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ボサノヴァ - Wikipedia

ボサノヴァBossa Nova、ボッサ・ノーヴァ、直訳ちょくやく:「あたらしい傾向けいこう」)は、ブラジル音楽おんがくのジャンルのひとつである。ボッサ(Bossa)とりゃくされることもあり、日本にっぽんではボサノバ表記ひょうきされることもおおい。

ボサノヴァ
ボサノヴァ誕生たんじょう中心ちゅうしん人物じんぶつであるアントニオ・カルロス・ジョビンひだり)とヴィニシウス・ヂ・モライスみぎ), 1962ねん
げん地名ちめい Bossa Nova
様式ようしきてき起源きげん
文化ぶんかてき起源きげん 1950年代ねんだい後期こうきブラジルリオデジャネイロ
使用しよう楽器がっき
サブジャンル
融合ゆうごうジャンル
地域ちいきてきなスタイル
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概要がいよう

編集へんしゅう
 
アルメイダ・ジュニオールさく『サウダージ』(1899ねん)。ボサノヴァの重要じゅうようなキーワードである「サウダージ」は、ポルトガルで”おもなつかしみ感傷かんしょうひたること”(ノスタルジア)を意味いみする。
 
カリオカのサンバ・カーニバル(1969ねん切手きってより)。パンデイロのリズムにわせ、伝統でんとう衣装いしょうのバイアーナドレスを女性じょせいおどる。

「Bossa Nova」の「Nova」(ノヴァ / ノバ)とはポルトガルで「あたらしい・独自どくじの」、「Bossa」(ボサ / ボッサ)とは「素質そしつ傾向けいこう魅力みりょくり」などを意味いみする[1][2]。したがって「Bossa Nova」とは「あたらしい傾向けいこう」「あたらしい感覚かんかく」などという意味いみになる。なお「Bossa」というかたりは、すでに1930年代ねんだいから1940年代ねんだい黒人こくじんサンビスタなどがサンバ音楽おんがくかんする俗語ぞくごとして、とはちがった独特どくとく質感しつかんをもつ作品さくひんつくひとたいして「かれのサンバにはボサがある」などと使つかい、それらの楽曲がっきょくを「Samba de Bossa」などとんでいた[3]

1950年代ねんだいリオデジャネイロコパカバーナイパネマといった海岸かいがん地区ちく裕福ゆうふく白人はくじんミュージシャンたちによってされた[4][5]。ブラジルでのヒットのきっかけは1958ねんアントニオ・カルロス・ジョビン作曲さっきょくヴィニシウス・ジ・モライス作詞さくしジョアン・ジルベルトうた・ギターによる「Chega de Saudade」(シェーガ・ジ・サウダージ、邦題ほうだいおもいあふれて)[6]のシングルによるものであり、ジョアン・ジルベルトはボサノヴァ・ギターのパイオニアだった[7]

サンバショーロをはじめとするブラジルの伝統でんとうてき大衆たいしゅう音楽おんがくとくサンバ・カンサゥンポルトガルばんもとに、フランス印象いんしょう音楽おんがくジャズ要素ようそれられ[8]1950年代ねんだい中頃なかごろにブラジル国内こくないアッパーミドル若者わかものたちのもとめていた心地ここちよく洗練せんれんされたサウンド、「あたらしい感覚かんかく」のサンバとして成立せいりつし、1960年代ねんだいに、アメリカのジャズ・ミュージシャンを経由けいゆして世界中せかいじゅうひろまった[5]。それゆえにボサノヴァをジャズの一種いっしゅとする見方みかたもあるが、すくなくとも本来ほんらいのボサノヴァはサンバの一種いっしゅとして定義ていぎされる[5]

ボサノヴァはブラジルにあたらしいポピュラー音楽おんがくジャンルをみ、その世界せかい音楽おんがくシーンにひろがっていった。ブラジル本国ほんごく以外いがいでは、アメリカフランスイタリア日本にっぽんなどで根強ねづよ人気にんきがあり、1960年代ねんだい当時とうじはこれらのエリアをジェット機じぇっとき自由じゆうままにするような(:”Dolce Vita”)、有閑ゆうかん階級かいきゅうジェットぞく英語えいごばんによくこのまれた[9][10][ちゅう 1]

 
コルコバードおかより、リオデジャネイロの風景ふうけい
 
映画えいがくろいオルフェ』(1959ねん
 
アントニオ・カルロス・ジョビン
 
ジョアン・ジルベルト(1972ねん
 
セルジオ・メンデス&ブラジル'66

1950年代ねんだい中期ちゅうきリオデジャネイロ在住ざいじゅうしていた白人はくじん若手わかてミュージシャンたちによって創始そうしされた[5]。ボサノヴァ誕生たんじょう中心ちゅうしんとなった人物じんぶつとして、さく編曲へんきょくアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)、歌手かしゅでギタリストでもあったジョアン・ジルベルト、ブラジル政府せいふ外交がいこうかんにしてジャーナリストねた異色いしょく詩人しじんヴィニシウス・ヂ・モライスらがげられる[5]

ボサノヴァの誕生たんじょうには、ナラ・レオン裕福ゆうふく実家じっか[ちゅう 2]部屋へやあつまっていたホベルト・メネスカルカルロス・リラホナルド・ボスコリ英語えいごばんといった「若手わかて音楽おんがく研究けんきゅうグループ」に、すでにしていたジョビンやジョアン・ジルベルトといったすこじょう世代せだいのプロ・ミュージシャンが注目ちゅうもくし、交流こうりゅうはじめたのがきっかけとされる[5]かれらはそのおおくが、貧富ひんぷ格差かくさはげしく識字しきじりつが60%にもたなかった[11]当時とうじのブラジルにおいて、裕福ゆうふく中産ちゅうさん階級かいきゅうぞくする白人はくじんであった[3]

かれらはフランス印象派いんしょうは音楽おんがく当時とうじアメリカで一世いっせい風靡ふうびしていたジャズ(なかでもウエストコースト・ジャズ)に触発しょくはつされ[8]、ブラジルの伝統でんとう音楽おんがくショーロサンバ都会とかいてき洗練せんれんをもたらすような美的びてきさい定義ていぎ追求ついきゅうしていた。また、ジョアンがいくにちもバスルームにじこもってギターをらす試行錯誤しこうさくごすえ、それまでにないスタイルのギター奏法そうほうすことに成功せいこうしたという逸話いつわのこっているが[1]、そのさい変奏へんそうてきなジャズや抑制よくせいされた曲調きょくちょうのサンバであるサンバ・カンサゥンポルトガルばん1950ねん前後ぜんご発展はってんした)、バイーアしゅう周辺しゅうへん発展はってんした「バチーダ」というギター奏法そうほう影響えいきょう無視むしできない。かれ中心ちゅうしんとするミュージシャンらのあいだで、1952ねんから1957ねんころ、ボサノヴァの原型げんけい形作かたちづくられ、発展はってんしたものとられている。

1953ねん、ジョビン作曲さっきょく、モライス作詞さくしによる作品さくひんジョニー・アルフ英語えいごばんうたった「Rapaz de Bem」(邦題ほうだいしんやさしい青年せいねん)が発表はっぴょうされる。これはジャズに影響えいきょうされた作風さくふうっているのが特徴とくちょうであったが、あたらしいブラジル音楽おんがく「ボサノヴァ」の誕生たんじょう示唆しさした。

1958ねん、ジョビン作曲さっきょく、モライス作詞さくしの「Chega de Saudade」(邦題ほうだいおもいあふれて)が、当時とうじすでに人気にんき歌手かしゅであったエリゼッチ・カルドーゾによってレコーディングされる。そのさいジョアン・ジルベルトがバックのギターを演奏えんそうするが、エリゼッチのうたかたはジョビンやジルベルトが目指めざ音楽おんがくとはかけはなれたものであった。そこで同年どうねん、ジョビンがレコード会社かいしゃ説得せっとくしてジョアン・ジルベルトがうたどうきょく録音ろくおん発売はつばいされた。ジョビンによる高度こうどハーモニー裏付うらづけられたあたらしい感覚かんかくのサンバと、モライスによる詩的してき知的ちてき歌詞かし、ギターによるサンバ・リズムの演奏えんそう微妙びみょう間合まあいをずらしながらささやきかけるようにうたうジョアンの表現ひょうげんは、画期的かっきてき音楽おんがくとしてめられ、ボサノヴァ・ブームの幕開まくあけとなる[1][3]

1959ねんにセカンド・シングル「Desafinado」(デサフィナード)が発表はっぴょうされると、その歌詞かしなかに「これがボサノヴァ」という一節いっせつまれ、このきょく録音ろくおんしたジョアンのファーストアルバムのライナーノーツで「ジョアン・ジルベルトはバイアーノ(バイーアまれ)、27さいの”bossa-nova”」と紹介しょうかいされた[3][1]。これらは「ボサノヴァ」という言葉ことばはじめて使つかわれたれいで、前者ぜんしゃでは音楽おんがく表現ひょうげんするじょうでの姿勢しせいを、後者こうしゃでは人物じんぶつあらわ言葉ことばとして使つかわれており、このように当初とうしょボサノヴァとは、音楽おんがく形式けいしきやリズムをあらわ言葉ことばではなかったようである[3]おなねん、リオの大学だいがくのキャンパスではつの「ボサノヴァ」とかんされた音楽おんがくフェスティバルが開催かいさいされ、ボサノヴァはリオの若者わかもの文化ぶんか代名詞だいめいしとなるまでになっていった[1]一方いっぽうで、当時とうじはリオやサンパウロむヨーロッパけい移民いみんなど一部いちぶ知的ちてきなファンそうにしかその存在そんざいられておらず、国内こくない大衆たいしゅう波及はきゅうするまでにはいたらなかった[5][12][13]

その反面はんめん海外かいがいへの浸透しんとうはやく、同年どうねんの1959ねんには、1957ねんにジョビンとモライスが古代こだいギリシャオルペウス神話しんわ題材だいざいにして企画きかくしたげきもとにしたブラジル・フランスイタリア合作がっさく映画えいがくろいオルフェ』(マルセル・カミュ監督かんとく)に、ジョビンとルイス・ボンファポルトガルばん作曲さっきょくによる「カーニバルのあさ」をはじめとするおおくのボサノヴァがげきちゅうきょくとして使つかわれ、世界せかいにその存在そんざいらしめた[5][12]。なお、この映画えいがにより、サンバ歌手かしゅ女優じょゆうカルメン・ミランダ定着ていちゃくさせた「果物くだものハットをかぶってうたっておどるトロピカルなブラジル」というハリウッドてき先入観せんにゅうかんえられた[14]

1962ねんズート・シムズの『ニュー・ビート・ボサノヴァ Vol.1』や、スタン・ゲッツの『ジャズ・サンバ英語えいごばん』、クインシー・ジョーンズの『ビッグバンド・ボサノヴァ英語えいごばん』、ポール・ウィンターの『ジャズ・ミーツ・ザ・ボサノヴァ』、ラムゼイ・ルイスの『ボサ・ノヴァ英語えいごばん』など、ジャズとボサノヴァが融合ゆうごうしたアルバムがアメリカのジャズ奏者そうしゃによってつづけに発表はっぴょうされ、北米ほくべいでのボサノヴァブームのはじまりを予感よかんさせた[12]同年どうねん11がつ21にちには、カーネギー・ホールでボサノヴァのコンサートがおこなわれ、ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラセルジオ・メンデスひとし出演しゅつえん現地げんちでリーダーさく録音ろくおんするあしがかりとなった[3]。なおこのコンサートの聴衆ちょうしゅうなかには、マイルス・デイヴィスディジー・ガレスピーもいた[14]

1963ねんには、ジョアン・ジルベルトがアメリカのジャズ・サックス奏者そうしゃスタン・ゲッツと共演きょうえんしたボサノヴァ・アルバム『ゲッツ/ジルベルト』が制作せいさくされ、アメリカでだいヒット[1]とくにこのなかでジョアンの当時とうじつまアストラッド・ジルベルト英語えいごうたった「イパネマのむすめ」は爆発ばくはつてきげを記録きろくし、アメリカの大衆たいしゅうに「ボサノヴァ」を浸透しんとうさせた[1]一方いっぽうで、ゲッツのジャズ・アドリブパートがおおきくフィーチャーされた構成こうせいであることや、「イパネマのむすめ」のシングルばんではジョアン・ジルベルトのポルトガル歌唱かしょう部分ぶぶんがカットされてしまったこともあり、アメリカの大衆たいしゅうは「ボサノヴァはジャズの一種いっしゅでゲッツがつくりあげた」「ボサノヴァを代表だいひょうする歌手かしゅはアストラッド」という極端きょくたん誤解ごかいをしてしまったともいう[5][ちゅう 3]。しかしアストラッド・ジルベルトは、その独特どくとく歌唱かしょうスタイルから聴衆ちょうしゅうにアピールするちからがあり、アメリカでの音楽おんがく活動かつどうのなかで、ボサノヴァとジャズ・スタンダードの橋渡はしわたてき存在そんざいとなった。また、ケニー・ドーハムハンク・モブレーバド・シャンクジーン・アモンズミルト・ジャクソンポール・デスモンドズート・シムズチャーリー・バード英語えいごばんハービー・マンらのジャズ・ミュージシャンも、ボサノヴァ・アルバムを発表はっぴょうしている[ちゅう 4]

このようにして、戦後せんごにおける都市とし文化ぶんか爛熟らんじゅくにあったブラジルには、アメリカをはじめとする国外こくがいでの人気にんき後押あとおししてわかいアーティストたちが続々ぞくぞく輩出はいしゅつされ、創始そうししゃのジョビンやジョアン・ジルベルトらをはなれて拡大かくだい多様たようしたボサノヴァは、1960年代ねんだい初頭しょとうから中頃なかごろにかけて、戦後せんご平和へいわ経済けいざい成長せいちょうによる「ゆとり」をった「時代じだい空気くうきかん」にマッチし隆盛りゅうせいむかえた[3][5]現在げんざいでもひろかれうたわれているボサノヴァの#著名ちょめいきょくおおくは、この時代じだいにジョビンを中心ちゅうしんされている。

しかし1964ねん、ブラジルでクーデター発生はっせいすると、国内こくないでの様相ようそう一変いっぺんした。カステロ・ブランコ[ちゅう 5]によるブラジルの軍事ぐんじ独裁どくさい政権せいけん樹立じゅりつと、それにともな強圧きょうあつてき体制たいせいは、「リオの有閑ゆうかん階級かいきゅうサロン音楽おんがくてき傾向けいこうのあったボサノヴァを退潮たいちょうさせる要因よういんとなった[3]セルジオ・メンデスカエターノ・ヴェローゾなどけっしてすくなくないボサノヴァ音楽家おんがくかたちが、国外こくがいはん亡命ぼうめいてきかたちり、アメリカやフランスとうのミュージックシーンに足跡あしあとのこした。さらにあい自然しぜんうた抽象ちゅうしょうてき享楽きょうらくてき傾向けいこうのあったボサノヴァの歌詞かしも、体制たいせい批判ひはんなど政治せいじてき内容ないようふくんだものに変化へんかしたものがバイーア州民しゅうみんのなかからあらわれはじめ、トロピカリア・ムーブメントとばれた。これらはボサノヴァのカテゴリーからはずしてとらえる批評ひひょうおおい。軍事ぐんじ政権せいけんは1964ねんから1985ねんまで、その長期間ちょうきかんわたってブラジルを支配しはいした。

くわえて1960年代ねんだいなかば、世界せかいてき音楽おんがくかい席巻せっけんしていたのはビートルズをはじめとするロック・ミュージックであった。ブラジルの若者わかものあいだでも、ボサノヴァの都会とかいてき洗練せんれん知的ちてき雰囲気ふんいきをヨーロッパ白人はくじん中心ちゅうしん主義しゅぎ象徴しょうちょうとみなし、そのアンチテーゼとしてロックは人気にんきあつめはじめていた。1966ねんセルジオ・メンデス&ブラジル'66が「マシュ・ケ・ナダ」のヒットをはなった。ポルトガルきょくがアメリカでヒットしたのは、きわめてまれれいであった(前述ぜんじゅつの「イパネマのむすめ」はポルトガル歌唱かしょう部分ぶぶんのカットされたものがヒットしている)。「マシュ・ケ・ナダ」は1963ねんジョルジ・ベンによってすで原曲げんきょく発表はっぴょうされており、ブラジル国内こくない小規模しょうきぼながらヒットをはなっていたが、このきょくはボサノヴァでもあり、ロックのアレンジをふくんだサンバ・ホッキ英語えいごばん(Samba Rock)でもあった[3]以降いこう、ロック・ミュージックおよび電子でんし楽器がっきとの融合ゆうごう潮流ちょうりゅうとなり、アコースティック楽器がっき使用しようする正統せいとうのボサノヴァは、ブラジル音楽おんがくのムーブメントから徐々じょじょはずれていった。そして1960年代ねんだい後半こうはんに、ボサノヴァやロックの影響えいきょうけて「MPB」(Musica Popular Brasileira)とばれるしんジャンルがまれ、これがブラジル音楽おんがくあらたな主流しゅりゅうとなった[3]

1970年代ねんだい以降いこうは、フレンチ・ボッサ、ボサノヴァ歌謡かよう(のちにシティ・ポップ)、AORなど、ボサノヴァの要素ようそれられたポップスがしばしばちいさなムーブメントとしてげられることになるが[15]正統せいとうのボサノヴァの人気にんき根強ねづよくあり、おおくのアーティストによって存続そんぞくされている。また、ボサノヴァにってわるかたちまれたMPBにもボサノヴァりの作品さくひんおおふくまれており、後世こうせいへの影響えいきょうというかたち現在げんざいもブラジル音楽おんがく根幹こんかんをなすおおきな要素ようそでありつづけている。くわえて1950年代ねんだいから60年代ねんだいつくられたボサノヴァの一部いちぶ#著名ちょめいきょくは、スタンダードとしていまもなお世界せかい各国かっこくかれ、歌唱かしょう演奏えんそう題材だいざいとしても頻繁ひんぱんげられている。

21世紀せいき現在げんざい、ボサノヴァは、おも白人はくじん日本人にっぽんじん中流ちゅうりゅうそう以上いじょう裕福ゆうふく年配ねんぱい人々ひとびと中心ちゅうしんこのまれる一昔ひとむかしまえ音楽おんがくとみなされたり、カフェラウンジながれているお洒落しゃれきょくというイメージがある。無論むろんブラジル本国ほんごくにおいても、わか世代せだい欧米おうべいのロックやポップスをこのみ、あまりボサノヴァはかれていない。ホベルト・メネスカルによれば、ブラジルでボサノヴァを人口じんこう段々だんだん減少げんしょうしているため、国内こくないでボサノヴァのなま演奏えんそうける場所ばしょは、残念ざんねんながらいま非常ひじょうすくない、と2005ねんのインタビューでべている[8]。またカルロス・リラ同様どうように、「いま、リオのどこにったらボサノバをくことができるかとだれかにかれたら、そんなところはどこにもないよとうだろう。ブラジルよりも、日本にっぽんやヨーロッパでのほうが人気にんきがあるのがボサノバの現状げんじょうだ」とべている[14]。さらにリラは、「ボサノヴァは実際じっさい外国がいこくじんけ、エリートけの音楽おんがくだとわれたこともありますが、そうであったとしてもなにわるいんでしょう? 実際じっさい、ボサノヴァには様々さまざま影響えいきょうふくまれているので、ある程度ていど文化ぶんかてき素養そようがないと十分じゅうぶんたのしむことはできない音楽おんがくだとおもっています」ともべている[8]

日本にっぽんでの人気にんき

編集へんしゅう

日本にっぽんでのボサノヴァ人気にんきは、ブラジル本国ほんごくにもられるところである。日本にっぽんにボサノヴァがはいってきたのは、アメリカと同様どうように1960年代ねんだい初期しょきのことであり、ジャズ人気にんきともなかたちおおくのファンを獲得かくとくした[5]。さらにアメリカから帰国きこくした渡辺わたなべ貞夫さだおによる1967ねんの『ジャズ&ボッサ』の発表はっぴょうは、日本にっぽんにおけるボサノヴァ・ブームにをつけた[12]。またソニア・ローザヴィウマ・ジ・オリヴェイラや、彼女かのじょらを招聘しょうへいした人物じんぶつむすめである小野おのリサといった、ブラジル出身しゅっしんアーティストの日本にっぽんでの活躍かつやくもその人気にんき後押あとおしした。そしてこれとはべつに、1990ねんごろからのカフェブームにかんし、カフェ店内てんないなが音楽おんがくとして、ジャズとうとともにボサノヴァがおおげられた。このため日本にっぽん国内こくないでボサ・ノヴァのふる音源おんげんがCDでリイシュー(さい発売はつばい)されることがおおく、ブラジルでも日本にっぽん欧州おうしゅうのマーケットを意識いしきしてCDをリリースして輸出ゆしゅつすることもあり、ブラジル国内こくないよりも日本にっぽんほう音源おんげん入手にゅうしゅしやすいという状況じょうきょうにある。

ブラジル音楽おんがく評論ひょうろん大島おおしままもるは、「ボサノーヴァはリオでまれ、サンパウロでそだち、バイアでんで、日本にっぽんかえった」と、ボサノヴァの栄枯盛衰えいこせいすい端的たんてき表現ひょうげんした[13]

ブラジルの初期しょきのボサノヴァ・アーティストであるカルロス・リラは、日本にっぽんでのボサノヴァ人気にんきについて、「日本にっぽんもっともボサノヴァがあいされている理由りゆうというのは、人々ひとびと学歴がくれきにあるのではないかとおもいます。ブラジルでは貧富ひんぷはげしいですが、日本にっぽんはそういうことがなく、中流ちゅうりゅう階級かいきゅうおおくて、一般いっぱんてき学歴がくれきたかく、文化ぶんかてきひとおおいです。ボサノヴァというのは元々もともとがそういった中流ちゅうりゅう階級かいきゅうのリスナーのためにつくられた音楽おんがくなので、日本人にっぽんじんこのみにピッタリなのではないでしょうか」とべている[8]

音楽おんがくてき特徴とくちょう

編集へんしゅう

「サンバのはなやかなリズムに、それと相対あいたいするようなソフトな歌声うたごえ」「黒人こくじんらによる土着どちゃくてき民族みんぞく音楽おんがくと、白人はくじんらによる外来がいらいてき西洋せいよう音楽おんがく」「牧歌ぼっかてき音色ねいろかなでるクラシックギターと、ジャズに影響えいきょうされた都会とかいてき音色ねいろかなでるピアノサックス」など、その音楽おんがくてきめんせいおおきな特色とくしょくである。

ボサノヴァ誕生たんじょうであるリオデジャネイロの「うみやまかこまれた自然しぜんゆたかな都会とかい」という地理ちりてき特性とくせいからもかもされる、そのラテンてきなくつろいだイメージと都会とかいてき洗練せんれん混在こんざいした独特どくとく雰囲気ふんいきは、なつのリゾートカフェラウンジなどを連想れんそうさせた[ちゅう 6]

なお、ボサノヴァをはじめ、ブラジルのポピュラー音楽おんがくであるサンバショーロMPBトロピカリアノルデスチなどは、それぞれ厳密げんみつなジャンルけが存在そんざいするわけではなく、特徴とくちょうてきかさなる部分ぶぶんおおいことには留意りゅういである(後年こうねんになってジャンルレスになっていっためんおおきい)。

演奏えんそう

編集へんしゅう
ギター
 
ギターのがたりをするジョアン・ジルベルト

ボサノヴァにおける重要じゅうよう楽器がっきとして、ナイロンつるクラシック・ギター(ブラジルではヴィオラゥン Violãoぶ)がある。ギターはピックを使つかわず、ゆびかなでる。そのもっとも基本きほんてきなフォームは、ジョアン・ジルベルトがしめしたような、ギターとボーカルだけの演奏えんそうにおいてよくることができる。グループ演奏えんそうでのジャズてきなアレンジメント(編曲へんきょく)においても、ギターが潜在せんざいてきにビートをらすのが特徴とくちょうてきである。ただしギターをもちいず、後述こうじゅつするドラム・ビートだけでそのリズムを表現ひょうげんすることもある。ジョアンに代表だいひょうされるように、ボサノヴァにおけるヴィオラゥンの基本きほんてきなリズムは、親指おやゆびサンバ基本きほんてき楽器がっきであるスルドのテンポを一定いっていきざみ、ゆびタンボリン[16]のシンコペーションのリズムをきざむ。このボサノヴァ独特どくとくのギター奏法そうほうは、はたわせる、またミックスするという意味いみつ「バチーダ」とばれる。

ピアノ
 
ピアノのがたりをするA.C.ジョビンのまごダニエル・ジョビンポルトガルばん

ギターほどではないが、ピアノもボサノヴァにとって重要じゅうよう楽器がっきである。ジョビンはピアノのためのきょくをよくき、かれのレコードにおいてかれ自身じしんがピアノをいてレコーディングした。このピアノはまた、ジャズとボサノヴァをつなぐはしとしてももちいられ、ピアノのおかげで、この2つのジャンルが相互そうご影響えいきょうおよぼす結果けっかとなったとえる。演奏えんそうには、ジョビンの影響えいきょうから、印象いんしょう主義しゅぎてき和音わおんこのまれ、優美ゆうび印象いんしょうあたえた。

打楽器だがっき

ボサノヴァのドラム・パターンれい

 

ドラムパーカッションは、ボサノヴァにおいて本質ほんしつてき要素ようそ楽器がっきではない(そして事実じじつとして、なるべくパーカッションをそぎとそうとかんがえていた制作せいさくしゃもいた)が、ボサノヴァには独特どくとくドラム・パターンおよびスタイル(バックビート)が確立かくりつした。これは8ふん音符おんぷのハイハットの連打れんだと、リム・ショットによって特徴とくちょうづけられている。これはサンバのタンボリンのリズムであり、リムはテレコ・テコを代用だいようしたおとである。

その楽器がっき
 
フルートをくA.C.ジョビン

フルートはショーロからがれ、伴奏ばんそうやソロなどで幅広はばひろ使用しようされている。ベースは、ソロパートがもうけられることがすくないため認知にんちされにくいが、基本きほんてきおおくの場合ばあい編成へんせい参加さんかしている。またサックストランペットハーモニカなどは、ジャズから導入どうにゅうされており、奏者そうしゃもボサノヴァやブラジル音楽おんがくせんもんではなく、ジャズはたけものおおい。近年きんねんではチェロ使用しようされるれいられる。電子でんし楽器がっきすくなからず使用しようされているが、MPBとジャンルてきかさなる部分ぶぶんがある。

ストリングス

「ボサノヴァにはオーケストラストリングス)の伴奏ばんそうもちいられる」というのが、"エレベータ・ミュージック"や"ラウンジ・ミュージック"などといった、きたアメリカてきなボサノヴァのイメージである。しかし、ジョビンの録音ろくおんでそういったオーケストラ・サウンドをみみにすることはあっても、それ以外いがいおおくのボサノヴァではあまりかれない。ジョビンによる録音ろくおん知名度ちめいどたかさから、このような誤解ごかいまれたとかんがえられる。なおジョビン自身じしんは、ボサノヴァの可能かのうせいひろげるために、編曲へんきょくいち手法しゅほうとして、オーケストラを導入どうにゅうしていた。

ヴォーカル

こえらないささやくような歌声うたごえが、一般いっぱんてきおおられる特徴とくちょうであり、サウダージ表現ひょうげんとしてとらえられる。この歌唱かしょうほう一説いっせつに、ジョアン・ジルベルトが、ジャズミュージシャンのチェット・ベイカー歌声うたごえから着想ちゃくそうて、したともわれている。また、ビング・クロスビーフランク・シナトラ代表だいひょうされる「クルーナー唱法」の影響えいきょう指摘してきされている[5]。ジャズと同様どうようスキャット多用たようされる。またソロのほか、コーラス一般いっぱんてきである。歌詞かしは、ヴィニシウス・ヂ・モライスに代表だいひょうされるように、詩的してき情緒じょうちょてき表現ひょうげん言葉ことばあそおおく、知的ちてき印象いんしょうあたえた。ポルトガルのエキゾチックなひびきも他国たこく人々ひとびと魅了みりょうした。また歌詞かしに2ばん、3ばんがあることはすくなく、アドリブや編曲へんきょくのぞくと1ふん以内いないうたわるほどみじか歌詞かしすくなくない。

著名ちょめいきょく

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国際こくさいてき有名ゆうめい楽曲がっきょくのみ少数しょうすう列挙れっきょする。これらはボサノヴァにおける定番ていばんとして、すうおおくのアーティストに演奏えんそうされている。

ボサノヴァ・アレンジのきょく

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べつジャンルの楽曲がっきょくとして有名ゆうめいなもののなかで、ボサノヴァがれられているものを列挙れっきょする。

ミュージシャン・歌手かしゅ

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ブラジル以外いがい(ジャズ奏者そうしゃふくむ)

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関連かんれんジャンル:MPB

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実際じっさいに、ジェット機じぇっときリオの空港くうこう様子ようす描写びょうしゃした「ジェット機じぇっときのサンバ」(原題げんだい:Samba do Avião)というきょくつくられている。
  2. ^ すうめい家政かせいかかえ、バスルームが5つもあるほどのだい邸宅ていたくであったという。
  3. ^ 以後いご一時期いちじき、アメリカではボサノヴァ・ナンバーに英語えいごけたものが、ポピュラー歌手かしゅによってさかんにうたわれた。だが、その実状じつじょう多分たぶんエキゾチシズムびた一過いっかてきなものとして消費しょうひされたかんつよかった。
  4. ^ かれらはボサノヴァだけでなく、メンフィス・ソウルやディスコなど、流行りゅうこうのサウンドをいちはやれたアルバムを発表はっぴょうした。
  5. ^ 67ねん辞任じにん同年どうねん事故死じこししている。
  6. ^ ただし制作せいさくしゃ意図いと関係かんけいなく、その雰囲気ふんいきのみがフィーチャーされることもおおく、お洒落しゃれBGMとして、ジャズと同様どうようかそれ以上いじょう商業しょうぎょう主義しゅぎてき大量たいりょう消費しょうひ音楽おんがくあつかいをけることもある。
  7. ^ 「あなたがいたから」「あなたゆえに」などの邦題ほうだい表記ひょうきもある。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g ボサノヴァ生誕せいたん60周年しゅうねん本格ほんかくボサノヴァをフルートで演奏えんそうしよう!, アルソ出版しゅっぱん.
  2. ^ 地球ちきゅうあるかた: ブラジル・ベネズエラ 2018~2019』(2021ねん地球ちきゅうあるかた), 104ぺーじ.
  3. ^ a b c d e f g h i j 北中きたじゅう正和しょうわ世界せかい音楽おんがくでできている:中南米ちゅうなんべい北米ほくべい・アフリカへん』(2007ねん, 音楽おんがく出版しゅっぱんしゃ)55-56ぺーじ.
  4. ^ http://www.umich.edu/~ac213/student_projects05/
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 後藤ごとう雅洋まさひろ, ボサ・ノヴァ・ヴォーカル|ブラジル・リオでまれ世界せかいいやした音楽おんがくあたらしいなみ【ジャズ・ヴォーカル・コレクション07】, 2016/7/26, サライ.jp.
  6. ^ Spessoto, Toninho. “As 100 Maiores Músicas Brasileiras - "Chega de Saudade"”. Rolling Stone Brasil. Spring. 2021ねん7がつ23にち閲覧えつらん
  7. ^ Bitencourt, Paulo. “What is Bossa Nova?”. bitencourt.net. 2020ねん1がつ6にち閲覧えつらん
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  10. ^ Francesco Adinolfi, Karen Pinkus. Mondo Exotica: Sounds, Visions, Obsessions of the Cocktail Generation. Duke University Press. 2008. p.xi.
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  13. ^ a b 特別とくべつ寄稿きこうだれかなかったはく音楽おんがく交流こうりゅう坂尾さかおえいのり=(10)=日本にっぽんまれわったボサノーヴァ・スター セルジオ・アウグスト, 2022/5/19, ブラジルにちほう.
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  15. ^ マイケル・フランクス「アントニオのうた」がもたらした80年代ねんだいボサノバ歌謡かよう, せトウチミドリ, Re:minder.
  16. ^ THE TAMBORIM

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ルイ・カストロ ちょ / 国安くにやす真奈まな やく『ボサノヴァの歴史れきし』(2008ねん, 音楽之友社おんがくのともしゃ
  • Willie Whopper ちょ音楽おんがくでたどるブラジル』(2014ねん, いろどりりゅうしゃ

関連かんれん項目こうもく

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