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ドイツ観念論 - Wikipedia

ドイツ観念論かんねんろん(ドイツかんねんろん、どく: Deutscher Idealismus, えい: German idealism)またはドイツ理想りそう主義しゅぎは、近代きんだい観念論かんねんろん理想りそう主義しゅぎ)の典型てんけいであり、プラトン哲学てつがくイデアから由来ゆらいしている[1]18世紀せいきすえから19世紀せいきなかばに、ヒュームながれをカント純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』への反動はんどうとして、おもプロイセンなどドイツけんルター地域ちいきにおいて展開てんかいされた哲学てつがく思想しそうであり、ロマン主義しゅぎ啓蒙けいもう時代じだい政治せいじ革命かくめい密接みっせつ関連かんれんしている。

ドイツ観念論かんねんろん哲学てつがくしゃたち。左上ひだりうえから時計とけいまわりにカント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル

 しかしながら、ヘルムホルツやシュレーディンガーといった自然しぜん科学かがくしゃからは、懐疑かいぎてきもしくは批判ひはんてきなされている。(ちゅう:シュレディンガー『生命せいめいとはなにか?』においては、カントの見方みかた痛烈つうれつ批判ひはんしている。)

基本きほんてきには抽象ちゅうしょうてきすぎる術語じゅつご使用しようするために、しばしば混乱こんらんしょうじる学派がくはである。

ポストカント観念論かんねんろん(post-Kantian idealism)、ポストカント哲学てつがく(post-Kantian philosophy)またはたんポストカントポストカント主義しゅぎ、post-Kantianism)ともばれ[2]おも論者ろんしゃフィヒテシェリングヘーゲルであるが、あわせてヤコービシュルツ英語えいごばんラインホルトシュライアマハー貢献こうけん顕著けんちょである。

ヘーゲル死後しごにはろうヘーゲル(ヘーゲル右派うは)、青年せいねんヘーゲル(ヘーゲル左派さは)などの思想しそう分岐ぶんきしていった。

概要がいよう

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ドイツ古典こてん主義しゅぎ哲学てつがくドイツ理想りそう主義しゅぎ哲学てつがくともばれる(これらのような呼称こしょうにした場合ばあい該当がいとうする思想家しそうか若干じゃっかんことなることがある)。マルクス主義まるくすしゅぎ国家こっか理念りねん嚆矢こうしとした国々くにぐにでは、ドイツ固有こゆう労働ろうどうしゃ外的がいてき思索しさくだという意味いみづけでドイツ市民しみんてき観念論かんねんろんどく: der deutsch-bürgerliche Idealismus)とばれたが現在げんざいこの呼称こしょうすたれている。後述こうじゅつするが、これらの名称めいしょうは19世紀せいき後半こうはんからの哲学てつがく研究けんきゅうのなかでしょうじたのであり、ドイツ観念論かんねんろん分類ぶんるいされる思想家しそうかたちが、こうした名称めいしょうもちいたわけではない。

イマヌエル・カント批判ひはん哲学てつがくおよびそれにたいするフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ批判ひはん刺激しげきされ、かみまたは絶対ぜったいしゃばれる観念かんねんてき原理げんり、の自己じこ展開てんかいとして世界せかいおよび人間にんげんとらえることをその特徴とくちょうとする。フランス革命かくめい行動こうどうせいして、宗教しゅうきょうてき観照かんしょうという穏健おんけんさにある。プロテスタント神学しんがく近接きんせつしている。哲学てつがくしゃヨハン・ゴットリープ・フィヒテフリードリヒ・シェリングゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルのほかカール・レオンハルト・ラインホルトフリードリヒ・ヘルダーリンカール・ヴィルヘルム・フェルディナント・ゾルガー神学しんがくしゃフリードリヒ・シュライアマハーがドイツ観念論かんねんろん主要しゅよう論者ろんしゃとみなされる。

なおカント自身じしんがドイツ観念論かんねんろんぞくするかどうかは、研究けんきゅうしゃにより見解けんかいかれるが、カント哲学てつがくとドイツ観念論かんねんろんけてかんがえる学者がくしゃおおい。その根拠こんきょは、あるいはドイツ観念論かんねんろんふくまれる思想家しそうかがカントとはその時代じだい哲学てつがくてき対立たいりつ関係かんけいにあったという哲学てつがくてき事情じじょう、またカントが認識にんしき理性りせい対象たいしょうではないとしたかみもの自体じたい)が、ドイツ観念論かんねんろんでは哲学てつがくのもっとも重要じゅうよう主題しゅだいであり、対象たいしょうとされる両者りょうしゃ哲学てつがくじょう立場たちばちがいにもとめられる。一方いっぽう、カントにおいてももの自体じたい実践じっせん理性りせい要請ようせいであって哲学てつがく体系たいけいなかにおかれており哲学てつがく主要しゅよう主題しゅだいであること、さらにはドイツ観念論かんねんろん主要しゅよう論者ろんしゃはカントから出発しゅっぱつして自己じこ体系たいけい構築こうちくしたことを重視じゅうしし、ドイツ観念論かんねんろんはじめにカント(のコペルニクスてき転回てんかい以降いこう)をおく哲学てつがく史家しかもいる。これにたいしてドイツ古典こてん主義しゅぎ哲学てつがくは、カントとドイツ観念論かんねんろん連続れんぞくせい重視じゅうしし、カントをふく呼称こしょうである。

ドイツ観念論かんねんろんという呼称こしょう

編集へんしゅう

「ドイツ観念論かんねんろんばれていた時代じだい人々ひとびとは、みずからの哲学てつがくをドイツ観念論かんねんろんとはんでいなかった。「ドイツ観念論かんねんろん」という呼称こしょうは、20世紀せいき初頭しょとうしんカント学派がくは(Neukantianismus)やしんヘーゲル学派がくは哲学てつがく学者がくしゃたちリヒャルト・クローナーニコライ・ハルトマンなど)が、これら一連いちれん思想家しそうか総称そうしょうとして「ドイツ観念論かんねんろん」として紹介しょうかいしたことにより、普及ふきゅうしたものである。この名称めいしょうは、どう時代じだい哲学てつがく史家しかローゼンツヴァイクが1917ねん発見はっけんし「ドイツ観念論かんねんろん最古さいこ体系たいけいプログラム」(どく: Das älteste Systemprogramm des deutschen Idealismus)とんだ著者ちょしゃ不明ふめい哲学てつがくてき断片だんぺん(1796ねんから1797ねんあいだ筆記ひっき)にっている。この名称めいしょう自体じたい草稿そうこう本文ほんぶんにはなくローゼンツヴァイクがしたものである。

なお、この断片だんぺん著者ちょしゃについてはいくつかのせつがある。断片だんぺん自体じたいゲオルク・ヘーゲルによってうつされたものである。ローゼンツヴァイクはこれをフリードリヒ・シェリングのものであるとした。しかしのちに筆者ひっしゃとしてヘーゲル、ヘルダーリン、集団しゅうだん筆者ひっしゃせつなどが提唱ていしょうされ、どれも決定的けっていてきせつとはなっていない。草稿そうこう内容ないよううえげたさんにん思想しそうおおきくかかわっているものの、フィヒテとはかかわりがうすく、そのてんから「ドイツ観念論かんねんろん最古さいこ体系たいけいプログラム」という名称めいしょう妥当だとうせいにも疑問ぎもんがある。たとえば体系たいけい草稿そうこう倫理りんりがく美的びてきなもののむすびつきを要求ようきゅうし、民衆みんしゅうあたえられるべき哲学てつがくてきな「あたらしい神話しんわ」の創出そうしゅつ哲学てつがく目標もくひょうとするが、フィヒテにはそのような美的びてきなものへの関心かんしん要求ようきゅううすい。

このようにドイツ観念論かんねんろんしゃ総称そうしょうされている思想家しそうかなかでも、その内容ないよう思想家しそうかによって様々さまざまことなる。しかしカント哲学てつがく出発しゅっぱつてんとして「自己じこ意識いしき」や「精神せいしん」、「自我じが」などの精神せいしんてきなもの、さらにえば、まえにもれているとおり、その根底こんていとして観念かんねんてき原理げんり自己じこ展開てんかいをおき、それを絶対ぜったいしゃあるいはかみんで、後者こうしゃとのかかわりによって世界せかい人間にんげん本質ほんしつとらえる立場たちばから説明せつめいしようとする「観念論かんねんろん」の立場たちば哲学てつがくであるというてんでは一致いっちしているとえる。

カントからドイツ観念論かんねんろん

編集へんしゅう

イマヌエル・カントさん批判ひはんしょはしばしばカント哲学てつがくといわれる。これはすでにドイツ観念論かんねんろん時代じだいにもそうであった。しかしカントは自身じしんの「批判ひはん」 を「哲学てつがく」とはみなさなかった。「批判ひはん」とは哲学てつがく予備よびがくとして、人間にんげん理性りせいによって遂行すいこうされるかぎりでの哲学てつがく前提ぜんていとしての理性りせいどく: Vernunft)の性格せいかくしめすものである。カントはそれまでの哲学てつがく、すなわち形而上学けいじじょうがくを、人間にんげん理性りせい性格せいかくまえない空虚くうきょ体系たいけい、「独断どくだんろんのまどろみ」であると批判ひはんした。そして人間にんげん認識にんしきのありかたとその前提ぜんていとしての超越ちょうえつろんてき認識にんしきい、また、そのような前提ぜんていをもつ人間にんげん理性りせい対象たいしょうとなりうるものはなにであるかについての考究こうきゅうかった。この理性りせい法廷ほうていでの審査しんさ批判ひはんどく: Kritik)である。批判ひはんつうじて、伝統でんとうてき哲学てつがく対象たいしょうであった存在そんざいどく: Sein)やかみどく: Gott)は、認識にんしき理性りせいによっては認識にんしきどく: erkennen)されえず、ただ思惟しいどく: denken)することのみが可能かのうなものとされた。そしてカントにとって形而上学けいじじょうがくたる哲学てつがくどく: Philosophie)は批判ひはんうえにのみかれうるものであった。

一方いっぽうドイツ観念論かんねんろん代表だいひょうてき思索しさくたちは、ふたたかみ存在そんざい直接ちょくせつのかつ究極きゅうきょく対象たいしょうとしてげた。人間にんげんとしての哲学てつがく真正しんせい対象たいしょうかみてきなもの、あるいははしてきかみであると宣言せんげんしたかれらは、それぞれの思想しそうが、かつそれのみが真正しんせい哲学てつがくであるとの自負じふにたった。この自覚じかく共有きょうゆうするのがドイツ観念論かんねんろんだとすれば、カントはドイツ観念論かんねんろん思想家しそうかとは一線いっせんかくすといわねばならないだろう。カントの著作ちょさくを「哲学てつがく」として受容じゅようしたヤコービラインホルトフィヒテシェリングらのわか世代せだいは、カントの理論りろんひそ理性りせいじゅうせい分裂ぶんれつを、みずからの哲学てつがくによってえ、統一とういつをもたらそうとした。いいかえれば、カントがもの自体じたいどく: Ding an sich)と認識にんしきどく: Erkenntnis)あるいはかみ人間にんげん理性りせいあいだにおいた断絶だんぜつをふたたび統一とういつにもたらそうとする運動うんどうが、ドイツ観念論かんねんろんだったのである。そのような統一とういつあたえるのが、自己じこ意識いしきすなわち自我じがどく: das Ich)であり、さらにそのような意識いしき可能かのうにする根拠こんきょでありかつ意識いしき究極きゅうきょく対象たいしょうである絶対ぜったいしゃないしかみである。ところでこの思想しそうは、しばしば先鋭せんえいして伝統でんとう宗教しゅうきょうのもつかみ概念がいねん対立たいりつし、またカントが否定ひていしたかみ認識にんしき可能かのうせいふたた主張しゅちょうすることになる。一方いっぽうカントは、学者がくしゃ言説げんせつには自由じゆう言論げんろんみとめられるべきだが、社会しゃかい安定あんていのためにはそのような言説げんせつひかえることはやむをえない場合ばあいがあるともかんがえていた。皮肉ひにくことに、カント自身じしんによって刺激しげきされたドイツ観念論かんねんろん急進きゅうしんせいは、カントの穏健おんけんさとは相容あいいれないものだった。ドイツ観念論かんねんろん初期しょき展開てんかいはカントのさい晩年ばんねんたるが、カントはにフィヒテらを批判ひはんした。またドイツ観念論かんねんろん思想家しそうかたちも、カントの世界せかいろん不徹底ふてっていなものと言明げんめいし、カントをえることを標榜ひょうぼうした。しかしカントが1804ねんくなったとき、カントの思想しそう限界げんかい指摘してきしてやまなかったドイツ観念論かんねんろん思想家しそうかたちは、一様いちようにドイツの思想しそう革新かくしんしたこのきょじんいたんだのである。

展開てんかい相互そうご交流こうりゅう

編集へんしゅう

ドイツ観念論かんねんろんはその成立せいりつ過程かていから、一人ひとり思想家しそうかによる単独たんどくでの思索しさく成果せいかではなく、むしろ当時とうじ哲学てつがくしゃらによる様々さまざま意見いけん交換こうかん批判ひはんなどの交流こうりゅうによって展開てんかいした。その出発しゅっぱつてんにはカント哲学てつがくによってひらかれた超越ちょうえつろんてき自我じがとそのはたらきによる世界せかい把握はあくがある。ここから、カントの哲学てつがくきびしく分断ぶんだんした認識にんしきもの自体じたい統一とういつを「信仰しんこう」という概念がいねんにもとめたフリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ実践じっせん理性りせい理論りろん理性りせいとの統一とういつを「自我じが概念がいねんもとめたヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、フィヒテの絶対ぜったいてき自我じが立場たちば盲点もうてんともいえる「自然しぜん」という問題もんだいをも体系たいけいれ、自然しぜん自我じが(精神せいしん)の超越ちょうえつろんてき前史ぜんしとしたフリードリヒ・シェリング、こうしたシェリングの精神せいしん自然しぜんをも同一どういつにしうる絶対ぜったいしゃからでは差別さべつされた有限ゆうげんてき存在そんざいみちびせないとしたゲオルク・ヘーゲル哲学てつがくが、相互そうご協同きょうどう論争ろんそうながれのなかで展開てんかいしていった(くわしくはかく思想家しそうかこう参照さんしょうのこと)。このながれのなかにも、さらにカール・レオンハルト・ラインホルトヨハン・ゴットフリート・ヘルダーらといったおおくの思想家しそうかとの交流こうりゅう論争ろんそうくわわり、またロマン主義しゅぎばれたどう時代じだい芸術げいじゅつ文学ぶんがく現象げんしょうとの交流こうりゅうがあり、ドイツけんおお巨大きょだい思想しそう運動うんどう展開てんかいしたのである。そのような交流こうりゅうとなったのが、フィヒテやシェリングがヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテイェーナ大学だいがく教授きょうじゅじんとして招聘しょうへいされたイェーナであり、フィヒテ、ゾルガー、シュライヤーマハー、のちにはヘーゲルやシェリングが大学だいがく教鞭きょうべんをとったベルリンであり、あるいはヤコービやシェリングが王立おうりつアカデミーの、のちには大学だいがくのスタッフをつとめたミュンヘンであった。

しかし、交流こうりゅうけっしてこころよ結果けっかばかりをしたわけではない。フィヒテは感激かんげきをもってカントをおとずれ、カント哲学てつがく発展はってんさせたと自負じふしたが、カントとフィヒテの間柄あいだがら良好りょうこうではなく、カントはフィヒテを自分じぶん哲学てつがく誤解ごかいしている人物じんぶつとして非難ひなんした。シェリングとフィヒテはイェーナ大学だいがく同僚どうりょうとしてしたしみ、共同きょうどう哲学てつがく雑誌ざっし出版しゅっぱん構想こうそうしたが、自然しぜん概念がいねんをめぐる二人ふたり哲学てつがくてき立場たちば対立たいりつは、たがいの哲学てつがくじょう立場たちば理解りかいしないままに、苦々にがにがしい言葉ことば応酬おうしゅうとなってわった。シェリングとヘーゲルは神学校しんがっこうからのなが交流こうりゅうがあり、ヘーゲルは、シェリング哲学てつがく擁護ようごしゃとして最初さいしょほん『シェリング哲学てつがくとフィヒテ哲学てつがくとの差異さい』を出版しゅっぱんし、二人ふたりはイェーナで1802ねんから1803ねんのあいだ哲学てつがく雑誌ざっし共同きょうどう出版しゅっぱんした。しかし、10ねんとたたないうちに、1807ねんヘーゲルは『精神せいしん現象げんしょうがく序言じょげんで「すべてのうしくらくする闇夜やみよ」という比喩ひゆで、痛烈つうれつにシェリングの絶対ぜったいしゃ把握はあく批判ひはんし、二人ふたり友情ゆうじょう断絶だんぜつするにいたる。以後いごにんあいだには、たがいの哲学てつがくこうから批判ひはんしあう、教壇きょうだんじょう言説げんせつ対立たいりつがあるばかりであった。また、ヤコービとシェリングのあいだにもかみ概念がいねんをめぐる論争ろんそうがある。フリードリヒ・シュライアマハーとヘーゲルの宗教しゅうきょう哲学てつがく対立たいりつし、ベルリンでは二人ふたり論文ろんぶん審査しんさをめぐって決闘けっとうしたという風評ふうひょうながれたことさえあった。さらに、わかわたし講師こうしアルトゥル・ショーペンハウアーは、ヘーゲルにいどおな時間じかん講義こうぎ開講かいこうして、結果けっか生涯しょうがいヘーゲルを呪詛じゅそしつづけることになる。テュービンゲン神学校しんがっこうてすぐのシェリング、ヘーゲル、フリードリヒ・ヘルダーリンさんにんわか牧歌ぼっかてき書簡しょかんのやりりをのぞけば、ドイツ観念論かんねんろん壮麗そうれい体系たいけいしたには私怨しえんをもともなったはげしくにが論争ろんそう地層ちそうあつよこたわっているのである。

哲学てつがくにおけるドイツ観念論かんねんろん位置いち

編集へんしゅう

ドイツ観念論かんねんろん成立せいりつにあたって重要じゅうよう思想しそうとしては、カントのほか、プラトン古代こだい教父きょうふ思想しそうドイツ神秘しんぴ主義しゅぎバールーフ・デ・スピノザゴットフリート・ライプニッツ自然しぜん哲学てつがく、また哲学てつがく思想しそうとはいがたいがヤーコプ・ベーメヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンおよびヨハン・ゴットフリート・ヘルダーヨハン・ゲオルク・ハーマンヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテなどの思想しそうがある。また、どう時期じき文学ぶんがくかいではシュレーゲル兄弟きょうだい中心ちゅうしんとしてロマン主義しゅぎ(ドイツロマン主義しゅぎ)が台頭たいとうし、ドイツ観念論かんねんろんばれる哲学てつがくしゃとたちとみつ交流こうりゅうたがいに影響えいきょうしあったことも重要じゅうようである。かれらがたかったしょう都市としイェーナベルリン当時とうじ精神せいしん文化ぶんか中心ちゅうしんとなった。

ドイツ観念論かんねんろんはヘーゲルの死後しご直系ちょっけい弟子でしたちの世代せだいわった1870年代ねんだいには、マルクス主義まるくすしゅぎのぞけばほぼ影響えいきょうりょくうしなった。しかし20世紀せいき初頭しょとうおこったしんヘーゲル学派がくは以降いこうドイツ観念論かんねんろん研究けんきゅうふたた見直みなおされ、現在げんざいでは近代きんだい哲学てつがくもっと重要じゅうよういち時期じきであるという評価ひょうか定着ていちゃくしている。ドイツ観念論かんねんろん批判ひはんてき接受せつじゅして自身じしん哲学てつがく展開てんかいしている思想家しそうかおおく、なかでもしばしば注目ちゅうもくされるものに、ハイデガーデリダ論考ろんこうげられる。またドイツ観念論かんねんろんは、どう時代じだいのみならずきん現代げんだいキリスト教きりすときょう神学しんがくなどにも影響えいきょうあたえている。

また、一般いっぱんてきにはカントにはしはっし、フィヒテ、シェリングという過渡かとて、ヘーゲルでもってドイツ観念論かんねんろん完成かんせいするという見地けんち(これはしんヘーゲル主義しゅぎ哲学てつがく研究けんきゅうしゃによる見方みかたしめし、定着ていちゃくしたものでもある)であるが、これはフィヒテやシェリングの哲学てつがく欠点けってんおぎなってヘーゲルが哲学てつがく展開てんかいしたということではない。上記じょうきたように、かれらの思索しさくはげしい論争ろんそうもと展開てんかいされており、たがいに自身じしん哲学てつがくこそ、しんなるものとおもっていた。したがって、他者たしゃ批判ひはんには相応そうおうこたえており、一筋縄ひとすじなわではいかない。上記じょうきにあげた一般いっぱんてき見方みかた絶対ぜったいてきなのか、またあたらしい視点してんからドイツ観念論かんねんろん哲学てつがく特徴とくちょうろんずることは出来できないか、現在げんざい世界せかい各国かっこくのドイツ観念論かんねんろん関心かんしんのある哲学てつがく研究けんきゅうしゃ課題かだいであろう。

ドイツ観念論かんねんろん研究けんきゅうはドイツを中心ちゅうしん国際こくさいてき活動かつどうとしていとなまれており、とくにヘーゲル研究けんきゅう国際こくさい傾向けいこういちじるしい。フィヒテやシェリングについても国際こくさいてき規模きぼ学会がっかいがあり、ドイツを中心ちゅうしん活発かっぱつ研究けんきゅうがなされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 百科ひゃっか事典じてんマイペディア』「理想りそう主義しゅぎ 英語えいごidealismなどの訳語やくご。 … プラトン哲学てつがくのイデアを先駆せんくとし,近代きんだいではカント以後いごのドイツ理想りそう主義しゅぎ(ドイツ観念論かんねんろん)がその典型てんけいである」。
  2. ^ Terry Pinkard, German Philosophy 1760-1860: The Legacy of Idealism, Cambridge University Press, 2002, p. 217.

関連かんれん文献ぶんけん

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ドイツ観念論かんねんろんについての日本語にほんご文献ぶんけんおおい。ここでは、ドイツ観念論かんねんろん全体ぜんたい俯瞰ふかんし、個別こべつ思想家しそうか著作ちょさくへの案内あんないとなるもののなかから、入手にゅうしゅしやすく比較的ひかくてき前提ぜんてい知識ちしきようさないものをげた。

など多数たすう

外部がいぶリンク

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