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グアムの戦い (1944年) - Wikipedia

グアムのたたかい (1944ねん)

1944ねんにアメリカぐんおこなったグアムとう攻略こうりゃくせん

1944ねんグアムのたたか(グアムのたたかい、Battle of Guam)は、だい世界せかい大戦たいせんにおけるマリアナ-パラオ戦役せんえきたたかいのひとつ。サイパンのたたか死傷ししょうしゃした。

グアムのたたか

アメリカ海兵かいへいたい投降とうこうした日本にっぽんへい
戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう
年月日ねんがっぴ1944ねん7がつ21にち - 8がつ10日とおか
場所ばしょマリアナ諸島しょとうグアムとう
結果けっか:アメリカの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大日本帝国の旗 大日本帝国だいにっぽんていこく アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
大日本帝国の旗 小畑おばたえいりょう  
大日本帝国の旗 高品たかしなぴょう  
アメリカ合衆国 レイモンド・スプルーアンス
アメリカ合衆国 ホーランド・スミス
アメリカ合衆国 ロイ・ガイガー
アメリカ合衆国 リッチモンド・K・ターナー
戦力せんりょく
22,554にん 2師団しだん、55,000にん
損害そんがい
死者ししゃ18,500にん
捕虜ほりょ1,250にん[1]
戦車せんしゃ28りょう[2]
アメリカ陸軍りくぐん・アメリカ海兵かいへいたい
死者ししゃ2,124にん[3]
負傷ふしょうしゃ5,676にん[1]
戦車せんしゃ42りょう[4]
アメリカ海軍かいぐん
死者ししゃ64にん[5]
負傷ふしょうしゃ233にん[6]
グアム島民とうみん
死者ししゃ700にん[7]
マリアナ・パラオ諸島しょとうたたか

グアムとうマリアナ諸島しょとうなかしまで、大戦たいせん開始かいしまえにはアメリカ統治とうちにあったが1941ねん12月10にち日本にっぽんぐん占領せんりょうした。

1943ねん2がつガダルカナルのたたか日本にっぽんぐんやぶり、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう日本にっぽん勢力せいりょくけん圧力あつりょくつよめるアメリカぐんめるため日本にっぽん1943ねん9月30にち最高さいこう戦争せんそう指導しどう会議かいぎ裁可さいかされた「今後こんごルヘキ戦争せんそう指導しどう大綱たいこう」に「確保かくほスヘキよういき」として絶対ぜったい国防こくぼうけんさだめたが、アメリカぐんは、ギルバート・マーシャル諸島しょとうたたか中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう日本にっぽん勢力せいりょくかくしまいし作戦さくせん攻略こうりゃくし、じりじりと日本にっぽん本土ほんどせまってきていた。そのため、サイパン・グアム・テニアンのマリアナ諸島しょとう絶対ぜったい国防こくぼうけん最前線さいぜんせんとして注目ちゅうもくされることとなり、日本にっぽんぐん戦力せんりょく増強ぞうきょういそいだ。

さい重要じゅうよう拠点きょてん戦前せんぜんから日本にっぽん委任いにん統治とうちりょうで、おおくの日本人にっぽんじんらし、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう管轄かんかつしていただい31ぐん司令しれいかれたサイパンとうであったが、グアムとうもそれに重要じゅうよう拠点きょてんとして戦力せんりょく強化きょうかはかられた(詳細しょうさい#日本にっぽんぐん戦略せんりゃく参照さんしょう)。

アメリカぐんにとってもマリアナ諸島しょとう開発かいはつすすんでいた戦略せんりゃく爆撃ばくげきB-29理想りそうてき基地きちになりること、また将来しょうらいてき台湾たいわん沖縄おきなわ攻略こうりゃくし、中国ちゅうごく大陸たいりく日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこうするため前進ぜんしん基地きちにもなることなどで戦略せんりゃくてき価値かちきわめてたか重点じゅうてん目標もくひょうとされていた。 太平洋たいへいよう方面ほうめんのアメリカぐんそう司令しれいかん太平洋艦隊たいへいようかんたい司令しれいチェスター・ニミッツは、マリアナ諸島しょとう攻略こうりゃくために、高速こうそく空母くうぼ艦隊かんたい中心ちゅうしんとしただい艦隊かんたいと、海兵かいへいたい主力しゅりょくとした水陸すいりく両用りょうよう軍団ぐんだんだい部隊ぶたい空前くうぜん規模きぼ遠征えんせいさせてきた。

日本にっぽんぐん再建さいけんした機動きどう部隊ぶたいだいいち機動きどう艦隊かんたい基地きち航空こうくうたいとう戦力せんりょく迎撃げいげきしたが、マリアナおき海戦かいせん敗北はいぼくにより、アメリカぐんのマリアナ諸島しょとうへの上陸じょうりく阻止そしすることができずに、サイパンにつづき、グアムとテニアンにもアメリカぐん上陸じょうりく守備しゅびたいとのあいだはげしい戦闘せんとうひろげられることとなった。

りょうぐん戦略せんりゃく

編集へんしゅう

日本にっぽんぐん戦略せんりゃく

編集へんしゅう
 
だい31ぐん司令しれいかん小畑おばたえいりょう中将ちゅうじょう

日本にっぽんぐん開戦かいせんあいだもなくグアムとう陸海りくかいぐん共同きょうどう作戦さくせん攻略こうりゃくした。攻略こうりゃくにグアムとう日本にっぽんめい大宮おおみやとうづけ、グアムとう攻略こうりゃく海軍かいぐん陸戦りくせんたい隊長たいちょうであったはやしひろし中佐ちゅうさ司令しれいとして、だい5根拠地こんきょちたい隷下れいかだい54警備けいびたい編成へんせいした。だい54警備けいびたいはアガナ(日本にっぽんめい 明石あかし司令しれい設置せっちし、グアムの防衛ぼうえい警備けいびになうこととなった。[8]

だが、昭和しょうわ18ねん後期こうきごろより中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめんでの戦局せんきょく緊迫きんぱくたびすにれて、グアムとうふくむマリアナ諸島しょとう絶対ぜったい国防こくぼうけん一角いっかくとして戦略せんりゃくてき価値かち増大ぞうだいし、グアムとう海軍かいぐん警備けいびたいだけでは戦力せんりょく不足ふそくであるため、マリアナ防衛ぼうえいせん重要じゅうよう拠点きょてんとして戦力せんりょく強化きょうかはかられることになった。[8]

昭和しょうわ19ねん1がつにグアムとう防衛ぼうえい強化きょうかために、まんしゅうだい29師団しだん高品たかしなぴょう師団しだんちょう)がグアムに派遣はけんされることとなり、3月にグアムに到着とうちゃくした[9]。しかしだい29師団しだん歩兵ほへいだい18連隊れんたい師団しだん直轄ちょっかつ部隊ぶたい一部いちぶ乗船じょうせんした輸送ゆそうせん崎戸さきとまるが、沖大東島おきだいとうじま南方なんぽう200kmでアメリカの潜水せんすいかんトラウト雷撃らいげき撃沈げきちんされた。[9]トラウトはその護衛ごえい駆逐くちくかんあさしも撃沈げきちんされた。歩兵ほへいだい18連隊れんたい連隊れんたいちょうふくむ1,657めいうみぼっ[10]壊滅かいめつ状態じょうたいおちいったため、一旦いったんサイパンとう上陸じょうりくし、さい編成へんせいにグアムに配置はいちされた。

そのも、独立どくりつ混成こんせいだい48旅団りょだん重松しげまつきよし旅団りょだんちょう)、独立どくりつ混成こんせいだい10連隊れんたい片岡かたおか一郎いちろう連隊れんたいちょう)、戦車せんしゃだい9連隊れんたいだい1、だい2中隊ちゅうたい、その野戦やせん高射こうしゃほう大隊だいたい海軍かいぐん部隊ぶたいなど順次じゅんじ増強ぞうきょうおこなわれた。[11] 独立どくりつ混成こんせいだい48旅団りょだん独立どくりつ混成こんせいだい10連隊れんたいだい29師団しだん同様どうよう関東軍かんとうぐんからの転用てんようであったが、いずれも精鋭せいえい師団しだんであるだい1師団しだんだい11師団しだんから抽出ちゅうしゅつされた部隊ぶたい編成へんせいされており、きたまん国境こっきょうとらりん孫呉そんご最前線さいぜんせん駐屯ちゅうとんしていたさい精鋭せいえい部隊ぶたいであった。[12]

日本にっぽんぐん戦略せんりゃくは、昭和しょうわ18ねん10がつ大本営だいほんえいよりたい上陸じょうりく戦闘せんとう指針ししんとされた「島嶼とうしょ守備しゅびたい戦闘せんとうきょうれい」にてしめされた「洋上ようじょう撃破げきは水際みずぎわ撃滅げきめつ」が根本こんぽん思想しそうであり、グアムの防衛ぼうえいもその根本こんぽん思想しそう沿って計画けいかくされた。[13]

だい31ぐん作戦さくせん方針ほうしんおもなものは以下いかとおりであった。[13]

  • 事前じぜんかんほう射撃しゃげき空爆くうばくたいしては配備はいび企画きかく秘匿ひとくつとめ、このあいだ守備しゅびたい陣地じんち兵力へいりょく温存おんぞん補修ほしゅうつとめる
  • 水際みずぎわだい一線いっせん陣地じんち海岸かいがん付近ふきん堅固けんご地形ちけい利用りよう陣地じんち構築こうちくし、てき上陸じょうりく部隊ぶたいたいしては、しゅ兵力へいりょく上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい指向しこうし、水中すいちゅう水際みずぎわ障害しょうがいぶつりくがんあいだ撃滅げきめつする
  • 砲兵ほうへい重火器じゅうかきは、水上すいじょう水際みずぎわでの火力かりょく発揚はつよう主眼しゅがんとして、そのしゅ火力かりょくをハガニアわん日本にっぽんめい 明石あかしわん)にける。だい口径こうけい海岸かいがん砲台ほうだい沖合おきあい輸送ゆそうせん大型おおがた上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい射撃しゃげきできるよう海岸かいがんだいじょう砲座ほうざ配置はいちする
  • 攻撃こうげき部隊ぶたい上陸じょうりくしてきたら、海岸かいがんせん背後はいご山地さんちたい構築こうちくした逆襲ぎゃくしゅう陣地じんち利用りようして、反撃はんげきてん水際みずぎわ撃滅げきめつはか
  • 戦車せんしゃ明石あかしわん方面ほうめんへの反撃はんげき戦力せんりょくとする
  • 陸軍りくぐん部隊ぶたいだい一線いっせん部隊ぶたいとし、海軍かいぐんしょ部隊ぶたい陸戦りくせんたいのぞく)は状況じょうきょうにより予備よびたいとして運用うんようする。

グアムとう海岸かいがん断崖だんがいおおく、だい部隊ぶたい上陸じょうりくできる海岸かいがんかぎられており、日本にっぽんぐんはアメリカぐん上陸じょうりく地点ちてんをアデラップみさき日本にっぽんぐん呼称こしょう 見晴みはるみさき以東いとうハガニアわん明石あかしわん)を中心ちゅうしんとしたアガットわん昭和しょうわわん正面しょうめん予想よそうして部隊ぶたい配置はいち陣地じんち構築こうちくおこなった。[13]

それで、だい31ぐん作戦さくせん方針ほうしん沿った陣地じんち構築こうちく要領ようりょうとして、だい29師団しだん司令しれいより以下いか徹底てっていされた。[14]

  • だいいち構築こうちくすべき野戦やせん陣地じんちてき上陸じょうりく企画きかく水際みずぎわ一挙いっきょてき撃滅げきめつできるようにし、一部いちぶ上陸じょうりくされたらただちに水面すいめんにて反撃はんげき殲滅せんめつできる編成へんせい
  • てきかんほう射撃しゃげき中核ちゅうかく陣地じんち破壊はかいされないような編成へんせい
  • 多数たすう予備よび陣地じんちおよにせ陣地じんち構築こうちくし、上空じょうくう海上かいじょうから遮蔽しゃへいする

以上いじょうように、「洋上ようじょう撃破げきは水際みずぎわ撃滅げきめつ」を基本きほんとした、作戦さくせん陣地じんち構築こうちくであったが、ソロモン諸島しょとうたたかギルバート・マーシャル諸島しょとうたたかせんくん検証けんしょうし、かんほう射撃しゃげき空爆くうばくたいする対策たいさく指示しじされている。 しかし、マリアナ諸島しょとうでのアメリカぐんかんほう射撃しゃげき空爆くうばくは、日本にっぽんぐん想定そうてい以上いじょう強化きょうかされていたため以前いぜんせんくんによる対策たいさくではまった不十分ふじゅうぶんであることを後日ごじつ痛感つうかんさせられることとなった。

陣地じんち構築こうちくは、資材しざいとくにセメント)の不足ふそくにより、なかなかすすまなかったが、自然しぜん洞窟どうくつ活用かつようして、全島ぜんとうで300箇所かしょ機関きかん銃座じゅうざ、セメントのわりに石灰岩せっかいがん木材もくざい使つかったほう掩体も70箇所かしょ完成かんせいさせた。また上陸じょうりく障害しょうがいぶつとして椰子やし鉄線てっせん金網かなあみ利用りようした障害しょうがいぶつや、対人たいじんよう障害しょうがいぶつ鹿砦ろくさいたい舟艇しゅうていようこばめなど700海岸かいがんせん設置せっちした。[13]

また、だい29師団しだん司令しれいはグアム進駐しんちゅう同時どうじ在留ざいりゅう邦人ほうじん内地ないち帰還きかん企画きかくし、邦人ほうじんらの意向いこう確認かくにんしたところ、アメリカ統治とうちより居住きょじゅうしていた邦人ほうじん以外いがい内地ないちへの帰還きかん希望きぼうしたため婦女子ふじょしから優先ゆうせんして、内地ないちきの輸送ゆそうせんに50めいずつ乗船じょうせんさせたが、2かいわったところでアメリカぐん潜水せんすいかん跳梁ちょうりょうにより送還そうかん不可能ふかのうとなり、150めいおとこ100めい おんな50めい)がグアムとうのこされ、戦闘せんとうまれることとなった。[15]

航空こうくう戦力せんりょく整備せいびについては、グアムにはアメリカ統治とうちちゅう飛行場ひこうじょうはなかったため占領せんりょう海軍かいぐんにより設営せつえい開始かいしされ、昭和しょうわ19ねん2がつにグアムだいいち飛行場ひこうじょう完成かんせいした。また、「あ」ごう作戦さくせんともなうマリアナでの航空こうくう戦力せんりょく増強ぞうきょうさく一環いっかんとして、だい2飛行場ひこうじょうもなく着工ちゃっこうされ4がつには完成かんせいしている。[16]さらだい4飛行場ひこうじょうまで計画けいかくされていたが完成かんせいしなかった。[17]

航空こうくう戦力せんりょく配備はいびすすみ、昭和しょうわ19ねん6がつには、61こうせん 263そら れいせん4 521そら 銀河ぎんが40 22こうせん 202そら れいせん8 755そら 一式いっしき陸上りくじょう攻撃こうげき12がグアムに配備はいびされた。[18]

サイパンとう上陸じょうりく先立さきだち、アメリカぐん機動きどう部隊ぶたい艦載かんさいが、マリアナかくしま航空こうくう基地きち爆撃ばくげき、グアムにも6がつ11にちべ139来襲らいしゅうし、521そら銀河ぎんがはトラックとうやフィリピンに分散ぶんさんされ14〜15しかのこっていなかったため、このでほぼぜん撃破げきはされた。一方いっぽう基地きち航空こうくうたい迎撃げいげきで7撃墜げきついするもれいせん4うしなった。[19]

のこった755そらりくこうたいも、機動きどう部隊ぶたいたいし3わたって出撃しゅつげき雷撃らいげき仕掛しかけるも戦果せんかなく壊滅かいめつれいせんも12にち空襲くうしゅうへの迎撃げいげきで14ちゅう13帰還きかんとなり、グアムの航空こうくう戦力せんりょくは、アメリカぐん上陸じょうりくたずに全滅ぜんめつした。[20]

やがてアメリカぐんサイパンとう上陸じょうりくしてきたが、そのさい中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう管轄かんかつしていただい31ぐん司令しれいかん小畑おばたえいりょう中将ちゅうじょうパラオ出張しゅっちょうちゅうで、サイパンとうかえることができず、やむなくグアムに上陸じょうりく指揮しきをとっていた。 サイパンとう玉砕ぎょくさいによりだい31ぐん司令しれい壊滅かいめつすると、だい31ぐん司令しれいはグアムでさい編成へんせいされ、サイパンで戦死せんしした井桁いげたたかし参謀さんぼうちょう後任こうにんとして、中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん艦隊かんたい参謀さんぼう副長ふくちょうとして海軍かいぐんとの調整ちょうせいやくたっていた田村たむらよしとみ少将しょうしょう任命にんめいされた。

そのグアムにたいする上陸じょうりく作戦さくせんがアメリカぐんしょ事情じじょう詳細しょうさい#アメリカぐん戦略せんりゃく参照さんしょう)により、サイパンとう上陸じょうりくから1ヶ月かげつ以上いじょうずれんだため、サイパンのたたか水際みずぎわ撃滅げきめつ海岸かいがんせん配置はいちしていた部隊ぶたい陣地じんちが、アメリカぐんはげしいかんほう射撃しゃげきおおきな損害そんがいこうむったことがグアム守備しゅびたいにもつたわり、日本にっぽんぐん海岸かいがん陣地じんちにせ陣地じんち多数たすう設置せっちしアメリカぐん欺瞞ぎまんすることや、歩兵ほへいほう爆撃ばくげきによる損害そんがいらすため、歩兵ほへい陣地じんちたてふか配置はいちとするなどの陣地じんち改良かいりょうおこなことができ、上陸じょうりく前日ぜんじつまでのほう爆撃ばくげきによる人的じんてき損害そんがいを100めい以下いかおさえることに成功せいこうしている。[21]

アメリカぐん戦略せんりゃく

編集へんしゅう
 
グアムとう立体りったい地図ちずながら作戦さくせん協議きょうぎをするロイ・ガイガー少将しょうしょうだい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたい司令しれい

アメリカぐんのグアム奪還だっかん作戦さくせんはマリアナ攻略こうりゃく作戦さくせん一環いっかんとして計画けいかくされ、「スチーブドア作戦さくせん」と名付なづけられていた。 当初とうしょ計画けいかくでは、レイモンド・スプルーアンス提督ていとくひきいる、マリアナ諸島しょとう攻略こうりゃく部隊ぶたい合計ごうけい600せき艦船かんせんと127,000めい上陸じょうりく部隊ぶたいは、6月15にちだい2海兵かいへい師団しだんだい4海兵かいへい師団しだん陸軍りくぐんだい27歩兵ほへい師団しだんでサイパンとう上陸じょうりく、そしてサイパンを攻略こうりゃくにテニアンとう転戦てんせんする。サイパンと並行へいこうしてだい1海兵かいへい師団しだんだい2海兵かいへい師団しだん一部いちぶが、6月18にちにグアムとう上陸じょうりくする計画けいかくであった。[22]

そのグアム攻略こうりゃくロイ・ガイガー少将しょうしょうひきいるだい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたい担当たんとうとなり、だい3海兵かいへい師団しだんがアデラップみさきとアグトア付近ふきん海岸かいがんに、まただい1臨時りんじ海兵かいへい旅団りょだんだい3軍団ぐんだん砲兵ほうへい部隊ぶたいがアガットまちとパンギみさきに、同時どうじしょからの上陸じょうりく作戦さくせんおこな計画けいかくてた。[23]

ながらくぐん駐屯ちゅうとんしていたわりには、グアムとう地形ちけいについて詳細しょうさい資料しりょうがアメリカ国内こくないになく、アメリカぐんはグアムに過去かこ駐在ちゅうざいしていた軍人ぐんじんやアメリカ勢力せいりょくにいた島民とうみんチャモロじん)から情報じょうほう収集しゅうしゅうおこなっている。また昭和しょうわ19ねん4がつまつからは飛行機ひこうき潜水艦せんすいかんによる写真しゃしん偵察ていさつ強化きょうかし、正確せいかく地図ちず石膏せっこうやゴムせい模型もけいまで作製さくせいし、作戦さくせん活用かつようしている。[23]

だい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたいはこれらの情報じょうほうもとづき、ガダルカナルとうのエスペランスみさきにて徹底てっていした上陸じょうりく訓練くんれんおこなった。その訓練くんれんでは、各種かくしゅ舟艇しゅうていによる海岸かいがんへの接近せっきんや、歩兵ほへい戦車せんしゃ共同きょうどう作戦さくせんなどの様々さまざま研究けんきゅうもなされ、アメリカぐん準備じゅんびまんはしでグアム上陸じょうりく作戦さくせんのぞむこととなった。[24]

前述ぜんじゅつとおり、当初とうしょ予定よていではサイパンとう上陸じょうりくの3にちの6がつ18にちがグアムとう上陸じょうりく予定よていであったが、だいいち機動きどう艦隊かんたい出撃しゅつげきったレイモンド・スプルーアンス提督ていとく日本にっぽん艦隊かんたい迎撃げいげきため上陸じょうりく予定よてい一旦いったん延期えんきした。マリアナおき海戦かいせんにより日本にっぽん艦隊かんたい脅威きょういくなったが、つぎはサイパンとう戦況せんきょうにより、予備よび師団しだんであった陸軍りくぐんだい27歩兵ほへい師団しだんをサイパンに投入とうにゅうせざるをなくなり、わりにだい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたい予備よび兵力へいりょくまわしたことにより、再度さいど上陸じょうりく予定よてい延期えんきになった。

サイパンの戦況せんきょういた6がつ29にちに、アメリカぐん南方なんぽう攻撃こうげき部隊ぶたい司令しれい指揮しきかん幕僚ばくりょうがサイパンにあつまり、グアムの状況じょうきょうについて検証けんしょうした結果けっか偵察ていさつ写真しゃしん捕虜ほりょ尋問じんもんとうにより、グアムがサイパンよりは強固きょうこ防御ぼうぎょされているものと判断はんだんした。さらにサイパンでのアメリカぐん死傷ししょうしゃ最終さいしゅうてきに14,111めいとなったが、これは上陸じょうりくしたぜん兵力へいりょくの20%にものぼり、タラワのたたか匹敵ひってきする死傷ししょうりつとなってしまった。日本にっぽんぐん頑強がんきょう抵抗ていこうとその持続じぞくりょく認識にんしきさせられた司令しれいは、兵力へいりょく増強ぞうきょう不可欠ふかけつという結論けつろんたっし、そこで海兵かいへいたいくわえて、マリアナ攻略こうりゃく作戦さくせん予備よび兵力へいりょくとしてハワイに待機たいきしていた陸軍りくぐんだい77歩兵ほへい師団しだんを、グアムせん予備よび戦力せんりょくとして補強ほきょうし、そのうちいち連隊れんたい戦闘せんとうだんを、海兵かいへいたいとも上陸じょうりく作戦さくせん参加さんかさせることとし、上陸じょうりく戦力せんりょく増強ぞうきょうはかっている。[25]そのうえでスプルーアンス提督ていとくは7がつ21にち上陸じょうりくとすることに決定けっていした。[26]

 
アメリカぐん上陸じょうりく地点ちてんとその最前線さいぜんせん推移すいい

戦闘せんとう経過けいか

編集へんしゅう

マリアナおき海戦かいせん勝利しょうりによりせいそら制海権せいかいけん確保かくほしていたアメリカぐんは、上陸じょうりく先立さきだってグアムとう徹底てっていしたかんほう射撃しゃげき空爆くうばくくわえた。上陸じょうりく支援しえんする艦船かんせん合計ごうけいで274せきかぞえ、[27]7がつ8にちから20にちまでにまれたかんほうは16インチほう836はつ、14インチほう5,422はつ、8インチほう3,862はつ、6インチほう2,430はつ、5インチほう16,214はつ合計ごうけい28,764はつたっした。[28]また、空爆くうばく参加さんかした空母くうぼ合計ごうけい13せき空爆くうばくは7がつ18にちから上陸じょうりく前日ぜんじつ20日はつかまでべ4,283により1,310トンのばくだん投下とうかされている。[29]

 
グアムとうかんほう射撃しゃげきくわえる戦艦せんかんペンシルベニア

このはげしいほうばくげきで、海岸かいがんのヤシのすべけただれ、見渡みわたかぎりの建物たてものすべ破壊はかいされた。[27]サイパンからの情報じょうほうかし、相応そうおうほうばくげき対策たいさくおこなっていたが、上陸じょうりく援護えんごのアメリカぐんほうばくげきは、日本にっぽんぐん想定そうていはるかにえており、サイパン同様どうよう海岸かいがんせん構築こうちくされた陣地じんちおおくが破壊はかいされ、後方こうほうつくられた露天ろてん砲台ほうだい破壊はかいされた。しかし密林みつりんない洞窟どうくつ陣地じんちないおおくのトーチカ、海岸かいがんより4km以上いじょうはなれた場所ばしょ設置せっちされた野砲やほう破壊はかいのがれることができ、反撃はんげきおおきな戦力せんりょくとなった。[30]

アメリカぐんは、これだけのほうばくげきくわえたにもかかわらず日本にっぽんぐん反撃はんげきできる能力のうりょくのこっていることおどろ[28]

  • 50cmのあつさを永久えいきゅうトーチカはかんほう直撃ちょくげき半壊はんかいできるが、至近しきんだんでは破壊はかいできない。
  • 1mのあつさを永久えいきゅうトーチカはかんほうでは破壊はかいできない。
  • たにやジャングルない目標もくひょう距離きょりが5,000ヤードをえるとかんほう効果こうか低下ていかする

など分析ぶんせきし、グアムせんでは90ふんであった上陸じょうりくまえ支援しえん射撃しゃげきを、沖縄おきなわせんさいは4あいだ延長えんちょうして、効力こうりょく不足ふそくおぎなうように対策たいさくしている。[31]

アメリカぐんは、支援しえん部隊ぶたいほう爆撃ばくげきしているあいだ日本にっぽんぐん苦心くしんしてつくげた上陸じょうりく障害しょうがいぶつ工兵こうへい次々つぎつぎ爆破ばくはしてった。爆破ばくはして除去じょきょした障害しょうがいぶつ合計ごうけいで940にものぼった。[32]

アサン海岸かいがん朝井あさい海岸かいがん)への上陸じょうりく

編集へんしゅう
 
上陸じょうりくの8ふん星条旗せいじょうきてる海兵かいへいたい

7がつ21にち7に、はげしいかんほう射撃しゃげき空爆くうばく支援しえんされた上陸じょうりく部隊ぶたい海岸かいがん殺到さっとうした。だい3海兵かいへい師団しだん上陸じょうりく目指めざしたアデラップみさきとアサンみさきはさまれた全長ぜんちょう2kmほどのアサン海岸かいがんには、独立どくりつ混成こんせいだい48旅団りょだんだい1大隊だいたい守備しゅび担当たんとうしており、上陸じょうりく部隊ぶたい海岸かいがん接近せっきんすると山砲さんぽう速射そくしゃほう砲撃ほうげきくわえた、またフォンテヒル(日本にっぽんぐん呼称こしょう 本田ほんだだい)に配備はいびされていただい10連隊れんたい砲兵ほうへい大隊だいたい砲撃ほうげき開始かいしし、LVTすうじゅうりょう撃破げきはしたが、かんほう射撃しゃげき空爆くうばくによるはげしい集中しゅうちゅう砲火ほうかび、次第しだい砲兵ほうへい陣地じんち沈黙ちんもくしていった。その上陸じょうりくしてきたアメリカぐんたいし、だい48旅団りょだんだい1大隊だいたい中村なかむらだい隊長たいちょうみずか手榴弾しゅりゅうだんにして白兵戦はくへいせん展開てんかいするも、圧倒的あっとうてき火力かりょくのアメリカぐん相手あいて死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつした。[29]また、中村なかむら大隊だいたい配属はいぞくされていた旅団りょだん工兵こうへいたいも、隊長たいちょう三宅みやけ大尉たいいみずか爆薬ばくやくいて戦車せんしゃ体当たいあたり攻撃こうげきをかけ、下士官かしかん戦車せんしゃいて、ハッチから手榴弾しゅりゅうだんもうとするなど、[33]隊員たいいん全員ぜんいんはげしい肉弾にくだん攻撃こうげきおこな文字通もじどお全滅ぜんめつしている。[34]

アサン海岸かいがん上陸じょうりく作戦さくせんについては日本にっぽんぐんはげしい抵抗ていこうだい3海兵かいへい師団しだんもかなりの苦戦くせんいられており、砂浜すなはまおおくの死傷ししょうしゃしている。片足かたあし重傷じゅうしょういながら分隊ぶんたい指揮しきし、負傷ふしょうした分隊ぶんたい兵士へいしらといちばんあいだみずからでったたこつぼごう日本にっぽんぐん攻撃こうげきえて生還せいかんしたルーサー・スキャッグス・ジュニア英語えいごばん上等じょうとうへいはアメリカぐん最高さいこう勲章くんしょうであるメダル・オブ・オナーっている[35](グアムせんでメダル・オブ・オナーを受賞じゅしょうしたのは4めい)。

上陸じょうりく作戦さくせんだい3海兵かいへい水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたいは47りょうLVT日本にっぽんぐん攻撃こうげき撃破げきはされ、3りょう機雷きらい撃破げきはされている。また、上陸じょうりく初日しょにちにアメリカぐんは1,047めい死傷ししょうしゃしたが、そのうち102めいLVT乗組のりくみいんであった。[35]

だい3海兵かいへい師団しだんは、海岸かいがんせん日本にっぽんぐん抵抗ていこう排除はいじょしながら内陸ないりくすすんだが、砂浜すなはまからわずか200mはなれた、パラソルだい砲台ほうだいさん、チョニト断崖だんがい日向台ひゅうがだい駿河台するがだいといったおおくの洞窟どうくつ存在そんざいする標高ひょうこう200m程度ていど小高こだか山地さんち地帯ちたい進撃しんげき停止ていしした。[36]日本にっぽんぐんはここに無数むすう後方こうほうたてふか陣地じんち構築こうちくし、アメリカぐんかまえていた。

だい18連隊れんたいだい3大隊だいたいこうおかだい隊長たいちょう)は海岸かいがんせん戦闘せんとう大半たいはん戦力せんりょくうしなっていたが、掌握しょうあくしていたいち中隊ちゅうたいじゅう機関きかんじゅう迫撃はくげきほう日向ひなただいじょう布陣ふじんし、匍匐ほふく前進ぜんしんすすんできたアメリカへい山上さんじょうから集中しゅうちゅう射撃しゃげきくわえている。日本にっぽんぐんからは真下ました見下みおろすような位置いち関係かんけいであったため、射撃しゃげき非常ひじょう正確せいかくであり、アメリカへいはまともに反撃はんげきもできずバタバタと斃され、おおくの死傷ししょうしゃ放置ほうちしたまま、かんほう射撃しゃげき支援しえんけながら撤退てったいしていった。[37]

アメリカぐんたてふか陣地じんち攻略こうりゃく手間取てまどり、日本にっぽんぐん頑強がんきょう抵抗ていこうにより一進一退いっしんいったい攻防こうぼうつづいた。日本にっぽんぐんたてふか陣地じんちより出撃しゅつげきし、海兵かいへいたいはげしい夜襲やしゅうかえした。21にちから22にちにかけてだい48旅団りょだんの2大隊だいたい独立どくりつ混成こんせいだい10連隊れんたいの2大隊だいたいがアメリカぐん橋頭堡きょうとうほたい夜襲やしゅうをしかけ、一部いちぶはアメリカぐん陣地じんち突破とっぱしたが、アメリカぐん強力きょうりょく火力かりょくまえ死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつし、橋頭堡きょうとうほ撃滅げきめつにはいたらないまま壊滅かいめつ状態じょうたいおちいっている。アメリカぐん夜襲やしゅう対策たいさく強化きょうかされているため、防御ぼうぎょ敵陣てきじん突撃とつげきすることはいたずらに損害そんがいやすだけの結果けっかとなったが、[34]この教訓きょうくんのち島嶼とうしょ防衛ぼうえいかされることとなった。

一方いっぽうちゅうたてふか陣地じんち防衛ぼうえいする立場たちばとなった日本にっぽんぐんは、パラソルだい師団しだん直轄ちょっかつ歩兵ほへいだい38連隊れんたいだい9中隊ちゅうたい石井いしい中隊ちゅうたいちょう)がたくみな作戦さくせん指揮しきで21にち以降いこうなんもアメリカぐん撃退げきたいしていた。石井いしい中隊ちゅうたいちょう部隊ぶたいのように陣地じんちよりの出撃しゅつげきしないように部下ぶか徹底てっていし、アメリカぐん目前もくぜん近付ちかづくと効果こうかてき正確せいかく射撃しゃげき手榴弾しゅりゅうだん投擲とうてきくわえた。中隊ちゅうたい30めい戦死せんしたいして、アメリカぐん300めい以上いじょう損害そんがいあたえていた。[38]

夜襲やしゅう失敗しっぱいだい損害そんがいこうむっていた独立どくりつ混成こんせいだい10連隊れんたい残存ざんそん兵力へいりょくも、パラソルだい本田ほんだだい陣取じんどり、防衛ぼうえいせん小規模しょうきぼ挺身ていしんみをおこない、アメリカぐん足止あしどめした。この地域ちいきでのアメリカぐん損害そんがいおおきく、バンドシューさん日本にっぽんぐん呼称こしょう パラソルだい)を攻撃こうげきしていたアメリカだい3海兵かいへい連隊れんたいは21にちと22にちの2にちで615めいうしない、連隊れんたいちょう師団しだんちょうに「手元てもとに160めい戦力せんりょくしかのこっていない」と報告ほうこくしている。[39]

アガットわん昭和しょうわわん)への上陸じょうりく

編集へんしゅう
 
いまもグアムの海底かいていしずんでいるアメリカぐんLVT

アガットわんにはだい1臨時りんじ海兵かいへい旅団りょだんの2海兵かいへい連隊れんたい砲兵ほうへいたい接近せっきんしてきた。このまもるのはだい38連隊れんたいだい1大隊だいたいやく1,000めいであったが、アサンわんでの上陸じょうりく作戦さくせん同様どうように、上陸じょうりく支援しえんはげしいかんほう射撃しゃげき空爆くうばくくわえられた。それでもだい1大隊だいたい海岸かいがん目指めざしてきた300せき上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい山砲さんぽう速射そくしゃほう砲撃ほうげき集中しゅうちゅうじゅうすうせき上陸じょうりくよう舟艇しゅうてい撃破げきはした。

しかし、沖合おきあい3,000mの至近しきん距離きょり配置はいちされていた戦艦せんかん2せき巡洋艦じゅんようかん3せき主軸しゅじくとする支援しえん部隊ぶたいが、砲撃ほうげきした日本にっぽんぐん砲兵ほうへい陣地じんち場所ばしょし、正確せいかくかんほう射撃しゃげきくわえてきた。戦艦せんかんきょだんたい歩兵ほへい野砲やほう無力むりょくであり、大隊だいたい砲兵ほうへいはたちまちのうち沈黙ちんもくした。そのにアメリカぐん戦車せんしゃ支援しえんした上陸じょうりくし、大原おおはら大隊だいたいちょうひきいるだい1中隊ちゅうたい攻撃こうげきをしかけてきたが、大原おおはら大隊だいたいちょう軍刀ぐんとう片手かたて陣頭じんとう指揮しきするも戦死せんしした。その大隊だいたい壊滅かいめつ状態じょうたいおちいり、北方ほっぽうまもだい2大隊だいたい残存ざんそん兵力へいりょく合流ごうりゅうした。

同日どうじつには、海岸かいがんせんだい1大隊だいたい壊滅かいめつさせたアメリカぐんは、オロテ半島はんとうとアプラ方面ほうめん守備しゅびしていただい2大隊だいたいにもせまり、だい2大隊だいたい一部いちぶ速射そくしゃほう山砲さんぽうによりアメリカぐん撃退げきたいしたが、損害そんがい甚大じんだい夕刻ゆうこくまでには主要しゅよう火器かきはほとんど破壊はかいされ、死傷ししょうりつは80%にもたっした。[40]

 
負傷ふしょうして輸血ゆけつされるアメリカぐん海兵かいへい隊員たいいん

だい損害そんがいこうむっただい29師団しだんだい38連隊れんたい連隊れんたいちょう末長すえなが大佐たいさは、もはや防衛ぼうえいせんによる上陸じょうりく阻止そし困難こんなんであると判断はんだんし、残存ざんそん戦力せんりょくによる夜襲やしゅう決心けっしんした。夜襲やしゅうだい38連隊れんたい残存ざんそん兵力へいりょく結集けっしゅうしておこなうこととしたが、(ただしだい2大隊だいたい連絡れんらくもう遮断しゃだんされ、連絡れんらくれなかったため不参加ふさんかただしこの夜襲やしゅう末長すえなが連隊れんたいちょう独断どくだん作戦さくせんであり、直属ちょくぞくだい29師団しだんはじ上層じょうそうにはなん相談そうだんもなされていなかった。[41]連隊れんたいちょうそう攻撃こうげき決定けっていだい29師団しだん司令しれい連絡れんらくしたが、高品たかしな師団しだんちょうからは、残存ざんそん戦力せんりょくすみやかに結集けっしゅううえ背後はいご天上山てんじょうさんたてふか陣地じんち撤退てったい持久じきゅうせんおこない、師団しだん主力しゅりょく支援しえんおこなうようにと攻撃こうげき中止ちゅうしするように指示しじがあったが、末長すえなが連隊れんたいちょうは「すで戦術せんじゅつ戦力せんりょくもない。これ以上いじょうきるのも無駄むだであろう、自分じぶん希望きぼう貫徹かんてつさせてくれ」と師団しだんちょう懇願こんがん翻意ほんいしなかった。

アメリカぐん日本にっぽんぐん夜襲やしゅう対策たいさくとして、これまでの経験けいけんそくよりよる照明しょうめいだんなくげ、日本にっぽんぐん夜襲やしゅう容易ようい接近せっきんできないような対策たいさくこうじていた。そのような状況じょうきょう強引ごういん突撃とつげきしただい38連隊れんたいは、アメリカぐん集中しゅうちゅう砲火ほうか死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつした。最大さいだい攻撃こうげきだい3大隊だいたいによる橋頭堡きょうとうほたいする攻撃こうげきで、日本にっぽんぐんは、戦車せんしゃだい9連隊れんたい95しきけい戦車せんしゃ5りょう先頭せんとう突撃とつげきしてきた。M4ちゅう戦車せんしゃやバズーカの集中しゅうちゅう砲火ほうか戦車せんしゃ全滅ぜんめつしたが、だい3大隊だいたいちょう長縄ながなわ大尉たいい率先そっせん先頭せんとうって21にはだい一線いっせん陣地じんち突破とっぱ、22にはだいせん重火器じゅうかき陣地じんち撃破げきは、その4には奥深おくふかくのアメリカぐん上陸じょうりくてん船着場ふなつきば陣地じんちまでたっしたが、そこでだい隊長たいちょう中隊ちゅうたいちょうなどが次々つぎつぎと斃れ、残存ざんそん兵力へいりょく夜明よあけとともに撤退てったいした。[42]

また、一部いちぶ部隊ぶたいだい4海兵かいへい連隊れんたい防衛ぼうえいせん突破とっぱ砲兵ほうへい陣地じんちまで突入とつにゅうした。そのはげしいたたかいでアメリカぐん死傷ししょうしゃ続出ぞくしゅつし、ある小隊しょうたい兵員へいいんが4めいにまで減少げんしょうしている。[1]

また、北方ほっぽうより上陸じょうりくしただい22海兵かいへい連隊れんたい方面ほうめんでもしょう部隊ぶたいによる日本にっぽんぐん夜襲やしゅう断続だんぞくてきつづけられ、アメリカぐんは69めい戦死せんししゃしたが、日本にっぽんぐん遺棄いき死体したいは390めいかぞえた[34]末長すえなが連隊れんたいちょう部隊ぶたい先頭せんとうって攻撃こうげき部隊ぶたい指揮しきしてきたが、海軍かいぐん砲台ほうだい小高こだかおかうえ銃撃じゅうげきびて戦死せんしした。[41]この夜襲やしゅう失敗しっぱいによりだい38連隊れんたい壊滅かいめつし、だい29師団しだんはアメリカぐん上陸じょうりく初日しょにち主力しゅりょく壊滅かいめつすることになってしまった。

連絡れんらくれずにそう攻撃こうげき参加さんかしなかっただい2大隊だいたいおくじょう大隊だいたいちょう)はオロテ半島はんとう根拠地こんきょちとして海軍かいぐん部隊ぶたい須磨すまだいいち飛行場ひこうじょう防衛ぼうえいすることとしていたが、早速さっそく翌日よくじつの22にちにはアメリカぐん戦車せんしゃともなって攻撃こうげきしてきた。だい2大隊だいたい海軍かいぐん部隊ぶたい野戦やせん高射こうしゃほうだい52大隊だいたい協力きょうりょくし、肉弾にくだん攻撃こうげき対戦たいせんしゃ地雷じらい戦車せんしゃ5りょう撃破げきはし100めい死傷ししょうなどの損害そんがいあたえてこれを撃退げきたいした。[43]

このよるだい29師団しだん戦闘せんとう指令しれいしょは、かんほう射撃しゃげきけるため後方こうほう的野まとの高地こうち移動いどうぐん参謀さんぼう長田ながたむら少将しょうしょうは、この2日間にちかんたたかいをかえりみて島嶼とうしょ防衛ぼうえいせんくん参謀さんぼう次長じちょうあて報告ほうこくしているが、これがのち日本にっぽんぐん島嶼とうしょ防衛ぼうえい戦術せんじゅつ改善かいぜん寄与きよすることをなった。[44]また、だい31ぐん司令しれい小畑おばたえいりょう中将ちゅうじょうみずか連合れんごう艦隊かんたいに「ねがいわくば、このあいだ事情じじょう諒察りょうさつせられきにのみゆだねることなくなんらかの有効ゆうこう適切てきせつ措置そちこうぜられんことえて具申ぐしんす」となんらかの救援きゅうえんさく要請ようせいしているが、マリアナおき海戦かいせん大敗たいはいした連合れんごう艦隊かんたいすでにそのちからはなかった。[45]

日本にっぽんぐんそう攻撃こうげき 

編集へんしゅう
 
聖母せいぼマリアだい聖堂せいどう廃墟はいきょまえ記念きねん撮影さつえいするだい3海兵かいへい師団しだん兵士へいし現存げんそんするだい聖堂せいどうは1958ねん再建さいけんされたもの。

アデラップ方面ほうめん歩兵ほへいだい18連隊れんたいまも山地さんち地域ちいきでも、相変あいかわらずパラソルだい本田ほんだだい健闘けんとうしていたが駿河台するがだい日向台ひゅうがだい突破とっぱされており、アメリカぐん奥深おくふかくまで侵攻しんこうしていた。日本にっぽんぐんのこの2日間にちかんでの損害そんがいがあまりにおおきく、とくかく部隊ぶたい指揮しきかん死傷ししょうりつたかく70%の指揮しきかん死傷ししょうしていると推定すいていされ、実際じっさい兵員へいいん損失そんしつ以上いじょう戦力せんりょく低下ていかいちじるしかった。また、火砲かほうも90%が破壊はかいされているうえ爆薬ばくやくそこいており、てき戦車せんしゃ対抗たいこうする手段しゅだんもなくなりつつあった。

以上いじょう状況じょうきょうまえて下記かきあん提議ていぎされた。

1、師団しだん全力ぜんりょくをマンガンやま集結しゅうけつしアデラップみさきかって突撃とつげき玉砕ぎょくさい覚悟かくご最終さいしゅう決戦けっせんいどむ。

2、グアムとう北東ほくとう密林みつりん地帯ちたい撤退てったいし、持久じきゅうせんおこなう。

会議かいぎ紛糾ふんきゅうしたが、結局けっきょく持久じきゅうせんをおこなってもアメリカぐんのグアムとう利用りようめることはできず、また日本にっぽんぐんらしい最後さいごかざろうという意見いけんかたむき、だい31ぐん司令しれいかん小畑おばたえいりょう中将ちゅうじょうは7がつ24にち残存ざんそん戦力せんりょくによるそう攻撃こうげき決意けつい、25にち未明みめいそう攻撃こうげき命令めいれいし、大本営だいほんえい決別けつべつ電文でんぶん打電だでんした。

そのあいだもアメリカぐんはげしい攻撃こうげきつづき、日本にっぽんぐん集結しゅうけつしているマンガンやまかって戦車せんしゃともなった進撃しんげきをしてきたが、パラソルだいでアメリカぐん痛撃つうげきあたえてきた石井いしい中隊ちゅうたい対戦たいせんしゃ肉弾にくだん攻撃こうげきや、残存ざんそん野砲やほうによる直接ちょくせつ照準しょうじゅん水平すいへい射撃しゃげき戦車せんしゃすうりょう撃破げきはした。苦戦くせんつづくグアムせん連日れんじつわた勇戦ゆうせん敢闘かんとうつづけた石井いしい中隊ちゅうたいたいして、戦史せんし叢書そうしょは「まさに国軍こくぐん真価しんか如実にょじつにしめした。」賞賛しょうさんしている。[46]のち中隊ちゅうたいちょう石井いしい中尉ちゅういには小畑おばた軍司ぐんじれいかんより感状かんじょう授与じゅよされている。[47]

日没にちぼつとも日本にっぽんぐんそう攻撃こうげき開始かいしされた。マンガンやまから出撃しゅつげきした日本にっぽんぐんはアサン海岸かいがんけてまっしぐらに白兵はくへい突撃とつげきおこなった。 独立どくりつだい10連隊れんたいちょうや、序盤じょばんでアメリカぐん痛撃つうげきあたえただい18連隊れんたいだい3大隊だいたいくだりおかだい隊長たいちょう率先そっせん陣頭じんとうって突撃とつげき突撃とつげき前面ぜんめんにあった海兵かいへいだい21連隊れんたいは、各所かくしょ日本にっぽんぐんはげしい白兵はくへい突撃とつげき前線ぜんせん突破とっぱされ、海兵かいへいだい21連隊れんたいだい3大隊だいたいちょう指揮しきしょ占領せんりょうされ機密きみつれるのをおそれて、暗号あんごう土中どちゅうめている。[48]また日本にっぽんぐん物資ぶっし集積しゅうせきしょ野戦やせん病院びょういんにも突入とつにゅうし、野戦やせん病院びょういんでは軍医ぐんいやコックまでが手伝てつだって負傷ふしょうへいれてあわてて退却たいきゃくしている。[35]また、海兵かいへいだい9連隊れんたいだい2大隊だいたいは7にもわたって日本にっぽんぐん突撃とつげきけて、950めい日本にっぽんぐんをたおしたが、戦力せんりょくが50%にまでんだ。[49]

の25だい海兵かいへいたいそう司令しれいとなったロバート.E.クッシュマン英語えいごばん当時とうじ中佐ちゅうさのち大将たいしょう)の大隊だいたい白兵はくへい突撃とつげきしてくる日本にっぽんぐん相手あいてに、はげしい戦闘せんとうひろげ600めい日本にっぽんへいを斃したが、クッシュマンの大隊だいたいも62めい戦死せんししゃと179めい負傷ふしょうしゃした。クッシュマンはこの戦闘せんとう指揮しき海兵かいへいたい最高さいこう勲章くんしょうである海軍かいぐんじゅうあきら受賞じゅしょうしている。[28] また、クッシュマンのつぎの26だい海兵かいへいたいそう司令しれいとなったルイ·ヒュー·ウィルソンジュニア英語えいごばん当時とうじ大尉たいい のち大将たいしょう)も日本にっぽんぐんはげしい攻撃こうげきに5あいだあいだに3負傷ふしょうしながら、ライフル中隊ちゅうたいたくみに指揮しきし10あいだわた日本にっぽんぐんそう攻撃こうげきから陣地じんちまもってメダル・オブ・オナー受賞じゅしょうした。[35]

以上いじょうよう日本にっぽんぐんそう攻撃こうげきはアメリカぐん打撃だげきあたえたが、火砲かほうすくなく弾薬だんやくきた白兵戦はくへいせん突撃とつげきだけでは死傷ししょうしゃ増大ぞうだいするばかりであり、独立どくりつだい10連隊れんたいちょうぎょうおかだい隊長たいちょう壮烈そうれつ戦死せんしげ、25にちちゅうにはそう攻撃こうげきいきおいは減衰げんすいし、26にちちゅうにほぼ終息しゅうそくした。 そう攻撃こうげきには、グアムから疎開そかいおくれた一般いっぱん邦人ほうじん男子だんしすうじゅうめい志願しがんうえ抜刀ばっとうたい編成へんせいぐん運命うんめいともにしている。

21にちから25にちにかけて、オロテ半島はんとうだいいち飛行場ひこうじょう海軍かいぐん陸戦りくせんたい戦車せんしゃ9連隊れんたいだい1中隊ちゅうたい協力きょうりょく死守ししゅしてきただい38連隊れんたいだい2大隊だいたいであったが、はげしい戦闘せんとうにより、海軍かいぐんしょ部隊ぶたいふくめた残存ざんそん兵力へいりょくが2,500めいまで減少げんしょうしていた。一方いっぽうで、アメリカぐんめあぐねていたオロテ半島はんとうたいし、予備よび兵力へいりょくであっただい77歩兵ほへい師団しだん主力しゅりょくまでを戦場せんじょう一気いっきみ、だい1臨時りんじ海兵かいへい旅団りょだん主力しゅりょく全力ぜんりょく半島はんとう最深さいしんまで侵攻しんこうしてきたため、おくじょう大隊だいたいちょう須磨すま(オロテ)地区ちく海軍かいぐん陸戦りくせんたい楠本くすもと司令しれいは、ぐん主力しゅりょく呼応こおうしてのそう攻撃こうげき決意けついした。だい2大隊だいたい海軍かいぐん陸戦りくせんたいは、25にちよるよりした豪雨ごうう利用りようして夜襲やしゅうをかけたが、アメリカぐんは0からのわずか2あいだあいだに26,000はつ砲弾ほうだん日本にっぽんぐんびせた。一方いっぽう日本にっぽんぐん武器ぶき弾薬だんやくき、一部いちぶ兵員へいいん熊手くまでつえ野球やきゅうバットまで武器ぶきわりにって突撃とつげきした。部隊ぶたいはアメリカぐん陣地じんち突入とつにゅうするも、はげしい集中しゅうちゅう砲火ほうかおくじょう大隊だいたいちょう重傷じゅうしょう自決じけつし、突撃とつげき部隊ぶたいも26にち4には壊滅かいめつした。楠本くすもと司令しれい残存ざんそん部隊ぶたいひきいて突撃とつげき敢行かんこうし27にち戦死せんしした。[50]

その、1941ねん日本にっぽんぐん占領せんりょうされたオロテ半島はんとうきゅうアメリカぐん海兵かいへいたい宿舎しゅくしゃを28にち奪還だっかん、29にちには半島はんとう全体ぜんたい占領せんりょう同日どうじつレイモンド・スプルーアンス大将たいしょうホーランド・スミス中将ちゅうじょうらアメリカぐん指揮しきかんらがいのもと国旗こっき掲揚けいようしきおこなわれた。アメリカぐんからすれば3ねんしのリベンジをたしたこととなった。[51]このオロテ半島はんとうめぐ攻防こうぼうせん日本にっぽんぐん残存ざんそんの2,500めいのほとんどが戦死せんししたが、アメリカぐん戦死せんし行方ゆくえ不明ふめい153めい負傷ふしょうしゃ721めいであった。[1]

日本にっぽんぐん壊滅かいめつ掃討そうとうせん

編集へんしゅう
 
グアムの戦跡せんせき ガン・ポイントにのこされているトーチカにきざまれた「高木たかぎたい だい2分隊ぶんたい 13めい」という文字もじ

そう攻撃こうげき撃破げきはしたアメリカぐんは、翌日よくじつの26にちあさから、マンガンやま日本にっぽんぐん残存ざんそん部隊ぶたい攻撃こうげきだい48旅団りょだん重松しげまつきよし旅団りょだんちょう以下いか司令しれい要員よういんみずかじゅうってたたかったが全滅ぜんめつし、重松しげまつ旅団りょだんちょう戦死せんしした。

だい31ぐん司令しれいかん小畑おばたえいりょう中将ちゅうじょうだい29師団しだんちょう高品たかしなぴょう中将ちゅうじょうは、残存ざんそん兵力へいりょくって北部ほくぶ密林みつりん地帯ちたいでの持久じきゅうせん決意けついし、かく部隊ぶたい持久じきゅうせん移行いこう命令めいれいした。司令しれいのあった本田ほんだだいより小畑おばた中将ちゅうじょうさき脱出だっしゅつしたが、師団しだんちょう高品たかしなぴょう中将ちゅうじょうは28にち戦車せんしゃすうじゅうりょう本田ほんだだいめてきたアメリカぐんとの戦闘せんとうまれて戦死せんしした。師団しだん指揮しき小畑おばた軍司ぐんじれいかん師団しだんちょう代理だいりとしてじきそつしたが、ぐんとして組織そしきてき作戦さくせん困難こんなんとなっていた。

小畑おばた中将ちゅうじょう北部ほくぶ撤退てったい当初とうしょにはやく3,000めい兵士へいし掌握しょうあくしていた。 日本にっぽんぐん残存ざんそん部隊ぶたいは、ジャングルない追撃ついげきしてくるアメリカぐん相手あいてによく遅滞ちたい戦術せんじゅつおこなった。8月2にちにはパリガタ(日本にっぽんめい 春田はるた地区ちく戦車せんしゃじゅうすうりょう歩兵ほへい200めいのアメリカぐんを、歩兵ほへいだい38連隊れんたいだい3歩兵ほへいほう中隊ちゅうたい迎撃げいげきし、戦車せんしゃ2りょう撃破げきは歩兵ほへい100めい死傷ししょうさせたが、馬場ばば中隊ちゅうたいちょう戦死せんしし、のこった部隊ぶたいはアメリカ戦車せんしゃ肉弾にくだん攻撃こうげきおこなった。よく3にちには平塚ひらつか方面ほうめん攻撃こうげきしてきたアメリカぐん残存ざんそん砲兵ほうへい集中しゅうちゅう砲撃ほうげきくわえ、すうりょう撃破げきはし、じゅうすうりょう擱座かくざさせたが、アメリカぐん反撃はんげき砲兵ほうへい全滅ぜんめつしている。[50]

 
北部ほくぶイゴむら付近ふきん日本にっぽんぐん撃破げきはされたM4ちゅう戦車せんしゃ

8がつ7にちには、アメリカぐんはグアム北部ほくぶ要地ようちイゴむら進攻しんこうしてきた。日本にっぽんぐんのこった2りょうの95しきけい戦車せんしゃ速射そくしゃほうきゅうはちしきじゅうみりめーとる高射こうしゃ機関きかんほうなどの兵器へいき集中しゅうちゅうしてまもりをかためており、アメリカぐんは2りょうのM4戦車せんしゃ撃破げきはされ、多数たすう死傷ししょうしゃしたがイゴむら突入とつにゅうした。その日本にっぽんぐんは3りょうの95しきけい戦車せんしゃ歩兵ほへいがイゴむら反撃はんげきしてきて激戦げきせんとなった。アメリカぐんしん兵器へいきバズーカ火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ攻撃こうげきしようとしたが、バズーカの威力いりょくっていた日本にっぽんぐん歩兵ほへいはげしい射撃しゃげきで、アメリカぐん歩兵ほへいはバズーカをつこともままならなかった。そこで勇敢ゆうかんなアメリカぐん歩兵ほへいが、けい機関きかんじゅう日本にっぽんぐん戦車せんしゃ開口かいこうんでちまくり、戦車せんしゃへい全員ぜんいん射殺しゃさつして1りょう戦車せんしゃ無力むりょくした。またもう1りょう手榴弾しゅりゅうだん撃破げきはすると、のこる1りょう日本にっぽんぐん歩兵ほへい撤退てったいし、イゴむらはアメリカぐん確保かくほされた。この日本にっぽんぐん夜襲やしゅうでは日本にっぽんへいは18めい遺体いたいのこしたが、アメリカぐんも18めい死傷ししょうしゃこうむっており、損害そんがい互角ごかくであった[52]

以上いじょうよう日本にっぽんぐん善戦ぜんせんはしていたが、死傷ししょうしゃ増加ぞうかしていった。またえや病気びょうきなどで斃れる兵士へいしえていた。アメリカぐん次第しだい日本にっぽんぐん防衛ぼうえいせん突破とっぱすると8がつ10日とおかにはだい31ぐん司令しれいのある又木またぎさんたっしたが、そのさいには小畑おばた中将ちゅうじょう掌握しょうあくしている戦力せんりょくはわずか300めいとなっていた。これ以上いじょう撤退てったい無理むりさっした小畑おばた軍司ぐんじれいかんは11にち最後さいごそう攻撃こうげき命令めいれいした。残存ざんそんしていた戦車せんしゃ10りょう果敢かかんにアメリカぐん戦車せんしゃ戦車せんしゃせんいどむも、戦車せんしゃ性能せいのうおおきくぜんりょう撃破げきはされた。[53]もはやほとん武器ぶきたない日本にっぽんぐん歩兵ほへい銃剣じゅうけん突撃とつげきしたが全滅ぜんめつし、小畑おばた軍司ぐんじれいかん田村たむら参謀さんぼうちょう自決じけつ日本にっぽんぐん組織そしきてき抵抗ていこう完全かんぜんわった。[54]

そのにアメリカぐん北部ほくぶたっし、しま完全かんぜん占領せんりょうげたが、一部いちぶのこった日本にっぽんへい飛行場ひこうじょう襲撃しゅうげきしたり、交通こうつう通信つうしんもう遮断しゃだんするなどのゲリラせんおこなって執拗しつよう抵抗ていこうおこなった。しかし、ほとんどの敗残はいざんへいはゲリラせんというよりは日々ひびびることがせいぜいであり、密林みつりんないには食物しょくもつはおろかみずすらまともになく、兵士へいしたちはいたかわきをいやし、かえるやヤドカリまでくちにしてえをしの有様ありさまであった。[55]

アメリカぐん日本にっぽんぐん敗残はいざんへい軍用ぐんようけん活用かつよう掃討そうとうおこなった。グアムとうでは軍用ぐんようけんだい規模きぼ投入とうにゅうされており、350とう軍用ぐんようけんとハンドラー(調教ちょうきょう)90めい日本にっぽんぐん狙撃そげきへい探索たんさくや、洞窟どうくつ陣地じんち捜索そうさくや、伝令でんれい任務にんむいた。また、兵士へいし就寝しゅうしんちゅう日本にっぽんぐん夜襲やしゅう警戒けいかいする任務にんむおこない、兵士へいし安眠あんみん手助てだすけをしている。グアム戦中せんちゅうんだ軍用ぐんようけんは25とう負傷ふしょうけんは20とうだった。[35]

陣地じんち構築こうちくさい強制きょうせい労働ろうどう占領せんりょう収奪しゅうだつなどで日本にっぽんぐんうらみをいていた現地げんちチャモロじん掃討そうとう作戦さくせん協力きょうりょくしている。密林みつりんひそんでいた日本にっぽんへいは7,500めい推定すいていされたが、[28]捕虜ほりょとなったのは合計ごうけいで1,250めいぎず、はアメリカぐん掃討そうとう戦死せんしするか、自決じけつしたか、病気びょうきえでくなった。それで最後さいご日本にっぽんへい降伏ごうぶくしたのは終戦しゅうせんの1945ねん9がつ4にちことであった。[54]

グアムせん影響えいきょう

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整備せいびされたグアムとう飛行場ひこうじょう上空じょうくう飛行ひこうするB-29

グアムの占領せんりょうげたアメリカぐんは、皮肉ひにくにも日本にっぽんぐん設営せつえいし、ほとんど戦力せんりょくとはならなかった飛行場ひこうじょう整備せいびし、サイパンとうとうとともに日本にっぽん本土ほんどへの戦略せんりゃく爆撃ばくげき拠点きょてんとした。グアムやサイパンよりったB-29は、日本にっぽんおおくの都市とし灰燼かいじんかえし、日本にっぽんつぎせん能力のうりょくうばっていった。この飛行場ひこうじょうは、のちグアム国際こくさい空港くうこうとなり、今日きょうにおいてもグアムのそら玄関げんかんとなっている。また、グアムはアメリカ陸海りくかいぐん前線ぜんせん基地きちとなり、こののちのフィリピン・硫黄いおうとう沖縄おきなわ攻略こうりゃく重要じゅうよう役割やくわりたした。以上いじょうのようにグアムとうふくむマリアナ諸島しょとう喪失そうしつが、大戦たいせん行方ゆくえ決定けっていづけた。終戦しゅうせんはつ内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとなるひがし久邇くにみや稔彦としひこおうは、このたたかいの敗北はいぼく日本にっぽん敗北はいぼくさっしたという[よう出典しゅってん]

一方いっぽう日本にっぽんぐんほうも、グアムせんなどマリアナ諸島しょとうたたかいでのアメリカぐん上陸じょうりくまえいままでにないはげしく効果こうかてきかんほう射撃しゃげきび、陣地じんち兵員へいいん甚大じんだい損害そんがいけたこと、また、上陸じょうりく水際みずぎわ撃滅げきめつさくじくとし堅牢けんろう陣地じんち構築こうちく十分じゅうぶんおこなわず、突撃とつげき夜襲やしゅう多用たようして早期そうきおおくの戦力せんりょくうしなってしまったといった教訓きょうくん大本営だいほんえい陸軍りくぐん編纂へんさんした「せんくん特報とくほう」によりぜんぐん通知つうちした。この通知つうち内容ないよう十分じゅうぶんとはえなかったが、[56]そのせんくんさら詳細しょうさい検証けんしょうし、ペリリューのたたか硫黄いおうとうたたか沖縄おきなわせんでは徹底てっていした陣地じんち構築こうちくおこない、無用むよう突撃とつげき禁止きんししたことにより、アメリカぐんだい苦戦くせんさせている。

グアムでのたたかいが終結しゅうけつしたのち横井よこい庄一しょういち伍長ごちょうすうめい日本にっぽんへい終戦しゅうせんらずにジャングル潜伏せんぷくつづけていた。1人ひとりのこった横井よこい伍長ごちょう1972ねん昭和しょうわ47ねん)にグアムとう住民じゅうみん発見はっけんされ、保護ほごされたのち日本にっぽん帰国きこくしている。

グアム先住民せんじゅうみんチャモロじん戦争せんそう被害ひがいについて

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昭和しょうわ19ねん1がつ時点じてんでグアムとうには、先住民せんじゅうみんチャモロじん24,000めい(メキシコ・フィリピン・中国ちゅうごく混血こんけつふくむ)、外国がいこくじん33めい捕虜ほりょのアメリカ軍人ぐんじん家族かぞく113めい占領せんりょう来島らいとうした人数にんずうふくめて一般いっぱん邦人ほうじんが455めい居住きょじゅうしていた。[57]島民とうみんだい多数たすうめるチャモロじんおおくが親米しんべいてきであり、日本にっぽん占領せんりょう物資ぶっし不足ふそく生活せいかつ困窮こんきゅうひどくなるなかで、その傾向けいこうつよくなっていった。またチャモロじん子弟してい1,000めい以上いじょうがアメリカぐん従軍じゅうぐんちゅうということも、チャモロじんたいにち感情かんじょう悪化あっかおおきく影響えいきょうしていた。[9]

グアムとう防衛ぼうえい強化きょうかすすむにつれて、日本にっぽんぐん陣地じんち構築こうちくなどにチャモロじん多数たすう動員どういんしている。一部いちぶ協力きょうりょくてきなチャモロじんもいたが、おおくは強制きょうせい労働ろうどうであった。しかしアメリカぐん上陸じょうりく可能かのうせいたかまると、日本にっぽんぐんはチャモロじんほとんどとなる20,000めいを、グアムとう南東なんとうマネンガンの収容しゅうようしょはじめとした5かしょ収容しゅうようしょおくんだ。[58]収容しゅうようしょ収容しゅうようされたチャモロじん一部いちぶで、おおくが自発じはつてき山地さんち避難ひなんしたという意見いけんもある。[59] 収容しゅうようしょ収容しゅうようした目的もくてきは、チャモロじん反乱はんらん防止ぼうしや、機密きみつ保持ほじのための隔離かくりや、戦闘せんとう地域ちいきからの避難ひなんとう色々いろいろわれているが、日本にっぽんぐん正式せいしき意図いと資料しりょうのこっておらず不明ふめいである。[60]収容しゅうようしょには食糧しょくりょうみずもまともになく、おおくのチャモロじんくるしめられたが、結果けっかてきにこれら収容しゅうようしょ日米にちべい激戦げきせんはなれた場所ばしょにあったためだい多数たすうのチャモロじんいのちすくこととなった。それでも戦闘せんとうまれてくなったチャモロじんすうせんめいのぼった。[60]7がつ31にちにアメリカだい77歩兵ほへい師団しだんだい307連隊れんたい収容しゅうようしょうちひとつであるアンナン収容しゅうようしょ占領せんりょうし、2,000めいのチャモロじん解放かいほうした。[61]マネンガンの収容しゅうようしょあと現在げんざい平和へいわ公園こうえんとなり、レリーフが設置せっちされている。

アメリカぐん侵攻しんこうちかづくと、よるになるとしまから発火はっか信号しんごう海上かいじょうけておくられたり、海岸かいがんにアメリカせいのゴムボートがてられているのを日本にっぽんぐん発見はっけんし、島民とうみんがアメリカぐんへのスパイ行為こういおこなっていると日本にっぽんぐんうたがいだした[62]神経しんけい過敏かびんとなっていた日本にっぽんぐん一部いちぶは、ウマタッタのメリソで、スパイ容疑ようぎをかけたチャモロじん多数たすうごうれて、しゅりゅうだん殺害さつがいするという事件じけんこしている[63]。また、機密きみつ保持ほじ目的もくてき虐殺ぎゃくさつ事件じけんこしており、その記念きねんもグアムとう散在さんざいしているが、一説いっせつには日本にっぽんぐん殺害さつがいされたチャモロじん合計ごうけいで700にんわれる。[64]

参加さんか兵力へいりょく

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日本にっぽんぐん

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陸軍りくぐん

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だい29師団しだんちょう高品たかしなぴょう中将ちゅうじょう
  • だい31ぐん司令しれい司令しれいかん小畑おばたえいりょう中将ちゅうじょう) 兵員へいいん8めい
    • 参謀さんぼうちょう 田村たむらただしとみ少将しょうしょう
      • 参謀さんぼう 橋田はしだきよし中佐ちゅうさ
      • 参謀さんぼう 塚本つかもと清彦きよひこ少佐しょうさ
      • 参謀さんぼう 金重かねしげ利久としひさ少佐しょうさ
  • 独立どくりつ混成こんせいだい48旅団りょだん旅団りょだんちょう重松しげまつきよし少将しょうしょう兵員へいいん 2,800めい
    • 歩兵ほへいだい12連隊れんたい 歩兵ほへいだい43連隊れんたい 歩兵ほへいだい44連隊れんたいより抽出ちゅうしゅつされた歩兵ほへい6大隊だいたい基幹きかん
    • 旅団りょだんほう兵隊へいたい 山砲さんぽうへいだい11連隊れんたいだい3大隊だいたい
  • 独立どくりつ混成こんせいだい10連隊れんたい連隊れんたいちょう片岡かたおか一郎いちろう中佐ちゅうさ兵員へいいん 1,668めい
    • 戦車せんしゃだい9連隊れんたい だい1中隊ちゅうたい だい2中隊ちゅうたい 兵員へいいん 500めい
    • だい21野戦やせん高射こうしゃほうだい52大隊だいたい 兵員へいいん 386めい
      • 独立どくりつ工兵こうへいだい7連隊れんたいだい2中隊ちゅうたい 兵員へいいん 170めい
      • 船舶せんぱく工兵こうへいだい16連隊れんたいだい2中隊ちゅうたい 兵員へいいん 236めい
      • だい60碇泊ていはくじょう司令しれい大宮おおみやとう支部しぶ 兵員へいいん 10めい
      • だい31ぐん無線むせん小隊しょうたい 兵員へいいん14めい
      • 独立どくりつ自動車じどうしゃだい265中隊ちゅうたい 兵員へいいん183めい
      • だい31ぐん築城ちくじょうはん 兵員へいいん 46めい
      • 南洋なんよう憲兵けんぺいたい大宮おおみやとう分遣ぶんけんたい 兵員へいいん 5めい

海軍かいぐん

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  • だい54警備けいびたい司令しれいかん杉本すぎもとゆたか大佐たいさ) 海軍かいぐん部隊ぶたい合計ごうけい 兵員へいいん7,995めい
    • だい217設営せつえいたい だい218設営せつえいたい
    • だい60防空ぼうくうたい
    • だい30工作こうさくたい
    • 気象きしょうはん 管理かんり部隊ぶたい

海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい

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ただ航空機こうくうきはアメリカぐん上陸じょうりくまえぜん損失そんしつ生存せいぞん搭乗とうじょういん整備せいびいんとう地上ちじょう戦闘せんとう参加さんか

日本にっぽんぐん火砲かほう

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  • 陸上りくじょう 
    • 10せんちめーとる以上いじょう 10もん 
    • 野山のやまほうきゅう 40もん
    • 速射そくしゃほう  33もん
    • 迫撃はくげきほう  18もん
    • 高射こうしゃほう  10もん
  • 海岸かいがんほう
    • 20せんちめーとるきゅう  19もん
    • 12せんちめーとる以上いじょう 30もん
  • 戦車せんしゃ

アメリカぐん

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陸上りくじょう部隊ぶたい

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アメリカ上陸じょうりくぐんそう司令しれいかん ホーランド・スミス中将ちゅうじょう
  • 上陸じょうりくぐんそう司令しれい司令しれいかんホーランド・スミス中将ちゅうじょう
  • だい3水陸すいりく両用りょうよう部隊ぶたい司令しれいかんロイ・ガイガー中将ちゅうじょう
    • だい3海兵かいへい師団しだん
      • だい3海兵かいへい連隊れんたい
      • だい9海兵かいへい連隊れんたい
      • だい21海兵かいへい連隊れんたい
      • だい12海兵かいへい連隊れんたい
      • だい19海兵かいへい連隊れんたい
      • 師団しだん戦車せんしゃたい
      • 師団しだん砲兵ほうへい(155mm野砲やほう
    • だい1臨時りんじ海兵かいへい旅団りょだん 
      • だい4海兵かいへい連隊れんたい
      • だい22海兵かいへい連隊れんたい
      • 旅団りょだん砲兵ほうへい
    • だい77歩兵ほへい師団しだん
      • だい305歩兵ほへい連隊れんたい
      • だい306歩兵ほへい連隊れんたい
      • だい307歩兵ほへい連隊れんたい
      • だい305野砲やほう大隊だいたい
      • だい902野砲やほう大隊だいたい
      • だい706戦車せんしゃ大隊だいたい

海軍かいぐん

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アメリカ海軍かいぐん司令しれいかんたち。ひだりからスプルーアンス、ミッチャー、ニミッツ、ウィリス・A・リー
  • だい5艦隊かんたい司令しれいかんレイモンド・スプルーアンス大将たいしょう
  • だい58任務にんむ部隊ぶたい司令しれいかんマーク・ミッチャー中将ちゅうじょう
    • 戦艦せんかん 11せき
    • 正規せいき空母くうぼ 7せき
    • けい空母くうぼ 6せき
    • 護衛ごえい空母くうぼ 11せき
    • 巡洋艦じゅんようかん 24せき
    • 駆逐くちくかん 152せき
    • 多数たすう
 
太平洋戦争たいへいようせんそう国立こくりつ歴史れきし公園こうえん

グアムとうには国立こくりつ施設しせつふくめて多数たすう戦争せんそう関連かんれん施設しせつ戦争せんそう遺構いこうがあるがおもなものをげる。今日きょうでも戦跡せんせきめぐりのツアーがおおおこなわれており、グアムとう観光かんこう定番ていばんメニューとなっている。また、これ以外いがいにも、ビーチやジャングルのなかおおくの戦跡せんせきのこっている。

出典しゅってん

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  5. ^ “Enclosure 'K'”. Report on the Capture of the Marianas. (25 August 1944). p. 6. https://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4341/rec/3 2023ねん2がつ24にち閲覧えつらん 
  6. ^ “Enclosure 'K'”. Report on the Capture of the Marianas. (25 August 1944). p. 6. https://cgsc.contentdm.oclc.org/digital/collection/p4013coll8/id/4341/rec/3 2023ねん2がつ24にち閲覧えつらん 
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  8. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう陸軍りくぐん作戦さくせん〈1〉』514ぺーじ
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  10. ^ 戦史せんし叢書そうしょ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう陸軍りくぐん作戦さくせん〈1〉』602ぺーじただ資料しりょうって人数にんずうことなり、全国ぜんこくグアム戦友せんゆうかいによれば2,475めい戦死せんしもしくは行方ゆくえ不明ふめい
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  12. ^ 『グアム玉砕ぎょくさい記録きろく 慟哭どうこく孤島ことう吉田よしだ重紀しげのりちょ廣済堂こうさいどう出版しゅっぱん 96ぺーじ
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