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クアルテート・エン・シー - Wikipedia

クアルテート・エン・シー(Quarteto em Cy)は、1960年代ねんだいからボサノヴァおよびMPBのジャンルで活動かつどうするブラジル女性じょせいコーラス・グループである。

来歴らいれき

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正式せいしきデビューまで

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バイーアしゅうサルヴァドールまれの4姉妹しまいである、シーヴァ(本名ほんみょう:cyva de sa leite 1939ねんまれ)シベーリ(cybele 1940ねんまれ)シナーラ(cynara 1945ねんまれ)シレーニ(cylene 1946ねんまれ)の頭文字かしらもじが「cy」の4姉妹しまいにより結成けっせいされる。1950年代ねんだい後半こうはんから地元じもと活動かつどうをはじめTVなどに出演しゅつえんはじめ、1960ねんごろには、リオデジャネイロ進出しんしゅつヴィニシウス・ヂ・モライスカルロス・リラらと親交しんこうむすぶ。かれらはグループの名付なづおやでもある。モライスは彼女かのじょたちを評価ひょうかして熱心ねっしんててやり、「できるなら全員ぜんいん結婚けっこんしたいぐらいだ」という迷言めいげんかたったという逸話いつわがある。1963ねんには、映画えいが「SOL SOBRE A LAME」のサントラ参加さんかする。

正式せいしきデビュー〜だいいち黄金おうごん

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1964ねんリオデジャネイロのボトルズ・バーではつのショーを開催かいさいし、これをもって正式せいしきにデビューする。その、ヴィニシウスとドリヴァル・カイミの「ズンズン」のショーにも参加さんかし、翌年よくねんレコードエレンコから発売はつばい)される。このとしはじめての「クアルテート・エン・シー」名義めいぎでアルバム「QUARTETO EM CY」をFORMAから発売はつばいする。このアルバムには、デオダートボサ・トレススペインばんなども参加さんかした。これと前後ぜんごして「A BOSSA NO PARAMOUNT」(RGEから発売はつばい)に参加さんか収録しゅうろくきょくはカルロス・リラの「TEM DO ME MIM」の1きょくのみだが、貴重きちょうなライブ収録しゅうろくになる。

1965ねんには、2まいのアルバム「SOM DEFINITIVO」(FORMAから発売はつばい)を発売はつばいタンバ・トリオスペインばん録音ろくおんし、エドゥ・ロボさくの「ALELUIA」「ARRASTAO」「ZAMBI」、バーデン・パウエル=ヴィニシウスさくの「APELO0」、アントニオ・カルロス・ジョビンさくの「AGUA DE BEBER」など収録しゅうろく。アフロ・サンバしょくつよいアルバムになる。1966ねんはじめバーデン・パウエル=ヴィニシウスさくの「アフロ・サンバ(OS AFRO SAMBAS)」に参加さんか。このとし、シレーニが結婚けっこんにより引退いんたいし、レジーナ・ヴェルネッキと交代こうたいし、シコ・ブアルキさくの「ア・バンダ(A BANDA)」を収録しゅうろくした「QUARTETO EM CY」(FORMAから発売はつばい上記じょうき同名どうめいアルバムとはべつもの)を発売はつばいする。「cy」の辻褄つじつまわせるため、アルバム表記ひょうきではレジーナにもcyがついて「シレジーナ」にされてしまっていた。

このころよりすうかい渡米とべいし、「アンディ・ウィリアムズ・ショー」出演しゅつえん。ワーナーよりガールズ・フロム・バイーア名義めいぎで「PERDON MY ENGLISH」を発売はつばいする。このアルバムは、ポルトガル英語えいご両方りょうほう言語げんご収録しゅうろくしたバラエティしょくつよいアルバムになる。これと前後ぜんごして「MARRE DE CY」(エレンコから発売はつばい)を発売はつばいシヂネイ・ミレールポルトガルばん作品さくひんや、黒人こくじんサンバなどレパートリーのはばひろげたアルバムになる。1967ねんにメンバーないのシナーラとシベーリがクアルテート・エン・シーと平行へいこうし「シナーラ・イ・シーベリ(Cynara E Cybele)」を結成けっせいだい2かいリオ国際こくさい音楽おんがくさいシコ・ブアルキさくの「CAROLINA」をうたい3になる。翌年よくねんだい3かいではシコとジョビンさくの「サビア(SABIA)」で優勝ゆうしょうする。アルバム「Cynara E Cybele」、コンピレーションばん「AS 12 MAIS」「O BRASIL CANTA NO RIO」(すべCBSソニーから発売はつばい)などを発表はっぴょうし、クアルテート・エン・シーを退団たいだんする。ここまでがだい1黄金おうごん時代じだいべる。

新生しんせいクアルテート・エン・シーへ

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1968ねんには「EM CY MAIOR」(ELENCO発売はつばい)を発売はつばいセルジオ・ポルトスペインばん英語えいごばんトッキーニョなどの作品さくひん収録しゅうろく。ボサノヴァとくくりでほんさくかたれない作品さくひんになる。これをにELENCOから発表はっぴょうがなくなる。同年どうねんアメリカではボサノヴァブーム只中ただなかでワーナーより「THE EXCITING NEW SOUND」を発売はつばいする。こののち、シンシア、シミラミスを代役だいやくラスベガスなどで活動かつどう1972ねんにシーヴァが帰国きこくし、シナーラにドリーニャ・タパジョスとソーニアがくわわり、新生しんせいクアルテート・エン・シーが誕生たんじょうオデオン契約けいやくし「QUARTETO EM CY」(オデオンから発売はつばい)(※上記じょうきどうタイトルとはべつのもの)を1まい発売はつばい、さらにシングルばん製作せいさくした。このあとにフィリップス・レコード契約けいやくむすぶ。 ここからがだい2黄金おうごん時代じだいべる。1974ねんには盟友めいゆうヴィニシウス、トッキーニョとうとのライブなどの活動かつどうおこなうようになる。

1975ねんに「ANTOLOGIA DO SAMBA CANÇÃO VOL.1」、よく1976ねんには、どうVOL.2(ともにフィリップスから発売はつばい)に参加さんか。サンバ・カンサォントリビュートアルバムさい評価ひょうかつながる重要じゅうようばんである。 それ以降いこうは、「RESISTINDO」(1976ねんのライブばん)、「QUERELAS DO BRASIL」、(1978ねん発売はつばいのアルバム)、「COBRA DE VIDRO」(1978ねんMPB4英語えいごばんとのショー)、「EM 1000 KILOHELTZ」(1979ねんのショー)、「FLICTS」(1980ねん絵本えほん作家さっかジラウド作品さくひん音楽おんがく作品さくひん。セルジオ・リカルドと共演きょうえん)、「INTERPRETA GONZAGUINHA CAETANO IVAN MILTION」(1980ねんオムニバスばん)などがある。このころ、メンバーのドリーニャが白血病はっけつびょうくなってしまう不幸ふこうきる。しかしシベーリをもど活動かつどう再開さいかいする。それ以降いこう精力せいりょくてきにリリースをかさね、2006ねん時点じてんでも活動かつどう継続けいぞくしている。

外部がいぶリンク

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