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芦田均 - Wikipedia

芦田あしだひとし

日本にっぽんだい47だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん (1887-1959)

芦田あしだ ひとし(あしだ ひとし、1887ねん明治めいじ20ねん11月15にち - 1959ねん昭和しょうわ34ねん6がつ20日はつか)は、日本にっぽん外交がいこうかん政治せいじ位階いかいしたがえ勲等くんとう勲一等くんいっとう学位がくい法学ほうがく博士はかせ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく)。

芦田あしだ ひとし
あしだ ひとし
芦田あしだ肖像しょうぞう写真しゃしん
生年月日せいねんがっぴ 1887ねん11月15にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 京都きょうと天田あまだぐん宮村みやむら
げん福知山ふくちやまみや
ぼつ年月日ねんがっぴ (1959-06-20) 1959ねん6がつ20日はつか(71さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょうみなと
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく法学部ほうがくぶ仏法ぶっぽう卒業そつぎょう
ぜんしょく ざいベルギー日本にっぽん大使館たいしかん参事官さんじかん
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
正統せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
無所属むしょぞく→)
翼賛よくさん政治せいじかい→)
日本にっぽん自由党じゆうとう→)
民主党みんしゅとう→)
国民こくみん民主党みんしゅとう→)
あらためしんとう→)
日本にっぽん民主党みんしゅとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
法学ほうがく博士はかせ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく1912ねん
配偶はいぐうしゃ 芦田あしだ寿美としみ
子女しじょ 長女ちょうじょ下河辺しもこうべ美世みよ
次女じじょ遠藤えんどうルリ
長男ちょうなん芦田あしだおさむ太郎たろう(夭折ようせつ)
次男じなん芦田あしだとみ(海上かいじょう自衛隊じえいたい)[1]
親族しんぞく 芦田あしだ鹿之助しかのすけちち[2]
下河辺しもこうべさんむすめ婿むこ
下河辺しもこうべ元春もとはるまご
下河辺しもこうべはれさんまご
サイン

内閣ないかく 芦田あしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1948ねん3がつ10日とおか - 1948ねん10月15にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

内閣ないかく 片山かたやま内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1947ねん6月1にち - 1948ねん3がつ10日とおか

日本の旗 だい67・68だい 外務がいむ大臣だいじん
内閣ないかく 片山かたやま内閣ないかくふく総理そうり兼任けんにん
芦田あしだ内閣ないかく首相しゅしょう兼任けんにん
在任ざいにん期間きかん 1947ねん6がつ1にち - 1948ねん10がつ15にち

内閣ないかく ぬさ原内はらうちかく
在任ざいにん期間きかん 1945ねん10月9にち - 1946ねん5月22にち

選挙せんきょ京都きょうとだい3→)
京都きょうとぜん→)
京都きょうとだい2
当選とうせん回数かいすう 11かい
在任ざいにん期間きかん 1932ねん2がつ21にち - 1959ねん6がつ20日はつか
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衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(11)、厚生こうせい大臣だいじんだい14だい)、外務がいむ大臣だいじんだい7677だい)、内閣ないかく総理そうり大臣だいじんだい47だい)を歴任れきにんした。

概説がいせつ

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外交がいこうかん政界せいかいり。立憲りっけん政友せいゆうかい所属しょぞくして外務省がいむしょうとのパイプ役ぱいぷやくつとめた。軍国ぐんこく主義しゅぎひろまる議会ぎかいにおいてリベラリストとして活動かつどうした。戦後せんご自由党じゆうとう結成けっせい関与かんよしたのち離党りとうして民主党みんしゅとう結党けっとうし、ふく総理そうり芦田あしだ内閣ないかく首班しゅはんした。

生涯しょうがい

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ぜん半生はんせい

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1931ねん外交がいこうかん時代じだい

芦田あしだ1887ねん11月15にち京都きょうと天田あまだぐん宮村みやむらのちちゅうろくにんむら現在げんざい福知山ふくちやま)にまれた。生家せいか豪農ごうのうであった。社会しゃかい民主みんしゅ国民こくみん協同きょうどう3とう連立れんりつないかくのパートナーであり、大学だいがく時代じだい同級生どうきゅうせいでもあった片山かたやまあきらは、芦田あしだ死後しごまもなく衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎおこなった追悼ついとう演説えんぜつで、芦田あしだ政界せいかいはいるまでをこのようにべている。

芦田あしだくんは、(中略ちゅうりゃく元本がんぽんいん議員ぎいん芦田あしだ鹿之助しかのすけ次男じなんとしてまれ、ながじて第一高等学校だいちこうとうがっこう東京とうきょう大学だいがく法学部ほうがくぶまなばれました。(中略ちゅうりゃく在学ざいがくちゅう、すでに外交がいこうかんおよ領事りょうじかん試験しけん合格ごうかくせられたのであります。明治めいじよんじゅうねん卒業そつぎょうとともに、こく在勤ざいきん外交がいこうかんとして赴任ふにんせられ、外交がいこうかん生活せいかつ第一歩だいいっぽされたのであります。その大使館たいしかんさんとう書記官しょきかん外務がいむ書記官しょきかんけん参事官さんじかん大使館たいしかん一等いっとう書記官しょきかんとして欧州おうしゅう各国かっこく歴任れきにんせられたのでありますが、(中略ちゅうりゃく昭和しょうわななねん、ベルギー在勤ざいきん大使館たいしかん参事官さんじかん最後さいごとして退官たいかんし、当時とうじ横暴おうぼうをきわめておりましたる軍部ぐんぶ外交がいこうたたかわんがために、ただちに立憲りっけん政友せいゆうかい入党にゅうとうし、同年どうねんがつだいじゅうはちかい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ京都きょうとだいからって、みごと当選とうせん栄冠えいかんられたのであります。 — 片山かたやまあきら、「だい32かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎ 1959(昭和しょうわ34)ねん6がつ24にち[3]

芦田あしだ東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく卒業そつぎょう1912ねん外務省がいむしょうはい外交がいこうかんとなった。最初さいしょ勤務きんむロシアではロシア革命かくめいせっし、1918ねん赴任ふにんしたフランスではパリ講和こうわ会議かいぎにしている。1925ねんには一等いっとう書記官しょきかんとして、日土ひづちあいだ国交こっこう樹立じゅりつにともないトルコイスタンブール開設かいせつされた日本にっぽん大使館たいしかん[注釈ちゅうしゃく 1]赴任ふにんした。1928ねん10月から1929ねん11月にかけて初代しょだいちゅうトルコ大使たいしである小幡おばたとりきち帰朝きちょうにともない臨時りんじ代理だいり大使たいしつとめ、このあいだ参事官さんじかんへと昇格しょうかくした[4]。トルコでの芦田あしだは「海峡かいきょう問題もんだい」(ボスポラス海峡かいきょうダーダネルス海峡かいきょう通航つうこう制度せいど)やバルカン諸国しょこくなどについて研究けんきゅうし、りょう海峡かいきょう通航つうこう制度せいど当時とうじ通航つうこう制度せいどであったローザンヌ条約じょうやく問題もんだいてんをまとめた学位がくい請求せいきゅう論文ろんぶん国際こくさいほう国際こくさい政治せいじヨリタル黒海こっかいなみくん海峡かいきょう地位ちい」を執筆しっぴつすると、母校ぼこうである東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく提出ていしゅつして1929ねん法学ほうがく博士はかせ[5]授与じゅよされた。なお、この論文ろんぶん翌年よくねんきみ海峡かいきょう通航つうこう制度せいど史論しろん』として出版しゅっぱんされている。1930ねんからはちゅうベルギー大使館たいしかん勤務きんむとなり、1932ねん退官たいかんして帰国きこくすると政界せいかい転身てんしんした。

芦田あしだ戦前せんぜん戦中せんちゅうとおしてリベラルな政治せいじ姿勢しせいられており、斎藤さいとう隆夫たかお反軍はんぐん演説えんぜつさいには、牧野まきの良三りょうぞう宮脇みやわき長吉ちょうきちらとともに除名じょめい反対はんたいひょうとうじた。政友せいゆうかい解党かいとう鳩山はとやま一郎いちろうひきいるどう交会はいり、1942ねんだい21かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ(いわゆる「翼賛よくさん選挙せんきょ」)では推薦すいせん当選とうせんした。議会ぎかいそとでは言論げんろんじんとしても活躍かつやくし、外交がいこうかん時代じだいの『きみ海峡かいきょう通航つうこう制度せいど史論しろん』のほか、政治せいじへの転身てんしん執筆しっぴつ活動かつどうつづ時局じきょく外交がいこうかんする著書ちょしょおお発表はっぴょうしている。政界せいかい1933ねんから1939ねんにかけてジャパンタイムズ社長しゃちょうつとめたほか、ダイヤモンド社だいやもんどしゃ石山いしやま賢吉けんきちなどとも親交しんこうった。

戦後せんご活動かつどう

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憲法けんぽう9じょう芦田あしだ修正しゅうせい

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戦後せんごまもなく、衆議院しゅうぎいん帝国ていこく憲法けんぽう改正かいせいしょう委員いいんかい憲法けんぽう改正かいせい草案そうあん審議しんぎにおいて、「芦田あしだ修正しゅうせい」とばれる修正しゅうせいおこなわれた。この修正しゅうせい芦田あしだ試案しあんなどが重要じゅうようなたたきだいとなっており、芦田あしだ意図いとなどもふくめ、憲法けんぽう論議ろんぎにおける重要じゅうよう論点ろんてんとなっている。

芦田あしだ内閣ないかく発足ほっそく

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1945ねん10月9にちぬさ原内はらうちかく閣僚かくりょうらと(後列こうれつみぎから3にん
 
1948ねん3がつ10日とおか芦田あしだ内閣ないかく閣僚かくりょうらと(前列ぜんれつみぎから3にん

1948ねん3がつ芦田あしだ内閣ないかく発足ほっそくした。芦田あしだ内閣ないかくにおいては戦後せんご日本にっぽん基礎きそとなるおおくの法律ほうりつ成立せいりつしている。しん憲法けんぽうもとづく刑事けいじ訴訟そしょうほう全面ぜんめん改正かいせい警察けいさつ組織そしき抜本ばっぽん改革かいかくきゅう警察けいさつほう制定せいてい)、国家こっか行政ぎょうせい組織そしきほうとそれにもとづく中小企業庁ちゅうしょうきぎょうちょう石炭せきたんちょう建設省けんせつしょう海上保安庁かいじょうほあんちょう水産庁すいさんちょう経済けいざい調査ちょうさちょうといったかく行政ぎょうせいちょう設置せっちほう教育きょういく委員いいんかいほう日本にっぽん学術がくじゅつ会議かいぎほう警察官けいさつかん職務しょくむ執行しっこうほう行政ぎょうせいだい執行しっこうほう地方ちほう財政ざいせいほう検察けんさつ審査しんさかいほう軽犯罪法けいはんざいほう風営法ふうえいほうなどがそれである。しかし、芦田あしだ自身じしん総理そうり大臣だいじんとして対応たいおうしたのはインフレ対策たいさく労働ろうどう攻勢こうせいへの対処たいしょであった。GHQは中道ちゅうどう芦田あしだ政権せいけん好意こういてきで、これらの課題かだい後押あとおししたが、政権せいけん脆弱ぜいじゃく政権せいけん基盤きばん野党やとう自由党じゆうとうからの攻撃こうげき苦慮くりょつづけ、独自どくじ政策せいさく余裕よゆうとぼしかった。芦田あしだ当時とうじだれ担当たんとうしても連合れんごうこく政策せいさく沿以外いがいはなかったといている。これはいちめん真理しんりではあるが、吉田よしだしげる首相しゅしょうおなじく占領せんりょう政策せいさくわくないにありながら、マッカーサーや、しばしば米国べいこく政府せいふとも直接ちょくせつわたってみずからの政策せいさく実現じつげん尽力じんりょくしたような指導しどうりょくなかったという事情じじょうおおきかった。

前任ぜんにんしゃ片山かたやま社会党しゃかいとう委員いいんちょうでかつ熱心ねっしんクリスチャンでありながら、昭和しょうわ天皇てんのう護持ごじしんくだいたのにたいし、芦田あしだは「しん憲法けんぽうになって以後いごあま陛下へいか内政ないせい外交がいこう立入たちいりになるごと印象いんしょうあたえることは、皇室こうしつのためにも、日本にっぽんのためにもいことではない」と、憲法けんぽう記載きさいされているとおり、天皇てんのう元首げんしゅとしてではなくあくまで象徴しょうちょうとしてあつかうことをこころがけた。首相しゅしょう就任しゅうにんまもなく芦田あしだは、これ以降いこう閣僚かくりょう内奏ないそうめるむね奏上そうじょうした。芦田あしだ自身じしん外相がいしょう時代じだい天皇てんのう上奏じょうそうをほとんどおこなわなかったため、鈴木すずきはじめ侍従じじゅう次長じちょうは「陛下へいか外交がいこう問題もんだいについて宸念あそばしてゐる(中略ちゅうりゃく)外務がいむ大臣だいじん内奏ないそうえないのか(中略ちゅうりゃく)えるなら土曜日どようびでもよろしい」と、当時とうじ外務がいむ事務次官じむじかんだった岡崎おかざき勝男かつおつたえ、芦田あしだは「御上おかみ思召おぼしめし」ならくべきと判断はんだん宮中きゅうちゅう参内さんだいした。

芦田あしだ内閣ないかく崩壊ほうかい

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だが芦田あしだ内閣ないかくやく半年はんとしで、西尾にしお献金けんきん問題もんだい昭和電工しょうわでんこう事件じけん惨憺さんたんたる結末けつまつむかえた。西尾にしお献金けんきん問題もんだいでは派生はせいして政党せいとう創設そうせつ問題もんだい浮上ふじょうして、芦田あしだ自身じしん証人しょうにん喚問かんもんをされた。昭和電工しょうわでんこう事件じけんで1948ねん10がつ芦田あしだ内閣ないかくそう辞職じしょくし、芦田あしだ自身じしん収賄しゅうわい起訴きそされた。しかし、判決はんけつは「かねをもらって昭和電工しょうわでんこうたいして便宜べんぎはからせることを栗栖くりす大蔵たいぞう大臣だいじんはたらきかけていた」ことは認定にんていしたが、「外務がいむ大臣だいじん芦田あしだには職務しょくむ権限けんげんはない」として無罪むざいだった。このことをけて、1958ねん刑法けいほう改正かいせい斡旋あっせん収賄しゅうわいざいもうけられた。昭和電工しょうわでんこう事件じけん事情じじょう聴取ちょうしゅされたものやく2,000にん逮捕たいほしゃ64にん(うち現職げんしょく国会こっかい議員ぎいん10にん)。裁判さいばん結果けっか有罪ゆうざい2めいのみだった。

首相しゅしょう退任たいにん

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政治せいじとしては、1955ねん保守ほしゅ合同ごうどう参加さんか自由民主党じゆうみんしゅとう外交がいこう調査ちょうさ会長かいちょう就任しゅうにんハンガリー動乱どうらんさいにはソ連それん批判ひはんてき立場たちばから「日本にっぽんハンガリー救援きゅうえんかい」を組織そしきしている。晩年ばんねんやく10ねんは、史書ししょあらわこと重点じゅうてんいた。『芦田あしだ日記にっき』は占領せんりょう歴史れきし当事とうじしゃ立場たちばため備忘録びぼうろくだった。1959ねんに『だい世界せかい大戦たいせん外交がいこう』を病床びょうしょう口述こうじゅつ筆記ひっきにより完成かんせいさせた。同年どうねん6がつ20日はつか東京とうきょうみなと白金はっきん自宅じたくにて死去しきょ享年きょうねん71。衆議院しゅうぎいん議員ぎいん在任ざいにんちゅうで、4にちの6がつ24にちには衆議院しゅうぎいんほん会議かいぎ片山かたやまあきらにより追悼ついとう演説えんぜつおこなわれた。なお地盤じばん谷垣たにがきせんいちいだ。墓所はかしょ横浜よこはま総持寺そうじじ

著書ちょしょ革命かくめい前夜ぜんやのロシア』は、会話かいわぶん駆使くしした、ほとんど小説しょうせつおもむきがある回想かいそうろくで、日本にっぽん現役げんえき政治せいじ著作ちょさくとしてはきわめて異色いしょくである。鴨下かもした信一しんいちは『わすれられた名文めいぶんたち』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1998)で2ぺーじはんもの引用いんようのち「ああ、これはそっくりチェホフだ。日本にっぽんにはこういう文章ぶんしょう政治せいじもいたのである」とひょうしている。

栄典えいてん

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親族しんぞく関係かんけい

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芦田あしだはよく「わたし丹波たんば百姓ひゃくしょう息子むすこで…」とって吉田よしだしげる貴族きぞく趣味しゅみ名門めいもんびいきに対抗たいこうしていたが[9]芦田あしだ農家のうかといっても豪農ごうのう綾部あやべはんだい庄屋しょうや)であり、ちち鹿之助しかのすけ衆議院しゅうぎいん議員ぎいんつとめた政治せいじでもあった。ひとし寿ことぶきよし夫人ふじんとのあいだに2なん2じょをもうけたが[10]長女ちょうじょ美世みよ(1919年生ねんせい)([11]日本にっぽん鉱業こうぎょう(のちのジャパンエナジー)の社長しゃちょうつとめた下河辺しもこうべ建二けんじ次男じなん下河辺しもこうべさん[10][12][13]次女じじょ・ルリ(1925年生ねんせい)([11]大蔵おおくら官僚かんりょう遠藤えんどうゆたかとつ[12]、サチ、チサ、三郎さぶろうもうけた[14]長男ちょうなんおさむ太郎たろう(1922年生ねんせい)[11]は9さい早世そうせい[10]次男じなんとみ(1924年生ねんせい)([11]海上かいじょう自衛隊じえいたいはいった[10]、、なおむすめヤス子やすこがいる[14]とみつま芦田あしだおな外交がいこうかん仲間なかま吉沢よしざわ清次郎せいじろう次女じじょで、吉沢よしざわ長女ちょうじょ大蔵省おおくらしょう財務ざいむかん東京銀行とうきょうぎんこう会長かいちょうつとめた柏木かしわぎ雄介ゆうすけあに柏木かしわぎ一郎いちろうとついだ。吉沢よしざわ義父ぎふ鐘紡かねぼうもと社長しゃちょう武藤むとう山治やまじで、つまあね中上川なかみがわ彦次郎ひこじろう息子むすことついだ。義兄ぎけいおなじく鐘紡かねぼう社長しゃちょうつとめた武藤むとういと山治やまじ次男じなん)である。芦田あしだ武藤むとう中上川なかみがわ係累けいるいとおして福澤ふくさわ諭吉ゆきち松方まつかた正義まさよし実業じつぎょう岩崎いわさき弥太郎やたろう岩崎いわさき弥之助やのすけ兄弟きょうだい長與ながよ專齋せんさい緒方おがた洪庵こうあん山本やまもと権兵衛ごんべえなどの係累けいるいから天皇てんのう縁戚えんせきとなった。

吉沢よしざわ長女ちょうじょとつさきである柏木かしわぎ一郎いちろうおとうと雄介ゆうすけつまだい日本にっぽん明治めいじ製糖せいとう創業そうぎょう一族いちぞく相馬そうま敏夫としお敏夫としお義父ぎふ相馬そうまはん)のむすめで、相馬そうまのもう一人ひとりむすめ柏木かしわぎ雄介ゆうすけ夫人ふじんあね)はだい日本にっぽん麦酒びーる社長しゃちょう高橋たかはしユニオンズのオーナーもつとめた高橋たかはし龍太郎りゅうたろうおいとついだ。龍太郎りゅうたろう長男ちょうなん住友銀行すみともぎんこうふく頭取とうどりからアサヒビール社長しゃちょう転出てんしゅつした高橋たかはし吉隆よしたかで、次男じなん高橋たかはし敏夫としおむすめ吉隆よしたかめい)はもと衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう大蔵おおくら官僚かんりょう出身しゅっしん伊吹いぶき文明ふみあきとついだ。吉隆よしたかつま山口やまぐち財閥ざいばつ創業そうぎょう出身しゅっしんで、その係累けいるいをたどればいち万田まんだ尚登なおとにつながる。また、よしたかしよんじょ龍太郎りゅうたろう孫娘まごむすめ)は野村證券のむらしょうけん創業そうぎょうしゃ一族いちぞくである野村のむらあやえいとついでおり、芦田あしだ吉沢よしざわ柏木かしわぎ相馬そうま高橋たかはしとおして野村のむら財閥ざいばつ創業そうぎょう縁戚えんせきになった。柏木かしわぎ雄介ゆうすけ義弟ぎていである相馬そうま克美かつみ義父ぎふもと東邦とうほうガス会長かいちょう青木あおききよしで(青木あおき義父ぎふもと日銀にちぎん総裁そうさい結城ゆうき豊太郎ほうたろう)、青木あおきつまあね藤山ふじやま雷太らいた長男ちょうなん藤山ふじやま愛一郎あいいちろうとついでいる。愛一郎あいいちろう長男ちょうなん藤山ふじやま覚一かくいちろうヤマサ醤油じょうゆ濱口はまぐちから夫人ふじんむかえており、愛一郎あいいちろう長女ちょうじょサクラクレパス創業そうぎょうとついだ。

芦田あしだむすめ婿むこ下河辺しもこうべさんあににあたる下河辺しもこうべ孫一まごいち建二けんじ長男ちょうなん)は下河辺しもこうべ牧場ぼくじょう創業そうぎょうしゃであり[12][13]下河辺しもこうべ孫一まごいち次女じじょ牧子まきこドイツ文学ぶんがくしゃ小澤おざわ俊夫としおとついだ[12][13][15]ミュージシャンもとフリッパーズ・ギター小沢おざわ健二けんじ俊夫としお牧子まきこ夫妻ふさい次男じなんである[15]小澤おざわ俊夫としおおとうと小澤おざわ征爾せいじ有名ゆうめい指揮しきしゃで、征爾せいじ前妻ぜんさい江戸えど京子きょうこはピアニストで三井不動産みついふどうさんもと会長かいちょう江戸えど英雄ひでお長女ちょうじょである。しかし征爾せいじ江戸えど京子きょうこ離婚りこんしたのち、ファッションモデルの入江いりえ美樹みき再婚さいこん美樹みき夫人ふじんとのあいだ長女ちょうじょでエッセイストの小澤おざわ征良まさよし長男ちょうなん俳優はいゆう・タレントの小澤おざわただしえつをもうけている。小澤おざわ前妻ぜんさいいもうと、すなわち江戸えど次女じじょ医者いしゃである瀬川せかわいさお長男ちょうなん瀬川せかわ昌也まさやとついだ。江戸えどさんじょまるちゃ創業そうぎょうしゃ一族いちぞくとつぎ、その係累けいるいとおして芦田あしだ三井みついけい企業きぎょうソニー創業そうぎょうしゃである盛田もりた昭夫あきお盛田もりた義弟ぎてい岩間いわま和夫かずお、さらに山崎やまざきしゅ森永製菓もりながせいかもと会長かいちょう松崎まつざき昭雄あきお安倍晋三あべしんぞう義父ぎふ)などと縁戚えんせきとなった。

また下河辺しもこうべさん美世みよ夫妻ふさい長男ちょうなんで、芦田あしだまごにあたる下河辺しもこうべ元春もとはる国際こくさい政治せいじ学者がくしゃ進藤しんどう榮一えいいちとともに『芦田あしだひとし日記にっき』(ぜん7かん 岩波書店いわなみしょてん)の編纂へんさんにあたったことでられている[10]下河辺しもこうべ元春もとはるおとうと下河辺しもこうべはれさんさん美世みよ夫妻ふさい三男さんなん)は音楽おんがくプロデューサーとなった[13]、なおもとはるおとうとはれさんあに史郎しろうである[14]

著書ちょしょ

編集へんしゅう

たんちょ

編集へんしゅう
以下いか改題かいだい新編しんぺん

訳書やくしょ

編集へんしゅう
岩波書店いわなみしょてん(1986年刊ねんかん
柏書房かしわしょぼう(2012年刊ねんかん

論文ろんぶん

編集へんしゅう
  • おうふとし滅亡めつぼう考察こうさつ」『史学しがくだい19かんだい4ごう三田みた学会がっかい、1941ねん3がつ、1-65ぺーじNAID 110007472208 
  • 最近さいきん国際こくさい情勢じょうせい」『建築けんちく雑誌ざっしだい675ごう日本にっぽん建築けんちく学会がっかい、1941ねん6がつ、418-425ぺーじNAID 110003778794 
  • 「ロシアのテロリスト」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうだい28かんだい3ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1950ねん3がつ、144-153ぺーじNAID 40003427669 
  • 「ロシヤ皇后こうごうとラスプチン」『中央公論ちゅうおうこうろんだい65かんだい6ごう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1950ねん6がつ、144-155ぺーじNAID 40002401690 
  • 永世えいせい中立ちゅうりつ不可能ふかのうろん」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうだい28かんだい11ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1950ねん7がつ、2-7ぺーじNAID 40003427307 
  • 「W・チャーチルの教養きょうよう」『新潮しんちょうだい47かんだい7ごう新潮社しんちょうしゃ、1950ねん7がつ、64-70ぺーじNAID 40001923320 
  • 自由じゆう平和へいわのためのたたかい」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうだい29かんだい4ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1951ねん3がつ、32-38ぺーじNAID 40003427492 
  • 単独たんどく講和こうわろんいち盲点もうてんについて――小野おのくんへの回答かいとう」『中央公論ちゅうおうこうろんだい66かんだい3ごう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1951ねん3がつ、87-89ぺーじNAID 40002402825 
  • 国際こくさい情勢じょうせいとわがくに地位ちい」『にちろうけん資料しりょうだい115ごう日本にっぽん労働ろうどう研究所けんきゅうじょ、1951ねん3がつ、3-6ぺーじNAID 40002800472 
  • 日本にっぽんねらわれている」『婦人ふじん公論こうろんだい37かんだい4ごう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1951ねん4がつ、24-30ぺーじNAID 40003329579 
  • さい軍備ぐんびこれか――自由じゆう平和へいわまもる軍備ぐんび」『世界せかい週報しゅうほうだい32かんだい28ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1951ねん10がつ、16-18ぺーじNAID 40002148687 
  • 安全あんぜん保障ほしょうさい軍備ぐんび――べいせん場合ばあい日本にっぽん」『東洋経済新報とうようけいざいしんぽう 別冊べっさつだい5ごう東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃ、1951ねん10がつ、41-46ぺーじNAID 40002657626 
  • 能見のみぶつ」『観世かんぜだい19かんだい1ごうひのき書店しょてん、1952ねん1がつ、5-6ぺーじNAID 40000562028 
  • 自由じゆう平和へいわまもる軍備ぐんび絶対ぜったい必要ひつよう」『東邦とうほう経済けいざいだい13かんだい2ごう東邦とうほう経済けいざいしゃ、1952ねん2がつ、23-24ぺーじNAID 40002636270 
  • 政府せいふ不手際ふてぎわ行動こうどう――安保あんぽ条約じょうやく行政ぎょうせい協定きょうていに就て」『東邦とうほう経済けいざいだい13かんだい4ごう東邦とうほう経済けいざいしゃ、1952ねん4がつ、14-15ぺーじNAID 40002636700 
  • 法学ほうがくしゃはどうかんがえるか――戦争せんそう放棄ほうき戦力せんりょく」『世界せかいだい77ごう岩波書店いわなみしょてん、1952ねん5がつ、48-50ぺーじNAID 40002110577 
  • みずかまもらざるみんほろぶ」『経済けいざい時代じだいだい17かんだい6ごう経済けいざい時代じだいしゃ、1952ねん6がつ、16-23ぺーじNAID 40000872965 
  • 吉田よしだ引退いんたいするか」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうだい32かんだい17ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1954ねん11月、112-119ぺーじNAID 40003426429 
  • 「トインビー博士はかせ偉業いぎょう」『日本にっぽん歴史れきしだい80ごう吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1955ねん1がつ、2-4ぺーじNAID 40003063316 
  • ソ連それんたいにち要求ようきゅう不当ふとう」『しん政界せいかいだい2かんだい1ごうしん政界せいかいしゃ、1956ねん1がつNAID 40001908351 
  • しん憲法けんぽううまれるまで」『中央公論ちゅうおうこうろんだい71かんだい5ごう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1956ねん5がつ、40-47ぺーじNAID 40002388466 
  • 民主みんしゅ主義しゅぎ新聞しんぶん」『新聞しんぶん研究けんきゅうだい62ごう日本にっぽん新聞しんぶん協会きょうかい、1956ねん9がつ、21-23ぺーじNAID 40001960538 
  • にち交渉こうしょうについてのふたつの発言はつげん-慎重しんちょうろん立場たちばから」『世界せかいだい131ごう岩波書店いわなみしょてん、1956ねん11月、65-70ぺーじNAID 40002093943 
  • 自由じゆう解放かいほう精神せいしん――ソ連それん東欧とうおう進入しんにゅう衛星えいせい諸国しょこく」『経済けいざい時代じだいだい21かんだい12ごう経済けいざい時代じだいしゃ、1956ねん12月、24-28ぺーじNAID 40000872738 
  • 日本にっぽんはどっちをいている」『経済けいざい往来おうらいだい9かんだい10ごう経済けいざい往来おうらいしゃ、1957ねん10がつ、117-128ぺーじNAID 40000844163 
  • 「ロシア・バレーの今昔こんじゃく」『文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうだい35かんだい11ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅうしんしゃ、1957ねん11月、NAID 40003426082 
  • 「「しん思潮しちょう」の前後ぜんご」『文学ぶんがくかいだい12かんだい1ごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1958ねん1がつNAID 40003394176 
  • 核兵器かくへいき時代じだい外交がいこう」『大陸たいりく問題もんだいだい7かんだい3ごう大陸たいりく問題もんだい研究所けんきゅうじょ、1958ねん3がつ、10-29ぺーじNAID 40002299754 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(1)――近衛このえ内閣ないかく国交こっこう調整ちょうせい」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい14ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん4がつ、62-74ぺーじNAID 40002125506 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(2)――どく戦争せんそう」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい15ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん4がつ、74-82ぺーじNAID 40002125511 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(3)――えいべいたい援助えんじょ」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい16ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん4がつ、72-74ぺーじNAID 40002125518 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(4)――どく開戦かいせん日本にっぽん」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい17ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん4がつ、76-83ぺーじNAID 40002125524 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(5)――大西洋たいせいよう会談かいだん日本にっぽん」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい18ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん5がつ、70-83ぺーじNAID 40002125533 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(6)――べいえいらん報復ほうふく」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい19ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん5がつ、78-83ぺーじNAID 40002125542 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(7)――近衛このえついにをひく」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい20ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん5がつ、72-83ぺーじNAID 40002125543 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(8)――近衛このえより東条とうじょうへ」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい21ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん5がつ、78-83ぺーじNAID 40002125551 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(9)――たいにち戦備せんび最後さいご協定きょうていあん」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい22ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん5がつ、76-83ぺーじNAID 40002125559 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(10)――一路いちろ破局はきょくへ」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい23ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん6がつ、74-83ぺーじNAID 40002125497 
  • 日米にちべい開戦かいせんまで(11)かん――日米にちべい開戦かいせんまくっておとさる」『世界せかい週報しゅうほうだい40かんだい24ごう時事通信社じじつうしんしゃ、1959ねん6がつ、78-83ぺーじNAID 40002125568 
  • 帝国ていこく議会ぎかいにおける両院りょういん委員いいんちょう報告ほうこく 議事ぎじ速記そっきろく全文ぜんぶん」『政教せいきょう研究所けんきゅうじょ紀要きようだい1ごう国士舘大学こくしかんだいがく政教せいきょう研究所けんきゅうじょ、1974ねん4がつ、207-256ぺーじNAID 120005959011 

博士はかせ論文ろんぶん

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  • 国際こくさいほう国際こくさい政治せいじヨリタル黒海こっかいなみくん海峡かいきょう地位ちい」、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく、1929ねん4がつ16にちNAID 500000486775 

評伝ひょうでん研究けんきゅう

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関連かんれん作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1925ねん当時とうじ各国かっこく大使館たいしかんおおくはオスマン帝国ていこく時代じだい首都しゅとイスタンブールから移転いてんしておらず、日本にっぽんしん首都しゅとアンカラではなくイスタンブールに大使館たいしかん開設かいせつした。松谷まつや『イスタンブールをあいした人々ひとびと』、pp.140-142.
  2. ^ ただし、フランスの短編たんぺん小説しょうせつあおひげななにんつま』は1912ねんに『雄弁ゆうべん』に掲載けいさいされた作品さくひんぎないという記録きろくもある。松田まつだ義男よしおへん (2003ねん4がつ28にち). “芦田あしだひとし著作ちょさく目録もくろく”. http://ymatsuda.kill.jp/. 2019ねん5がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2019ねん5がつ25にち閲覧えつらん

出典しゅってん

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  1. ^ 経済けいざい交渉こうしょう」から日米にちべい戦後せんご真実しんじつ
  2. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 35ぺーじ
  3. ^ 衆議院しゅうぎいん会議かいぎろく情報じょうほう だい032かい国会こっかい ほん会議かいぎ だい2ごう
  4. ^ 松谷まつや『イスタンブールをあいした人々ひとびと』、p.130.
  5. ^ 国立こくりつ国会こっかい図書館としょかん. “博士はかせ論文ろんぶん国際こくさいほう国際こくさい政治せいじヨリタル黒海こっかいなみくん海峡かいきょう地位ちい”. 2024ねん4がつ25にち閲覧えつらん
  6. ^ 芦田あしだひとしと 『ジャパン・タイムズ』―1930年代ねんだいにおける日本にっぽん対外たいがい宣伝せんでんいち側面そくめん矢嶋やじまひかり名城めいじょう法学ほうがく 65(1・2) 23-54 2015ねん11月
  7. ^ 官報かんぽうだい2431ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1920ねん9がつ8にち
  8. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  9. ^ 佐藤さとうねやばつ』、p.292.
  10. ^ a b c d e 池上いけがみあきらまな日本にっぽん総理そうり 30』、p.25.
  11. ^ a b c d https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-743
  12. ^ a b c d 佐藤さとうねやばつ』、p.293.
  13. ^ a b c d 財界ざいかい系譜けいふ大観たいかんだい6はん - だい8はん
  14. ^ a b c 竹内たけうち正浩まさひろ:「家系かけい」と「お屋敷やしき」で歴代れきだい総理そうり大臣だいじん 昭和しょうわ平成へいせいへん
  15. ^ a b 小谷野こやの日本にっぽん有名ゆうめい一族いちぞく』、pp.47-49.
  16. ^ だい2しゅう金森かなもり徳次郎とくじろう

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
片山かたやまあきら
  内閣ないかく総理そうり大臣だいじん
だい47だい:1948ねん
次代じだい
吉田よしだしげる
先代せんだい
ぬさはら喜重郎きじゅうろう
  国務大臣こくむだいじんふく総理そうり
1947ねん - 1948ねん
次代じだい
西尾にしお末廣すえひろ
先代せんだい
吉田よしだしげる
  外務がいむ大臣だいじん
だい76・77だい:1947ねん - 1948ねん
次代じだい
吉田よしだしげる
先代せんだい
吉田よしだしげる
  終戦しゅうせん連絡れんらく中央ちゅうおう事務じむきょく総裁そうさい
だい3だい:1947ねん - 1948ねん
次代じだい
曽祢そねえき
とうしょく
先代せんだい
結成けっせい
日本にっぽん民主党みんしゅとう最高さいこう委員いいん
初代しょだい : 1954ねん - 1955ねん
次代じだい
自由民主党じゆうみんしゅとう
先代せんだい
結成けっせい
民主党みんしゅとう総裁そうさい
初代しょだい : 1947ねん - 1948ねん
次代じだい
いぬやしなえけん
先代せんだい
ほししま二郎じろう
日本にっぽん自由党じゆうとう政務せいむ調査ちょうさ会長かいちょう
だい4だい : 1946ねん - 1947ねん
次代じだい
大村おおむら清一せいいち