ドイツ古典 こてん 主義 しゅぎ 哲学 てつがく やドイツ理想 りそう 主義 しゅぎ 哲学 てつがく とも呼 よ ばれる(これらのような呼称 こしょう にした場合 ばあい 、該当 がいとう する思想家 しそうか が若干 じゃっかん 異 こと なることがある)。マルクス主義 まるくすしゅぎ を国家 こっか 理念 りねん の嚆矢 こうし とした国々 くにぐに では、ドイツ固有 こゆう で且 か つ労働 ろうどう 者 しゃ 外的 がいてき な思索 しさく だという意味 いみ づけでドイツ市民 しみん 的 てき 観念論 かんねんろん (独 どく : der deutsch-bürgerliche Idealismus )と呼 よ ばれたが現在 げんざい この呼称 こしょう は廃 すた れている。後述 こうじゅつ するが、これらの名称 めいしょう は19世紀 せいき 後半 こうはん からの哲学 てつがく 史 し 研究 けんきゅう のなかで生 しょう じたのであり、ドイツ観念論 かんねんろん に分類 ぶんるい される思想家 しそうか たちが、こうした名称 めいしょう を用 もち いたわけではない。
イマヌエル・カント の批判 ひはん 哲学 てつがく およびそれに対 たい するフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ の批判 ひはん に刺激 しげき され、神 かみ または絶対 ぜったい 者 しゃ と呼 よ ばれる観念 かんねん 的 てき 原理 げんり 、の自己 じこ 展開 てんかい として世界 せかい および人間 にんげん を捉 とら えることをその特徴 とくちょう とする。フランス革命 かくめい の行動 こうどう 性 せい に比 ひ して、宗教 しゅうきょう 的 てき 観照 かんしょう という穏健 おんけん さにある。プロテスタント 神学 しんがく に近接 きんせつ している。哲学 てつがく 者 しゃ ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ 、フリードリヒ・シェリング 、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル のほかカール・レオンハルト・ラインホルト 、フリードリヒ・ヘルダーリン 、カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ゾルガー 、神学 しんがく 者 しゃ フリードリヒ・シュライアマハー がドイツ観念論 かんねんろん の主要 しゅよう な論者 ろんしゃ とみなされる。
なおカント自身 じしん がドイツ観念論 かんねんろん に属 ぞく するかどうかは、研究 けんきゅう 者 しゃ により見解 けんかい が分 わ かれるが、カント哲学 てつがく とドイツ観念論 かんねんろん を分 わ けて考 かんが える学者 がくしゃ が多 おお い。その根拠 こんきょ は、あるいはドイツ観念論 かんねんろん に含 ふく まれる思想家 しそうか がカントとはその時代 じだい に哲学 てつがく 的 てき に対立 たいりつ 関係 かんけい にあったという哲学 てつがく 史 し 的 てき な事情 じじょう 、またカントが認識 にんしき 理性 りせい の対象 たいしょう ではないとした神 かみ (物 もの 自体 じたい )が、ドイツ観念論 かんねんろん では哲学 てつがく のもっとも重要 じゅうよう な主題 しゅだい であり、知 ち の対象 たいしょう とされる両者 りょうしゃ の哲学 てつがく 上 じょう の立場 たちば の違 ちが いに求 もと められる。一方 いっぽう 、カントにおいても物 もの 自体 じたい は実践 じっせん 理性 りせい の要請 ようせい であって哲学 てつがく 体系 たいけい の中 なか におかれており哲学 てつがく の主要 しゅよう な主題 しゅだい であること、さらにはドイツ観念論 かんねんろん の主要 しゅよう な論者 ろんしゃ はカントから出発 しゅっぱつ して自己 じこ の体系 たいけい を構築 こうちく したことを重視 じゅうし し、ドイツ観念論 かんねんろん の初 はじ めにカント(のコペルニクス的 てき 転回 てんかい 以降 いこう )をおく哲学 てつがく 史家 しか もいる。これに対 たい してドイツ古典 こてん 主義 しゅぎ 哲学 てつがく は、カントとドイツ観念論 かんねんろん の連続 れんぞく 性 せい を重視 じゅうし し、カントを含 ふく む呼称 こしょう である。
「ドイツ観念論 かんねんろん 」期 き と呼 よ ばれていた時代 じだい の人々 ひとびと は、自 みずか らの哲学 てつがく をドイツ観念論 かんねんろん とは呼 よ んでいなかった。「ドイツ観念論 かんねんろん 」という呼称 こしょう は、20世紀 せいき 初頭 しょとう の新 しん カント学派 がくは (Neukantianismus)や新 しん ヘーゲル学派 がくは の哲学 てつがく 史 し の学者 がくしゃ 達 たち (リヒャルト・クローナー やニコライ・ハルトマン など)が、これら一連 いちれん の思想家 しそうか の総称 そうしょう として「ドイツ観念論 かんねんろん 」として紹介 しょうかい したことにより、普及 ふきゅう したものである。この名称 めいしょう は、同 どう 時代 じだい の哲学 てつがく 史家 しか のローゼンツヴァイク が1917年 ねん に発見 はっけん し「ドイツ観念論 かんねんろん の最古 さいこ の体系 たいけい プログラム」(独 どく : Das älteste Systemprogramm des deutschen Idealismus )と呼 よ んだ著者 ちょしゃ 不明 ふめい の哲学 てつがく 的 てき 断片 だんぺん (1796年 ねん から1797年 ねん の間 あいだ に筆記 ひっき )に拠 よ っている。この名称 めいしょう 自体 じたい は草稿 そうこう の本文 ほんぶん にはなくローゼンツヴァイクが付 ふ したものである。
なお、この断片 だんぺん の著者 ちょしゃ については幾 いく つかの説 せつ がある。断片 だんぺん 自体 じたい はゲオルク・ヘーゲル によって書 か き写 うつ されたものである。ローゼンツヴァイクはこれをフリードリヒ・シェリング のものであるとした。しかしのちに筆者 ひっしゃ としてヘーゲル、ヘルダーリン、集団 しゅうだん 筆者 ひっしゃ 説 せつ などが提唱 ていしょう され、どれも決定的 けっていてき な説 せつ とはなっていない。草稿 そうこう の内容 ないよう は上 うえ に挙 あ げた三 さん 人 にん の思想 しそう と大 おお きく関 かか わっているものの、フィヒテとは関 かか わりが薄 うす く、その点 てん から「ドイツ観念論 かんねんろん の最古 さいこ の体系 たいけい プログラム」という名称 めいしょう の妥当 だとう 性 せい にも疑問 ぎもん がある。たとえば体系 たいけい 草稿 そうこう は倫理 りんり 学 がく と美的 びてき なものの結 むす びつきを要求 ようきゅう し、民衆 みんしゅう に与 あた えられるべき哲学 てつがく 的 てき な「新 あたら しい神話 しんわ 」の創出 そうしゅつ を哲学 てつがく の目標 もくひょう とするが、フィヒテにはそのような美的 びてき なものへの関心 かんしん と要求 ようきゅう は薄 うす い。
このようにドイツ観念論 かんねんろん 者 しゃ と総称 そうしょう されている思想家 しそうか の中 なか でも、その内容 ないよう は思想家 しそうか によって様々 さまざま に異 こと なる。しかしカント哲学 てつがく を出発 しゅっぱつ 点 てん として「自己 じこ 意識 いしき 」や「精神 せいしん 」、「自我 じが 」などの精神 せいしん 的 てき なもの、さらに言 い えば、前 まえ にも触 ふ れているとおり、その根底 こんてい として観念 かんねん 的 てき 原理 げんり の自己 じこ 展開 てんかい をおき、それを絶対 ぜったい 者 しゃ あるいは神 かみ と呼 よ んで、後者 こうしゃ との関 かか わりによって世界 せかい や人間 にんげん の本質 ほんしつ を捉 とら える立場 たちば から説明 せつめい しようとする「観念論 かんねんろん 」の立場 たちば の哲学 てつがく であるという点 てん では一致 いっち していると言 い える。
イマヌエル・カント の三 さん 批判 ひはん 書 しょ はしばしばカント哲学 てつがく といわれる。これはすでにドイツ観念論 かんねんろん の時代 じだい にもそうであった。しかしカントは自身 じしん の「批判 ひはん 」 を「哲学 てつがく 」とはみなさなかった。「批判 ひはん 」とは哲学 てつがく の予備 よび 学 がく として、人間 にんげん 理性 りせい によって遂行 すいこう される限 かぎ りでの哲学 てつがく の前提 ぜんてい としての理性 りせい (独 どく : Vernunft )の性格 せいかく を示 しめ すものである。カントはそれまでの哲学 てつがく 、すなわち形而上学 けいじじょうがく を、人間 にんげん 理性 りせい の性格 せいかく を踏 ふ まえない空虚 くうきょ な体系 たいけい 、「独断 どくだん 論 ろん のまどろみ」であると批判 ひはん した。そして人間 にんげん の認識 にんしき のあり方 かた とその前提 ぜんてい としての超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 認識 にんしき を問 と い、また、そのような前提 ぜんてい をもつ人間 にんげん 理性 りせい の対象 たいしょう となりうるものは何 なに であるかについての考究 こうきゅう に向 む かった。この理性 りせい の法廷 ほうてい での審査 しんさ が批判 ひはん (独 どく : Kritik )である。批判 ひはん を通 つう じて、伝統 でんとう 的 てき な哲学 てつがく の対象 たいしょう であった存在 そんざい (独 どく : Sein )や神 かみ (独 どく : Gott )は、認識 にんしき 理性 りせい によっては認識 にんしき (独 どく : erkennen )されえず、ただ思惟 しい (独 どく : denken )することのみが可能 かのう なものとされた。そしてカントにとって形而上学 けいじじょうがく たる哲学 てつがく (独 どく : Philosophie )は批判 ひはん の上 うえ にのみ書 か かれうるものであった。
一方 いっぽう ドイツ観念論 かんねんろん の代表 だいひょう 的 てき な思索 しさく 家 か たちは、再 ふたた び神 かみ と存在 そんざい を直接 ちょくせつ のかつ究極 きゅうきょく の対象 たいしょう として取 と り上 あ げた。人間 にんげん の知 ち としての哲学 てつがく の真正 しんせい の対象 たいしょう は神 かみ 的 てき なもの、あるいは端 はし 的 てき に神 かみ であると宣言 せんげん した彼 かれ らは、それぞれの思想 しそう が、かつそれのみが真正 しんせい な哲学 てつがく であるとの自負 じふ にたった。この自覚 じかく を共有 きょうゆう するのがドイツ観念論 かんねんろん だとすれば、カントはドイツ観念論 かんねんろん の思想家 しそうか とは一線 いっせん を画 かく すといわねばならないだろう。カントの著作 ちょさく を「哲学 てつがく 」として受容 じゅよう したヤコービ 、ラインホルト 、フィヒテ 、シェリング らの若 わか い世代 せだい は、カントの理論 りろん に潜 ひそ む理性 りせい の二 に 重 じゅう 性 せい と分裂 ぶんれつ を、自 みずか らの哲学 てつがく によって超 こ え、統一 とういつ をもたらそうとした。いいかえれば、カントが物 もの 自体 じたい (独 どく : Ding an sich )と認識 にんしき (独 どく : Erkenntnis )あるいは神 かみ と人間 にんげん 理性 りせい の間 あいだ においた断絶 だんぜつ をふたたび統一 とういつ にもたらそうとする運動 うんどう が、ドイツ観念論 かんねんろん だったのである。そのような統一 とういつ を与 あた えるのが、自己 じこ 意識 いしき すなわち自我 じが (独 どく : das Ich )であり、さらにそのような意識 いしき を可能 かのう にする根拠 こんきょ でありかつ意識 いしき の究極 きゅうきょく の対象 たいしょう である絶対 ぜったい 者 しゃ ないし神 かみ である。ところでこの思想 しそう は、しばしば先鋭 せんえい 化 か して伝統 でんとう 宗教 しゅうきょう のもつ神 かみ 概念 がいねん と対立 たいりつ し、またカントが否定 ひてい した神 かみ の認識 にんしき 可能 かのう 性 せい を再 ふたた び主張 しゅちょう することになる。一方 いっぽう カントは、学者 がくしゃ の言説 げんせつ には自由 じゆう な言論 げんろん が認 みと められるべきだが、社会 しゃかい の安定 あんてい のためにはそのような言説 げんせつ を控 ひか える事 こと はやむをえない場合 ばあい があるとも考 かんが えていた。皮肉 ひにく な事 こと に、カント自身 じしん によって刺激 しげき されたドイツ観念論 かんねんろん の急進 きゅうしん 性 せい は、カントの穏健 おんけん さとは相容 あいい れないものだった。ドイツ観念論 かんねんろん の初期 しょき の展開 てんかい はカントの最 さい 晩年 ばんねん に当 あ たるが、カントは陽 ひ にフィヒテらを批判 ひはん した。またドイツ観念論 かんねんろん の思想家 しそうか たちも、カントの二 に 世界 せかい 論 ろん を不徹底 ふてってい なものと言明 げんめい し、カントを超 こ えることを標榜 ひょうぼう した。しかしカントが1804年 ねん に亡 な くなったとき、カントの思想 しそう の限界 げんかい を指摘 してき してやまなかったドイツ観念論 かんねんろん の思想家 しそうか たちは、一様 いちよう にドイツの思想 しそう を革新 かくしん したこの巨 きょ 人 じん の死 し を悼 いた んだのである。
ドイツ観念論 かんねんろん はその成立 せいりつ 過程 かてい から、一人 ひとり の思想家 しそうか による単独 たんどく での思索 しさく の成果 せいか ではなく、むしろ当時 とうじ の哲学 てつがく 者 しゃ らによる様々 さまざま な意見 いけん 交換 こうかん ・批判 ひはん などの交流 こうりゅう によって展開 てんかい した。その出発 しゅっぱつ 点 てん にはカント哲学 てつがく によって開 ひら かれた超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 自我 じが とその働 はたら きによる世界 せかい の把握 はあく がある。ここから、カントの哲学 てつがく が厳 きび しく分断 ぶんだん した認識 にんしき と物 もの 自体 じたい の統一 とういつ を「信仰 しんこう 」という概念 がいねん にもとめたフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ 、実践 じっせん 理性 りせい と理論 りろん 理性 りせい との統一 とういつ を「自我 じが 」概念 がいねん に求 もと めたヨハン・ゴットリープ・フィヒテ 、フィヒテの絶対 ぜったい 的 てき 自我 じが の立場 たちば の盲点 もうてん ともいえる「自然 しぜん 」という問題 もんだい をも体系 たいけい に取 と り入 い れ、自然 しぜん を自我 じが (精神 せいしん )の超越 ちょうえつ 論 ろん 的 てき 前史 ぜんし としたフリードリヒ・シェリング 、こうしたシェリングの精神 せいしん と自然 しぜん をも同一 どういつ にしうる絶対 ぜったい 者 しゃ からでは差別 さべつ された有限 ゆうげん 的 てき な存在 そんざい を導 みちび き出 だ せないとしたゲオルク・ヘーゲル の哲学 てつがく が、相互 そうご の協同 きょうどう と論争 ろんそう の流 なが れのなかで展開 てんかい していった(詳 くわ しくは各 かく 思想家 しそうか の項 こう を参照 さんしょう のこと)。この流 なが れの中 なか にも、さらにカール・レオンハルト・ラインホルト 、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー らといった多 おお くの思想家 しそうか との交流 こうりゅう と論争 ろんそう が加 くわ わり、またロマン主義 しゅぎ と呼 よ ばれた同 どう 時代 じだい の芸術 げいじゅつ ・文学 ぶんがく 現象 げんしょう との交流 こうりゅう があり、ドイツ語 ご 圏 けん を蔽 おお う巨大 きょだい な思想 しそう 運動 うんどう が展開 てんかい したのである。そのような交流 こうりゅう の場 ば となったのが、フィヒテやシェリングがヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ にイェーナ大学 だいがく の教授 きょうじゅ 陣 じん として招聘 しょうへい されたイェーナ であり、フィヒテ、ゾルガー、シュライヤーマハー、後 のち にはヘーゲルやシェリングが大学 だいがく で教鞭 きょうべん をとったベルリン であり、あるいはヤコービやシェリングが王立 おうりつ アカデミーの、のちには大学 だいがく のスタッフを勤 つと めたミュンヘン であった。
しかし、交流 こうりゅう は決 けっ して快 こころよ い結果 けっか ばかりを生 う み出 だ したわけではない。フィヒテは感激 かんげき をもってカントを訪 おとず れ、カント哲学 てつがく を発展 はってん させたと自負 じふ したが、カントとフィヒテの間柄 あいだがら は良好 りょうこう ではなく、カントはフィヒテを自分 じぶん の哲学 てつがく を誤解 ごかい している人物 じんぶつ として非難 ひなん した。シェリングとフィヒテはイェーナ大学 だいがく の同僚 どうりょう として親 した しみ、共同 きょうどう の哲学 てつがく 雑誌 ざっし の出版 しゅっぱん を構想 こうそう したが、自然 しぜん 概念 がいねん をめぐる二人 ふたり の哲学 てつがく 的 てき 立場 たちば の対立 たいりつ は、互 たが いの哲学 てつがく 上 じょう の立場 たちば を理解 りかい しないままに、苦々 にがにが しい言葉 ことば の応酬 おうしゅう となって終 お わった。シェリングとヘーゲルは神学校 しんがっこう からの長 なが い交流 こうりゅう があり、ヘーゲルは、シェリング哲学 てつがく の擁護 ようご 者 しゃ として最初 さいしょ の本 ほん 『シェリング哲学 てつがく とフィヒテ哲学 てつがく との差異 さい 』を出版 しゅっぱん し、二人 ふたり はイェーナで1802年 ねん から1803年 ねん のあいだ哲学 てつがく 雑誌 ざっし を共同 きょうどう で出版 しゅっぱん した。しかし、10年 ねん とたたないうちに、1807年 ねん ヘーゲルは『精神 せいしん 現象 げんしょう 学 がく 』序言 じょげん で「すべての牛 うし を暗 くら くする闇夜 やみよ 」という比喩 ひゆ で、痛烈 つうれつ にシェリングの絶対 ぜったい 者 しゃ 把握 はあく を批判 ひはん し、二人 ふたり の友情 ゆうじょう は断絶 だんぜつ するに到 いた る。以後 いご 二 に 人 にん の間 あいだ には、互 たが いの哲学 てつがく を真 ま っ向 こう から批判 ひはん しあう、教壇 きょうだん 上 じょう の言説 げんせつ の対立 たいりつ があるばかりであった。また、ヤコービとシェリングの間 あいだ にも神 かみ 概念 がいねん をめぐる論争 ろんそう がある。フリードリヒ・シュライアマハー とヘーゲルの宗教 しゅうきょう 哲学 てつがく は対立 たいりつ し、ベルリンでは二人 ふたり が論文 ろんぶん の審査 しんさ をめぐって決闘 けっとう したという風評 ふうひょう が流 なが れた事 こと さえあった。さらに、若 わか い私 わたし 講師 こうし アルトゥル・ショーペンハウアー は、ヘーゲルに挑 いど み同 おな じ時間 じかん に講義 こうぎ を開講 かいこう して、結果 けっか 生涯 しょうがい ヘーゲルを呪詛 じゅそ しつづける事 こと になる。テュービンゲン神学校 しんがっこう を出 で てすぐのシェリング、ヘーゲル、フリードリヒ・ヘルダーリン 三 さん 人 にん の若 わか い牧歌 ぼっか 的 てき な書簡 しょかん のやり取 と りを除 のぞ けば、ドイツ観念論 かんねんろん の壮麗 そうれい な体系 たいけい の下 した には私怨 しえん をも伴 ともな った激 はげ しく苦 にが い論争 ろんそう の地層 ちそう が厚 あつ く横 よこ たわっているのである。
哲学 てつがく 史 し におけるドイツ観念論 かんねんろん の位置 いち
編集 へんしゅう
ドイツ観念論 かんねんろん の成立 せいりつ にあたって重要 じゅうよう な思想 しそう としては、カントのほか、プラトン 、古代 こだい 教父 きょうふ 思想 しそう 、ドイツ神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 、バールーフ・デ・スピノザ 、ゴットフリート・ライプニッツ 、自然 しぜん 哲学 てつがく 、また哲学 てつがく 思想 しそう とは云 ゆ いがたいがヤーコプ・ベーメ 、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン およびヨハン・ゴットフリート・ヘルダー 、ヨハン・ゲオルク・ハーマン 、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ などの思想 しそう がある。また、同 どう 時期 じき に文学 ぶんがく 界 かい ではシュレーゲル 兄弟 きょうだい を中心 ちゅうしん としてロマン主義 しゅぎ (ドイツロマン主義 しゅぎ )が台頭 たいとう し、ドイツ観念論 かんねんろん と呼 よ ばれる哲学 てつがく 者 しゃ とたちと密 みつ に交流 こうりゅう し互 たが いに影響 えいきょう しあったことも重要 じゅうよう である。彼 かれ らが集 たか った小 しょう 都市 とし イェーナ やベルリン は当時 とうじ の精神 せいしん 文化 ぶんか の中心 ちゅうしん 地 ち となった。
ドイツ観念論 かんねんろん はヘーゲルの死後 しご 直系 ちょっけい の弟子 でし たちの世代 せだい が終 お わった1870年代 ねんだい には、マルクス主義 まるくすしゅぎ を除 のぞ けばほぼ影響 えいきょう 力 りょく を失 うしな った。しかし20世紀 せいき 初頭 しょとう に興 おこ った新 しん ヘーゲル学派 がくは 以降 いこう ドイツ観念論 かんねんろん の研究 けんきゅう は再 ふたた び見直 みなお され、現在 げんざい では近代 きんだい 哲学 てつがく の最 もっと も重要 じゅうよう な一 いち 時期 じき であるという評価 ひょうか が定着 ていちゃく している。ドイツ観念論 かんねんろん を批判 ひはん 的 てき に接受 せつじゅ して自身 じしん の哲学 てつがく を展開 てんかい している思想家 しそうか は多 おお く、なかでもしばしば注目 ちゅうもく されるものに、ハイデガー やデリダ の論考 ろんこう が挙 あ げられる。またドイツ観念論 かんねんろん は、同 どう 時代 じだい のみならず近 きん 現代 げんだい のキリスト教 きりすときょう 神学 しんがく などにも影響 えいきょう を与 あた えている。
また、一般 いっぱん 的 てき にはカントに端 はし を発 はっ し、フィヒテ、シェリングという過渡 かと 期 き を経 へ て、ヘーゲルでもってドイツ観念論 かんねんろん は完成 かんせい するという見地 けんち (これは新 しん ヘーゲル主義 しゅぎ の哲学 てつがく 研究 けんきゅう 者 しゃ による見方 みかた が示 しめ し、定着 ていちゃく したものでもある)であるが、これはフィヒテやシェリングの哲学 てつがく の欠点 けってん を補 おぎな ってヘーゲルが哲学 てつがく を展開 てんかい したということではない。上記 じょうき に見 み たように、彼 かれ らの思索 しさく は激 はげ しい論争 ろんそう の元 もと で展開 てんかい されており、互 たが いに自身 じしん の哲学 てつがく こそ、真 しん なるものと思 おも っていた。従 したが って、他者 たしゃ の批判 ひはん には相応 そうおう に応 こた えており、一筋縄 ひとすじなわ ではいかない。上記 じょうき にあげた一般 いっぱん 的 てき な見方 みかた が絶対 ぜったい 的 てき なのか、また新 あたら しい視点 してん からドイツ観念論 かんねんろん の哲学 てつがく の特徴 とくちょう を論 ろん ずることは出来 でき ないか、現在 げんざい の世界 せかい 各国 かっこく のドイツ観念論 かんねんろん に関心 かんしん のある哲学 てつがく 研究 けんきゅう 者 しゃ の課題 かだい であろう。
ドイツ観念論 かんねんろん の研究 けんきゅう はドイツを中心 ちゅうしん に国際 こくさい 的 てき な活動 かつどう として営 いとな まれており、とくにヘーゲル研究 けんきゅう に国際 こくさい 化 か の傾向 けいこう が著 いちじる しい。フィヒテやシェリングについても国際 こくさい 的 てき な規模 きぼ の学会 がっかい があり、ドイツを中心 ちゅうしん に活発 かっぱつ な研究 けんきゅう がなされている。
^ 『百科 ひゃっか 事典 じてん マイペディア』「理想 りそう 主義 しゅぎ 英語 えいご idealismなどの訳語 やくご 。 … プラトン哲学 てつがく のイデアを先駆 せんく とし,近代 きんだい ではカント以後 いご のドイツ理想 りそう 主義 しゅぎ (ドイツ観念論 かんねんろん )がその典型 てんけい である」。
^ Terry Pinkard, German Philosophy 1760-1860: The Legacy of Idealism , Cambridge University Press, 2002, p. 217.
ドイツ観念論 かんねんろん についての日本語 にほんご の文献 ぶんけん は多 おお い。ここでは、ドイツ観念論 かんねんろん 全体 ぜんたい を俯瞰 ふかん し、個別 こべつ の思想家 しそうか や著作 ちょさく への案内 あんない となるもののなかから、入手 にゅうしゅ しやすく比較的 ひかくてき 前提 ぜんてい 知識 ちしき を要 よう さないものを挙 あ げた。
など多数 たすう