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サンバ (ブラジル) - Wikipedia

サンバSamba)は、ブラジル代表だいひょうてき音楽おんがくブラジル音楽おんがく)のひとつである。ブラジルでは毎年まいとし12がつ2にちサンバのさだめられており、この翌年よくねん2がつ前後ぜんこうおこなわれるサンバカーニバルきょくしゅう発表はっぴょうされるほかにも、おおくのイベントも開催かいさいされる

サンバ
様式ようしきてき起源きげん
文化ぶんかてき起源きげん 17世紀せいき– 20世紀せいきリオデジャネイロ、ブラジル
使用しよう楽器がっき
サブジャンル
融合ゆうごうジャンル
関連かんれん項目こうもく
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サンバ・カーニバルいちれい
サンバ・カーニバルいちれい

概要がいよう

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西洋せいよう音楽おんがくける音楽おんがく理論りろん拍子ひょうしという概念がいねんでサンバという音楽おんがく解釈かいしゃくすると、4ぶんの2拍子ひょうしとなる。ダンス音楽おんがくであり、19世紀せいきわりごろ、ブラジル北東ほくとう港町みなとちょうバイーア現在げんざいのサルバドール)でまれた音楽おんがくがサンバの源流げんりゅうとなった。当時とうじのバイーアは、奴隷どれい貿易ぼうえきによってアフリカかられてきたられた黒人こくじん荷揚にあげされて保管ほかん販売はんばいされた場所ばしょであり、源流げんりゅうとなった音楽おんがくかれらのあいだ誕生たんじょうしたとわれている。[1]

そのリオ・デ・ジャネイロ以下いかリオ)において、バイーアから移住いじゅうしたアフリカけい黒人こくじん奴隷どれい労働ろうどうしゃたちがんだ、Batucada[2]バトゥカーダ、アフリカ音楽おんがく影響えいきょうけたブラジルの打楽器だがっきのみの構成こうせいによるサンバ)などの音楽おんがくをもとに、ショーロルンドゥーなどの要素ようそがとりこまれ[3]、1910年代ねんだいにサンバという音楽おんがく確立かくりつ[4]、1930年代ねんだい普及ふきゅう隆盛りゅうせいむか[5]、ブラジルを代表だいひょうする音楽おんがくジャンルとなった。結果けっかとして、黒人こくじんたちのんだアフリカの宗教しゅうきょうてき民俗みんぞく舞曲ぶきょくと、ポルカマズルカといったヨーロッパ舞曲ぶきょくなど様々さまざま要素ようそざりったものである。したがって、サンバがアフリカけい音楽おんがくだとするせつ一般いっぱんてきおおいが、これには異論いろんおおい。

また、ラテン音楽おんがくひとつに分類ぶんるいされるものの、ブラジルは中南米ちゅうなんべい唯一ゆいいつポルトガル公用こうようとするくにであり、また使用しようする楽器がっきサルサマンボなどのラテン音楽おんがく楽器がっきとはことなるものがおおいので、正確せいかくにはラテン音楽おんがくにははいらないという意見いけんもある。

もともとは黒人こくじん中心ちゅうしんとする「奴隷どれい労働ろうどうしゃ階級かいきゅう音楽おんがく」ゆえに、うたわれる内容ないようといえば、生活せいかつそのものを題材だいざいとしたもの、人種じんしゅ差別さべつ政治せいじ体制たいせいへの批判ひはんなどが中心ちゅうしんであったが、のち白人はくじん中心ちゅうしん比較的ひかくてきおだやかなリズムで叙情じょじょうてき内容ないよううたわれる、Samba Canção(サンバ・カンサゥン)などもまれた。この時期じきにはサンバ・カンサゥンの女王じょおうばれるだい歌手かしゅであるエリゼッチ・カルドーゾあらわれている[3]。サンバ・カンサゥンはさらに発展はってんし、1950年代ねんだい後半こうはんから1960年代ねんだい前半ぜんはんには、アメリカ音楽おんがくなどの影響えいきょうけた中産ちゅうさん階級かいきゅう若者わかものたちを中心ちゅうしんに、リズムをさらにシンプルにし、叙情じょじょうてき歌詞かしをのせてうたサンバ・ボサノヴァ (Samba Bossa Nova)が成立せいりつ[6]流行りゅうこうをみせた。また1960年代ねんだいから1970年代ねんだいにかけては、リオデジャネイロの黒人こくじん文化ぶんかだったモーホのサンバがさい発見はっけんされ、受入うけいれられていった[3]1980年代ねんだいには、すうにん編成へんせい演奏えんそうするスタイルPagode(パゴーヂ)が成立せいりつだい規模きぼカルナヴァル(カーニバル)のサンバにたいして、パゴーヂの個人こじんパーティーてき周囲しゅういみなとも合唱がっしょうできる気軽きがるさがけ、だい流行りゅうこうしている。

なお、サンバは多岐たきにわたり、こまかいものをふくめるとリズムやスタイルは100をえるといわれ、それぞれに名称めいしょうがつけられている。

ダンスとしてのサンバ

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女性じょせいダンサー

上記じょうきとおり、サンバは17世紀せいきに、バイーアにんでいたアフリカじん奴隷どれいおどりがもととなっている。その楽器がっき音楽おんがくだけでなく言語げんご特定とくてい形式けいしきといったポルトガルの文化ぶんかてき要素ようそ融合ゆうごうし、リズムやおどかた変化へんかした。音楽おんがく演奏えんそうしながらまわりではたきながらつくっておどり、交代こうたいひとなかはいっておどる。これをSamba de Roda[7]サンバ・ジ・ホーダ、サンバの)といい、アフリカけいブラジルじん地域ちいきてき大衆たいしゅう文化ぶんか一大いちだい要素ようそへと発展はってんした。バイーアからリオへ人々ひとびと移住いじゅうするとともに、サンバ・ジ・ホーダは、20世紀せいきのブラジルの国家こっかてきアイデンティティーの最大さいだいのシンボルとなった都会とかいのサンバの進化しんかにも影響えいきょうあたえた。

サンバのおどかたあしこしうごきを基本きほんとし、ほとんど即興そっきょうである。Bantu(バントゥーけい民族みんぞく)の影響えいきょうであるUmbigada(ウンビガーダ)とばれる、へそをくっつけあうようなおどりがサンバのルーツのひとつとわれる。またサンバ・ジ・ホーダにはMiudinho(ミウジーニョ)という男性だんせいこまかくステップを独特どくとくおどりもある。これらがショーロやルンドゥーなどとざりい、現在げんざいのサンバと発展はってんしてきた。

したがって、現在げんざいのサンバショーにおけるけ(コレオグラフィー)は現代げんだいてきかつ欧米おうべいのダンスショーの形式けいしきれたもので、あくまでもサンバは基本きほんてき即興そっきょうおどりが中心ちゅうしんで、またその醍醐味だいごみであるとされる。したがってサンバパレードにおけるダンスはサンバ・ノ・ペという、いわゆるサンバステップをもとに様々さまざまなバリエーションを個人こじん個人こじん表現ひょうげんすることが本来ほんらいのサンバのダンスといわれている。なお、サンバパレードにおけるサンバステップにけたソロダンサーは、Passista(パシスタ)といわれる。

また、サンバはカルナヴァルだけでなく、サロンやダンスホールでおこなわれるペアダンスもある。ただしおなじペアダンスでも、社交しゃこうダンス競技きょうぎダンスのサンバとはまったくことなる。なお、ブラジルにおけるサンバのペアダンスは、Samba de Gafieira(日本にっぽんでの略称りゃくしょうはガフィエイラ、ガフィエラ、ブラジル本国ほんごくではサンバ)といわれる。また日本にっぽんでの愛好あいこうおおい。

カーニバルのサンバ

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ブラジルのかく都市としおこなわれるカルナヴァルでは、毎年まいとし、Escola de Samba(エスコーラ・ジ・サンバりゃくしてエスコーラ)というチーム単位たんい順位じゅんい優勝ゆうしょうきそ[8]

かくエスコーラは、カルナヴァルがおわるとすぐに翌年よくねんのテーマ(エンヘード=物語ものがたり)をめ、それにってシノープス(台本だいほん)がつくられ、きょく歌詞かし作成さくせいおこない、どのきょく相応ふさわしいかエスコーラないでコンテストして、それが決定けっていするとカルナヴァレスコ(パレードの総合そうごう監督かんとく舞台ぶたい監督かんとくのようなひとやチーム)によってアーラ(グループダンス)やアレゴリア(山車だし)のかずめ、それらのファンタジア(衣装いしょう)などをデザインする[9]きょく決定けっていすると、クアドラという練習れんしゅう会場かいじょうで、Bateria(バテリーア日本にっぽんではバテリアとも)という打楽器だがっきたいによって練習れんしゅうかえされ、そこでダンスも練習れんしゅうする。

毎年まいとし、これによってサンバ・パレードひろげられ、パレードの審査しんさおこなうコンテストによって順位じゅんい決定けっていされる[10]なかにはすうせんにん参加さんかするエスコーラも存在そんざいする。これは競争きょうそう社会しゃかいのピラミッド構造こうぞうとなっており、うえからグルーポ・エスペシアゥ(特別とくべつグループ)、グルーポA~Dとつづく。サッカーおなじくそのグループで最下位さいかいとなれば翌年よくねん下位かいのグループに格下かくさげとなる[8]。そのかわりに下位かいのグループで優勝ゆうしょうすれば翌年よくねん上位じょういのグループに昇格しょうかくしそこでまたきそうことになる。これらのだい規模きぼなパレードはかつてはその都市としのメインストリートでおこなわれていたのだが、1983ねんにリオデジャネイロにおいてサンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイ建設けんせつされて以降いこう大都市だいとしでは次々つぎつぎ専用せんようスタジアムであるサンボードロモ建設けんせつされ、ここでパレードがおこなわれることとなった[11]

なおエスコーラ・ジ・サンバとは、直訳ちょくやくすればサンバの学校がっこうという意味いみだが、もともと学校がっこうちかくではじめたということから、洒落しゃれでつけられたものである。もちろん指導しどうしゃ存在そんざいするが、先生せんせい生徒せいと存在そんざいするわけではなく、先生せんせい生徒せいとおしえるという性格せいかく学校がっこう教室きょうしつなどとはことなる。どちらかというと地域ちいきざしたリクリエーション団体だんたいという性格せいかくつよい。したがって近年きんねんではGrêmio Recreativo Escola de Samba(グレーミオ・ヘクヘアーチヴォ・エスコーラ・ジ・サンバ(略称りゃくしょう:G.R.E.S.)という。

ただし、近年きんねんのカーニバルはあまりにも観光かんこうてき商業しょうぎょうてきになり、またエスコーラが麻薬まやく賭博とばくなど犯罪はんざい組織そしき温床おんしょうともなっていることなどから、エスコーラからはなれたり、また距離きょりをおくサンバのミュージシャンもおおい。そのようなむかしのサンバをひとは「むかしのサンバはよかった」というのが口癖くちぐせとなっている。またそれらの人々ひとびとはエスコーラなどの組織そしきはなれて、それより比較的ひかくてき自由じゆうブロコ・カルナヴァレスコ略称りゃくしょう:B.C.ブロコはブロック、つまりかたまりりの、カルナヴァレスコはカーニバルがきなひとなどとやくす)を結成けっせいしたりうつひともいる。ブロコはエスコーラのようなコンテストとは無縁むえんなのでサンボードロモではパレードせず、リオ・ブランコどおりなどまちちゅうでパレードし、比較的ひかくてき庶民しょみんてき地元じもと密着みっちゃくしているのが特徴とくちょうてきである。しかしブロコといっても人数にんずうてきにはエスコーラのようにすうせんにん規模きぼのものもあり、またモノブロコやシンパチアといった有名ゆうめいなブロコには外国がいこくじん参加さんかおおい。

サンバはまずしい黒人こくじんのもの、という偏見へんけんもある。この傾向けいこう日系にっけいブラジルじん一世いっせいとくおおいといわれる。またブラジルじんなかにもサンバが苦手にがてひと興味きょうみのないひとおおく、そういうひとたちは、カーニバルの時期じきになると喧噪けんそうからはなれるようにリゾートくこともおお[12]

また、サンバをやっているひと総称そうしょうしてSambista(サンビスタ)というが、日本にっぽんではサンバチームで活動かつどうしているひと中心ちゅうしんに、なんらかのかたちでサンバにかかわっているひとすべてをそう場合ばあいがある。つまりサンバはやっているがサンバのきょく演奏えんそう方法ほうほうちがい、またバテリアの構成こうせい人数にんずう編成へんせいなどをらないひとをも広義こうぎでサンビスタとぶこともおおい。しかしこれは適切てきせつではない。あくまでもサンバがきできでたまらず、サンバについてよく理解りかいし、損得そんとく勘定かんじょう関係かんけいなく身体しんたいずいからサンバがみこんでいるようなひとのみをして、Sambistaとぶのがただしいとされる。これにたいきむためにサンバをやっているひとや、サンバをよくらないのにサンバをやっているひとをSambeiro(サンベイロ)と卑下ひげする場合ばあいもある。

サンバの背景はいけい歴史れきし

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移民いみん奴隷どれい

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1500ねんにポルトガルによってブラジルが“発見はっけん”されて以降いこう、ポルトガルはアフリカ西海岸にしかいがん中継ちゅうけいとし、アンゴラベニンコンゴモザンビーク植民しょくみんとし、そうした種族しゅぞくことなるアフリカじん奴隷どれいをブラジルにれてった。当時とうじブラジルは開発かいはつであったため、そうした奴隷どれい労働ろうどうりょくほっしていた。したがっておなじアフリカじんでも言語げんご習慣しゅうかんことなった種族しゅぞくがブラジルで出会であった。当初とうしょかれらのある部族ぶぞくちが部族ぶぞくをポルトガルじんに“った”こともある。また当時とうじちが部族ぶぞく同士どうし敵対てきたいするなどもあった。

なお、1815ねんにはウィーン会議かいぎで、ようやく奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんし決定けっていがされたが、奴隷どれい制度せいどそのものを廃止はいししたわけではなかった。

アフロ・ブラジレイロ文化ぶんか開花かいか

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1700ねん当時とうじには“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”とばれる、奴隷どれいたち娯楽ごらく音楽おんがくがすでにあったと記録きろくされている。このころから次第しだいちが部族ぶぞく同士どうしポルトガル強要きょうようされ、また生活せいかつともにすることから、その対立たいりつ融和ゆうわされていった。

アンゴラの奴隷どれい中心ちゅうしんとしてカポエイラされたが、当初とうしょ“タンボール”という楽器がっきだけだったが、“アタバキ”、“ビリンバウ”、“パンデイロ”(アラブ起源きげんといわれる)、“アゴゴ”、“ヘコヘコ”などがくわわり、リズムのはばゆたかになった。

また、“ジョンゴ”、“マクレレ”、“タンボール・ジ・クリオゥラ”、“マシーシ”、そして“ルンドゥー”や“バトゥーキ”がされていった。ルンドゥーは、もとは白人はくじん庭先にわさき舞踏ぶとうかいけをおどっていたものを黒人こくじん真似まねしたが、黒人こくじん場合ばあいはもっと優雅ゆうがにゆっくりとおどるのが特徴とくちょうであった。打楽器だがっき演奏えんそうであるバトゥーキにあわせてダンスするときに“ウンビガーダ”(ヘソおどり)といい、ヘソをくっつけあうようにはらをあわせておどった。しかし、これをたカトリック影響えいきょうにある白人はくじんたちにより、ウンビガーダはエロティックだとしておどるのを禁止きんしされてしまった。

なお、サンバはリオにかぎらずほか都市としでも息吹いぶいていた。サンパウロではピラポーラ地区ちくをはじめとして“コンガーダ”や“バトゥーキ”といった多様たようなリズムがまれた。サンバはそれぞれの地域ちいきことなるスタイルがまれていた。

サンバの誕生たんじょうとカルナヴァル

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“Samba”という名称めいしょうはじめてあきらかになったのは、1838ねんカトリック教会きょうかいのLopes Gama神父しんぷが“Samba d'almocreve”としょうして、奴隷どれい文化ぶんかとして新聞しんぶん紹介しょうかいしたことによるものである。神父しんぷ黒人こくじん文化ぶんかだけでなくポルカワルツ、ルンドゥー・カンサゥンといった白人はくじん文化ぶんか紹介しょうかいしている。

当時とうじ黒人こくじんたちはウンビガーダが禁止きんしされたことで、名称めいしょうをサンバとえただけで、そのおどりのスタイルもほとんどおなじでつづけていたという。このころのサンバはアフロ文化ぶんかづいたもので、現在げんざいのように洗練せんれんされたものでなかった。この神父しんぷのレポートによっておおくの民俗みんぞく学者がくしゃ注目ちゅうもく、これらは今日きょうでも論文ろんぶん調査ちょうさ報告ほうこくとなってのこっている。時代じだいると、サンバは多様たようし、“サンバ・ルラゥ”、“サンバ・ジ・ホーダ”、“サンバ・ドゥーロ”、“サンバ・レンソ”などおおくのリズムやスタイルが細分さいぶんしていった。

カルナヴァル(カーニバル)は、ブラジルでもポルトガルじんによっておこなわれた。ドン・ペドロ2せい参加さんかしていたという。ただし当時とうじのカルナヴァルは、カトリックによって粛々しゅくしゅくおこなわれるというイメージとははんし、宮殿きゅうでんないみずうなどといった乱痴気騒らんちきさわぎにちかまつりであったと記録きろくされている。みず悪霊あくりょう災禍さいかはらうという意味いみをもっていたためとされる。また一般いっぱん市民しみん路上ろじょうで、みずだけでなくはい小麦粉こむぎこなどもかけい、ルールもなにもなかった。したがってときとして喧嘩けんか発展はってんすることも往々おうおうにしてあった。しかしそれものちレモン水れもんすい香料こうりょうれたみずをかけるようになっていった。このように、カルナヴァルでは人種じんしゅ年齢ねんれいなど関係かんけいなくすべての人々ひとびとたのしんだ。

1763ねんにブラジルはサルヴァドールバイーア)からリオデジャネイロ以下いかリオと表記ひょうき)へ遷都せんと次第しだいにリオへ奴隷どれい流入りゅうにゅうされる。1800年代ねんだいになると、カルナヴァルのシンボルとして“Rei Momo”(ヘイ・モモ、カーニバル王国おうこく王様おうさま)が誕生たんじょう。1850ねんに“ゼー・ペレイラ”というカルナヴァル伝説でんせつおとこ誕生たんじょう、ブロコ・コルドンィスといったグループがかれたたえて行進こうしんした。しかし当時とうじはまだことなる人種じんしゅ同士どうし一緒いっしょにパレードすることはなかったといわれる。また、このころには“タンボール”や“ボンボ”、“ザブンバ”といった楽器がっき使つかってパレードをおこなうようになる。

1888ねんには奴隷どれい制度せいど全廃ぜんぱい。1902ねんにリオの都市とし整備せいび計画けいかく実行じっこうされ、バイーアはじめペルナンブーコなど各地かくちにいた奴隷どれいたちがリオ市内しない移住いじゅうしはじめる。また現在げんざいファヴェーラであるモーホ(おか)とばれる居住きょじゅう形成けいせいされていった。

バイアーナとドンガ

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バイーア出身しゅっしん女性じょせいおもにおばさん)をバイアーナといい、現在げんざいカルナヴァルでのエスコーラのパレードには、バイアーナスというグループ隊列たいれつ存在そんざい必須ひっす条件じょうけんとなっている。これはサンバのルーツをあらわしていることに由来ゆらいする。またエスコーラのなかでもバイアーナたちは非常ひじょう重要じゅうようなポジションである(なお、エスコーラについてはエスコーラ参照さんしょうされたい)。

なぜならば、バイアーナは“サンバのはは”といわれる存在そんざいであり、サンバをした存在そんざいとされているからである。彼女かのじょたちは“Tia”(おばさん)とばれ、彼女かのじょたちが自宅じたくでパーティーをひらき、おおくのひとたちをもてなした。なかでも有名ゆうめいなのは“チア・シアータ”で、彼女かのじょいえにはジョアン・ダ・バイアーナ、エイトール・ドス・プラゼーレス、ピシンギーニャ、シニョー、そしてドンガといった、現在げんざいのサンバやショーロのルーツをきずいたとされる人物じんぶつあつまっていた[13]

当時とうじ、シニョーはボヘミアンだったが白人はくじん英才えいさい教育きょういくけていたためか、参加さんかしゃすこことなり、エイトールやピシンギーニャ、またドンガを皮肉ひにくったり、あきらかに容姿ようしなどを軽蔑けいべつしたきょくつくってカルナヴァルで発表はっぴょうした。またかれらもかえかたなでシニョーを批判ひはんするきょくつくった。エイトールはかれ自作じさくきょく盗作とうさくしたとして非難ひなんしたりしている。またイズマエル・シルヴァは「ドンガのきょくはサンバじゃなくマルシャだ」とうと、ドンガも「イズマエルのきょくはサンバじゃない」と批判ひはんした。イズマエルはカルトーラと不仲ふなかだったこともつたえられている。このように当時とうじ個人こじん攻撃こうげき対立たいりつがそのエネルギーとなりきょくづくりをきそっていた。シニョーはおおくのライバルを批判ひはんしたが、のちに政府せいふ検閲けんえつ制度せいど批判ひはん警察けいさつわれることにもなった。現在げんざいサンバは政府せいふ社会しゃかい批判ひはんするいちめんおおっているが、もとをたどれば、この当時とうじにその源流げんりゅう垣間見かいまみることができる。

このころのカルナヴァルでは、まだサンバは主流しゅりゅうではなく、“マルシャ”や“マルシャ・ハンショ”などすうおおくのスタイルが乱雑らんざつ存在そんざいした。なかでもマルシャはおおくの作曲さっきょくによる佳作かさくのこされている。またドンガもシアータおばさんのいえ出入でいりしていた。一般いっぱんてき最初さいしょのサンバといわれる作品さくひんは、1916ねん12月16にち登録とうろく1917ねん発売はつばいのドンガ&マウロ・ジ・アルメイダさくペロ・テレフォーニ”(“電話でんわで”の)といわれる。これには異論いろんもある。

これに先立さきだ1911ねんインストではあるが、“Em Casa da Baiana”が“Samba Partido Alto”という名目めいもく発売はつばいされているほか、1912ねんに“Descascando o Pessoal”、1913ねんにはバイーア出身しゅっしん歌手かしゅジュリア・マルチンスによる“Viola Esta Magoada”、1914ねんに“Urubu Malandro”、1915ねんに“Samba”という名目めいもくでレコードが発売はつばいされていることによる。

またドンガの“電話でんわで”が公式こうしきのサンバとされるまでに紆余曲折うよきょくせつがあった。当時とうじ著作ちょさくけん認識にんしきがまったくないため、ドンガは国営こくえい図書館としょかん譜面ふめん登録とうろくしたさいにサインをしなかった。しかしこのきょくがラジオでながれてヒットすると、べつ作曲さっきょく自作じさくきょくだと主張しゅちょうした。いまでは、実際じっさいにはおおくのひとくわえられて出来上できあがったきょくだとかんがえられている。しかし当時とうじ周囲しゅういひとたちがドンガを支持しじ。チア・シアータもかれからそのきょくかされたとして証言しょうげんした。そしてドンガがくなったのちにドンガさくであるとみとめられた。

カルナヴァルの集団しゅうだん

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1920ねん、それぞれのCordaõ(コルダォン、あつまり・グループ)がおおきくなったことで、それぞれBloco(ブロコ、英語えいごのブロック)と呼称こしょうするようになった。1928ねんにイズマエル・シルヴァやビジ、ニウトン・バストス、アルマンド・マルサルなどによって最初さいしょエスコーラ・ジ・サンバ、デイシャ・ファラール(わせておけ)が創立そうりつされる。このころより隣接りんせつする地区ちく同士どうしのブロコなどが大同団結だいどうだんけつし、次々つぎつぎとエスコーラがまれていった。

普及ふきゅう国民こくみん音楽おんがく

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1920年代ねんだいはいると、ブラジルで文化ぶんかてきなナショナリズムが勃興ぼっこうし、社会しゃかい上層じょうそうのエリートや文化ぶんかじんたちが自国じこく大衆たいしゅう文化ぶんか重視じゅうしする傾向けいこうつよまって、それまで地方ちほう社会しゃかい下層かそう演奏えんそうされていた音楽おんがく社会しゃかい全体ぜんたいれられるようになった[14]1930ねん革命かくめいポルトガルばんによって政権せいけんにぎったジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスはこのながれを推進すいしんし、国民こくみん文化ぶんか創出そうしゅつちからそそいだ。さらにこの時期じきにはヴァルガスの後押あとおしによってラジオ急速きゅうそく普及ふきゅうし、レコード産業さんぎょうもリオデジャネイロでおおきく成長せいちょうした。こうしたなかで、それまで首都しゅとリオデジャネイロでおもたのしまれていたサンバが、地元じもと基盤きばんくレコード会社かいしゃとラジオきょくによって全国ぜんこく素早すばや普及ふきゅうし、1930年代ねんだいには音楽おんがくおさえて国民こくみん音楽おんがくとしての地位ちい確立かくりつした[15]。またこれにともない、この時期じきには対外たいがいてきにもサンバがブラジルを代表だいひょうする音楽おんがくなされるようになった[16]

60年代ねんだい、70年代ねんだい以降いこうのサンバなど

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1960年代ねんだいにはサンバに、ソウル、R&B、ファンクなど黒人こくじん音楽おんがくのジャンルを融合ゆうごうするうごきもてきた。代表だいひょうてきなバンドには、バンダ・ブラック・リオがいた。その、70年代ねんだいにはジャルソン・キング・コンボ、90年代ねんだいにはカルニーニョス・ブラウンらのファンキーなミュージシャンが登場とうじょうした。

日常にちじょうにおいてうたわれるサンバをRoda de Samba(ホーダ・ジ・サンバ)、Pagode(パゴーヂ、パゴージ)という。むかしはパゴーヂをホーダ・ジ・サンバといっていたが、1980年代ねんだい白人はくじん女性じょせいであるベッチ・カルヴァーリョ活躍かつやくし、カシーキ・ジ・ハモスというブロコけんサンバ・コミュニティーでおもとなって活動かつどうするバンド、フンド・ジ・キンタウ自身じしんのアルバムで紹介しょうかいしたことからパゴーヂとばれることになった。語源ごげんあきらかではないがインドのサンスクリット寺院じいん仏塔ぶっとう意味いみするPagoda(パゴダ)とわれている。

また、21世紀せいきのブラジルでは、サンバのリズムをベースとしたポップスをすひとつのジャンルとしてパゴーヂという呼称こしょう使つかわれることが一般いっぱんてきであり、もっともポピュラーな音楽おんがくのひとつとなっている。

2016ねんはサンバ誕生たんじょう100周年しゅうねんとされ、ブラジルではこれを記念きねんして記念きねん列車れっしゃ運行うんこうなど様々さまざまなイベントがおこなわれた[17]

  • 1763ねん 首都しゅとをサルバドール(バイーア)からリオデジャネイロへ遷都せんと黒人こくじん奴隷どれいがリオへとながれていく。
  • 1855ねん パレードのカルナヴァレスコ(演出えんしゅつ)が登場とうじょう
  • 1889ねん カルナヴァルでシキーニャ・ゴンザーガさくのマルシャ・ハンショのだいいちごうとされる“O Abre Alas”が発表はっぴょうされる。Rancho(ハンショ)とは、カーニヴァルでマルシャやマシーシを演奏えんそうしながらある楽団がくだんのことで、管楽器かんがっき弦楽器げんがっき打楽器だがっきうたというのが通常つうじょう編成へんせいだとされている。
  • 1890ねん 奴隷どれい制度せいど全廃ぜんぱい
  • 1902ねん リオ都市とし整備せいび計画けいかくにより、解放かいほうされた2まん5せんにんえる黒人こくじんたちがリオへ流入りゅうにゅう
  • 1907ねん カルナヴァルでアフォンソ・ペーナ大統領だいとうりょう車列しゃれつがリオ・ブランコどおりをパレード、このことが大々的だいだいてき報道ほうどうされると、プロパガンダとして政府せいふからカルナヴァルの予算よさん計上けいじょうされるようになる。
  • 1908ねん 6月18にち神戸こうべこうからかさまるサントスみなと到着とうちゃく
  • 1913ねん Tenente do Diadoという集団しゅうだん日本にっぽんをテーマとした山車だしでパレード。
  • 1911ねん “Em Casa da Baiana”がレコードで発売はつばい
  • 1917ねん “Pelo Telephone”がレコードで発売はつばい
  • 1920ねん Cordaõとばれる集団しゅうだんおおきくなり、Bloco(ブロコ)とばれるようになる。
  • 1928ねん 8がつ12にち最初さいしょのエスコーラ・ジ・サンバとされるDeixa Falarが創立そうりつ
  • 1930ねん 1がつ1にち、サンパウロではVai-Vaiがエスコーラとして登録とうろく
  • 1932ねん 公式こうしきはつのカルナヴァルが開催かいさいされ、5チームが出場しゅつじょう、プラッサ11(オンゼ)から出発しゅっぱつした。
  • 1938ねん 4がつ28にち、Mangueiraがエスコーラとして1928ねん4がつ28にち創立そうりつしたとの証書しょうしょ登録とうろく
  • 1978ねん 8がつ25にち、Portelaがエスコーラとして1926ねん4がつ11にち創立そうりつしたとの証書しょうしょ登録とうろく

サンバのジャンル

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サンバで使用しようされるおも楽器がっき

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サンバの演奏えんそう形式けいしきごとに、使用しようされる楽器がっきことなる。

日本にっぽんにおけるサンバ

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日本にっぽんでは、戦前せんぜんにタンゴ、戦後せんごにマンボ、ルンバ、チャチャチャなどのラテン音楽おんがく紹介しょうかいされ、昭和しょうわ20〜30年代ねんだいにラテン歌謡かよう流行りゅうこうした。しかしブラジルが南米なんべい唯一ゆいいつのポルトガルけんであること、ブラジルへの渡航とこう距離きょり高額こうがく費用ひようなどの理由りゆうにより、サンバはあまりきちんとしたかたち紹介しょうかいされたことはなかった。なお、日本にっぽん歌謡かようきょくには「しろちょうのサンバ」や「よめサンバ」、「てんとうちゅうのサンバ」や「マツケンサンバ」などと、タイトルにサンバと明記めいきされるきょくもあるが、曲調きょくちょうやメロディ、リズムなどのてんでブラジルのサンバとはおおきくことなる。場合ばあいによってはマンボルンバのリズムや曲調きょくちょうのものもある。これは日本にっぽんにラテン音楽おんがく紹介しょうかいされたときにそれらがすべて混同こんどうされて、そのイメージが現在げんざいにも影響えいきょうしているといわれる。

日本にっぽんでサンバのイメージが定着ていちゃくはじめたのは、1960ねん公開こうかいのブラジル・フランス合作がっさく映画えいがOrfeu Negroくろいオルフェ)」(マルセル・カミュ監督かんとく以降いこうといわれる。この映画えいが音楽おんがくボサノヴァ中心ちゅうしんだったが、リオのカーニバルという世界せかい屈指くっし舞踏ぶとうイベントも映画えいがつうじて日本にっぽんられ、サンバとボサノヴァの境界きょうかい曖昧あいまいさもあり、サンバも一緒いっしょ日本にっぽんられるきっかけとなった。1960年代ねんだい前半ぜんはん世界せかい席巻せっけんしたボサノヴァ・ブームの最中さいちゅう、ボサノヴァ興隆こうりゅうであるスタン・ゲッツがアルバム「ジャズ・サンバ」を発表はっぴょうするなどりょうジャンルの親和しんわせい好意こういてきなジャズ・プレーヤーが次々つぎつぎとサンバも日本にっぽん伝播でんぱさせていく。

渡辺わたなべ貞夫さだお一部いちぶ日本人にっぽんじんジャズ・ミュージシャンもボサノヴァを演奏えんそうすることがえ、わせてサンバも紹介しょうかいされていった。その70ねん~80年代ねんだいにかけてサンバのレコードが日本にっぽんでも発売はつばいされるようになり、一部いちぶ熱心ねっしん音楽おんがくファンによってリスナーがえた。69ねん長谷川はせがわきよしが「わかれのサンバ」というきょくをレコーディングしてしょうヒットさせた。

南青山みなみあおやまにある「プラッサ11(オンゼ)」は、日本にっぽんにおける最初さいしょのサンバハウス(サンバ演奏えんそうがライブでけるバー、レストラン)といわれ、これまでにおおくのブラジルじんミュージシャンや日本人にっぽんじんによるサンババンドが演奏えんそうし、ほかにもサッシペレレなど複数ふくすう店舗てんぽがサンバがけるみせとして存在そんざいしている。

80年代ねんだいには、神戸こうべまつりなど日本にっぽん各地かくちのイベントでブラジルのカーニバルを模倣もほうしたパレード形態けいたいのサンバが存在そんざいし、1981ねん浅草あさくさはじまった浅草あさくさサンバカーニバル[18]筆頭ひっとうに、静岡しずおかのシズオカ・サンバカーニバル(5がつ[19]神戸こうべ神戸こうべまつり(5がつ[20]沖縄おきなわ沖縄おきなわサンバカーニバル(11月)など、おおくの地域ちいきでサンバイベントがおこなわれている。1982ねんにはアルシオーネポルトガルばん英語えいごばん楽曲がっきょくあいのサンバは永遠えいえん」を伊藤いとう愛子あいこ日本語にほんご歌唱かしょう紹介しょうかいした。

代表だいひょうてきサンバ・ミュージシャン

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なお、発生はっせいのボサノヴァはサンバ・カンサゥンから派生はせいしたサンバの変種へんしゅであり、一部いちぶのボサノヴァ・ミュージシャンをサンバ・ミュージシャンととらえる観点かんてんもある。くわしくはボサノヴァこう参照さんしょう

関連かんれん項目こうもく

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出典しゅってん/脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 世界せかいのポピュラー音楽おんがくちにたにまぬゆ アーティストでつづるポピュラー音楽おんがく変遷へんせん」p157 山室やまむろ紘一こういち ヤマハミュージックメディア 2012ねん4がつ10日とおか初版しょはん発行はっこう
  2. ^ http://www.marcdedouvan.com/en/brazilian_percussions.php
  3. ^ a b c 世界せかいのポピュラー音楽おんがく アーティストでつづるポピュラー音楽おんがく変遷へんせん」p157 山室やまむろ紘一こういち ヤマハミュージックメディア 2012ねん4がつ10日とおか初版しょはん発行はっこう
  4. ^ 「ブラジルをるための56しょう だい2はん」p128 アンジェロ・イシ 明石書店あかししょてん 2010ねん2がつ10日とおかだい2はんだい1さつ
  5. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3009375?cx_part=search 「サッカーとサンバ ─ ブラジルでからふたつの情熱じょうねつ」AFPBB 2014ねん3がつ4にち 2019ねん11月17にち閲覧えつらん
  6. ^ 世界せかい音楽おんがくだい図鑑ずかん」ロバート・ジーグラー、スミソニアン協会きょうかい監修かんしゅう 金澤かなざわただしつよし日本語にほんごばん監修かんしゅう p274 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2014ねん10がつ30にち初版しょはん発行はっこう
  7. ^ http://traditionscustoms.com/music-and-dance/samba-de-roda
  8. ^ a b https://www.afpbb.com/articles/-/3009679?cx_part=search 「リオのカーニバル、名門めいもんサンバスクールのあつたたかい」AFPBB 2014ねん3がつ4にち 2019ねん11月17にち閲覧えつらん
  9. ^ 「ブラジルをるための56しょう だい2はん」p70-71 アンジェロ・イシ 明石書店あかししょてん 2010ねん2がつ10日とおかだい2はんだい1さつ
  10. ^ 「ブラジルをるための56しょう だい2はん」p74 アンジェロ・イシ 明石書店あかししょてん 2010ねん2がつ10日とおかだい2はんだい1さつ
  11. ^ 「ブラジルをるための56しょう だい2はん」p68-69 アンジェロ・イシ 明石書店あかししょてん 2010ねん2がつ10日とおかだい2はんだい1さつ
  12. ^ 「ブラジルをるための56しょう だい2はん」p72 アンジェロ・イシ 明石書店あかししょてん 2010ねん2がつ10日とおかだい2はんだい1さつ
  13. ^ 「ミステリー・オブ・サンバ」p116-123 エルマノ・ヴィアナちょ ジョン・チャールズ・チャスティーン編集へんしゅう英訳えいやく 武者小路むしゃのこうじみのるあきら日本語にほんごやく 水野みずのいち監修かんしゅう 株式会社かぶしきがいしゃブルース・インターアクションズ 2000ねん6がつ25にち初版しょはん発行はっこう
  14. ^ 「ミステリー・オブ・サンバ」p100-112 エルマノ・ヴィアナちょ ジョン・チャールズ・チャスティーン編集へんしゅう英訳えいやく 武者小路むしゃのこうじみのるあきら日本語にほんごやく 水野みずのいち監修かんしゅう 株式会社かぶしきがいしゃブルース・インターアクションズ 2000ねん6がつ25にち初版しょはん発行はっこう
  15. ^ 「ミステリー・オブ・サンバ」p114-116 エルマノ・ヴィアナちょ ジョン・チャールズ・チャスティーン編集へんしゅう英訳えいやく 武者小路むしゃのこうじみのるあきら日本語にほんごやく 水野みずのいち監修かんしゅう 株式会社かぶしきがいしゃブルース・インターアクションズ 2000ねん6がつ25にち初版しょはん発行はっこう
  16. ^ 「ミステリー・オブ・サンバ」p131 エルマノ・ヴィアナちょ ジョン・チャールズ・チャスティーン編集へんしゅう英訳えいやく 武者小路むしゃのこうじみのるあきら日本語にほんごやく 水野みずのいち監修かんしゅう 株式会社かぶしきがいしゃブルース・インターアクションズ 2000ねん6がつ25にち初版しょはん発行はっこう
  17. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/3110181?cx_part=search 「「サンバ特別とくべつ列車れっしゃ」で熱狂ねっきょう サンバ100周年しゅうねんのブラジル」AFPBB 2016ねん12月5にち 2019ねん11月17にち閲覧えつらん
  18. ^ https://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201908/CK2019082602000239.html 「おどりのねつ国境こっきょうなし 31にち浅草あさくさサンバカーニバル」東京とうきょう新聞しんぶん 2019ねん8がつ26にち 2019ねん11月17にち閲覧えつらん
  19. ^ https://www.at-s.com/news/article/local/central/629803.html 「今年ことし静岡しずおか中心ちゅうしんがい席巻せっけん サンバカーニバル、4にちまで」静岡しずおか新聞しんぶん 2019/5/4 2019ねん11月17にち閲覧えつらん
  20. ^ https://www.sankei.com/article/20190512-PE6UFBBCRZOCBPCZFVKQ4QW4OQ/ 「サンバ・ダンス今年ことしあつく 神戸こうべまつり、19にちにメイン」産経新聞さんけいしんぶん 2019.5.12 2019ねん11月17にち閲覧えつらん