不戦 ふせん 条約 じょうやく ( ふせんじょうやく 、( 戰爭 せんそう 抛棄 ほうき ニ關 せき スル條約 じょうやく )は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 のち に締結 ていけつ された多国 たこく 間 あいだ 条約 じょうやく で、国際 こくさい 紛争 ふんそう を解決 かいけつ する手段 しゅだん として、締約 ていやく 国 こく 相互 そうご で戦争 せんそう の放棄 ほうき を行 おこな い、紛争 ふんそう は平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん により解決 かいけつ することを規定 きてい した。パリ条約 じょうやく (協定 きょうてい )、パリ不戦 ふせん 条約 じょうやく 、ケロッグ=ブリアン条約 じょうやく (協定 きょうてい )とも言 い う。
原 はら 署名 しょめい 国 こく
追加 ついか 参加 さんか 国 こく
加盟 かめい 国 こく の領土 りょうど (植民 しょくみん 地 ち )
フランスのパリ で締結 ていけつ されたためにパリ条約 じょうやく (協定 きょうてい )(Pact of Paris)あるいはパリ不戦 ふせん 条約 じょうやく と呼 よ ぶこともあり、また最初 さいしょ フランスとアメリカの協議 きょうぎ から始 はじ まり、多国 たこく 間 あいだ 協議 きょうぎ に広 ひろ がったことから、アメリカの国務 こくむ 長官 ちょうかん フランク・ケロッグ と、フランスの外務 がいむ 大臣 だいじん アリスティード・ブリアン 両 りょう 名 な の名 な にちなんでケロッグ=ブリアン条約 じょうやく (協定 きょうてい )(Kellogg-Briand Pact)とも言 い う。
1928年 ねん (昭和 しょうわ 3年 ねん )8月 がつ 27日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 、イギリス 、ドイツ国 こく 、フランス 、イタリア王国 おうこく 、大日本帝国 だいにっぽんていこく などの当時 とうじ の列強 れっきょう 諸国 しょこく をはじめとする15ヵ国 かこく が署名 しょめい し、最終 さいしゅう 的 てき にはソビエト連邦 れんぽう など63か国 こく が批准 ひじゅん した。
この条約 じょうやく の成立 せいりつ は、国際 こくさい 連盟 れんめい 規約 きやく 、ロカルノ条約 じょうやく と連結 れんけつ し国際 こくさい 社会 しゃかい における集団 しゅうだん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 体制 たいせい を実質 じっしつ 的 てき に形成 けいせい することになった。すなわち19世紀 せいき の国際 こくさい 法 ほう によれば至高 しこう の存在 そんざい 者 しゃ である主権 しゅけん 国家 こっか は相互 そうご に対等 たいとう であるので戦争 せんそう は一種 いっしゅ の「決闘 けっとう 」であり国家 こっか は戦争 せんそう に訴 うった える権利 けんり や自由 じゆう を有 ゆう すると考 かんが えられていたが、不戦 ふせん 条約 じょうやく はこの国際 こくさい 法 ほう の世界 せかい 観 かん (無 む 差別 さべつ 戦争 せんそう 観 かん )の否定 ひてい であり、一方 いっぽう で連盟 れんめい 規約 きやく 違反 いはん やロカルノ条約 じょうやく 違反 いはん をおこなう国 くに に対 たい しては不戦 ふせん 条約 じょうやく 違反 いはん 国 こく に対 たい する条約 じょうやく 義務 ぎむ からの解放 かいほう の論理 ろんり が準備 じゅんび され、「どの国家 こっか にせよロカルノ条約 じょうやく に違反 いはん して戦争 せんそう に訴 うった えるならば、同時 どうじ に不戦 ふせん 条約 じょうやく 違反 いはん ともなるので、他 た の不戦 ふせん 条約 じょうやく 締約 ていやく 国 こく は法的 ほうてき に条約 じょうやく 上 じょう の義務 ぎむ を自動 じどう 免除 めんじょ され、ロカルノ条約 じょうやく 上 じょう の制約 せいやく を自由 じゆう に履行 りこう できる」[ 2] と解釈 かいしゃく された(制裁 せいさい 戦争 せんそう )。
この条約 じょうやく はその後 ご の国際 こくさい 法 ほう における戦争 せんそう の違法 いほう 化 か 、国際 こくさい 紛争 ふんそう の平和 へいわ 的 てき 処理 しょり の流 なが れを作 つく る上 じょう で大 おお きな意味 いみ を持 も った。一方 いっぽう で加盟 かめい 国 こく は原則 げんそく として自衛 じえい 権 けん を保持 ほじ していることが交渉 こうしょう の過程 かてい で繰 く り返 かえ し確認 かくにん されており、また不戦 ふせん 条約 じょうやく には条約 じょうやく 違反 いはん に対 たい する制裁 せいさい は規定 きてい されておらず、国際 こくさい 連盟 れんめい 規約 きやく やロカルノ条約 じょうやく など他 た の包括 ほうかつ 的 てき ・個別 こべつ 的 てき 条約 じょうやく に依拠 いきょ する必要 ひつよう があった。そのほかにも自衛 じえい 戦争 せんそう の対照 たいしょう 概念 がいねん たる「侵略 しんりゃく 」の定義 ていぎ がおこなわれておらず、第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん で多大 ただい な効力 こうりょく を発揮 はっき した経済 けいざい 制裁 せいさい (ボイコット、拿捕 だほ や敵性 てきせい 資産 しさん の没収 ぼっしゅう 等 とう )が戦争 せんそう に含 ふく まれるのか不 ふ 分明 ぶんめい であり、また戦争 せんそう に至 いた らない武力 ぶりょく 行使 こうし 、国際 こくさい 的 てき 警察 けいさつ 活動 かつどう (海賊 かいぞく やテロリストの取締 とりしまり 、とくに他 た の締約 ていやく 国内 こくない での武力 ぶりょく 行使 こうし を伴 ともな う)、中立 ちゅうりつ 国 こく の権利 けんり 義務 ぎむ など不 ふ 明確 めいかく な点 てん を多 おお く含 ふく んでいた。しかもこの条約 じょうやく は加盟 かめい 国 こく の戦争 せんそう 放棄 ほうき を一方 いっぽう 的 てき 宣言 せんげん するものではなく、あくまで「締約 ていやく 国 こく 相互 そうご の不戦 ふせん 」を宣言 せんげん する(前文 ぜんぶん ・1条 じょう ・2条 じょう )ものであり、その加盟 かめい 国 こく 相互 そうご の国家 こっか 承認 しょうにん 問題 もんだい についても曖昧 あいまい に放置 ほうち されたものであった(後述 こうじゅつ )。ケロッグは1928年 ねん 4月 がつ 28日 にち にアメリカ国際 こくさい 法 ほう 協会 きょうかい において新 しん 条約 じょうやく の説明 せつめい 演説 えんぜつ を行 おこな い、自衛 じえい 権 けん について、アメリカの条約 じょうやく 案 あん は自衛 じえい 権 けん を決 けっ して妨 さまた げるものではなく、あらゆる条約 じょうやく は自衛 じえい 権 けん を含意 がんい しているとし、そして自衛 じえい の定義 ていぎ についてはその定義 ていぎ を悪用 あくよう するのは容易 ようい であるからとして明文 めいぶん の規定 きてい を置 お くべきではないと述 の べた。条約 じょうやく 批准 ひじゅん に際 さい し、アメリカ は、自衛 じえい 戦争 せんそう は禁止 きんし されていないとの解釈 かいしゃく を打 う ち出 だ した。またイギリス とアメリカは、国境 こっきょう の外 そと であっても、自国 じこく の利益 りえき にかかわることで軍事 ぐんじ 力 りょく を行使 こうし しても、それは侵略 しんりゃく ではないとの留保 りゅうほ を行 おこな った。アメリカは自国 じこく の勢力 せいりょく 圏 けん とみなす中南米 ちゅうなんべい に関 かん しては、この条約 じょうやく が適用 てきよう されないと宣言 せんげん した。アメリカは1927年 ねん にニカラグア へ内政 ないせい 干渉 かんしょう しており、その積極 せっきょく 的 てき な役割 やくわり をヘンリー・スティムソン (のち国務 こくむ 長官 ちょうかん )がおこなっていた。また1929年 ねん の大 だい 恐慌 きょうこう 以降 いこう 、30年 ねん から31年 ねん にかけて中南米 ちゅうなんべい 20カ国 かこく で10回 かい の革命 かくめい が発生 はっせい するなど現実 げんじつ 的 てき な事情 じじょう を抱 かか えていた。一方 いっぽう でハーバート・フーヴァー 大統領 だいとうりょう のもとで国務 こくむ 長官 ちょうかん になって以降 いこう のスティムソン は錦 にしき 州 しゅう および南 みなみ 満州 まんしゅう 問題 もんだい に関 かん する「スティムソン・ドクトリン」(1932年 ねん 1月 がつ )において明示 めいじ 的 てき に不戦 ふせん 条約 じょうやく (パリ平和 へいわ 条約 じょうやく )に言及 げんきゅう し道義 どうぎ 的 てき 勧告 かんこく (moral suasion)に訴 うった えた。
世界中 せかいじゅう に植民 しょくみん 地 ち を有 ゆう するイギリスは、国益 こくえき にかかわる地域 ちいき がどこなのかすらも明言 めいげん しなかった。国際 こくさい 法 ほう は相互 そうご 主義 しゅぎ を基本 きほん とするので、「侵略 しんりゃく か自衛 じえい か」「どこが重要 じゅうよう な地域 ちいき であるのか」に関 かん しては当事 とうじ 国 こく が決 き めてよいのであり、事実 じじつ 上 じょう の空文 くうぶん と評 ひょう されていた。
この条約 じょうやく は1927年 ねん 4月 がつ 6日 にち 、アメリカの第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 参戦 さんせん 10周年 しゅうねん 記念 きねん 日 び にフランス外務 がいむ 大臣 だいじん ブリアンが米国 べいこく 連合 れんごう 通信 つうしん に寄稿 きこう したメッセージが端緒 たんしょ であり、6月11日 にち にアメリカがフランスに交渉 こうしょう の用意 ようい ありと通知 つうち したことから具体 ぐたい 化 か した。当初 とうしょ は米 べい 仏 ふつ 2国 こく 間 あいだ だけの恒久 こうきゅう 平和 へいわ 条約 じょうやく を想定 そうてい していたがアメリカの提案 ていあん により多国 たこく 間 あいだ 条約 じょうやく として検討 けんとう することとなった。日本 にっぽん 政府 せいふ は1927年 ねん 6月 がつ の段階 だんかい で主要 しゅよう 6列強 れっきょう 国 こく (日 にち 英 えい 米 べい 仏 ふつ 独 どく 伊 い )による条約 じょうやく 締結 ていけつ に内諾 ないだく を通知 つうち した。
不戦 ふせん 条約 じょうやく が持 も ち上 あ がった1927年 ねん 春 はる から1928年 ねん 当時 とうじ 、日本 にっぽん は田中 たなか 義一 ぎいち 内閣 ないかく で、1927年 ねん 当初 とうしょ の中国 ちゅうごく は上海 しゃんはい クーデター以降 いこう の混迷 こんめい 状態 じょうたい にあり、日本 にっぽん は奉天 ほうてん 派 は の北京 ぺきん 政府 せいふ を中華民国 ちゅうかみんこく (支 ささえ 那 な 共和 きょうわ 国 こく )の正統 せいとう 政府 せいふ としていた。これは対 たい 華 はな 21カ条 かじょう 要求 ようきゅう など条約 じょうやく 上 じょう の対 たい 中 ちゅう 権益 けんえき を維持 いじ するためであったが、1928年 ねん 春 はる には第 だい 二 に 次 じ 北 きた 伐 き が開始 かいし され、山東 さんとう 出兵 しゅっぺい や張 ちょう 作 さく 霖爆殺 ばくさつ 事件 じけん など中国 ちゅうごく 大陸 たいりく をめぐる政情 せいじょう は急激 きゅうげき に変化 へんか しており、日本 にっぽん 政府 せいふ が不戦 ふせん 条約 じょうやく を打診 だしん された1927年 ねん 春 はる の段階 だんかい とは情勢 じょうせい は大 おお きく異 こと なることになった。
日本 にっぽん にとっては蔣介石 せき 国民党 こくみんとう 政府 せいふ が中華民国 ちゅうかみんこく としてこの不戦 ふせん 条約 じょうやく に新規 しんき 加盟 かめい するかどうかは重要 じゅうよう な問題 もんだい であり、外務省 がいむしょう はこの問題 もんだい について1928年 ねん 11月の段階 だんかい で、①蔣介石 せき 政府 せいふ を中華民国 ちゅうかみんこく 正統 せいとう 政府 せいふ とみなしていないので蔣介石 せき が中華民国 ちゅうかみんこく として不戦 ふせん 条約 じょうやく に加盟 かめい 申請 しんせい しアメリカが受理 じゅり し日本 にっぽん に通告 つうこく してきても日本 にっぽん 政府 せいふ はそれには拘束 こうそく されない、②国家 こっか として未 み 承認 しょうにん の政治 せいじ 上 じょう のグループ(主体 しゅたい )がこの条約 じょうやく に新規 しんき 加盟 かめい を申請 しんせい した場合 ばあい の取 と り扱 あつか いについては条約 じょうやく 上 じょう 不 ふ 分明 ぶんめい であるが、既存 きそん 加盟 かめい 国 こく はその申請 しんせい を明示 めいじ 的 てき に拒否 きょひ せずとも、申請 しんせい 主体 しゅたい を国家 こっか 主体 しゅたい として暗黙 あんもく に承認 しょうにん したということにはならない(過去 かこ の外交 がいこう 事例 じれい 上 じょう )、③アメリカが条約 じょうやく 上 じょう の義務 ぎむ (3条 じょう )として中華民国 ちゅうかみんこく の批准 ひじゅん を電報 でんぽう 通告 つうこく してきた場合 ばあい に、それに対 たい して明示 めいじ 的 てき に拒否 きょひ せずとも承認 しょうにん したということにはならない(過去 かこ の外交 がいこう 事例 じれい 上 じょう )、と解釈 かいしゃく していた[ 5] 。不戦 ふせん 条約 じょうやく は新規 しんき 加盟 かめい 国 こく は自動的 じどうてき に従来 じゅうらい 加盟 かめい 国 こく との間 あいだ での不戦 ふせん を相互 そうご に承認 しょうにん する構造 こうぞう となっていたが(第 だい 3条 じょう )、正式 せいしき に国家 こっか 承認 しょうにん していない組織 そしき ・集団 しゅうだん (ここでは蔣介石 せき 政府 せいふ )の参加 さんか は想定 そうてい されておらず、「締約 ていやく 国 こく 相互 そうご の不戦 ふせん 」を宣言 せんげん する(前文 ぜんぶん ・1条 じょう ・2条 じょう )ものであるから新規 しんき 加盟 かめい 国 こく の国家 こっか 承認 しょうにん 問題 もんだい は重要 じゅうよう であった。また叛徒 はんと 政権 せいけん ・革命 かくめい 政権 せいけん の承認 しょうにん 問題 もんだい は民族 みんぞく 自決 じけつ 原則 げんそく への移行 いこう 期 き にあり、国家 こっか の条約 じょうやく 継承 けいしょう 問題 もんだい については包括 ほうかつ 的 てき 継承 けいしょう 説 せつ が主流 しゅりゅう 学説 がくせつ であり、継承 けいしょう 否定 ひてい 説 せつ に立 た つ中華民国 ちゅうかみんこく 蔣介石 せき 政権 せいけん を日本 にっぽん 政府 せいふ としては正統 せいとう 政府 せいふ とは認 みと めない立場 たちば であった。
調印 ちょういん にあたって日本 にっぽん 国内 こくない では、その第 だい 1条 じょう が「人民 じんみん ノ名 めい ニ於テ厳粛 げんしゅく ニ宣言 せんげん する」となっていたことから、枢密院 すうみついん や右派 うは から大日本帝国 だいにっぽんていこく 憲法 けんぽう の天皇 てんのう 大権 たいけん に反 はん するものであるという批判 ひはん を生 しょう じ、新聞 しんぶん でも賛否 さんぴ 両論 りょうろん が起 お こった。そのため外務省 がいむしょう はアメリカに修正 しゅうせい を申 もう し入 い れたが応 おう じられず、人民 じんみん のために宣言 せんげん すると解釈 かいしゃく する旨 むね の回答 かいとう を得 え たに止 と まった。そのため、日本 にっぽん 政府 せいふ は、1929年 ねん (昭和 しょうわ 4年 ねん )6月27日 にち 、「帝国 ていこく 政府 せいふ 宣言 せんげん 書 しょ 」で、該当 がいとう 字句 じく は日本 にっぽん に対 たい しては適用 てきよう されないことを宣言 せんげん した上 うえ で27日 にち に批准 ひじゅん した。実際 じっさい の本 ほん 条約 じょうやく の発効 はっこう は田中 たなか 内閣 ないかく 総 そう 辞職 じしょく 後 ご で同年 どうねん 7月 がつ 24日 にち であった。
芦田 あしだ 均 ひとし によれば日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう 第 だい 1項 こう はこのパリ不戦 ふせん 条約 じょうやく 第 だい 1条 じょう の文言 もんごん をモデルとしてアメリカにより作成 さくせい されたとする。
当 とう 条約 じょうやく は前文 ぜんぶん と全 ぜん 3条 じょう からなるが、主 しゅ たる条文 じょうぶん は第 だい 1条 じょう と第 だい 2条 じょう である。第 だい 3条 じょう は批准 ひじゅん 手続 てつづ きを定 さだ めている。
第 だい 一 いち 條 じょう 締約 ていやく 󠄁國 くに ハ國際 こくさい 紛 まがえ 󠄁爭 そう 解決 かいけつ ノ爲 ため 戰爭 せんそう ニ訴フルコトヲ非 ひ トシ且其ノ相互 そうご 關係 かんけい ニ於󠄁テ國家 こっか ノ政策 せいさく ノ手段 しゅだん トシテノ戰爭 せんそう ヲ抛棄 ほうき スルコトヲ其ノ各自 かくじ ノ人民 じんみん ノ名 めい ニ於󠄁テ嚴肅 げんしゅく ニ宣言 せんげん ス第 だい 二 に 條 じょう 締約 ていやく 󠄁國 くに ハ相互 そうご 間 あいだ ニ起 おこり 󠄁ルコトアルベキ一切 いっさい ノ紛 まがえ 󠄁爭 そう 又 また ハ紛 まがえ 󠄁議 ぎ ハ其ノ性質 せいしつ 又 また ハ起 おこり 󠄁因 いん ノ如何 いか ヲ問 とい ハズ平 たいら 󠄁和 わ 的 てき 手段 しゅだん ニ依 よ ルノ外 がい 之 の ガ處理 しょり 又 また ハ解決 かいけつ ヲ求 もとめ メザルコトヲ約 やく 󠄁ス
不戦 ふせん 条約 じょうやく では国際 こくさい 紛争 ふんそう 解決 かいけつ のための戦争 せんそう の否定 ひてい と、国家 こっか の政策 せいさく の手段 しゅだん としての戦争 せんそう の放棄 ほうき を規定 きてい し、一般 いっぱん にはこれは侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の放棄 ほうき ・否定 ひてい ・違法 いほう 化 か で自衛 じえい 戦争 せんそう は認 みと められると解釈 かいしゃく されているが、しかし当 とう 条約 じょうやく では侵略 しんりゃく についての定義 ていぎ はなく、また「国家 こっか の政策 せいさく の手段 しゅだん としての戦争 せんそう 」(第 だい 一 いち 条 じょう )についての詳細 しょうさい な定義 ていぎ を置 お くこともなかった。侵略 しんりゃく の定義 ていぎ は1933年 ねん に「侵略 しんりゃく の定義 ていぎ に関 かん する条約 じょうやく 」(the London Convention on the Definition of Aggression)により初 はじ めて法典 ほうてん 化 か の試 こころ みが行 おこな われたが、この条約 じょうやく はわずか8カ国 かこく (ルーマニア 、エストニア 、ラトビア 、ポーランド 、トルコ 、ソヴィエト 、ペルシア 、アフガニスタン )の間 あいだ で結 むす ばれるにとどまった[ 6] 。
1938年 ねん 9月 がつ 30日 にち 、国際 こくさい 連盟 れんめい は日本 にっぽん の中国 ちゅうごく における国家 こっか 行為 こうい を「既存 きそん の法的 ほうてき 文書 ぶんしょ に基 もとづ いても自衛 じえい 権 けん に基 もとづ いても」正当 せいとう 化 か できず、日本 にっぽん は1928年 ねん 8月 がつ 27日 にち のパリ条約 じょうやく (不戦 ふせん 条約 じょうやく のこと)に基 もと づく日本 にっぽん の義務 ぎむ に反 はん しており、これを「侵略 しんりゃく 」と名指 なざ しする中華民国 ちゅうかみんこく の主張 しゅちょう が正当 せいとう であると決議 けつぎ し、連盟 れんめい に加盟 かめい していない主要 しゅよう 国 こく (米国 べいこく 、日本 にっぽん 、ドイツ、ブラジル、コスタリカ、グアテマラ、ホンジェラス、ニカラグア)に通知 つうち している[ 7] 。
極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん における言及 げんきゅう
編集 へんしゅう
極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん では、日本 にっぽん 側 がわ 弁護人 べんごにん の高柳 たかやなぎ 賢三 けんぞう が、裁判所 さいばんしょ に提出 ていしゅつ した「検察 けんさつ 側 がわ の国際 こくさい 法 ほう 論 ろん に対 たい する弁護 べんご 側 がわ の反駁 はんばく 」(1947年 ねん 2月 がつ 24日 にち 第 だい 166回 かい 公判 こうはん では全文 ぜんぶん 却下 きゃっか 全面 ぜんめん 朗読 ろうどく 禁止 きんし 、1948年 ねん 3月 がつ 3~4日 にち 第 だい 384~385回 かい 公判 こうはん にて全文 ぜんぶん 朗読 ろうどく )の中 なか で、各国 かっこく の指導 しどう 的 てき 政治 せいじ 家 か の言明 げんめい 、特 とく にアメリカ上院 じょういん におけるケロッグ長官 ちょうかん およびボラー上院 じょういん 議員 ぎいん の明瞭 めいりょう かつ疑 うたが いの余地 よち を残 のこ さない条約 じょうやく 案 あん の説明 せつめい に照 て らして、パリ不戦 ふせん 条約 じょうやく 締約 ていやく 国 こく の意思 いし が次 つぎ のようなものであったことを説明 せつめい し、不戦 ふせん 条約 じょうやく が満州 まんしゅう 事変 じへん 以降 いこう の日本 にっぽん の戦争 せんそう を断罪 だんざい し被告人 ひこくにん を処罰 しょばつ するための法的 ほうてき 根拠 こんきょ には成 な り得 え ないと論駁 ろんばく した[ 8] 。
本 ほん 条約 じょうやく は自衛 じえい 行為 こうい を排除 はいじょ しないこと。
自衛 じえい は領土 りょうど 防衛 ぼうえい に限 かぎ られないこと。
自衛 じえい は、各国 かっこく が自国 じこく の国防 こくぼう または国家 こっか に危険 きけん を及 およ ぼす可能 かのう 性 せい あるごとき事態 じたい を防止 ぼうし するため、その必要 ひつよう と信 しん じる処置 しょち をとる権利 けんり を包含 ほうがん すること。
自衛 じえい 措置 そち をとる国 くに が、それが自衛 じえい なりや否 いな やの問題 もんだい の唯一 ゆいいつ の判定 はんてい 権 けん 者 しゃ であること。
自衛 じえい の問題 もんだい の決定 けってい はいかなる裁判所 さいばんしょ にも委 ゆだ ねられるべきでないこと。
いかなる国家 こっか も、他国 たこく の行為 こうい が自国 じこく に対 たい する攻撃 こうげき とならざるかぎり該行為 こうい に関 かん する自衛 じえい 問題 もんだい の決定 けってい には関与 かんよ すべからざること。
極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判所 さいばんしょ インド代表 だいひょう 判事 はんじ ラダ・ビノード・パール は、パル判決 はんけつ 書 しょ の中 なか で不戦 ふせん 条約 じょうやく に関 かん して博引 はくいん 傍証 ぼうしょう した上 うえ で次 つぎ のように結論 けつろん づけた[ 9] 。
国際 こくさい 生活 せいかつ において、自衛 じえい 戦 せん は禁止 きんし されていないばかりでなく、また各国 かっこく とも、「自衛 じえい 権 けん がどんな行為 こうい を包含 ほうがん するか、またいつそれが行使 こうし されるかを自 みずか ら判断 はんだん する特権 とっけん 」を保持 ほじ するというこの単一 たんいつ の事実 じじつ は、本官 ほんかん の意見 いけん では、この条約 じょうやく を法 ほう の範疇 はんちゅう から除外 じょがい するに十分 じゅうぶん である。ケロッグ氏 し が声明 せいめい したように、自衛 じえい 権 けん は関係 かんけい 国 こく の主権 しゅけん 下 か にある領土 りょうど の防衛 ぼうえい だけに限 かぎ られていなかったのである(中略 ちゅうりゃく )。本官 ほんかん 自身 じしん の見解 けんかい では、国際 こくさい 社会 しゃかい において、戦争 せんそう は従来 じゅうらい と同様 どうよう に法 ほう の圏外 けんがい にあって、その戦争 せんそう のやり方 かた だけが法 ほう の圏内 けんない に導入 どうにゅう されてきたのである。パリ条約 じょうやく は法 ほう の範疇 はんちゅう 内 ない には全然 ぜんぜん はいることなく、したがって一 いち 交戦 こうせん 国 こく の法的 ほうてき 立場 たちば 、あるいは交戦 こうせん 状態 じょうたい より派生 はせい する法律 ほうりつ 的 てき 諸 しょ 問題 もんだい に関 かん しては、なんらの変化 へんか をももたらさなかったのである
しかし、多数 たすう 意見 いけん である極東 きょくとう 国際 こくさい 軍事 ぐんじ 裁判 さいばん 判決 はんけつ 書 しょ においては、「ケロッグ・ブリアン条約 じょうやく を最 もっと も寛大 かんだい に解釈 かいしゃく しても、自衛 じえい 権 けん は、戦争 せんそう に訴 うった える国家 こっか に対 たい して、その行動 こうどう が正当 せいとう かどうかを最後 さいご 的 てき に決定 けってい する権限 けんげん を与 あた えるものではない。右 みぎ に述 の べた以外 いがい のどのような解釈 かいしゃく も、この条約 じょうやく を無効 むこう にするものである。本 ほん 裁判所 さいばんしょ は、この条約 じょうやく を締結 ていけつ するにあたって、諸国 しょこく が空虚 くうきょ な芝居 しばい をするつもりであったとは信 しん じない。」[ 10] とし、弁護 べんご 側 がわ の主張 しゅちょう を却下 きゃっか している。
信夫 しのぶ 淳 じゅん 平 ひらた は、第 だい 33回 かい 学士 がくし 院 いん 恩賜 おんし 賞 しょう を受 う けた戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 講義 こうぎ に次 つぎ の辛辣 しんらつ な不戦 ふせん 条約 じょうやく 評 ひょう を引用 いんよう した。
「ケロッグ氏 し の原 げん 提案 ていあん は戦 せん の無条件 むじょうけん 的 てき 抛棄 ほうき であった。然 しか るに仏 ふつ 英 えい 両国 りょうこく の解釈 かいしゃく の限定 げんてい を受 う けたる結果 けっか として、本 ほん 条約 じょうやく は最早 もはや や戦 せん の抛棄 ほうき を構成 こうせい せざるものとなった。当事 とうじ 国 こく 各自 かくじ が勝手 かって に解釈 かいしゃく し、勝手 かって に裁定 さいてい する所 ところ の自衛 じえい という戦 せん は、本 ほん 条約 じょうやく に依 よ り総 すべ て認可 にんか せられる。これ等 とう の例外 れいがい 及 およ び留保 りゅうほ の巾 はば さを考 かんがえ うるに於 おい ては、過去 かこ 一 いち 百 ひゃく 年間 ねんかん に於 お ける何 いず れの戦 せん も、また向後 こうご のそれとても、一 ひと つとしてその中 なか に編入 へんにゅう せられざるものありとは思 おも えない。本 ほん 条約 じょうやく は戦 せん を抛棄 ほうき するどころか、之 これ を公 おおやけ 々然 しか と認可 にんか するものである。戦 たたかえ なるものは過去 かこ に於 おい ては、適法 てきほう でも違法 いほう でもなき一種 いっしゅ の疾病 しっぺい と見 み られた。然 しか るに今日 きょう は、この世界 せかい 的 てき の一 いち 条約 じょうやく に依 よ り、事実 じじつ 総 すべ ての戦 せん は公的 こうてき 承認 しょうにん の刻印 こくいん を得 え たのである。本 ほん 条約 じょうやく 第 だい 一 いち 条 じょう の単 たん なる抽象 ちゅうしょう 的 てき の戦 せん の放棄 ほうき は、本 ほん 条約 じょうやく に付随 ふずい する解釈 かいしゃく に依 よ りて認可 にんか せられたる具体 ぐたい 的 てき の戦 せん の前 まえ に最早 もはや や之 これ を適用 てきよう する余地 よち は全然 ぜんぜん 無 な いのである。」(Borehard & Lage,Neutrality for the U.S.,pp.292-3) — 信夫 しのぶ 淳 じゅん 平 ひらめ 、戦時 せんじ 国際 こくさい 法 ほう 講義 こうぎ 第 だい 一 いち 巻 かん p.702-703
信夫 しのぶ も不戦 ふせん 条約 じょうやく の解釈 かいしゃく を分析 ぶんせき した上 うえ で「自衛 じえい の果 は たして自衛 じえい なるやは、個人 こじん 間 あいだ の正当 せいとう 防衛 ぼうえい が裁判所 さいばんしょ に依 よ りて判定 はんてい せらるるのとは異 こと なり、戦 せん を遂行 すいこう する国 くに 自身 じしん が判定 はんてい するのであるから、自衛 じえい 戦 せん を適法 てきほう と認 みとめ むる不戦 ふせん 条約 じょうやく の下 した にありては、殆 ほとん ど全 すべ ての戦 せん は適法 てきほう の戦 せん として公認 こうにん せらるるのである。不戦 ふせん 条約 じょうやく は不戦 ふせん どころか、大概 たいがい の戦 せん の遂行 すいこう を適法 てきほう のものとして裏書 うらがき きするものである」と指摘 してき し、不戦 ふせん 条約 じょうやく による戦争 せんそう の違法 いほう 化 か を否定 ひてい した[ 11] 。
1929年 ねん 4月 がつ に開 ひら かれたアメリカ国際 こくさい 法 ほう 学会 がっかい 年次 ねんじ 大会 たいかい において、基調 きちょう 講演 こうえん を行 おこな ったペンシルバニア大学 だいがく のローランド・モリス 教授 きょうじゅ は、「交換 こうかん 公文 こうぶん だけでなく米 べい 上院 じょういん 報告 ほうこく 書 しょ も条約 じょうやく の一部 いちぶ を構成 こうせい することにいかなる合理 ごうり 的 てき 疑 うたが いもない。それに基 もと づけば、何 なに が自衛 じえい に当 あ たるかに関 かん して無 む 制限 せいげん の裁量 さいりょう が当事 とうじ 国 こく に認 みと められている以上 いじょう 、公的 こうてき 解釈 かいしゃく として、条約 じょうやく 本文 ほんぶん が課 か する法的 ほうてき 義務 ぎむ は無効 むこう 化 か されている。すべての戦争 せんそう を放棄 ほうき するという条約 じょうやく の道徳 どうとく 的 てき 義務 ぎむ に無頓着 むとんじゃく であってはならないけれども、不戦 ふせん 条約 じょうやく は法 ほう を形成 けいせい する条約 じょうやく ではなく、主権 しゅけん 国家 こっか による自力 じりき 救済 きゅうさい の容認 ようにん という、国際 こくさい 法 ほう 上 じょう 確立 かくりつ した原則 げんそく にいかなる意味 いみ でも影響 えいきょう を与 あた えない」と述 の べた。戦争 せんそう 放棄 ほうき の理想 りそう を裏切 うらぎ る国際 こくさい 政治 せいじ の実態 じったい を厳 きび しく批判 ひはん していたイェール大学 だいがく のエドウィン・ボーチャード 教授 きょうじゅ も、質疑 しつぎ のなかで、「この条約 じょうやく は法的 ほうてき 効果 こうか の点 てん では、要 よう するにゼロ」と認 みと めていた[ 12] 。
フランスの国際 こくさい 法学 ほうがく 者 しゃ のジョルジュ・セル やジュール・プルドモー らは、不戦 ふせん 条約 じょうやく が史上 しじょう 初 はじ めて国策 こくさく の手段 しゅだん としてのあらゆる戦争 せんそう を禁止 きんし したとしてその意義 いぎ を評価 ひょうか する一方 いっぽう で、仲裁 ちゅうさい や管轄 かんかつ 権 けん といった語 かたり が一切 いっさい 現 あらわ れないことや、条約 じょうやく 違反 いはん 国 こく に対 たい して他 た の締約 ていやく 国 こく が実施 じっし すべき集団 しゅうだん 的 てき 制裁 せいさい についての規定 きてい が存在 そんざい しないことを問題 もんだい 点 てん として挙 あ げた[ 13] 。レンヌ大学 だいがく の若 わか い教授 きょうじゅ で政治 せいじ 活動 かつどう 家 か でもあったピエール・コット は、不戦 ふせん 条約 じょうやく は戦争 せんそう に対 たい する厳粛 げんしゅく な非難 ひなん を表明 ひょうめい したに過 す ぎず、アングロサクソン的 てき な平和 へいわ 主義 しゅぎ アプローチを採用 さいよう したこの条約 じょうやく は理想 りそう よりも現実 げんじつ を重 おも んじるフランスにとってあまり好 この ましいものではないと述 の べ、戦争 せんそう を真 しん に不可能 ふかのう にするためには、武力 ぶりょく に訴 うった えることを禁止 きんし し、国家 こっか 間 あいだ 紛争 ふんそう を平和 へいわ 的 てき 解決 かいけつ の手続 てつづ きに付託 ふたく することを全 すべ ての国家 こっか に義務付 ぎむづ ける必要 ひつよう があると主張 しゅちょう した[ 15] 。
加瀬 かせ 英明 ひであき によれば、ケロッグ国務 こくむ 長官 ちょうかん が1928年 ねん 12月7日 にち のアメリカ議会 ぎかい 上院 じょういん の不戦 ふせん 条約 じょうやく 批准 ひじゅん の是非 ぜひ をめぐる討議 とうぎ において、経済 けいざい 封鎖 ふうさ は戦争 せんそう 行為 こうい そのものだと断言 だんげん したことを挙 あ げて、日米 にちべい 戦争 せんそう については、日本 にっぽん ではなくアメリカが侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の罪 つみ で裁 さば かれるべきだったとしている[ 16] 。
イェール大学 だいがく 法学部 ほうがくぶ のオーナ・ハサウェイ (英語 えいご 版 ばん ) とスコット・シャピーロ (英語 えいご 版 ばん ) によれば[ 17] 、この不戦 ふせん 条約 じょうやく が締結 ていけつ される1928年 ねん 以前 いぜん の旧 きゅう 世界 せかい 秩序 ちつじょ は、戦時 せんじ 中 ちゅう でなければ殺人 さつじん 罪 ざい に問 と われるような大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ でも戦争 せんそう を行 おこな うものには免責 めんせき を認 みと められるのにもかかわらず中立 ちゅうりつ 国 こく が交戦 こうせん 国 こく に経済 けいざい 制裁 せいさい を科 か すことは違法 いほう とされており[ 18] 、1928年 ねん 以前 いぜん の旧 きゅう 世界 せかい 秩序 ちつじょ では中立 ちゅうりつ 国 こく は交戦 こうせん 国 こく のうちの片方 かたがた の国 くに との貿易 ぼうえき を行 おこな うことは、中立 ちゅうりつ の義務 ぎむ に違反 いはん したとされ、他方 たほう の交戦 こうせん 国 こく から攻撃 こうげき される恐 おそ れがあった。しかし両氏 りょうし によれば、この不戦 ふせん 条約 じょうやく によって戦争 せんそう を起 お こすことは違法 いほう となり、条約 じょうやく に違反 いはん する国家 こっか に対 たい して経済 けいざい 制裁 せいさい を行 おこな うことは侵略 しんりゃく 国 こく に対 たい する合法 ごうほう 的 てき な手段 しゅだん となったのであるとし[ 18] 、第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん は戦争 せんそう によって領土 りょうど 拡張 かくちょう を図 はか るドイツやイタリア、日本 にっぽん のような枢軸 すうじく 国 こく と、ブロック経済 けいざい を敷 し きさらにレンドリース法 ほう に基 もと づいてイギリスやソ連 それん を支援 しえん したアメリカのような連合 れんごう 国 こく という旧 きゅう 世界 せかい 秩序 ちつじょ と新 しん 世界 せかい 秩序 ちつじょ の間 あいだ の戦 たたか いであったと主張 しゅちょう している[ 17] 。
当 とう 条約 じょうやく には期限 きげん や、脱退 だったい ・破棄 はき ・失効 しっこう 条項 じょうこう が予定 よてい されていないため、この条約 じょうやく は現在 げんざい でも有効 ゆうこう との論 ろん がある[ 19] [ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。
国際 こくさい 政治 せいじ 学者 がくしゃ の佐瀬 させ 昌 あきら 盛 もり は参議院 さんぎいん の憲法 けんぽう 調査 ちょうさ 会 かい (第 だい 159回 かい 国会 こっかい 、第 だい 1号 ごう 、平成 へいせい 16年 ねん 2月 がつ 18日 にち )において「不戦 ふせん 条約 じょうやく は現行 げんこう 有効 ゆうこう な条約 じょうやく 」(発言 はつげん No.19)「多 おお くの主要 しゅよう 国 こく が署名 しょめい し、現在 げんざい 有効 ゆうこう である不戦 ふせん 条約 じょうやく 」(No.65)と発言 はつげん している。
一方 いっぽう で条約 じょうやく 違反 いはん 国 こく の爾後 じご の加盟 かめい については明 あき らかでなく、神川 かみかわ 彦松 ひこまつ は当 とう 条約 じょうやく に失効 しっこう 条項 じょうこう が予定 よてい されていないことを重視 じゅうし し、国際 こくさい 連盟 れんめい 規約 きやく やロカルノ条約 じょうやく 、そのほかの仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 条約 じょうやく に対 たい して締結 ていけつ 国 こく が違反 いはん した場合 ばあい 、不戦 ふせん 条約 じょうやく は同時 どうじ に失効 しっこう するとした[ 20] 。
当 とう 条約 じょうやく と類似 るいじ の著名 ちょめい な主張 しゅちょう 、各国 かっこく 憲法 けんぽう 、国際 こくさい 条約 じょうやく などには以下 いか がある[ 21] 。
フランス
国民 こくみん は、
征服 せいふく の
目的 もくてき をもって、いかなる
戦争 せんそう をも
行 おこな うことを
放棄 ほうき し、またいかなる
国民 こくみん の
自由 じゆう に
対 たい しても
決 けっ して
武力 ぶりょく を
行使 こうし しない。
— 1791年 ねん フランス憲法 けんぽう [ 21]
1931年 ねん スペイン憲法 けんぽう (国際 こくさい 紛争 ふんそう を解決 かいけつ する手段 しゅだん としての戦争 せんそう の放棄 ほうき )
1935年 ねん フィリピン憲法 けんぽう (国際 こくさい 紛争 ふんそう を解決 かいけつ する手段 しゅだん としての戦争 せんそう の放棄 ほうき )
1945年 ねん 国際 こくさい 連合 れんごう 憲章 けんしょう
いかなる
紛争 ふんそう でもその
継続 けいぞく が
国際 こくさい の
平和 へいわ 及 およ び
安全 あんぜん の
維持 いじ を
危 き くする
虞 おそれ のあるものについては、その
当事 とうじ 者 しゃ は、まず
第 だい 一 いち に、
交渉 こうしょう 、
審査 しんさ 、
仲介 ちゅうかい 、
調停 ちょうてい 、
仲裁 ちゅうさい 裁判 さいばん 、
司法 しほう 的 てき 解決 かいけつ 、
地域 ちいき 的 てき 機関 きかん 又 また は
地域 ちいき 的 てき 取 と 極 きょく の
利用 りよう その
他 た 当事 とうじ 者 しゃ が
選 えら ぶ
平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん による
解決 かいけつ を
求 もと めなければならない。
— 国際 こくさい 連合 れんごう 憲章 けんしょう 第 だい 33条 じょう (1945年 ねん 6月 がつ )[ 23]
日本 にっぽん 国民 こくみん は、
正義 せいぎ と
秩序 ちつじょ を
基調 きちょう とする
国際 こくさい 平和 へいわ を
誠実 せいじつ に
希求 ききゅう し、
国権 こっけん の
発動 はつどう たる
戦争 せんそう と、
武力 ぶりょく による
威嚇 いかく 又 また は
武力 ぶりょく の
行使 こうし は、
国際 こくさい 紛争 ふんそう を
解決 かいけつ する
手段 しゅだん としては、
永久 えいきゅう にこれを
放棄 ほうき する。
— 日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう 第 だい 9条 じょう 第 だい 1項 こう [ 24]
イタリアは、
他 た 人民 じんみん の
自由 じゆう に
対 たい する
攻撃 こうげき の
手段 しゅだん としての
戦争 せんそう 及 およ び
国際 こくさい 紛争 ふんそう を
解決 かいけつ する
手段 しゅだん としての
戦争 せんそう を
放棄 ほうき する(
以下 いか 略 りゃく 国際 こくさい 連合 れんごう や
集団 しゅうだん 安全 あんぜん 保障 ほしょう 体制 たいせい の
肯定 こうてい )
— イタリア憲法 けんぽう 第 だい 11条 じょう
1946年 ねん ブラジル憲法 けんぽう
1947年 ねん 東 ひがし ドイツ憲法 けんぽう
1949年 ねん 西 にし ドイツ憲法 けんぽう
諸 しょ 国民 こくみん の平和 へいわ 的 てき 共存 きょうぞん を阻害 そがい するおそれがあり、かつこのような意図 いと でなされた行為 こうい 、とくに侵略 しんりゃく 戦争 せんそう の遂行 すいこう を準備 じゅんび する行為 こうい は、違憲 いけん である。これらの行為 こうい は処罰 しょばつ される。 — ドイツ基本 きほん 法 ほう 第 だい 26条 じょう 第 だい 1項 こう
大韓民国 だいかんみんこく は国際 こくさい 平和 へいわ の維持 いじ に努力 どりょく し侵略 しんりゃく 的 てき 戦争 せんそう を否認 ひにん する。 — 大韓民国 だいかんみんこく 第 だい 六 ろく 共和 きょうわ 国 こく 憲法 けんぽう 第 だい 5条 じょう 第 だい 1項 こう
^ 現代 げんだい 風 ふう の表記 ひょうき :第 だい 1条 じょう 締約 ていやく 国 こく は、国際 こくさい 紛争 ふんそう 解決 かいけつ のために戦争 せんそう に訴 うった えることを正 ただ しくないとし、かつ、その相互 そうご の関係 かんけい において国家 こっか 政策 せいさく の手段 しゅだん として戦争 せんそう を放棄 ほうき することを、その各々 おのおの の人民 じんみん の名 な において厳粛 げんしゅく に宣言 せんげん する。
第 だい 2条 じょう 締約 ていやく 国 こく は、相互 そうご 間 あいだ に発生 はっせい する紛争 ふんそう 又 また は衝突 しょうとつ の処理 しょり 又 また は解決 かいけつ を、その性質 せいしつ または原因 げんいん の如何 いか を問 と わず、平和 へいわ 的 てき 手段 しゅだん 以外 いがい に求 もと めないことを約束 やくそく する
^
Article I
The High Contracting Parties solemnly declare in the names of their respective peoples that they condemn recourse to war for the solution of international controversies and renounce it as an instrument of national policy in their relations with one another.
Article II
The High Contracting Parties agree that the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise among them, shall never be sought except by pacific means.
^ イギリス司法 しほう 長官 ちょうかん は「(この)条約 じょうやく は現在 げんざい も有効 ゆうこう でありイギリスは加盟 かめい している」とする。イギリス議会 ぎかい 2013年 ねん 12月16日 にち 議事 ぎじ 録 ろく [1]
^ チェンバレン外相 がいしょう 宛 あて アサートン駐 ちゅう 英 えい アメリカ大使 たいし 信書 しんしょ 1928.6.23
^ 「支 ささえ 那 な 国 こく 政府 せいふ の不戦 ふせん 条約 じょうやく 加入 かにゅう と国民 こくみん 政府 せいふ 承認 しょうにん 問題 もんだい との関係 かんけい 」昭和 しょうわ 3年 ねん 11月6日 にち [2] アジア歴史 れきし 資料 しりょう センター:レファレンスコードB04122285900
^ 竹村 たけむら 仁美 ひとみ 「国際 こくさい 刑事 けいじ 裁判所 さいばんしょ 規程 きてい 検討 けんとう 会議 かいぎ の成果 せいか 及 およ び今後 こんご の課題 かだい 」『九州国際大学 きゅうしゅうこくさいだいがく 法学 ほうがく 論集 ろんしゅう 』第 だい 17巻 かん 第 だい 2号 ごう 、九州国際大学 きゅうしゅうこくさいだいがく 法学部 ほうがくぶ 、2010年 ねん 12月、1 - 42頁 ぺーじ 、NAID 110007973722 、NCID AN10479341 、2020年 ねん 6月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
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^ 小堀 こぼり 桂一郎 けいいちろう ・編 へん 「東京 とうきょう 裁判 さいばん 日本 にっぽん の弁明 べんめい -却下 きゃっか 未 み 提出 ていしゅつ 弁護 べんご 側 がわ 資料 しりょう 抜粋 ばっすい 」(講談社 こうだんしゃ 、1995年 ねん )172頁 ぺーじ 。
^ 東京 とうきょう 裁判 さいばん 研究 けんきゅう 会 かい ・編 へん 「共同 きょうどう 研究 けんきゅう パル判決 はんけつ 書 しょ 」上巻 じょうかん (講談社 こうだんしゃ 、1984年 ねん )316~352頁 ぺーじ 。
^ 極東 きょくとう 軍事 ぐんじ 裁判所 さいばんしょ 判決 はんけつ 第 だい 3章 しょう 34頁 ぺーじ
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^ a b オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著 ちょ 、野中 のなか 香 かおり 方子 のりこ 訳 やく 『逆転 ぎゃくてん の大戦 たいせん 争 そう 史 し 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、2018年 ねん 10月 がつ 10日 とおか 、254頁 ぺーじ 。ISBN 9784163909127 。
^ a b オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著 ちょ 、野中 のなか 香 かおり 方子 のりこ 訳 やく 『逆転 ぎゃくてん の大戦 たいせん 争 そう 史 し 』文藝春秋 ぶんげいしゅんじゅう 、2018年 ねん 10月 がつ 10日 とおか 、17頁 ぺーじ 。ISBN 9784163909127 。
^ Eva Buchheit: Der Briand-Kellog-Pakt von 1928 – Machtpolitik oder Friedensstreben? (Studien zur Friedensforschung, 10), Lit Verlag, Münster 1998, P.358
^ 神川 かみかわ 彦松 ひこまつ 「不戦 ふせん 条約 じょうやく の価値 かち 批判 ひはん 」(『外交 がいこう 時報 じほう 』昭和 しょうわ 3年 ねん 9月 がつ 号 ごう )(神川 かみかわ 彦松 ひこまつ 全集 ぜんしゅう 第 だい 九 きゅう 巻 かん 所 しょ 集 しゅう )P.810
^ a b 戦争 せんそう 放棄 ほうき とは - 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)
^ サン・ピエール - 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)
^ 国連 こくれん 憲章 けんしょう テキスト - 国連 こくれん 広報 こうほう センター
^ 日本国 にっぽんこく 憲法 けんぽう - 衆議院 しゅうぎいん