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軍令 - Wikipedia

軍令ぐんれい

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう体制たいせい日本にっぽんにあったほう形式けいしきひと
  1. 軍令ぐんれい - 軍隊ぐんたい命令めいれい規則きそく
  2. 軍令ぐんれい - ぐん作戦さくせん行動こうどうかんする業務ぎょうむ軍政ぐんせい対義語たいぎご指揮しき (軍事ぐんじ)参照さんしょう
  3. 軍令ぐんれい - 20世紀せいき前半ぜんはん日本にっぽんにあったほう形式けいしきほんこう詳述しょうじゅつ

軍令ぐんれい(ぐんれい)は、大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう体制たいせいにあったほう形式けいしきひとつで、内閣ないかく議会ぎかいとおさず、天皇てんのう陸軍りくぐん海軍かいぐん統帥とうすいするため制定せいていするものである。憲法けんぽうさだめがないが、明治めいじ40ねん1907ねん)に軍令ぐんれいだい1ごうによって導入どうにゅうされ、立法りっぽうにおいて軍部ぐんぶ統帥とうすいけん独立どくりつあらわすものとして昭和しょうわ20ねん1945ねん)まで機能きのうした。

軍令ぐんれいだい1ごうまでのみち

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ドイツぐんせい模倣もほうした山縣やまがた有朋ありとも陸軍りくぐんきょうによる明治めいじ11ねん1878ねん)12月5にち公布こうふ太政官だじょうかんたちだい50ごう参謀さんぼう本部ほんぶ条例じょうれい以降いこう国務こくむから参謀さんぼう本部ほんぶ独立どくりつした(太政官だじょうかんたち国家こっか主権しゅけんしゃであった明治天皇めいじてんのう裁可さいかされた国家こっか最高さいこう法令ほうれいであったのでそのみことのりれいにほぼ相当そうとうした)。

明治めいじ19ねん1886ねんみことのりれいだい1ごうの『公文こうぶんしき』では、みことのりれい閣議かくぎすべ内閣ないかく総理そうり大臣だいじんから天皇てんのう一般いっぱん上奏じょうそうした(だい2じょう)。裁可さいかかなら内閣ないかく総理そうり大臣だいじん副署ふくしょようした(だい3じょう)。

だが明治めいじ22ねん1889ねんみことのりれいだい139ごう改正かいせい公文こうぶんしき』でだい3じょう改正かいせいされ、しょう専任せんにん事務じむぞくするみことのりれいについては主任しゅにん大臣だいじん副署ふくしょだけでよく、内閣ないかく総理そうり大臣だいじん副署ふくしょようしないとした。ただ一般いっぱん行政ぎょうせい事務じむかかわるみことのりれい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん主任しゅにん大臣だいじんがともに副署ふくしょするとした。

他方たほう軍事ぐんじみことのりれいすなわち帷幄上奏いあくじょうそうみことのりれいは、『公文こうぶんしき』があるにもかかわらず統帥とうすいけん独立どくりつじょう慣行かんこうとして、閣議かくぎ天皇てんのう直接ちょくせつ陸軍りくぐん大臣だいじん帷幄上奏いあくじょうそう裁可さいかて、その陸軍りくぐん大臣だいじん副署ふくしょ成立せいりつしていた。以上いじょうにち戦争せんそうにおいても有効ゆうこうであった。

にち戦争せんそうも、みことのりれい首相しゅしょうだけが一般いっぱん上奏じょうそうし、帷幄上奏いあくじょうそうみことのりれい陸軍りくぐん大臣だいじん帷幄上奏いあくじょうそうするのは以前いぜんおなじであった。だが明治めいじ40ねん1907ねん1がつ31にち帝室ていしつ制度せいど調査ちょうさきょく立案りつあん公布こうふされたみことのりれいだい6ごう公式こうしきれいだい7じょうで、天皇てんのう裁可さいか帷幄上奏いあくじょうそうみことのりれいふくすべてのみことのりれい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん副署ふくしょようするとした。このため軍部ぐんぶには従来じゅうらいどおり、陸軍りくぐん大臣だいじん副署ふくしょだけという帷幄上奏いあくじょうそうみことのりれい方式ほうしき維持いじ必要ひつようになった。

軍令ぐんれいだい1ごう

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そこで同年どうねん9がつに『軍令ぐんれい』(軍事ぐんじみことのりれいだい1ごう制定せいていされた。これは軍令ぐんれい性格せいかくを『軍令ぐんれいだい1ごう自身じしんさだめており、軍令ぐんれい陸海りくかいぐん大臣だいじん帷幄上奏いあくじょうそうし、陸海りくかいぐん大臣だいじん副署ふくしょだけで帷幄上奏いあくじょうそうみことのりれいとして成立せいりつするとした。ここでの軍令ぐんれい帷幄上奏いあくじょうそうみことのりれいとは軍事ぐんじ作戦さくせんなど奉勅ほうちょく命令めいれいかんするものではなく、軍事ぐんじ制度せいどかんするものであった。陸軍りくぐん大臣だいじん統帥とうすいけん独立どくりつじょう首相しゅしょう容喙ようかいさせない、天皇てんのう軍事ぐんじ輔弼ほひつしゃとして副署ふくしょしたのであった。

軍令ぐんれい解釈かいしゃく公式こうしきれいによる適用てきようめぐ9月2にち山縣やまがた有朋ありとも調査局ちょうさきょく総裁そうさい伊藤いとう博文ひろぶみ会談かいだんして両者りょうしゃ妥協だきょう軍令ぐんれいだい1ごう軍令ぐんれいせきスルけん」は9月12にち公布こうふ施行しこうされ、軍令ぐんれいについて規定きていした。ぜん4じょう。この最初さいしょ軍令ぐんれいは、陸海りくかいぐん統帥とうすいかんみことのりじょう規程きてい軍令ぐんれいさだめた(だい1じょう)。軍令ぐんれいのうち公示こうじようするものは、天皇てんのう親書しんしょ署名しょめい)と御璽ぎょじしるし)のほか、陸海りくかいぐん大臣だいじん副署ふくしょ必要ひつようとし(だい2じょう)、官報かんぽう公示こうじされるとした(だい3じょう)。とくさだめがないかぎり、軍令ぐんれいただちに施行しこうされることになっていた(だい4じょう)。法律ほうりつみことのりれいは、「公布こうふ」という文言もんごん使用しようしていたが、軍令ぐんれいは「公示こうじ」としていた。上諭じょうゆも、法律ほうりつみことのりれいは、「裁可さいかシ茲ニ公布こうふセシム」であるのにたいし、軍令ぐんれいは「制定せいてい改定かいてい)シ施行しこういのちス」となっていた。

軍令ぐんれいによる立法りっぽう

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軍令ぐんれいによる規定きていされた範囲はんいは、陸軍りくぐん海軍かいぐんでは相違そういがある。ぐん編制へんせい司令しれい官制かんせいりく海軍かいぐんとも軍令ぐんれいにより規定きていされた。学校がっこう官制かんせいは、陸軍りくぐんでは陸軍りくぐんだい学校がっこう条例じょうれい明治めいじ41ねん軍令ぐんれいりくだい13ごう)をはじめとしておおくの学校がっこう官制かんせい軍令ぐんれいにより規定きていされたが、海軍かいぐんでは軍令ぐんれい制度せいど制定せいていも、海軍かいぐんだい学校がっこうれい大正たいしょう7ねんみことのりれいだい317ごう)など学校がっこう官制かんせいみことのりれいにより規定きていし、軍令ぐんれいでは規定きていしなかった。また陸軍りくぐんにおいても陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうについては、一旦いったん陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう条例じょうれい明治めいじ41ねん軍令ぐんれいりくだい9ごう)、陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい大正たいしょう4ねん軍令ぐんれいりくだい6ごう陸軍りくぐん地方ちほう幼年ようねん学校がっこう条例じょうれい大正たいしょう4ねん軍令ぐんれいりくだい7ごう)などが制定せいていされたが、大正たいしょう9ねんになってこれらの軍令ぐんれいは、大正たいしょう9ねん8軍令ぐんれいりくだい9ごうにより廃止はいしされ、ふたたびみことのりれいで、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうれい大正たいしょう9ねんみことのりれいだい236ごう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうれい大正たいしょう9ねんみことのりれいだい237ごう)が制定せいていされた。礼式れいしき懲罰ちょうばつかんしても、陸軍りくぐんは、陸軍りくぐん礼式れいしき明治めいじ43ねん軍令ぐんれいりくだい5ごう)、陸軍りくぐん懲罰ちょうばつれい明治めいじ41ねん軍令ぐんれいりくだい18ごう)など軍令ぐんれいにより規定きていしたが、海軍かいぐん海軍かいぐん礼式れいしきれい大正たいしょう3ねんみことのりれいだい15ごう)、海軍かいぐん懲罰ちょうばつれい明治めいじ41ねんみことのりれいだい239ごう)などみことのりれい規定きていすることを変更へんこうしなかった。陸軍りくぐんは、作戦さくせん要務ようむれい昭和しょうわ13ねん軍令ぐんれいりくだい19ごう)など作戦さくせんについても軍令ぐんれい規定きていしたが、海軍かいぐんにおいてはこのようなものを法令ほうれいとして制定せいていはしなかった。

官報かんぽう法令ほうれい全書ぜんしょに、ことなった種類しゅるい法令ほうれいとう掲載けいさいされる場合ばあいは、そのじゅんまっていた。効力こうりょく優先ゆうせんすべきものほど、最初さいしょ掲載けいさいされた。詔書しょうしょ皇室こうしつれい法律ほうりつ予算よさん予算よさん外国がいこく負担ふたんとなる契約けいやくみことのりれい条約じょうやく軍令ぐんれいじゅんであり、さらにそのに、制令せいれい律令りつりょうかくれい省令しょうれいれいちょうれい訓令くんれいいたる告示こくじじゅんとなった[1]御名ぎょめい御璽ぎょじして公布こうふされるものでは軍令ぐんれい最後さいごあつかいである。憲法けんぽうおよ皇室こうしつ典範てんぱん当然とうぜんさい優先ゆうせんであるものであるが、実際じっさい公布こうふはすべて、法令ほうれいとはべつ単独たんどく官報かんぽう号外ごうがいおこなわれた。

個別こべつ法令ほうれい区別くべつする番号ばんごうことを「はつ簡区べつ番号ばんごう[注釈ちゅうしゃく 1]というが、陸海りくかいぐん共通きょうつう事項じこうについては「軍令ぐんれいだいごう」、陸軍りくぐん海軍かいぐん個別こべつ事項じこうは「軍令ぐんれいりくうみだいごう」となる。陸軍りくぐんではさら軍令ぐんれい重要じゅうようによって「軍令ぐんれいりくかぶとだいごう」、「軍令ぐんれいりくおつだいごう」の2種類しゅるいがあった。きのえ軍事ぐんじ機密きみつ事項じこうであり、動員どういん計画けいかく戦時せんじ編制へんせいかかわる内容ないよう発布はっぷされ、おつ秘密ひみつ事項じこうでこれは平時へいじ編制へんせいしょ勤務きんむれい礼式れいしき発布はっぷとうもちいられる。海軍かいぐんでは軍令ぐんれい細分さいぶんせずに「うちれい」という形式けいしきおこなわれた。軍令ぐんれいは、もともと公示こうじすべきものは、官報かんぽう公示こうじするとなっており公表こうひょうはかならずしも必要ひつようではなかった。実際じっさいあつかいは、公示こうじするものは、軍令ぐんれいだいごう軍令ぐんれいりくうみだいごうとし、公示こうじしないものを軍令ぐんれいりくかぶとおよ軍令ぐんれいりくおつならびにうちれいとし、官報かんぽうにも登載とうさいされなかった。また、公示こうじされたものでも野外やがい要務ようむれい明治めいじ40ねん軍令ぐんれいりくだい10ごう)のようなものは、「条文じょうぶんりゃくス」と官報かんぽう掲載けいさいされ、内容ないよう公示こうじされなかった。明治めいじ40ねんはじまった軍令ぐんれい陸軍りくぐんでは「樺太からふと守備しゅびたい司令しれい条例じょうれい明治めいじ40ねん軍令ぐんれいりくだい1ごう)」、海軍かいぐんでは「防備ぼうびたい条例じょうれい明治めいじ40ねん軍令ぐんれいうみだい1ごう)」が最初さいしょで、のち発布はっぷされたものぐん司令しれい師団しだん司令しれい海軍かいぐんでは鎮守ちんじゅ軍令ぐんれい基本形きほんけいさだめていたが、実際じっさい編制へんせいについては軍令ぐんれいりくかぶとどうおつうちれいによっておこなわれた。

軍令ぐんれい明治めいじ40ねん軍令ぐんれいだい1ごうにあるように、帝国ていこく議会ぎかいはもとより閣議かくぎ必要ひつようもなかった。陸海りくかいぐん大臣だいじん現役げんえき軍人ぐんじん[注釈ちゅうしゃく 2]であり、内閣ないかくへの帰属きぞく意識いしきひくく、運用うんよう実態じったいとしても軍令ぐんれい内閣ないかく統制とうせいからはずれていた。このことから大正たいしょう時代じだい憲法けんぽう学者がくしゃ美濃部みのべ達吉たつきちによって批判ひはんされた。閣議かくぎ参加さんかする軍部ぐんぶ大臣だいじんにより軍政ぐんせいとしてあつかわれるべき事項じこう軍令ぐんれいによってさだめられていることが、その批判ひはん要点ようてんである。たとえば参謀さんぼう本部ほんぶ官制かんせいなどがみことのりれいらず軍令ぐんれいっていることが指摘してきされている。美濃部みのべ軍令ぐんれい憲法けんぽう違反いはんではないとしながら、つよ疑問ぎもんげかけた。しかし現実げんじつ政治せいじ軍令ぐんれい廃止はいしされることなく1946ねん[注釈ちゅうしゃく 3]まで存続そんぞくした。

軍令ぐんれい最終さいしゅうてき発布はっぷすうは、軍令ぐんれいが11けん軍令ぐんれいりくが545けん軍令ぐんれいうみが268けんであることが、官報かんぽうにより確認かくにんできる。公表こうひょうされない軍令ぐんれいりくかぶとおよ軍令ぐんれいりくおつならびにうちれいは、詳細しょうさい不明ふめいである。

軍令ぐんれいわり

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敗戦はいせんともない、軍令ぐんれい意義いぎ消滅しょうめつしたが、ぐん解体かいたい復員ふくいんのためになお軍令ぐんれい暫時ざんじ存続そんぞくした。

まず昭和しょうわ20ねん9がつ13にちけ(官報かんぽう9がつ15にち)で昭和しょうわ20ねん軍令ぐんれいだい3ごうとして「大本営だいほんえい復員ふくいんなみ廃止はいし要領ようりょう」が制定せいていされ、大本営だいほんえい廃止はいしとうおこなわれた。 さらに昭和しょうわ20ねん11月16にちけ(官報かんぽう11がつ20日はつか)で昭和しょうわ20ねん軍令ぐんれいだい4ごうとして「陸海りくかいぐん復員ふくいんとも不要ふようためルベキ軍令ぐんれい廃止はいしせきスルけん」が制定せいていされ、「陸海りくかいぐん復員ふくいんともな不要ふようとなる軍令ぐんれい主任しゅにん陸軍りくぐん大臣だいじん及海ぐん大臣だいじん廃止はいしできる」とされた。

これにより、昭和しょうわ20ねん11月30にちけの海軍かいぐん省令しょうれいだい36ごうりくたちだい68ごうだい71ごう陸軍りくぐん海軍かいぐんたちだい1ごうにより軍令ぐんれい廃止はいしがされた。また陸軍りくぐんしょうおよ海軍かいぐんしょう昭和しょうわ20ねん12月1にち廃止はいしされ、だいいち復員ふくいんしょうおよだい復員ふくいんしょう移行いこうすることにともない、昭和しょうわ20ねん11月27にちけ(官報かんぽう11がつ30にち)で昭和しょうわ20ねん軍令ぐんれいだい5ごうとして「従前じゅうぜん軍令ぐんれいちゅう陸軍りくぐん大臣だいじんとうせきスル規定きていせきスルけん」が制定せいていされ、「従前じゅうぜん軍令ぐんれいちゅう陸軍りくぐん大臣だいじんとあるのはだいいち復員ふくいん大臣だいじん海軍かいぐん大臣だいじんとあるのはだい復員ふくいん大臣だいじんとする」とされた。

そして昭和しょうわ21ねん3がつ29にちづけ官報かんぽう4がつ1にち)で昭和しょうわ21ねん軍令ぐんれいだい1ごうとして「明治めいじよんじゅうねん軍令ぐんれいだいいちごう軍令ぐんれいせきスルけんとう廢止はいし」が制定せいていされ、軍令ぐんれい根拠こんきょ法令ほうれいであった明治めいじ40ねん軍令ぐんれいだい1ごう廃止はいしされ、ここに軍令ぐんれい完全かんぜんわりをむかえた。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 現在げんざいでは法令ほうれい番号ばんごうというのが一般いっぱんてきである。
  2. ^ 法令ほうれいじょう退役たいえき軍人ぐんじんでも任命にんめい可能かのうときがあったが実際じっさいには、現役げんえき軍人ぐんじんのみであった。
  3. ^ 敗戦はいせん復員ふくいん事務じむとうのため、1946ねん4がつまでのこっていた。

出典しゅってん

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  1. ^ 官報かんぽう法令ほうれい全書ぜんしょ職員しょくいんろく発行はっこうせきスルけん大正たいしょう11ねん1がつ26にちかくれいだい1ごうだい6じょう実例じつれいとして皇室こうしつれい法律ほうりつみことのりれい軍令ぐんれい同一どういつ官報かんぽう掲載けいさいされた1923ねん大正たいしょう12ねん)4がつ2にちづけ官報かんぽうだい3199ごう

関連かんれん項目こうもく

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