サンバ (Samba )は、ブラジル の代表 だいひょう 的 てき な音楽 おんがく (ブラジル音楽 おんがく )の一 ひと つである。ブラジルでは毎年 まいとし 12月 がつ 2日 にち をサンバの日 ひ と定 さだ められており、この日 ひ に翌年 よくねん 2月 がつ 前後 ぜんこう に行 おこな われるサンバカーニバル曲 きょく 集 しゅう が発表 はっぴょう されるほかにも、多 おお くのイベントも開催 かいさい される
サンバ 様式 ようしき 的 てき 起源 きげん
文化 ぶんか 的 てき 起源 きげん
17世紀 せいき – 20世紀 せいき 、 リオデジャネイロ 、ブラジル 使用 しよう 楽器 がっき
サブジャンル
融合 ゆうごう ジャンル
関連 かんれん 項目 こうもく
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サンバ・カーニバル の一 いち 例 れい
サンバ・カーニバル の一 いち 例 れい
西洋 せいよう 音楽 おんがく に於 お ける音楽 おんがく 理論 りろん の拍子 ひょうし という概念 がいねん でサンバという音楽 おんがく を解釈 かいしゃく すると、4分 ぶん の2拍子 ひょうし となる。ダンス 音楽 おんがく であり、19世紀 せいき の終 お わりごろ、ブラジル北東 ほくとう 部 ぶ の港町 みなとちょう 、バイーア (現在 げんざい のサルバドール)で生 う まれた音楽 おんがく がサンバの源流 げんりゅう となった。当時 とうじ のバイーアは、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき によってアフリカ から連 つ れて来 きた られた黒人 こくじん が荷揚 にあげ されて保管 ほかん ・販売 はんばい された場所 ばしょ であり、源流 げんりゅう となった音楽 おんがく は彼 かれ らの間 あいだ で誕生 たんじょう したと言 い われている。[1]
その後 ご 、リオ・デ・ジャネイロ (以下 いか リオ)において、バイーアから移住 いじゅう したアフリカ系 けい 黒人 こくじん の奴隷 どれい 労働 ろうどう 者 しゃ たちが持 も ち込 こ んだ、Batucada[2] (バトゥカーダ 、アフリカ音楽 おんがく の影響 えいきょう を受 う けたブラジルの打楽器 だがっき のみの構成 こうせい によるサンバ)などの音楽 おんがく をもとに、ショーロ やルンドゥー などの要素 ようそ がとりこまれ[3] 、1910年代 ねんだい にサンバという音楽 おんがく が確立 かくりつ し[4] 、1930年代 ねんだい に普及 ふきゅう と隆盛 りゅうせい を迎 むか え[5] 、ブラジルを代表 だいひょう する音楽 おんがく ジャンルとなった。結果 けっか として、黒人 こくじん たちの持 も ち込 こ んだアフリカの宗教 しゅうきょう 的 てき 民俗 みんぞく 舞曲 ぶきょく と、ポルカ やマズルカ といったヨーロッパ の舞曲 ぶきょく など様々 さまざま な要素 ようそ が混 ま ざり合 あ ったものである。したがって、サンバがアフリカ系 けい の音楽 おんがく だとする説 せつ は一般 いっぱん 的 てき に多 おお いが、これには異論 いろん も多 おお い。
また、ラテン音楽 おんがく の一 ひと つに分類 ぶんるい されるものの、ブラジルは中南米 ちゅうなんべい で唯一 ゆいいつ ポルトガル語 ご を公用 こうよう 語 ご とする国 くに であり、また使用 しよう する楽器 がっき もサルサ やマンボ などのラテン音楽 おんがく の楽器 がっき とは異 こと なるものが多 おお いので、正確 せいかく にはラテン音楽 おんがく には入 はい らないという意見 いけん もある。
もともとは黒人 こくじん を中心 ちゅうしん とする「奴隷 どれい 労働 ろうどう 者 しゃ 階級 かいきゅう の音楽 おんがく 」ゆえに、歌 うた われる内容 ないよう といえば、生活 せいかつ そのものを題材 だいざい としたもの、人種 じんしゅ 差別 さべつ や政治 せいじ 体制 たいせい への批判 ひはん などが中心 ちゅうしん であったが、後 のち に白人 はくじん を中心 ちゅうしん に比較的 ひかくてき 穏 おだ やかなリズムで叙情 じょじょう 的 てき な内容 ないよう も歌 うた われる、Samba Canção(サンバ・カンサゥン )なども生 う まれた。この時期 じき にはサンバ・カンサゥンの女王 じょおう と呼 よ ばれる大 だい 歌手 かしゅ であるエリゼッチ・カルドーゾ も現 あらわ れている[3] 。サンバ・カンサゥンはさらに発展 はってん し、1950年代 ねんだい 後半 こうはん から1960年代 ねんだい 前半 ぜんはん には、アメリカ の音楽 おんがく などの影響 えいきょう を受 う けた中産 ちゅうさん 階級 かいきゅう の若者 わかもの たちを中心 ちゅうしん に、リズムをさらにシンプルにし、叙情 じょじょう 的 てき な歌詞 かし をのせて歌 うた うサンバ・ボサノヴァ (Samba Bossa Nova)が成立 せいりつ し[6] 、流行 りゅうこう をみせた。また1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい にかけては、リオデジャネイロの黒人 こくじん 文化 ぶんか だったモーホのサンバが再 さい 発見 はっけん され、受入 うけい れられていった[3] 。1980年代 ねんだい には、数 すう 人 にん 編成 へんせい で演奏 えんそう するスタイルPagode(パゴーヂ )が成立 せいりつ 。大 だい 規模 きぼ なカルナヴァル (カーニバル)のサンバに対 たい して、パゴーヂの個人 こじん パーティー的 てき で周囲 しゅうい の皆 みな で共 とも に合唱 がっしょう できる気軽 きがる さが受 う け、大 だい 流行 りゅうこう している。
なお、サンバは多岐 たき にわたり、細 こま かいものを含 ふく めるとリズムやスタイルは100を越 こ えるといわれ、それぞれに名称 めいしょう がつけられている。
女性 じょせい ダンサー
上記 じょうき の通 とお り、サンバは17世紀 せいき に、バイーアに住 す んでいたアフリカ人 じん 奴隷 どれい の踊 おど りが元 もと となっている。その後 ご 、楽器 がっき や音楽 おんがく だけでなく言語 げんご や特定 とくてい の詩 し の形式 けいしき といったポルトガルの文化 ぶんか 的 てき 要素 ようそ が融合 ゆうごう し、リズムや踊 おど り方 かた が変化 へんか した。音楽 おんがく を演奏 えんそう しながら周 まわ りで手 て を叩 はた きながら輪 わ を作 つく って踊 おど り、交代 こうたい で人 ひと が中 なか に入 はい って踊 おど る。これをSamba de Roda[7] (サンバ・ジ・ホーダ 、サンバの輪 わ )といい、アフリカ系 けい ブラジル人 じん の地域 ちいき 的 てき 大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の一大 いちだい 要素 ようそ へと発展 はってん した。バイーアからリオへ人々 ひとびと が移住 いじゅう するとともに、サンバ・ジ・ホーダは、20世紀 せいき のブラジルの国家 こっか 的 てき アイデンティティーの最大 さいだい のシンボルとなった都会 とかい のサンバの進化 しんか にも影響 えいきょう を与 あた えた。
サンバの踊 おど り方 かた は足 あし や腰 こし の動 うご きを基本 きほん とし、ほとんど即興 そっきょう である。Bantu(バントゥー系 けい 民族 みんぞく )の影響 えいきょう であるUmbigada(ウンビガーダ)と呼 よ ばれる、へそをくっつけあうような踊 おど りがサンバのルーツの一 ひと つと言 い われる。またサンバ・ジ・ホーダにはMiudinho(ミウジーニョ)という男性 だんせい が細 こま かくステップを踏 ふ む独特 どくとく な踊 おど りもある。これらがショーロやルンドゥーなどと混 ま ざり合 あ い、現在 げんざい のサンバと発展 はってん してきた。
したがって、現在 げんざい のサンバショーにおける振 ふ り付 つ け(コレオグラフィー )は現代 げんだい 的 てき かつ欧米 おうべい のダンスショーの形式 けいしき を取 と り入 い れたもので、あくまでもサンバは基本 きほん 的 てき に即興 そっきょう の踊 おど りが中心 ちゅうしん で、またその醍醐味 だいごみ であるとされる。したがってサンバパレードにおけるダンスはサンバ・ノ・ペという、いわゆるサンバステップをもとに様々 さまざま なバリエーションを個人 こじん 個人 こじん が表現 ひょうげん することが本来 ほんらい のサンバのダンスといわれている。なお、サンバパレードにおけるサンバステップに長 た けたソロダンサーは、Passista(パシスタ )といわれる。
また、サンバはカルナヴァルだけでなく、サロンやダンスホールで行 おこな われるペアダンスもある。ただし同 おな じペアダンスでも、社交 しゃこう ダンス や競技 きょうぎ ダンスのサンバとはまったく異 こと なる。なお、ブラジルにおけるサンバのペアダンスは、Samba de Gafieira(日本 にっぽん での略称 りゃくしょう はガフィエイラ、ガフィエラ、ブラジル本国 ほんごく ではサンバ)といわれる。また日本 にっぽん での愛好 あいこう 家 か も多 おお い。
ブラジルの各 かく 都市 とし で行 おこな われるカルナヴァルでは、毎年 まいとし 、Escola de Samba(エスコーラ・ジ・サンバ (略 りゃく してエスコーラ)というチーム単位 たんい で順位 じゅんい 、優勝 ゆうしょう を競 きそ い合 あ う[8] 。
各 かく エスコーラは、カルナヴァルが終 おわ るとすぐに翌年 よくねん のテーマ(エンヘード=物語 ものがたり )を決 き め、それに添 そ ってシノープス(台本 だいほん )が作 つく られ、曲 きょく や歌詞 かし の作成 さくせい を行 おこな い、どの曲 きょく が相応 ふさわ しいかエスコーラ内 ない でコンテストして、それが決定 けってい するとカルナヴァレスコ(パレードの総合 そうごう 監督 かんとく 、舞台 ぶたい 監督 かんとく のような人 ひと やチーム)によってアーラ(グループダンス)やアレゴリア(山車 だし )の数 かず を決 き め、それらのファンタジア(衣装 いしょう )などをデザインする[9] 。曲 きょく が決定 けってい すると、クアドラという練習 れんしゅう 会場 かいじょう で、Bateria(バテリーア 、日本 にっぽん ではバテリア とも)という打楽器 だがっき 隊 たい によって練習 れんしゅう が繰 く り返 かえ され、そこでダンスも練習 れんしゅう する。
毎年 まいとし 、これによってサンバ・パレード が繰 く り広 ひろ げられ、パレードの審査 しんさ を行 おこな うコンテストによって順位 じゅんい が決定 けってい される[10] 。中 なか には数 すう 千 せん 人 にん が参加 さんか するエスコーラも存在 そんざい する。これは競争 きょうそう 社会 しゃかい のピラミッド構造 こうぞう となっており、上 うえ からグルーポ・エスペシアゥ(特別 とくべつ グループ)、グルーポA~Dと続 つづ く。サッカー と同 おな じくそのグループで最下位 さいかい となれば翌年 よくねん は下位 かい のグループに格下 かくさ げとなる[8] 。そのかわりに下位 かい のグループで優勝 ゆうしょう すれば翌年 よくねん は上位 じょうい のグループに昇格 しょうかく しそこでまた競 きそ うことになる。これらの大 だい 規模 きぼ なパレードはかつてはその都市 とし のメインストリートで行 おこな われていたのだが、1983年 ねん にリオデジャネイロにおいてサンボードロモ・ダ・マルケス・ジ・サプカイ が建設 けんせつ されて以降 いこう 、大都市 だいとし では次々 つぎつぎ と専用 せんよう スタジアムであるサンボードロモ が建設 けんせつ され、ここでパレードが行 おこな われることとなった[11] 。
なおエスコーラ・ジ・サンバとは、直訳 ちょくやく すればサンバの学校 がっこう という意味 いみ だが、もともと学校 がっこう の近 ちか くで始 はじ めたということから、洒落 しゃれ でつけられたものである。もちろん指導 しどう 者 しゃ は存在 そんざい するが、先生 せんせい や生徒 せいと が存在 そんざい するわけではなく、先生 せんせい が生徒 せいと に教 おし えるという性格 せいかく の学校 がっこう や教室 きょうしつ などとは異 こと なる。どちらかというと地域 ちいき に根 ね ざしたリクリエーション団体 だんたい という性格 せいかく が強 つよ い。したがって近年 きんねん ではGrêmio Recreativo Escola de Samba(グレーミオ・ヘクヘアーチヴォ・エスコーラ・ジ・サンバ(略称 りゃくしょう :G.R.E.S.)という。
ただし、近年 きんねん のカーニバルはあまりにも観光 かんこう 的 てき ・商業 しょうぎょう 的 てき になり、またエスコーラが麻薬 まやく や賭博 とばく など犯罪 はんざい 組織 そしき の温床 おんしょう ともなっていることなどから、エスコーラから離 はな れたり、また距離 きょり をおくサンバのミュージシャンも多 おお い。そのような昔 むかし のサンバを知 し る人 ひと は「昔 むかし のサンバはよかった」というのが口癖 くちぐせ となっている。またそれらの人々 ひとびと はエスコーラなどの組織 そしき を離 はな れて、それより比較的 ひかくてき 自由 じゆう なブロコ・カルナヴァレスコ (略称 りゃくしょう :B.C.ブロコ はブロック、つまり塊 かたまり りの意 い 、カルナヴァレスコはカーニバルが好 す きな人 ひと などと訳 やく す)を結成 けっせい したり移 うつ る人 ひと もいる。ブロコはエスコーラのようなコンテストとは無縁 むえん なのでサンボードロモではパレードせず、リオ・ブランコ通 どお りなど街 まち 中 ちゅう でパレードし、比較的 ひかくてき 庶民 しょみん 的 てき で地元 じもと と密着 みっちゃく しているのが特徴 とくちょう 的 てき である。しかしブロコといっても人数 にんずう 的 てき にはエスコーラのように数 すう 千 せん 人 にん 規模 きぼ のものもあり、またモノブロコやシンパチアといった有名 ゆうめい なブロコには外国 がいこく 人 じん の参加 さんか も多 おお い。
サンバは貧 まず しい黒人 こくじん のもの、という偏見 へんけん もある。この傾向 けいこう は日系 にっけい ブラジル人 じん の一世 いっせい が特 とく に多 おお いといわれる。またブラジル人 じん の中 なか にもサンバが苦手 にがて な人 ひと や興味 きょうみ のない人 ひと も多 おお く、そういう人 ひと たちは、カーニバルの時期 じき になると喧噪 けんそう から離 はな れるようにリゾート地 ち へ行 い くことも多 おお い[12] 。
また、サンバをやっている人 ひと を総称 そうしょう してSambista(サンビスタ )というが、日本 にっぽん ではサンバチームで活動 かつどう している人 ひと を中心 ちゅうしん に、何 なん らかの形 かたち でサンバに関 かか わっている人 ひと すべてをそう呼 よ ぶ場合 ばあい がある。つまりサンバはやっているがサンバの曲 きょく や演奏 えんそう 方法 ほうほう の違 ちが い、またバテリアの構成 こうせい や人数 にんずう 編成 へんせい などを知 し らない人 ひと をも広義 こうぎ でサンビスタと呼 よ ぶことも多 おお い。しかしこれは適切 てきせつ ではない。あくまでもサンバが好 す きで好 す きでたまらず、サンバについてよく理解 りかい し、損得 そんとく 勘定 かんじょう 関係 かんけい なく身体 しんたい の髄 ずい からサンバが沁 し みこんでいるような人 ひと のみを指 さ して、Sambistaと呼 よ ぶのが正 ただ しいとされる。これに対 たい し金 きむ の為 ため にサンバをやっている人 ひと や、サンバをよく知 し らないのにサンバをやっている人 ひと をSambeiro(サンベイロ)と呼 よ び卑下 ひげ する場合 ばあい もある。
1500年 ねん にポルトガルによってブラジルが“発見 はっけん ”されて以降 いこう 、ポルトガルはアフリカ西海岸 にしかいがん を中継 ちゅうけい 地 ち とし、アンゴラ やベニン 、コンゴ 、モザンビーク を植民 しょくみん 地 ち とし、そうした種族 しゅぞく の異 こと なるアフリカ人 じん 奴隷 どれい をブラジルに連 つ れて行 い った。当時 とうじ ブラジルは未 み 開発 かいはつ の地 ち であったため、そうした奴隷 どれい の労働 ろうどう 力 りょく を欲 ほっ していた。したがって同 おな じアフリカ人 じん でも言語 げんご や習慣 しゅうかん も異 こと なった種族 しゅぞく がブラジルで出会 であ った。当初 とうしょ 彼 かれ らのある部族 ぶぞく が違 ちが う部族 ぶぞく をポルトガル人 じん に“売 う った”こともある。また当時 とうじ は違 ちが う部族 ぶぞく 同士 どうし で敵対 てきたい するなどもあった。
なお、1815年 ねん にはウィーン会議 かいぎ で、ようやく奴隷 どれい 貿易 ぼうえき が禁止 きんし 決定 けってい がされたが、奴隷 どれい 制度 せいど そのものを廃止 はいし したわけではなかった。
1700年 ねん 当時 とうじ には“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”と呼 よ ばれる、奴隷 どれい 達 たち の娯楽 ごらく 音楽 おんがく がすでにあったと記録 きろく されている。この頃 ころ から次第 しだい に違 ちが う部族 ぶぞく 同士 どうし がポルトガル語 ご を強要 きょうよう され、また生活 せいかつ を共 とも にすることから、その対立 たいりつ が融和 ゆうわ されていった。
アンゴラの奴隷 どれい を中心 ちゅうしん としてカポエイラ が生 う み出 だ されたが、当初 とうしょ “タンボール”という楽器 がっき だけだったが、“アタバキ ”、“ビリンバウ ”、“パンデイロ ”(アラブ起源 きげん といわれる)、“アゴゴ ”、“ヘコヘコ”などが加 くわ わり、リズムの幅 はば が豊 ゆた かになった。
また、“ジョンゴ”、“マクレレ”、“タンボール・ジ・クリオゥラ”、“マシーシ”、そして“ルンドゥー”や“バトゥーキ”が生 う み出 だ されていった。ルンドゥーは、もとは白人 はくじん が庭先 にわさき で舞踏 ぶとう 会 かい の振 ふ り付 つ けを踊 おど っていたものを黒人 こくじん が真似 まね したが、黒人 こくじん の場合 ばあい はもっと優雅 ゆうが にゆっくりと踊 おど るのが特徴 とくちょう であった。打楽器 だがっき 演奏 えんそう であるバトゥーキにあわせてダンスする時 とき に“ウンビガーダ”(ヘソ踊 おど り)といい、ヘソをくっつけあうように腹 はら をあわせて踊 おど った。しかし、これを見 み たカトリック影響 えいきょう 下 か にある白人 はくじん たちにより、ウンビガーダはエロティックだとして踊 おど るのを禁止 きんし されてしまった。
なお、サンバはリオに限 かぎ らず他 ほか の都市 とし でも息吹 いぶ いていた。サンパウロではピラポーラ地区 ちく をはじめとして“コンガーダ”や“バトゥーキ”といった多様 たよう なリズムが生 う まれた。サンバはそれぞれの地域 ちいき で異 こと なるスタイルが生 う まれていた。
“Samba”という名称 めいしょう が初 はじ めて明 あき らかになったのは、1838年 ねん にカトリック教会 きょうかい のLopes Gama神父 しんぷ が“Samba d'almocreve”と称 しょう して、奴隷 どれい の文化 ぶんか として新聞 しんぶん に紹介 しょうかい したことによるものである。神父 しんぷ は黒人 こくじん の文化 ぶんか だけでなくポルカ やワルツ 、ルンドゥー・カンサゥンといった白人 はくじん の文化 ぶんか も紹介 しょうかい している。
当時 とうじ 、黒人 こくじん 達 たち はウンビガーダが禁止 きんし されたことで、名称 めいしょう をサンバと変 か えただけで、その踊 おど りのスタイルもほとんど同 おな じで続 つづ けていたという。この頃 ころ のサンバはアフロ文化 ぶんか に根 ね づいたもので、現在 げんざい のように洗練 せんれん されたものでなかった。この神父 しんぷ のレポートによって多 おお くの民俗 みんぞく 学者 がくしゃ が注目 ちゅうもく 、これらは今日 きょう でも論文 ろんぶん や調査 ちょうさ 報告 ほうこく となって残 のこ っている。時代 じだい を経 へ ると、サンバは多様 たよう 化 か し、“サンバ・ルラゥ”、“サンバ・ジ・ホーダ”、“サンバ・ドゥーロ”、“サンバ・レンソ”など多 おお くのリズムやスタイルが細分 さいぶん 化 か していった。
カルナヴァル(カーニバル )は、ブラジルでもポルトガル人 じん によって行 おこな われた。ドン・ペドロ2世 せい も参加 さんか していたという。ただし当時 とうじ のカルナヴァルは、カトリックによって粛々 しゅくしゅく と行 おこな われるというイメージとは反 はん し、宮殿 きゅうでん 内 ない で水 みず を掛 か け合 あ うなどといった乱痴気騒 らんちきさわ ぎに近 ちか い祭 まつ りであったと記録 きろく されている。水 みず は悪霊 あくりょう や災禍 さいか を追 お い払 はら うという意味 いみ をもっていたためとされる。また一般 いっぱん 市民 しみん も路上 ろじょう で、水 みず だけでなく灰 はい や小麦粉 こむぎこ などもかけ合 あ い、ルールもなにもなかった。したがって時 とき として喧嘩 けんか に発展 はってん することも往々 おうおう にしてあった。しかしそれも後 のち にレモン水 れもんすい や香料 こうりょう を入 い れた水 みず をかけるようになっていった。このように、カルナヴァルでは人種 じんしゅ や年齢 ねんれい など関係 かんけい なくすべての人々 ひとびと が楽 たの しんだ。
1763年 ねん にブラジルはサルヴァドール (バイーア )からリオデジャネイロ (以下 いか リオと表記 ひょうき )へ遷都 せんと 。次第 しだい にリオへ奴隷 どれい が流入 りゅうにゅう される。1800年代 ねんだい になると、カルナヴァルのシンボルとして“Rei Momo”(ヘイ・モモ、カーニバル王国 おうこく の王様 おうさま )が誕生 たんじょう 。1850年 ねん に“ゼー・ペレイラ”というカルナヴァル伝説 でんせつ の男 おとこ が誕生 たんじょう 、ブロコ・コルドンィスといったグループが彼 かれ を讃 たた えて行進 こうしん した。しかし当時 とうじ はまだ異 こと なる人種 じんしゅ 同士 どうし が一緒 いっしょ にパレードすることはなかったといわれる。また、この頃 ころ には“タンボール”や“ボンボ”、“ザブンバ”といった楽器 がっき を使 つか ってパレードを行 おこな うようになる。
1888年 ねん には奴隷 どれい 制度 せいど が全廃 ぜんぱい 。1902年 ねん にリオの都市 とし 整備 せいび 計画 けいかく が実行 じっこう され、バイーアはじめペルナンブーコなど各地 かくち にいた奴隷 どれい たちがリオ市内 しない に移住 いじゅう しはじめる。また現在 げんざい のファヴェーラ であるモーホ(丘 おか )と呼 よ ばれる居住 きょじゅう 区 く が形成 けいせい されていった。
バイーア出身 しゅっしん の女性 じょせい (主 おも におばさん)をバイアーナといい、現在 げんざい カルナヴァルでのエスコーラのパレードには、バイアーナスというグループ隊列 たいれつ の存在 そんざい が必須 ひっす 条件 じょうけん となっている。これはサンバのルーツを表 あらわ していることに由来 ゆらい する。またエスコーラの中 なか でもバイアーナたちは非常 ひじょう に重要 じゅうよう なポジションである(なお、エスコーラについてはエスコーラ を参照 さんしょう されたい)。
なぜならば、バイアーナは“サンバの母 はは ”といわれる存在 そんざい であり、サンバを生 う み出 だ した存在 そんざい とされているからである。彼女 かのじょ 達 たち は“Tia”(おばさん)と呼 よ ばれ、彼女 かのじょ たちが自宅 じたく でパーティーを開 ひら き、多 おお くの人 ひと たちをもてなした。中 なか でも有名 ゆうめい なのは“チア・シアータ”で、彼女 かのじょ の家 いえ にはジョアン・ダ・バイアーナ、エイトール・ドス・プラゼーレス、ピシンギーニャ 、シニョー、そしてドンガといった、現在 げんざい のサンバやショーロ のルーツを築 きず いたとされる人物 じんぶつ が集 あつ まっていた[13] 。
当時 とうじ 、シニョーはボヘミアン だったが白人 はくじん で英才 えいさい 教育 きょういく も受 う けていたためか、他 た の参加 さんか 者 しゃ と少 すこ し異 こと なり、エイトールやピシンギーニャ、またドンガを皮肉 ひにく ったり、明 あき らかに容姿 ようし などを軽蔑 けいべつ した曲 きょく を作 つく ってカルナヴァルで発表 はっぴょう した。また彼 かれ らも返 かえ す刀 かたな でシニョーを批判 ひはん する曲 きょく を作 つく った。エイトールは彼 かれ を自作 じさく 曲 きょく を盗作 とうさく したとして非難 ひなん したりしている。またイズマエル・シルヴァは「ドンガの曲 きょく はサンバじゃなくマルシャだ」と言 い うと、ドンガも「イズマエルの曲 きょく はサンバじゃない」と批判 ひはん した。イズマエルはカルトーラと不仲 ふなか だったことも伝 つた えられている。このように当時 とうじ は個人 こじん 攻撃 こうげき や対立 たいりつ がそのエネルギーとなり曲 きょく 作 づく りを競 きそ い合 あ っていた。シニョーは多 おお くのライバルを批判 ひはん したが、のちに政府 せいふ の検閲 けんえつ 制度 せいど を批判 ひはん し警察 けいさつ に追 お われることにもなった。現在 げんざい サンバは政府 せいふ や社会 しゃかい を批判 ひはん する一 いち 面 めん を多 おお く持 も っているが、もとをたどれば、この当時 とうじ にその源流 げんりゅう を垣間見 かいまみ ることができる。
この頃 ころ のカルナヴァルでは、まだサンバは主流 しゅりゅう ではなく、“マルシャ”や“マルシャ・ハンショ”など数 すう 多 おお くのスタイルが乱雑 らんざつ に存在 そんざい した。中 なか でもマルシャは多 おお くの作曲 さっきょく 家 か による佳作 かさく が残 のこ されている。またドンガもシアータおばさんの家 いえ に出入 でい りしていた。一般 いっぱん 的 てき に最初 さいしょ のサンバといわれる作品 さくひん は、1916年 ねん 12月16日 にち 登録 とうろく 、1917年 ねん 発売 はつばい のドンガ&マウロ・ジ・アルメイダ作 さく “ペロ・テレフォーニ ”(“電話 でんわ で”の意 い )といわれる。これには異論 いろん もある。
これに先立 さきだ つ1911年 ねん にインスト ではあるが、“Em Casa da Baiana”が“Samba Partido Alto”という名目 めいもく で発売 はつばい されているほか、1912年 ねん に“Descascando o Pessoal”、1913年 ねん にはバイーア出身 しゅっしん の歌手 かしゅ ジュリア・マルチンスによる“Viola Esta Magoada”、1914年 ねん に“Urubu Malandro”、1915年 ねん に“Samba”という名目 めいもく でレコードが発売 はつばい されていることによる。
またドンガの“電話 でんわ で”が公式 こうしき のサンバとされるまでに紆余曲折 うよきょくせつ があった。当時 とうじ は著作 ちょさく 権 けん の認識 にんしき がまったくないため、ドンガは国営 こくえい 図書館 としょかん に譜面 ふめん を登録 とうろく した際 さい にサインをしなかった。しかしこの曲 きょく がラジオで流 なが れてヒットすると、別 べつ の作曲 さっきょく 家 か が自作 じさく 曲 きょく だと主張 しゅちょう した。今 いま では、実際 じっさい には多 おお くの人 ひと の手 て が加 くわ えられて出来上 できあ がった曲 きょく だと考 かんが えられている。しかし当時 とうじ は周囲 しゅうい の人 ひと たちがドンガを支持 しじ 。チア・シアータも彼 かれ からその曲 きょく を聞 き かされたとして証言 しょうげん した。そしてドンガが亡 な くなった後 のち にドンガ作 さく であると認 みと められた。
1920年 ねん 、それぞれのCordaõ(コルダォン、集 あつ まり・グループ)が大 おお きくなったことで、それぞれBloco(ブロコ、英語 えいご のブロック)と呼称 こしょう するようになった。1928年 ねん にイズマエル・シルヴァやビジ、ニウトン・バストス、アルマンド・マルサルなどによって最初 さいしょ のエスコーラ・ジ・サンバ 、デイシャ・ファラール(言 い わせておけ)が創立 そうりつ される。この頃 ころ より隣接 りんせつ する地区 ちく 同士 どうし のブロコなどが大同団結 だいどうだんけつ し、次々 つぎつぎ とエスコーラが生 う まれていった。
1920年代 ねんだい に入 はい ると、ブラジルで文化 ぶんか 的 てき なナショナリズムが勃興 ぼっこう し、社会 しゃかい 上層 じょうそう のエリートや文化 ぶんか 人 じん たちが自国 じこく の大衆 たいしゅう 文化 ぶんか を重視 じゅうし する傾向 けいこう が強 つよ まって、それまで地方 ちほう や社会 しゃかい 下層 かそう で演奏 えんそう されていた音楽 おんがく が社会 しゃかい 全体 ぜんたい に受 う け入 い れられるようになった[14] 。1930年 ねん 革命 かくめい (ポルトガル語 ご 版 ばん ) によって政権 せいけん を握 にぎ ったジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス はこの流 なが れを推進 すいしん し、国民 こくみん 文化 ぶんか の創出 そうしゅつ に力 ちから を注 そそ いだ。さらにこの時期 じき にはヴァルガスの後押 あとお しによってラジオ が急速 きゅうそく に普及 ふきゅう し、レコード 産業 さんぎょう もリオデジャネイロで大 おお きく成長 せいちょう した。こうした中 なか で、それまで首都 しゅと リオデジャネイロで主 おも に楽 たの しまれていたサンバが、地元 じもと に基盤 きばん を置 お くレコード会社 かいしゃ とラジオ局 きょく によって全国 ぜんこく に素早 すばや く普及 ふきゅう し、1930年代 ねんだい には他 た の音楽 おんがく を抑 おさ えて国民 こくみん 音楽 おんがく としての地位 ちい を確立 かくりつ した[15] 。またこれに伴 ともな い、この時期 じき には対外 たいがい 的 てき にもサンバがブラジルを代表 だいひょう する音楽 おんがく と見 み なされるようになった[16] 。
60年代 ねんだい 、70年代 ねんだい 以降 いこう のサンバなど
編集 へんしゅう
1960年代 ねんだい にはサンバに、ソウル、R&B、ファンクなど他 た の黒人 こくじん 音楽 おんがく のジャンルを融合 ゆうごう する動 うご きも出 で てきた。代表 だいひょう 的 てき なバンドには、バンダ・ブラック・リオがいた。その後 ご 、70年代 ねんだい にはジャルソン・キング・コンボ、90年代 ねんだい にはカルニーニョス・ブラウンらのファンキーなミュージシャンが登場 とうじょう した。
日常 にちじょう において歌 うた われるサンバをRoda de Samba(ホーダ・ジ・サンバ)、Pagode(パゴーヂ、パゴージ )という。昔 むかし はパゴーヂをホーダ・ジ・サンバといっていたが、1980年代 ねんだい に白人 はくじん 女性 じょせい であるベッチ・カルヴァーリョ が活躍 かつやく し、カシーキ・ジ・ハモスというブロコ兼 けん サンバ・コミュニティーで主 おも となって活動 かつどう するバンド、フンド・ジ・キンタウ を自身 じしん のアルバムで紹介 しょうかい したことからパゴーヂと呼 よ ばれることになった。語源 ごげん は明 あき らかではないがインドのサンスクリット語 ご で寺院 じいん ・仏塔 ぶっとう を意味 いみ するPagoda(パゴダ)と言 い われている。
また、21世紀 せいき のブラジルでは、サンバのリズムをベースとしたポップスを差 さ すひとつのジャンルとしてパゴーヂという呼称 こしょう が使 つか われることが一般 いっぱん 的 てき であり、もっともポピュラーな音楽 おんがく のひとつとなっている。
2016年 ねん はサンバ誕生 たんじょう 100周年 しゅうねん とされ、ブラジルではこれを記念 きねん して記念 きねん 列車 れっしゃ の運行 うんこう など様々 さまざま なイベントが行 おこな われた[17] 。
1763年 ねん 首都 しゅと をサルバドール(バイーア)からリオデジャネイロへ遷都 せんと 、黒人 こくじん 奴隷 どれい がリオへと流 なが れていく。
1855年 ねん パレードのカルナヴァレスコ(演出 えんしゅつ 家 か )が登場 とうじょう 。
1889年 ねん カルナヴァルでシキーニャ・ゴンザーガ作 さく のマルシャ・ハンショの第 だい 一 いち 号 ごう とされる“O Abre Alas”が発表 はっぴょう される。Rancho(ハンショ)とは、カーニヴァルでマルシャやマシーシを演奏 えんそう しながら練 ね り歩 ある く楽団 がくだん のことで、管楽器 かんがっき 、弦楽器 げんがっき 、打楽器 だがっき に歌 うた というのが通常 つうじょう の編成 へんせい だとされている。
1890年 ねん 奴隷 どれい 制度 せいど が全廃 ぜんぱい 。
1902年 ねん リオ都市 とし 整備 せいび 計画 けいかく により、解放 かいほう された2万 まん 5千 せん 人 にん を越 こ える黒人 こくじん たちがリオへ流入 りゅうにゅう 。
1907年 ねん カルナヴァルでアフォンソ・ペーナ大統領 だいとうりょう の車列 しゃれつ がリオ・ブランコ通 どお りをパレード、このことが大々的 だいだいてき に報道 ほうどう されると、プロパガンダ として政府 せいふ からカルナヴァルの予算 よさん が計上 けいじょう されるようになる。
1908年 ねん 6月18日 にち 、神戸 こうべ 港 こう から笠 かさ 戸 ど 丸 まる がサントス 港 みなと に到着 とうちゃく 。
1913年 ねん Tenente do Diadoという集団 しゅうだん が日本 にっぽん をテーマとした山車 だし でパレード。
1911年 ねん “Em Casa da Baiana”がレコードで発売 はつばい 。
1917年 ねん “Pelo Telephone”がレコードで発売 はつばい 。
1920年 ねん Cordaõと呼 よ ばれる集団 しゅうだん が大 おお きくなり、Bloco(ブロコ)と呼 よ ばれるようになる。
1928年 ねん 8月 がつ 12日 にち 、最初 さいしょ のエスコーラ・ジ・サンバとされるDeixa Falarが創立 そうりつ 。
1930年 ねん 1月 がつ 1日 にち 、サンパウロではVai-Vaiがエスコーラとして登録 とうろく 。
1932年 ねん 公式 こうしき に初 はつ のカルナヴァルが開催 かいさい され、5チームが出場 しゅつじょう 、プラッサ11(オンゼ)から出発 しゅっぱつ した。
1938年 ねん 4月 がつ 28日 にち 、Mangueiraがエスコーラとして1928年 ねん 4月 がつ 28日 にち に創立 そうりつ したとの証書 しょうしょ を登録 とうろく 。
1978年 ねん 8月 がつ 25日 にち 、Portelaがエスコーラとして1926年 ねん 4月 がつ 11日 にち に創立 そうりつ したとの証書 しょうしょ を登録 とうろく 。
サンバの演奏 えんそう 形式 けいしき 毎 ごと に、使用 しよう される楽器 がっき は異 こと なる。
日本 にっぽん では、戦前 せんぜん にタンゴ、戦後 せんご にマンボ、ルンバ、チャチャチャなどのラテン音楽 おんがく が紹介 しょうかい され、昭和 しょうわ 20〜30年代 ねんだい にラテン歌謡 かよう が流行 りゅうこう した。しかしブラジルが南米 なんべい で唯一 ゆいいつ のポルトガル語 ご 圏 けん であること、ブラジルへの渡航 とこう 距離 きょり や高額 こうがく な費用 ひよう などの理由 りゆう により、サンバはあまりきちんとした形 かたち で紹介 しょうかい されたことはなかった。なお、日本 にっぽん の歌謡 かよう 曲 きょく には「白 しろ い蝶 ちょう のサンバ 」や「お嫁 よめ サンバ 」、「てんとう虫 ちゅう のサンバ 」や「マツケンサンバ 」などと、タイトルにサンバと明記 めいき される曲 きょく もあるが、曲調 きょくちょう やメロディ、リズムなどの点 てん でブラジルのサンバとは大 おお きく異 こと なる。場合 ばあい によってはマンボ やルンバ のリズムや曲調 きょくちょう のものもある。これは日本 にっぽん にラテン音楽 おんがく が紹介 しょうかい された時 とき にそれらがすべて混同 こんどう されて、そのイメージが現在 げんざい にも影響 えいきょう しているといわれる。
日本 にっぽん でサンバのイメージが定着 ていちゃく し始 はじ めたのは、1960年 ねん 公開 こうかい のブラジル・フランス合作 がっさく 映画 えいが 「Orfeu Negro (黒 くろ いオルフェ )」(マルセル・カミュ 監督 かんとく )以降 いこう といわれる。この映画 えいが の音楽 おんがく はボサノヴァ が中心 ちゅうしん だったが、リオのカーニバル という世界 せかい 屈指 くっし の舞踏 ぶとう イベントも映画 えいが を通 つう じて日本 にっぽん に知 し られ、サンバとボサノヴァの境界 きょうかい の曖昧 あいまい さもあり、サンバも一緒 いっしょ に日本 にっぽん に知 し られるきっかけとなった。1960年代 ねんだい 前半 ぜんはん に世界 せかい を席巻 せっけん したボサノヴァ・ブームの最中 さいちゅう 、ボサノヴァ興隆 こうりゅう の祖 そ であるスタン・ゲッツ がアルバム「ジャズ・サンバ」を発表 はっぴょう するなど両 りょう ジャンルの親和 しんわ 性 せい に好意 こうい 的 てき なジャズ・プレーヤーが次々 つぎつぎ とサンバも日本 にっぽん に伝播 でんぱ させていく。
渡辺 わたなべ 貞夫 さだお ら一部 いちぶ の日本人 にっぽんじん ジャズ・ミュージシャンもボサノヴァを演奏 えんそう することが増 ふ え、合 あ わせてサンバも紹介 しょうかい されていった。その後 ご 70年 ねん ~80年代 ねんだい にかけてサンバのレコードが日本 にっぽん でも発売 はつばい されるようになり、一部 いちぶ の熱心 ねっしん な音楽 おんがく ファンによってリスナーが増 ふ えた。69年 ねん に長谷川 はせがわ きよし が「別 わか れのサンバ」という曲 きょく をレコーディングして小 しょう ヒットさせた。
南青山 みなみあおやま にある「プラッサ11(オンゼ)」は、日本 にっぽん における最初 さいしょ のサンバハウス(サンバ演奏 えんそう がライブで聴 き けるバー、レストラン)といわれ、これまでに多 おお くのブラジル人 じん ミュージシャンや日本人 にっぽんじん によるサンババンドが演奏 えんそう し、他 ほか にもサッシペレレなど複数 ふくすう の店舗 てんぽ がサンバが聴 き ける店 みせ として存在 そんざい している。
80年代 ねんだい には、神戸 こうべ まつり など日本 にっぽん 各地 かくち のイベントでブラジルのカーニバルを模倣 もほう したパレード形態 けいたい のサンバが存在 そんざい し、1981年 ねん に浅草 あさくさ で始 はじ まった浅草 あさくさ サンバカーニバル[18] を筆頭 ひっとう に、静岡 しずおか のシズオカ・サンバカーニバル(5月 がつ )[19] 、神戸 こうべ の神戸 こうべ まつり(5月 がつ )[20] 、沖縄 おきなわ の沖縄 おきなわ サンバカーニバル (11月)など、多 おお くの地域 ちいき でサンバイベントが行 おこな われている。1982年 ねん にはアルシオーネ (ポルトガル語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の楽曲 がっきょく 「愛 あい のサンバは永遠 えいえん に 」を伊藤 いとう 愛子 あいこ が日本語 にほんご 詞 し で歌唱 かしょう し紹介 しょうかい した。
なお、発生 はっせい 時 じ のボサノヴァはサンバ・カンサゥンから派生 はせい したサンバの変種 へんしゅ であり、一部 いちぶ のボサノヴァ・ミュージシャンをサンバ・ミュージシャンと捉 とら える観点 かんてん もある。詳 くわ しくはボサノヴァ の項 こう を参照 さんしょう 。