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玉砕 - Wikipedia

玉砕ぎょくさい

名誉めいよまもっていさぎよぬこと

玉砕ぎょくさい(ぎょくさい、きゅう字体じたい玉碎ぎょくさい)は、たまのようにうつくしくくだること、指導しどうそう提唱ていしょうする大義たいぎ名誉めいよなどにじゅんじていさぎよぬこと[1]だい東亜とうあ戦争せんそう前線ぜんせん日本にっぽんぐん部隊ぶたい殲滅せんめつ[注釈ちゅうしゃく 1]されたことを表現ひょうげんする言葉ことばとして大本営だいほんえい発表はっぴょうもちいられた。対義語たいぎごは、瓦全がぜん(がぜん)、甎全(せんぜん)で、無為むいながらえること[2]中国ちゅうごく古書こしょきたひとししょ』の「もとけいやすでんちゅう記述きじゅつ大丈夫だいじょうぶやすし玉砕ぎょくさいなんのう瓦全がぜん勇士ゆうしかわらとして無事ぶじびるより、むしろだまとなってくだけたほうい)」を語源ごげんとする。

玉砕ぎょくさい」、「瓦全がぜん」という言葉ことばは、とうだい編纂へんさんされたあずまたかし(534~550ねん)からきたひとし(550~577ねん)にかけての歴史れきししるした正史せいしきたひとししょ』の列伝れつでんだいさんじゅうさんもとけいやす)にえる[3][4]同書どうしょによれば、故事こじ以下いかのとおりである。

もとけいあきらもとけいやすは、きたたかし帝室ていしつもとくいとこ同士どうしであった(「けい」がやからぎょう)。きたたかしほろび、こうひろし即位そくいしてきたひとしてると、「もと一族いちぞくおおくは虐殺ぎゃくさつされた。しかし、いちはや帰順きじゅんし、武功ぶこうてたけいやすは、きたひとし帝室ていしつおなじ「こうせいたまわってきたひとしつかえることをゆるされた。「もと一族いちぞくは、けいやすのように「こうせいたまわってながらえたいものだとはなった。けいあきらった。「あにとく棄本むね、逐他せい大丈夫だいじょうぶやすし玉砕ぎょくさい不能ふのう瓦全がぜん」(どうして本来ほんらい宗族そうぞくて、べつせいもとめることができようか。立派りっぱ男子だんしは、たまくだけるように名誉めいよ尊厳そんげん保持ほじしたままぬべきであり、名誉めいよ尊厳そんげんうしなってかわらのようなつまらないものとして一生いっしょうまっとうすることはできない。)と。けいやすがこの言葉ことばあらわこうひろし)に報告ほうこくしたところ、けいあきらはたちまちらえられてころされ、家族かぞく彭城移住いじゅうさせられた。けいやすだけが「こうせいたまわったのはこのためである。

大丈夫だいじょうぶやすし玉砕ぎょくさい不能ふのう瓦全がぜん。」は、「大丈夫だいじょうぶはむしろ玉砕ぎょくさいすべきも、瓦全がぜんするあたはず。」とくだす。「大丈夫だいじょうぶ」は「立派りっぱ男子だんし」という意味いみであり[5]、「やすし」は比較ひかく選択せんたく意味いみ助字じょじである[6]立派りっぱ男子だんしは「瓦全がぜん」するわけにはいかず、むしろ「玉砕ぎょくさい」すべきであるという意味いみになる。

西郷さいごう隆盛たかもりはこの故事こじまえてつぎいた。

いくれき辛酸しんさんこころざしはじめけんいくたびか辛酸しんさんこころざしはじめてかたし)
丈夫じょうふ玉砕ぎょくさいはじ甎全(丈夫じょうぶ玉砕ぎょくさいすとも甎全をはじず)

また、1886ねん明治めいじ19ねん発表はっぴょう軍歌ぐんかてきいくまん」(山田やまだ美妙びみょうとき作詞さくし小山こやま作之助さくのすけ作曲さっきょく)には以下いか歌詞かしがある。

やぶれて逃ぐるはくにはじ すすみてぬるはのほまれ
かわらとなりてのこるより たまとなりつつくだけよや
たたみうえにてこと武士ぶしのなすべきみちならず

だい東亜とうあ戦争せんそう

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背景はいけい

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玉砕ぎょくさい発生はっせいについて、しばしば「戦陣せんじんくん」とばれる1941ねん1がつ8にち陸軍りくぐん大臣だいじん東條とうじょう英機ひでき示達じたつによる訓令くんれいりくさとしいちごう)のなかにある一節いっせつきて虜囚りょしゅうはずかしめけず」という言葉ことばとの関係かんけいがよく指摘してきされるが、本来ほんらいこの「戦陣せんじんくん」は精神せいしん訓話くんわであった。

ところが実際じっさいには、昭和しょうわはいったころから、捕虜ほりょとなるくらいであれば戦死せんしないし自決じけつせねばならないような感覚かんかくつよまっていたともいわれる[7]本来ほんらい将兵しょうへい上官じょうかんいのちそむいて勝手かって自身じしん判断はんだん降伏ごうぶく撤退てったいをすることは出来できず、やむをえない場合ばあいであっても権限けんげん上官じょうかん許可きょかなくこれらをおこなうときは自己じこ責任せきにんおこなそとない。敵前てきぜん勝手かってにこれらをおこなえば最高さいこうけい死刑しけいとなるこういのちざいわれる可能かのうせいがあった[8]日本にっぽんぐんではそれまで敗戦はいせん経験けいけんがあまりないため、いったんいくさとなると、上官じょうかんらの面子めんつ国民こくみんへの敗戦はいせん隠蔽いんぺいのために自決じけつ玉砕ぎょくさいいられためんいなめない[9]すでに1939ねんのノモンハン事件じけんでは、前線ぜんせん撤退てったいした部隊ぶたい将校しょうこうおおくが、その自決じけつ強要きょうようされたとされている[10][9]。また、ソ連それんぐんらえられのち日本にっぽんがわ返還へんかんされた捕虜ほりょも、いくさ隠蔽いんぺいのために、将校しょうこうらは自決じけついられ、下士官かしかん兵卒へいそつらはなんらかの処分しょぶんけてなかには日本にっぽんもどされず、以降いこう消息しょうそくかれなくなったものおおかったとされる[7][11]。このころは、まだ「戦陣せんじんくん」はされていない。

しかし、むしろこのような雰囲気ふんいきであったからこそ、のちされた「戦陣せんじんくん」の一節いっせつが、将兵しょうへい投降とうこうせずに玉砕ぎょくさい自決じけついられることや、うごけない傷病しょうびょうへい殺害さつがい始末しまつすることの正当せいとう使つかわれ、これらを一般いっぱんさせることにつながったともわれる[12]。サイパンや沖縄おきなわせんにおける民間みんかんじん住民じゅうみん集団しゅうだん自決じけつ発生はっせいもこの戦陣せんじんくん背景はいけいになったともわれている[12]

玉砕ぎょくさい」のはじまり

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だい東亜とうあ戦争せんそう当時とうじ日本にっぽんで「玉砕ぎょくさい」の表現ひょうげんはじめて公式こうしき発表はっぴょう使つかわれたのは1943ねんアッツとう玉砕ぎょくさいである。

しかし、軍隊ぐんたいないでの文章ぶんしょうなどではアッツとう玉砕ぎょくさい以前いぜんより「玉砕ぎょくさい」の使用しようれいられる。たとえば、1942ねん昭和しょうわ17ねん2がつだいいちバターン半島はんとうたたかでは、木村きむら部隊ぶたいから師団しだん司令しれいへ「だいいち大隊だいたい玉砕ぎょくさいセントス」との電文でんぶんおくられている[13]。また、公刊こうかんせん史上しじょうは、1942ねん昭和しょうわ17ねん12月8にちニューギニア戦線せんせんゴナにおけるバサブア守備しゅびたい玉砕ぎょくさい記録きろくつづ連合れんごうぐん攻勢こうせいにより、1943ねん昭和しょうわ18ねん1がつ2にちにはおなじニューギニア戦線せんせんブナの陸海りくかいぐん守備しゅびたい玉砕ぎょくさいしたが、これらが国民こくみんらされたのは1944ねん昭和しょうわ19ねん2がつ以降いこうであった。

1943ねん昭和しょうわ18ねん5月29にちアッツとう日本にっぽんぐん守備しゅびたい全滅ぜんめつした。このとき、そのやく1週間しゅうかんまえの5がつ23にち上級じょうきゅう北方ほっぽうぐん司令しれいかん樋口ひぐち中将ちゅうじょうは、アッツとう守備しゅびたいに「最後さいごいたりらはいさぎよ玉砕ぎょくさい皇国こうこく軍人ぐんじん精神せいしん精華せいか発揮はっきするの覚悟かくごあらんことをのぞむ」との電文でんぶんおくって「玉砕ぎょくさい」を要請ようせい、その結果けっか守備しゅびたい負傷ふしょうへいらを始末しまつしたうえてき突撃とつげき、そのほとんどが戦死せんしないし自決じけつした[14]。「アッツとう玉砕ぎょくさい」では守備しゅびたい2,650めいのうち、わずか29めい捕虜ほりょになっただけである。そのときの大本営だいほんえい発表はっぴょう以下いかとおり:

大本営だいほんえい発表はっぴょう。アッツとう守備しゅび部隊ぶたいは5月12にち以来いらいきわめて困難こんなんなる状況じょうきょう寡兵かへいよく優勢ゆうせいなるてきへいたい血戦けっせん継続けいぞくちゅうのところ、5月29にちよるてき主力しゅりょく部隊ぶたいたい最後さいご鉄槌てっついくだ皇軍こうぐん神髄しんずい発揮はっきせんとけっし、全力ぜんりょくげて壮烈そうれつなる攻撃こうげき敢行かんこうせり。爾後じご通信つうしんまった途絶とぜつ全員ぜんいん玉砕ぎょくさいせるものとみとめむ。傷病しょうびょうしゃにして攻撃こうげき参加さんかざるものは、これ先立さきだことごと自決じけつせり。

大本営だいほんえい発表はっぴょうとしてはじめて「玉砕ぎょくさい」の表現ひょうげん使用しようされた[15]。これは「全滅ぜんめつ」という言葉ことば国民こくみんあたえる動揺どうようすこしでもかるくして「たまごとくにきよくだった」と印象いんしょうけようと意図いとしたものであった。また補給ほきゅうみちたれて守備しゅびたいへの効果こうかてき援軍えんぐん補給ほきゅうができないまま、結果けっかてきに「見殺みごろし」にしてしまったぐん上層じょうそうへの責任せきにんろん回避かいひさせるものであった(防衛ぼうえいしょうのこる「北海ほっかい守備しゅびたい作戦さくせん経過けいか報告ほうこくしょ」には、守備しゅびたい歩兵ほへい1500にん増援ぞうえん武器ぶき弾薬だんやく食糧しょくりょうとう補給ほきゅう要請ようせいしていたことが記録きろくされているが、大本営だいほんえいは、守備しゅび隊長たいちょうは「いちへい増援ぞうえん要求ようきゅうせず、一発いっぱつ弾薬だんやく補給ほきゅうをもねがわなかった」と発表はっぴょうしている[15]。)。このとき美化びかして大々的だいだいてき国民こくみん発表はっぴょうされたことが、その南方なんぽう戦線せんせんたたかいに成算せいさんがなくなれば、最後さいご部隊ぶたいは「玉砕ぎょくさい」することがいられるながれを決定けっていづけたともされる[16]

玉砕ぎょくさい発表はっぴょうされたたたか

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総員そういん壮烈そうれつなる戦死せんし発表はっぴょうされたたたか

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本土ほんど決戦けっせんいちおく玉砕ぎょくさい

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戦局せんきょく絶望ぜつぼうてきとなると、軍部ぐんぶは「本土ほんど決戦けっせん」を主張しゅちょうし、「いちおく玉砕ぎょくさい」や「いちおくそう特攻とっこう」、「神州しんしゅう不滅ふめつ」などをスローガンとした[17]。なおすで1941ねん昭和しょうわ16ねん)から「すすいちおくたま」とのスローガンが使用しようされていた[18]が、これらの「いちおく」とは、当時とうじ日本にっぽん植民しょくみんであったまんしゅう朝鮮半島ちょうせんはんとう台湾たいわんうち南洋なんようなどの日本にっぽん本土ほんど以外いがい地域ちいき居住きょじゅうしゃ(その大半たいはん朝鮮ちょうせんじん台湾たいわんじん)をふく数字すうじであり、日本にっぽん本土ほんど人口じんこうは7000まんにんほどであった。

1944ねん昭和しょうわ19ねん)6がつ24にち大本営だいほんえい陸軍りくぐん戦争せんそう指導しどうはん機密きみつ戦争せんそう日誌にっし以下いか記載きさいをした。

もはや希望きぼうある戦争せんそう政策せいさく遂行すいこうない。のこるはいちおく玉砕ぎょくさいによるてき戦意せんい放棄ほうきつのみ — 半藤はんどう一利かずとし聖断せいだん ―昭和しょうわ天皇てんのう鈴木すずき貫太郎かんたろう―」PHP研究所けんきゅうじょ p269

1944ねん昭和しょうわ19ねん)9がつ岡田おかだ啓介けいすけは「いちおく玉砕ぎょくさいして国体こくたいまも決心けっしん覚悟かくご国民こくみん士気しき高揚こうようし、結束けっそくかたくする以外いがい方法ほうほうがない」と主張しゅちょうした[19]。1945ねん昭和しょうわ20ねん)1がつ24にち近衛このえ文麿ふみまろは「昨今さっこん戦局せんきょく危急ききゅうぐるとともいちおく玉砕ぎょくさいさけこえ次第しだいいきおいくわえつつありとそんこう。かかる主張しゅちょうをなすもの所謂いわゆる右翼うよくしゃりゅうなるも背後はいごよりこれ煽動せんどうしつつあるは、これによりて国内こくない混乱こんらんおとしいつい革命かくめい目的もくてきたっせんとする共産きょうさん分子ぶんしなりとにらこう」と昭和しょうわ天皇てんのう警告けいこくした(近衛このえ上奏じょうそうぶん参照さんしょう)。同年どうねん4がつ戦艦せんかん大和やまと沖縄おきなわ出撃しゅつげきは、ぐんない最後さいご通告つうこくに「いちおく玉砕ぎょくさいニサキガケテ立派りっぱンデモライタシ」(いちおく玉砕ぎょくさい先駆さきがけて立派りっぱんでもらいたい)との表現ひょうげん使用しようされ[20]、「海上かいじょう特攻とっこう」または「水上すいじょう特攻とっこう」ともばれた。

玉砕ぎょくさい類似るいじする事例じれい

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玉砕ぎょくさいをテーマにした作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 軍事ぐんじ用語ようごにおいて、全滅ぜんめつとは、部隊ぶたいやく3わり戦闘せんとうへいやく6わり)を喪失そうしつしたことを、壊滅かいめつとは、部隊ぶたいやく5わり戦闘せんとうへいのほぼすべて)を喪失そうしつしたことを、殲滅せんめつとは、部隊ぶたいの10わりぜん部隊ぶたい消滅しょうめつ)を喪失そうしつしたことを意味いみする。

出典しゅってん

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  1. ^ 玉砕ぎょくさいたま”. コトバンク. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2019ねん5がつ25にち閲覧えつらん
  2. ^ 瓦全がぜん”. コトバンク. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2019ねん5がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ きたひとししょ/まき41”. 维基ぶん. 2020ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  4. ^ らんりょうおう登場とうじょうする中国ちゅうごく歴史れきししょきたひとししょ」、はつ日本語にほんごやく - 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん”. 日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ. 2023ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  5. ^ 大丈夫だいじょうぶ”. コトバンク. 2020ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  6. ^ やすし”. 漢字かんじペディア. 公益こうえき財団ざいだん法人ほうじん日本漢字能力検定協会にほんかんじのうりょくけんていきょうかい. 2020ねん7がつ4にち閲覧えつらん
  7. ^ a b 現場げんば指揮しきかん自決じけつ強要きょうよう! はじめての「敗北はいぼく」で露呈ろていしたぐん幹部かんぶの「将器しょうき」と無責任むせきにん。(学術がくじゅつ文庫ぶんこ選書せんしょメチエ編集へんしゅう”. 講談社こうだんしゃ. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  8. ^ だい東亜とうあ戦争せんそう日本にっぽん陸軍りくぐんにおける犯罪はんざいおよ非行ひこうかんするいち考察こうさつ”. 防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  9. ^ a b 現場げんば指揮しきかん自決じけつ強要きょうよう! はじめての「敗北はいぼく」で露呈ろていしたぐん幹部かんぶの「将器しょうき」と無責任むせきにん。(学術がくじゅつ文庫ぶんこ選書せんしょメチエ編集へんしゅう”. 講談社こうだんしゃ. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  10. ^ かくされた中佐ちゅうさ自決じけつ ノモンハン事件じけん精神せいしん主義しゅぎ」の象徴しょうちょう”. 朝日新聞社あさひしんぶんしゃ. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  11. ^ 『きき ある憲兵けんぺい記録きろく朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1991ねん2がつ20日はつか、149-150ぺーじ 
  12. ^ a b 戰陣せんじんくんよん)|戦争せんそう|NHKアーカイブス”. NHK. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  13. ^ 陸戦りくせん研究けんきゅう普及ふきゅうかいへん) 『ルソン島るそんとう進攻しんこう作戦さくせんだい世界せかい大戦たいせんはら書房しょぼう陸戦りくせんしゅう〉、1969ねん昭和しょうわ44ねん)、101ぺーじ
  14. ^ 検証けんしょう戦争せんそう責任せきにん”. 読売新聞よみうりしんぶん. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  15. ^ a b 美化びかされた玉砕ぎょくさい軍神ぐんしん」|戦争せんそう|NHKアーカイブス”. NHK. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  16. ^ 日本にっぽんちゅう衝撃しょうげき 山本やまもと五十六いそろく長官ちょうかんとアッツとう玉砕ぎょくさい”|NHK戦争せんそうつたえるミュージアム 太平洋戦争たいへいようせんそうをわかりやすく|NHK戦争せんそう証言しょうげんアーカイブス”. NHK. 2023ねん11月11にち閲覧えつらん
  17. ^ 「47都道府県とどうふけん日本にっぽん陸海りくかいぐん人物じんぶつファイル」(だい東亜とうあ戦争せんそう研究けんきゅうかい、2009ねん、PHP研究所けんきゅうじょ)p290
  18. ^ 図解ずかい日本にっぽん」(西東さいとうしゃ編集へんしゅう、2009ねん)p267
  19. ^ 「「聖断せいだん虚構きょこう昭和しょうわ天皇てんのう」(纐纈こけつあつし、2006ねんしん日本にっぽん出版しゅっぱんしゃ)p82
  20. ^ いちさつほん」(扇谷おうぎや正造しょうぞう、1976ねん、PHP出版しゅっぱん)「戦艦せんかん大和やまと最後さいご」のあきら

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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