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畑俊六 - Wikipedia

はた俊六しゅんろく

日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん

はた 俊六しゅんろく(はた しゅんろく、1879ねん明治めいじ12ねん7がつ26にち - 1962ねん昭和しょうわ37ねん5がつ10日とおか)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう偕行社かいこうしゃ会長かいちょう位階いかい勲等くんとうしたがえ勲一等くんいっとうこういちきゅう[1]陸海りくかいぐんとおしたぜん元帥げんすい最後さいごのこりであった(大元帥だいげんすいである昭和しょうわ天皇てんのうのぞく)。

はた 俊六しゅんろくはた しゅんろく
元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう はた 俊六しゅんろく
生誕せいたん 1879ねん7がつ26にち
日本の旗 日本にっぽん 福島ふくしまけん
死没しぼつ (1962-05-10) 1962ねん5がつ10日とおか(82さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1900ねん - 1945ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 元帥げんすい陸軍りくぐん大将たいしょう
除隊じょたい 偕行社かいこうしゃ会長かいちょう
墓所はかしょ 毛呂山もろやままち武蔵野むさしの霊園れいえん
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あに英太郎えいたろう陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむ局長きょくちょう関東軍かんとうぐん司令しれいかんつとめた陸軍りくぐん大将たいしょう長男ちょうなんしゅんはち陸軍りくぐん技術ぎじゅつ大尉たいい

生涯しょうがい

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にち戦争せんそう出征しゅっせい直前ちょくぜんはたけ兄弟きょうだい(ひだり俊六しゅんろく みぎ英太郎えいたろう)

ちちきゅう会津あいづはんはたけのうけん[* 1]。6さいのとき四谷よつや尋常じんじょう小学校しょうがっこう入学にゅうがく、のち12さいのときにちち転勤てんきんしたが函館はこだてへ。函館はこだて弥生やよい小学校しょうがっこう高等こうとう4ねん在学ざいがくの13さいのとき一等いっとうしょう授与じゅよされる。ちちが46さい死去しきょしたことにともな上京じょうきょう。14さいのときに東京とうきょう尋常じんじょう中学校ちゅうがっこう(のちの東京とうきょう府立ふりつだいいち中学校ちゅうがっこう入学にゅうがく

ぐんれき

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以後いご陸軍りくぐん中央ちゅうおう幼年ようねん学校がっこうて、1900ねん明治めいじ33ねん)に陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう12を11ばん/655めい砲兵ほうへいでは中根なかね壽郎としお渡邊わたなべ良三りょうぞう小出こいで忠義ただよしいで4ばん)を卒業そつぎょう中尉ちゅういにち戦争せんそう従軍じゅうぐん負傷ふしょう1910ねん明治めいじ43ねん)に陸軍りくぐんだい学校がっこうだい22、1ばん/51めい)を卒業そつぎょうする。卒業そつぎょうしきにおける御前ごぜん講義こうぎのテーマは「奉天ほうてん会戦かいせんニ於ケルかもみどりこうぐん」。

ドイツ大使館たいしかんづけ武官ぶかん補佐ほさかん参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん班長はんちょう参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょうけん軍令ぐんれい参謀さんぼう航空こうくう本部ほんぶちょうなど作戦さくせん関係かんけい要職ようしょく歴任れきにんし、参謀さんぼう本部ほんぶだいよんだいいち部長ぶちょう砲兵ほうへいかんだいじゅうよん師団しだんちょう1936ねん昭和しょうわ11ねん)に台湾たいわんぐん司令しれいかんよく1937ねん昭和しょうわ12ねん)に陸軍りくぐん大将たいしょう昇任しょうにんし、軍事ぐんじ参議さんぎかん陸軍りくぐん教育きょういく総監そうかん兼任けんにんする。同年どうねんには、はやしずくじゅうろうらととも首班しゅはん指名しめい候補こうほされる。南京なんきん事件じけんたいして、ちゅうささえ派遣はけんぐん司令しれいかん松井まついいし大将たいしょうらの交代こうたい陸軍りくぐん大臣だいじん進言しんげんした[2]よく1938ねん昭和しょうわ13ねん)には松井まついわりにちゅうささえ派遣はけんぐん司令しれいかんとなり、じょしゅうせん武漢ぶかん作戦さくせん指揮しきした。

1939ねん昭和しょうわ14ねん)に侍従じじゅう武官ぶかんちょう就任しゅうにん昭和しょうわ天皇てんのう信任しんにんあつく、「陸相りくしょうはたけ梅津うめづえらぶべし」との言葉ことばから侍従じじゅう武官ぶかんちょうをわずか3ヶ月かげつめ、同年どうねん8がつ成立せいりつした阿部あべ内閣ないかく陸軍りくぐん大臣だいじん就任しゅうにんした。天皇てんのう温厚おんこう誠実せいじつ俊六しゅんろく陸相りくしょうえることで、阿部あべとのいちちゅうコンビでにちどくさんこく同盟どうめいささえ事変じへんでの陸軍りくぐん暴走ぼうそう歯止はどめをけると期待きたいされていたが、膠着こうちゃく状態じょうたいだっすることはできなかった。なお、陸相りくしょう在任ざいにんちゅう戦陣せんじんくん考案こうあんした。

 
1938ねんじょしゅうにおけるはた俊六しゅんろく大将たいしょうひだり)と寺内てらうち壽一ひさいち大将たいしょう

阿部あべ内閣ないかくたおれると、はたけ後継こうけい本命ほんめい一人ひとりであったが実現じつげんせず[3]つづべい内内うちうちかくでも天皇てんのうから内閣ないかくへの協力きょうりょく厳命げんめいされて陸相りくしょう留任りゅうにんした[4]。しかし、陸軍りくぐん倒閣とうかく運動うんどう開始かいし近衛このえによる「しん体制たいせい運動うんどう」もかたち陸軍りくぐん翼賛よくさん運動うんどうえていった[4]陸軍りくぐんにちどくさんこく同盟どうめい締結ていけつすすめるべきとして、外交がいこう政策せいさく一新いっしんとなえ、ついに次長じちょう澤田さわだしげる代筆だいひつによる参謀さんぼう総長そうちょう閑院みやじん親王しんのうからの書簡しょかんけて、はたけ陸相りくしょう単独たんどく辞任じにん陸軍りくぐん具体ぐたいてきにはさん長官ちょうかん会議かいぎ)は後任こうにん陸相りくしょうさず[5]べい内内うちうちかく瓦解がかいすることとなった[4]当時とうじ陸軍りくぐん横暴おうぼう片棒かたぼうかついだという非難ひなん生涯しょうがいつづけることとなったが、このときの経緯けいいにつきはたけ弁解べんかいすることはなかった。[よう出典しゅってん]また、東京とうきょう裁判さいばんにおいても、このべい内内うちうちかく倒閣とうかくけんが、はたけ罪状ざいじょうにおいてもっと重視じゅうしされることとなる。

太平洋戦争たいへいようせんそう

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1941ねん昭和しょうわ16ねん)にささえ派遣はけんぐんそう司令しれいかんとなり在職ざいしょくちゅうの7がつに、ドイツぐんたい攻勢こうせい呼応こおうして関東軍かんとうぐん特種とくしゅ演習えんしゅう発動はつどうされてたいせん企図きとされると、はたけ野田のだ謙吾けんごそう参謀さんぼう副長ふくちょうおよ松谷まつやまこと参謀さんぼう参謀さんぼう本部ほんぶ派遣はけんし、「目下めした鋭意えいいささえ事変じへん解決かいけつ専念せんねんようあり」と具申ぐしんさせ、たいせん発動はつどう中止ちゅうし一因いちいんつくった。また、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんさいしても、「日米にちべい交渉こうしょうは、なにとしても成功せいこうさせてほしい」との意見いけん[6]土橋どばしいさむいっそう参謀さんぼう副長ふくちょう松谷まつや参謀さんぼう再度さいど参謀さんぼう本部ほんぶ派遣はけんして前回ぜんかい同様どうようささえ事変じへん解決かいけつ優先ゆうせんすべきと意見いけん具申ぐしんしたが、塚田つかだおさむ参謀さんぼう次長じちょうより「ささえ事変じへん解決かいけつのためにはべいえいたい援助えんじょ遮断しゃだんする必要ひつようがある」と反論はんろんされ、具申ぐしんとおらなかった。

太平洋戦争たいへいようせんそうはじまると、太平洋たいへいようビルマのたたか日本にっぽんぐん劣勢れっせいになる1944ねん昭和しょうわ19ねん)に元帥げんすいとなっている。はたけ日本にっぽん陸海りくかいぐん最後さいご元帥げんすいれつされた軍人ぐんじんとなった。また、同年どうねんまつには中国ちゅうごく戦線せんせんにおいて大陸たいりくどおり作戦さくせん指揮しき中華民国ちゅうかみんこくぐんとアメリカぐんだい勝利しょうりおさ国民こくみんよろこばせた。

1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ小磯こいそ内閣ないかくそう辞職じしょく後継こうけいめる重臣じゅうしん会議かいぎ東條とうじょう英機ひできから総理そうりされたが、重臣じゅうしんたち鈴木すずき貫太郎かんたろうしたため、就任しゅうにん実現じつげんしなかった。同月どうげつ本土ほんど決戦けっせんそなえてだい2そうぐん西日本にしにほん防衛ぼうえい担当たんとう司令しれい広島ひろしま)が設立せつりつされると、その司令しれいかんとなる。同年どうねん8がつ6にち広島ひろしまへの原子げんしばくだん投下とうかにより、国鉄こくてつ広島ひろしまえき付近ふきん被爆ひばくするも奇跡きせきてきなんのがれた。被爆ひばく直後ちょくごからはたけ広島ひろしま市内しない罹災りさいしゃ援護えんご陣頭じんとう指揮しきり、広島ひろしま警備けいび命令めいれい発令はつれいした。そのしょくにて終戦しゅうせんむかえる。

終戦しゅうせん間際まぎわの1945ねん8がつ14にち10昭和しょうわ天皇てんのう御前ごぜん会議かいぎ開催かいさい先立さきだって元帥げんすい会議かいぎ召集しょうしゅうし、はたけ杉山すぎやまはじめだいいちそうぐん司令しれいかん)、永野ながの修身しゅうしんもと軍令ぐんれい総長そうちょう)の3元帥げんすいより意見いけん聴取ちょうしゅしたさい杉山すぎやま永野ながの主戦しゅせんろんるなか、はたけのみは「担任たんにん正面しょうめん防御ぼうぎょに就てはてき撃攘げきじょうるといふ確信かくしん遺憾いかんながらなし」と率直そっちょく現状げんじょう説明せつめい、これが本土ほんど決戦けっせん不可能ふかのう昭和しょうわ天皇てんのう確信かくしんさせることになった[7][* 2]。なお、このときはたけ随行ずいこうして上京じょうきょうした白石しらいしとおるきょう参謀さんぼうは、義兄ぎけいもりたけし近衛このえだいいち師団しだんちょうたずねたさい宮城みやぎ事件じけんまれ、青年せいねん将校しょうこう殺害さつがいされている。

東京とうきょう裁判さいばん

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東京とうきょう裁判さいばんでのはた俊六しゅんろく

極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん東京とうきょう裁判さいばん)でははたけべい内内うちうちかく倒閣とうかくなどの罪状ざいじょうわれてAきゅう戦犯せんぱんとして起訴きそされる。占領せんりょうぐん見解けんかいでは、べい内内うちうちかく戦前せんぜん最後さいごしんえいべい内閣ないかくであり、前述ぜんじゅつのように、このべい内内うちうちかく倒閣とうかくしたという理由りゆうはたけ起訴きそされたのである。

しかし、この危機きき弁護べんごがわ証人しょうにんとして東京とうきょう裁判さいばん出廷しゅっていしたべいないは、当時とうじ内閣ないかく倒閣とうかく陰謀いんぼうすすめられていて、むしろはたけさんこく同盟どうめい反対はんたいだったために圧力あつりょくをかけられ、陸相りくしょう辞任じにんせまられたのだとおもうと回答かいとうした。検察けんさつがわは、当時とうじ新聞しんぶん記事きじとう証拠しょうこはたけはやくからさんこく同盟どうめい積極せっきょくてきべいないそう辞職じしょくせまっていたのではないかとの質問しつもんたいし「おもせません」「おぼえがありません」「わかりません」「(証拠しょうこ書類しょるいが)よくえません」「そんなことはありませんでした」などと徹底てっていして、みとめることはなかった。[8][* 3]

一方いっぽうで、首席しゅせき検事けんじキーナンは「あれはべいないはたけをかばったのだ。日本にっぽんがわ証人しょうにんなんひゃくにんたが、あんなひとはいない。国際こくさい軍事ぐんじ法廷ほうてい普通ふつう人間にんげんにあれだけの芝居しばい出来できるものではない」とべいない意図いと見抜みぬき、感服かんぷくしていた。陸相りくしょう単独たんどく辞任じにん内閣ないかく倒閣とうかくはたけ本人ほんにん本意ほんいではなく、陸軍りくぐんという組織そしき歯車はぐるまひとつとしてうごかざるをなかったことをべいないはよくわかっていたのである。キーナンは若槻わかつき禮次郎れいじろう宇垣うがき一成いっせい岡田おかだ啓介けいすけらとともべいないを「ファシストに抵抗ていこうした平和へいわ主義しゅぎしゃ」として賞賛しょうさんし、のちに私的してき晩餐ばんさんかいまねいて歓待かんたいした。[よう出典しゅってん]

東京とうきょう裁判さいばんわりころにはAきゅう平和へいわたいするつみだけでは死刑しけいになることはなく、BCきゅう捕虜ほりょ民間みんかんじん虐待ぎゃくたい虐殺ぎゃくさつといった一般いっぱん戦争せんそう犯罪はんざい関与かんよしないかぎり、死刑しけいになることはないという観測かんそく取材しゅざい記者きしゃらにひろがっていた[9]。しかし、はたけはAきゅう平和へいわたいするつみだけではなく、訴因そいん54の「違反いはん行為こうい命令めいれい、授権、許可きょかによる法規ほうき違犯いはん」と訴因そいん55の「違犯いはん行為こうい防止ぼうし責任せきにん無視むしによる法規ほうき違犯いはん」のBCきゅう一般いっぱん戦争せんそう犯罪はんざいたいするつみにおいても起訴きそされていた。結局けっきょくはたけちょうほうやノモンハン事件じけんとうのぞほとんどのAきゅう戦争せんそう共同きょうどう謀議ぼうぎ遂行すいこう責任せきにんと、BCきゅうでは訴因そいん54では無罪むざいながら訴因そいん55で有罪ゆうざいとなり、終身しゅうしん禁錮きんこ判決はんけつけた[10]。6年間ねんかん服役ふくえき1954ねん昭和しょうわ29ねん)に仮釈放かりしゃくほうけて出所しゅっしょした。

開戦かいせん太平洋戦争たいへいようせんそう)と海軍かいぐん責任せきにんについて

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戦後せんご巣鴨すがも収監しゅうかんされていたとき、はたけはその日誌にっしに、太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんにつき、海軍かいぐん陸軍りくぐん中国ちゅうごく大陸たいりくでの活躍かつやくへの嫉妬しっと功名こうみょうあらそいから莫大ばくだい予算よさんをとって厖大ぼうだい艦隊かんたいつくいち仕事しごとしてたまらないしょにたまたま日米にちべい交渉こうしょう決裂けつれつおこったので日米にちべい大戦たいせんそうとなった、海軍かいぐんはそのだい艦隊かんたいを惜気もなく潰滅かいめつさせて戦後せんご戦犯せんぱんとなるとすべてを陸軍りくぐんけてすずしいかおをしてあやしからん、としるし、さらに東京とうきょう裁判さいばん陸軍りくぐんものが6にん死刑しけいとなったのに海軍かいぐん死刑しけいになったもの一人ひとりもいないのはみょうだとまでいている[11]

また、回想かいそうメモのひとつには、海軍かいぐんにつき、「結果けっかおもえはしからずとれば宣伝せんでんつとすべての責任せきにん陸軍りくぐん転嫁てんかしたり。今次こんじ戦争せんそうごとき(りゃく海軍かいぐんさへ到底とうてい戦争せんそう出来できずとうんへば勃発ぼっぱつすべきはずなきに、しゅのう態度たいど頗不明瞭めいりょうにして首相しゅしょう一任いちにんごときわめて狡猾こうかつ態度たいどをとり、悲惨ひさんなる敗戦はいせん結果けっかとなるや、開戦かいせんせめ陸軍りくぐんにありと宣伝せんでんつとむむるがき、其心情しんじょう唾棄だきすべく武士ぶし風上かざかみにもけぬ代物しろものなり」ともき、くちきわめてののしっている[12]

しかし、海軍かいぐん出身しゅっしん総理そうりとなった米内よない光政みつまさについては、東京とうきょう裁判さいばんはたけかばってくれたことで別段べつだんおもいがあったのか、はたけはのちに「当時とうじ後難こうなんをおそれ、弁護べんごがわ証人しょうにんつことを回避かいひするのが一般いっぱん雰囲気ふんいきであったのに、米内よない大将たいしょう敢然かんぜんとしてわたし弁護べんごのために法廷ほうていたれ、裁判さいばんちょう追及ついきゅう非難ひなんものともせず、徹頭徹尾てっとうてつびわたしべい内内うちうちかく倒閣とうかく張本人ちょうほんにんでなかったことを弁護べんごされたことは、わたし感銘かんめいあたわざるところであって、その高邁こうまいにして同僚どうりょう擁護ようごする武将ぶしょう襟度きんどは、しん軍人ぐんじんかんとすべくこの一事いちじ米内よない大将たいしょう高潔こうけつ人格じんかく表象ひょうしょうしてあまりあるとしんじる」とかた[13]べいないたいする感謝かんしゃ感動かんどう終生しゅうせいふかわすれなかったという。

べいない没後ぼつご12ねん1960ねん昭和しょうわ35ねん)に郷里きょうりである盛岡もりおか盛岡もりおか八幡宮はちまんぐう境内けいだいかれ銅像どうぞうてられ、故人こじんゆかりの人々ひとびとあつまって除幕じょまくしきおこなわれた。そのしき直前ちょくぜんに、81さいはたけ人目ひとめけるように黙々もくもく周囲しゅういくさむしりをしていたのを目撃もくげきされている[14]

1962ねん昭和しょうわ37ねん)、福島ふくしまけん棚倉たなぐらまちにて戦没せんぼつしゃ慰霊いれい除幕じょまくしき出席しゅっせきちゅうたおれ、のうない出血しゅっけつのため死去しきょ[15]。82さいぼつ棚倉たなぐらしろ趾には「はた俊六しゅんろく終焉しゅうえん」のいしぶみっている。

戦陣せんじんくん

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昭和しょうわ16ねん(1941ねん1がつ8にち陸軍りくぐんはじめ観兵かんぺいしき東條とうじょう英機ひでき陸軍りくぐん大臣だいじんより示達じたつされた「きて虜囚りょしゅうはずかしめけず、してつみ汚名おめいのこすこと勿れ」の一節いっせつ有名ゆうめいりくさとしだいいちごう岩畔いわぐろ豪雄ひでおによると元々もともと岩畔いわぐろささえ事変じへんにおける軍紀ぐんき紊乱びんらん対策たいさくとして軍人ぐんじんみことのりさとし補足ほそくした訓示くんじ提案ていあんしたところ、板垣いたがき征四郎せいしろうはた俊六しゅんろくりょう陸軍りくぐん大臣だいじん山田やまだおつさん教育きょういく総監そうかん今村いまむらひとし教育きょういく総監そうかん本部ほんぶちょう鵜沢うざわ尚信なおのぶ教育きょういく総監そうかんだい1課長かちょう教育きょういく総監そうかん道徳どうとく教育きょういく担当たんとう浦辺うらべあきら陸軍りくぐん中尉ちゅうい白根しらね孝之たかゆきらにより作成さくせいされたとされる。

  • 1896ねん明治めいじ29ねん)9がつ - 陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう入学にゅうがく
  • 1898ねん明治めいじ31ねん)11月 - 同校どうこう卒業そつぎょう陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう入学にゅうがく(12
  • 1900ねん明治めいじ33ねん)11月 - 同校どうこう卒業そつぎょう
  • 1901ねん明治めいじ34ねん)6がつ - 少尉しょうい任官にんかん野砲やほうへいだい1連隊れんたいづけ
  • 1903ねん明治めいじ36ねん)11月 - 中尉ちゅうい進級しんきゅう
  • 1905ねん明治めいじ38ねん
    • 4がつ - 野砲やほうへいだい1連隊れんたい補充ほじゅう大隊だいたい中隊ちゅうたいちょう
    • 6がつ - 大尉たいい進級しんきゅう
  • 1906ねん明治めいじ39ねん)12月 - 陸軍りくぐんほうこう学校がっこう高等こうとう卒業そつぎょう
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)12月 - 陸軍りくぐんだい学校がっこう入学にゅうがく(22
  • 1910ねん明治めいじ43ねん
    • 11月 - りくだい卒業そつぎょう
    • 12月 - 参謀さんぼう本部ほんぶいん
  • 1912ねん明治めいじ45ねん)3がつ - ちゅうドイツ大使館たいしかんづけ武官ぶかん補佐ほさかん
  • 1914ねん大正たいしょう3ねん
    • 4がつ - 少佐しょうさ進級しんきゅう
    • 8がつ - スウェーデン駐在ちゅうざい
  • 1916ねん大正たいしょう5ねん)5がつ - 参謀さんぼう本部ほんぶいん
  • 1918ねん大正たいしょう7ねん
    • 7がつ - 中佐ちゅうさ進級しんきゅう
    • 8がつ - 軍令ぐんれい参謀さんぼう
    • 12月 - 欧州おうしゅう出張しゅっちょうパリ講和こうわ会議かいぎ全権ぜんけん随員ずいいん
  • 1919ねん大正たいしょう8ねん
    • 4がつ - 陸軍りくぐんだい学校がっこう教官きょうかん
    • 12月25にち - 参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん班長はんちょう
  • 1921ねん大正たいしょう10ねん)7がつ20日はつか - 大佐たいさ進級しんきゅう野砲やほうへいだい16連隊れんたいちょう
  • 1922ねん大正たいしょう11ねん)8がつ15にち - 陸軍りくぐん野戦やせん砲兵ほうへい学校がっこう教導きょうどう連隊れんたいちょう
  • 1923ねん大正たいしょう12ねん)8がつ6にち - 参謀さんぼう本部ほんぶ作戦さくせん課長かちょうけん軍令ぐんれい参謀さんぼう
  • 1926ねん大正たいしょう15ねん)3がつ2にち - 少将しょうしょう進級しんきゅう野戦やせん重砲じゅうほうへいだい4旅団りょだんちょう
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん)7がつ26にち - 参謀さんぼう本部ほんぶだい4部長ぶちょう
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん)8がつ10日とおか - 参謀さんぼう本部ほんぶだい1部長ぶちょう
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)8がつ1にち - 中将ちゅうじょう進級しんきゅう砲兵ほうへいかん
  • 1933ねん昭和しょうわ8ねん)8がつ1にち - だい14師団しだんちょう
  • 1935ねん昭和しょうわ10ねん)12月2にち - 航空こうくう本部ほんぶちょう
  • 1936ねん昭和しょうわ11ねん)8がつ1にち - 台湾たいわんぐん司令しれいかん
  • 1937ねん昭和しょうわ12ねん
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん
    • 2がつ14にち - ちゅうささえ派遣はけんぐん司令しれいかん
    • 12月15にち - 軍事ぐんじ参議さんぎかん
  • 1939ねん昭和しょうわ14ねん
  • 1940ねん昭和しょうわ15ねん)7がつ22にち - 陸軍りくぐん大臣だいじん単独たんどく辞任じにん軍事ぐんじ参議さんぎかん
  • 1941ねん昭和しょうわ16ねん)3がつ1にち - ささえ派遣はけんぐんそう司令しれいかん
  • 1944ねん昭和しょうわ19ねん
  • 1945ねん昭和しょうわ20ねん
  • 1948ねん昭和しょうわ23ねん)11月12にち - 東京とうきょう軍事ぐんじ裁判さいばん終身しゅうしんけい宣告せんこく
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん)10がつ - 仮釈放かりしゃくほう
  • 1958ねん昭和しょうわ33ねん
  • 1962ねん昭和しょうわ37ねん)5がつ10日とおか - 福島ふくしまけん棚倉たなぐら戦没せんぼつしゃ慰霊いれい除幕じょまくしき出席しゅっせきちゅうたお死去しきょまん82さい

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

著作ちょさく

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  • 小見山こみやまのぼる編著へんちょ へん巣鴨すがも日記にっき日本にっぽん文化ぶんか連合れんごうかい、1977ねん10がつNCID BN01708366全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:77012827 
    • 小見山こみやまのぼる編著へんちょ へん元帥げんすいはた俊六しゅんろく獄中ごくちゅうごくがい日誌にっしまえへん巣鴨すがも日記にっき)、日本人にっぽんじんどう主義しゅぎ協会きょうかい、1992ねん5がつNCID BN07359328全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:92044714 
    • 小見山こみやまのぼる編著へんちょ へん元帥げんすいはた俊六しゅんろく獄中ごくちゅうごくがい日誌にっしへん(陋廬日誌にっし)、日本人にっぽんじんどう主義しゅぎ協会きょうかい、1992ねん5がつNCID BN07359328全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:92044715 
  • 伊藤いとうたかし照沼てるぬま康孝やすたか へん陸軍りくぐん はた俊六しゅんろく日誌にっしみすず書房しょぼうぞく現代げんだい資料しりょう 4〉、1983ねん3がつISBN 9784622026549NCID BN00409290全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:83028754 
  • 軍事ぐんじ学会がっかい へん元帥げんすいはた俊六しゅんろく回顧かいころく伊藤いとうたかしはらつよし監修かんしゅうにしきせいしゃ、2009ねん7がつISBN 9784764603295NCID BA90659599全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:21634136 
  • はたけ極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん終身しゅうしん禁固きんこ判決はんけつ服役ふくえきした。やはり禁固刑きんこけいけて巣鴨すがもプリズン服役ふくえきしていた重光しげみつまもるによると、はたけ服役ふくえきちゅう揮毫きごうもとめられると、まって「馬上まけじゅうねんゆめまたゆめ 俊六しゅんろく」といたという。その達筆たっぴつぶりはなかなかのもので、本人ほんにんもこれだけは自慢じまんできるとほこらしげだったという。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ちゅうかん はたけ元帥げんすい』によれば、はたけ遠祖えんそはたけのう白虎隊びゃっこたいとして飯盛山いいもりさん自刃じじんした西川にしかわ勝太郎かつたろうはたけのうけん従弟じゅうていである。
  2. ^ 参謀さんぼう次長じちょう河辺かわべとらよんろう日記にっき8がつ14にちこうに「もっわれじん主張しゅちょうさらしてもら気持きもちにてありしが、じつ目的もくてきにはかなわざる実状じつじょうとなり、昨夜さくや皇族こうぞく会議かいぎ同様どうよう元帥げんすいたいしてもかつだいしんしんとして助力じょりょくするようにとのおおごとありしよしなり」とあり(ここでの河邊かわべ主張しゅちょうとは抗戦こうせん)、これによれば元帥げんすい奉答ほうとうもしくは上奏じょうそうにかかわらず昭和しょうわ天皇てんのう戦争せんそう終結しゅうけつ大元帥だいげんすい命令めいれいをくだしたとかんがえられる。
  3. ^ 検察官けんさつかんによる証人しょうにん尋問じんもんちゅうべいないなん注意ちゅういされても、検察官けんさつかん質問しつもんにはきちんとこたえずに、自身じしん主張しゅちょうしたい否定ひてい発言はつげんばかりをかえしていた。裁判さいばんちょうウェッブは「この総理そうりは、これまで証言しょうげんいたなかでもっともstupid(「にぶい」「鈍感どんかんな」といった意味合いみあいであろうか)な証人しょうにんだ」と本人ほんにん面前めんぜんかたったが、米内よない自身じしん証言しょうげん友人ゆうじんに「裁判さいばんちょうに、だいバカ提督ていとくののしられちゃったよ」とニコニコしていたという。 また、米内よない本人ほんにん証拠しょうこ新聞しんぶん記事きじげさせたうえ回答かいとうさせることになったが、そのときも同様どうよう態度たいどでなかなかげようとしなかったところ、弁護人べんごにんから、ちいさいので拡大鏡かくだいきょうがなければめないとたすぶねされた。これも本人ほんにんうべきことで弁護人べんごにんがそのような暗示あんじすべきでないといった注意ちゅういふくすうかいけている。べいないは、この弁護人べんごにんはなし調子ちょうしわせたが、いざ新聞しんぶんげるだんになって、ウェッブ裁判さいばんちょうに「拡大鏡かくだいきょういとめないことをわすれたのではありませんか」と皮肉ひにくわれ、今度こんどは「あかりがつきましたね(だから、めるようになった)」とかえしている。 ただし、このような態度たいど検察官けんさつかんたいはたけ責任せきにん最後さいごまでみとめなかったことにはなるとしても、どれほど弁護べんご役立やくだったかはからない。尋問じんもんちゅう検察官けんさつかん質問しつもんにまともに回答かいとうしないようならば信憑しんぴょうせいのない証人しょうにんとして退廷たいていさせることになると、べいない裁判さいばんちょうから注意ちゅういけていて、むしろ新聞しんぶん記事きじほう信頼しんらいせいがあるとの印象いんしょうあたえた可能かのうせいさえある。

出典しゅってん

編集へんしゅう
  1. ^ ちゅうかん はたけ元帥げんすい』7ぺーじ
  2. ^ 陸軍りくぐん はた俊六しゅんろく日誌にっし」(みすず書房しょぼう平成へいせい16ねん2004ねん))
  3. ^ 後継こうけい首班しゅはんはたけ大将たいしょう うちくるるしょう奏請そうせいかたむく 問題もんだいぐん反対はんたい気勢きせい大阪おおさか朝日新聞あさひしんぶん 1940.1.14 (昭和しょうわ15)
  4. ^ a b c 新名にいな丈夫たけお海軍かいぐん戦争せんそう検討けんとう会議かいぎ記録きろく(株)かぶしきがいしゃKADOKAWA、2022ねん10がつ10日とおか、58-59ぺーじ 
  5. ^ この場合ばあい軍部ぐんぶ大臣だいじん現役げんえき武官ぶかんせいにより内閣ないかく運営うんえい困難こんなんとなる。
  6. ^ 日本人にっぽんじんはなぜ戦争せんそうへとかったのか メディアと民衆みんしゅう指導しどうしゃへん』p135
  7. ^ 長谷川はせがわあつし暗闘あんとう スターリン、トルーマンと日本にっぽん降伏ごうぶくした)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2011ねん 152ぺーじ
  8. ^ きゅう極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん速記そっきろく和文わぶん)・昭和しょうわ22.9.11~昭和しょうわ22.11.20(だい269~318ごう”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん. pp. 61-64コマ. 2023ねん11月24にち閲覧えつらん
  9. ^ 秘録ひろくだい東亜とうあ戦史せんし 東京とうきょう裁判さいばんへん富士ふじしょえん、1953ねん、120ぺーじ 
  10. ^ きゅう極東きょくとう国際こくさい軍事ぐんじ裁判さいばん速記そっきろく和文わぶん)・昭和しょうわ23.11.4~昭和しょうわ23.11.12(判決はんけつ”. 国立こくりつ公文書こうぶんしょかん. 2023ねん11月27にち閲覧えつらん
  11. ^ はた 俊六しゅんろく ちょ伊藤いとう たかし, 照沼てるぬま 康孝やすたか へんぞく現代げんだい資料しりょう(4)陸軍りくぐん はた俊六しゅんろく日誌にっし』みすず書房しょぼう、1983ねん3がつ1にち、539-541ぺーじ 
  12. ^ 軍事ぐんじ学会がっかい伊藤いとうたかしはらつよし監修かんしゅうへん元帥げんすいはた俊六しゅんろく回顧かいころくにしきせいしゃ、2009ねん、469-480ぺーじ 
  13. ^ 実松さねまつゆずる新版しんぱん 米内よない光政みつまさ光人みつひとしゃ、1975ねん 329ぺーじ
  14. ^ 阿川あがわ弘之ひろゆき米内よない光政みつまさ』(新潮しんちょう文庫ぶんこ2002ねん改版かいはんISBN 4-10-111006-9 623ぺーじ
  15. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)22ぺーじ
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 法廷ほうていしょうだい106ごう: [はた俊六しゅんろく履歴りれきしょせきスル人事じんじきょく履歴りれきしょ]
  17. ^ 官報かんぽうだい5484ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん10がつ11にち
  18. ^ 官報かんぽうだい6188ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん2がつ20日はつか
  19. ^ 官報かんぽうだい6640ごう叙任じょにん及辞れい」1905ねん8がつ17にち
  20. ^ 官報かんぽうだい8185ごう叙任じょにん及辞れい」1910ねん10がつ1にち
  21. ^ 官報かんぽうだい976ごう叙任じょにん及辞れい」1915ねん11月1にち
  22. ^ 官報かんぽうだい2500ごう叙任じょにん及辞れい」1920ねん12月1にち
  23. ^ 官報かんぽうだい4045ごう叙任じょにん及辞れい」1926ねん2がつ20日はつか
  24. ^ 官報かんぽうだい1225ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん1がつ31にち
  25. ^ 官報かんぽうだい2007ごう叙任じょにん及辞れい」1933ねん9がつ7にち
  26. ^ 官報かんぽうだい2928ごう叙任じょにん及辞れい」1936ねん10がつ3にち
  27. ^ 官報かんぽう』1913ねん06がつ02にち 敍任じょにん及辭れい
  28. ^ 官報かんぽうだい2431ごう授爵じゅしゃく叙任じょにん及辞れい」1920ねん9がつ8にち
  29. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  30. ^ 官報かんぽうだい5214ごう叙任じょにん及辞れい」1944ねん6がつ3にち
  31. ^ 陸軍りくぐん中将ちゅうじょうはたしゅん六外九千三百六十八名満洲国建国功労章受領及佩用ノけん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113140200 
  32. ^ はた俊六しゅんろくがいななじゅうめい」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A10113475800 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 梅谷うめたに芳光よしみつ編著へんちょちゅうかん はたけ元帥げんすい』(国風くにぶりかい本部ほんぶ)、昭和しょうわ39ねん1964ねん
  • NHKスペシャル取材しゅざいはんへん 『日本人にっぽんじんはなぜ戦争せんそうへとかったのか メディアと民衆みんしゅう指導しどうしゃへん』、新潮社しんちょうしゃ、2015ねん

関連かんれん項目こうもく

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  • ややまつかい
  • 函館はこだて市立しりつ潮見しおみ中学校ちゅうがっこう - 戦前せんぜん存在そんざいしたの函館はこだて市民しみん運動うんどうじょう跡地あとち設置せっちされた中学校ちゅうがっこうで、このこうない建立こんりゅうされた『函館はこだて市民しみん運動うんどうじょう記念きねん』の碑文ひぶんはた俊六しゅんろく揮毫きごうした。

外部がいぶリンク

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先代せんだい
板垣いたがき征四郎せいしろう
陸軍りくぐん大臣だいじん
昭和しょうわ14ねん1939ねん) - 昭和しょうわ15ねん1940ねん
次代じだい
東條とうじょう英機ひでき