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理性 - Wikipedia

理性りせい

人間にんげん知的ちてき能力のうりょくひと

理性りせい(りせい、まれ: λόγος: ratioふつ: raisonえい: reasonどく: Vernunft)とは、人間にんげん本来ほんらいてきそなわっているとされる知的ちてき能力のうりょくひとつである。いいかえれば推論すいろん(reasoning)能力のうりょくである。知識ちしき認識にんしき判断はんだん源泉げんせんとして、この理性りせい依拠いきょする態度たいど理性りせい主義しゅぎう。

哲学てつがくにおける理性りせい

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知性ちせい理性りせい区別くべつはギリシア哲学てつがくにおけるヌース叡智えいち)とディアノイア(dia 経由けいゆして + noia 間接かんせつ推論すいろん)の区別くべつ基本きほんてきには由来ゆらいする。また、古典こてんギリシアでは論理ろんり理性りせいあらわかたりはともにロゴスであったが、このロゴスというかたり古典こてんギリシア元来がんらいは、割合わりあいという意味いみゆうしていた。そこから、ラテン語らてんごでもおな意味いみ日常にちじょうであったratioがロゴスの訳語やくごとされ、ロマンス英語えいご理性りせい意味いみするかたりもそのながれをいだ。セネカによればこれはキケロによる訳語やくごであるという。

こうしたかたり由来ゆらいは、西欧せいおう伝統でんとうにおいて、理性りせい論理ろんり類比るいひてき方法ほうほう秩序ちつじょとしてかんがえる傾向けいこうをもたらした。こうした、理性りせいてき推論すいろん比例ひれいモデルで理解りかいするときいちばん典型てんけいてきなのが、三角さんかく測量そくりょうや、特定とくてい時刻じこくでのかげながさとぼうとの比例ひれい関係かんけいから、直接ちょくせつはかれないピラミッドのたかさを、そのかげながさをもとにして推論すいろんするような場合ばあいである。

現代げんだいえいべいけん哲学てつがく(分析ぶんせき哲学てつがく)にしばしばられるように、理性りせい日常にちじょうてき悟性ごせい狭義きょうぎ知性ちせい)と混同こんどうした用法ようほうで(広義こうぎ知性ちせいとして)使つかわれるが、スコラ哲学すこらてつがく以来いらい西洋せいよう哲学てつがく伝統でんとうでは「推論すいろん論証ろんしょうてき能力のうりょくとしての理性りせい」と「対象たいしょう把握はあくする(understanding)能力のうりょくとしての悟性ごせい」とを区別くべつするのが普通ふつうである(明晰めいせきせい妥当だとうせい前者ぜんしゃに、直観ちょっかん後者こうしゃぞくする)。

ショーペンハウアーによる定義ていぎ

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ショーペンハウアーによると、理性りせいとは、抽象ちゅうしょうてき認識にんしきである概念がいねんあつか能力のうりょくであり、それ以上いじょうでもそれ以下いかでもない。概念がいねんあつかうというのは、知覚ちかく、つまり視聴覚しちょうかく触覚しょっかくあらわれた感覚かんかくのう悟性ごせいによって時間じかん空間くうかん因果いんがせい形式けいしきをもって現象げんしょうとしてあらわれた客観きゃっかん世界せかいから特定とくてい要素ようそ抽出ちゅうしゅつし、その要素ようそ同士どうしわせて抽象ちゅうしょうてき思考しこうおこな能力のうりょくのことである。簡単かんたんえば、文章ぶんしょうきするような活動かつどうにおいて、すべての人間にんげんあたまのなかでこの作業さぎょうおこなわれている。しかし抽象ちゅうしょうてき思考しこうは、結局けっきょく知覚ちかくあらわれる直接的ちょくせつてき認識にんしきをいわば水源すいげんとしてんできたものであるから、つねにそれと対応たいおうするのでなければ、机上きじょう空論くうろんであり無意味むいみである。ゆえに理性りせいたん反省はんせい(reflection)の能力のうりょくであって、かれによると哲学てつがく教授きょうじゅたちうように、それ自体じたい超越ちょうえつてき存在そんざい(かみ)を予感よかんできるような偉大いだい能力のうりょくではない。

理性りせい、つまり抽象ちゅうしょうてき認識にんしきたず、直接的ちょくせつてき認識にんしき(悟性ごせい・understanding)のみを人間にんげん以外いがい動物どうぶつは、現在げんざいまえあらわれている客観きゃっかん対応たいおうして行動こうどうをするに限定げんていされている。ツバメ営巣えいそうクモつく行動こうどうは、一見いっけん抽象ちゅうしょうてき認識にんしきもとづいて行動こうどうしているかのようにえるが、本能ほんのうによって発生はっせいしたものである。このてんは、我々われわれ人間にんげんづくりをする相手あいてえらさいに、抽象ちゅうしょうてき説明せつめいとはかかわりの本能ほんのうによって、健康けんこう優良ゆうりょう子孫しそんのこせるように、いわば無意識むいしきてきだい部分ぶぶんうごかされているのとおなじである。

一方いっぽう人間にんげん理性りせいてき活動かつどう、つまり計画けいかくてき活動かつどうおこなうことが出来できるのは、現在げんざいにとらわれず、未来みらい過去かこといった抽象ちゅうしょうされた表象ひょうしょう(現在げんざい以外いがい知覚ちかく直接ちょくせつあらわれず、過去かこ未来みらい抽象ちゅうしょうてき認識にんしきぞくしているにすぎない)を考慮こうりょれることができるからである。刑法けいほうなどほうによる罰則ばっそく効果こうかちえるのも、人間にんげん現在げんざい情動じょうどう抽象ちゅうしょうてき動機どうき(ほうによる罰則ばっそく)を比較ひかく衡量した結果けっか行為こうい選択せんたく可能かのうだからである。ゆえに、刑罰けいばつはこの効果こうか期待きたいしてつくられたものであって、だんじて報復ほうふく感情かんじょうたすことや、罪人ざいにん道徳的どうとくてき矯正きょうせいすること(これは不可能ふかのうである)を目的もくてきとしたものではない。

そして、カント主張しゅちょうするような道徳どうとく法則ほうそく指定していする実践じっせん理性りせいについてはまった否定ひていしている。経験けいけんてきても人間にんげんがそのような高尚こうしょう能力のうりょくをもっていないのはあきらかであるし、一見いっけん道徳どうとくせい」のようにえる行動こうどうも、大抵たいてい他者たしゃから報復ほうふくけることへの恐怖きょうふや、刑罰けいばつによるおそれなど、いわば渋々しぶしぶみずからの欲求よっきゅうおさえているにすぎないのが実際じっさいであるから。このような未来みらいへの憂慮ゆうりょといった抽象ちゅうしょうてき認識にんしき理性りせいによるもので、そうであれば理性りせい直接的ちょくせつてき本来ほんらい道徳どうとくせい寄与きよするものではない。むしろ理性りせい(つまり抽象ちゅうしょうてき認識にんしき)の使つかかた如何いかによっては、たとえば大量たいりょう虐殺ぎゃくさつなど、計画けいかくてき活動かつどうによるきわめておおきなあく実行じっこうすることが可能かのうであり、歴史れきしにおいてしばしばこのれい実証じっしょうされている。「世界せかい理性りせい」などは論外ろんがいであり、かれによるともっと野蛮やばん宗教しゅうきょうひとつであるユダヤきょう教義きょうぎもとづく妄想もうそうである。

理性りせいへの傾倒けいとう信頼しんらい失墜しっつい

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啓蒙けいもう時代じだい理性りせいへの傾倒けいとう

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理性りせい主義しゅぎはじまりは古代こだいギリシア哲学てつがくであり、ルネサンス啓蒙けいもう時代じだいにその絶頂ぜっちょうむかえた(詳細しょうさい理性りせい主義しゅぎ参照さんしょう)。フランス革命かくめい前後ぜんこうにはヴォルテールなどの啓蒙けいもう主義しゅぎしゃ中心ちゅうしんとして、宗教しゅうきょうてき(とりわけキリスト教きりすときょうまと)価値かちかんはいし、理性りせいてき価値かちかん尊重そんちょうする傾向けいこうられた。とりわけ、フランス革命かくめい国民こくみん公会こうかい時代じだい(17921795)にはロベスピエールによる理性りせい崇拝すうはいという極端きょくたんかたちでその傾向けいこうあらわれた。

また、思想しそうめんでは、ルネ・デカルトにはじまる大陸たいりく合理ごうり主義しゅぎフランシス・ベーコンはじまるイギリス経験けいけんろん論争ろんそうひろげていたが、プロイセンイマヌエル・カント両者りょうしゃ批判ひはんてき統合とうごうし、人間にんげん感性かんせい悟性ごせいによって世界せかい認識にんしきすることができると主張しゅちょうした。

こうした思想しそうめんでの理性りせい主義しゅぎ伸長しんちょうは、社会しゃかいにもおおきな影響えいきょうあたえることとなった。フランス革命かくめいアメリカ独立どくりつ革命かくめいをはじめ、ヨーロッパだけでなく、南北なんぼくアメリカ大陸あめりかたいりくなどにもその影響えいきょう波及はきゅうした(大西洋たいせいよう革命かくめい)。たとえば、ヨーロッパではエカチェリーナ2せいフリードリヒ2せいなどの啓蒙けいもう専制せんせい君主くんしゅあらわれ、アメリカ大陸あめりかたいりくではトゥサン=ルヴェルチュールらを中心ちゅうしんとするハイチ革命かくめいこったのを皮切かわきりに、中南米ちゅうなんべい諸国しょこく啓蒙けいもう主義しゅぎ影響えいきょうけて次々つぎつぎ独立どくりつたした(ただし、あくまでクリオーリョ中心ちゅうしんとしたものであった)。

また、理性りせい主義しゅぎ影響えいきょうけてアダム・スミス始祖しそとする資本しほん主義しゅぎ急激きゅうげきひろまり、経済けいざいおおいに発展はってんした。産業さんぎょう革命かくめいこったのもそのころであった。最初さいしょ産業さんぎょう革命かくめいはじまりのであるイギリスが「世界せかい工場こうじょう」といわれるほどの経済けいざいてき発展はってんげ、ドイツやアメリカがそれにつづいた。古典こてん経済けいざいがく自由じゆう放任ほうにん政策せいさく(レッセフェール)思想しそうてき根拠こんきょとし、グローバル進展しんてんした。

このように、理性りせいへの信頼しんらいは18世紀せいきから19世紀せいきにかけて絶頂ぜっちょうたっした。

理性りせいへの信頼しんらいかげ

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理性りせいへの信頼しんらいかげりとしてもっと象徴しょうちょうてきなものは、ふたつの世界せかい大戦たいせんであった。理性りせいてき価値かちかんもとまれた科学かがく技術ぎじゅつ戦争せんそう使つかわれ、これまでにるいをみないほどの多数たすう死傷ししょうしゃした。とくに、だい世界せかい大戦たいせん終戦しゅうせん間際まぎわには広島ひろしま長崎ながさきはつ原子げんしばくだん投下とうかされ、おおくの被害ひがいしゃした。原子げんしばくだんがそれまでの兵器へいき決定的けっていてきことなるのは、それが人類じんるい破滅はめつさせるほどの強大きょうだいちからっているというてんである。人類じんるいたかみにみちびいてくれるはずの理性りせいが、人類じんるい破滅はめつさせてしまうかもしれないという皮肉ひにく状態じょうたいおちいってしまったのである。

大戦たいせんアメリカソ連それんによる冷戦れいせんしたにおいても、おおくの戦争せんそうこると同時どうじ核兵器かくへいき脅威きょういがより増大ぞうだいし、キューバ危機ききさいにはその脅威きょういがピークにたっした。また、理性りせいてき思考しこうのもとされた資本しほん主義しゅぎ社会しゃかい主義しゅぎというふたつのイデオロギーの対立たいりつ戦争せんそうこしたというのも特徴とくちょうてきてんであった。

そのにも環境かんきょう問題もんだい生命せいめい倫理りんり問題もんだいなど、理性りせいへの信頼しんらいおおいにるがす事態じたいが20世紀せいきつづけにあらわれた。そのことから、20世紀せいき後半こうはんになると近代きんだいてき理性りせい主義しゅぎ批判ひはんするポストモダン思想しそう哲学てつがく芸術げいじゅつなど様々さまざま分野ぶんやあらわれはじめた。また、理性りせいへの信頼しんらい失墜しっついしたことからニヒリズム傾向けいこう顕著けんちょとなった。

ほかにも、自然しぜんへの回帰かいきはかかんがえもあらわれるようになり、宗教しゅうきょう呪術じゅじゅつなどの影響えいきょうりょくふたた強大きょうだいになるという現象げんしょうこった(さい魔術まじゅつ)。

理性りせい主義しゅぎとの逆行ぎゃっこう

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近年きんねん、いわゆる「ポスト真実しんじつてき思想しそう影響えいきょうりょくしている。「ポスト真実しんじつ」とは、人々ひとびと理性りせいてき客観きゃっかんてき事実じじつよりも個人こじん信条しんじょう優先ゆうせんしてかんがえるという傾向けいこうのことで、2010年代ねんだい後半こうはんになってドナルド・トランプ当選とうせんブレグジット決定けっていなどが相次あいついでこったことで注目ちゅうもくあつめた。この傾向けいこうポピュリズム陰謀いんぼうろんはん知性ちせい主義しゅぎなどとも関係かんけいがあり、いずれも理性りせいよりも直感ちょっかんてき感情かんじょううったえかけることが特徴とくちょうてきである。

ただ、『エリートの反逆はんぎゃく―-現代げんだい民主みんしゅ主義しゅぎやめい』をあらわしたクリストファー・ラッシュは、こうした傾向けいこうのそもそもの発端ほったんはむしろ「エリート」がわにあり、かれらの独善どくぜんてき啓蒙けいもう主義しゅぎ反発はんぱつんだ帰結きけつであると主張しゅちょうしている。したがって、ポスト真実しんじつてき思想しそう自体じたいあやまったものとめつけることは早計そうけいであるし、根本こんぽんてき解決かいけつにもならないということには注意ちゅうい必要ひつようである。

理性りせい人間にんげんのアイデンティティの問題もんだい

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キリスト教きりすときょうてき世界せかいかんにおいて、人間にんげんとはかみ動物どうぶつなかあいだしゃであり、それこそが人間にんげんのアイデンティティであった。その理性りせい主義しゅぎ台頭たいとうすると、人間にんげんのアイデンティティとは理性りせいであるという主張しゅちょうがなされるようになった。動物どうぶつには計算けいさん能力のうりょく処理しょり能力のうりょく不足ふそくしているが、人間にんげんにはそれがあるという主張しゅちょうである。

しかしながら、現代げんだいになってからコンピュータAIといった、人間にんげんよりすぐれた理性りせいてき能力のうりょく存在そんざいあらわれると、今度こんど人間にんげんのアイデンティティは感性かんせいにあるという主張しゅちょうがなされるようになった。しかし、感性かんせいというめんえば人間にんげんより動物どうぶつほうすぐれているはずであり(理性りせい主義しゅぎ定義ていぎえば、動物どうぶつとは100%感性かんせいてき存在そんざいである)、この主張しゅちょうでは人間にんげんのアイデンティティはうしなわれてしまうというジレンマが発生はっせいしてしまう。

このことにより、人間にんげんのアイデンティティは現代げんだいにおいてうしなわれてしまったという言説げんせつまれた。そのアイデンティティの不安定ふあんていさから、環境かんきょう問題もんだい生命せいめい倫理りんりなどの問題もんだいあらわれてしまうのではないかと主張しゅちょうするもの存在そんざいする。

理性りせい情動じょうどう

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理性りせい(あるいは高次こうじ認知にんち能力のうりょく)は伝統でんとうてきに、感覚かんかく(senses)、感情かんじょう情動じょうどう(feelings、emotions)、情念じょうねん(passions)とう対比的たいひてきもちいられてきた。理性りせい純粋じゅんすい精神せいしんてき能力のうりょくであり、情動じょうどう肉体にくたいてき作用さようであるとかんがえられることもあった。たとえば、非常ひじょうさわがしい場所ばしょにいるときやひどくかなしんでいるときには理性りせいてき判断はんだんくだすのが困難こんなんになる。

近年きんねん行動こうどう経済けいざいがく実験じっけん心理しんりがく理性りせいてき熟慮じゅくりょがかならずしも合理ごうりてき判断はんだんこさないことをしめした(認知にんちバイアス)。心理しんりがく機能きのう主義しゅぎ学派がくは情動じょうどうをヒトの生存せいぞんむすびついているとかんがえていたが、同様どうよう進化しんか心理しんりがく認知にんちバイアスや情動じょうどうてき直観ちょっかんかならずしも不合理ふごうりではなく、とく我々われわれ祖先そせん時代じだい環境かんきょうでは合理ごうりてき判断はんだんむすびついていた可能かのうせいしめした。これは理性りせい情動じょうどう感情かんじょう相互そうご作用さようてきまたは並列へいれつてき判断はんだん意思いし決定けっていかかわっていることを示唆しさする。これはじゅう過程かてい理論りろんあるいはじゅうプロセスモデルとばれている[1]。スタノヴィッチはこれまでに提案ていあんされたじゅうプロセスモデルに類似るいじしたモデルを列挙れっきょしている。それらは詳細しょうさいことなるが、つぎのような共通きょうつうてんつ。

  • 情動じょうどうシステム(システム1)-即座そくざはたらき、短期たんきてき利益りえきおも生存せいぞん繁殖はんしょく)にかかわり、おも大脳だいのうえんけいつかさどられている。進化しんかてき起源きげんふるい。
  • 理性りせいてきシステム(システム2)-ゆっくりとはたらき、長期ちょうきてき利益りえき勘案かんあんすることができ、おも大脳だいのうしん皮質ひしつつかさどられている。進化しんかてき起源きげん比較的ひかくてきあたらしい。

ふたつのシステムがどのように相互そうご作用さようするかには、これらのモデルの提唱ていしょうしゃあいだでも合意ごういがない。状況じょうきょう判断はんだん内容ないようによってもことなる可能かのうせいがある。

理性りせい限界げんかい

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理性りせいには限界げんかいがあるのではないかという議論ぎろんがある。 そのれいとして、哲学てつがくしゃカント二律背反にりつはいはん指摘してきしている。アロー不可能ふかのうせい定理ていり囚人しゅうじんのジレンマ選択せんたく限界げんかい)、ハイゼンベルク確定かくていせい原理げんり科学かがく限界げんかい)、ゲーデルの不完全性ふかんぜんせい定理ていり知識ちしき限界げんかい)などもそのれいとしてげられる[2]。ただし実際じっさい不完全性ふかんぜんせい定理ていりしめしたものは、数学すうがく用語ようご意味いみでの「特定とくてい形式けいしき体系たいけいPにおいて決定けってい不能ふのう命題めいだい存在そんざい」であり、一般いっぱんてき意味いみでの「不完全性ふかんぜんせい」とは無関係むかんけいである[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ キース・スタノヴィッチ『しん遺伝子いでんし論理ろんりまるのか-じゅう過程かていモデルでみるヒトの合理ごうりせいむくでん直子なおこやくみすず書房しょぼう、2008ねんISBN 9784622074212
  2. ^ 高橋たかはし昌一郎しょういちろう理性りせい限界げんかい-不可能ふかのうせい確定かくていせい不完全性ふかんぜんせい講談社こうだんしゃ、2008ねんISBN 9784062879484
  3. ^ フランセーン 2011, p. 230.

参照さんしょう文献ぶんけん

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  • フランセーン, トルケル ちょ田中たなか一之かずゆき やく『ゲーデルの定理ていり利用りよう誤用ごよう不完全ふかんぜんガイド』みすず書房しょぼう、2011ねん3がつ25にちISBN 978-4-622-07569-1 

関連かんれん項目こうもく

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