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ジャズ - Wikipedia

ジャズえい: jazz)は、19世紀せいきすえから20世紀せいき初頭しょとうにかけてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくルイジアナしゅうニューオーリンズ黒人こくじんコミュニティでまれた音楽おんがくジャンルで、ブルースラグタイムをルーツとしている[3][4][5]。1920年代ねんだいジャズ・エイジ以降いこう伝統でんとう音楽おんがくポピュラー音楽おんがくにおける主要しゅよう表現ひょうげんとして認識にんしきされるようになった。

ジャズ
様式ようしきてき起源きげん ブルース[1]ラグタイム[2]
文化ぶんかてき起源きげん 19世紀せいき、アメリカ南部なんぶ諸説しょせつあり)
使用しよう楽器がっき ピアノトランペットトロンボーンサクソフォンクラリネットフルート鍵盤けんばん楽器がっきコントラバスドラムギターこえ
派生はせいジャンル
サブジャンル
  • アヴァンギャルド・ジャズ
  • ビッグバンド
  • ビバップ
  • チェンバー・ジャズ
  • クール・ジャズ
  • フリー・ジャズ
  • ジプシー・ジャズ
  • ハード・バップ
  • ラテン・ジャズ
  • コンテンポラリー・ジャズ
  • モード・ジャズ
  • ネオバップ英語えいごばん
  • ポスト・バップ
  • プログレッシブ・ジャズ英語えいごばん
  • ソウル・ジャズ
  • スウィング・ジャズ
  • トラッド・ジャズ
  • 融合ゆうごうジャンル
  • アシッドジャズ
  • アフロビート
  • ボサノヴァ
  • クロスオーバー・ジャズ英語えいごばん
  • ダンスバンド英語えいごばん
  • フリー・ファンク
  • インド・ジャズ英語えいごばん
  • ジャム・バンド
  • パンク・ジャズ
  • ジャズ・ロック
  • ジャズ・ラップ
  • マンボ英語えいごばん
  • ニュージャズ
  • スカ・ジャズ
  • スムーズジャズ
  • スウィング・リバイバル
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    概要がいよう

    編集へんしゅう

    ジャズの特徴とくちょうは、スウィングするリズムや、うら音符おんぷおおいシンコペーションのあるリズム、初期しょきにブルースの影響えいきょうけた(ブルーノートもあったが、これは基本きほんてきにはブルースである)複雑ふくざつコード複雑ふくざつなスケール、コールアンドレスポンス・ボーカル、ポリリズム即興そっきょう演奏えんそうなどである。ジャズのルーツは、西にしアフリカの文化ぶんか音楽おんがくてき表現ひょうげん、そして黒人こくじん伝統でんとうにある[6][7]

    ジャズが世界中せかいじゅうひろまるにつれ、くに地域ちいき地元じもと音楽おんがく文化ぶんかれられ、さまざまなスタイルがまれた。ニューオリンズのジャズは1910年代ねんだい初頭しょとうはじまり、それまでのブラスバンドのマーチ、フランスのカドリーユ、ラグタイム、ブルースに、ポリフォニック即興そっきょう演奏えんそうわせたものであった。ただ、ジャズの淵源えんげんは、ニューオリンズといったいち地域ちいきのみにもとめられるものではない[8]。アメリカ各地かくちでは、様々さまざま形式けいしきのポピュラー音楽おんがくあらわれており、そしてそれらは、共通きょうつう起源きげん[9]音楽おんがくてき方向ほうこうせいちながらも、個々ここ状況じょうきょうおうじて発展はってんしていった[8]。1930年代ねんだいには、アレンジされたダンス志向しこうスウィングビッグバンド、カンザス・シティ・ジャズ、ジプシー・ジャズ(ミュゼットワルツを強調きょうちょうしたスタイル)などのスタイルがられるようになった。初期しょきのジャズの代表だいひょうてきなミュージシャンには、ルイ・アームストロング[10]デューク・エリントンらがいた[11]白人はくじんのポール・ホワイトマンを”キング・オブ・ジャズ”とんだ評論ひょうろんたちは、のちにそのあやまりを自嘲じちょうてきかたることになった[12]。1940年代ねんだい登場とうじょうしたチャーリー・パーカーらによるビバップは、ジャズをスウィングのようなダンサブルな娯楽ごらく音楽おんがくから、はやいテンポで演奏えんそうされ、複雑ふくざつ即興そっきょう演奏えんそう多用たようする、ミュージシャン主導しゅどう音楽おんがくへと変化へんかさせた。1940年代ねんだいまつには、白人はくじんりのクール・ジャズ登場とうじょうした。

    1950年代ねんだいなかばには黒人こくじん主体しゅたいハード・バップ登場とうじょうし、どうジャンルはサックスやピアノの演奏えんそうリズム&ブルースゴスペル、ブルースなどの影響えいきょうれた。1950年代ねんだい後半こうはんには、モード音楽おんがく構造こうぞう基礎きそとするモードジャズ(モーダル・ジャズ)が発展はってんし、即興そっきょう・アドリヴが重視じゅうしされた。フリー・ジャズは、西洋せいよう音楽おんがく規則きそくてき音階おんかい拍子ひょうし形式けいしきてき音楽おんがく構造こうぞうにとらわれない自由じゆう演奏えんそう追求ついきゅうしたが、それはそれまで長年ながねん構築こうちくされてきた西洋せいよう音楽おんがく秩序ちつじょ崩壊ほうかいさせるものであった。1960年代ねんだいまつから1970年代ねんだい前半ぜんはんにかけては、ジャズとロックのリズム、電気でんき楽器がっきわせたクロスオーバーが登場とうじょうし、70年代ねんだい後半こうはんにはジャズ・ロック・フュージョンへと変化へんかした。1980年代ねんだいには、スムーズジャズばれるジャズ・フュージョンの後継こうけいである商業しょうぎょうてきなジャズが成功せいこうおさめ、ラジオで放送ほうそうされた。1990年代ねんだいはいると、ジャズ・ラップやニュー・ジャズなど、さまざまなスタイルやジャンルが登場とうじょうした。

    詳細しょうさい

    編集へんしゅう
     
    ジャズクラブ、ブルーノート東京とうきょう

    卑猥ひわい意味いみをもつという"jass(ジャス)"によるとするせつや、19世紀せいきからアメリカ南部なんぶ黒人こくじん使つかっていた性行為せいこういなどの性的せいてき意味いみ熱狂ねっきょう急速きゅうそくなテンポ・リズムを意味いみするスラングのjazz(ジャズ)によるとするせつなどがある。jassという言葉ことば意味いみ様々さまざま変化へんかし、上記じょうきのような特徴とくちょうをもつ黒人こくじん音楽おんがくを、ジャズとしょうするようになった時期じきあきらかではない。作曲さっきょくジェリー・ロール・モートンは、ラグタイム時代じだいからスウィングジャズ時代じだいまで活動かつどうした[13]

    1916ねんシカゴ活動かつどうしていたジョニー・ステイン英語えいごばんをリーダーとする白人はくじんバンドが、jassということばにヒントをてバンドめいを"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)"とし、これからジャズとしょうされるようになった、という記録きろくがある。 同年どうねん10がつにはアメリカの芸能げいのうバラエティー』が「ジャズバンド結成けっせい」とほうじたことを契機けいき一般いっぱんした[14]。 このグループはさらに"Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)"と改名かいめい、1917ねん1がつ史上しじょう最初さいしょのジャズ・レコードを録音ろくおんしたが、そのレコードのラベルには"jass band"と印刷いんさつされていた[15]

    ビバップ[16]やフリー・ジャズのような革新かくしんせい、スウィング・ジャズやヴォーカル・ジャズのような保守ほしゅせい大衆たいしゅうせい商業しょうぎょう主義しゅぎ混在こんざいしながらジャズ音楽おんがく存続そんぞくしてきた。革新かくしんせいおも黒人こくじんミュージシャンによってすすめられた芸術げいじゅつ音楽おんがくとしてのいちめん保守ほしゅせい白人はくじん富裕ふゆうそう中流ちゅうりゅう階級かいきゅうけの音楽おんがくとしてのいちめん、また大衆たいしゅうせい商業しょうぎょう主義しゅぎ大衆たいしゅう音楽おんがくポピュラー音楽おんがくとして発展はってんしたいちめんあらわしていた。なお、ジャズは60年代ねんだい公民こうみんけん運動うんどうヒッピー文化ぶんかなどのカウンターカルチャーとは、方向ほうこうせいことなっていたが、ときにまじわることもあった。

    革新かくしんせい

    編集へんしゅう
     
    ジャクソン・ポロックアクション・ペインティングした絵画かいが。ジャクソン・ポロックの絵画かいがは、オーネット・コールマンのアルバム『Free Jazz』のジャケットデザインに使用しようされた

    ジャズは、欧州おうしゅうをルーツとするクラシック音楽おんがくへの対抗たいこう人種じんしゅ差別さべつへの抵抗ていこう、そして自由じゆう音楽おんがくせい探求たんきゅうする音楽おんがくだった。それが60年代ねんだい初頭しょとうまでは時代じだい先端せんたんとして存在そんざいし、あらたな演奏えんそうスタイル誕生たんじょうし、ジャズをより幅広はばひろ音楽おんがくジャンルへと変化へんかさせた。1940年代ねんだい後半こうはんにおけるビバップ誕生たんじょう即興そっきょう演奏えんそう飛躍ひやくてき発展はってんとして、また1950年代ねんだいにおけるビートニク[17][18]共感きょうかんする若者わかものからの支持しじ獲得かくとくした(ビートニクジャズ喫茶きっさ参照さんしょう)。革新かくしんてきビバップ、西洋せいよう音楽おんがくからの分離ぶんり志向しこうしたフリー・ジャズロックとの融合ゆうごう目指めざしたジャズ・ロックなど、あらたな音楽おんがくジャンルが模索もさくされていった。「多様たようせい」は、ジャズの特徴とくちょうでもあり、演奏えんそうスタイルは多様たようである。白人はくじん黒人こくじん混合こんごう文化ぶんかはジャズの初期しょきからの傾向けいこうでもあるが、1970年代ねんだいなかばのフュージョン以降いこう停滞ていたいし、保守ほしゅてきなものになった。なお黒人こくじん主導しゅどう反抗はんこうてき自由じゆう音楽おんがくせいは、ヒップホップ・ミュージックがれたという意見いけんがある[19]

    また一部いちぶビバップやフリー・ジャズなどのより革新かくしんてき演奏えんそうスタイルは、即興そっきょうてき混沌こんとんとしており、大衆たいしゅうせい商業しょうぎょうせいにはむすびつかず、現在げんざいでもジャズのなかでは前衛ぜんえいてきジャンルと認識にんしきされている[20]一方いっぽうで、ビバップ、フリージャズなどの革新かくしんもとめる姿勢しせいは、ジャズを芸術げいじゅつせいふく音楽おんがくジャンル[21]であると認識にんしきさせ、ジャズをながきらいであった人間にんげんにも魅力みりょくてきかんじさせる場合ばあいがある[22]

    保守ほしゅせい

    編集へんしゅう
     
    禁酒きんしゅほう時代じだい代表だいひょうする高級こうきゅうナイトクラブ、「コットン・クラブ」。デューク・エリントン楽団がくだんのジャズライブは、白人はくじん富裕ふゆうそうから人気にんきはくした。

    1910年代ねんだいにクラシック音楽おんがくならった編成へんせいであるビッグバンドスウィング・ジャズ)が誕生たんじょうすると、それをハーレム・ルネサンス後押あとおしもあってジャズクラブジャズバーニューヨーク各所かくしょ開店かいてんされていった。しかしコットン・クラブをはじめとしたナイトクラブでは、演奏えんそうしゃ黒人こくじんでありながらも、顧客こきゃく白人はくじん富裕ふゆうそう中流ちゅうりゅうそうおおかった。それはジャズを、サロン音楽おんがくてきジャンルとしても定着ていちゃくさせた。ジャズの世界せかいでは、ジョージ・ガーシュウィンベニー・グッドマングレン・ミラースタン・ケントンギル・エヴァンスらの白人はくじん音楽家おんがくかによる白人はくじんジャズも、つね存在そんざいした。


    大衆たいしゅうせい商業しょうぎょう主義しゅぎ

    編集へんしゅう
     
    保守ほしゅ主義しゅぎ商業しょうぎょう主義しゅぎ象徴しょうちょうであったエンターテイナー、フランク・シナトラ。

    ジャズは、白人はくじんメインカルチャーとはことなる、都市とし黒人こくじんによる洗練せんれんされた音楽おんがくとして登場とうじょうしたが、ラグタイムからの音楽おんがくせいいだ当初とうしょから、大衆たいしゅう音楽おんがくとしての側面そくめんがあった。大衆たいしゅう文化ぶんかい、また商業しょうぎょうせい意識いしきした音楽おんがくせいは、1940年代ねんだい芸術げいじゅつ音楽おんがくであるビバップの誕生たんじょうまでは、ジャズの主要しゅよう特徴とくちょうとして認識にんしきされた。ビッグバンドやスウィング・ジャズは、クラブやバーで演奏えんそうされるだけでなく、ダンスホール演奏えんそうされる、大衆たいしゅうのためのダンス・ミュージックとしての役割やくわりにない、狂騒きょうそうの20年代ねんだい文化ぶんかてき側面そくめんからささえた(ジャズ・エイジ)。あるいはヴォーカル・ジャズ同様どうよう大衆たいしゅうからの人気にんきはくし、ポピュラー音楽おんがく一翼いちよくになっていた。代表だいひょうてきジャズ・ヴォーカリストとしては、アフロアメリカンのビリー・ホリデイサラ・ヴォーンエラ・フィッツジェラルドナット・キング・コール白人はくじんビング・クロスビーフランク・シナトラペギー・リートニー・ベネットペリー・コモローズマリー・クルーニーパティ・ペイジなどがいた。かれらのなかには稀代きたいエンターテイナーとして歴史れきしのこしたものもいる。またルイ・アームストロングチェット・ベイカーのように、演奏えんそう・ヴォーカルともに活躍かつやくしたものもいた。


    1920年代ねんだい - 1940年代ねんだい

    編集へんしゅう
     
    デューク・エリントン(1943ねん
     
    バディ・ボールデン(後列こうれつひだりから2人ふたり、1905ねんごろ
     
    アート・ブレイキー(1985ねん

    ジャズは西洋せいよう音楽おんがくアフリカ音楽おんがくわせにより発展はってんした音楽おんがくである。スピリチュアルブルース[注釈ちゅうしゃく 1]要素ようそふくみ、ルーツは西にしアフリカ西にしサヘルサハラ砂漠さはらさばくみなみえん東西とうざいびる帯状おびじょう地域ちいき)、ニューイングランド宗教しゅうきょうてき賛美さんびやヨーロッパの軍隊ぐんたい音楽おんがくにある。アフリカ音楽おんがく起源きげんとするものについては、アフリカからアメリカ南部なんぶれてこられたアフリカからの移民いみんおおくは奴隷どれいとしてあつかわれた)とその子孫しそん人種じんしゅ音楽おんがくとしてもたらされたとされており、都市とし移住いじゅうした黒人こくじんミュージシャンによってジャズとしての進化しんかげたといわれている。なお、ジャズよりふる時代じだい誕生たんじょうしたラグタイムはスウィングしておらずジャズとは関係かんけいないが初期しょきのジャズ・ピアノ奏法そうほう影響えいきょうあたえた[注釈ちゅうしゃく 2]

    ニューオーリンズ発祥はっしょう[23]とされており、現在げんざいでもその語源ごげんははっきりしない。20世紀せいき初頭しょとうには、コルネット奏者そうしゃの「アフロアメリカン」であるバディ・ボールデン[24]がニューオーリンズで人気にんきはくしたが、ボールデンは1907ねん活動かつどう停止ていしし、本人ほんにんによる録音ろくおんのこされていない[25]

    1917ねん、ニューオーリンズ出身しゅっしん白人はくじんバンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでははつのレコードとなる「Dixie Jass Band One Step」と「Livery Stable Blues」の2きょくりシングルをビクタートーキングマシンから発表はっぴょう

    初期しょきのジャズは、マーチングバンドと20世紀せいき初頭しょとう流行りゅうこうしたダンス音楽おんがく影響えいきょうけており、ブラス(金管楽器きんかんがっき)・リード(木管もっかん楽器がっき)・ドラムスによるわせの形態けいたいはこれらの影響えいきょうもとづく可能かのうせいもある。初期しょき黒人こくじん楽器がっきかねがなく、白人はくじんてた楽器がっきひろって演奏えんそうすることもあった。ジャズが普及ふきゅうしていった理由りゆうは、ラジオが1920年代ねんだいまつには、かなりおおくの家庭かてい普及ふきゅうし、楽譜がくふっていた音楽おんがく業界ぎょうかいも、蓄音機ちくおんき発明はつめいにより、レコード産業さんぎょうへと発展はってんしていったことがおおきかった。ラグタイムは、のダンスきなスウィング・ジャズへと交代こうたいしていく。アメリカの禁酒きんしゅほう時代じだい(1920-1933ねん)に地下ちかした酒場さかばつどうミュージシャンによって、あるいはレコードラジオ普及ふきゅうによって、ダンス・ミュージックなどのポピュラー音楽おんがくのスタイルがまだまだ渾然一体こんぜんいったいとなっていた1920年代ねんだい初頭しょとうにはアメリカを代表だいひょうする音楽おんがくスタイルのひとつとして、アメリカ国内こくない大都市だいとし急速きゅうそくひろまった[23]だいいち世界せかい大戦たいせんからだい恐慌きょうこうまでのアメリカの隆盛りゅうせいが「ジャズ・エイジ」とばれるのはこのためである。1920年代ねんだいにはイギリスでもジャズが流行はやり、エドワード8せい少年しょうねん時代じだいにレコードを収集しゅうしゅうするなど、幅広はばひろそうれられた[23]

    1930年代ねんだいには、ソロ演奏えんそうがそれまで以上いじょう重要じゅうようされるようになり、ソロをきわだたせる手法しゅほうひとつとしてしょう編成へんせいバンドが規模きぼ拡大かくだいしてビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立かくりつされるようになり、人気にんきはくす。人気にんき中心ちゅうしんとなったのは、デューク・エリントンベニー・グッドマングレン・ミラーカウント・ベイシー[26]トミー・ドーシースタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種じんしゅてき障壁しょうへきへだてられていた黒人こくじんミュージシャンと白人はくじんミュージシャンの媒介ばいかいとしての役割やくわりたしたクレオール媒介ばいかいやくになった[23]。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場たちばがより重要じゅうようされるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとボーカルとの融合ゆうごうにおいて重要じゅうよう役割やくわりたした。

    その一方いっぽうで、ソロをきわだたせるべつ手法しゅほうとして、アレンジを追求ついきゅうしたスウィング・ジャズとはことなる方向ほうこうせいもとめたり、スウィング・ジャズに反発はんぱつするミュージシャンにより、即興そっきょう演奏えんそう主体しゅたいとしたビバップ[27]ひとしあらたなスタイルが模索もさくされるようになる。1940年代ねんだい初頭しょとうには、ビバップに傾倒けいとうするミュージシャンもえていくが、1942ねん8がつから1943ねんあきにかけて、アメリカでだい規模きぼなレコーディング・ストライキがあったため、初期しょきビバップの録音ろくおんはわずかしかのこされていない[25]戦前せんぜん設立せつりつされたアルフレッド・ライオン[注釈ちゅうしゃく 3]ブルーノート・レコード弱小じゃくしょうレーベルながら、ジャズの発展はってんおおきく貢献こうけんした。

    1950年代ねんだい - 1960年代ねんだい

    編集へんしゅう

    1950年代ねんだいにはチャーリー・パーカー[28]ディジー・ガレスピーセロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生たんじょうし、おおくの録音ろくおんのこした。ビバップのコンボは、サックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成こうせいされるちいさなコンボだった。ビバップ・ミュージシャンは、編曲へんきょくされた音楽おんがく演奏えんそうするのではなく、通常つうじょう、リズムセクションの伴奏ばんそう作曲さっきょくのメロディー(ヘッドとばれる)を演奏えんそうし、そのかく演奏えんそうしゃがソロを即興そっきょう演奏えんそうし、最後さいごにメロディーにもどる。

    もっと影響えいきょうりょくのある、ビバップ・アーティストの作曲さっきょく演奏えんそうつぎのとおり。アルトサックス奏者そうしゃのチャーリー・パーカー。テナーサックス奏者そうしゃデクスター・ゴードンソニー・ロリンズ。クラリネット奏者そうしゃバディ・デフランコ、トランペット奏者そうしゃファッツ・ナヴァロクリフォード・ブラウンマイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー。ピアニストのバド・パウエル、セロニアス・モンク。ギタリスト、 チャーリー・クリスチャンジョー・パス、ベーシストのカーリー・ラッセル、ドラマーのバディ・リッチケニー・クラークマックス・ローチアート・ブレイキー。ジャズの全盛期ぜんせいきであった1950年代ねんだいには、クール・ジャズウエストコースト・ジャズハード・バップひとしあらたなスタイルが登場とうじょうし、モダン・ジャズながれをつくすことになる。ナット・キング・コールメル・トーメペギー・リー[29]らの歌手かしゅも、この時期じき活躍かつやくした。

    1957ねんフランス映画えいがだい運河うんが』(監督かんとく:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイス音楽おんがく担当たんとうし、サウンドトラックはジョンが在籍ざいせきするモダン・ジャズ・カルテット名義めいぎの『たそがれのヴェニス』として発表はっぴょう。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記でんき映画えいがのぞけばはつのことであった。以後いご、フランスで「シネ・ジャズ」とばれるうごきがこり、マイルス・デイヴィス[注釈ちゅうしゃく 4]が『死刑しけいだいのエレベーター[注釈ちゅうしゃく 5]監督かんとく:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険きけん関係かんけい』(監督かんとく:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『ころせられる』の映画えいが音楽おんがく担当たんとうした。1958ねんには、アメリカ映画えいがわたしにたくない』(監督かんとく:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンアート・ファーマーひとし参加さんかし、以後いごアメリカでも、ジャズが本格ほんかくてき映画えいが音楽おんがくとして使用しようされるようになった[30]

    1950年代ねんだい末期まっきには、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品さくひんで、モード・ジャズという手法しゅほうこころみられ、それまではある程度ていど調しらべせいしたがって演奏えんそうするスケールを緻密ちみつ変化へんかさせる必要ひつようがあったところに、ドリアンなどの馴染なじみのないモードに長居ながいすることで、演奏えんそうらくになるわりにファンシーなサウンドをることが可能かのうになった。一方いっぽうオーネット・コールマンアルバート・アイラーサン・ラらは、より前衛ぜんえいてき自由じゆうたかいジャズを演奏えんそうし、1960年代ねんだいになると、オーネットのアルバムめいから「フリー・ジャズ[31]という言葉ことばひろまっていった[32]。また、ジャズ・ボーカルではビリー・ホリデイサラ・ヴォーンカーメン・マクレエエラ・フィッツジェラルドニーナ・シモンアニタ・オデイらも活躍かつやくした[33]白人はくじん歌手かしゅヘレン・メリルクリス・コナーらも人気にんきあつめた。

    1960ねんには、ジョン・コルトレーンによるアルバム『ジャイアント・ステップス』が発売はつばいされた。コルトレーンはよく1961ねんにも『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を発表はっぴょうした[34]。また1960年代ねんだい前半ぜんはんには、ブラジル音楽おんがくボサノヴァ注目ちゅうもくするジャズ・ミュージシャンもおおくなった。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962ねん)を『ビルボードのポップ・チャート1おく[35]翌年よくねんにはボサノヴァの重要じゅうよう人物じんぶつジョアン・ジルベルトアントニオ・カルロス・ジョビンひとし)との共演きょうえんばんゲッツ/ジルベルト』を制作せいさくグラミーしょうアルバム・オブ・ザ・イヤー受賞じゅしょう。1965ねんには、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズのきょくとしてだいヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知にんちされるまでになる。カーティス・フラーキャノンボール・アダレイホレス・シルヴァーナット・アダレイラムゼイ・ルイスらを中心ちゅうしんとしたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、1950年代ねんだい後半こうはんから1960年代ねんだい人気にんきとなった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」はだいヒットしすぎたために、ブルーノート・レコードが一度いちど倒産とうさん状態じょうたいになるというちん現象げんしょうられた。

    1960年代ねんだいまでのジャズは、一部いちぶ楽器がっきエレクトリックギターハモンドオルガンひとし)をのぞけば、アコースティック楽器がっき主体しゅたいだった。しかし、1960年代ねんだい末期まっき、マイルス・デイヴィスはよりおおくのエレクトリック楽器がっき導入どうにゅうし、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。どうさく参加さんかしたおおくのミュージシャンも、独立どくりつしてエレクトリック楽器がっき導入どうにゅうしたバンドを次々つぎつぎ結成けっせいした。

    1970年代ねんだい - 1980年代ねんだい

    編集へんしゅう

    1970年代ねんだいはいるとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーばれるスタイルに変容へんようしていく。この時期じきだいヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかくかたりき」である。さらには1970年代ねんだいなかばには、フュージョン[36]ばれるスタイルに発展はってんしていく。フュージョンのリー・リトナーラリー・カールトンアル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフザ・クルセイダーズスパイロ・ジャイラジョージ・ベンソンチャック・マンジョーネグローヴァー・ワシントン・ジュニアらも活躍かつやくした。だが、フュージョンはそのポップせい商業しょうぎょうせい娯楽ごらくせいからフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論ひょうろん、ジャズ・ファンの一部いちぶからつよ拒否きょひ反応はんのうけた。これは商業しょうぎょう芸術げいじゅつかといった、普遍ふへんてき問題もんだいあらわれでもあった。

    1990年代ねんだい - 現在げんざい

    編集へんしゅう

    1990年代ねんだいのジャズは特定とくていのスタイルが主流しゅりゅうになるのではなく多様たようすすんでいる。フュージョンの後継こうけいともえるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーザ・バッド・プラスともにロックを伝統でんとうてきなジャズの文脈ぶんみゃく演奏えんそうしたり、ロック・ミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏えんそうおこなったりしている。1990年代ねんだいはいってからも前衛ぜんえいてきなジャズも伝統でんとうてきなジャズも継承けいしょうされ演奏えんそうされている。ハリー・コニック・ジュニア[37]ダイアナ・クラールカサンドラ・ウィルソンミシェル・ンデゲオチェロらはこの時期じき活動かつどうした。2000年代ねんだいから2010年代ねんだいには、ノラ・ジョーンズホセ・ジェイムズジェイミー・カラムロバート・グラスパーエスペランサ・スポルディングカマシ・ワシントングレゴリー・ポーターひとしがジャズ・シーンを牽引けんいんしている[38]。グレゴリー・ポーターはジャズだけでなく、ソウルやR&Bの要素ようそっている。また、2010年代ねんだいに、ヒップホップファンク要素ようそくわわったケンドリック・ラマーサンダーキャットのコラボなどジャズラップなどが人気にんきとなった。

    ジャズメンの来日らいにち

    編集へんしゅう

    NHK『タモリのジャズスタジオ』においてピーター・バラカン・ブロードキャスターが「ヨーロッパ日本にっぽんがなければ、アメリカのジャズ・ミュージシャンは生計せいけいたなかった」とべたように、ジャズ・プレイヤーにとって日本にっぽん重要じゅうようなマーケットで、おおくのミュージシャンが来日らいにち公演こうえんおこなっている。日本にっぽんにジャズ・ミュージシャンとしてはじめて来日らいにちしたアメリカじんは1952ねんベニべに・グッドマン楽団ぐっどまんがくだん活躍かつやくしたドラマーのジーン・クルーパである。翌年よくねんには、オスカー・ピーターソンベニー・カーター、エラ・フィッツジェラルドなどとともジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)としてさい来日らいにちした(この一座いちざにチャーリー・パーカーが参加さんか来日らいにちする予定よていもあったが結果けっかてき実現じつげんしなかった)。その翌月よくげつにはルイ・アームストロングがはつ来日らいにち公演こうえんおこなっている。

    かく地域ちいきのジャズ

    編集へんしゅう

    ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧ほくおうなどでもジャズが発展はってんした。イギリスのジャズメンでは、ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメンの「はるかなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛かわいはな」などがよくられている。フランスではアメリカから移住いじゅうした、「ちいさなはな」のシドニー・ベシェや、デクスター・ゴードンらがジャズをひろめた。北欧ほくおうでもジャズが、さかんに演奏えんそうされた。しかし、ヨーロッパの一部いちぶでは、保守ほしゅそうファシズム政権せいけんとうで、「黒人こくじん音楽おんがく」「軽佻けいちょう浮薄ふはく」な「音楽おんがく」であるとしてジャズを排斥はいせきするうごきもこった。ナチとう支配しはいされたナチス・ドイツでは、はんジャズが政府せいふ公式こうしき見解けんかいとなり、「退廃たいはい音楽おんがく」「ななめの音楽おんがく」(比喩ひゆ:「へん音楽おんがく」)とばれ1935ねん黒人こくじん演奏えんそうするジャズの放送ほうそう禁止きんしされるなど、様々さまざま条例じょうれいつくられた。しかし当局とうきょくによるジャズの定義ていぎがあいまいであったため、ドイツじん演奏えんそうによるジャズ演奏えんそう自体じたいおこなわれていた。ナチスは、すでに大衆たいしゅう音楽おんがくとして普及ふきゅうしていたジャズを禁止きんしすることは得策とくさくではないとして、娯楽ごらく放送ほうそう宣伝せんでん放送ほうそうにジャズをまぎませた[39]

    ラテン・アメリカ

    編集へんしゅう

    アフロキューバン・ジャズばれ、ラロ・シフリンらが活躍かつやくした。

    ダラー・ブランドらがいたが、かれのジャズはアメリカのジャズとほぼおな音楽おんがくせいだった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米おうべい日本にっぽんかんがえられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドがことなる。

    戦前せんぜん日本にっぽんのジャズ

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    戦前せんぜん日本にっぽんにすでにわたってきていた舶来はくらい音楽おんがく西洋せいよう音楽おんがくには、ジャズとタンゴがあった。初期しょきのジャズ演奏えんそうには、かみ恭輔きょうすけ南里なんり文雄ふみお井田いだ一郎いちろうらがいた。井田いだ1923ねん日本にっぽんはじめてのプロのジャズバンドを神戸こうべ結成けっせいした[40][41]

    ジャズのききて演奏えんそうには、都会人とかいじんやブルジョワ階級かいきゅう子弟していおおかった。当時とうじのレコード業界ぎょうかいポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資がいしけい大手おおてレコード会社かいしゃ設立せつりつされた。テイチクは、業種ぎょうしゅ参入さんにゅうぐみキングだい日本にっぽん雄弁ゆうべんかい講談社こうだんしゃのレコード会社かいしゃ)よりさらおそい1934ねんだが、そのとしの12月に発売はつばいしたディック・ミネの「ダイナ」がヒット。「ダイナ」はよくカバーされた日本にっぽんのジャズソングであり、榎本えのもと健一けんいちはパロディとしてカバーした。

    最初さいしょのジャズソングとされるのが二村にむら定一さだいちジーン・オースティン英語えいごばんの"My Blue Heaven"をカバーした「青空あおぞら」で、1927ねんにラジオ放送ほうそうされた。レコードが発売はつばいされたのは翌年よくねんの1928ねん。Aめんが「青空あおぞら」、Bめんが「アラビヤのうた」だった。また、ラジオ、レコードで企画きかくげる人間にんげん必要ひつようになり堀内ほりうち敬三けいぞう登場とうじょうした。初期しょきのジャズ演奏えんそうであるかみ恭輔きょうすけがコロムビアにかかわった。

    1930年代ねんだいのスウィングジャズは、時代じだい最先端さいせんたんであり、服部はっとり良一りょういちは1935ねん当時とうじのデザインの流線型りゅうせんけい題材だいざいにした「流線型りゅうせんけいジャズ」(志村しむら道夫みちお)をした[42]。しかし、1940ねん10がつ31にちかぎりで日本にっぽん全国ぜんこくのダンスホールは一斉いっせい閉鎖へいさされた。

    行政ぎょうせい警察けいさつ管掌かんしょうする内務省ないむしょう映画えいが音楽おんがく監督かんとく指導しどうする情報じょうほうきょくはジャズを「敵性てきせい音楽おんがく」として禁令きんれい[注釈ちゅうしゃく 6]したが、抽象ちゅうしょうてきぎてなんきょくがジャズにふくまれるか、音楽おんがく素人しろうとである役人やくにん判別はんべつむずかしかった。また1943ねん1がつにはジャズレコードの演奏えんそう禁止きんしさらにレコードの自発じはつてき提出ていしゅつ、「治安ちあん警察けいさつほうだいじゅうろくじょう」の適用てきようによる強制きょうせいてき回収かいしゅうなどによりべいえい音楽おんがく一掃いっそうはかったが、北村きたむら栄治えいじのように自宅じたくでこっそりいていたものもいた。最終さいしゅうてきには役人やくにん協力きょうりょくする音楽おんがく業界ぎょうかい人間にんげんが、日本にっぽん音楽おんがく文化ぶんか協会きょうかい、いわゆる「おとぶん」(音楽おんがくかい統制とうせい団体だんたい)のしょう委員いいんかい決定けっていにより、「ジャズの演奏えんそう禁止きんし」となった。こののちジャズメンの活動かつどうは、各種かくしゅ慰問いもんだんなどにわっていった。

    戦前せんぜん活躍かつやくしたジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手かしゅとしては、二村にむら定一さだいち服部はっとり良一りょういち淡谷あわやのりディック・ミネ志村しむら道夫みちお南里なんり文雄ふみお堀内ほりうち敬三けいぞう川畑かわはた文子ふみこベティ稲田いなだ井田いだ一郎いちろうレイモンド・コンデ水島みずしま早苗さなえあきれたぼういずらがいた。

    戦後せんご日本にっぽんのジャズ

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    戦後せんご、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽おんがくが、日本にっぽんはいってきた。進駐軍しんちゅうぐん音楽おんがくは、「ベース」で演奏えんそうされた。戦後せんご日本にっぽんのジャズのはやれいには、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田ひろた三枝子みえこ伊東いとうゆかりしばたはつみ少女しょうじょ歌手かしゅとして、べいぐんキャンプでうたった。

    戦後せんごは、服部はっとり良一りょういち作曲さっきょくしたブギウギ笠置かさぎシヅ子しづこうたわせたことからはじまる。江利えりチエミジョージ川口かわぐちティーブがまムッシュかまやつちち)、ナンシー・梅木うめき世良せらゆずるなどのすぐれた歌手かしゅ演奏えんそうなどが、ジャズが大衆たいしゅうした。一時期いちじきは、外国がいこくポピュラー音楽おんがくをすべて「ジャズ」と風潮ふうちょうひろがったほどである[44]。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多かずおおまれている。

    鈴木すずき章治しょうじとリズムエース、北村きたむら英治えいじらも音楽おんがく活動かつどうはじめた。宮沢みやざわあきら守安もりやすさち太郎たろうらも活躍かつやくした。1956ねん穐吉敏子としこが、1962ねん渡辺わたなべ貞夫さだおがバークリー音楽おんがくいんげんバークリー音楽おんがく大学だいがく)に留学りゅうがく[45]1963ねんには松本まつもと英彦ひでひこモントレー・ジャズ・フェスティバル出演しゅつえんするひとし国際こくさいてき活動かつどうするミュージシャンもえていった。八木やぎただしせい猪俣いのまたたけしらも活躍かつやくした。

    1960ねんころ、アート・ブレイキーのモーニン1958ねん発表はっぴょう)のヒットにより、ファンキー・ブームがこった[46]1961ねん発足ほっそく翌年よくねん改名かいめいしたミュージシャンたちの勉強べんきょうかい しん世紀せいき音楽おんがく研究所けんきゅうじょ改名かいめいまえはジャズ・アカデミー)にたかった高柳たかやなぎ昌行まさゆき富樫とかし雅彦まさひこ日野ひの皓正てるまさ菊地きくち雅章まさあき山下やました洋輔ようすけらが、毎週まいしゅう金曜日きんようびぎん巴里ぱりジャムセッションおこなった。日野ひの皓正てるまさは、そこが自身じしん原点げんてんだとべる[47]

    1965ねん、ニューポートジャズフェスティバルに日本人にっぽんじんジャズシンガーとしてはじめて出演しゅつえんしたのは、3にちのトリをビリーテイラートリオと一緒いっしょ出演しゅつえんした弘田ひろた三枝子みえこだった。1960年代ねんだい、70年代ねんだいから日本にっぽんでもフリー・ジャズがさかんになってくる。日本にっぽんのフリー・ジャズの先駆せんくしゃとなったのは、阿部あべかおる高柳たかやなぎ昌行まさゆきらである。1970年代ねんだい後半こうはんになるとフュージョン・ブームとなり、渡辺わたなべ貞夫さだおらもフュージョン・アルバムをすほどだった。中央ちゅうおうせん沿線えんせん拠点きょてんとするミュージシャンもおお登場とうじょうし、1980年代ねんだい後半こうはん新星堂しんせいどうプロデューサーつづけ中央ちゅうおうせんジャズという言葉ことば提唱ていしょうした[35]

    21世紀せいきはいってからも、H ZETTRIO山中やまなか千尋ちひろ矢野やの沙織さおり寺久保てらくぼエレナ上原うえはらひろみ国府こくぶ弘子ひろこ西山にしやまひとみ菊地きくちしげるあな小曽根おぞねしんいしわか駿しゅんらが活躍かつやくした。

    ジャズ、ロックの評論ひょうろんで、若者わかもの人気にんきだった植草うえくさ甚一じんいちやく4000まいのジャズ・レコード・コレクションは、タモリがることになったという[48]

    セクシーな女性じょせい歌手かしゅ系譜けいふは、ヘレン・メリルらがルーツともられているが、21世紀せいき日本にっぽんのジャズでも、高木たかぎ里代子りよこらがそれをぎ、山下やました毅雄たけお音楽おんがく映画えいがのサウンドトラックとして使用しようされる現象げんしょうられた[49][50]音楽おんがくジャンルにおけるジャズ要素ようそれた楽曲がっきょくは、ジャジーと表現ひょうげんされることがある。ジャジーという表現ひょうげんは、ロックやポップス、歌謡かようきょくなど、ことなるジャンルでも使用しようされる[51]。またジャズは聴衆ちょうしゅうに、大人おとなけ、自由じゆうといったイメージをいだかせ、BGM業界ぎょうかいにも一定いってい役割やくわりたした[52]

    おもなスタイル/ジャンル

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    過去かこ演奏えんそうされたスタイルと、現在げんざい演奏えんそうされているスタイルの双方そうほう掲載けいさいしている。

    おもなアーティスト

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    著名ちょめい評論ひょうろん

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    著名ちょめい演奏えんそう場所ばしょ

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    著名ちょめいなジャズクラブ

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    • ヴィレッジ・ヴァンガード(1935ねん - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区ちくにあり、モダンジャズを牽引けんいんした名店めいてん
    • ミントンズ・プレイハウス(1938ねん - 1974ねん、ニューヨーク)テナーサックス奏者そうしゃヘンリー・ミントンが開店かいてん。ビバップの発祥はっしょうあかしとなる「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」1941ねんでのセッションレコードで有名ゆうめい。2006ねん再開さいかいてん
    • バードランド(1949ねん - 1965ねん、ニューヨーク)マンハッタン地区ちくにあったビバップ・モダンジャズの黄金おうごん時代じだい牽引けんいんした名店めいてん。1986ねん再開さいかいてん
    • プリザベーション・ホール(1960年代ねんだい - 、ニューオーリンズ)ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体しゅたい名店めいてん
    • ブルーノート(1981ねん - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区ちくにあり、世界せかい各国かっこくにレストランをチェーン展開てんかい。ブルーノート・レコードとは無関係むかんけい

    ジャズクラブ以外いがい

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    • コットン・クラブ(1923ねん - 1940ねん、ニューヨーク)ハーレム地区ちくにあった名高なだか高級こうきゅうナイトクラブ。
    • カーネギー・ホール(1891ねん - 、ニューヨーク)マンハッタン地区ちくにあるコンサートホール。1938ねんベニー・グッドマンにより史上しじょうはつのジャズ・コンサートが開催かいさいされた。
    • アポロ・シアター (1860ねん - 、ニューヨーク) マンハッタン地区ちくにあるコンサートホール、クラブ。

    ジャズ喫茶きっさ

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    ジャズをきながらたのしむ喫茶店きっさてん日本にっぽんで1950年代ねんだい後半こうはんから流行はやり、1970年代ねんだいから下火したびとなる。

    著名ちょめいなフェスティバル

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    さんだいジャズ・フェスティバル

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    きたアメリカ

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    日本にっぽん

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    • 飛騨高山ひだたかやまジャズフェスティバル(2018ねん岐阜ぎふけん高山たかやま) (有料ゆうりょう
    • 瀬戸内せとうちジャンゴ・ストリート(2020ねん-、香川かがわけん高松たかまつ) (無料むりょう
    • 神戸こうべジャズウィーク
    • ジャズアート仙川せんがわ
    • ライブ・マジック
    • 川崎かわさきジャズ
    • 横浜よこはまジャズプロムナード
    • JAZZ in FUCHU
    • 湯河原ゆがわらジャズ・フェスティバル
    • 高崎たかさきジャズ・フェスティバル
    • JAZZ ART FESTIVAL
    開催かいさい終了しゅうりょう
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    著名ちょめい教育きょういく機関きかん

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    関連かんれん作品さくひん関連かんれんメディア

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    TV・ラジオ番組ばんぐみ

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    ジャズ専門せんもん衛星えいせい放送ほうそう

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    ジャズ専門せんもんネットラジオきょく無償むしょう配信はいしん

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    ラジオ放送ほうそう

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    アーティスト伝記でんきぶつ、もしくはストーリー・音楽おんがくともにジャズとかかわりのふか作品さくひん
    伝記でんきぶつ
    記録きろく映画えいが
    フィクション
    伝記でんきぶつ
    フィクション
    ジャズの映画えいが音楽おんがく/サウンドトラック

    脚注きゃくちゅう

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    注釈ちゅうしゃく

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    1. ^ 戦前せんぜんのブルース・マンにはロバート・ジョンソン、チャーリー・パットンらがいた。
    2. ^ 1920ねんの「メイプルリーフ・ラグ」を作曲さっきょくかれ友人ゆうじん紹介しょうかいした。
    3. ^ ドイツじん相棒あいぼうはフランシス・ウルフ。
    4. ^ 表題ひょうだいきょくでマイルスはブルージーな即興そっきょう演奏えんそう披露ひろうしている。
    5. ^ ジャンヌ・モローが出演しゅつえんしたサスペンス映画えいが
    6. ^ 以下いかの3つの基準きじゅん禁止きんしされた。「1).旋律せんりつうつくしさをうしなった騒擾そうじょうてきなるリズム音楽おんがく。2).あまりに扇情せんじょうてき淫蕩いんとうてき感情かんじょういだかしめる音楽おんがく。3).怠惰たいだかんいだかしめるよう退廃たいはいてきあるい亡国ぼうこくてきなる音楽おんがく[43]
    7. ^ 11PM』オープニング・テーマきょく作曲さっきょくしゃ

    出典しゅってん

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    1. ^ blues and jazz cincyblues 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
    2. ^ ラグタイム  Jazzhistorytree.com 2023ねん4がつ1にち閲覧えつらん
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    4. ^ Germuska. “"The Jazz Book": A Map of Jazz Styles”. WNUR-FM, Northwestern University. March 19, 2017閲覧えつらん
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    9. ^ Hennessey 1973は、いずれの形式けいしきもヨーロッパけいアメリカじん音楽おんがくとアフリカけいアメリカじん音楽おんがく起源きげんつと説明せつめいしている。
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    関連かんれん項目こうもく

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    • 『ハーレムの黒人こくじんたち』植草うえくさ甚一じんいち晶文社しょうぶんしゃ(2005/5)
    • 『コーヒーいちはいのジャズ』植草うえくさ甚一じんいち晶文社しょうぶんしゃ(2004/12)
    • 『ファンキー・ジャズの勉強べんきょう植草うえくさ甚一じんいち晶文社しょうぶんしゃ(2005/6)
    • 『ジャズのじゅうがつ革命かくめい植草うえくさ甚一じんいち晶文社しょうぶんしゃ(2005/4)
    • 『ジャズはうみをわたる』植草うえくさ甚一じんいち晶文社しょうぶんしゃ(2005/7)
    • 『ジャズマガジンをみながら』植草うえくさ甚一じんいち晶文社しょうぶんしゃ(2005/7)
    • 『ビリー・ホリディ物語ものがたり油井ゆい正一しょういち大橋おおはし巨泉きょせん

    外部がいぶリンク

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