき意向いこう -天皇てんのう訴追そつい回避かいひ米国べいこく影響えいきょうかんする研究けんきゅう-」『ソシオサイエンス』だい20かん早稲田大学わせだだいがく大学院だいがくいん社会しゃかい科学かがく研究けんきゅう、2014ねん、50-66ぺーじCRID 1050282677465737088hdl:2065/44230ISSN 1345-8116NAID 120005482191 
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参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
史料しりょう
裁判さいばん資料しりょう
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  • うめなんじ璈『东京だい审判—远东こく际军ごとほうにわ中国ちゅうごく法官ほうかんうめなんじ璈日记』江西えにし教育きょういく出版しゅっぱんしゃ 2005ねん
    • 東京とうきょう裁判さいばんまでのじゅうにち 極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん中国ちゅうごく判事はんじ日記にっき吉田よしだ慶子けいこやく銀河ぎんが書籍しょせき、2022ねん)、ISBN 9784866452500
  • 東京とうきょう裁判さいばん資料しりょう刊行かんこうかい東京とうきょう裁判さいばん却下きゃっか提出ていしゅつ弁護べんごがわ資料しりょう国書刊行会こくしょかんこうかい、1995ねん
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  • 極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん審理しんり要録ようろく 東京とうきょう裁判さいばん英文えいぶん公判こうはん記録きろくようやく』、はら書房しょぼう明治めいじひゃくねん叢書そうしょ」、2013ねん刊行かんこうちゅう
    国士舘大学こくしかんだいがく法学部ほうがくぶ比較ひかく法制ほうせい研究所けんきゅうじょ篠原しのはら敏雄としおほか)監修かんしゅう松元まつもとただしとしへん監訳かんやく山本やまもと昌弘まさひろ松元まつもとただしとしようやく
研究けんきゅう文献ぶんけん

外部がいぶリンク

編集へんしゅう