ボサノヴァ (Bossa Nova 、ボッサ・ノーヴァ、直訳 ちょくやく :「新 あたら しい傾向 けいこう 」)は、ブラジル音楽 おんがく のジャンルのひとつである。ボッサ (Bossa)と略 りゃく されることもあり、日本 にっぽん ではボサノバ と表記 ひょうき されることも多 おお い。
コルコバード の丘 おか より、リオデジャネイロの風景 ふうけい
映画 えいが 『黒 くろ いオルフェ』(1959年 ねん )
アントニオ・カルロス・ジョビン
ジョアン・ジルベルト (1972年 ねん )
セルジオ・メンデス&ブラジル'66
1950年代 ねんだい 中期 ちゅうき 、リオデジャネイロ に在住 ざいじゅう していた白人 はくじん の若手 わかて ミュージシャンたちによって創始 そうし された[5] 。ボサノヴァ誕生 たんじょう の中心 ちゅうしん となった人物 じんぶつ として、作 さく 編曲 へんきょく 家 か のアントニオ・カルロス・ジョビン (トム・ジョビン)、歌手 かしゅ でギタリストでもあったジョアン・ジルベルト 、ブラジル政府 せいふ の外交 がいこう 官 かん にしてジャーナリスト も兼 か ねた異色 いしょく の詩人 しじん ヴィニシウス・ヂ・モライス らが挙 あ げられる[5] 。
ボサノヴァの誕生 たんじょう には、ナラ・レオン の裕福 ゆうふく な実家 じっか [注 ちゅう 2] の部屋 へや に集 あつ まっていたホベルト・メネスカル 、カルロス・リラ 、ホナルド・ボスコリ (英語 えいご 版 ばん ) といった「若手 わかて 音楽 おんがく 研究 けんきゅう グループ」に、すでに名 な を成 な していたジョビンやジョアン・ジルベルトといった少 すこ し上 じょう の世代 せだい のプロ・ミュージシャンが注目 ちゅうもく し、交流 こうりゅう を始 はじ めたのがきっかけとされる[5] 。彼 かれ らはその多 おお くが、貧富 ひんぷ の格差 かくさ が激 はげ しく識字 しきじ 率 りつ が60%にも満 み たなかった[11] 当時 とうじ のブラジルにおいて、裕福 ゆうふく な中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう に属 ぞく する白人 はくじん であった[3] 。
彼 かれ らはフランス印象派 いんしょうは 音楽 おんがく や当時 とうじ アメリカで一世 いっせい を風靡 ふうび していたジャズ(なかでもウエストコースト・ジャズ )に触発 しょくはつ され[8] 、ブラジルの伝統 でんとう 音楽 おんがく ショーロ やサンバ に都会 とかい 的 てき 洗練 せんれん をもたらすような美的 びてき 再 さい 定義 ていぎ を追求 ついきゅう していた。また、ジョアンが幾 いく 日 にち もバスルームに閉 と じこもってギターを鳴 な らす試行錯誤 しこうさくご の末 すえ 、それまでにないスタイルのギター奏法 そうほう を編 あ み出 だ すことに成功 せいこう したという逸話 いつわ が残 のこ っているが[1] 、その際 さい 、変奏 へんそう 的 てき なジャズや抑制 よくせい された曲調 きょくちょう のサンバであるサンバ・カンサゥン (ポルトガル語 ご 版 ばん ) (1950年 ねん 前後 ぜんご に発展 はってん した)、バイーア州 しゅう 周辺 しゅうへん で発展 はってん した「バチーダ」というギター奏法 そうほう の影響 えいきょう は無視 むし できない。彼 かれ を中心 ちゅうしん とするミュージシャンらの間 あいだ で、1952年 ねん から1957年 ねん 頃 ころ 、ボサノヴァの原型 げんけい が形作 かたちづく られ、発展 はってん したものと見 み られている。
1953年 ねん 、ジョビン作曲 さっきょく 、モライス作詞 さくし による作品 さくひん でジョニー・アルフ (英語 えいご 版 ばん ) が歌 うた った「Rapaz de Bem」(邦題 ほうだい :心 しん 優 やさ しい青年 せいねん )が発表 はっぴょう される。これはジャズに影響 えいきょう された作風 さくふう を持 も っているのが特徴 とくちょう であったが、新 あたら しいブラジル音楽 おんがく 「ボサノヴァ」の誕生 たんじょう を示唆 しさ した。
1958年 ねん 、ジョビン作曲 さっきょく 、モライス作詞 さくし の「Chega de Saudade 」(邦題 ほうだい :想 おも いあふれて)が、当時 とうじ すでに人気 にんき 歌手 かしゅ であったエリゼッチ・カルドーゾ によってレコーディングされる。その際 さい ジョアン・ジルベルトがバックのギターを演奏 えんそう するが、エリゼッチの歌 うた い方 かた はジョビンやジルベルトが目指 めざ す音楽 おんがく とはかけ離 はな れたものであった。そこで同年 どうねん 、ジョビンがレコード会社 かいしゃ を説得 せっとく してジョアン・ジルベルトが歌 うた う同 どう 曲 きょく が録音 ろくおん 、発売 はつばい された。ジョビンによる高度 こうど なハーモニー に裏付 うらづ けられた新 あたら しい感覚 かんかく のサンバと、モライスによる詩的 してき で知的 ちてき な歌詞 かし 、ギターによるサンバ・リズムの演奏 えんそう と微妙 びみょう に間合 まあ いをずらしながら囁 ささや きかけるように歌 うた うジョアンの表現 ひょうげん は、画期的 かっきてき な音楽 おんがく として受 う け止 と められ、ボサノヴァ・ブームの幕開 まくあ けとなる[1] [3] 。
1959年 ねん にセカンド・シングル「Desafinado」(デサフィナード )が発表 はっぴょう されると、その歌詞 かし の中 なか に「これがボサノヴァ」という一節 いっせつ が織 お り込 こ まれ、この曲 きょく を録音 ろくおん したジョアンのファーストアルバムのライナーノーツ で「ジョアン・ジルベルトはバイアーノ(バイーア生 う まれ)、27歳 さい の”bossa-nova”」と紹介 しょうかい された[3] [1] 。これらは「ボサノヴァ」という言葉 ことば が初 はじ めて使 つか われた例 れい で、前者 ぜんしゃ では音楽 おんがく を表現 ひょうげん する上 じょう での姿勢 しせい を、後者 こうしゃ では人物 じんぶつ を表 あらわ す言葉 ことば として使 つか われており、このように当初 とうしょ ボサノヴァとは、音楽 おんがく の形式 けいしき やリズムを表 あらわ す言葉 ことば ではなかったようである[3] 。同 おな じ年 ねん 、リオの大学 だいがく のキャンパスで初 はつ の「ボサノヴァ」と冠 かん された音楽 おんがく フェスティバルが開催 かいさい され、ボサノヴァはリオの若者 わかもの 文化 ぶんか の代名詞 だいめいし となるまでになっていった[1] 。一方 いっぽう で、当時 とうじ はリオやサンパウロ に住 す むヨーロッパ系 けい 移民 いみん など一部 いちぶ の知的 ちてき なファン層 そう にしかその存在 そんざい は知 し られておらず、国内 こくない の大衆 たいしゅう に波及 はきゅう するまでには至 いた らなかった[5] [12] [13] 。
その反面 はんめん 海外 かいがい への浸透 しんとう は早 はや く、同年 どうねん の1959年 ねん には、1957年 ねん にジョビンとモライスが古代 こだい ギリシャ のオルペウス の神話 しんわ を題材 だいざい にして企画 きかく した劇 げき を元 もと にしたブラジル・フランス ・イタリア 合作 がっさく 映画 えいが 『黒 くろ いオルフェ 』(マルセル・カミュ 監督 かんとく )に、ジョビンとルイス・ボンファ (ポルトガル語 ご 版 ばん ) の作曲 さっきょく による「カーニバルの朝 あさ 」をはじめとする多 おお くのボサノヴァが劇 げき 中 ちゅう 曲 きょく として使 つか われ、世界 せかい にその存在 そんざい を知 し らしめた[5] [12] 。なお、この映画 えいが により、サンバ歌手 かしゅ で女優 じょゆう のカルメン・ミランダ が定着 ていちゃく させた「果物 くだもの ハットをかぶって歌 うた って踊 おど るトロピカルなブラジル」というハリウッド 的 てき な先入観 せんにゅうかん も塗 ぬ り替 か えられた[14] 。
1962年 ねん 、ズート・シムズ の『ニュー・ビート・ボサノヴァ Vol.1』や、スタン・ゲッツ の『ジャズ・サンバ (英語 えいご 版 ばん ) 』、クインシー・ジョーンズ の『ビッグバンド・ボサノヴァ (英語 えいご 版 ばん ) 』、ポール・ウィンター の『ジャズ・ミーツ・ザ・ボサノヴァ』、ラムゼイ・ルイス の『ボサ・ノヴァ (英語 えいご 版 ばん ) 』など、ジャズとボサノヴァが融合 ゆうごう したアルバムがアメリカのジャズ奏者 そうしゃ によって立 た て続 つづ けに発表 はっぴょう され、北米 ほくべい でのボサノヴァブームの始 はじ まりを予感 よかん させた[12] 。同年 どうねん 11月 がつ 21日 にち には、カーネギー・ホール でボサノヴァのコンサートが行 おこな われ、ジョアン・ジルベルト、カルロス・リラ 、セルジオ・メンデス 等 ひとし が出演 しゅつえん 、現地 げんち でリーダー作 さく を録音 ろくおん する足 あし がかりとなった[3] 。なおこのコンサートの聴衆 ちょうしゅう の中 なか には、マイルス・デイヴィス やディジー・ガレスピー もいた[14] 。
1963年 ねん には、ジョアン・ジルベルトがアメリカのジャズ・サックス奏者 そうしゃ スタン・ゲッツと共演 きょうえん したボサノヴァ・アルバム『ゲッツ/ジルベルト 』が制作 せいさく され、アメリカで大 だい ヒット[1] 。特 とく にこの中 なか でジョアンの当時 とうじ の妻 つま アストラッド・ジルベルト が英語 えいご 詞 し で歌 うた った「イパネマの娘 むすめ 」は爆発 ばくはつ 的 てき な売 う り上 あ げを記録 きろく し、アメリカの大衆 たいしゅう に「ボサノヴァ」を浸透 しんとう させた[1] 。一方 いっぽう で、ゲッツのジャズ・アドリブパートが大 おお きくフィーチャーされた構成 こうせい であることや、「イパネマの娘 むすめ 」のシングル盤 ばん ではジョアン・ジルベルトのポルトガル語 ご 歌唱 かしょう の部分 ぶぶん がカットされてしまったこともあり、アメリカの大衆 たいしゅう は「ボサノヴァはジャズの一種 いっしゅ でゲッツが創 つく りあげた」「ボサノヴァを代表 だいひょう する歌手 かしゅ はアストラッド」という極端 きょくたん な誤解 ごかい をしてしまったともいう[5] [注 ちゅう 3] 。しかしアストラッド・ジルベルトは、その独特 どくとく な歌唱 かしょう スタイルから聴衆 ちょうしゅう にアピールする力 ちから があり、アメリカでの音楽 おんがく 活動 かつどう のなかで、ボサノヴァとジャズ・スタンダードの橋渡 はしわた し的 てき 存在 そんざい となった。また、ケニー・ドーハム やハンク・モブレー 、バド・シャンク 、ジーン・アモンズ 、ミルト・ジャクソン 、ポール・デスモンド 、ズート・シムズ 、チャーリー・バード (英語 えいご 版 ばん ) 、ハービー・マン らのジャズ・ミュージシャンも、ボサノヴァ・アルバムを発表 はっぴょう している[注 ちゅう 4] 。
このようにして、戦後 せんご における都市 とし 文化 ぶんか の爛熟 らんじゅく 期 き にあったブラジルには、アメリカをはじめとする国外 こくがい での人気 にんき も後押 あとお しして若 わか いアーティストたちが続々 ぞくぞく と輩出 はいしゅつ され、創始 そうし 者 しゃ のジョビンやジョアン・ジルベルトらを離 はな れて拡大 かくだい し多様 たよう 化 か したボサノヴァは、1960年代 ねんだい 初頭 しょとう から中頃 なかごろ にかけて、戦後 せんご の平和 へいわ と経済 けいざい 成長 せいちょう による「ゆとり」を持 も った「時代 じだい の空気 くうき 感 かん 」にマッチし隆盛 りゅうせい を迎 むか えた[3] [5] 。現在 げんざい でも広 ひろ く聴 き かれ歌 うた われているボサノヴァの#著名 ちょめい な曲 きょく の多 おお くは、この時代 じだい にジョビンを中心 ちゅうしん に生 う み出 だ されている。
しかし1964年 ねん 、ブラジルでクーデター が発生 はっせい すると、国内 こくない での様相 ようそう は一変 いっぺん した。カステロ・ブランコ [注 ちゅう 5] によるブラジルの軍事 ぐんじ 独裁 どくさい 政権 せいけん 樹立 じゅりつ と、それに伴 ともな う強圧 きょうあつ 的 てき な体制 たいせい は、「リオの有閑 ゆうかん 階級 かいきゅう のサロン音楽 おんがく 」的 てき な傾向 けいこう のあったボサノヴァを退潮 たいちょう させる要因 よういん となった[3] 。セルジオ・メンデス やカエターノ・ヴェローゾ など決 けっ して少 すく なくないボサノヴァ音楽家 おんがくか たちが、国外 こくがい へ半 はん 亡命 ぼうめい 的 てき な形 かたち で去 さ り、アメリカやフランス等 とう のミュージックシーンに足跡 あしあと を残 のこ した。さらに愛 あい や自然 しぜん を歌 うた う抽象 ちゅうしょう 的 てき ・享楽 きょうらく 的 てき な傾向 けいこう のあったボサノヴァの歌詞 かし も、体制 たいせい 批判 ひはん など政治 せいじ 的 てき な内容 ないよう を含 ふく んだものに変化 へんか したものがバイーア州民 しゅうみん のなかから現 あらわ れはじめ、トロピカリア ・ムーブメントと呼 よ ばれた。これらはボサノヴァのカテゴリーから外 はず してとらえる批評 ひひょう 家 か も多 おお い。軍事 ぐんじ 政権 せいけん は1964年 ねん から1985年 ねん まで、その後 ご 長期間 ちょうきかん に渡 わた ってブラジルを支配 しはい した。
加 くわ えて1960年代 ねんだい 半 なか ば、世界 せかい 的 てき に音楽 おんがく 界 かい を席巻 せっけん していたのはビートルズ をはじめとするロック・ミュージック であった。ブラジルの若者 わかもの の間 あいだ でも、ボサノヴァの都会 とかい 的 てき 洗練 せんれん や知的 ちてき な雰囲気 ふんいき をヨーロッパ白人 はくじん 中心 ちゅうしん 主義 しゅぎ の象徴 しょうちょう とみなし、そのアンチテーゼとしてロックは人気 にんき を集 あつ めはじめていた。1966年 ねん 、セルジオ・メンデス&ブラジル'66 が「マシュ・ケ・ナダ 」のヒットを放 はな った。ポルトガル語 ご の曲 きょく がアメリカでヒットしたのは、きわめて稀 まれ な例 れい であった(前述 ぜんじゅつ の「イパネマの娘 むすめ 」はポルトガル語 ご 歌唱 かしょう 部分 ぶぶん のカットされたものがヒットしている)。「マシュ・ケ・ナダ」は1963年 ねん にジョルジ・ベン によって既 すで に原曲 げんきょく が発表 はっぴょう されており、ブラジル国内 こくない で小規模 しょうきぼ ながらヒットを放 はな っていたが、この曲 きょく はボサノヴァでもあり、ロックのアレンジを含 ふく んだサンバ・ホッキ (英語 えいご 版 ばん ) (Samba Rock)でもあった[3] 。以降 いこう 、ロック・ミュージックおよび電子 でんし 楽器 がっき との融合 ゆうごう が潮流 ちょうりゅう となり、アコースティック楽器 がっき を使用 しよう する正統 せいとう 派 は のボサノヴァは、ブラジル音楽 おんがく のムーブメントから徐々 じょじょ に外 はず れていった。そして1960年代 ねんだい 後半 こうはん に、ボサノヴァやロックの影響 えいきょう を受 う けて「MPB 」(Musica Popular Brasileira )と呼 よ ばれる新 しん ジャンルが生 う まれ、これがブラジル音楽 おんがく の新 あら たな主流 しゅりゅう となった[3] 。
1970年代 ねんだい 以降 いこう は、フレンチ・ボッサ、ボサノヴァ歌謡 かよう (のちにシティ・ポップ )、AOR など、ボサノヴァの要素 ようそ が取 と り入 い れられたポップス がしばしば小 ちい さなムーブメントとして取 と り上 あ げられることになるが[15] 、正統 せいとう 派 は のボサノヴァの人気 にんき も根強 ねづよ くあり、多 おお くのアーティストによって存続 そんぞく されている。また、ボサノヴァに取 と って代 か わる形 かたち で生 う まれたMPBにもボサノヴァ寄 よ りの作品 さくひん が多 おお く含 ふく まれており、後世 こうせい への影響 えいきょう という形 かたち で現在 げんざい もブラジル音楽 おんがく の根幹 こんかん をなす大 おお きな要素 ようそ であり続 つづ けている。加 くわ えて1950年代 ねんだい から60年代 ねんだい に作 つく られたボサノヴァの一部 いちぶ の#著名 ちょめい な曲 きょく は、スタンダード として今 いま もなお世界 せかい 各国 かっこく で聴 き かれ、歌唱 かしょう ・演奏 えんそう の題材 だいざい としても頻繁 ひんぱん に取 と り上 あ げられている。
21世紀 せいき 現在 げんざい 、ボサノヴァは、主 おも に白人 はくじん や日本人 にっぽんじん の中流 ちゅうりゅう 層 そう 以上 いじょう の裕福 ゆうふく な年配 ねんぱい の人々 ひとびと を中心 ちゅうしん に好 この まれる一昔 ひとむかし 前 まえ の音楽 おんがく とみなされたり、カフェ やラウンジ で流 なが れているお洒落 しゃれ な曲 きょく というイメージがある。無論 むろん ブラジル本国 ほんごく においても、若 わか い世代 せだい は欧米 おうべい のロックやポップスを好 この み、あまりボサノヴァは聴 き かれていない。ホベルト・メネスカル によれば、ブラジルでボサノヴァを聴 き く人口 じんこう は段々 だんだん と減少 げんしょう しているため、国内 こくない でボサノヴァの生 なま 演奏 えんそう を聴 き ける場所 ばしょ は、残念 ざんねん ながら今 いま は非常 ひじょう に少 すく ない、と2005年 ねん のインタビューで述 の べている[8] 。またカルロス・リラ も同様 どうよう に、「今 いま 、リオのどこに行 い ったらボサノバを聴 き くことができるかと誰 だれ かに聞 き かれたら、そんなところはどこにもないよと言 い うだろう。ブラジルよりも、日本 にっぽん やヨーロッパでのほうが人気 にんき があるのがボサノバの現状 げんじょう だ」と述 の べている[14] 。さらにリラは、「ボサノヴァは実際 じっさい に外国 がいこく 人 じん 向 む け、エリート向 む けの音楽 おんがく だと言 い われた事 こと もありますが、そうであったとしても何 なに が悪 わる いんでしょう? 実際 じっさい 、ボサノヴァには様々 さまざま な影響 えいきょう が含 ふく まれているので、ある程度 ていど の文化 ぶんか 的 てき 素養 そよう がないと十分 じゅうぶん に楽 たの しむことはできない音楽 おんがく だと思 おも っています」とも述 の べている[8] 。
日本 にっぽん でのボサノヴァ人気 にんき は、ブラジル本国 ほんごく にも知 し られるところである。日本 にっぽん にボサノヴァが入 はい ってきたのは、アメリカと同様 どうよう に1960年代 ねんだい 初期 しょき のことであり、ジャズ人気 にんき に伴 ともな う形 かたち で多 おお くのファンを獲得 かくとく した[5] 。さらにアメリカから帰国 きこく した渡辺 わたなべ 貞夫 さだお による1967年 ねん の『ジャズ&ボッサ』の発表 はっぴょう は、日本 にっぽん におけるボサノヴァ・ブームに火 ひ をつけた[12] 。またソニア・ローザ 、ヴィウマ・ジ・オリヴェイラ や、彼女 かのじょ らを招聘 しょうへい した人物 じんぶつ の娘 むすめ である小野 おの リサ といった、ブラジル出身 しゅっしん アーティストの日本 にっぽん での活躍 かつやく もその人気 にんき を後押 あとお しした。そしてこれとは別 べつ に、1990年 ねん 頃 ごろ からのカフェブームに関 かん し、カフェ店内 てんない で流 なが す音楽 おんがく として、ジャズ等 とう とともにボサノヴァが多 おお く取 と り上 あ げられた。このため日本 にっぽん 国内 こくない でボサ・ノヴァの古 ふる い音源 おんげん がCDでリイシュー(再 さい 発売 はつばい )されることが多 おお く、ブラジルでも日本 にっぽん や欧州 おうしゅう のマーケットを意識 いしき してCDをリリースして輸出 ゆしゅつ することもあり、ブラジル国内 こくない よりも日本 にっぽん の方 ほう が音源 おんげん を入手 にゅうしゅ しやすいという状況 じょうきょう にある。
ブラジル音楽 おんがく 評論 ひょうろん 家 か の大島 おおしま 守 まもる は、「ボサノーヴァはリオで生 う まれ、サンパウロで育 そだ ち、バイアで死 し んで、日本 にっぽん で生 い き返 かえ った」と、ボサノヴァの栄枯盛衰 えいこせいすい を端的 たんてき に表現 ひょうげん した[13] 。
ブラジルの初期 しょき のボサノヴァ・アーティストであるカルロス・リラ は、日本 にっぽん でのボサノヴァ人気 にんき について、「日本 にっぽん で最 もっと もボサノヴァが愛 あい されている理由 りゆう というのは、人々 ひとびと の学歴 がくれき にあるのではないかと思 おも います。ブラジルでは貧富 ひんぷ の差 さ が激 はげ しいですが、日本 にっぽん はそういうことがなく、中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう が多 おお くて、一般 いっぱん 的 てき に学歴 がくれき も高 たか く、文化 ぶんか 的 てき な人 ひと が多 おお いです。ボサノヴァというのは元々 もともと がそういった中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう のリスナーのために作 つく られた音楽 おんがく なので、日本人 にっぽんじん の好 この みにピッタリなのではないでしょうか」と述 の べている[8] 。
「サンバの華 はな やかなリズムに、それと相対 あいたい するようなソフトな歌声 うたごえ 」「黒人 こくじん らによる土着 どちゃく 的 てき な民族 みんぞく 音楽 おんがく と、白人 はくじん らによる外来 がいらい 的 てき な西洋 せいよう 音楽 おんがく 」「牧歌 ぼっか 的 てき な音色 ねいろ を奏 かな でるクラシックギター と、ジャズに影響 えいきょう された都会 とかい 的 てき な音色 ねいろ を奏 かな でるピアノ やサックス 」など、その音楽 おんがく 的 てき な二 に 面 めん 性 せい が大 おお きな特色 とくしょく である。
ボサノヴァ誕生 たんじょう の地 ち であるリオデジャネイロ の「海 うみ と山 やま に囲 かこ まれた自然 しぜん 豊 ゆた かな都会 とかい 」という地理 ちり 的 てき 特性 とくせい からも醸 かも し出 だ される、そのラテン 的 てき なくつろいだイメージと都会 とかい 的 てき 洗練 せんれん が混在 こんざい した独特 どくとく の雰囲気 ふんいき は、夏 なつ のリゾート地 ち やカフェ 、ラウンジ などを連想 れんそう させた[注 ちゅう 6] 。
なお、ボサノヴァをはじめ、ブラジルのポピュラー音楽 おんがく であるサンバ 、ショーロ 、MPB 、トロピカリア 、ノルデスチ などは、それぞれ厳密 げんみつ なジャンル分 わ けが存在 そんざい するわけではなく、特徴 とくちょう 的 てき に重 かさ なる部分 ぶぶん が多 おお いことには留意 りゅうい である(後年 こうねん になってジャンルレスになっていった面 めん も大 おお きい)。
ギター
ギターの弾 ひ き語 がた りをするジョアン・ジルベルト
ボサノヴァにおける重要 じゅうよう な楽器 がっき として、ナイロン弦 つる のクラシック・ギター (ブラジルではヴィオラゥン Violão と呼 よ ぶ)がある。ギターはピックを使 つか わず、指 ゆび で奏 かな でる。そのもっとも基本 きほん 的 てき なフォームは、ジョアン・ジルベルトが示 しめ したような、ギターとボーカルだけの演奏 えんそう においてよく見 み ることができる。グループ演奏 えんそう でのジャズ的 てき なアレンジメント(編曲 へんきょく )においても、ギターが潜在 せんざい 的 てき にビートを鳴 な らすのが特徴 とくちょう 的 てき である。ただしギターを用 もち いず、後述 こうじゅつ するドラム・ビートだけでそのリズムを表現 ひょうげん することもある。ジョアンに代表 だいひょう されるように、ボサノヴァにおけるヴィオラゥンの基本 きほん 的 てき なリズムは、親指 おやゆび がサンバ の基本 きほん 的 てき な楽器 がっき であるスルド のテンポを一定 いってい に刻 きざ み、他 た の指 ゆび はタンボリン [16] のシンコペーションのリズムを刻 きざ む。このボサノヴァ独特 どくとく のギター奏法 そうほう は、叩 はた き合 あ わせる、またミックスするという意味 いみ を持 も つ「バチーダ」と呼 よ ばれる。
ピアノ
ピアノの弾 ひ き語 がた りをするA.C.ジョビンの孫 まご 、ダニエル・ジョビン (ポルトガル語 ご 版 ばん )
ギターほどではないが、ピアノ もボサノヴァにとって重要 じゅうよう な楽器 がっき である。ジョビンはピアノのための曲 きょく をよく書 か き、彼 かれ のレコードにおいて彼 かれ 自身 じしん がピアノを弾 ひ いてレコーディングした。このピアノはまた、ジャズとボサノヴァをつなぐ架 か け橋 はし としても用 もち いられ、ピアノのおかげで、この2つのジャンルが相互 そうご に影響 えいきょう を及 およ ぼす結果 けっか となったと言 い える。演奏 えんそう には、ジョビンの影響 えいきょう から、印象 いんしょう 主義 しゅぎ 的 てき な和音 わおん が好 この まれ、優美 ゆうび な印象 いんしょう を与 あた えた。
打楽器 だがっき
ドラム とパーカッション は、ボサノヴァにおいて本質 ほんしつ 的 てき な要素 ようそ の楽器 がっき ではない(そして事実 じじつ として、なるべくパーカッションをそぎ落 お とそうと考 かんが えていた制作 せいさく 者 しゃ もいた)が、ボサノヴァには独特 どくとく のドラム・パターン およびスタイル(バックビート )が確立 かくりつ した。これは8分 ふん 音符 おんぷ のハイハットの連打 れんだ と、リム・ショットによって特徴 とくちょう づけられている。これはサンバのタンボリン のリズムであり、リムはテレコ・テコを代用 だいよう した音 おと である。
その他 た の楽器 がっき
フルートを吹 ふ くA.C.ジョビン
フルート はショーロから引 ひ き継 つ がれ、伴奏 ばんそう やソロなどで幅広 はばひろ く使用 しよう されている。ベース は、ソロパートが設 もう けられることが少 すく ないため認知 にんち されにくいが、基本 きほん 的 てき に多 おお くの場合 ばあい で編成 へんせい に参加 さんか している。またサックス やトランペット 、ハーモニカ などは、ジャズから導入 どうにゅう されており、奏者 そうしゃ もボサノヴァやブラジル音楽 おんがく 専 せん 門 もん ではなく、ジャズ畑 はたけ の者 もの が多 おお い。近年 きんねん ではチェロ も使用 しよう される例 れい が見 み られる。電子 でんし 楽器 がっき も少 すく なからず使用 しよう されているが、MPBとジャンル的 てき に重 かさ なる部分 ぶぶん がある。
ストリングス
「ボサノヴァにはオーケストラ (ストリングス )の伴奏 ばんそう が用 もち いられる」というのが、"エレベータ・ミュージック"や"ラウンジ・ミュージック "などといった、北 きた アメリカ的 てき なボサノヴァのイメージである。しかし、ジョビンの録音 ろくおん でそういったオーケストラ・サウンドを耳 みみ にすることはあっても、それ以外 いがい の多 おお くのボサノヴァではあまり聴 き かれない。ジョビンによる録音 ろくおん の知名度 ちめいど の高 たか さから、このような誤解 ごかい が生 う まれたと考 かんが えられる。なおジョビン自身 じしん は、ボサノヴァの可能 かのう 性 せい を広 ひろ げるために、編曲 へんきょく の一 いち 手法 しゅほう として、オーケストラを導入 どうにゅう していた。
ヴォーカル
声 こえ を張 は らない囁 ささや くような歌声 うたごえ が、一般 いっぱん 的 てき に多 おお く見 み られる特徴 とくちょう であり、サウダージ の表現 ひょうげん として捉 とら えられる。この歌唱 かしょう 法 ほう は一説 いっせつ に、ジョアン・ジルベルトが、ジャズミュージシャンのチェット・ベイカー の歌声 うたごえ から着想 ちゃくそう を得 え て、生 う み出 だ したとも言 い われている。また、ビング・クロスビー やフランク・シナトラ に代表 だいひょう される「クルーナー唱法」の影響 えいきょう も指摘 してき されている[5] 。ジャズと同様 どうよう にスキャット も多用 たよう される。またソロのほか、コーラス も一般 いっぱん 的 てき である。歌詞 かし は、ヴィニシウス・ヂ・モライスに代表 だいひょう されるように、詩的 してき ・情緒 じょうちょ 的 てき な表現 ひょうげん や言葉 ことば 遊 あそ び が多 おお く、知的 ちてき な印象 いんしょう を与 あた えた。ポルトガル語 ご のエキゾチックな響 ひび きも他国 たこく の人々 ひとびと を魅了 みりょう した。また歌詞 かし に2番 ばん 、3番 ばん があることは少 すく なく、アドリブや編曲 へんきょく を除 のぞ くと1分 ふん 以内 いない で歌 うた い終 お わるほど短 みじか い歌詞 かし も少 すく なくない。
国際 こくさい 的 てき に有名 ゆうめい な楽曲 がっきょく のみ少数 しょうすう 列挙 れっきょ する。これらはボサノヴァにおける定番 ていばん として、数 すう 多 おお くのアーティストに演奏 えんそう されている。
別 べつ ジャンルの楽曲 がっきょく として有名 ゆうめい なもののなかで、ボサノヴァが取 と り入 い れられているものを列挙 れっきょ する。
^ 実際 じっさい に、ジェット機 じぇっとき がリオの空港 くうこう に降 お り立 た つ様子 ようす を描写 びょうしゃ した「ジェット機 じぇっとき のサンバ」(原題 げんだい :Samba do Avião)という曲 きょく も作 つく られている。
^ 数 すう 名 めい の家政 かせい 婦 ふ を抱 かか え、バスルームが5つもあるほどの大 だい 邸宅 ていたく であったという。
^ 以後 いご の一時期 いちじき 、アメリカではボサノヴァ・ナンバーに英語 えいご 詞 し を付 つ けたものが、ポピュラー歌手 かしゅ によって盛 さか んに歌 うた われた。だが、その実状 じつじょう は多分 たぶん にエキゾチシズム を帯 お びた一過 いっか 的 てき なものとして消費 しょうひ された感 かん も強 つよ かった。
^ 彼 かれ らはボサノヴァだけでなく、メンフィス・ソウルやディスコなど、流行 りゅうこう のサウンドをいち早 はや く取 と り入 い れたアルバムを発表 はっぴょう した。
^ 67年 ねん に辞任 じにん 、同年 どうねん に事故死 じこし している。
^ ただし制作 せいさく 者 しゃ の意図 いと と関係 かんけい なく、その雰囲気 ふんいき のみがフィーチャーされることも多 おお く、お洒落 しゃれ なBGM として、ジャズと同様 どうよう かそれ以上 いじょう に商業 しょうぎょう 主義 しゅぎ 的 てき な大量 たいりょう 消費 しょうひ 音楽 おんがく の扱 あつか いを受 う けることもある。
^ 「あなたがいたから」「あなた故 ゆえ に」などの邦題 ほうだい 表記 ひょうき もある。
^ a b c d e f g ボサノヴァ生誕 せいたん 60周年 しゅうねん !本格 ほんかく ボサノヴァをフルートで演奏 えんそう しよう! , アルソ出版 しゅっぱん .
^ 『地球 ちきゅう の歩 ある き方 かた : ブラジル・ベネズエラ 2018~2019』(2021年 ねん 、地球 ちきゅう の歩 ある き方 かた ), 104頁 ぺーじ .
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ルイ・カストロ 著 ちょ / 国安 くにやす 真奈 まな 訳 やく 『ボサノヴァの歴史 れきし 』(2008年 ねん , 音楽之友社 おんがくのともしゃ )
Willie Whopper 著 ちょ 『音楽 おんがく でたどるブラジル』(2014年 ねん , 彩 いろどり 流 りゅう 社 しゃ )
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