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東久邇宮内閣 - Wikipedia

ひがし久邇くに宮内くないかく

日本にっぽん内閣ないかく史上しじょう唯一ゆいいつ皇族こうぞくないかく

ひがし久邇くに宮内くないかく(ひがしくにのみやないかく)は、皇族こうぞく陸軍りくぐん大将たいしょうひがし久邇くにみや稔彦としひこおうだい43だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじん任命にんめいされ、1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ17にちから1945ねん昭和しょうわ20ねん10月9にちまでつづいた日本にっぽん内閣ないかく皇族こうぞく首班しゅはんとなった史上しじょう唯一ゆいいつ内閣ないかくである。在職ざいしょく日数にっすう54日間にちかん内閣ないかく制度せいど発足ほっそくながらく史上しじょう最短さいたん記録きろくであった[注釈ちゅうしゃく 1]ぞくに「みやさまないかく」などともばれた。

ひがし久邇くに宮内くないかく
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん だい43だい ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ17にち
終了しゅうりょう年月日ねんがっぴ 1945ねん昭和しょうわ20ねん10月9にち
与党よとう支持しじ基盤きばん 挙国一致きょこくいっちないかく
内閣ないかく閣僚かくりょう名簿めいぼ首相しゅしょう官邸かんてい
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内閣ないかくかおぶれ・人事じんじ

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国務大臣こくむだいじん

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1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ17にち任命にんめい[1]在職ざいしょく54にち

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん 43 ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう
[注釈ちゅうしゃく 2]
  皇族こうぞく
貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
陸軍りくぐん大将たいしょう
陸士りくし20りくだい26
陸軍りくぐん大臣だいじん兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
外務がいむ大臣だいじん 64 重光しげみつまもる   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
だい東亜とうあ大臣だいじん兼任けんにん 1945ねん9がつ17にちめん
[注釈ちゅうしゃく 3][2]
65 吉田よしだしげる   外務省がいむしょう はつ入閣にゅうかく
1945ねん9がつ17にちにん[2]
内務ないむ大臣だいじん 62 山崎やまざきいわお   内務省ないむしょう はつ入閣にゅうかく
大蔵おおくら大臣だいじん 48 津島つしま寿一ひさいち   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
陸軍りくぐん大臣だいじん 32 ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう   皇族こうぞく
貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
陸軍りくぐん大将たいしょう
陸士りくし20りくだい26
内閣ないかく総理そうり大臣だいじん兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
1945ねん8がつ23にちめんけん
[注釈ちゅうしゃく 4]
33 下村しもむらじょう   陸軍りくぐん大将たいしょう
陸士りくし20りくだい28
はつ入閣にゅうかく
1945ねん8がつ23にちにん
海軍かいぐん大臣だいじん 24 米内よない光政みつまさ   海軍かいぐん大将たいしょう
海兵かいへい29うみだい甲種こうしゅ12
留任りゅうにん
司法しほう大臣だいじん 46 岩田いわたちゅうづくり   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
同和どうわかい
はつ入閣にゅうかく
文部もんぶ大臣だいじん 58 松村まつむら謙三けんぞう   衆議院しゅうぎいん
だい日本にっぽん政治せいじかい→)
無所属むしょぞく
厚生こうせい大臣だいじん兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
1945ねん8がつ18にちめんけん[3]
59 前田まえだ多門たもん   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
どうなりかい
はつ入閣にゅうかく
1945ねん8がつ18にちにん[3]
厚生こうせい大臣だいじん 12 松村まつむら謙三けんぞう   衆議院しゅうぎいん
だい日本にっぽん政治せいじかい→)
無所属むしょぞく
文部もんぶ大臣だいじん兼任けんにん はつ入閣にゅうかく
だい東亜とうあ大臣だいじん 5 重光しげみつまもる   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
外務がいむ大臣だいじん兼任けんにん 1945ねん8がつ26にちめんけん
だい東亜とうあしょう廃止はいし 1945ねん8がつ26にちづけ
のうしょう大臣だいじん 5 千石せんごくきょう太郎たろう   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
無所属むしょぞく倶楽部くらぶ
はつ入閣にゅうかく
1945ねん8がつ26にちめん
のうしょうしょう廃止はいし 1945ねん8がつ26にちづけ
農林のうりん大臣だいじん 農林省のうりんしょう設置せっち 1945ねん8がつ25にち設置せっち
1 千石せんごくきょう太郎たろう   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
無所属むしょぞく倶楽部くらぶ
1945ねん8がつ26にちにん
軍需ぐんじゅ大臣だいじん 5 中島なかじま知久平ちくへい   衆議院しゅうぎいん
だい日本にっぽん政治せいじかい→)
無所属むしょぞく
予備よびやく海軍かいぐん機関きかん大尉たいい
うみ15うみだい機関きかん
1945ねん8がつ26にちめん
軍需ぐんじゅしょう廃止はいし 1945ねん8がつ26にちづけ
商工しょうこう大臣だいじん 商工しょうこうしょう設置せっち 1945ねん8がつ25にち設置せっち
25 中島なかじま知久平ちくへい   衆議院しゅうぎいん
だい日本にっぽん政治せいじかい→)
無所属むしょぞく
予備よびやく海軍かいぐん機関きかん大尉たいい
うみ15うみだい機関きかん
1945ねん8がつ26にちにん
運輸うんゆ大臣だいじん 1 しょう日山ひやま直登なおと   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
留任りゅうにん
国務大臣こくむだいじん - 近衛このえ文麿ふみまろ   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
火曜かようかい
公爵こうしゃく
国務大臣こくむだいじん - 緒方おがた竹虎たけとら   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
内閣ないかく書記官しょきかんちょう兼任けんにん
情報じょうほうきょく総裁そうさい
国務大臣こくむだいじん - 小畑おばたさとし四郎しろう   予備よびやく陸軍りくぐん中将ちゅうじょう
陸士りくし16りくだい23
はつ入閣にゅうかく
1945ねん8がつ19にちにん[4]
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

内閣ないかく書記官しょきかんちょう法制ほうせいきょく長官ちょうかんほか

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1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ17にち任命にんめい[1]

職名しょくめい だい 氏名しめい 出身しゅっしんとう 特命とくめい事項じこうとう 備考びこう
内閣ないかく書記官しょきかんちょう 52 緒方おがた竹虎たけとら   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
会派かいは
国務大臣こくむだいじん兼任けんにん
法制ほうせいきょく長官ちょうかん 44 村瀬むらせただしよう   貴族きぞくいん
無所属むしょぞく
研究けんきゅうかい
総合そうごう計画けいかくきょく長官ちょうかん[注釈ちゅうしゃく 5] 留任りゅうにん
内閣ないかくふく書記官しょきかんちょう 内閣ないかくふく書記官しょきかんちょう設置せっち 1945ねん9がつ19にち設置せっち
- 高木たかぎそうきち   予備よびやく海軍かいぐん少将しょうしょう
うみだい甲種こうしゅ25
1945ねん9がつ19にちにん
  1. 辞令じれいのある留任りゅうにん個別こべつだいとして記載きさいし、辞令じれいのない留任りゅうにん記載きさいしない。
  2. 臨時りんじ代理だいりは、大臣だいじん空位くうい場合ばあいのみ記載きさいし、海外かいがい出張しゅっちょうとう一時いちじ不在ふざい代理だいり記載きさいしない。
  3. 代数だいすうは、臨時りんじ兼任けんにん臨時りんじ代理だいりかぞえず、兼任けんにん兼務けんむかぞえる。

政務次官せいむじかん

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任命にんめいなし[注釈ちゅうしゃく 6][5]

参与さんよかん

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任命にんめいなし[注釈ちゅうしゃく 6][5]

勢力せいりょく早見はやみひょう

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内閣ないかく発足ほっそく当初とうしょぜん内閣ないかく事務じむ引継ひきつぎのぞく)。

出身しゅっしん 国務大臣こくむだいじん 政務次官せいむじかん 参与さんよかん その
くんふ軍人ぐんじん 2 0 0
かんりよう官僚かんりょう 1 0 0
きそく貴族きぞくいん 9 1 0 内閣ないかく書記官しょきかんちょう法制ほうせいきょく長官ちょうかん
国務大臣こくむだいじんのべ10
しゆうきいん衆議院しゅうぎいん 2 0 1 国務大臣こくむだいじんのべ3
けついん欠員けついん 0 11 11
- 14 12 12 国務大臣こくむだいじんのべ16

内閣ないかくうご

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ひがし久邇くに宮内くないかくは、まえ鈴木すずき貫太郎かんたろう内閣ないかく鈴木すずき貫太郎かんたろう首相しゅしょう)のそう辞職じしょくけて、皇族こうぞくかつ現役げんえき陸軍りくぐん大将たいしょうであるひがし久邇くにみや稔彦としひこおう組閣そかくした内閣ないかくである。

まえ鈴木すずき内閣ないかくは、発足ほっそく当初とうしょより終戦しゅうせんないかくとして組閣そかくされていたため、ポツダム宣言せんげん受諾じゅだくによる終戦しゅうせん詔書しょうしょ日本にっぽん降伏ごうぶく)をはっしてあいだもない1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ17にち内閣ないかくそう辞職じしょくした。後任こうにん人事じんじについては、敗戦はいせん処理しょりという困難こんなん政策せいさく遂行すいこうするため、強力きょうりょく権威けんい実行じっこうりょく必要ひつようとした。これまでふくすうかい国民こくみんおよび軍人ぐんじん強力きょうりょく統制とうせいするため、皇族こうぞくであり現役げんえき軍人ぐんじんであった稔彦としひこおう首相しゅしょう待望たいぼうろんされてきたが、その都度つど内大臣ないだいじん木戸きど幸一こういち反対はんたいにより阻止そしされてきた(東條とうじょう内閣ないかく#内閣ないかくかおぶれ・人事じんじ参照さんしょう)。しかし、こと終戦しゅうせんいたって、ぐん暴走ぼうそうとく陸軍りくぐん中堅ちゅうけん幹部かんぶ)をおさえて政府せいふ秩序ちつじょさい構築こうちくし、国民こくみん統合とうごうして荒廃こうはいした日本にっぽん復興ふっこうするためには、皇族こうぞく政府せいふ先頭せんとうって、政治せいじになうしかないとかんがえられた。また、戦争せんそうにも敗北はいぼくしたことで、これ以上いじょう国家こっか事態じたい悪化あっかするようなこともなかろうというみからも、皇族こうぞく政治せいじ擁立ようりつしやすかったといえる。

当初とうしょ次期じき首相しゅしょう推挙すいきょされた稔彦としひこおうは、皇族こうぞくかつ軍人ぐんじんであるがゆえに、これまで政治せいじちかづくことをきんじられ、政治せいじ経験けいけん皆無かいむであることを理由りゆうとして就任しゅうにん一時いちじ拒否きょひした。しかし、戦争せんそう敗北はいぼく国家こっかなおしという困難こんなん状況じょうきょう克服こくふくするという大義名分たいぎめいぶんした首相しゅしょうへの就任しゅうにん承諾しょうだくし、戦前せんぜんから親交しんこうのあった近衛このえ文麿ふみまろもと首相しゅしょう一切いっさいまかせており[6]閣僚かくりょう銓衡せんこうには国務大臣こくむだいじんけん内閣ないかく書記官しょきかんちょうと「内閣ないかくだい番頭ばんがしら」となる緒方おがた竹虎たけとらもと朝日新聞社あさひしんぶんしゃふく社長しゃちょう)の意向いこうつよ反映はんえいした[7]。そして、ひがし久邇くに宮内くないかく文部もんぶ大臣だいじんもと朝日新聞社あさひしんぶんしゃ論説ろんせつ委員いいん前田まえだ多門たもん総理そうり大臣だいじん秘書官ひしょかん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ論説ろんせつ委員いいん太田おおた照彦てるひこ緒方おがた秘書官ひしょかん朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃ中村なかむら正吾しょうご内閣ないかく参与さんよもと朝日新聞あさひしんぶん記者きしゃ田村たむらしんさくと、「朝日あさひ内閣ないかく」のかんていした[8]。また陸軍りくぐんは、さん長官ちょうかん会議かいぎ教育きょういく総監そうかん土肥どいはら賢二けんじ大将たいしょう陸軍りくぐん大臣だいじん推薦すいせんしたが、稔彦としひこおうはこれを却下きゃっかし、きたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかん下村しもむらじょう大将たいしょう陸軍りくぐん大臣だいじん起用きようした。さらに稔彦としひこおう統制とうせいによってしりぞけられていたすめらぎどう小畑おばたさとし四郎しろう満州まんしゅう石原いしはら莞爾かんじ辞退じたい)、海軍かいぐんはん東条とうじょう高木たかぎそうきち緒方おがた近衛このえ意向いこう入閣にゅうかくまねいた[9]

ひがし久邇くに宮内くないかく鈴木すずき内閣ないかくさだめた「国体こくたい護持ごじ」の方針ほうしんぎ、就任しゅうにん記者きしゃ会見かいけんで、「ぜん国民こくみんそう懺悔ざんげすることがわがくに再建さいけん第一歩だいいっぽであり、わが国内こくない団結だんけつ第一歩だいいっぽしんずる」という、いわゆる「いちおくそう懺悔ざんげ発言はつげんおこな混乱こんらん収拾しゅうしゅうつとめた。ちなみにこの当時とうじ日本にっぽん国民こくみん日本人にっぽんじん)のうち、いわゆる大和やまと民族みんぞくやく6000まんにんしかおらず、ここで言及げんきゅうされている「いちおく」には4000まんにん不足ふそくしているが、これは当時とうじ、まだ大韓民国だいかんみんこく韓国かんこく)や朝鮮民主主義人民共和国ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく北朝鮮きたちょうせん)といった主権しゅけん国家こっか朝鮮半島ちょうせんはんとう成立せいりつしておらず、日本にっぽんりょうとなったものの今後こんごあつかいが不透明ふとうめいであった台湾たいわんおよび朝鮮半島ちょうせんはんとう住民じゅうみんわせてやく4000まんにんふくめて「大日本帝国だいにっぽんていこく国民こくみんとしてだい東亜とうあ戦争せんそう太平洋戦争たいへいようせんそう)をたたかったものそう懺悔ざんげ」とした表現ひょうげんであり、この時点じてんではいま国際こくさいほううえ日本にっぽん国籍こくせき喪失そうしつしていなかった台湾たいわんおよび朝鮮半島ちょうせんはんとう住民じゅうみんふくめて、世界せかいたいして敗戦はいせん国民こくみんとして戦争せんそうちゅうあやまちを反省はんせいし、懺悔ざんげするという意味いみである。ひがし久邇くにみや政権せいけんは、この「国体こくたい護持ごじ」と「いちおくそう懺悔ざんげ」を敗戦はいせん処理しょり戦後せんご復興ふっこうけただい方針ほうしんとした。

ひがし久邇くに宮内くないかくは、省庁しょうちょう再編さいへん陸海りくかいぐん武装ぶそう解除かいじょ連合れんごう国軍こくぐん進駐しんちゅう降伏ごうぶく文書ぶんしょ調印ちょういんなど、次々つぎつぎ重要じゅうよう課題かだい処理しょりしていくことがもとめられ、いまだ体制たいせいととのわない連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい(GHQ)からの指令しれいにも対応たいおうしていった。このようななかで、GHQから1945ねん昭和しょうわ20ねん10月4にち発令はつれいされた、いわゆる「自由じゆう指令しれい」(人権じんけん指令しれいとも。「政治せいじてき公民こうみんてきおよ宗教しゅうきょうてき自由じゆうたいする制限せいげん撤廃てっぱいかんする覚書おぼえがき」)への対処たいしょ問題もんだいとなった。この指令しれいは、日本にっぽん国民こくみん人権じんけん確保かくほのため、治安ちあん維持いじほう宗教しゅうきょう団体だんたいほうなどの廃止はいし政治せいじはん思想しそうはん釈放しゃくほう特別とくべつ高等こうとう警察けいさつ特高警察とっこうけいさつ)の解体かいたい、“日本にっぽん共産党きょうさんとういん違反いはんしゃつづきの処罰しょばつ”を明言めいげんした山崎やまざきいわお大臣だいじんはじめとする内務省ないむしょう幹部かんぶ罷免ひめんなどを内容ないようとした。しかし、ひがし久邇くに宮内くないかくはこの指令しれい実行じっこうすることによって国内こくないでの共産きょうさん主義しゅぎ活動かつどうさい活発かっぱつ革命かくめい発生はっせいすることを危惧きぐし、指令しれい実行じっこう躊躇ちゅうちょして内閣ないかくそう辞職じしょくいたった。

1945ねん昭和しょうわ20ねん10月5にちそう辞職じしょく意向いこう表明ひょうめいし、4にち10月9にちつぎぬさ原内はらうちかくぬさはら喜重郎きじゅうろう首相しゅしょう)が発足ほっそくするまで、職務しょくむ執行しっこうした。54日間にちかんという在職ざいしょく日数にっすうは、それまでの林内りんないかくはやしずくじゅうろう首相しゅしょう在任ざいにん123日間にちかん)の記録きろく更新こうしんし、2021ねんれい3ねん10月まで内閣ないかく制度せいど発足ほっそく最短さいたん記録きろくであった[注釈ちゅうしゃく 1]。ただ、2024ねんれい6ねん4がつ1にち現在げんざいにおいても、ひがし久邇くにみや首相しゅしょう在職ざいしょく日数にっすう54日間にちかんというのは歴代れきだい首相しゅしょうなかでも最短さいたん記録きろくである。

ちなみにひがし久邇くに宮内くないかくでは「大戦たいせん日本にっぽんすすむべき国家こっか方針ほうしん」について討議とうぎされ「平和へいわてき新日本しんにほん建設けんせつシテ人類じんるい文化ぶんか貢献こうけんセムコトヲよく」という国家こっか目標もくひょうさだめられたが、この一文いちぶんは「首相しゅしょうみや訂正ていせい」と明記めいきされていることから、ひがし久邇くにみや稔彦としひこおう首相しゅしょうみずからがんだものとされる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b 2021ねん10がつ自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい岸田きしだ文雄ふみお内閣ないかく総理そうり大臣だいじん就任しゅうにんし、組閣そかくしただい1岸田きしだ内閣ないかくが38にちそう辞職じしょくしたため、内閣ないかく在任ざいにん記録きろくはこちらが最短さいたんとなった(ただし、同年どうねんだい49かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ執行しっこう召集しょうしゅうされた特別とくべつ国会こっかいだい206かい国会こっかい)にいて岸田きしだふたた首相しゅしょう選出せんしゅつされている)。
  2. ^ 内閣ないかく総理そうり大臣だいじんとしての正式せいしき表記ひょうきみやごうかんさない内閣ないかく総理そうり大臣だいじん稔彦としひこおう(ないかくそうりだいじんなるひこおう)であり、官報かんぽうにもそのように掲載けいさいされた。当時とうじ報道ほうどうとうではひがし久邇くに総理そうり大臣だいじんみや(ひがしくにそうりだいじんのみや)、ひがし久邇くに首相しゅしょうみや(ひがしくにしゅしょうのみや)と呼称こしょうされた。
  3. ^ 戦争せんそう犯罪はんざいじん処理しょりたいする連合れんごう国軍こくぐんそう司令しれいかくない対立たいりつにより更迭こうてつ
  4. ^ きたささえ方面ほうめんぐん司令しれいかんとして満州まんしゅう赴任ふにんしていた下村しもむら帰国きこくするまでの5日間にちかん総理そうり兼任けんにんしていた。
  5. ^ 1945ねん昭和しょうわ20ねん)9がつ1にち総合そうごう計画けいかくきょく廃止はいし
  6. ^ a b 1945ねん昭和しょうわ20ねん)8がつ22にちぜん内閣ないかく政務次官せいむじかん参与さんよかん辞任じにん

出典しゅってん

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  1. ^ a b 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」、昭和しょうわ20ねん8がつ17にち
  2. ^ a b 官報かんぽう』5608ごう叙任じょにん及辞れい」、昭和しょうわ20ねん9がつ20日はつか
  3. ^ a b 官報かんぽう号外ごうがい叙任じょにん及辞れい」、昭和しょうわ20ねん8がつ18にち
  4. ^ 官報かんぽうだい5584ごう叙任じょにん及辞れい」、昭和しょうわ20ねん8がつ23にち
  5. ^ a b 官報かんぽうだい5587ごう叙任じょにん及辞れい」、昭和しょうわ20ねん8がつ27にち
  6. ^ 須山すやま幸雄ゆきお作戦さくせんおに 小畑おばたさとし四郎しろう」358ぺーじ
  7. ^ 栗田くりた直樹なおき緒方おがた竹虎たけとら――情報じょうほう組織そしき主宰しゅさいしゃ――』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねん)154ぺーじ
  8. ^ 佐々ささ克明かつあきめるきょぞう――朝日新聞あさひしんぶんわたし――』(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1983ねん)。
  9. ^ ひゃく旗頭はたがしらしん占領せんりょう」35ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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