自然 しぜん 法 ほう についての個別 こべつ 具体 ぐたい 的 てき な内容 ないよう ・思想 しそう や歴史 れきし 的 てき 経緯 けいい については「自然 しぜん 法論 ほうろん 」をご覧 らん ください。
自然 しぜん 法 ほう (しぜんほう、英 えい : natural law 、独 どく : Naturrecht 、羅 ら : lex naturalis )とは、人間 にんげん の理性 りせい ・知性 ちせい を通 とお して、事物 じぶつ の自然 しぜん 本性 ほんしょう (英 えい : nature 、独 どく : Natur 、羅 ら : natura 、希 まれ : φύσις )から導 みちび き出 だ され、(個別 こべつ の時代 じだい 性 せい ・地域 ちいき 性 せい ・社会 しゃかい 性 せい ・集団 しゅうだん 性 せい といった制限 せいげん ・条件 じょうけん を超 こ えて)人類 じんるい にとって共通 きょうつう ・普遍 ふへん ・汎 ひろし 通 どおり 的 てき であると、理解 りかい ・受容 じゅよう され得 え る法 ほう ・倫理 りんり の総称 そうしょう である[1] 。古 ふる い訳語 やくご では、(儒教 じゅきょう 用語 ようご 「性 せい 」 を用 もち いて)性 せい 法 ほう (せいほう)とも呼 よ ばれた。
自然 しぜん 法 ほう は、古代 こだい ギリシア から形成 けいせい ・醸成 じょうせい されてきた観念 かんねん ・概念 がいねん ・思想 しそう であり、ピュシス (自然 しぜん )についての観念 かんねん ・思想 しそう が、プラトン 等 ひとし のギリシア哲学 てつがく によってロゴス ・ヌース の概念 がいねん を混 ま じえた倫理 りんり ・政治 せいじ 思想 しそう へと洗練 せんれん されたものである[1] 。
トマス・アクィナス に代表 だいひょう される中世 ちゅうせい キリスト教 きりすときょう 神学 しんがく においては、自然 しぜん 法 ほう は人間 にんげん の理性 りせい ・知性 ちせい で対応 たいおう ・把握 はあく ・分有 ぶんゆう できる範囲 はんい での、人類 じんるい にとっての普遍 ふへん 的 てき な法 ほう ・規範 きはん とされ、神 かみ の法 ほう としての永久 えいきゅう 法 ほう (や神 かみ 定法 じょうほう )と、個々 ここ の人間 にんげん 社会 しゃかい の個別 こべつ 的 てき ・特殊 とくしゅ 的 てき な人定 じんてい 法 ほう (実定法 じっていほう )の狭間 はざま に位置付 いちづ けられた[1] [2] 。
17世紀 せいき 〜18世紀 せいき の近代 きんだい (近世 きんせい )政治 せいじ 思想 しそう においては、キリスト教 きょう の内部 ないぶ 分裂 ぶんれつ ・退潮 たいちょう に伴 ともな って再 さい 浮上 ふじょう ・再 さい 注目 ちゅうもく されることになり、自然 しぜん 状態 じょうたい ・自然 しぜん 権 けん (人権 じんけん )・社会 しゃかい 契約 けいやく といった概念 がいねん ・思想 しそう と共 とも に説 と かれ、(「自然 しぜん 状態 じょうたい ・自然 しぜん 権 けん (人権 じんけん )」と「自然 しぜん 法 ほう 」が調和 ちょうわ 的 てき か対立 たいりつ 的 てき か、また「自然 しぜん 法 ほう 」の具体 ぐたい 的 てき な中身 なかみ ・優先 ゆうせん 事項 じこう が何 なに であるか等 とう は、論者 ろんしゃ によって見解 けんかい に相違 そうい があるものの)総 そう じて「自然 しぜん 法 ほう 」を実現 じつげん ・強化 きょうか することを目的 もくてき として、近代 きんだい 国家 こっか ・近代 きんだい 社会 しゃかい 的 てき な「社会 しゃかい 契約 けいやく 」が主張 しゅちょう された[1] 。このように、自然 しぜん 法 ほう の思想 しそう ・概念 がいねん は、人間 にんげん 社会 しゃかい が宗教 しゅうきょう 的 てき 権威 けんい に依存 いぞん した中世 ちゅうせい 的 てき な国家 こっか から、合理 ごうり 的 てき な近代 きんだい 国家 こっか へと脱皮 だっぴ する際 さい の「橋渡 はしわた し」「踏 ふ み台 だい 」として機能 きのう した[1] 。
他方 たほう で、19世紀 せいき 以降 いこう の近代 きんだい 法学 ほうがく の実定法 じっていほう 主義 しゅぎ (法 ほう 実証 じっしょう 主義 しゅぎ )においては、考察 こうさつ の対象 たいしょう 外 がい とされた[1] 。また英 えい 米 まい を中心 ちゅうしん に、古典 こてん 的 てき 自由 じゆう 主義 しゅぎ 、保守 ほしゅ 主義 しゅぎ 、功利 こうり 主義 しゅぎ 、プラグマティズム といった対抗 たいこう 的 てき 思潮 しちょう が提示 ていじ ・醸成 じょうせい された。
(近代 きんだい )自然 しぜん 法 ほう 思想 しそう は、その性格 せいかく 上 じょう 、理性 りせい 主義 しゅぎ や規範 きはん 論 ろん ・義務 ぎむ 論 ろん 、そして平等 びょうどう 主義 しゅぎ ・社会 しゃかい 自由 じゆう 主義 しゅぎ (リベラル )(更 さら には社会 しゃかい 主義 しゅぎ ・共産 きょうさん 主義 しゅぎ )等 とう と相性 あいしょう が良 よ く、自然 しぜん 権 けん (人権 じんけん )思想 しそう を調整 ちょうせい ・補完 ほかん する役割 やくわり として主張 しゅちょう されることが多 おお い[3] 。したがって、これらに対立 たいりつ する思想 しそう ・思潮 しちょう とは、直接的 ちょくせつてき ・間接 かんせつ 的 てき に対立 たいりつ することになる。
内容 ないよう の変質 へんしつ
なお、プラトン やアリストテレス 等 ひとし による、古代 こだい ギリシアにおける自然 しぜん 法 ほう ・倫理 りんり ・政治 せいじ 思想 しそう は、『国家 こっか 』『ティマイオス 』や『ニコマコス倫理 りんり 学 がく 』等 とう に述 の べられているように、また哲学 てつがく (philo-sophia/愛 あい -知 ち )という営 いとな みの原義 げんぎ からも分 わ かるように、「知 ち の徳性 とくせい (知性 ちせい )」を特別 とくべつ に重視 じゅうし しており、それを高 たか めて「善 ぜん のイデア ・最高 さいこう 善 ぜん 」(デミウルゴス ・不動 ふどう の動 どう 者 しゃ )を頂点 ちょうてん とする「イデア的 てき ・神 かみ 的 てき な自然 しぜん 秩序 ちつじょ 」を把握 はあく しつつ、人間 にんげん として可能 かのう な限 かぎ りの幸福 こうふく を享受 きょうじゅ すること(全 ぜん 国民 こくみん に享受 きょうじゅ させること)、という明確 めいかく な究極 きゅうきょく 目的 もくてき (目的 もくてき 論 ろん )の下 した に構築 こうちく されており、その他 た の実践 じっせん 的 てき な徳性 とくせい としての中庸 ちゅうよう や、市民 しみん 間 あいだ の平等 びょうどう (高貴 こうき な嘘 うそ )等 とう は、その善 ぜん という究極 きゅうきょく 目的 もくてき へと共 とも に向 む かうポリス共同 きょうどう 体 たい を成立 せいりつ ・維持 いじ させるための手段 しゅだん ・方便 ほうべん に過 す ぎない[1] 。
それに対 たい して、(古代 こだい ローマの万 まん 民法 みんぽう や、知性 ちせい よりも信仰 しんこう を重視 じゅうし する中世 ちゅうせい のキリスト教 きりすときょう 神学 しんがく を経由 けいゆ した後 のち の)近世 きんせい ・近代 きんだい における自然 しぜん 法 ほう 思想 しそう ・倫理 りんり ・政治 せいじ 思想 しそう では、「(元来 がんらい 、自然 しぜん 権 けん ・自由 じゆう を等 ひと しく保有 ほゆう する)個人 こじん 間 あいだ の同等 どうとう 性 せい ・公平 こうへい 性 せい ・平等 びょうどう 性 せい の尊重 そんちょう (黄金 おうごん 律 りつ )」(としての自然 しぜん 権 けん (人権 じんけん )思想 しそう ・自由 じゆう 主義 しゅぎ ・平等 びょうどう 主義 しゅぎ ・個人 こじん 主義 しゅぎ )それ自体 じたい が、絶対 ぜったい 的 てき な原則 げんそく かつ目的 もくてき と化 か しており、プラトン・アリストテレス的 てき な究極 きゅうきょく 目的 もくてき (「善 ぜん なる世界 せかい の根源 こんげん ・究極 きゅうきょく 」への知的 ちてき ・実践 じっせん 的 てき な到達 とうたつ )が抜 ぬ け落 お ち、古代 こだい ギリシア・ローマの民主 みんしゅ 思想 しそう や万 まん 民法 みんぽう 思想 しそう 的 てき な(古代 こだい ギリシアで言 い えば「ノモス」的 てき な)政治 せいじ 的 てき 要求 ようきゅう が、自然 しぜん 法 ほう として扱 あつか われるようになっているという「内容 ないよう 的 てき 変質 へんしつ 」が生 しょう じている点 てん に注意 ちゅうい が必要 ひつよう である[1] 。
古代 こだい ギリシア においては、社会 しゃかい 的 てき な実定法 じっていほう ・慣習 かんしゅう としての「ノモス 」(希 まれ : νόμος )と対比 たいひ される形 かたち で、自然 しぜん 本性 ほんしょう としての「ピュシス 」(希 まれ : φύσις )として、自然 しぜん 法 ほう が主張 しゅちょう された[1] 。神話 しんわ 的 てき な時代 じだい においては、それはテミス やディケー といった女神 めがみ に象徴 しょうちょう される「自然 しぜん の秩序 ちつじょ ・掟 おきて 」として表現 ひょうげん されたが、オルペウス教 きょう ・ピタゴラス派 は ・エレア派 は 等 ひとし に影響 えいきょう を受 う けたプラトン (アカデメイア派 は )は、それを善 ぜん のイデア (創造 そうぞう 主 ぬし デミウルゴス )を頂点 ちょうてん とする理知的 りちてき ・善 ぜん 的 てき ・神 かみ 的 てき な「イデア 的 てき 秩序 ちつじょ 」と、魂 たましい に内在 ないざい する理知的 りちてき ・神 かみ 的 てき な性質 せいしつ に基 もと づいてそれに可能 かのう な限 かぎ り近接 きんせつ しようと努力 どりょく する人間 にんげん 側 がわ の「倫理 りんり 的 てき ・政治 せいじ 思想 しそう 的 てき な性質 せいしつ ・法則 ほうそく ・原則 げんそく 」として表現 ひょうげん した[1] 。アリストテレス (ペリパトス派 は ・逍遥 しょうよう 学派 がくは )も、それに多少 たしょう の修正 しゅうせい を加 くわ え、最高 さいこう 善 ぜん (不動 ふどう の動 どう 者 しゃ )を頂点 ちょうてん とする「形而上学 けいじじょうがく (第 だい 一 いち 哲学 てつがく )的 てき 秩序 ちつじょ 」と、その下 した で人間 にんげん を含 ふく む形相 ぎょうそう ・質料 しつりょう 結合 けつごう 体 たい としての個物 こぶつ が、各々 おのおの の性質 せいしつ を展開 てんかい ・実現 じつげん しようとする動的 どうてき な「目的 もくてき 論 ろん 的 てき 自然 しぜん 」や「倫理 りんり 学 がく ・政治 せいじ 学 がく 的 てき な性質 せいしつ ・法則 ほうそく ・原則 げんそく 」として表現 ひょうげん した[1] 。ストア派 は もまた、人間 にんげん が理性 りせい の力 ちから を発揮 はっき して、「理性 りせい 的 てき 自然 しぜん 」と一致 いっち して生 い きることを説 と いている[4] 。
古代 こだい ローマ においては、領土 りょうど の拡大 かくだい に伴 ともな って、ローマ市民 しみん のみに適用 てきよう される市民 しみん 法 ほう (羅 ら : ius civile )と対比 たいひ される、万 まん 人 にん に等 ひと しく適用 てきよう される万 まん 民法 みんぽう (羅 ら : ius gentium )が整備 せいび されるようになり、2世紀 せいき の法学 ほうがく 者 しゃ ガイウス が『法学 ほうがく 提要 ていよう 』の冒頭 ぼうとう で指摘 してき しているように、この万 まん 民法 みんぽう は当時 とうじ から既 すで に自然 しぜん 法 ほう の一種 いっしゅ の反映 はんえい ・現 あらわ れと見 み 做されていた[5] [6] 。(他 た に自然 しぜん 法 ほう を万 まん 民法 みんぽう ・市民 しみん 法 ほう との関連 かんれん で論 ろん じた古代 こだい ローマの法学 ほうがく 者 しゃ としては、ウルピアヌス やパウルス 等 ひとし が知 し られている[7] 。)
中世 ちゅうせい においては、上記 じょうき したギリシア哲学 てつがく によって醸成 じょうせい された「神 かみ の理法 りほう 」と「人 ひと の理法 りほう 」、そしてローマ法 ほう によって醸成 じょうせい された「万 まん 民法 みんぽう 」と「市民 しみん 法 ほう 」の概念 がいねん ・分類 ぶんるい が継承 けいしょう されたが、アウグスティヌス やトマス・アクィナス に代表 だいひょう されるキリスト教 きりすときょう 神学 しんがく 者 もの 達 たち によって、ここに更 さら に、残余 ざんよ の「非 ひ 理知的 りちてき な宗教 しゅうきょう 的 てき ・信仰 しんこう 的 てき 領域 りょういき 」(古代 こだい ギリシアにおいては神託 しんたく ・秘 ひ 儀 ぎ ・供物 くもつ の領域 りょういき )を補充 ほじゅう する法 ほう として、キリスト教 きょう 特有 とくゆう の聖書 せいしょ 的 てき 啓示 けいじ ・教会 きょうかい 法 ほう といった宗教 しゅうきょう 的 てき 要素 ようそ が「神 かみ 定法 じょうほう 」(羅 ら : lex divina )といった概念 がいねん として付 つ け加 くわ えられた[2] 。
こうしてトマスの『神学 しんがく 大全 たいぜん 』第 だい 2-1部 ぶ の90番台 ばんだい で言及 げんきゅう されているように、
といった古典 こてん 的 てき な法 ほう の分類 ぶんるい がまとめられた。
他方 たほう で、普遍 ふへん 論争 ろんそう においては、トマス等 とう の「実 じつ 念 ねん 論 ろん 」(普遍 ふへん 優位 ゆうい )が、「唯名論 ゆいめいろん 」(個物 こぶつ 優位 ゆうい )に押 お されて影響 えいきょう 力 りょく を失 うしな ったことにより、個物 こぶつ (自然 しぜん 権 けん )の側 がわ から自然 しぜん 法 ほう を組 く み立 た てて行 い く近代 きんだい (近世 きんせい )的 てき な自然 しぜん 法論 ほうろん の土壌 どじょう が用意 ようい されることになった[1] 。
15世紀 せいき から17世紀 せいき にかけての、大 だい 航海 こうかい 時代 じだい による欧州 おうしゅう 域外 いきがい での植民 しょくみん 地 ち ・通商 つうしょう の拡大 かくだい 、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 、それらに絡 から んだ紛争 ふんそう ・戦争 せんそう ・革命 かくめい の発生 はっせい 、更 さら にはルネサンス ・科学 かがく 革命 かくめい と理性 りせい 主義 しゅぎ の台頭 たいとう といった、目 め まぐるしい環境 かんきょう 変化 へんか により、中世 ちゅうせい のようにキリスト教 きりすときょう (カトリック)やその神 かみ の概念 がいねん ・権威 けんい が共通 きょうつう 基盤 きばん として機能 きのう しなくなったことで、(古代 こだい ギリシアや領土 りょうど 拡大 かくだい 期 き の古代 こだい ローマのように)再 ふたた び自然 しぜん 法 ほう (や万 まん 民法 みんぽう 、あるいは自然 しぜん 状態 じょうたい ・自然 しぜん 権 けん 、及 およ び理性 りせい )が、思想 しそう 的 てき 共通 きょうつう 基盤 きばん として注目 ちゅうもく ・言及 げんきゅう ・称揚 しょうよう されるようになった。
トマスの自然 しぜん 法 ほう ・万 まん 民法 みんぽう 思想 しそう を、スペイン の法学 ほうがく 者 しゃ であるビトリア やスアレス 等 ひとし を経由 けいゆ して継承 けいしょう したオランダ の法学 ほうがく 者 しゃ グローティウス は、『自由 じゆう 海 うみ 論 ろん 』『戦争 せんそう と平和 へいわ の法 ほう 』などで、航行 こうこう ・通商 つうしょう ・戦争 せんそう といった国際 こくさい 関係 かんけい に関 かん して、自然 しぜん 法 ほう や万 まん 民法 みんぽう (的 てき 慣行 かんこう ・慣習 かんしゅう 法 ほう )を絡 から めつつ、あるべき国際 こくさい 的 てき な法 ほう 秩序 ちつじょ を主張 しゅちょう したことで、「国際 こくさい 法 ほう の父 ちち 」と評 ひょう されるようになった[8] 。
他方 たほう で、国内 こくない で清教徒 せいきょうと 革命 かくめい ・名誉 めいよ 革命 かくめい といった市民 しみん 革命 かくめい が生 しょう じたイギリス では、ホッブズ やジョン・ロック によって、国内 こくない 秩序 ちつじょ ・統治 とうち のあり方 かた について、自然 しぜん 法 ほう (や自然 しぜん 状態 じょうたい ・自然 しぜん 権 けん ・社会 しゃかい 契約 けいやく )を絡 から めた主張 しゅちょう が為 な され、近代 きんだい 国家 こっか ・近代 きんだい 社会 しゃかい のあり方 かた を巡 めぐ る近代 きんだい 政治 せいじ 思想 しそう の嚆矢 こうし となった。
彼 かれ らの自然 しぜん 法 ほう 思想 しそう は、ルソー やカント 等 とう へと引 ひ き継 つ がれて補強 ほきょう されつつ、人類 じんるい が近代 きんだい 国家 こっか ・近代 きんだい 社会 しゃかい へと移行 いこう していく上 うえ での礎 いしずえ となった。
その後 ご の自然 しぜん 法 ほう 思想 しそう やそれに類 るい する倫理 りんり 学 がく ・道徳 どうとく 哲学 てつがく ・政治 せいじ 哲学 てつがく は、ヘーゲル 、マルクス 等 ひとし を経由 けいゆ しつつ、20世紀 せいき の大陸 たいりく 哲学 てつがく や分析 ぶんせき 哲学 てつがく 、いわゆる現代 げんだい 哲学 てつがく へと継承 けいしょう され、東西 とうざい 冷戦 れいせん を背景 はいけい に多様 たよう な議論 ぎろん が行 おこな われた。
しかし元来 がんらい 、「公平 こうへい さ」を主張 しゅちょう するだけの抽象 ちゅうしょう 的 てき 規範 きはん としての性格 せいかく が強 つよ い近代 きんだい の自然 しぜん 法 ほう 思想 しそう は、特 とく に20世紀 せいき 以降 いこう 、価値 かち 観 かん とシステムの多様 たよう 化 か ・複雑 ふくざつ 化 か が進 すす む近代 きんだい 社会 しゃかい において、具体 ぐたい 的 てき な必要 ひつよう 性 せい (政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき ・社会 しゃかい 的 てき な要請 ようせい ・需要 じゅよう )の受 う け皿 ざら として肥大 ひだい 化 か し続 つづ ける自然 しぜん 権 けん (人権 じんけん )思想 しそう 、実定法 じっていほう 、各種 かくしゅ の事業 じぎょう ・産業 さんぎょう と統計 とうけい データ解析 かいせき 等 ひとし とは対照 たいしょう 的 てき に、具体 ぐたい 性 せい ・実用 じつよう 性 せい に乏 とぼ しく、用途 ようと も主張 しゅちょう する場 ば も限 かぎ られるため、社会 しゃかい 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく が失 うしな われてきている[1] 。
ホッブズ は、『リヴァイアサン 』第 だい 13章 しょう 〜第 だい 15章 しょう の叙述 じょじゅつ において、「理性 りせい によって要請 ようせい ・把握 はあく される人倫 じんりん ・普遍 ふへん 的 てき 規範 きはん 」としての「自然 しぜん 法 ほう 」(羅 ら : lex naturalis )と、「各人 かくじん の自己 じこ 裁量 さいりょう 権 けん (自由 じゆう )」としての「自然 しぜん 権 けん 」(羅 ら : ius naturale )を、対立 たいりつ 的 てき に扱 あつか う。
そして、各人 かくじん の「自然 しぜん 権 けん (自由 じゆう )」行使 こうし の相互 そうご 干渉 かんしょう ・衝突 しょうとつ によって生 しょう じる「万 まん 人 にん の万 まん 人 にん に対 たい する闘争 とうそう 」としての「自然 しぜん 状態 じょうたい 」から脱却 だっきゃく すべく、理性 りせい によって要請 ようせい ・把握 はあく される「自然 しぜん 法 ほう 」として、
1. あらゆる手段 しゅだん を用 もち いた平和 へいわ への努力 どりょく (あるいは自己 じこ 防衛 ぼうえい )
2. そのための自然 しぜん 権 けん (自由 じゆう )の自主 じしゅ 的 てき 放棄 ほうき (譲渡 じょうと )
3. その契約 けいやく (社会 しゃかい 契約 けいやく )の履行 りこう
4. それに対 たい する報恩 ほうおん
5. 協調 きょうちょう への努力 どりょく
6. 他者 たしゃ の悔 く い改 あらた めに対 たい する赦(ゆる)し
7. 善 ぜん (矯正 きょうせい ・教導 きょうどう )を目的 もくてき とした刑罰 けいばつ
8. 傲慢 ごうまん (他者 たしゃ への嫌悪 けんお ・侮蔑 ぶべつ )の抑制 よくせい 、慎 つつし み
9. 思 おも い上 あ がり(優越 ゆうえつ 意識 いしき )の抑制 よくせい 、平等 びょうどう 性 せい ・他者 たしゃ 感情 かんじょう への意識 いしき
10. 尊大 そんだい (他者 たしゃ 以上 いじょう の権利 けんり の要求 ようきゅう )の抑制 よくせい
11. 公平 こうへい な裁定 さいてい 、平等 びょうどう な配分 はいぶん
12. 公共 こうきょう 物 ぶつ の平等 びょうどう 利用 りよう
13. 分割 ぶんかつ ・共有 きょうゆう できないものについてのくじ引 び き 決定 けってい
14. 「自然 しぜん のくじ引 び き」としての長子 ちょうし 相続 そうぞく
15. 「平和 へいわ 的 てき 仲裁 ちゅうさい 者 しゃ 」に対 たい する身辺 しんぺん 安全 あんぜん 保障 ほしょう
16. 調停 ちょうてい 者 しゃ の判決 はんけつ への服従 ふくじゅう
17. 自身 じしん の利害 りがい に関 かん する調停 ちょうてい 者 しゃ になることの禁止 きんし
18. 自身 じしん の利害 りがい 関係 かんけい 者 しゃ に関 かん する調停 ちょうてい 者 しゃ になることの禁止 きんし
19. 当事 とうじ 者 しゃ たちの証言 しょうげん の排除 はいじょ 、第 だい 3者 しゃ の証言 しょうげん の採用 さいよう
総 そう じて言 い えば「己 おのれ の欲 ほっ せざる所 ところ は人 ひと に施 ほどこ すなかれ(黄金 おうごん 律 りつ ) 」
といった内容 ないよう を挙 あ げつつ、自然 しぜん 権 けん を譲渡 じょうと し合 あ う社会 しゃかい 契約 けいやく による国家 こっか (コモンウェルス )と秩序 ちつじょ ・平和 へいわ の形成 けいせい を説 と いている。
ロック は、『統治 とうち 二 に 論 ろん 』第 だい 二 に 論 ろん において、自然 しぜん 法 ほう の内容 ないよう を具体 ぐたい 的 てき には述 の べないものの、それを(公平 こうへい さとしての)理性 りせい (的 てき 思考 しこう )と同一 どういつ 視 し し、自然 しぜん 状態 じょうたい においてもそれは機能 きのう しており、各人 かくじん はその自然 しぜん 法 ほう (理性 りせい )の範囲 はんい 内 ない で、思 おも うままに自己 じこ の身体 しんたい や所有 しょゆう 物 ぶつ を処 しょ する自由 じゆう (としての自然 しぜん 権 けん )を、平等 びょうどう に保有 ほゆう ・行使 こうし していると主張 しゅちょう する(第 だい 2章 しょう )。
また、そのような自然 しぜん 状態 じょうたい では、各人 かくじん が自然 しぜん 法 ほう を執行 しっこう する権利 けんり (自然 しぜん 法 ほう の侵犯 しんぱん 者 しゃ を処罰 しょばつ する権利 けんり )も有 ゆう する(第 だい 2章 しょう )。
しかし、自然 しぜん 状態 じょうたい では、大 だい 部分 ぶぶん の者 もの は公正 こうせい の厳格 げんかく な遵守 じゅんしゅ 者 しゃ ではなく、特 とく に、
恒常 こうじょう 的 てき ・公知 こうち な「制定 せいてい 法 ほう 」
衆知 しゅうち の公正 こうせい な「裁判官 さいばんかん 」
判決 はんけつ の「執行 しっこう 権力 けんりょく 」
が欠如 けつじょ しているがゆえに、生命 せいめい ・自由 じゆう ・財産 ざいさん といったプロパティ(固有 こゆう 権 けん ・所有 しょゆう 権 けん ・財産 ざいさん 権 けん )の享受 きょうじゅ といった自然 しぜん 権 けん の保証 ほしょう (自然 しぜん 法 ほう の執行 しっこう )が不安定 ふあんてい ・不 ふ 確実 かくじつ なので、その「プロパティ(固有 こゆう 権 けん ・所有 しょゆう 権 けん ・財産 ざいさん 権 けん )の保全 ほぜん 」を目的 もくてき として、人 ひと は自然 しぜん 状態 じょうたい を放棄 ほうき し、共同 きょうどう して統治 とうち 権力 けんりょく ・政治 せいじ 的 てき 共同 きょうどう 体 たい を形成 けいせい したり、そこへと参画 さんかく するのだと主張 しゅちょう する(第 だい 9章 しょう )。
また、その統治 とうち 権力 けんりょく に関 かん しては、立法 りっぽう 権力 けんりょく と執行 しっこう 権力 けんりょく の分離 ぶんり が主張 しゅちょう される(第 だい 12章 しょう )。
そして、その「プロパティ(固有 こゆう 権 けん ・所有 しょゆう 権 けん ・財産 ざいさん 権 けん )の保全 ほぜん 」という目的 もくてき 、自然 しぜん 法 ほう を侵 おか す支配 しはい 者 しゃ に対 たい しては、抵抗 ていこう することが許 ゆる される(抵抗 ていこう 権 けん )とも主張 しゅちょう される(第 だい 18章 しょう -第 だい 19章 しょう )。
このように、自然 しぜん 法 ほう の達成 たっせい ・強化 きょうか のための社会 しゃかい 契約 けいやく の議論 ぎろん では、ホッブズは「生命 せいめい ・平和 へいわ 」をその主 しゅ たる目的 もくてき とする素朴 そぼく なものだったのが、ロックでは生命 せいめい ・自由 じゆう ・財産 ざいさん などをひっくるめた「プロパティ(固有 こゆう 権 けん ・所有 しょゆう 権 けん ・財産 ざいさん 権 けん )」が目的 もくてき となり、権力 けんりょく 分立 ぶんりつ や、抵抗 ていこう 権 けん も明記 めいき されるなど、近代 きんだい 政治 せいじ 思想 しそう ・近代 きんだい 社会 しゃかい 思想 しそう としてだいぶ洗練 せんれん されてきている。
ルソー においては、「社会 しゃかい 的 てき な公平 こうへい さ」としての自然 しぜん 法 ほう は、「一般 いっぱん 意志 いし (普遍 ふへん 意志 いし )」という概念 がいねん に置 お き換 か えられている[9] 。
ルソーの社会 しゃかい 契約 けいやく において説 と かれる「一般 いっぱん 意志 いし (普遍 ふへん 意志 いし )」は、個別 こべつ 的 てき な私利 しり 私欲 しよく の志向 しこう としての「特殊 とくしゅ 意志 いし 」や、その合成 ごうせい ・総和 そうわ としての「全体 ぜんたい 意志 いし 」とは異 こと なり、常 つね に「公平 こうへい ・公益 こうえき 」を法 ほう ・社会 しゃかい へと強制 きょうせい することが期待 きたい される。
カント においては、「社会 しゃかい 的 てき な公平 こうへい さ」としての自然 しぜん 法 ほう は、「道徳 どうとく 法則 ほうそく 」という概念 がいねん に置 お き換 か えられている。
カントの実践 じっせん 理性 りせい を巡 めぐ る議論 ぎろん においては、「常 つね に普遍 ふへん 的 てき 法則 ほうそく に妥当 だとう する形 かたち で意志 いし ・行為 こうい せよ」という定 てい 言 げん 命 いのち 法 ほう で成 な り立 た つ道徳 どうとく 法則 ほうそく によって、理性 りせい 的 てき 存在 そんざい 者 しゃ が互 たが いの人格 じんかく を目的 もくてき として尊重 そんちょう し合 あ って結合 けつごう する、目的 もくてき の国 くに が主張 しゅちょう される[10] 。
「自然 しぜん 法 ほう 」とは、事物 じぶつ の自然 しぜん 本性 ほんしょう から導 みちび き出 だ される法 ほう の総称 そうしょう である。 したがって、この概念 がいねん を主 しゅ として人類 じんるい ・人間 にんげん 社会 しゃかい を念頭 ねんとう に置 お いて使用 しよう する場合 ばあい 、「倫理 りんり 」と多分 たぶん に意味 いみ 内容 ないよう が重複 じゅうふく する概念 がいねん となる。自然 しぜん 法 ほう は実在 じつざい するという前提 ぜんてい から出発 しゅっぱつ し、それを何 なん らかの形 かたち で実定法 じっていほう 秩序 ちつじょ と関連 かんれん づける法理 ほうり 論 ろん は、自然 しぜん 法論 ほうろん と呼 よ ばれる。
自然 しぜん 法 ほう には、原則 げんそく 的 てき に以下 いか の特徴 とくちょう が見 み られる。但 ただ しいずれにも例外 れいがい 的 てき な理論 りろん が存在 そんざい する。
普遍 ふへん 性 せい :自然 しぜん 法 ほう は時代 じだい と場所 ばしょ に関係 かんけい なく妥当 だとう する。
不変 ふへん 性 せい :自然 しぜん 法 ほう は人為 じんい によって変更 へんこう されえない。
合理 ごうり 性 せい :自然 しぜん 法 ほう は理性 りせい 的 てき 存在 そんざい 者 しゃ が自己 じこ の理性 りせい を用 もち いることによって認識 にんしき されえる。
自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん とその認識 にんしき 原理 げんり
編集 へんしゅう
自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん は、ケルゼン の分類 ぶんるい に従 したが うならば、神 かみ 、自然 しぜん ないし理性 りせい である[11] 。ギリシャ哲学 てつがく からストア派 は までの古代 こだい の自然 しぜん 法論 ほうろん においては、これらの法 ほう 源 げん が渾然一体 こんぜんいったい となっている。
神 かみ が人間 にんげん の自然 しぜん 本性 ほんしょう の作 つく り手 しゅ として想定 そうてい されるとき、自然 しぜん 法 ほう の究極 きゅうきょく の法 ほう 源 げん は神 かみ となる。このことは理性 りせい にもあてはまり、神 かみ が人間 にんげん に理性 りせい を与 あた えたことが強調 きょうちょう されるときは、合理 ごうり 的 てき な法 ほう としての自然 しぜん 法 ほう の究極 きゅうきょく な法 ほう 源 げん もまた神 かみ となる。この傾向 けいこう は特 とく にキリスト教 きりすときょう の自然 しぜん 法論 ほうろん において顕著 けんちょ である。例 たと えば、アウグスティヌス にとって、自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん は神 かみ の理性 りせい ないし意思 いし であった[12] [13] 。また、トマス・アキナス にとって、自然 しぜん 法 ほう とは宇宙 うちゅう を支配 しはい する神 かみ の理念 りねん たる永久 えいきゅう 法 ほう の一部 いちぶ である[14] [15] 。
ここで自然 しぜん とは、自然 しぜん 本性 ほんしょう 一般 いっぱん のことではなく、外的 がいてき な自然 しぜん 環境 かんきょう のことである。外的 がいてき な自然 しぜん が自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん となるのは、専 もっぱ ら外的 がいてき な自然 しぜん 環境 かんきょう と人間 にんげん の自然 しぜん 本性 ほんしょう との連続 れんぞく 性 せい が強調 きょうちょう されるときである。これはとりわけヘラクレイトスおよびストア派 は の自然 しぜん 法論 ほうろん において見 み られ、そこでは自然 しぜん 学 がく と倫理 りんり 学 がく とが連続 れんぞく 性 せい を保 たも っている。このような場合 ばあい には、自然 しぜん 法則 ほうそく と自然 しぜん 法 ほう がほとんど同義 どうぎ で語 かた られることが多 おお く、何 なん らかの傾向 けいこう 性 せい (例 たと えば結婚 けっこん は普通 ふつう 雌雄 しゆう で行 おこな われることなど)が自然 しぜん 法 ほう とされることもある。
自然 しぜん 法 ほう とは、自然 しぜん が全 すべ ての動物 どうぶつ に教 おし えた法 ほう である。なぜなら、この法 ほう は、人類 じんるい のみに固有 こゆう のものではなく、陸海 りくかい に生 い きる全 すべ ての動物 どうぶつ および空中 くうちゅう の鳥類 ちょうるい にも共通 きょうつう しているからである。雌雄 しゆう の結合 けつごう 、すなわち人類 じんるい におけるいわゆる婚姻 こんいん は、実際 じっさい にこの法 ほう にもとづく。子供 こども の出生 しゅっしょう や養育 よういく もそうである。なぜなら、私 わたし が認 みと めるところによれば、動物 どうぶつ 一般 いっぱん が、たとえ野獣 やじゅう であっても、自然 しぜん 法 ほう の知識 ちしき を与 あた えられているからである。 — 『学説 がくせつ 彙纂』第 だい 1巻 かん 第 だい 1章 しょう 第 だい 1法文 ほうぶん 第 だい 3項 こう [16]
人間 にんげん の自然 しぜん 本性 ほんしょう を理性 りせい 的 てき であると解 げ する立場 たちば から見 み れば、理性 りせい もまた自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん となる。特 とく に理性 りせい を自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん として独立 どくりつ させたのは、近世 きんせい 自然 しぜん 法論 ほうろん 者 しゃ たちである。彼 かれ らは自然 しぜん 法 ほう を正 ただ しい理性 りせい の命令 めいれい と定義 ていぎ して、神 かみ 的 てき な要素 ようそ をそこから取 と り除 のぞ いている。純粋 じゅんすい に理性 りせい が自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん となるときには、自然 しぜん 法 ほう は実定法 じっていほう 以外 いがい の合理 ごうり 的 てき な法 ほう を意味 いみ する。この特徴 とくちょう はとりわけホッブズ に見 み られ、彼 かれ は自然 しぜん 法 ほう を、単 たん に人間 にんげん が合理 ごうり 的 てき に思考 しこう し、その自然 しぜん 本性 ほんしょう としての死 し への恐怖 きょうふ にもとづいて意思 いし が受 う け入 い れるであろう法 ほう と解 かい している。
自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん が制定 せいてい 法 ほう や判例 はんれい 法 ほう でない以上 いじょう 、その認識 にんしき 手段 しゅだん が常 つね に問題 もんだい となる。基本 きほん 的 てき に、自然 しぜん 法 ほう の認識 にんしき 原理 げんり は、その法 ほう 源 げん の種類 しゅるい にかかわらず理性 りせい であると言 い われる。すなわち、自然 しぜん 法 ほう が超 ちょう 自然 しぜん 的 てき な存在 そんざい によって作 つく られたものであろうとなかろうと、それを発見 はっけん するのは人間 にんげん の理性 りせい である。理性 りせい が人間 にんげん の自然 しぜん 本性 ほんしょう である以上 いじょう 、合理 ごうり 的 てき 思考 しこう は自然 しぜん 法 ほう の認識 にんしき にとって不可欠 ふかけつ となる。ストア派 は にとって倫理 りんり 学 がく は論理 ろんり 学 がく と自然 しぜん 学 がく の上 うえ に成 な り立 た つものであり、密接 みっせつ 不可分 ふかぶん である[17] 。
義務 ぎむ は次 つぎ のように定義 ていぎ される。「生 せい における整合 せいごう 的 てき なことで、それが実行 じっこう されたときに合理 ごうり 的 てき に説明 せつめい されることである」。これとは反対 はんたい のことは義務 ぎむ に反 はん することである。これは、非 ひ ロゴス 的 てき な動物 どうぶつ にも及 およ ぶ。なぜなら、それらも、それ自身 じしん の自然 しぜん 本性 ほんしょう と整合 せいごう 的 てき な何 なん らかの働 はたら きをしているからである。理性 りせい 的 てき な動物 どうぶつ の場合 ばあい は、次 つぎ のように説明 せつめい される。「生 せい における整合 せいごう 的 てき なこと」。 — ストバイオス『抜粋 ばっすい 集 しゅう 』第 だい 2巻 かん 7-8
これに対 たい して、自然 しぜん 法 ほう が人間 にんげん には直接的 ちょくせつてき には認識 にんしき 不可能 ふかのう であるという立場 たちば からは、何 なん らかの補助 ほじょ 手段 しゅだん を用 もち いることが要求 ようきゅう される。その場合 ばあい 、キリスト教 きりすときょう の自然 しぜん 法論 ほうろん は、神 かみ からの啓示 けいじ を重視 じゅうし する。それは、専 もっぱ ら新約 しんやく 聖書 せいしょ および旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ から得 え られる指図 さしず である。典型 てんけい 的 てき な啓示 けいじ は、モーセ の十戒 じっかい である。
既 すで に初期 しょき ストア派 は のクリュシッポス が、ノモス (慣習 かんしゅう )とピュシス (自然 しぜん 本性 ほんしょう )を対置 たいち し、後者 こうしゃ を前者 ぜんしゃ に優位 ゆうい させる。ローマ・ストア派 は の思想 しそう に影響 えいきょう されたキケロ は、自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん を理性 りせい に求 もと めながら次 つぎ のように述 の べている。
次 つぎ はもっとも愚 おろ かな見解 けんかい である。すなわち、国民 こくみん の習慣 しゅうかん や法 ほう によって定 さだ められていることはすべて正 ただ しいと考 かんが えることである。僭主 せんしゅ の法 ほう でも正 ただ しいのか。…(中略 ちゅうりゃく )…人間 にんげん の共同 きょうどう 体 たい を一 ひと つに結 むす びつけている正 ただ しさは一 ひと つであり、それを定 さだ めたのは一 ひと つの法 ほう であり、この法 ほう は命 めい じたり禁 きん じたりする正 ただ しい理性 りせい だからである。この法 ほう を知 し らないひとは、この法 ほう の書 か かれているところがどこかにあろうとなかろうと、不正 ふせい な人 ひと である。 — キケロ『法律 ほうりつ について』第 だい 1巻 かん 42
トマス・アクィナス は神 かみ の意思 いし を自然 しぜん 法 ほう の法 ほう 源 げん としながら、次 つぎ のように述 の べる。
自然 しぜん 法 ほう ならびに神 かみ 法 ほう は神 かみ 的 てき 意志 いし から発出 はっしゅつ するものであるから、人間 にんげん の意志 いし から発出 はっしゅつ するところの慣習 かんしゅう によっては改変 かいへん されえないものであり、ただ神 かみ 的 てき 権威 けんい によってのみ改変 かいへん されることが可能 かのう である。したがって、いかなる慣習 かんしゅう といえども神 かみ 法 ほう や自然 しぜん 法 ほう に反 はん して法 ほう たるの力 ちから を獲得 かくとく することはできない。 — 『神学 しんがく 大全 たいぜん 』第 だい 2部 ぶ の1第 だい 97問題 もんだい 第 だい 3項 こう [21]
グロチウス は自然 しぜん 法 ほう と万 まん 民法 みんぽう とを区別 くべつ しながら[22] 、万 まん 民法 みんぽう とは「時代 じだい と慣習 かんしゅう の創造 そうぞう である」という[23] 。
これに対 たい して、歴史 れきし 法 ほう 学派 がくは のカール・フォン・サヴィニー は、自然 しぜん 法 ほう を各 かく 民族 みんぞく について相対 そうたい 化 か しながら、自然 しぜん 法 ほう と慣習 かんしゅう 法 ほう とをかなり接近 せっきん させる[24] 。
自然 しぜん 法 ほう と実定法 じっていほう との関係 かんけい には主 おも に2種類 しゅるい あり、ひとつは授権関係 かんけい 、ひとつは補完 ほかん 関係 かんけい である。前者 ぜんしゃ の場合 ばあい 、自然 しぜん 法 ほう は実定法 じっていほう に対 たい する授権者 しゃ となり、自然 しぜん 法 ほう に反 はん する実定法 じっていほう は原則 げんそく 的 てき に失効 しっこう する。但 ただ し、正当 せいとう な理由 りゆう があるときには、この限 かぎ りでない。正当 せいとう な理由 りゆう としては、堕落 だらく した人類 じんるい は自然 しぜん 法 ほう 上 じょう の義務 ぎむ を完遂 かんすい できないことなどが挙 あ げられる。他方 たほう で、後者 こうしゃ の場合 ばあい 、自然 しぜん 法 ほう は実定法 じっていほう が欠 かけ 缺 かけ している領域 りょういき を補 おぎな うことになり、その最 もっと も重要 じゅうよう な適用 てきよう 領域 りょういき は、国際 こくさい 関係 かんけい とされていた。これは、特 とく に近代 きんだい において、国際 こくさい 関係 かんけい を規律 きりつ するルールが非常 ひじょう に多 おお くの点 てん で整備 せいび されていなかったからである。今日 きょう においては、非常 ひじょう に多数 たすう の国際 こくさい 条約 じょうやく が締結 ていけつ されており、必 かなら ずしもその限 かぎ りではないが、学説 がくせつ 上 じょう 、自然 しぜん 法 ほう の復権 ふっけん を訴 うった えるもの[25] も中 なか には見 み られる。
^ a b c d e f g h i j k l m 自然 しぜん 法 ほう とは - コトバンク
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^ 訳出 やくしゅつ にあたっては、(Justinian I, Emperor of the East; 春木 はるき , 一郎 いちろう 『學説 がくせつ 彙纂Π ぱい ρ ろー ω おめが τ たう α あるふぁ [學説 がくせつ 彙纂プロータ] 』有斐閣 ゆうひかく 、1938年 ねん 、60-61頁 ぺーじ 。CRID 1130000797323840128 。https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I083350955-00 。 を参考 さんこう にした。
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