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日本映画 - Wikipedia

日本にっぽん映画えいが

日本にっぽんにおける映画えいが産業さんぎょう

日本にっぽん映画えいが(にほんえいが)は、一般いっぱんてき日本にっぽん国内こくない映画えいがかんなどで公開こうかいされることを前提ぜんていとして、日本にっぽん国籍こくせきもの、あるいは日本にっぽん国内こくないほうもとづく法人ほうじん出資しゅっし製作せいさく)している映画えいがすが、詳細しょうさい定義ていぎ識者しきしゃによってことなる。くに(ほうが)とも呼称こしょうされる。また、映画えいがのことは時代じだいによって活動かつどう写真しゃしんキネマ・シネマとうともばれる。

概要がいよう

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トーマス・エジソンによって1891ねん発明はつめいされたキネトスコープ世界せかいてき映画えいが起源きげんとなるが、それをもちいて日本にっぽん最初さいしょ上映じょうえいがなされたのは1896ねん11月で、当時とうじ西洋せいよう技術ぎじゅつ最先端さいせんたんである映画えいが到来とうらいしたとしにあたる。日本人にっぽんじんによる映画えいが撮影さつえいとしては1898ねん浅野あさの四郎しろうによる短編たんぺん映画えいが地蔵じぞう』『死人しにん蘇生そせい』にはじまる。ここから現代げんだいいたるまで日本にっぽん映画えいが日本にっぽん文化ぶんか影響えいきょうつよけつつ、独自どくじ発展はってんげ、日本にっぽん代表だいひょうする大衆たいしゅう娯楽ごらくのひとつとして位置付いちづけられていった。

日本にっぽん映画えいがジャンルとして明確めいかく定義ていぎすることは困難こんなんであり、日本人にっぽんじん監督かんとくによって、日本人にっぽんじん俳優はいゆうおももちいて、日本人にっぽんじんらで撮影さつえいし、日本にっぽん国内こくない上映じょうえいする日本語にほんご映画えいが、という条件じょうけんのもと、そのいくつかがてはまるものを一般いっぱん日本にっぽん映画えいが呼称こしょうしている[1]。しかし、『ホノカアボーイ』などのそう海外かいがいロケ映画えいがや、フランス資本しほんもと黒澤くろさわあきら大島おおしまなぎさ撮影さつえいした映画えいが在日ざいにち韓国かんこく朝鮮ちょうせんじん監督かんとくなど日本にっぽん国籍こくせき日本語にほんご話者わしゃによる映画えいがなど、すべての条件じょうけんたしていなくても、日本語にほんご話者わしゃ日本にっぽんでの最初さいしょ公開こうかいけにつくった映画えいが邦画ほうが認知にんちされる[2]

背景はいけい

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山中やまなか貞雄さだお人情にんじょう紙風船かみふうせん

日本にっぽん映画えいが日本にっぽん映画えいがたりえた背景はいけいには当然とうぜん日本にっぽん文化ぶんか影響えいきょう存在そんざいしている。映画えいが日本にっぽん到来とうらいする時代じだい日本にっぽん比較的ひかくてきたか識字しきじりつほこっており、大衆たいしゅうてきものから新聞しんぶん児童じどうしょなどあらゆる書物しょもつ庶民しょみんしたしまれていた。また、映画えいがよりはるかになが歴史れきし歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりなどの伝統でんとう演劇えんげき日本にっぽん映画えいがあたえた影響えいきょうはかれない。これは今日きょうでも映画えいがかん劇場げきじょう呼称こしょうしたりすることからもうかがえる。

また、初期しょき無声むせい映画えいが時代じだい上映じょうえいにあたり、弁士べんしばれるフィルムの説明せつめいしゃ存在そんざいしたが、映像えいぞう分離ぶんりした音声おんせい享受きょうじゅするというシステム、くちおどりげいばれる洗練せんれんされたかたりの手法しゅほうは、すで人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりをはじめとする演劇えんげき確立かくりつされており、日本人にっぽんじんにすんなりとれられ、独自どくじ発展はってんげたとされる。庶民しょみんにとってだれ弁士べんしつとめるかも映画えいが鑑賞かんしょう重要じゅうよう判断はんだん基準きじゅんとなり、花形はながた弁士べんしえんじる映画えいがそうじて人気にんきはくした。無声むせい映画えいがとはこえ映像えいぞうのみの映画えいがすが、日本にっぽん映画えいがにおいてはしん意味いみでの無声むせい映画えいが存在そんざいしていなかったとって[3]

純粋じゅんすい日本にっぽん文化ぶんか映画えいが昇華しょうかし、日本にっぽん映画えいがらしさをそうとする一方いっぽうで、国外こくがい文化ぶんか素材そざい日本にっぽんふう咀嚼そしゃくし、混交こんこうするという日本にっぽん映画えいが多数たすう誕生たんじょうしている。ジャック・フェデーの『ミモザかん』から着想ちゃくそう山中やまなか貞雄さだおの『人情にんじょう紙風船かみふうせん』や[4]ウィリアム・シェイクスピアの『リアおう』が原作げんさくとされる黒澤くろさわあきらの『らん』などがそれにあたる[5]

サイレント時代じだい

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シネマトグラフ
 
忠臣蔵ちゅうしんぐら』(尾上おがみ松之助まつのすけ
 
関東大震災かんとうだいしんさいにより廃墟はいきょした神奈川かながわけん横浜よこはま
 
鞍馬あんば天狗てんぐあらしひろし寿郎としお

日本にっぽんにおけるはつ映画えいが上映じょうえいは、鉄砲てっぽう商人しょうにんであった高橋たかはし信治しんじによって1896ねん11月、神戸こうべかみこう倶楽部くらぶはじまった。これはトーマス・エジソンキネトスコープによるものである。リュミエール兄弟きょうだいシネマトグラフによるスクリーン上映じょうえい1897ねん1がついねはた勝太郎かつたろうによって京都きょうと電燈でんとう株式会社かぶしきがいしゃ当時とうじ本社ほんしゃ現在げんざいもとたてまこと小学校しょうがっこう敷地しきち)の中庭なかにわにてはじめておこなわれた。つづいて1897ねん2がつはじめての「有料ゆうりょう上映じょうえい」がいねはた勝太郎かつたろうによって大阪おおさかにておこなわれた。同年どうねん3がつには東京とうきょうでキネトスコープを改良かいりょうしたヴァイタスコープ公開こうかいされ、人気にんきはくした。谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろう自著じちょ幼少ようしょう時代じだい』において「いちかんのフィルムのりょうはしをつなぎわせ、おな場面ばめんなんかいかえうつせるもの」とひょうしている。

その浅野あさの四郎しろうによっていくつかの短編たんぺん映画えいがられ、1898ねん日本にっぽんはじめて映画えいが撮影さつえいされた。

1898ねんにはさきげた『地蔵じぞう』『死人しにん蘇生そせい』が、よく1899ねんには『芸者げいしゃおどり』(東京とうきょう歌舞伎座かぶきざ)が公開こうかいされた。これは小西こにし本店ほんてん小西こにしろく写真しゃしん工業こうぎょうげんコニカミノルタ)の浅野あさの四郎しろうゴーモンしゃせい撮影さつえいにてしば紅葉こうようかん実写じっしゃ撮影さつえいし、駒田こまだ好洋よしひろひきいる「日本にっぽん率先そっせん活動かつどう写真しゃしんかい」によって一般いっぱん公開こうかいされた。同年どうねんには1かん70フィートの日本にっぽん最初さいしょ劇映画げきえいがとなる『ピストル強盗ごうとう清水しみず定吉さだきち』が駒田こまだ好洋よしひろによって撮影さつえいされ、日本にっぽんはつ映画えいが俳優はいゆうとして新派しんぱ横山よこやま運平うんぺい起用きようされた。積極せっきょくてき映画えいが接触せっしょくしようとした新派しんぱとはことなり歌舞伎かぶきなどは映画えいがを「どろ芝居しばい」とさげすみ、原作げんさく役者やくしゃ提供ていきょう躊躇ちゅうちょする時代じだいであった[6]現存げんそんするもっとふる日本にっぽん映画えいがとしては同年どうねん柴田しばた常吉つねきちによって撮影さつえいされた『紅葉狩もみじがり』がある。

1903ねんには吉沢よしざわ商店しょうてん浅草あさくさ日本にっぽん最初さいしょとなる映画えいが専門せんもんかん電気でんきかん」を設置せっちした[7]よく1904ねんにち戦争せんそう勃発ぼっぱつすると実写じっしゃ撮影さつえいはん現地げんち中国ちゅうごく大陸たいりく派遣はけんし、その映像えいぞうをドキュメンタリー映画えいがとして上映じょうえいし、人気にんきはくした。

1908ねん発表はっぴょうされた『本能寺ほんのうじ合戦かっせん』は最初さいしょ本格ほんかくてき劇映画げきえいがであり、横田よこた商会しょうかい依頼いらいほん作品さくひんげた牧野まきの省三しょうぞう日本にっぽん最初さいしょ映画えいが監督かんとくとしてのこしている。京都きょうと浄瑠璃じょうるり小屋こや所有しょゆうし、狂言きょうげんかたとして活動かつどうしていた牧野まきの作品さくひん原作げんさくもちいられる浄瑠璃じょうるりそら暗記あんきしていたことから、脚本きゃくほんもちいることく、撮影さつえいにあたったとわれている。翌年よくねんには歌舞伎かぶき俳優はいゆう尾上おがみ松之助まつのすけ主演しゅえんした『碁盤ごばん忠信ちゅうしん』がだいヒットとなり、「目玉めだままつちゃん」として日本にっぽん最初さいしょのスターが誕生たんじょうした。以降いこう尾上おのえは14年間ねんかん俳優はいゆう生活せいかつにおいてせんほんえる映画えいが主演しゅえんたしている。なかでも1910ねんられた『忠臣蔵ちゅうしんぐら』は浄瑠璃じょうるり歌舞伎かぶきつづき、その日本にっぽん映画えいがにおいてもかせない題材だいざいとして庶民しょみん人気にんきでありつづけた。後年こうねん牧野まきのはその功績こうせきとなえられ、アメリカの映画えいが監督かんとくD・W・グリフィスによりグリフィス・マキノという称号しょうごうあたえられている[8]

1912ねん横田よこた商会しょうかい吉沢よしざわ商店しょうてんM・パテー商会しょうかいぶくたからどうという4つの映画えいが会社かいしゃトラスト合同ごうどうおこない、日本にっぽん活動かつどう写真しゃしん株式会社かぶしきがいしゃ略称りゃくしょう日活にっかつ発足ほっそくさせた。日活にっかつ従来じゅうらい家内かない工業こうぎょうてき小規模しょうきぼ製作せいさくから一線いっせんかくす、日本にっぽんはつ本格ほんかくてき映画えいが会社かいしゃとなった。東京とうきょう向島むこうじま向島むこうじま撮影さつえいしょ京都きょうと二条城にじょうじょう西にし櫓下やぐらした関西かんさい撮影さつえいしょの2箇所かしょ撮影さつえいしょもうけ、東京とうきょうでは新派しんぱ現代げんだいげき)を、京都きょうとでは旧劇きゅうげき時代じだいげき)を製作せいさくした。

1914ねん4がつ3にち日本にっぽんはつのカラー劇映画げきえいが義経よしつね千本せんぼんさくら』が公開こうかい[9]

ここまでのおおくのフィルムは演劇えんげきてき演出えんしゅつ再現さいげんまり、映画えいがとして独自どくじ技法ぎほうこころみられるようになるのは1910年代ねんだい後半こうはんはいってからである。井上いのうえ正夫まさお1917ねん製作せいさくした『大尉たいいむすめ』ではクローズアップ移動いどう技法ぎほうカットバックといった技法ぎほう導入どうにゅうされている。このころより呼称こしょうも「活動かつどう写真しゃしん」から「映画えいが」へと次第しだい変遷へんせんはじまり、1922ねんごろまでには映画えいがという言葉ことば一般いっぱん庶民しょみんにもふか浸透しんとうするようになった。

一方いっぽう映画えいが評論ひょうろんにおいては、吉沢よしざわ商店しょうてん1909ねん発表はっぴょうしたはつ映画えいが雑誌ざっし活動かつどう写真しゃしんかい』などがすでにあったが、1917ねん帰山かえりやま教正のりまさが『活動かつどう写真しゃしんげき創作そうさく撮影さつえいほう』とだいする理論りろんしょ発表はっぴょうしたのをきっかけに1918ねんには日本にっぽん映画えいが近代きんだい運動うんどうじゅん映画えいがげき運動うんどう」がこる。映画えいが芸術げいじゅつ協会きょうかい主宰しゅさいした帰山きさん同書どうしょ映画えいが演劇えんげき模倣もほうであってはならないとき、舞台ぶたい脚本きゃくほんをシナリオ、女形おんながた女優じょゆう弁士べんし字幕じまくとして呼称こしょうした。帰山きさん作品さくひんには日本にっぽんはつ女優じょゆう花柳はなやぎはるみ使つかった『なまかがや』、日本にっぽんはつ女性じょせいヌードシーン撮影さつえいした『幻影げんえいおんな』などがある。

その背景はいけいにはだいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつし、ハリウッド映画えいが会社かいしゃ徐々じょじょ日本にっぽんへと進出しんしゅつしてきた影響えいきょう否定ひていできない。こうしたうごきにわせるようにくにかつだいかつといった映画えいが会社かいしゃ相次あいついで設立せつりつされ、1920ねんには歌舞伎かぶき本業ほんぎょうとしていた松竹しょうちく松竹しょうちくキネマ合名ごうめい会社かいしゃ設立せつりつ製作せいさくした。とく松竹しょうちくてた俳優はいゆう養成ようせいしょはハリウッドのスター・システム採用さいようし、『路上ろじょう霊魂れいこん』のえい百合子ゆりこや『虞美人草ぐびじんそう』の栗島くりしますみなど、多数たすう女優じょゆう輩出はいしゅつした。また、松竹しょうちくんだハリウッドの現役げんえきキャメラマン、ヘンリー小谷おたにたした影響えいきょうおおきい。かれレフばん華麗かれいもちいて撮影さつえいしたというエピソードは、日本にっぽん映画えいがたんうつすという段階だんかいから、いちすすんで商品しょうひんとして、あたらしい芸術げいじゅつ、メディアとしての映画えいがのありかた象徴しょうちょうするものだった。

このじゅん映画えいがげき運動うんどう1923ねん関東大震災かんとうだいしんさいで、現代げんだい劇映画げきえいが製作せいさくしていた東京とうきょうのあらゆる撮影さつえいしょ壊滅かいめつし、旧劇きゅうげき中心ちゅうしん京都きょうとでの撮影さつえいのみがおこなわれる状況じょうきょう発生はっせいしたことにより突然とつぜん終焉しゅうえんむかえることとなった。1926ねんはいると松竹しょうちくによる現代げんだいげき本格ほんかくし、牛原うしはらきょによる『かれ東京とうきょう』(1928ねん)、『りく王者おうじゃ』(1928ねん)など、ごく普通ふつう庶民しょみん等身とうしんだいえが都会とかいふう現代げんだいげき出現しゅつげんした。また、しょ平之ひらのすけによる『むら花嫁はなよめ』(1928ねん)や『伊豆いず踊子おどりこ』(1933ねん)のように、田舎いなか田園でんえん舞台ぶたいとした牧歌ぼっかてき叙情じょじょうてき作品さくひん登場とうじょうしている。エルンスト・ルビッチつよ影響えいきょうけた小津おつあん二郎じろうは、『大学だいがくたけれど』(1929ねん)、『落第らくだいはしたけれど』(1930ねん)など庶民しょみん主人公しゅじんこうとした人生じんせいかんんだ作品さくひん数多かずおおのこした。

こうした松竹しょうちくうごきにおくれをった日活にっかつは、1923ねん震災しんさいによる向島むこうじま撮影さつえいしょ閉鎖へいさけてようやく女形おんながたから女優じょゆうへの移行いこうたす。翌年よくねんには京都きょうと郊外こうがい太秦うずまさむらに「日活にっかつ太秦うずまさ撮影さつえいしょ」(大映だいえい京都きょうと撮影さつえいしょ)が開設かいせつされる。日活にっかつ現代げんだいげき代表だいひょうともされる溝口みぞぐち健二けんじはハリウッドでまなんだ撮影さつえい技法ぎほう駆使くしし、『きりみなと』(1923ねん)、『れい』(1923ねん)、『狂恋きょうれんおんな師匠ししょう』(1926ねん)など、様々さまざまなジャンルをこころみ、こういしずえきずいた。

他方たほう内務省ないむしょう警保きょくによる活動かつどう写真しゃしん検閲けんえつなどもおこなわれ、ころもりゅう貞之助ていのすけの『日輪にちりん』(1925ねん)などは作品さくひん当局とうきょく介入かいにゅうはいり、大幅おおはば編集へんしゅう余儀よぎなくされ、改作かいさく改題かいだいうえ公開こうかいとなるなど、検閲けんえつ影響えいきょうにより興行こうぎょうてき失敗しっぱいとなった作品さくひんすくなくない。しかし、衣笠きぬがさはその精力せいりょくてき活動かつどうつづけ、日本にっぽん最初さいしょ前衛ぜんえい映画えいがとなる『きょうつたいちぺーじ』(1926ねん)や欧州おうしゅうたか評価ひょうかけた『十字路じゅうじろ』(1928ねん)など、「じゅん映画えいがげき運動うんどう」の目的もくてき目標もくひょう達成たっせいさせている。

時代じだいげきうつすと、尾上おがみ主演しゅえんいちせんほん記念きねん作品さくひん荒木あらき又右衛門またえもん』(1925ねん)などがげられるが、従来じゅうらい悠々ゆうゆうとした口上こうじょうべ、ひとるといったスタイルから、よりスピーディではげしい殺陣さつじんもとめられるようになっていた。こうしたスタイルをいちはや確立かくりつしたばんひがしつま三郎さぶろうは『りょ』(1925ねん)で人気にんきはくす。そのほか大河内おおこうち傳次郎でんじろうによる『丹下たんげひだりぜん』や、市川いちかわみぎふと衛門えもんの『旗本はたもと退屈たいくつおとこ』、あらしひろし寿郎としおの『鞍馬あんば天狗てんぐ』など、あたらしい時代じだいげき多数たすう登場とうじょうした。

1927ねん昭和しょうわ2ねん)、映画えいが実際じっさい連盟れんめい友達ともだちかい」が発足ほっそく松竹しょうちく蒲田かまたから牛原うしはらきょ島津しまつ保次郎やすじろう大久保おおくぼただしもとらが、日活にっかつからは村田むらたみのる溝口みぞぐち健二けんじ岡田おかだ嘉子よしこらが、ばんつまプロからは鈴木すずき重吉しげよし川浪かわなみ良太りょうた近藤こんどう与吉よきちらが参加さんかした[10]目立めだった活動かつどうはなかったが、製作せいさく会社かいしゃ横断おうだんする映画えいが業界ぎょうかいじん組織そしきであったことは特筆とくひつすべきことであり、文壇ぶんだんさかいからひくくみられがちな映画えいがかい地位ちい向上こうじょうはか契機けいきにもなった。

音声おんせい映画えいが戦前せんぜん黄金おうごん時代じだい

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トーキー映画えいがみのおやリー・ド・フォレスト

映像えいぞうたいし、音声おんせいくわえようとするこころみは映画えいが移入いにゅうとほぼ同時どうじになされており、河浦かわうら謙一けんいちは1902ねんにレコードの回転かいてんとフィルムの回転かいてん同期どうきさせることによるトーキー実験じっけんおこなっている。これらのこころみが商業しょうぎょうてき脚光きゃっこうびるのは1927ねん昭和しょうわキネマによるミナ・トーキーであった。アメリカのリー・ド・フォレストからトーキー技術ぎじゅつ権利けんり購入こうにゅうした皆川みなかわ芳造よしぞうによるものである。

ミナ・トーキーを使用しようした小山内おさないかおるによる『黎明れいめい』は技術ぎじゅつてき問題もんだいから公開こうかいにはいたらず、日本にっぽん最初さいしょのトーキー映画えいが1929ねんの『大尉たいいむすめ』であった。同年どうねん、ミナ・トーキーとはべつ方式ほうしき東條とうじょうまさしせいのイーストフォン・トーキーを採用さいようしようと研究けんきゅうしたが、結局けっきょく独自どくじディスクしきトーキーマキノ正博まさひろ監督かんとくした『もどはし』が公開こうかいされた[11]。イーストフォンは一般いっぱんには浸透しんとうしなかった。その溝口みぞぐち健二けんじによる『ふるさと』(1930ねん)などがつづいたが、字幕じまく音声おんせい併用へいようしたいわゆるパート・トーキー形式けいしき一般いっぱんてきで、完全かんぜんなトーキー映画えいがとして最初さいしょ登場とうじょうしたのはしょ平之ひらのすけの『マダムと女房にょうぼう』(1931ねん)であった。

資本しほんりょくのある大会たいかいしゃはこの時代じだい積極せっきょくてき無声むせい映画えいがからトーキー映画えいがへと移行いこうはかり、一部いちぶ例外れいがいとして小津おつあん二郎じろうのようにトーキーに懐疑かいぎてきけるものもいた[12]。1935ねんには完全かんぜん移行いこうげるが、財政ざいせいてき移行いこうむずかしい独立どくりつプロは1938ねんごろまで無声むせい映画えいがつづけた。この結果けっかしょうスタジオは続々ぞくぞく大手おおて映画えいが会社かいしゃ吸収きゅうしゅうされていく。

また、無声むせい映画えいが時代じだい終了しゅうりょうしても海外かいがい映画えいが解説かいせつやくとして存続そんぞくはかられた弁士べんしも、1931ねんモロッコ』ではじめて採用さいようされた字幕じまくスーパー登場とうじょうにより、不要ふよう存在そんざいとなった。既得きとく権益けんえきまもろうとした弁士べんしはトーキー侵出しんしゅつ妨害ぼうがい活動かつどうたが、時代じだいながれにさからうことはもはや不可能ふかのうとなり、弁士べんし存在そんざいわすれられていった。

こうしたトーキーの出現しゅつげんあたらしい俳優はいゆう出現しゅつげんしんジャンルの確立かくりつもたらした。落語らくご声帯せいたい模写もしゃなど、かたげい生業せいぎょうとするものがスクリーンへ登場とうじょうはじめ、榎本えのもと健一けんいち古川緑波ふるかわろっぱなどといった喜劇きげき俳優はいゆう台頭たいとうするようになった。また、『愛染あいぞめかつら』(1938ねん)のように主題歌しゅだいか流行りゅうこうとおして人気にんきはく映画えいがあらわれるようになった。

トーキー映画えいが出現しゅつげんは、撮影さつえい期間きかん長期ちょうきという現象げんしょうもたらすこととなった。これがきっかけとなり日活にっかつは1934ねん多摩川たまがわへ、松竹しょうちくは1936ねん大船おおふなへそれぞれ撮影さつえいしょ移転いてん拡充かくじゅうした。それぞれの特徴とくちょうとして日活にっかつ重厚じゅうこう泥臭どろくさ作風さくふうを、松竹しょうちく洗練せんれんされた都会とかいふう作風さくふう得意とくいとしていた。日活にっかつ代表だいひょうする監督かんとくとしては『人生じんせい劇場げきじょう青春せいしゅんへん』(1936ねん)、『』(1939ねん)の内田吐夢うちだとむ、『蒼氓そうぼう』(1937ねん)、『阿部あべ一族いちぞく』(1938ねん)の熊谷くまがいひさとら松竹しょうちく代表だいひょうする監督かんとくとしては『となり八重やえちゃん』(1934ねん)の島津しまつ保次郎やすじろう、『愛染あいぞめかつら』(1938ねん)、『一人ひとり息子むすこ』(1936ねん)の野村のむらひろししょう、『りがたうさん』(1936ねん)、『花形はながた選手せんしゅ』(1937ねん)の清水しみずひろしなどがげられる。こうした一連いちれん作風さくふう疑問ぎもんげかけた溝口みぞぐち健二けんじは『なみはな悲歌ひか』(1936ねん)、『祇園ぎおん姉妹しまい』(1936ねん)などで方言ほうげんもちいた作品さくひんげ、既存きそんの「映画えいが東京とうきょうべんでなければならぬ」という概念がいねんくずしていった。

1930ねん設立せつりつされたPCLは1933ねんより映画えいがせい作業さぎょうかいへの参入さんにゅう表明ひょうめいした。黒澤くろさわあきら本多ほんだいの四郎しろう瀧口たきぐち修造しゅうぞう井深いぶかまさるなど、多数たすうのスタッフをあつめ、日本にっぽん最初さいしょのプロデューサー・システムを採用さいようした会社かいしゃとなった。初期しょきには木村きむら荘十二そとじの『かわこうふの青春せいしゅん』(1933ねん)、『あにいもうと』(1936ねん)や松竹しょうちくより移籍いせきしてきた成瀬なるせ巳喜男みきおの『つま薔薇ばらのやうに』(1935ねん)、石田いしだ民三たみぞうの『はなちりぬ』(1938ねん)などが人気にんきはくした。とく成瀬なるせの『つま薔薇ばらのやうに』は海外かいがい進出しんしゅつ実現じつげんし、ニューヨークで一般いっぱん公開こうかいされたはつ日本にっぽん映画えいがとなった。当初とうしょ、PCLは配給はいきゅうかん所有しょゆうしていなかったことから、興行こうぎょうてき苦戦くせんいられたが、1937ねん小林こばやし一三かずみなどのはたらきにより「写真しゃしん化学かがく研究所けんきゅうじょ」、京都きょうと大沢おおさわ商会しょうかい映画えいがスタジオである「J.O.スタヂオ」、阪急はんきゅう資本しほんによる配給はいきゅう会社かいしゃ東宝とうほう映画えいが配給はいきゅう」などと合併がっぺいし、東宝とうほう映画えいがとして配給はいきゅうじょう困難こんなん解消かいしょうし、日活にっかつ松竹しょうちくつづだい映画えいが会社かいしゃとなった。

1937ねん日本にっぽん当時とうじナチス・ドイツとのあいだで、一本いっぽん国策こくさくてき映画えいが製作せいさくされた。山岳さんがく映画えいが得意とくいとしたドイツのアーノルド・ファンク伊丹いたみ万作まんさく共同きょうどう監督かんとく製作せいさくされた『あたらしき』である。日本にっぽんでの興行こうぎょうてき成績せいせきでは失敗しっぱいわったが、主演しゅえん女優じょゆうとして典型てんけいてき日本人にっぽんじん女性じょせい大和やまと光子こうしえんじたはら節子せつこはその容貌ようぼう演技えんぎ絶賛ぜっさんされ、戦時せんじ日本にっぽん映画えいがにおいてかせない女優じょゆうとなった。

1937ねん8がつ映画えいが巻頭かんとうに「挙国一致きょこくいっち」「銃後じゅうごまもれ」などの1まいタイトルを挿入そうにゅう義務付ぎむづけられた[13]。この1まいタイトルは「国民こくみん精神せいしん総動員そうどういん」、「忠魂ちゅうこん遺族いぞく援護えんごささじゅう」(1941ねん)「ちてしまむ」「いちおくまことくるへいいえ」(1943ねん)と変遷へんせんしながら、終戦しゅうせんまでつづいた。同年どうねんには映画えいが上映じょうえいまえニュース映画えいが上映じょうえいすることが義務付ぎむづけられ、1940ねんには新聞しんぶん各社かくしゃのニュース映画えいが部門ぶもん統合とうごうした社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽんニュース映画えいがしゃ日本にっぽん映画えいがしゃ)が設立せつりつにより、日本にっぽんのニュース映画えいが同社どうしゃ製作せいさくする「日本にっぽんニュース」1ほんのみとなった。

戦時せんじ映画えいが

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加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』(1944ねん

だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそう)による国民こくみん国土こくど疲弊ひへいは、映画えいが産業さんぎょうかいにおいても、甚大じんだい影響えいきょうあたえていた。1941ねん昭和しょうわ16ねん当時とうじ日本にっぽんはアメリカにいで年間ねんかん500ほんちかくの本数ほんすう映画えいが制作せいさくしていた映画えいが大国たいこくであったが、1945ねん昭和しょうわ20ねん)にはわずか26ほんにまで減少げんしょうしていた[14]。また、1939ねん昭和しょうわ14ねん)に成立せいりつした映画えいがほうにより、製作せいさく配給はいきゅう許可きょかせいに、監督かんとく俳優はいゆう登録とうろくせいとなり、製作せいさくされる作品さくひんについても、脚本きゃくほん段階だんかい検閲けんえつはいった。

さらに、欧州おうしゅうでの大戦たいせん勃発ぼっぱつABCD包囲ほういもうによる経済けいざい制裁せいさい発動はつどうは、ドイツやアメリカからの撮影さつえい機材きざいやフィルム輸入ゆにゅう途絶とだえることにより、国産こくさんフィルムは軍需ぐんじゅひんとしてきびしい使用しよう制限せいげんがかけられ、映画えいが業界ぎょうかいにとって死活しかつ問題もんだいとなった。東宝とうほうはこれらの状況じょうきょう打破だはするため、軍部ぐんぶ積極せっきょくてきかかわること活路かつろ見出みいだしたが、日活にっかつは1942ねん昭和しょうわ17ねん)に永田ながた雅一まさいち主導しゅどうによる合併がっぺいまれてだい日本にっぽん映画えいがとなり、日活にっかつえていった。戦前せんぜん数多かずおお存在そんざいした独立どくりつスタジオは、閉鎖へいさ合併がっぺい繰返くりかえし、映画えいが産業さんぎょう規模きぼ急速きゅうそく縮小しゅくしょうし、東宝とうほう松竹しょうちく大映だいえいの3しゃのこすのみとなった。1942ねん2がつ6にちには社団しゃだん法人ほうじん映画えいが配給はいきゅうしゃうつはい)が設立せつりつされ、各社かくしゃ配給はいきゅうもうべにけいしろけいの2つに統制とうせいされた。

戦時せんじでは、戦争せんそう主題しゅだいとした映画えいがしゅとして製作せいさくされ、田坂たさかたかしは『にん斥候せっこうへい』(1938ねん)で、戦場せんじょうにおける信頼しんらいをテーマとした作品さくひんり、ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい入賞にゅうしょうたした。皇紀こうき2600ねん記念きねん阿部あべゆたかの『もえゆる大空おおぞら』(1940ねん)では実写じっしゃおもきをいた航空こうくう映画えいがとして、陸軍りくぐん航空こうくう本部ほんぶ監修かんしゅうにより実物じつぶつ戦闘せんとうばくげき撮影さつえい使用しようされた[注釈ちゅうしゃく 1]吉村よしむらこう三郎さぶろう製作せいさくした『間諜かんちょういませず』(1942ねん)は戦意せんい高揚こうよううったえる映画えいがつづなかで、スパイへの警戒けいかいうったえためずらしいくち映画えいがとなった。また、山本やまもと嘉次郎かじろうの『ハワイ・マレーおき海戦かいせん』(1942ねん)では、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき再現さいげんした特撮とくさつ担当たんとう円谷つぶらや英二えいじによる精巧せいこうミニチュア話題わだいび、軍神ぐんしん加藤かとう建夫たけお飛行ひこうだい64戦隊せんたいえがいた『加藤かとうはやぶさ戦闘せんとうたい』(1944ねん)では、陸軍りくぐん全面ぜんめん協力きょうりょくにより実物じつぶつ戦闘せんとうばくげきおよび連合れんごう国軍こくぐん鹵獲ろかく多数たすう出演しゅつえんし、円谷つぶらや特撮とくさつ高度こうど合成ごうせい技術ぎじゅつとともに迫力はくりょくある作品さくひんとなった。海軍かいぐんしょう後援こうえんにより日本にっぽんはつ長編ちょうへんアニメーション映画えいがとして瀬尾せお光世みつよ監督かんとくの『桃太郎ももたろううみわし』(1943ねん)も製作せいさくされた。その南方みなかた戦線せんせん接収せっしゅうされたウォルト・ディズニー・カンパニー制作せいさく長編ちょうへんアニメ映画えいがファンタジア』を参考さんこうにした瀬尾せおにより『桃太郎ももたろう うみかみへい』が制作せいさくされたが、スタッフの徴兵ちょうへい物資ぶっし不足ふそく完成かんせい1945ねん2がつまでおくれた。

きびしい検閲けんえつをかわし、反戦はんせんうったえる作品さくひん製作せいさくした監督かんとくとしては亀井かめい文夫ふみおげられる。『ささえ事変じへん』(1937ねん)や『上海しゃんはい』(1938ねん)などでは表向おもてむきは戦意せんい高揚こうよう映画えいがうたいつつも、日本にっぽんぐん行軍こうぐんつめる民衆みんしゅうや、疲弊ひへいしたへい表情ひょうじょうをフィルムにおさめるなど、意図いとてき映像えいぞうながした。つづ作品さくひんたたか兵隊へいたい』(1938ねん)はこうした描写びょうしゃ検閲けんえつ対象たいしょうとなったため上映じょうえい禁止きんしとなり、亀井かめい免許めんきょ剥奪はくだつうえ検挙けんきょされてしまう。

また、戦争せんそう主題しゅだいとしない作品さくひんについても、荒唐無稽こうとうむけい娯楽ごらく作品さくひん一律いちりつ禁止きんしされ、マキノ雅博まさひろの『ハナ子はなこさん』(1943ねん)や木下きのしためぐみかいの『はなみなと』(1943ねん)『歓呼かんこまち』(1944ねん)のように随所ずいしょにプロパガンダしょくびた娯楽ごらく映画えいが上映じょうえいされた。歴史れきし映画えいがは、丸根まるねさん太郎たろうの『奴隷どれいせん』(1943ねん)やマキノ雅博まさひろの『阿片あへん戦争せんそう』(1943ねん)など西洋せいようによるひがしアジア侵略しんりゃく歴史れきしえがいた作品さくひんや、稲垣いながきひろしの『宮本みやもと武蔵むさし 一乗寺いちじょうじ決闘けっとう』や溝口みぞぐち健二けんじの『元禄げんろく忠臣蔵ちゅうしんぐら』など厳粛げんしゅく叙事詩じょじしてき作品さくひん製作せいさくされた。1940年代ねんだい前半ぜんはん登場とうじょうした黒澤くろさわあきらは『姿すがた三四郎さんしろう』(1943ねん)においてその頭角とうかくあらわした。せいおか憲三けんぞう制作せいさくした『くもとちゅうりっぷ』(1943ねん)は、16ぶん短編たんぺんながら日本にっぽんはつのフルセルアニメとなった。

戦局せんきょく悪化あっかにより、1944ねん昭和しょうわ19ねん)2がつ25にちには決戦けっせん非常ひじょう措置そち要綱ようこうともなだい規模きぼ映画えいがかん休業きゅうぎょうめいじられ、12月7にちうつはいなまフィルム欠乏けつぼう理由りゆうに、731の映画えいがかんやく40%)に配給はいきゅう休止きゅうし宣告せんこくした[13]。さらに日本にっぽん本土ほんど空襲くうしゅう激化げきかで、映画えいが上映じょうえいちゅう空襲くうしゅう警報けいほうると上映じょうえい中断ちゅうだんされ、大都市だいとし映画えいがかん空襲くうしゅう灰燼かいじんかえしていった[注釈ちゅうしゃく 2]。1945ねん昭和しょうわ20ねん)に最終さいしゅう決戦けっせんびかけるために製作せいさく検討けんとうされていたにんじょうたたか題材だいざいとした『あらひめさま』は、同年どうねん日本にっぽん敗戦はいせんによりぞうとなっている[注釈ちゅうしゃく 3]

日本にっぽん統治とうち外地がいちでの日本にっぽん映画えいが

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外地がいちにおける映画えいがは、獲得かくとくした日本にっぽんするための有効ゆうこう手段しゅだんとらえられ、積極せっきょくてき上映じょうえい実施じっしされた。台湾たいわん朝鮮ちょうせん満州まんしゅうインドネシアなどにおける各地かくち映画えいが簡単かんたん以下いかしるす。

台湾たいわん

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にちしん戦争せんそうにより獲得かくとくした台湾たいわん高松たかまつ豊次郎とよじろうにより最初さいしょ映画えいが上映じょうえいおこなわれたのは1901ねんである。台湾たいわんにおいて最初さいしょ製作せいさくがなされたのは1921ねんで、『あずかぼう霍乱』という食品しょくひん衛生えいせい啓蒙けいもう映画えいがであった。また、1925ねんには台湾たいわんじん松峰まつみねにより『だれ』が製作せいさくされた。

日本にっぽんおこった「じゅん映画えいがげき運動うんどう」において、台湾たいわんという「辺境へんきょう」は格好かっこう題材だいざいとなり、えだせい義郎よしおの『あいきょく』(1919ねん)、田坂たさかたかしの『おもね里山さとやまの侠児』(1927ねん)、ちょうくもづるの『血痕けっこん』(1929ねん)、千葉ちば泰樹やすき安藤あんどう太郎たろうの『義人ぎじんおおとり』(1932ねん)など、台湾たいわん舞台ぶたいとする様々さまざま作品さくひんられている。

しかし、現地げんちじんによる映画えいが製作せいさくはそれほど活性かっせいせず、1941ねん台湾たいわん映画えいが協会きょうかい設立せつりつされ、管理かんり統制とうせいきびしくなると、その傾向けいこう終戦しゅうせんまでつづいた。

朝鮮ちょうせん

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1910ねん併合へいごうした朝鮮ちょうせんにおける映画えいが1919ねん製作せいさくされたきむ陶山すやまの『義理ぎりてき仇討あだうち』を嚆矢こうしとした。日本にっぽん政府せいふ当初とうしょいんしろみなみによる貯蓄ちょちく奨励しょうれい映画えいが月下げっかちかい』(1923ねん)など、台湾たいわんおなじく映画えいがによる教育きょういく啓蒙けいもうこころみたが、自身じしんによる映画えいが製作せいさく気運きうんつよく、1924ねん以降いこう日本人にっぽんじん設立せつりつした朝鮮ちょうせんキネマ対抗たいこうするかのごとく、独立どくりつスタジオが林立りんりつした。

1926ねんくも製作せいさくした『アリラン』は、民族みんぞく主義しゅぎ高揚こうようにおける重要じゅうよう役割やくわりたした。その、『金色きんいろ夜叉やしゃ』の翻案ほんあんで、けいまごの『長恨ちょうこんゆめ』(1926ねん)やけい煥が製作せいさくした反日はんにちてき内容ないようの『あるじなきわたぶね』(1932ねん)などが話題わだいんだ。また、あきらによって製作せいさくされた最初さいしょのトーキー映画えいが春香はるかでん』は1935ねん登場とうじょうして以降いこうなんもリメイクされ、韓国かんこくにおける国民こくみんてき映画えいがのひとつに発展はってんしている。

日本にっぽん軍国ぐんこく主義しゅぎかたむくにつれ、きびしい検閲けんえつかれるようになり朝鮮ちょうせんでの映画えいが生産せいさん減少げんしょうしていき、1940ねんには日本にっぽんおなじく映画えいがほう実施じっしされるにいたった。1942ねんにはすべての映画えいが会社かいしゃ閉鎖へいさされ、朝鮮ちょうせん総督そうとくによるあさうつ設立せつりつされた。この時代じだいおも日本人にっぽんじん監督かんとく現地げんちのスタッフを使用しようして映画えいが製作せいさくする、というスタイルがおもとなり、日夏ひなつ英太郎えいたろうの『きみぼく』(1941ねん)、豊田とよだ四郎しろうの『わか姿すがた』(1943ねん)、今井いまいただしの『望楼ぼうろう決死けっしたい』(1943ねん)などが公開こうかいされた。

満州まんしゅう

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香蘭こうらんこと山口やまぐち淑子としこ

日本にっぽんが1932ねん建国けんこくした満州まんしゅうこくでは、1936ねん満州まんしゅう映画えいが協会きょうかいまんうつ)が設立せつりつされ、映画えいが製作せいさくおこなわれた。まんうつでは日本にっぽん文化ぶんか啓蒙けいもう目的もくてきとした映画えいが一般いっぱん劇映画げきえいが製作せいさくされ、一部いちぶ日本にっぽんまれるなどした。1940ねんに『ささえよる』に登場とうじょうした香蘭こうらん山口やまぐち淑子としこ)はその美貌びぼう歌唱かしょうりょく演技えんぎりょくなどで一躍いちやくスターとなった。

1942ねんごろより、自由じゆう映画えいが製作せいさくもとめ、木村きむら荘十二そとじ内田吐夢うちだとむなど日本人にっぽんじん映画えいが監督かんとく次々つぎつぎわたりみたしてくる。全編ぜんぺんロシア構成こうせいされた島津しまつ保次郎やすじろうの『わたしうぐいす』(1943ねん)など、自由じゆう闊達かったつ映画えいが企画きかく製作せいさくされた。

1945ねん満州まんしゅうこく崩壊ほうかいするとまんうつ施設しせつソビエト連邦れんぽう接収せっしゅうされ、まんうつスタッフは日本にっぽん台湾たいわん香港ほんこんへとりにっていった。日本にっぽんでは根岸ねぎし寛一かんいちマキノ光雄みつおなどによりこうしたまんうつ引揚しゃむかれられ、東映とうえい基礎きそ形作かたちづくった。

うちこうむふる

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1939ねんちゅうこうむぐん支援しえん成立せいりつしたこうむ聯合れんごう自治じち政府せいふ後援こうえんもと、1943ねんには『成吉せいきちおもえあせ』の撮影さつえいうちこうむふるおこなわれた。

上海しゃんはい

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上海しゃんはいでは1910年代ねんだいより中国ちゅうごく映画えいが製作せいさくとしてそのられており、1937ねん日本にっぽんによる占領せんりょうはじまると、日本にっぽんぐんはその映画えいが管理かんりかわ喜多きた長政ながまさ要請ようせいした。かわ喜多きたは1939ねん上海しゃんはい映画えいが会社かいしゃ併合へいごうし、中華ちゅうかでんかげ設立せつりつした。作品さくひんとしてはまんうつとの合作がっさく製作せいさくされた香蘭こうらん主演しゅえんの『まんせいりゅうかおる』(1943ねん)などがある。

1945ねん日本にっぽん敗戦はいせんしたのち上海しゃんはい日本人にっぽんじんとも映画えいが製作せいさくおこなっていた中国人ちゅうごくじん監督かんとくだい部分ぶぶん香港ほんこん亡命ぼうめいし、香港ほんこんにおける映画えいが産業さんぎょう発展はってんいしずえとなった。

インドネシア

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インドネシアでは現地げんちじんによる映画えいが撮影さつえい禁止きんしされ、日本にっぽんぐんによる啓蒙けいもう映画えいがおも製作せいさくされた。また、日本にっぽんぐん捕虜ほりょ虐待ぎゃくたい隠蔽いんぺいする目的もくてきでいくつかのにせドキュメンタリー映画えいが製作せいさくされるなどした。

有名ゆうめいなものとしては1944ねん日夏ひなつ英太郎えいたろうジャカルタ製作せいさくした『Calling Australia』があり、オーストラリアひと捕虜ほりょ撮影さつえいした映像えいぞうとして連合れんごう国軍こくぐんがわ送付そうふされた。のちにオーストラリアは捕虜ほりょとして出演しゅつえんしたものあつめ、『Calling Australia』の虚偽きょぎ告発こくはつするドキュメンタリーを製作せいさくしている[16]

GHQ占領せんりょう時代じだい

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今井いまいただしあお山脈さんみゃく』(すぎ葉子ようこはら節子せつこ

1945ねん8がつ15にち日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせん敗北はいぼくすると、以後いごもうわせにより1週間しゅうかん全国ぜんこく映画えいが興行こうぎょう停止ていしされた[17]。そのGHQ(連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれいによる日本にっぽん間接かんせつ統治とうち開始かいしされたことにともない、日本にっぽん製作せいさくされる映画えいがはGHQの下部かぶ組織そしきCIE(民間みんかん情報じょうほう教育きょういくきょくによって管理かんりされることとなった。この管理かんり体制たいせいは1952ねんまでつづき、日本にっぽん映画えいがかいにおいて、はじめて外国がいこく機関きかんによる管理かんり制御せいぎょ実施じっしされた特異とくい期間きかんとなった。企画きかく脚本きゃくほん段階だんかい英語えいご翻訳ほんやくし、CIEで許可きょかされたもののみ製作せいさくがなされた。たとえば、黒澤くろさわあきらの『あかつき脱走だっそう』(1950ねん)は当初とうしょ山口やまぐち淑子としこまんうつ香蘭こうらん主演しゅえん朝鮮ちょうせんじん従軍じゅうぐん慰安いあんえがいた作品さくひんとしていたが、すうじゅうかいおよぶCIEの検閲けんえつにより、原形げんけいめぬ作品さくひんとなってしまっている[18]完成かんせいしたフィルムはCCD(民間みんかん検閲けんえつ支隊したいにより度目どめ検閲けんえつおこなわれた。また、この検閲けんえつ過去かこ映画えいが作品さくひんさかのぼっても実施じっしされた[19]

また、占領せんりょう政策せいさく一環いっかんとして戦争せんそう責任せきにん問題もんだい映画えいが業界ぎょうかいにも波及はきゅうし、戦時せんじちゅう映画えいが製作せいさくにおいて戦争せんそう協力きょうりょくしゃ追放ついほうすべしとのこえさけばれはじめると、かわ喜多きた長政ながまさ根岸ねぎし寛一かんいち城戸きど四郎しろうといった戦意せんい高揚こうよう映画えいがたずさわった人物じんぶつが1947ねん映画えいがかい追放ついほうとされた。しかしのジャンルにおける追及ついきゅうおなじく、映画えいが業界ぎょうかいにおいても戦争せんそう責任せきにん所在しょざい曖昧あいまい処理しょりされ、上記じょうき処置しょちは1950ねんには解除かいじょされている。

戦後せんご最初さいしょ公開こうかいされた映画えいが佐々木ささきやすしによる『そよかぜ』で、並木なみき路子みちこによる主題歌しゅだいかリンゴのうた』がだいヒットした。

CIEのデヴィッド・コンデによって1945ねん発布はっぷされた製作せいさく禁止きんしリストにおいて、国家こっか主義しゅぎ愛国あいこく主義しゅぎ自殺じさつかたきち、残忍ざんにん暴力ぼうりょく映画えいがなどが禁止きんし項目こうもくとなり、時代じだいげき製作せいさく事実じじつじょう不可能ふかのうとなった。この影響えいきょう時代じだいげき生業せいぎょうとしていた俳優はいゆう現代げんだいげき出演しゅつえんするようになる。片岡かたおか千恵ちえぞうの『多羅尾たらおともない』、ばんひがしつま三郎さぶろうの『やぶ太鼓たいこ』、稲垣いながきひろしの『をつなぐとう』、伊藤いとう大輔だいすけの『王将おうしょう』などがそれにあたる。

また、GHQ主導しゅどうすすめられた民主みんしゅ主義しゅぎれいさん作品さくひんとしてプロパガンダ映画えいが多数たすう製作せいさくされた。そのなか黒澤くろさわあきらの『わが青春せいしゅんに悔なし』(1946ねん)、吉村よしむらこう三郎さぶろうの『安城あき舞踏ぶとうかい』(1947ねん)、今井いまいただしの『あお山脈さんみゃく』などに出演しゅつえんしたはら節子せつこ西洋せいようてきしん時代じだい幕開まくあけを象徴しょうちょうするスターとして国民こくみんてき人気にんきはくした。佐々木ささきやすしの『はたちの青春せいしゅん』(1946ねん)では日本にっぽん映画えいが最初さいしょのキスシーンがられた。

1945ねん11月16にち、GHQは「民主みんしゅ主義しゅぎてき映画えいが排除はいじょかた指令しれいかんする覚書おぼえがき」を交付こうふした。11月19にちちょう国家こっか主義しゅぎてき軍国ぐんこく主義しゅぎてき封建ほうけん主義しゅぎてき思想しそう映画えいが236ほん上映じょうえい禁止きんし焼却しょうきゃく指令しれい発表はっぴょうした[20][21]

1946ねん1がつ28にち、GHQは「映画えいが検閲けんえつかんする覚書おぼえがき」をし、民間みんかん検閲けんえつによる検閲けんえつ開始かいしした。8月13にちには、昭和しょうわ天皇てんのう戦争せんそう責任せきにんえがいた亀井かめい文夫ふみお記録きろく映画えいが日本にっぽん悲劇ひげき上映じょうえい禁止きんし通告つうこくした[20][22]

東宝とうほう争議そうぎ

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東宝とうほうで1946ねん2がつぜん東宝とうほう従業じゅうぎょういん組合くみあい結成けっせいされると「だい1東宝とうほう争議そうぎ」がきることになる。これは会社かいしゃ待遇たいぐう改善かいぜんせまり、最終さいしゅうてきには組合くみあい要求ようきゅう貫徹かんてつされるというおだやかなものであった。この勝利しょうりいきおいづき東宝とうほう従業じゅうぎょういん中核ちゅうかくとし、日活にっかつのぞ映画えいが会社かいしゃ地方ちほうしょう劇場げきじょうのぞ劇団げきだん結集けっしゅうした産業さんぎょうべつ単一たんいつ組合くみあいとして日本にっぽん映画えいが演劇えんげき労働ろうどう組合くみあい設立せつりつされた[23]。1946ねん10がつのストにはじまる「だい2東宝とうほう争議そうぎ」では組合くみあい日本にっぽん共産党きょうさんとう指導しどうにあったことで会社かいしゃがわ態度たいど硬化こうか交渉こうしょう長引ながびき、同年どうねん12がつにストは組合くみあいがわ勝利しょうりわるものの、組合くみあいがわ大河内おおこうち伝次郎でんじろう中心ちゅうしんとする東宝とうほうのトップスター10にんが「じゅうにんはたかい」をおこして離反りはんし、しん会社かいしゃしん東宝とうほう」がまれるきっかけとなった。1948ねん4がつ撮影さつえいしょの270めいおよ大量たいりょう解雇かいこはしはっした「だい3東宝とうほう争議そうぎ」はべいぐんまで出動しゅつどうし、「なかったのは軍艦ぐんかんだけ」としょうされるほどだい規模きぼ対立たいりつにまで発展はってんした。最終さいしゅうてき組合くみあい幹部かんぶ自発じはつてき退社たいしゃえに270めいへの解雇かいこ撤回てっかいするという条件じょうけんまくじた。

主権しゅけん回復かいふくだい黄金おうごん時代じだい

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羅生門らしょうもん。(1950ねん昭和しょうわ25ねん))
 
じゅうよんひとみ』(1954ねん昭和しょうわ29ねん))

1951ねんサンフランシスコ講和こうわ条約じょうやく締結ていけつされると、日本にっぽんこく主権しゅけん回復かいふくした。翌年よくねんにGHQによる映画えいが検閲けんえつ廃止はいしとなる。これにより上映じょうえい禁止きんしとなっていた時代じだいげき復活ふっかつするとともに、多数たすう映画えいが製作せいさくされるようになった。国際こくさい映画えいがさいにおいて黒澤くろさわあきら溝口みぞぐち健二けんじらの日本にっぽん映画えいが作品さくひん次々つぎつぎ受賞じゅしょうし、日本にっぽん文化ぶんかてき矜持きょうじ回復かいふくつとめた。また、1958ねんには映画えいが人口じんこうが11おくにん突破とっぱするなど[24]映画えいが娯楽ごらく殿堂でんどうとして不動ふどう存在そんざいとなるとともに、映画えいが産業さんぎょうにおけるだい黄金おうごん時代じだい到来とうらいすることとなった[25]

GHQによって制限せいげんされていた戦争せんそう映画えいが製作せいさくされはじめ、関川せきかわ秀雄ひでおの『きけ、わだつみのこえ』(1950ねん)、今井いまいただしの『ひめゆりのとう』(1953ねん)、木下きのしためぐみかいの『じゅうよんひとみ』(1954ねん)、市川いちかわこんの『ビルマの竪琴たてごと』(1956ねん)など、戦争せんそう単純たんじゅんあくとらえた作品さくひんではなく、戦争せんそう体験たいけん悲壮ひそうさや感傷かんしょうてき回顧かいこ目的もくてきとした作品さくひん次々つぎつぎ登場とうじょうし、社会しゃかいてき影響えいきょうとなった。その、『戦艦せんかん大和やまと』(1953ねん)や『太平洋たいへいようわし』(1953ねん)といったノスタルジア映画えいが量産りょうさんされた。こうしたなかあらしひろし寿郎としお明治天皇めいじてんのうえんじた『明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそう』(1957ねん)といった作品さくひんまでもが登場とうじょうした。神聖しんせいにしておかすべからずとされた天皇てんのう商品しょうひんという、戦前せんぜんにはかんがえられなかった事態じたいであった。

映画えいが国際こくさいてき評価ひょうか上昇じょうしょうし、1951ねん黒澤くろさわあきらが『羅生門らしょうもん』でヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいグランプリを受賞じゅしょうしたのを皮切かわきりに、溝口みぞぐち健二けんじが1952ねん西鶴さいかくいちだいおんな』、1953ねん雨月物語うげつものがたり』、1954ねん山椒さんしょう大夫たいふ』と、3ねん連続れんぞく受賞じゅしょうした。1954ねんはほかに黒澤くろさわの『七人しちにんさむらい』もヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいぎん獅子しししょう受賞じゅしょうカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにおいてころもりゅう貞之助ていのすけの『地獄じごくもん』がグランプリを受賞じゅしょうするなど、日本にっぽん映画えいが欧米おうべいでも注目ちゅうもくされるようになった。

こうした映画えいが量産りょうさん体制たいせい東宝とうほう松竹しょうちく日活にっかつ大映だいえいくわえ、急速きゅうそく発展はってんせた東映とうえい主体しゅたいとなって牽引けんいんした。各社かくしゃ動向どうこう以下いかとおり。

東映とうえい

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1949ねん設立せつりつした東京とうきょう映画えいが配給はいきゅうが1951ねん東横映画とうよこえいがふとしいずみ映画えいが吸収きゅうしゅう合併がっぺいし、東映とうえい誕生たんじょうした。大手おおて映画えいが会社かいしゃなかではさい後尾こうびであり、新興しんこう弱小じゃくしょう企業きぎょうとしてのスタートであったため、老舗しにせである東宝とうほう松竹しょうちく配給はいきゅうもうふくまれない地方ちほう映画えいがかん興行こうぎょう注力ちゅうりょくしていった。地方ちほう劇場げきじょう別々べつべつ会社かいしゃ映画えいが併営へいえいする2本立ほんだ興行こうぎょう中心ちゅうしんだったため、いち製作せいさくした長編ちょうへん映画えいが複数ふくすうほんけて公開こうかいすることで作品さくひん量産りょうさんし、2本立ほんだてプログラムを東映とうえい作品さくひん独占どくせんする戦略せんりゃくった。中村なかむら錦之助きんのすけひがしせんだいかい出演しゅつえんの『しん諸国しょこく物語ものがたり 笛吹うすい童子どうじ』シリーズ(1954ねんさんさく)、『しん諸国しょこく物語ものがたり べに孔雀くじゃく』シリーズ(1954ねん - 1955ねん五部ごへさく)が子供こどもたち圧倒的あっとうてきけ、市川いちかわみぎふと衛門えもん片岡かたおか千恵ちえぞう月形つきがた龍之介りゅうのすけ大友おおともやなぎ太朗たろう出演しゅつえんの、大人おとな時代じだいげき活性かっせい中村なかむら錦之助きんのすけ大川おおかわきょうぞう主演しゅえんさくとともに、東映とうえい時代じだいげき王国おうこくとしての地位ちいをきずきあげ、1959ねんにはぜん邦画ほうが収入しゅうにゅうの3ぶんの1を東映とうえいかせぐにまで成長せいちょうげた[26]現代げんだいげきでも東映とうえいニューフェイスから、中原なかはらひとみ高倉たかくらけん水木みずきじょう佐久間さくま良子りょうこ梅宮うめみや辰夫たつお千葉ちば真一しんいちなどの主演しゅえんスター輩出はいしゅつした。今井いまいただし監督かんとくべい』(1957ねん)、『純愛じゅんあい物語ものがたり』(どう)などの現代げんだいげき秀作しゅうさく、ヒットさくのこした。また1958ねん10がつ日本にっぽんはつ長編ちょうへんカラーアニメーション映画えいが白蛇しろへびでん』を公開こうかいするなど[7]日本にっぽんアニメ映画えいが中興ちゅうこうとしての役割やくわり東映とうえいシネマスコープの導入どうにゅう日本にっぽん映画えいがのワイド時代じだい招聘しょうへいした役割やくわりなども特筆とくひつてきである。

東宝とうほう

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ゴジラ』(1954ねん昭和しょうわ29ねん))

森繁もりしげ久弥ひさや出演しゅつえんの『さんとう重役じゅうやく』より、サラリーマンシリーズ、フランキーさかい出演しゅつえん社長しゃちょうシリーズ駅前えきまえシリーズだいヒットし東宝とうほう経営けいえいささえた。今井いまいただし監督かんとくまたまで』(1950ねん)、ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいグランプリを受賞じゅしょうした稲垣いながきひろし監督かんとく無法むほうまつ一生いっしょう』(1958ねん)、成瀬なるせ巳喜男みきお監督かんとく浮雲うきぐも』(1955ねん)、岡本おかもと喜八きはち監督かんとく独立どくりつ愚連隊ぐれんたい』(1959ねん)などがだいヒットした。東宝とうほう争議そうぎによりいち東宝とうほうはなれていた黒澤くろさわあきら監督かんとくも『きる』(1952ねん)を皮切かわきりに復帰ふっきし、『七人しちにんさむらい』(1954ねん)、『かくとりでさん悪人あくにん』(1958ねん)など代表だいひょうさくとなる作品さくひん発表はっぴょう興行こうぎょうてきにも成功せいこうした。黒澤くろさわ莫大ばくだい製作せいさくをかけるため、1959ねん黒澤くろさわプロダクションが発足ほっそくされるが、東宝とうほうとのパートナーシップはつづいた。『七人しちにんさむらい』も公開こうかいされていた1954ねんには田中たなか友幸ともゆきプロデューサー、本多ほんだいの四郎しろう監督かんとく円谷つぶらや英二えいじ特撮とくさつ監督かんとくの『ゴジラ』がだい成功せいこうおさめ、シリーズされて公開こうかい70ねんいまもなお新作しんさく製作せいさくされるドルばこシリーズとなった。田中たなか友幸ともゆきプロデューサーはそのも『透明とうめい人間にんげん』(小田おだ基義もとよし監督かんとく・1954ねん)、『獣人じゅうじん雪男ゆきおとこ』(本多ほんだいの四郎しろう監督かんとく・1955ねん)など円谷つぶらや英二えいじ特撮とくさつ監督かんとくによる特撮とくさつ映画えいがでヒットをばしつづけた。東宝とうほう映画えいが1000ほん記念きねん作品さくひん特撮とくさつ映画えいが日本にっぽん誕生たんじょう』(稲垣いながきひろし監督かんとく・1959ねん)であった。

松竹しょうちく

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大庭おおば秀雄ひでお監督かんとくによる『きみ』(1953ねん - 1954ねん)、今井いまいただし監督かんとくにごりえ』(1953ねん)、『キクとイサム』(1959ねん)をはじめ文芸ぶんげいさくだいヒット。小林こばやし正樹まさき監督かんとく人間にんげん條件じょうけん』(1959ねん - 1962ねん)ではヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいサン・ジョルジュしょう、パシネッティしょう受賞じゅしょうした。さらに福田ふくだ晴一せいいち監督かんとくばんあつし三郎さぶろう出演しゅつえん二等兵にとうへい物語ものがたり』など、松竹しょうちくがお得意とくいとする喜劇きげき作品さくひんもヒットした。木下きのしためぐみかい監督かんとく日本にっぽん映画えいがはつ長編ちょうへんカラー映画えいがカルメン故郷こきょうかえ』(1951ねん)を発表はっぴょうしたほか、『日本にっぽん悲劇ひげき』(1953ねん)、『じゅうよんひとみ』『おんなえん』(1954ねん)、『野菊のぎくごときみなりき』(1955ねん)、『太陽たいようとバラ』(1956ねん)、『よろこびもかなしみもいく歳月さいげつ』(1957ねん)、『楢山節考ならやまぶしこう』(1958ねん)など精力せいりょくてき活動かつどう小津おつあん二郎じろう監督かんとくも『麦秋ばくしゅう』(1951ねん)、『東京とうきょう物語ものがたり』(1953ねん)、『早春そうしゅん』(1956ねん)、『彼岸花ひがんばな』(1958ねん)などの代表だいひょうさくとなる作品さくひん発表はっぴょうした。

日活にっかつ

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日活にっかつ戦時せんじちゅう製作せいさく部門ぶもん大映だいえい移管いかんしたため、終戦しゅうせん直後ちょくご大映だいえい作品さくひん、そのはアメリカ映画えいが興行こうぎょうせんもんにしていたが[27]、1953ねん邦画ほうが映画えいが製作せいさく配給はいきゅう市場いちばさい参入さんにゅうした。それにともない、大手おおて5しゃから監督かんとく俳優はいゆうきをおこなおうとしたことにより、既存きそん製作せいさく配給はいきゅう5しゃによる対抗たいこう処置しょちとして「しゃ協定きょうてい」が成立せいりつするきっかけとなった。しゃ協定きょうていにより他社たしゃからスターをけないため、石原いしはら裕次郎ゆうじろう小林こばやしあさひ浅丘あさおかルリ子るりこ赤木あかぎけい一郎いちろう宍戸ししどじょう二谷にたに英明ひであき川地かわち民夫たみおまち田京たきょうかい和田わだひろしなどの自前じまえのスターをつくし、若年じゃくねんけの青春せいしゅん映画えいが国籍こくせきアクション映画えいが製作せいさく配給はいきゅうした。なかでも古川ふるかわたくおのれ監督かんとく太陽たいようぶし』(1956ねん)と中平なかひらやすし監督かんとくくるった果実かじつ』(1956ねん)は太陽たいようぞく映画えいがばれる社会しゃかい現象げんしょうとなり、スターとなった石原いしはら裕次郎ゆうじろうはその井上いのうえ梅次うめじ監督かんとくあらしおとこ』(1957ねん)、田坂たさかたかし監督かんとくのあたる坂道さかみち』、蔵原くらはらおもんみつくろえ監督かんとく風速ふうそく40めーとる』(1958ねん)などの主演しゅえんさく一世いっせい風靡ふうびする。その市川いちかわこん監督かんとくビルマの竪琴たてごと』(1956ねん)はヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいでサン・ジョルジュしょう受賞じゅしょう川島かわしま雄三ゆうぞう監督かんとくフランキふらんきさかい主演しゅえんの『幕末ばくまつ太陽たいようでん』(1957ねん)などの歴史れきしのこ作品さくひんまれた。

大映だいえい

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大映だいえいは『羅生門らしょうもん』の成功せいこう契機けいきに、溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとく作品さくひん中心ちゅうしん国際こくさい映画えいがさいけの芸術げいじゅつ映画えいが製作せいさくしたほか、娯楽ごらく映画えいが充実じゅうじつし、1950年代ねんだいから1960年代ねんだい前半ぜんはんにかけて男優だんゆうでは長谷川はせがわ一夫かずお市川いちかわ雷蔵らいぞう女優じょゆうではきょうマチ子まちこ山本やまもと富士子ふじこ若尾わかお文子ふみこと、さらに他社たしゃ専属せんぞくやフリーの高峰たかみね秀子ひでこ鶴田つるた浩二こうじきし惠子けいこらも出演しゅつえんし、溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとく近松ちかまつ物語ものがたり』(1954ねん)、吉村よしむらこう三郎さぶろう監督かんとくよるかわ』(1956ねん)などの名作めいさく多数たすうおくした。なかでも市川いちかわ雷蔵らいぞう主演しゅえんさく人気にんきび、もり一生かずお監督かんとくうすさくら』(1959ねん)、伊藤いとう大輔だいすけ監督かんとく弁天べんてん小僧こぞう』(1958ねん)などの時代じだいげきほか市川いちかわこん監督かんとく炎上えんじょう』などの文藝ぶんげい作品さくひんもヒットした。

しん東宝とうほう

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だい2東宝とうほう争議そうぎ契機けいきとして1948ねん東宝とうほうから独立どくりつして設立せつりつされたしん東宝とうほうは、東宝とうほう争議そうぎにより製作せいさく不能ふのうおちいった東宝とうほうのプログラムをめるための作品さくひん製作せいさくしていた。しかし東宝とうほう争議そうぎ終了しゅうりょう製作せいさく部門ぶもん完全かんぜんしん東宝とうほう委譲いじょうするかかで東宝とうほうない対立たいりつきたため、1950ねんから自主じしゅ配給はいきゅうにもした。初期しょきしん東宝とうほう作品さくひん東宝とうほう作風さくふう延長線えんちょうせんじょうにあり、ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい国際こくさい映画えいがしょう受賞じゅしょうした『西鶴さいかくいちだいおんな』(1952ねん溝口みぞぐち健二けんじ監督かんとく)とう文芸ぶんげい映画えいがおおつくられていた。もともと製作せいさくのみを担当たんとうする会社かいしゃであり、後発こうはつ配給はいきゅう参入さんにゅうしたゆえ配給はいきゅうもう脆弱ぜいじゃくさから経営けいえいなんおちいり、1955ねん大蔵おおくらみつぐ社長しゃちょう就任しゅうにんすると会社かいしゃのカラーは一変いっぺんした。大蔵おおくらみつぐ会社かいしゃ経営けいえいなおすため徹底てっていした娯楽ごらく路線ろせん作品さくひんづくりに集中しゅうちゅうさせ、怪談かいだんもの低俗ていぞくなエロティック映画えいが右翼うよくてき戦争せんそう映画えいがといった見世物みせもの興行こうぎょうてき作品さくひん量産りょうさんし、しん東宝とうほう独特どくとく路線ろせん確立かくりつされた。1957ねんの『明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそう』は観客かんきゃく動員どういんすう1300まんにん当時とうじ日本にっぽん映画えいが記録きろく大幅おおはばえるだいヒットを記録きろくしたが、1957ねんしん東宝とうほう作品さくひん全体ぜんたいでの配給はいきゅう収入しゅうにゅうると、そのとし東映とうえいの3ぶんの1にすぎなかった。その明治天皇めいじてんのうにち大戦たいせんそうきゅうだいヒットはせず、大蔵おおくらみつぐ独善どくぜんてきなワンマン経営けいえいたたり、しん東宝とうほう業績ぎょうせき急速きゅうそく悪化あっかしていき、1961ねん倒産とうさんすることになる[28]

独立どくりつプロダクション

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東宝とうほう争議そうぎレッド・パージ共産きょうさん党員とういん中心ちゅうしんとする左翼さよくけい映画えいがじん撮影さつえいしょ追放ついほうされると、みずからの映画えいが製作せいさく活動かつどう確保かくほするために独立どくりつプロダクションを設立せつりつした。最初さいしょ独立どくりつプロ作品さくひんは、うつえんじだい3東宝とうほう争議そうぎ解決かいけつきん製作せいさくした『暴力ぼうりょくまち』(山本やまもと薩夫監督かんとく・1949ねん)であった[29]独立どくりつプロダクションは近代きんだい映画えいが協会きょうかい原爆げんばく』(新藤しんどう兼人かねと監督かんとく・1952ねん)、新星しんせい映画えいがしゃ真空しんくう地帯ちたい』(1952)、現代げんだいぷろだくしょん真昼まひる暗黒あんこく』(今井いまいただし監督かんとく・1956ねん)とうおおくの名作めいさくし、一時期いちじき隆盛りゅうせいきわめたが、これらの左翼さよくけい映画えいがじん中心ちゅうしんとした活動かつどうは1950年代ねんだいなかばにはい大手おおて量産りょうさん体制たいせいととの競争きょうそう激化げきかすると衰退すいたいしていった。また、1957ねんには勅使河原てしがわらひろし羽仁はにすすむなどの若手わかて映画えいがじんらがグループ「シネマ57」を結成けっせいし、実験じっけん映画えいが製作せいさくなどをおこなった。このグループが母体ぼたいとなり、「日本にっぽんアート・シアター運動うんどうかい」という日本にっぽん商業しょうぎょうてき芸術げいじゅつ映画えいが専門せんもんかんつくろうといううごきがまれた。このかい東和とうわ映画えいがふく社長しゃちょうであったかわ喜多きたかしこくわわったことで、のちの1961ねん日本にっぽんアート・シアター・ギルド(ATG)が誕生たんじょうすることになる[30]

1960年代ねんだい

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日本にっぽんにおける映画えいが観客かんきゃく動員どういんすう推移すいい

1960ねん日本にっぽん映画えいが史上しじょう最高さいこう製作せいさく本数ほんすうとなる547ほん製作せいさくし、ピークをむかえた。そのほとんどは大手おおて6しゃによるプログラムピクチャーで、このとし以降いこう映画えいが産業さんぎょうかげりがかくれするようになった。観客かんきゃく動員どういんすうはこれよりさき、1958ねんの11おくにんきょう最高さいこうに、急激きゅうげき下降かこうし、1963ねんには半分はんぶん以下いかの5おくにんきょうとなった[24]

この背景はいけいには1953ねんより登場とうじょうしたテレビ急速きゅうそく普及ふきゅうがある[24][25]。テレビは1959ねん皇太子こうたいし結婚けっこんをきっかけに一般いっぱんひろ浸透しんとうし、1964ねん東京とうきょうオリンピックでそのいきおいは加速かそく[24]。またこの時期じきフジテレビ在籍ざいせきしていたしゃ英雄えいゆう松竹しょうちく出向しゅっこうし『さんひきさむらい』で映画えいが監督かんとくとしてデビュー。テレビはたけ出身しゅっしん映画えいがかいでの下積したづ経験けいけんのない人材じんざい大手おおて映画えいが作品さくひん進出しんしゅつしていく契機けいきとなる。1961ねんにはしん東宝とうほう製作せいさく停止ていし日活にっかつは1969ねん撮影さつえいしょ売却ばいきゃく、1971ねん製作せいさく停止ていしとなった。

同時どうじに、中平なかひらやすし鈴木すずききよしじゅん増村ますむらたもつづくり蔵原くらはらおもんみつくろえ石井いしい輝男てるお岡本おかもと喜八きはち今村いまむら昌平しょうへい松本まつもと俊夫としお大島おおしまなぎさ高橋たかはしおさむ山田やまだ洋次ようじ吉田よしだ喜重よししげ篠田しのだ正浩まさひろ山下やました耕作こうさくしゃ英雄えいゆう深作ふかさく欣二きんじ三隅みすみけん工藤くどう栄一えいいち浦山うらやまきりろう熊井くまいあきら勅使河原てしがわらひろし若松わかまつ孝二こうじといった個性こせいてき多種たしゅ多様たよう若手わかて監督かんとく活躍かつやくした時代じだいでもあった。

映画えいが次々つぎつぎ廃刊はいかんまれ、芸能げいのうあつかわれる映画えいが記事きじ年々ねんねんっていった。『月刊げっかん明星みょうじょう』や『月刊げっかん平凡へいぼん』は、大半たいはん世代せだいからは、歌手かしゅアイドルあつか芸能げいのうというイメージかもしれないが、1960年代ねんだいまでは誌面しめんのほとんどが映画えいがスター記事きじめられた。1960年代ねんだい後半こうはんからGS御三家ごさんけ記事きじなどで歌手かしゅ記事きじえていき、1970年代ねんだいはいると歌手かしゅけいの10代の女性じょせい男性だんせいアイドルで誌面しめん席捲せっけんされ、映画えいが新作しんさく映画えいが紹介しょうかい記事きじなどすうページだけになった。

東映とうえい

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昭和しょうわざん侠伝 唐獅子からじし牡丹ぼたん』(1966ねん

観客かんきゃく動員どういんNo.1となった東映とうえいは、1960ねんだい東映とうえい(1ねんニュー東映とうえい改称かいしょう)を設立せつりつし、製作せいさく本数ほんすう倍増ばいぞうして日本にっぽん映画えいがかい売上うりあげ50%のシェアを目指めざしたがうまくいかず、ニュー東映とうえいは2ねん解散かいさんした。映画えいがきょうはじまった1960年代ねんだいから1970年代ねんだいはじめは時代じだいげき人気にんきかげりがえたが、鶴田つるた浩二こうじ高倉たかくらけんふじ純子じゅんこらをようして仁侠にんきょう映画えいがブームをつくった。このジャンルの開祖かいそさわ島忠しまちゅうの『人生じんせい劇場げきじょう 飛車ひしゃかく』(1963ねん)といわれ[31][32]義理ぎり人情にんじょう板挟いたばさみにあいながらも自己じこ犠牲ぎせいつらぬ内容ないようだった。以降いこう、『博徒ばくと』、『日本にっぽん侠客きょうかくでん』、『網走あばしり番外地ばんがいち』、『昭和しょうわざん侠伝』、『緋牡丹ひぼたん博徒ばくと』といった任侠にんきょうシリーズは人気にんきはく[32]、1972ねんごろまで製作せいさくされ、内藤ないとうまことの『不良ふりょう番長ばんちょうシリーズ』もヒットした。一方いっぽう1969ねんにはオールスターキャストの『日本にっぽん暗殺あんさつ秘録ひろく』(主演しゅえん千葉ちば真一しんいち監督かんとく中島なかじま貞夫さだお)を封切ふうき公開こうかいし、東大とうだい紛争ふんそう安保あんぽ闘争とうそうなど騒然そうぜんとした当時とうじ世相せそう反映はんえいさせている[33]

東宝とうほう

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成瀬なるせ巳喜男みきお

東宝とうほうでは社長しゃちょうシリーズつづき、古沢ふるさわ憲吾けんごによる植木うえきひとし主演しゅえん無責任むせきにんシリーズ日本一にっぽんいちおとこシリーズなどを開始かいしし、陽気ようきなミュージカル喜劇きげきとして人気にんきはくした[24]。また、加山かやま雄三ゆうぞう主演しゅえんわか大将たいしょうシリーズでは松竹しょうちく得意とくいとしたスポーツマン大学生だいがくせいもののおかぶうばうヒットをせた。

他方たほう黒澤くろさわあきら怪獣かいじゅう映画えいが人気にんき堅持けんじ[24]黒澤くろさわつづ黒澤くろさわプロダクションとの東宝とうほう共同きょうどう製作せいさくで、『用心棒ようじんぼう』(1961ねん)、『椿つばき三十郎さんじゅうろう』(1962ねん)、『天国てんごく地獄じごく』(1963ねん)、『あかひげ』(1965ねん)などの作品さくひん発表はっぴょうした。1969ねんにアメリカの20世紀せいきフォックスしゃ戦争せんそう映画えいがトラ・トラ・トラ!』の脚本きゃくほん監督かんとく依頼いらいされた黒澤くろさわは、最終さいしゅう編集へんしゅうけん監督かんとくにないハリウッドのシステムに反発はんぱつ撮影さつえい容易よういすすまず、はげしい心労しんろうすえ解任かいにんされ、自殺じさつ未遂みすい事件じけんこす。また、1970ねんにははつのカラー映画えいがどですかでん』を製作せいさくしている。

岡本おかもと喜八きはちによる『独立どくりつ愚連隊ぐれんたい』(1959ねん)で戦争せんそうモノにも進出しんしゅつし、多彩たさいなジャンルをアピールした。岡本おかもとはそのの『日本にっぽんのいちばんなが』(1967ねん)で東宝とうほう製作せいさく主張しゅちょうめぐ訣別けつべつげ、私費しひで『肉弾にくだん』(1968ねん)を製作せいさくしている。

その代表だいひょうさくとしては、市川いちかわこんそう監督かんとく東京とうきょうオリンピック』(1965ねん)、成瀬なるせ巳喜男みきお監督かんとくの『おんななかにいる他人たにん』(1966ねん)、『みだくも』(1967ねん)などがげられる。

東宝とうほうは1961ねんごろにロサンゼルス老舗しにせ映画えいがかんラ・ブレア・シアター英語えいごばん」をり、自社じしゃ作品さくひん上映じょうえい開始かいしし、同館どうかん米国べいこくにおける日本にっぽん映画えいがのショーケースとして機能きのうした[34]。60年代ねんだいには同様どうようニューヨークのタイムズスクエアにも専門せんもんかん所持しょじした[35]

松竹しょうちく

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大島おおしまなぎさ

大船おおぶね調ちょう」といわれた松竹しょうちく得意とくいのメロドラマ路線ろせんが、収益しゅうえきべず、1960ねん城戸きど四郎しろう社長しゃちょう辞任じにん監査かんさやく大谷おおやひろし社長しゃちょうとなった。松竹しょうちくヌーヴェルヴァーグばれた助監督じょかんとくぐん相次あいついでデビューし、大島おおしまなぎさ監督かんとく青春せいしゅん残酷ざんこく物語ものがたり』(1960ねん)、『日本にっぽんよるきり』(1960ねん)、吉田よしだ喜重よししげ監督かんとくろくでなし』(1960ねん)、『秋津あきつ温泉おんせん』(1962ねん)、篠田しのだ正浩まさひろ監督かんとくこい片道かたみち切符きっぷ』(1960ねん)、『暗殺あんさつ』(1964ねん)などの斬新ざんしん作品さくひんぐん発表はっぴょうするが、日米にちべい安保あんぽ改定かいてい問題もんだいあつかった大島おおしまなぎさ監督かんとく日本にっぽんよるきり』が封切ふうきり4にち松竹しょうちくによって興行こうぎょうられる。松竹しょうちくめた大島おおしまなぎさ独立どくりつプロ創造そうぞうしゃこすなど、松竹しょうちくヌーヴェルヴァーグの監督かんとくたちはのち松竹しょうちくのちにした。野村のむら芳太郎よしたろうは『拝啓はいけい天皇陛下てんのうへいかさま』(1963ねん)などの人情にんじょう喜劇きげきコント55ごう主演しゅえん映画えいがなどを監督かんとく山田やまだ洋次ようじ監督かんとくは『下町したまち太陽たいよう』(1963ねん)、『馬鹿ばかまるだし』(1964ねん)、『きりはた』(1965ねん)などの作品さくひんて、1969ねんより「おとこはつらいよシリーズ」をはじめる。代表だいひょうさくには、小津おつあん二郎じろう監督かんとく秋日和あきびより』(1960ねん)、『秋刀魚さんまあじ』(1962ねん)、木下きのしためぐみかい監督かんとく笛吹川ふえふきがわ』(1960ねん)、『永遠えいえんひと』(1961ねん)、『二人ふたりあるいたいく春秋しゅんじゅう』(1962ねん)、『死闘しとう伝説でんせつ』(1963ねん)、『香華こうげ』(1964ねん)、渋谷しぶやみのる監督かんとくもず』(1961ねん)、小林こばやし正樹まさき監督かんとく切腹せっぷく』『からみ』(1962ねん)、松山まつやまよしさん監督かんとく山河さんがあり』(1962ねん)、羽仁はにすすむ監督かんとくたされた生活せいかつ』(1962ねん)、中村なかむらのぼる監督かんとく古都こと』(1963ねん)、『紀ノ川きのかわ』『だんはる』(1966ねん)、『智恵子ちえこしょう』『惜春せきしゅん』(1967ねん)、『わがこいわがうた』(1969ねん)、吉村よしむらこう三郎さぶろう監督かんとくの『ねむれる美女びじょ』(1968ねん)、蔵原くらはらおもんみつくろえ監督かんとくの『栄光えいこうへの5000キロ』(1969ねん)などがある。『宇宙うちゅうだい怪獣かいじゅうギララ』(1967ねん)、『吸血鬼きゅうけつきゴケミドロ』(1968ねん)などの特撮とくさつ映画えいが発表はっぴょうするがヒットにはいたらなかった。

日活にっかつ

編集へんしゅう
 
キューポラのあるまち』(1962ねん

1960年代ねんだいつづき、国籍こくせき映画えいがわれた和製わせい西部せいぶげき小林こばやしあさひわたどりシリーズやながものシリーズなど)がだいヒットするが、本格ほんかくてきなテレビ時代じだい到来とうらい日本にっぽん映画えいが産業さんぎょう全体ぜんたい斜陽化しゃようかのあおりをけたうえに、アクション映画えいがマンネリ化まんねりか企画きかく不足ふそく石原いしはら裕次郎ゆうじろう小林こばやし人気にんき低下ていか社長しゃちょうほり久作きゅうさくのワンマン体質たいしつからくる放漫ほうまん経営けいえいなどが次々つぎつぎわざわいして1960年代ねんだいなかばから業績ぎょうせき急激きゅうげき悪化あっか。その1960年代ねんだいには吉永よしなが小百合さゆり浜田はまだ光夫みつお高橋たかはし英樹ひできわたり哲也てつや山本やまもと陽子ようこ和泉いずみ雅子まさこ松原まつばら智恵子ちえこふじ竜也たつやかじ芽衣子めいこすぎ良太郎りょうたろうらを輩出はいしゅつしたが、退潮たいちょうめることはできなかった。一方いっぽう今村いまむら昌平しょうへいが『ぶた軍艦ぐんかん』(1961ねん)、『にっぽん昆虫こんちゅう』(1963ねん)、『あか殺意さつい』(1964ねん)、鈴木すずききよしじゅんが『東京とうきょうながもの』、『けんかえれじい』(1966ねん)などを制作せいさくしたが、『ころしの烙印らくいん』(1967ねん)に不満ふまんったほりから解雇かいこされる。このほか、監督かんとくでは熊井くまいあきら浦山うらやまきりろうらをようした。

大映だいえい

編集へんしゅう
 
だい魔神まじん』(1966ねん

1960年代ねんだいはいるとかつ新太郎しんたろう田宮たみや二郎じろう頭角とうかくあらわすが、長谷川はせがわ一夫かずおかのう順子じゅんこ引退いんたい(1963ねん)、永田ながた雅一まさいち社長しゃちょうによってしゃ協定きょうていにかけられた山本やまもと富士子ふじこ(1963ねん)・田宮たみや二郎じろう(1968ねん)の退社たいしゃ市川いちかわ雷蔵らいぞう急逝きゅうせい(1969ねん)で観客かんきゃくすうみが深刻しんこくになり、永田ながたのワンマンな放漫ほうまん経営けいえいもあって業績ぎょうせき悪化あっか日本にっぽんはつの70ミリ映画えいが釈迦しゃか』(1961ねん)や『はた始皇帝しこうてい』(1962ねん)など大作たいさく映画えいが路線ろせんすうさくわった。この年代ねんだい大映だいえい代表だいひょうさくには、市川いちかわこん監督かんとくの『おとうと』『ぼんち』(1960ねん)、『くろじゅうにんおんな』(1961ねん)、『わたしさい』『破戒はかい』(1962ねん)、『ゆきすすむ変化へんか』(1963ねん)、増村ますむらたもつづくり監督かんとくの『にせ大学生だいがくせい』(1960ねん)、『つま告白こくはくする』(1961ねん)、『清作せいさくつま』(1965ねん)、『はなおかあおしゅうつま』(1967ねん)、三隅みすみけん監督かんとくの『』(1962ねん)、『けん』(1964ねん)、『けんおに』(1965ねん)、吉村よしむらこう三郎さぶろう監督かんとくの『そのよるわすれない』(1962ねん)、『越前えちぜんたけ人形にんぎょう』(1963ねん)、川島かわしま雄三ゆうぞう監督かんとくの『かりてら』(1962ねん)、『しとやかなしし』(1963ねん)、山本やまもと薩夫監督かんとくの『きずだらけの山河さんが』(1964ねん)、『しろきょとう』『氷点ひょうてん』(1966ねん)、もり一生かずお監督かんとくの『あるころ』(1967ねん)などがある。ガメラシリーズ(1965ねん - 1971ねん)、だい魔神まじんシリーズ(すべて1966ねん・3さく)『妖怪ようかい大戦たいせんそう』(1968ねん)などの子供こども特撮とくさつ映画えいが発表はっぴょうし、なかでもガメラシリーズにいたっては東宝とうほうのゴジラシリーズとなら怪獣かいじゅう映画えいがまい看板かんばんにまで発展はってんするにいたるほどの人気にんきシリーズとなった。おも人気にんきシリーズは以下いかとおり。

独立どくりつプロダクション

編集へんしゅう

大手おおて企業きぎょうによるブロックブッキングせい影響えいきょうがあったものの、文芸ぶんげいプロダクションにんじんくらぶ複数ふくすう作品さくひん制作せいさく公開こうかいしており、1966ねん日本にっぽん台湾たいわん合作がっさく映画えいがカミカゼ野郎やろう 真昼まひるけつ』は、主演しゅえん千葉ちば真一しんいち監督かんとく深作ふかさく欣二きんじ東映とうえいせききながら参加さんかした作品さくひんである。一方いっぽう映画えいが産業さんぎょう斜陽化しゃようかともに、監督かんとくだい企業きぎょうはなれて独立どくりつプロで製作せいさくおこなう、といったことがられるようになり、新藤しんどう兼人かねとの『はだかしま』(1960ねん)、『鬼婆おにばば』(1964ねん)、『はだかじゅうきゅうさい』(1970ねん)や、勅使河原てしがわらひろし安部あべ公房こうぼうによる『おとしあな』(1962ねん)、『すなおんな』(1964ねん)、『他人たにんかお』(1966ねん)といったブラックユーモアにちた作品さくひん出現しゅつげんした。

1961ねん東宝とうほうもり岩雄いわおふく社長しゃちょう三和さんわ興行こうぎょう社長しゃちょう井関いせき種雄たねおらが中心ちゅうしんとなって、商業しょうぎょう主義しゅぎてき芸術げいじゅつ作品さくひん製作せいさく配給はいきゅう目的もくてきとし、日本にっぽんアート・シアター・ギルド (ATG) が設立せつりつした。だい1かい配給はいきゅう作品さくひんイェジー・カヴァレロヴィチ監督かんとく尼僧にそうヨアンナ』(1962ねん4がつ)、はつ日本にっぽん映画えいが作品さくひん勅使河原てしがわらひろし監督かんとく『おとしあな』(1962ねん7がつ)であった。当初とうしょ国内外こくないがい芸術げいじゅつ映画えいが配給はいきゅうのみっていたが、今村いまむら昌平しょうへいが『人間にんげん蒸発じょうはつ』(1967ねん)の企画きかくをATGへんださい独立どくりつプロ製作せいさくを500まんずつ折半せっぱんしたことがきっかけとなり、製作せいさく1000まんえん映画えいが製作せいさくおこなうという枠組わくぐみが出来上できあがった[注釈ちゅうしゃく 4]新藤しんどう兼人かねと羽仁はにすすむなどの独立どくりつけい監督かんとくのほか、三島みしま由紀夫ゆきお作家さっか)、実相寺じっそうじ昭雄あきお(テレビ演出えんしゅつ)、寺山てらやま修司しゅうじ演劇えんげき)、田原たはら総一朗そういちろう(ジャーナリスト)、清水しみず邦夫くにお演劇えんげき)などの業種ぎょうしゅ出身しゅっしん監督かんとく黒木くろき和雄かずお松本まつもと俊夫としおなどの新人しんじんなど、おおくの出身しゅっしんしゃ作風さくふう門戸もんこひろげた。また1960年代ねんだい後半こうはんには、ピンク映画えいが出身しゅっしん若松わかまつ孝二こうじなど、そして大手おおてしゃ映画えいがした大島おおしまなぎさ今村いまむら昌平しょうへい吉田よしだ喜重よししげ篠田しのだ正浩まさひろ岡本おかもと喜八きはち熊井くまいあきら増村ますむらたもつづくり斎藤さいとう耕一こういちまたはフリーの市川いちかわこんなどにも製作せいさく発表はっぴょうあたえた功績こうせきおおきい。おおくの作品さくひんキネマ旬報きねまじゅんぽうベストテンに選定せんていされるなどたか評価ひょうかけ、70年代ねんだいはもちろん、80年代ねんだい後半こうはんまでおおきな潮流ちょうりゅうとなった。

手塚てづか治虫おさむむしプロダクション

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1962ねん手塚てづか治虫おさむむしプロダクション設立せつりつ。1969ねん日本にっぽんはつ大人おとなのためのアニメーション映画えいがとして『せん一夜いちや物語ものがたり』を製作せいさくした。

1970年代ねんだい

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1970年代ねんだい日本にっぽん映画えいが集客しゅうきゃくりょく凋落ちょうらくまらず、1958ねんに11おく2745まんにん記録きろくした入場にゅうじょう人員じんいんは1972ねんに2おくにんり、1960ねんには78.3%あった邦画ほうがのシェアは1975ねんに44.4%となりはじめて洋画ようが逆転ぎゃくてんされた[37]内訳うちわけ場合ばあい、1971ねん公開こうかいされた367ほんのうち、大手おおて5しゃめる割合わりあいやく4わり激減げきげんした[38]ぎゃくに、てい予算よさん製作せいさく可能かのうなピンク映画えいが独立どくりつプロによる映画えいが躍進やくしんられた。

スターシステムとしゃ協定きょうてい崩壊ほうかいにより俳優はいゆう製作せいさく会社かいしゃへの所属しょぞくから作品さくひんごとの契約けいやくへとわりがすすんだ。ぜん時代じだい活躍かつやくした監督かんとくについても、資本しほん海外かいがいもとめた黒澤くろさわ大島おおしま、ドキュメンタリーへ転進てんしんした今村いまむらなど、徐々じょじょえていくこととなった。また、今村いまむら昌平しょうへい生産せいさん縮小しゅくしょうにより採用さいようめていく撮影さつえいしょわりに未来みらい映画えいがじん養成ようせいすることを目的もくてきとし、1975ねん横浜よこはま放送ほうそう映画えいが専門せんもん学院がくいん(日本にっぽん映画えいが学校がっこう日本にっぽん映画えいが大学だいがく)を設立せつりつした[39]

1950年代ねんだいから1960年代ねんだいにかけては、映画えいがは10ほんつくれば6ほん黒字くろじだったが[40]、1970年代ねんだい後半こうはんはヒットさくは10ほんちゅう2ほん程度ていどになった[40]映画えいが人口じんこうもピークの7ぶんの1[40]映画えいががこれほど衰退すいたいしたくには、世界せかいれいがないと当時とうじいわれた[40]。あまりの衰退すいたいぶりに映画えいが業界ぎょうかいからくにから助成じょせいをというこえさかんにがったが、1978ねん6がつ日本にっぽん映画えいが製作せいさくしゃ連盟れんめい会長かいちょう就任しゅうにんした岡田おかだしげるが「かねせばくちすで、結局けっきょくあちらのいなりじゃみずかくびめるようなものだ。地道じみち一本いっぽん一本いっぽんりょくめて、自力じりき再生さいせいするしかない。もう東映とうえいだ、松竹しょうちくだとみょう社風しゃふうりかざしてにらってる時代じだいじゃない。この斜陽しゃよう対策たいさく業界ぎょうかい全体ぜんたいかんがえなくてはならない」などとくにからの支援しえん断固だんこ反対はんたいした[40]。1978ねんには米国べいこくアカデミーの正式せいしき許諾きょだくて、日本にっぽんアカデミーしょう協会きょうかい発足ほっそくだい1かい日本にっぽんアカデミーしょう授賞じゅしょうしき開催かいさいされた。初代しょだい会長かいちょう大谷おおや隆三りゅうぞう(松竹しょうちく社長しゃちょう)がつとめ、岡田おかだしげる東映とうえい社長しゃちょう)ら関係かんけいしゃ映画えいが各界かくかい幅広はばひろ賛同さんどう参加さんかることに奔走ほんそうした[41]

東映とうえい

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学生がくせい運動うんどう衰退すいたいともない、東映とうえい任侠にんきょうモノはいろあせた映画えいがひょうされるようになった。伊藤いとう俊也としや監督かんとく女囚じょしゅうさそりシリーズ』の公開こうかい、1973ねんには実録じつろく路線ろせん深作ふかさく欣二きんじ監督かんとく仁義じんぎなきたたか』シリーズや、格闘かくとう映画えいがの『ボディガードきば』シリーズなどがだいヒットし、以降いこう次々つぎつぎとシリーズされ、実録じつろく格闘かくとう路線ろせん経営けいえいささえるほんばしらとなった。とく千葉ちば真一しんいち格闘かくとう映画えいが欧米おうべい東南とうなんアジアでもだいヒットした[42][43][44][45]。1975ねんには日本にっぽん国内こくないでははじめてのパニック映画えいがである『新幹線しんかんせんだい爆破ばくは』を公開こうかいしたが、日本にっぽんではヒットしなかったものの、海外かいがいではたか評価ひょうかをされてだいヒットした。同年どうねんには松竹しょうちくの『おとこはつらいよ』シリーズに対抗たいこうした『トラック野郎やろう』が、『新幹線しんかんせんだい爆破ばくは』より日本にっぽんでの興行こうぎょう収入しゅうにゅう上回うわまわったことからシリーズされ、菅原すがわら文太ぶんたヤクザ映画えいがから脱却だっきゃくするきっかけとなった。1978ねんには『柳生やぎゅう一族いちぞく陰謀いんぼう』がだいヒットし[46]、『赤穂あこうじょう断絶だんぜつ』など次々つぎつぎ時代じだいげき復興ふっこうかかげた作品さくひん製作せいさくされた。1970年代ねんだい後半こうはんからは角川かどかわ映画えいがオフィス・アカデミーなどの独立どくりつプロさかんにんだ[47][48][49][50][51]

東宝とうほう

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キネマ旬報きねまじゅんぽう1969ねん1がつ下旬げじゅん正月しょうがつ特別とくべつごうにてもり岩雄いわおふく社長しゃちょうは「日本にっぽん映画えいが危機ききだっするためには、東宝とうほうとなえる、大作たいさく主義しゅぎ以外いがい方法ほうほうはありません」と宣言せんげん松岡まつおか辰郎たつろう社長しゃちょうもこのふく社長しゃちょう改革かいかくあん支持しじし、東宝とうほう大作たいさく路線ろせん活路かつろ見出みいだしたが、そのみち前途ぜんと多難たなんであった。1970ねんのゴールデンウィーク興行こうぎょう三船みふね敏郎としお中村なかむら錦之助きんのすけかつ新太郎しんたろう石原いしはら裕次郎ゆうじろうよんだいスターが共演きょうえんする『』を公開こうかいしたが、倒産とうさんしかけの大映だいえいのBきゅう色気いろけ企画きかくでんきくらげ』の後塵こうじんすらはいする始末しまつだった[52]。それでも大作たいさく路線ろせんあきらめず、黒澤くろさわあきらどですかでん』、今村いまむら昌平しょうへいにっぽん戦後せんご マダムおんぼろの生活せいかつ』、内田吐夢うちだとむ真剣しんけん勝負しょうぶ』、小林こばやし正樹まさきいのちぼうにふろう』、羽仁はにすすむこいだい冒険ぼうけん』と、有名ゆうめい監督かんとくによる大作たいさく製作せいさく公開こうかいしたが、一本いっぽんもヒットにむすびつかなかった[53]の12代目だいめ東宝とうほう社長しゃちょう石田いしだ敏彦としひこは「松岡まつおか辰郎たつろう社長しゃちょう時代じだいの1970ねんに20ほんみんなでえらんだんですが、たったのが『そのひとおんな教師きょうし』(岩下いわした志麻しま主演しゅえん出目でめ昌伸まさのぶ監督かんとく)1ほんだけだった鮮烈せんれつ記憶きおくがあります」とべている[38]。1971ねん東宝とうほう興行こうぎょう収入しゅうにゅうは9わり洋画ようがからのもので、製作せいさく部門ぶもんは10おく赤字あかじ計上けいじょうしていた[54]。その結果けっか東宝とうほうきぬた撮影さつえいしょ株式会社かぶしきがいしゃ東宝とうほう映画えいがとして独立どくりつ余儀よぎなくされた。このさいゴジラシリーズ制作せいさくしていた特撮とくさつ部門ぶもんもまた、東宝とうほう映像えいぞうというべつ会社かいしゃとして独立どくりつ採算さいさんせいをとらされることになった。ゴジラシリーズは70年代ねんだいはいっても継続けいぞくして製作せいさくされていたが、てい予算よさん内容ないようてい年齢ねんれいすす観客かんきゃく動員どういんすう下落げらくまらず、1975ねんの『メカゴジラの逆襲ぎゃくしゅう』を最後さいごに1984ねんまで製作せいさく途切とぎれることとなった。苦境くきょうつづいたが、1973ねん小松こまつ左京さきょうのベストセラー小説しょうせつ原作げんさくとし、東宝とうほう映画えいが本編ほんぺん東宝とうほう映像えいぞう特撮とくさつ担当たんとうして製作せいさくした『日本にっぽん沈没ちんぼつ』が日本にっぽん映画えいが史上しじょうはつはいおさむ20おくえんちょう記録きろく。この成功せいこう契機けいき東宝とうほうは1974ねん華麗かれいなる一族いちぞく』、1975ねん青春せいしゅんもん』、『金環きんかん』、1976ねん不毛ふもう地帯ちたい』、『いぬ神家じんか一族いちぞく[注釈ちゅうしゃく 5]、1977ねん悪魔あくま手毬てまり』、『八甲田山はっこうださん』といったベストセラー小説しょうせつ原作げんさく大作たいさく映画えいが路線ろせんつづいていくこととなった。

松竹しょうちく

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東京とうきょう柴又しばまたえきくるま寅次郎とらじろう銅像どうぞう

松竹しょうちくでは1969ねんより開始かいしされた山田やまだ洋次ようじによる『おとこはつらいよ』をシリーズし、国民こくみんてき人気にんきてこのシリーズは30ねんちかつづき48ほん映画えいが製作せいさくされ、1983ねん、「世界せかい最長さいちょう映画えいがシリーズ」としてギネス・ワールド・レコーズ登録とうろくされている。その橋本はしもとしのぶが1973ねん設立せつりつした「橋本はしもとプロダクション」と提携ていけいした『すなうつわ』(1974ねん原作げんさく松本まつもと清張せいちょう監督かんとく野村のむら芳太郎よしたろう脚本きゃくほん山田やまだ洋次ようじ橋本はしもとしのぶ共同きょうどう)が興行こうぎょう批評ひひょう両面りょうめん成功せいこうおさめた。

日活にっかつ

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経営けいえいなんおちいった日活にっかつは、大映だいえい配給はいきゅうもう統合とうごうダイニチうつはい設立せつりつしたが、経営けいえい悪化あっかまらなかった。労働ろうどう組合くみあい中心ちゅうしん再建さいけんがなされ、1971ねんにはダイニチうつはいから離脱りだつ日活にっかつロマンポルノとしてロマンポルノ路線ろせん断行だんこうした[55]日活にっかつ転進てんしんはそれまで所属しょぞくしていた大物おおもの俳優はいゆう監督かんとくとの訣別けつべつ意味いみし、小林こばやしあさひわたり哲也てつや東映とうえいへ、宍戸ししどじょうはテレビへと活躍かつやくもとめている。ぎゃくいままで機会きかいのなかった新人しんじん監督かんとく俳優はいゆう次々つぎつぎ出現しゅつげんし、業界ぎょうかい停滞ていたいにおいて、唯一ゆいいつといっていい人材じんざい育成いくせい場所ばしょとなった。日活にっかつロマンポルノは1988ねんまでしゅうに2ほんというペースで製作せいさくがなされ、神代かみしろ辰巳たつみ田中たなかのぼる小沼おぬままさる村川むらかわとおる池田いけだ敏春としはる中原なかはらしゅん黒沢くろさわただし金子かねこ修介しゅうすけといった多数たすう人材じんざい輩出はいしゅつしている。ロマンポルノ以外いがいにも日活にっかつ労働ろうどう組合くみあい後押あとおしにより、山本やまもと薩夫監督かんとく大作たいさく反戦はんせん映画えいが戦争せんそう人間にんげん』シリーズが製作せいさくされた。だい一部いちぶ労働ろうどう組合くみあい主導しゅどうして前売まえうりけんはいけんしたことで、全体ぜんたいで10まんまいり、はいおさむ4おくえん成功せいこうおさめたが、日活にっかつ経営けいえい悪化あっかにより当初とうしょ予定よていしていた4構想こうそう実現じつげんできず3完結かんけつとなった。

大映だいえい

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ダイニチうつはい配給はいきゅうもう日活にっかつ統合とうごうした大映だいえいだったが、1971ねんには日活にっかつ離脱りだつしたため大映だいえい配給はいきゅうによる単独たんどく配給はいきゅうもどった。11月29にち体調たいちょう不良ふりょう永田ながた雅一まさいちわり息子むすこふく社長しゃちょう永田ながた秀雅ひでまさ社長しゃちょう就任しゅうにんぜん従業じゅうぎょういん解雇かいこ通告つうこくされ業務ぎょうむ全面ぜんめん停止ていし。12月に大映だいえい倒産とうさん[55]の1974ねん徳間書店とくましょてん買収ばいしゅうされた。買収ばいしゅう大映だいえい株式会社かぶしきがいしゃから大映だいえい映画えいが株式会社かぶしきがいしゃへと社名しゃめい変更へんこうとなり、徳間書店とくましょてん傘下さんか映画えいが製作せいさく子会社こがいしゃとなった。1975ねんの『金環きんかん』が製作せいさく復帰ふっきだいいちごうとなったが、配給はいきゅう東宝とうほうであり、以後いご製作せいさく作品さくひん他社たしゃ配給はいきゅうになった。

角川かどかわ映画えいが

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既存きそん大手おおて映画えいが会社かいしゃ苦戦くせんする一方いっぽうで1976ねん角川書店かどかわしょてん角川かどかわ春樹はるき映画えいが製作せいさく進出しんしゅつし、1976ねんの『いぬ神家じんか一族いちぞく』を皮切かわきりに、豊富ほうふ予算よさんによる制作せいさく出版しゅっぱんやテレビドラマとうとのふくあいてき効果こうかねらったメディアミックスによる戦略せんりゃくされた宣伝せんでん展開てんかい。『人間にんげん証明しょうめい』、『野性やせい証明しょうめい』、1979ねんの『戦国せんごく自衛隊じえいたい』など、大作たいさくつづけにだいヒットさせ[56]洋画ようがとテレビにされる一方いっぽうだった日本にっぽん映画えいがかい停滞ていたいやぶり、角川かどかわ映画えいがいきおいは1980年代ねんだいなかばまでつづいた[56]。アニメーションやドキュメンタリーの分野ぶんや発展はってんし、いしずえきずいた。1977ねん東映とうえい配給はいきゅうした『宇宙うちゅう戦艦せんかんヤマト』では日本にっぽん映画えいがはつといわれる徹夜てつやぐみた。1979ねんには『銀河ぎんが鉄道てつどう999』(東映とうえい製作せいさく配給はいきゅう)が公開こうかいされ、1979年度ねんど邦画ほうが邦画ほうがはいおさむだいいちとなり、アニメ映画えいが史上しじょうはつ快挙かいきょとなった。アニメ映画えいが評価ひょうかされなかった[57]時代じだい異例いれい評価ひょうかる。

元々もともと商業しょうぎょう主義しゅぎからけていたATGにも経営けいえい困難こんなんはつきまとい、1974ねんには主力しゅりょく劇場げきじょうであった新宿しんじゅく文化ぶんか劇場げきじょう東宝とうほう意向いこうでATGからはずされることになった[58]。それでも娯楽ごらく映画えいが以外いがい企画きかく余裕よゆうのない大手おおてわり芸術げいじゅつ映画えいが積極せっきょくてき製作せいさくつづけ、吉田よしだ喜重よししげ監督かんとくエロス+虐殺ぎゃくさつ』(1970)や寺山てらやま修司しゅうじ監督かんとく田園でんえん』(1974)などその作家さっか代表だいひょうさくとなる作品さくひん日本にっぽん映画えいがしつてき水準すいじゅん維持いじ貢献こうけんした。1976ねんには今村いまむらプロ出身しゅっしん長谷川はせがわ和彦かずひこが『青春せいしゅん殺人さつじんしゃ』でそのとしキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン1獲得かくとくし、新人しんじん監督かんとくとして鮮烈せんれつなデビューをかざった。

長谷川はせがわ和彦かずひこさらに1979ねんには監督かんとくだいさく太陽たいようぬすんだおとこ』(キティ・フィルム製作せいさく東宝とうほう配給はいきゅう)を公開こうかい興行こうぎょうてきには失敗しっぱいしたが、ながらくカルト映画えいがとして人気にんきほこり、キネマ旬報きねまじゅんぽうが2018ねん発表はっぴょうした70年代ねんだい日本にっぽん映画えいがだい1えらばれるひとし[59]いまなおたか評価ひょうかされる作品さくひんとなっている。

1980年代ねんだい

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邦画ほうが配給はいきゅう会社かいしゃべつ年間ねんかん配給はいきゅう収入しゅうにゅう1999ねん平成へいせい11ねん)まで)

1980ねんになると従来じゅうらいスタジオシステム崩壊ほうかいし、大手おおて大作たいさく映画えいが全国ぜんこく専属せんぞく劇場げきじょう同時どうじ公開こうかいするという方式ほうしきりたなくなった。撮影さつえいしょシステム崩壊ほうかい助監督じょかんとくから監督かんとく昇格しょうかくするというながれをほぼ消滅しょうめつさせたが、その一方いっぽうで1980年代ねんだい自主じしゅ製作せいさく映画えいが中心ちゅうしんおおくの若手わかて映画えいが監督かんとくがデビューした時期じきでもあった。1977ねんはじまった自主じしゅ映画えいが制作せいさくてんは1981ねんにはぴあフィルムフェスティバル名称めいしょうえ、自主じしゅ映画えいがのコンペティションであるPFFアワードの入選にゅうせんしゃ森田もりた芳光よしみつ石井いしいさとしわた黒沢くろさわきよし塚本つかもとすすむなど多数たすうのプロの映画えいが監督かんとく輩出はいしゅつし、現在げんざいいたるまで若手わかて映画えいが監督かんとく登竜門とうりゅうもんとなっている[60]1980ねんだい54かいキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン話題わだいんだのは、ゲリラてき製作せいさく配給はいきゅう興行こうぎょうした鈴木すずききよしじゅん監督かんとくの『ツィゴイネルワイゼン』が日本にっぽん映画えいがベスト・テン1ったことと、巨匠きょしょう監督かんとく作品さくひんじって大森おおもり一樹かずきヒポクラテスたち』、橋浦はしうらかたじんうみしおおん』、石井いしいさとしわたくるきサンダーロード』と、20~30さいだいわか監督かんとくさくがベスト・テンにつらねたことだった[61]キネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン選考せんこう委員いいん一人ひとりである松田まつだ政男まさおは「1980ねん自主じしゅ製作せいさく映画えいが最良さいりょうのエネルギーをむことに成功せいこうしたいちねんだった。80年代ねんだいける日本にっぽん映画えいが転換てんかんのきざしを準備じゅんびしたとえる。それをになったのはシネマプラセット[62]新生しんせいATG名画めいがチェーンのさんしゃ。この功績こうせきおおきい」とひょうした[61]名画めいがチェーンというのは、いずれも良心りょうしんてき劇場げきじょう(こや)として映画えいがファンにられていた東京とうきょう並木なみき池袋いけぶくろ文芸ぶんげいすわ上板かみいた東映とうえいさんかんし、「80年代ねんだいはもうメジャーにまかせておけない!」と、若手わかて監督かんとく自主じしゅ製作せいさくバックアップに情熱じょうねつそそいだ[61]並木なみき土方どかた鉄人てつじん監督かんとくの『戦争せんそういぬたち』、文芸ぶんげいすわ山川やまかわ直人なおと監督かんとくの『アナザ・サイド』、上板かみいた東映とうえい石井いしいさとしわた監督かんとくの『くるきサンダーロード』の製作せいさくにもかかわっている[61]。『朝日あさひジャーナル』1982ねん7がつ記事きじ酒井さかい武史たけしは「いま日本にっぽん映画えいがかいでは一見いっけん奇妙きみょう現象げんしょうきています。映画えいが人口じんこうは1981ねんについに1おく5せんまんにんりました。これは最盛さいせいの14%にたります。にもかかわらず、邦画ほうがニューウェーブの旗手きしゅたちといわれる新進しんしん若手わかて監督かんとくたちが、話題わだいさく問題もんだいさくっさげて続々ぞくぞく登場とうじょうしてきています」とろん[63]同誌どうし編集へんしゅう独断どくだんで、将来しょうらい日本にっぽん映画えいがになうと期待きたいする若手わかて監督かんとく20にんえらび、1982ねん7がつしゅうわた紹介しょうかいしている[63]。ここでげられている20にんは、長嶺ながみね高文たかふみ井筒いづつ和幸かずゆき森田もりた芳光よしみつ浅尾あさお政行まさゆき土方ひじかた鉄人てつじん井上いのうえしんかい小栗おぐり康平やすひら石山いしやま昭信あきのぶ土橋どばしとおる後藤ごとう俊夫としお山川やまかわ直人なおと石井いしいさとしわた長崎ながさきしゅんいち大森おおもり一樹かずき根岸ねぎし吉太郎よしたろう横山よこやま博人ひろと松原まつばら信吾しんご和泉いずみきよし保坂ほさかのべ澤井さわい信一郎しんいちろうである[63]。そして1982ねん6がつには長谷川はせがわ和彦かずひこ代表だいひょうとし、8にん新人しんじん監督かんとく相米そうまい慎二しんじ根岸ねぎし吉太郎よしたろう高橋たかはしばんあきら井筒いづつ和幸かずゆき池田いけだ敏春としはる大森おおもり一樹かずき石井いしいさとしわた黒沢くろさわきよし)にびかけ企画きかく製作せいさく会社かいしゃディレクターズ・カンパニー発足ほっそくした。しかし、大半たいはん作品さくひん満足まんぞく興行こうぎょう成績せいせきげることができず、経営けいえいなんおちいり1992ねん活動かつどう終了しゅうりょうとなった[64]

1970年代ねんだい沈黙ちんもくしてきた巨匠きょしょう復帰ふっき作品さくひんというものもられ、代表だいひょうてきなものとしては黒澤くろさわあきらの『影武者かげむしゃ』(1980ねん)、『らん』(1985ねん)や今村いまむら昌平しょうへいの『楢山節考ならやまぶしこう』(1983ねん)、『くろあめ』(1989ねん)、鈴木すずききよしじゅんの『ツィゴイネルワイゼン』(1980ねん)、『陽炎かげろう』(1981ねん)や吉田よしだ喜重よししげの『人間にんげん約束やくそく』(1986ねん)、松本まつもと俊夫としおの『ドグラ・マグラ』(1988ねん)などがある。このうち、『影武者かげむしゃ』はだい33かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにて、『楢山節考ならやまぶしこう』はだい36かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいでそれぞれパルム・ドールかがやひとし海外かいがいでもたか評価ひょうかされた。

 
伊丹いたみ十三じゅうざ

80年代ねんだいから90年代ねんだい初頭しょとうにかけては映画えいがかいそとから有名人ゆうめいじん映画えいが監督かんとくかつうごきも相次あいつぎ、ミュージシャンや俳優はいゆうから作家さっか画家がかなどあらゆるジャンルの監督かんとく出現しゅつげんした。しかしそうした業種ぎょうしゅ監督かんとくさくのメガホンをとり映画えいがかい定着ていちゃくした人物じんぶつはごくわずかであった。角川かどかわ映画えいが一躍いちやくひととなった角川かどかわ春樹はるきも1982ねんの『よごれた英雄えいゆう』においてみずか監督かんとくデビューをたした。1984ねんにはマルチタレントとして活躍かつやくしていた伊丹いたみ十三じゅうざ映画えいが監督かんとく伊丹いたみ万作まんさく息子むすこ)が51さいで『葬式そうしき』で映画えいが監督かんとくとしてデビューし、当初とうしょは「映画えいが名前なまえくない」などと、ほとんど映画えいがかんから上映じょうえいことわられるほど知名度ちめいどひく状態じょうたいであったが、最初さいしょちいさな映画えいがかんでの上映じょうえいからはじまり徐々じょじょたか評価ひょうかをうけ上映じょうえいかん拡大かくだいし、ついには日本にっぽんアカデミーしょう芸術げいじゅつ選奨せんしょう新人しんじんしょうはじめとして、じつに30をえる映画えいがしょう受賞じゅしょうした。よく1985ねんの『タンポポ』はアメリカで好評こうひょうた。1987ねんの『マルサのおんな』は、どう時代じだい取材しゅざいしそれをたくみにんだ作品さくひんで、興行こうぎょうてきにも成功せいこうした。1989ねんには北野きたのたけしが『そのおとこ凶暴きょうぼうにつき』で映画えいが監督かんとくデビューとなった。

ミニシアターブーム

編集へんしゅう

1980年代ねんだいいても映画えいがをめぐる環境かんきょう急速きゅうそく変化へんかした[65]上板かみいた東映とうえいなど名画めいが閉館へいかん相次あいつぎ、わって都会とかいでもてはやされたのがミニシアターであった[65]東京とうきょう名画めいがかぎれば、都心としん相次あいついでオシャレなミニシアターが1980年代ねんだい続々ぞくぞく開館かいかんしたことで、おきゃく地元じもと映画えいがかん映画えいがなくなったということがあった[65]。また1970年代ねんだい後半こうはんからの大作たいさく志向しこうもあって製作せいさく本数ほんすう激減げきげんし、興行こうぎょうたりはずれもえ、多少たしょうでもヒットした作品さくひん封切ふうきり映画えいがりしたときの穴埋あなうめで使つかわれるようになり[65]名画めいがにかける映画えいがった[65]。さらにちをかけるようにそれまで大手おおて映連えいれん)とテレビ局てれびきょく映連えいれんぜんきょうれんあいだ一定いってい期間きかんいて、テレビ放映ほうえい、ビデオすることが不文ふぶんりつまもられていたが、1980年代ねんだいはい次々つぎつぎこれもくずされ、名画めいが存在そんざい理由りゆういちじるしくらいだ。1983ねんに『E.T.』『南極なんきょく物語ものがたり』で久々ひさびさ映画えいが人口じんこう増加ぞうかしたとはいえ、その数字すうじには名画めいが観客かんきゃくすうふくまれていない[65]。1983ねん8がつにオープンしたテアトルせんじゅうは、マニアックなピンク映画えいがのプログラムをみ、一部いちぶ映画えいがファンから注目ちゅうもくされたが[65]、おきゃく全然ぜんぜんはいらず半年はんとしつぶれた[65]ふるきたないイメージが定着ていちゃくした名画めいがをいざなおそうとすると消防しょうぼうほう改正かいせいかねがかかりすぎ、個人こじん経営けいえい資本しほんではまかないきれない事情じじょうがあった[65]。これに関連かんれんするトピックとして西武せいぶセゾングループ映画えいが進出しんしゅつげられる[65]。1970年代ねんだい角川かどかわ映画えいが映画えいが進出しんしゅつおおきなトピックだったが、西武せいぶグループはさらに規模きぼおおきく、映画えいが関係かんけいしゃおおいににした[65]。80年代ねんだいのミニシアターブームで渋谷しぶやパルコSPACE PART3しん所沢ところざわレッツシネパークシネヴィヴァン六本木ろっぽんぎシネセゾン渋谷しぶや銀座ぎんざテアトル西友せいゆうなど、次々つぎつぎ映画えいがかんをオープンさせたのをはじめ、シネセゾンとして洋画ようが邦画ほうが配給はいきゅう関連かんれん会社かいしゃが、おおくの映画えいが製作せいさくした(セゾングループの映画えいが事業じぎょう)。同社どうしゃ幹部かんぶは「系列けいれつ映画えいがかんを30かん程度ていどにします」とべていた[65]

80年代ねんだいになると外国がいこく映画えいが配給はいきゅうよりも日本にっぽん映画えいが製作せいさく配給はいきゅう注力ちゅうりょくするようになったATGにわり、岩波いわなみホールをはじめとするおおくのミニシアターが外国がいこく芸術げいじゅつ映画えいが上映じょうえいという役割やくわりになうようになった。また、東映とうえいセントラルフィルムが『どろかわ』(1981)を配給はいきゅうするひとし大手おおて独立どくりつけい芸術げいじゅつ映画えいが配給はいきゅうにもはじめたこともあり、ATGはその存在そんざい意義いぎうしないつつあった。それでも1979ねん初代しょだい社長しゃちょう井関いせきわりあたらしく社長しゃちょうになった佐々木ささき史朗しろう新人しんじん監督かんとく活躍かつやくあたえようと大森おおもり一樹かずき監督かんとくヒポクラテスたち』(1980)、 井筒いづつ和幸かずゆき監督かんとくガキ帝国ていこく』(1981)、大林おおばやし宣彦のぶひこ監督かんとく転校生てんこうせい』(1981)、森田もりた芳光よしみつ監督かんとく家族かぞくゲーム』(1983)、伊丹いたみ十三じゅうざ監督かんとく葬式そうしき』(1984)[注釈ちゅうしゃく 6]など、新人しんじん監督かんとく起用きようした作品さくひん次々つぎつぎおくした。これらの作品さくひんたか評価ひょうかされ『家族かぞくゲーム』や『葬式そうしき』は興行こうぎょうめんでも成功せいこうしたにもかかわらず経営けいえいなん改善かいぜんせず、1985ねん佐々木ささき史朗しろう社長しゃちょうから退陣たいじん、ATGはおおきく弱体じゃくたいてい予算よさん映画えいが製作せいさくすら困難こんなんとなり1992ねん活動かつどう休止きゅうしすることになる。

テレビ局てれびきょく映画えいが製作せいさく参入さんにゅう

編集へんしゅう

今日きょうつづ映画えいが状況じょうきょう起点きてんという意味いみでは、1980年代ねんだいテレビ局てれびきょくによる本格ほんかくてき映画えいが製作せいさくへの参入さんにゅうげられる[25][66][67]当時とうじ視聴しちょうりつトップをはしっていたフジテレビは、1969ねんの『用金ようきん』でテレビ局てれびきょくによる映画えいが参入さんにゅう先鞭せんべんをつけたが[66][67]、その中断ちゅうだんし、14ねん歳月さいげつて1983ねんの『南極なんきょく物語ものがたり』でふたた映画えいが参入さんにゅうした[66][67]。1983ねん前年ぜんねんれに公開こうかいされたアメリカ映画えいがE.T.』が空前くうぜん人気にんき維持いじしてはいおさむ94おくえんげ、興行こうぎょうがい活性かっせいしたとしでもあったが[66]、このとしなつ公開こうかいされた『南極なんきょく物語ものがたり』が当時とうじ日本にっぽん映画えいがしん記録きろくとなるはいおさむ56おくえんげ、さらに興行こうぎょうがいげた[66]。『南極なんきょく物語ものがたり』のだいヒットは、製作せいさく宣伝せんでんめんで、映画えいがかいにいくつかのあたらしい導入どうにゅうした[66]。フジテレビの番組ばんぐみ俳優はいゆういぬ次々つぎつぎ出演しゅつえんバラエティ番組ばんぐみ連日れんじつげるなど大々的だいだいてきキャンペーンおこなわれ、映画えいが公開こうかい一大いちだいイベントした[66][67]フジサンケイグループ前面ぜんめんし、どう系列けいれつ資本しほん一丸いちがんとなっての宣伝せんでんは、映画えいがかいでははじめてのことであった[66]。フジテレビは以後いごも『子猫こねこ物語ものがたり』(1986ねん)、1980年代ねんだいまつからのバブル時代じだいにはホイチョイさんさくばれる「トレンディ」な映画えいがをヒットさせるなど、話題わだいさく連打れんだし、きょくもそれにならうようになった[66]。これにはきょく放映ほうえいする映画えいが番組ばんぐみでの放映ほうえいけん獲得かくとくしやすいことも理由りゆうとしてあった[67]。ここにいたテレビ局てれびきょく映画えいが製作せいさく会社かいしゃとしてのいちめんつといっていい状況じょうきょうまれた[25]

角川かどかわ映画えいが

編集へんしゅう

1980ねん復活ふっかつ』が満足まんぞく興行こうぎょう成績せいせきげられなかったため、大作たいさく映画えいが路線ろせんからは撤退てったい薬師丸やくしまるひろ主演しゅえんふく機関きかんじゅう』(1981)や原田はらだ知世ともよ主演しゅえんどきをかける少女しょうじょ』(1983)といったてい予算よさんアイドル映画えいがへと路線ろせん変更へんこうしていき、そのなか相米そうまい慎二しんじ大林おおばやし宣彦のぶひこ特異とくい作家さっかせい発揮はっきした。フジテレビが『南極なんきょく物語ものがたり』をだいヒットさせた1983ねんには『探偵たんてい物語ものがたり』『どきをかける少女しょうじょ』をヒットさせたが、派手はで宣伝せんでんという意味いみでは、次第しだいにフジテレビとわるようになった[66]

東宝とうほう

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一度いちど終了しゅうりょうしたゴジラシリーズ1984ねん復活ふっかつさせた一方いっぽう角川かどかわおなじく大作たいさく路線ろせん縮小しゅくしょうし、ジャニーズホリプロサンミュージックのような大手おおて芸能げいのう事務所じむしょんだアイドル映画えいが興行こうぎょう中心ちゅうしんえていき、自社じしゃでも東宝とうほうシンデレラオーディション開始かいしした。また、1980ねんにはアニメ映画えいがドラえもん』のだいいちさく公開こうかいされ、以降いこうほぼ毎年まいとし邦画ほうが年間ねんかんきょうおさむトップ10にはいるほど安定あんていしてかせファミリー映画えいがとしていきながいシリーズとなっている。

東映とうえい

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時代じだいげきヤクザ映画えいがまるなか、1980ねん大作たいさく歴史れきし映画えいがひゃくさん高地こうち』をヒットさせたほか、『おにりゅういん花子はなこ生涯しょうがい』(1982)のヒットをきっかけに女性じょせい文芸ぶんげい大作たいさく路線ろせんをスタートさせ、そのながれは『極道ごくどうつまたち』シリーズに発展はってんしていった。

松竹しょうちく

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80年代ねんだいはいっても『おとこはつらいよ』シリーズにたよ状態じょうたいつづいていたが、1987ねんには『南極なんきょく物語ものがたり』や『子猫こねこ物語ものがたり』といったフジテレビ製作せいさく動物どうぶつ映画えいがのヒットに便乗びんじょうした『ハチ公はちこう物語ものがたり』がだいヒットを記録きろく。1988ねんには『りバカ日誌にっしだいいちさく公開こうかいし、『おとこはつらいよ』に看板かんばん映画えいがとして2009ねんまで製作せいさくされた。

日活にっかつ

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日活にっかつは1978ねん社名しゃめいを「にっかつ」に、1988ねんに「ロッポニカ」に変更へんこうし、ロマンポルノ路線ろせんからの脱皮だっぴはかったが、うまくくことはできなかった。

徳間とくま大映だいえい

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徳間書店とくましょてん買収ばいしゅうされた大映だいえい徳間とくまやすしかい社長しゃちょう中国ちゅうごくきもあり『未完みかん対局たいきょく』、『敦煌とんこう』といったにちちゅう合作がっさく大作たいさく製作せいさくしたが、莫大ばくだい製作せいさく会社かいしゃ赤字あかじふくがらせる要因よういんとなった。

スタジオジブリ

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徳間とくまやすしかい大映だいえいでの映画えいが製作せいさくのみならず、1984ねんに『ふうたにのナウシカ』を映画えいがし、1985ねんにはアニメーション制作せいさく会社かいしゃ株式会社かぶしきがいしゃスタジオジブリ設立せつりつ初代しょだい社長しゃちょう就任しゅうにんした。1988ねんには『となりのトトロ』『火垂ほたるのはか』の二本立にほんだてを公開こうかい(配給はいきゅう東宝とうほう)、観客かんきゃく動員どういんすうは80まんにん興行こうぎょうてきには満足まんぞく成功せいこうおさめられたとはがたいが、『となりのトトロ』はアニメ映画えいがとしてはつキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン1獲得かくとくするとうたか評価ひょうかされた。さらに1989ねん魔女まじょ宅急便たっきゅうびん』(配給はいきゅう東映とうえい洋画ようが)は観客かんきゃく動員どういんすう264まんにん記録きろく、そのとし邦画ほうが1となり、スタジオジブリ作品さくひんは90年代ねんだい以降いこう日本にっぽん映画えいが興行こうぎょう中心ちゅうしんとなっていく。

1990年代ねんだい

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北野きたのたけし

映画えいが業界ぎょうかい苦戦くせんつづき、年間ねんかん観客かんきゃく動員どういんすうは1996ねんに1おく1957まんにんまで減少げんしょう洋画ようが人気にんきによるようだかくにひく状況じょうきょう顕著けんちょになり、1998ねんには年間ねんかん配給はいきゅう収入しゅうにゅうシェアで邦画ほうがが30.2%までんだ[67]。1992ねんにはATG活動かつどう終了しゅうりょう、1993ねんには日本にっぽん最古さいこ映画えいが会社かいしゃである日活にっかつ会社かいしゃ更生こうせいほう適用てきよう申請しんせい事実じじつじょう倒産とうさんとなった。バブル崩壊ほうかい不景気ふけいき影響えいきょうし、大手おおて映画えいが会社かいしゃ企画きかく保守ほしゅし、新人しんじん監督かんとくがデビューする機会きかいはほとんどうしなわれていった。そうした状況じょうきょうでも日本にっぽん映画えいがになあらたな人材じんざいつけるためのこころみが途切とぎれたわけではなかった。大手おおて映画えいが会社かいしゃなかでも松竹しょうちく奥山おくやま和由かずよし数少かずすくない新人しんじん発掘はっくつ尽力じんりょくしていたプロデューサーであった。まずそれは業種ぎょうしゅ才能さいのう映画えいがかいかたちおこなわれた。わら芸人げいにん北野きたのたけし俳優はいゆう竹中たけなか直人なおと放送ほうそう作家さっか作詞さくし秋元あきもとやすし歌舞伎かぶき役者やくしゃ坂東ばんどう玉三郎たまさぶろうひとしがデビューしたが、どれも商業しょうぎょうてきには失敗しっぱいわった。しかしそのなか北野きたのたけしは『ソナチネ』(1994)以降いこう奥山おくやまとは訣別けつべつしたものの、1997ねんヴェネツィア映画えいがさいで『HANA-BI』がきむ獅子しししょう獲得かくとくするなど国際こくさいてきたか評価ひょうか監督かんとくとなった。奥山おくやまさらに1997ねん邦画ほうがあたらしい製作せいさく興行こうぎょう体制たいせい構築こうちく目指めざして、専用せんよう上映じょうえいかんじくてい予算よさん映画えいが上映じょうえいするプロジェクト「シネマジャパネスク」を企画きかく、ベテラン監督かんとく今村いまむら昌平しょうへい若松わかまつ孝二こうじ参加さんかしたほか、阪本さかもと順治じゅんじ黒沢くろさわきよしくだりていくん原田はらだ眞人まさと市川いちかわじゅん本木もとぎかつえい雨宮あまみや慶太けいたといったおおくの若手わかて監督かんとく起用きようされた(くだりていくん本木もとぎかつえいはこのわく監督かんとくデビューした)[68]。そしてシネマジャパネスクだい2さくの『うなぎ』(監督かんとく今村いまむら昌平しょうへい)はだい50かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいパルムドール受賞じゅしょうする成功せいこうおさめた。しかしどれも興行こうぎょうてきには失敗しっぱいわり、プロジェクト途中とちゅうの1998ねん1がつ19にち奥山おくやま松竹しょうちく取締役とりしまりやく解任かいにん会社かいしゃから追放ついほうされることとなった。インディペンデント映画えいがでは鉄鋼てっこう業界ぎょうかいからWOWOW入社にゅうしゃした仙頭せんどう武則たけのり業種ぎょうしゅでありながら映画えいがプロデュースへ参入さんにゅうし、利重とししげつよしBeRLiN』(1995)、万田まんだくにさとし宇宙うちゅう貨物かもつせんレムナント6』(1996)、青山あおやま真治しんじHelpless』(1996)、諏訪すわ敦彦あつひこ2/デュオ』(1999)と新人しんじん監督かんとくのデビューさく次々つぎつぎがけた。そして1997ねんカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいでは河瀬かわせ直美なおみの『もえ朱雀すじゃく』がカメラ・ドール獲得かくとく。『女優じょゆうれい』(1996)でんだ中田なかた秀夫ひでおとは『リング』がヒットしたことにより、ジャパニーズホラーブームの火付ひつやく一人ひとりとなった。仙頭せんどうさらに1998ねん11月に日本にっぽん映画えいが国際こくさいてき基盤きばんづくりを目指めざしてWOWOW100%出資しゅっし子会社こがいしゃとしてサンセントシネマワークス株式会社かぶしきがいしゃ発足ほっそくしたが、2002ねん9がつには業績ぎょうせき不振ふしんのため解散かいさんとなった。映画えいが教育きょういく機関きかんけると、1975ねん今村いまむら昌平しょうへい設立せつりつした日本にっぽん映画えいが学校がっこう(げん日本にっぽん映画えいが大学だいがく)から三池みいけ崇史たかふみしょうなど、プロの映画えいが監督かんとくになる卒業生そつぎょうせいあらわはじめた。1997ねんにはアテネ・フランセ文化ぶんかセンターユーロスペース共同きょうどう実践じっせんてき映画えいがづくりをまなべる教育きょういく機関きかんとして映画えいが学校がっこう設立せつりつした[69]卒業生そつぎょうせい清水しみずたかしは1999ねんにビデオばんのろい』を製作せいさくし、ジャパニーズホラーブームを加速かそくさせた。

 
宮崎駿みやざきはやお

1990年代ねんだい国内こくない市場いちばではスタジオジブリ作品さくひん安定あんていしたヒットメーカーとなり、1997ねん宮崎駿みやざきはやお監督かんとくもののけひめ』は興行こうぎょう収入しゅうにゅう193おくえん当時とうじ日本にっぽん国内こくない歴代れきだい興行こうぎょう収入しゅうにゅう1える記録きろくてきなヒットとなった。1984ねん復活ふっかつしたゴジラシリーズは1991ねん公開こうかいの『ゴジラvsキングギドラ以降いこうはファミリー娯楽ごらく映画えいが作風さくふう転換てんかんし、正月しょうがつ映画えいがとして毎年まいとし1ほんのペースで公開こうかいされスタジオジブリ邦画ほうが年間ねんかん興行こうぎょうトップをあらそ人気にんきシリーズとなったが、1995ねんの『ゴジラvsデストロイア』で一旦いったんシリーズ終了しゅうりょうとなった。大映だいえいゴジラシリーズのヒットをけ、監督かんとく金子かねこ修介しゅうすけ特技とくぎ監督かんとく樋口ひぐちしん抜擢ばってきし、ガメラシリーズ復活ふっかつさせた。そのだいいちさくガメラ だい怪獣かいじゅう空中くうちゅう決戦けっせん』は怪獣かいじゅう映画えいがというジャンルでははじめてキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テンえらばれるとうたか評価ひょうかされた。アニメを中心ちゅうしんとするファミリー映画えいがやテレビドラマの劇場げきじょうばん以外いがいにヒットが見込みこめない時代じだいであったが、伊丹いたみ十三じゅうざは『あげまん』(1990ねん)、『ミンボーのおんな』(1992ねん)、『大病たいびょうじん』(1993ねん)、『しずかな生活せいかつ』(1995ねん)、『スーパーのおんな』(1996ねん)、『マルタイのおんな』(1997ねん)と、手堅てがたたる作品さくひんつづけた。このなかで『大病たいびょうじん』はしろぐみにより日本にっぽん映画えいがはじめてデジタル合成ごうせいこころみられた作品さくひんでもあった。また、『マルサのおんな』の現場げんばでスタッフとして参加さんかし、その現場げんばりえた伊丹いたみ独特どくとく手法しゅほう自分じぶん映画えいがるときにおおいにやくったとかたっている周防すおう正行まさゆき監督かんとくした『Shall we ダンス?』(1997)がアメリカをはじめとする諸国しょこくでも成功せいこうおさめた。角川かどかわ春樹はるきは1990ねんに『復活ふっかつ以来いらい10ねんぶりにちょう大作たいさく映画えいががけ、製作せいさく50おくえんおよぶ『てん』(東映とうえい配給はいきゅう)を公開こうかい興行こうぎょう収入しゅうにゅうは92おくえん記録きろくした。しかし1993ねん角川かどかわ春樹はるき薬物やくぶつ所持しょじにより逮捕たいほされ失脚しっきゃくし、『REX 恐竜きょうりゅう物語ものがたり』が角川書店かどかわしょてん在籍ざいせきちゅうでは最後さいご作品さくひんとなった。その社長しゃちょう就任しゅうにんしたおとうと角川かどかわれき映画えいが事業じぎょう参入さんにゅう、『しつ楽園らくえん』(1997)や『リング』(1998)など話題わだいさくおくしたが、製作せいさく委員いいんかい方式ほうしき主流しゅりゅうになったこともあり、以前いぜんのように角川かどかわ映画えいがというブランドイメージが定着ていちゃくすることはなかった。松竹しょうちくの『おとこはつらいよ』シリーズは90年代ねんだいはいっても安定あんていした興行こうぎょうつづいていたが、1996ねん渥美あつみきよし急逝きゅうせいしたことにより、1997ねんの『おとこはつらいよ 寅次郎とらじろうハイビスカスのはな 特別とくべつへん』を最後さいごにシリーズのまくじた。

テレビ局てれびきょく製作せいさく映画えいが製作せいさく委員いいんかい方式ほうしき定着ていちゃく

編集へんしゅう

90年代ねんだい以降いこうテレビ局てれびきょくきょく放映ほうえいしたテレビドラマの映画えいがえていった。フジテレビが深夜しんやわく放送ほうそうした『NIGHT HEAD』の劇場げきじょうばん東宝とうほう配給はいきゅう)が1994ねん公開こうかいされると、どう時期じき公開こうかいされた東映とうえい社運しゃうんけた勝負しょうぶさく集団しゅうだん左遷させん』より成績せいせき上回うわまわ[70]映画えいが関係かんけいしゃおおきなショックをけた[71]。90年代ねんだいきょうもあり、自社じしゃのみでヒットする作品さくひんすことがむずかしくなった大手おおて映画えいが会社かいしゃはリスクを分散ぶんさん製作せいさく資金しきんあつめられる製作せいさく委員いいんかい方式ほうしき歓迎かんげいした。製作せいさく委員いいんかい方式ほうしき定着ていちゃくはビデオ・DVDの販売はんばい市場いちば拡大かくだい衛星えいせい放送ほうそうなどの利用りよう市場いちばひろがりへの対応たいおうというめんもあった。ビデオ・DVDの販売はんばいがくは1991ねんには945おくえんだったが、2000ねんには2150おくえん、2003ねんには3434おくえんきゅう拡大かくだいしている(その縮小しゅくしょうてんじ2011ねんは2007おくえんにまで減少げんしょうしている)[72]メディアミックスうごきが活発かっぱつになり、ゲーム漫画まんがアニメなどと連動れんどうした映画えいが作品さくひん増加ぞうかし、日本にっぽん映画えいが産業さんぎょう映画えいが会社かいしゃのみで完結かんけつしない多様たよう関係かんけいしゃかかわるビジネス形態けいたいへと変化へんかしていった。1986ねん広告こうこく代理だいりてん出身しゅっしん阿部あべ秀司しゅうじ設立せつりつした制作せいさくプロダクション株式会社かぶしきがいしゃロボットフジテレビ提携ていけいし『Love Letter』(岩井いわい俊二しゅんじ監督かんとく・1995ねん)より映画えいが製作せいさく参入さんにゅうし、『おどだい捜査そうさせん THE MOVIE』(ほんこう克行かつゆき監督かんとく・1998ねん)は興行こうぎょう収入しゅうにゅう100おくえんえるだいヒットを記録きろく、2000年代ねんだい以降いこう国内こくない市場いちばくにだかようひくへの転換てんかん布石ふせきとなった。

シネマコンプレックスの登場とうじょう

編集へんしゅう

映画えいがかんのスクリーンすうは1960年代ねんだいから着実ちゃくじつ減少げんしょうしており、最盛さいせいの1960ねんには7000スクリーンをかぞえたが、1993ねんには1734スクリーンと史上しじょう最低さいてい記録きろくした[73]しくもこの1993ねん日本にっぽんシネマコンプレックスだい1ごうとなるワーナー・マイカル・シネマズ出店しゅってんしたとしでもあった[25]。1990年代ねんだい後半こうはんからシネコンの普及ふきゅう一気いっき加速かそくしていき、スクリーンすう減少げんしょうから増加ぞうかてんじた[25]。これは映画えいが観客かんきゃく増加ぞうかおおきく貢献こうけんし、1996ねんには年間ねんかん入場にゅうじょうしゃすうが1おく1957まんにん最小さいしょう記録きろくしたが、5ねんの2001ねんには1おく6328まんにんまで回復かいふくした[74]

2000年代ねんだい

編集へんしゅう
 
邦画ほうが配給はいきゅう会社かいしゃべつ年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅう2000ねん平成へいせい12ねん以降いこう

2000ねん青山あおやま真治しんじ監督かんとくさくEUREKA』がカンヌ映画えいがさい国際こくさい批評ひひょう連盟れんめいしょうかがやいたほか、深作ふかさく欣二きんじ監督かんとく事実じじつじょう遺作いさくバトル・ロワイアル』が公開こうかい、R15指定してい映画えいがでありながら興行こうぎょう収入しゅうにゅう31.1おくとヒットし、クエンティン・タランティーノ監督かんとく絶賛ぜっさんするひとし海外かいがいでもたか評価ひょうかされた。2001ねんには『せん千尋ちひろ神隠かみがく』が当時とうじ日本にっぽん歴代れきだい興行こうぎょう収入しゅうにゅうだい1記録きろくし、だい75かいアカデミーしょうではアカデミー長編ちょうへんアニメ映画えいがしょう受賞じゅしょう。2003ねん、『おどだい捜査そうさせん THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖ふうさせよ!』が興行こうぎょう収入しゅうにゅう173.5おくえん記録きろくてきだいヒット。同年どうねんに『座頭市ざとういち』がだい60かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいぎん獅子しししょうを、だい28かいトロント国際こくさい映画えいがさいでは観客かんきゃくしょう受賞じゅしょう。2004ねんには『だれらない』に出演しゅつえんしたやなぎらくゆうわたるが、だい57かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにて史上しじょう最年少さいねんしょうおよび日本人にっぽんじんとしてはじめての最優秀さいゆうしゅう主演しゅえん男優だんゆうしょう獲得かくとく。2007ねんだい60かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにて河瀬かわせ直美なおみ監督かんとく殯のもり』がグランプリ受賞じゅしょう[75]。2008ねんには『おくりびと』がだい81かいアカデミーしょうにて日本にっぽん映画えいがとしてはつアカデミー外国がいこく映画えいがしょう[注釈ちゅうしゃく 7]受賞じゅしょうするひとし快挙かいきょつづいた。ジャパニーズホラーともばれるホラー映画えいが海外かいがい脚光きゃっこうび、『のろい』などがハリウッドでもリメイクされ、監督かんとく清水しみずたかし中田なかた秀夫ひでおはリメイク作品さくひんにも参加さんかし、日本人にっぽんじん監督かんとくのハリウッドデビューも実現じつげんした。VFX出身しゅっしん山崎やまざきたかCMディレクターの中島なかじま哲也てつや特撮とくさつ監督かんとく樋口ひぐちしんといった以前いぜんから映像えいぞう業界ぎょうかい活躍かつやくしてきた人材じんざいもこのころから映画えいが監督かんとくとして注目ちゅうもくされる仕事しごとはじめた。

日本にっぽん映画えいがにおいて女性じょせい監督かんとくは1936ねん坂根さかね田鶴子たづこ端緒たんしょとするが、その女優じょゆう田中たなか絹代きぬよ監督かんとくぎょうにも参入さんにゅうしたことをのぞけば、ほとんど注目ちゅうもくされることはなかったが、1997ねん河瀨かわせ直美なおみカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい新人しんじん監督かんとくしょう受賞じゅしょうしたことを皮切かわきりに、2000年代ねんだいにかけて井口いぐち奈己蜷川にながわ実花みか西川にしかわ美和みわおぎうえ直子なおこタナダユキだいきゅう明子あきこひとし次々つぎつぎ女性じょせい監督かんとく登場とうじょうするようになった。

2002ねんには日本にっぽん自国じこく映画えいがのシェアは27%まで過去かこ最低さいていとなったが、その2006ねんには21ねんぶりに邦画ほうが興行こうぎょう収入しゅうにゅう洋画ようが興行こうぎょう収入しゅうにゅう上回うわまわった。この傾向けいこうくにだかようひくしょうされ、2007ねんいち洋画ようがのシェアが50%をえたのみで、2008ねん以降いこう現在げんざいまで邦画ほうがのシェアが洋画ようが上回うわまわつづけている。くにだかようひく傾向けいこうまれた要因よういんテレビ局てれびきょく出資しゅっしした映画えいがCMきょく大量たいりょうながし、情報じょうほう番組ばんぐみなどで宣伝せんでんしたことであるが、それに比例ひれいしてテレビ局てれびきょく口出くちだしがえ、映画えいが自主じしゅせいうすれているとされる[76]放送ほうそうほうテレビ局てれびきょく番組ばんぐみ以外いがい商品しょうひんは、宣伝せんでん自由じゆうにできるので製作せいさくしてはならないというまりがあるが、将来しょうらいきょくなが映画えいがのコマーシャルは放送ほうそうほう違反いはんしないため問題もんだいはないので、上記じょうきげた過剰かじょう宣伝せんでんモラル問題もんだいとされる[77]。また、これまでテレビ局てれびきょくはあくまで出資しゅっし宣伝せんでんがメインであり、しゃ英雄えいゆう監督かんとくのような一部いちぶ例外れいがいのぞテレビ局てれびきょく社員しゃいん映画えいが監督かんとくつとめたケースはそれほどおおくはなかったが、2000ねん以降いこう自社じしゃ社員しゃいん監督かんとく起用きようするれい急増きゅうぞうしている[78]。1995ねんから2010ねんまでの16年間ねんかんにおいて劇場げきじょう公開こうかいされた日本にっぽん映画えいがは5271ほんであり、そのうちテレビ局てれびきょく製作せいさく映画えいがめる割合わりあいやく6%の327ほんぎないが、興行こうぎょう収入しゅうにゅうではやく73%をめていた。テレビ局てれびきょく製作せいさく映画えいが傾向けいこう比較ひかくすると、フジテレビTBS実写じっしゃ映画えいががメインであり、日本にほんテレビテレビ東京てれびとうきょうテレビ朝日てれびあさひはアニメ映画えいが中心ちゅうしんとなっている[78]

大手おおて映画えいが会社かいしゃ

編集へんしゅう

テレビ局てれびきょくによる映画えいが製作せいさく活発かっぱつになる一方いっぽうで、大手おおて映画えいが会社かいしゃはリスクのおおきい自社じしゃ映画えいが製作せいさく部門ぶもんて、配給はいきゅう興行こうぎょう注力ちゅうりょくしていった東宝とうほう一人ひとり状態じょうたいとなった。東宝とうほうは2003ねんにヴァージン・シネマズを買収ばいしゅうし、TOHOシネマズ設立せつりつ、シネコン全盛ぜんせい時代じだいあらたな興行こうぎょう基盤きばん確立かくりつした。東宝とうほう配給はいきゅうのファミリー映画えいがとしてスタジオジブリ作品さくひんや『ポケットモンスター』、『めい探偵たんていコナン』の劇場げきじょうばん定着ていちゃくした一方いっぽう自社じしゃ製作せいさくにこだわってきたゴジラシリーズは1999ねん再始動さいしどうしたものの観客かんきゃく動員どういんすう下落げらくつづいたこともあり、2004ねんゴジラ誕生たんじょう50周年しゅうねん区切くぎりとして再度さいどシリーズ終了しゅうりょうとなった。大映だいえいは2000ねん徳間とくまやすしかい死去しきょしたことで2002ねん徳間書店とくましょてんからはなれ、角川書店かどかわしょてん吸収きゅうしゅうされ角川かどかわ大映だいえいとなった。その角川かどかわ大映だいえいは2004ねん角川かどかわ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃ社名しゃめい変更へんこう、2006ねんには日本ヘラルド映画にっぽんへらるどえいが合併がっぺい角川かどかわヘラルド映画えいがとなり、2007ねんふたた角川かどかわ映画えいが株式会社かぶしきがいしゃもどるなど度重たびかさなるM&Aにより商号しょうごう変更へんこう相次あいついだ。2006ねんには角川かどかわヘラルド映画えいが製作せいさく松竹しょうちく配給はいきゅうガメラシリーズ新作しんさくちいさき勇者ゆうしゃたち〜ガメラ〜』を公開こうかいしたものの、配給はいきゅう収入しゅうにゅうは4おく1000まんえんと90年代ねんだい平成へいせい3さくより商業しょうぎょうてきにはおと結果けっかとなり怪獣かいじゅう映画えいが不振ふしん時代じだい印象いんしょうづけることになった。松竹しょうちく看板かんばんシリーズ『おとこはつらいよ』の終了しゅうりょう経営けいえい悪化あっかけ2000ねん本社ほんしゃビルと大船おおふな撮影さつえいしょ売却ばいきゃくしたが、山田やまだ洋次ようじ監督かんとくつづ松竹しょうちく看板かんばん監督かんとくとして活動かつどうつづけた。2002ねんたそがれせい兵衛ひょうえ』は日本にっぽん国内こくない映画えいがしょうそうなめにし、だい76かいアカデミーしょうにおいて外国がいこく映画えいがしょうにノミネートされた。2004ねん木村きむら拓哉たくや主演しゅえん武士ぶしいちふん』は興行こうぎょう収入しゅうにゅう41.1おくえんだいヒットを記録きろくした。東映とうえい大手おおてなかでは自社じしゃ製作せいさくにも積極せっきょくてきであり、吉永よしなが小百合さゆり主演しゅえんきたれいねん』(2005)、角川かどかわ春樹はるき映画えいが製作せいさく復帰ふっきさくおとこたちの大和やまと/YAMATO』(2005)、ベテラン撮影さつえい監督かんとく木村きむら大作だいさく監督かんとくデビューさく劒岳 てん』(2009)といった大作たいさく映画えいがおお製作せいさくしたものの、安定あんていした収益しゅうえきをもたらすかせあたまは『相棒あいぼう』や『大奥おおおく』のようなテレビドラマや『ONE PIECE』や平成へいせい仮面かめんライダーシリーズのような特撮とくさつ・アニメ作品さくひん劇場げきじょうばんであった。1993ねん日本にっぽんはつシネマコンプレックス出店しゅってんしたアメリカの大手おおて映画えいが配給はいきゅう会社かいしゃワーナーブラザーズは2006ねん配給はいきゅう担当たんとうした日本にほんテレビ制作せいさくの『デスノート』のだいヒットをきっかけに日本にっぽん映画えいが配給はいきゅう本格ほんかくてき参入さんにゅうしていった。

独立どくりつけい映画えいが会社かいしゃ

編集へんしゅう

1989ねんおおとり設立せつりつした株式会社かぶしきがいしゃシネカノン独立どくりつけい映画えいが会社かいしゃでありながら自社じしゃ製作せいさく配給はいきゅうにこだわった映画えいがづくりをつづけており[79]、2004ねん〜2006ねんあいだシネカノン作品さくひん毎年まいとしキネマ旬報きねまじゅんぽうベスト・テン日本にっぽん映画えいが1となるとう注目ちゅうもくあつめた。是枝これえだ裕和ひろかずシネカノン作品さくひん着実ちゃくじつにキャリアをんでいき、西川にしかわ美和みわしょうのような新人しんじん監督かんとく知名度ちめいどげた。とくに2006ねん公開こうかいされたしょう監督かんとくフラガール』は、独立どくりつけい作品さくひんとしては異例いれいの172スクリーンからスタートし、ロングランをつづ興行こうぎょう収入しゅうにゅう15.2おくえん記録きろく日本にっぽんアカデミーしょうでは最優秀さいゆうしゅう作品さくひんしょう最優秀さいゆうしゅう監督かんとくしょうふくけい4部門ぶもん受賞じゅしょう原作げんさくもなく、大手おおて映画えいが会社かいしゃ配給はいきゅうさくでもなく、テレビ局てれびきょく出資しゅっしもない映画えいが数少かずすくない成功せいこうれいとなった。しかしシネコンの隆盛りゅうせいリーマンショックによるきょう影響えいきょうからのがれることはできず、2010ねんシネカノン経営けいえい破綻はたんする。

行政ぎょうせいによる映画えいが支援しえんうご

編集へんしゅう

2001ねん11月16にち文化ぶんか芸術げいじゅつ振興しんこう基本きほんほう衆議院しゅうぎいん提出ていしゅつされ、同月どうげつ30にち衆参しゅうさん可決かけつした。法律ほうりつ公布こうふ施行しこう同年どうねん12月7にち。この法律ほうりつのメディア芸術げいじゅつ振興しんこう項目こうもくだい9じょう)で、映画えいがふくんだメディア芸術げいじゅつ製作せいさく上映じょうえい支援しえんなどのために必要ひつよう施策しさくこうじることが明記めいきされ、これと連動れんどうするかたちだい35じょう地方ちほう公共こうきょう団体だんたいによるバックアップも明記めいきされた。 このことをけ、文化庁ぶんかちょう地域ちいき振興しんこうむすびつく映画えいが製作せいさくについて助成じょせいすることをし、かく地方ちほう公共こうきょう団体だんたいフィルム・コミッションなどの設立せつりつ運営うんえい、および当該とうがい組織そしきつうじての映画えいが製作せいさく誘致ゆうちなどをはじめた。さらに、『ねむおとこ』(群馬ぐんまけん)や『ふねりたら彼女かのじょしま』(愛媛えひめけん)などのように、地方ちほう公共こうきょう団体だんたいが(「補助ほじょきん」や「寄付きふ」などではなく)映画えいがたいして直接ちょくせつ出資しゅっしするれいられるようになった。2000ねん平成へいせい12ねん)2がつ に「フィルム・コミッション設立せつりつ研究けんきゅうかい」が設立せつりつされた。2001ねん平成へいせい13ねん8がつ8にち に「全国ぜんこくFC連絡れんらく協議きょうぎかい設立せつりつ総会そうかい開催かいさいされた。パシフィコ横浜ぱしふぃこよこはま全国ぜんこくFC(フィルム・コミッション)連絡れんらく協議きょうぎかい設立せつりつ総会そうかい開催かいさいされた。46の正会員せいかいいん団体だんたいのうち、フィルム・コミッションの団体だんたいすうは11。同年どうねん12月7にち に 「文化ぶんか芸術げいじゅつ振興しんこう基本きほんほう施行しこう。この法律ほうりつ対象たいしょうには、メディア芸術げいじゅつ(だいきゅうじょう)として、映画えいがふくまれる。2003ねん平成へいせい15ねん4がつ1にちに 「全国ぜんこくFC連絡れんらく協議きょうぎかい」、加盟かめい47団体だんたいへ。全国ぜんこくフィルム・コミッション連絡れんらく協議きょうぎかいへの加盟かめいFC(フィルム・コミッション)のかずが47団体だんたいたっした。4がつ24にち公開こうかい映画えいが納付のうふ義務付ぎむづけを提言ていげん文化庁ぶんかちょう懇談こんだんかいは、公開こうかいされた日本にっぽん映画えいが東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター納入のうにゅうすることを義務付ぎむづけることなど日本にっぽん映画えいが振興しんこうさせる12の施策しさく提言ていげん最終さいしゅう報告ほうこくしょにまとめた。文化ぶんか芸術げいじゅつ振興しんこう基本きほんほう公布こうふは2004ねん立教大学りっきょうだいがく現代げんだいこころ理学部りがくぶ映像えいぞう身体しんたい学科がっか、2005ねん東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学院だいがくいん映像えいぞう研究けんきゅう、2007ねん立命館大学りつめいかんだいがく映像えいぞう学部がくぶなど、映画えいが製作せいさくまな大学だいがくない教育きょういく機関きかん整備せいび相次あいついだ。

自衛隊じえいたい協力きょうりょく映画えいが

編集へんしゅう

自衛隊じえいたい映画えいが撮影さつえいへの協力きょうりょくは1964ねん今日きょうもわれ大空おおぞらにあり』を端緒たんしょとするが、1968ねんジェットF104脱出だっしゅつせよ』の製作せいさくさい国会こっかい社会党しゃかいとうから非難ひなんけたことで協力きょうりょく休止きゅうし余儀よぎなくされ、その20ねん以上いじょうあいだ映画えいが撮影さつえい協力きょうりょくすることはなかった。1989ねん冷戦れいせん終結しゅうけつするとゴジラシリーズガメラシリーズのような怪獣かいじゅう映画えいが中心ちゅうしんふたた映画えいが撮影さつえいへの協力きょうりょくはじまった。2004ねんゴジラシリーズ終了しゅうりょうし、日本にっぽん映画えいがから怪獣かいじゅう映画えいがはほとんど姿すがたすことになるが、2005ねんから2008ねんにかけて『戦国せんごく自衛隊じえいたい1549』、『亡国ぼうこくのイージス』、『日本にっぽん沈没ちんぼつ』、『ミッドナイト・イーグル』、『そらへ-すくいのつばさ RESCUE WINGS-』といった自衛隊じえいたい協力きょうりょく全面ぜんめんし、有名ゆうめい俳優はいゆう多数たすうキャスティングした映画えいが次々つぎつぎ公開こうかいされ、日本にっぽんのメジャー映画えいが一角いっかくめるようになった。自衛隊じえいたい映画えいが撮影さつえいへの協力きょうりょく映画えいが製作せいさくがわにも巨額きょがくなセットやCGをもちいずともリアルな映像えいぞうれるというおおきなメリットがあり、防衛ぼうえいしょう映画えいが会社かいしゃ直接ちょくせつオファーして製作せいさくさせた映画えいがではないため、これらの作品さくひん単純たんじゅんにプロパガンダ映画えいがとみなすことはできないが、撮影さつえいへの協力きょうりょく訓練くんれん一環いっかんとしておこなわれるためその協力きょうりょく金額きんがく総額そうがくとう不明ふめいである。『亡国ぼうこくのイージス』は当時とうじ防衛庁ぼうえいちょう当初とうしょ協力きょうりょくこばんだものの、映画えいが協力きょうりょく積極せっきょくてき当時とうじ石破いしば長官ちょうかんはたらきかけでシナリオが若干じゃっかん変更へんこうされ協力きょうりょく実現じつげんいたひとし撮影さつえいへの協力きょうりょくはそのとき防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん(現在げんざい防衛ぼうえい大臣だいじん)の判断はんだんまる部分ぶぶんおおきい[80]

2010年代ねんだい

編集へんしゅう
 
新海しんかいまこと

2010ねん興行こうぎょう収入しゅうにゅうが2207おくえん歴代れきだい最高さいこう記録きろくしたが、これはシネコンの普及ふきゅう洋画ようがの3D映画えいがブームが要因よういんであった[81]。2011ねん東日本ひがしにっぽん大震災だいしんさい影響えいきょうもあり、興行こうぎょう収入しゅうにゅうふたたび2000おく未満みまん下落げらくし、2000年代ねんだい平均へいきん水準すいじゅんである2000おくえんだいもどるには2014ねんまでかかることとなった。洋画ようが人気にんき低下ていか日本にっぽん映画えいが市場いちばくにだかようひくつづなかワーナーブラザーズ日本にっぽん法人ほうじんワーナーブラザーズ・ジャパン打開だかいさくとして、2010ねんの『最後さいご忠臣蔵ちゅうしんぐら』を皮切かわきりに日本にっぽん映画えいが配給はいきゅうのみならず製作せいさくにも参入さんにゅう[82]、『るろうにけんこころ』シリーズや『ぎんたましい』シリーズがだいヒットしたほか、配給はいきゅう作品さくひんではオフィス北野きたの製作せいさく北野きたのたけし監督かんとくアウトレイジ』シリーズがヒットさくとなった。アニメーション映画えいがでは2012ねんには細田ほそだまもるが『おおかみこどものあめゆき』、2016ねん新海しんかいまことが『きみは。』でそれぞれだいヒットをばし、作家さっかせい興行こうぎょうせいそなえたアニメーション監督かんとくとしてひろられるようになった。『きみは。』は日本にっぽん国内こくないだけでなくアジアを中心ちゅうしんだいヒットし、新海しんかいまこと国際こくさいてきにも認知にんちされる監督かんとくとなった。2016ねんは12ねんぶりに日本にっぽん製作せいさくゴジラシリーズとしてエヴァンゲリオンシリーズのあん秀明ひであきそう監督かんとくとした『シン・ゴジラ』も公開こうかいされ、国内こくない興行こうぎょう批評ひひょう両面りょうめん成功せいこうおさめた[83]以前いぜんからゴジラシリーズは東宝とうほうでの単独たんどく製作せいさくとなっていたが、ほんさくもその前例ぜんれい踏襲とうしゅうし、昨今さっこん日本にっぽん映画えいがではめずらしく製作せいさく委員いいんかい方式ほうしきらないかたちでの製作せいさくとなった。2016ねんはこのだいヒットさくによりおおきく数字すうじげられ、国内こくない年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅうは2010ねん以来いらい6ねんぶりに最高さいこう記録きろく更新こうしんした[84]。2016ねんにはさらに、クラウドファンディングで初期しょき制作せいさくあつめた『この世界せかい片隅かたすみ』が小規模しょうきぼ上映じょうえいから出発しゅっぱつして25おくえんえるヒットとなり、1988年度ねんどだい62かい)の『となりのトトロ以来いらい、アニメ映画えいがとしては28ねんぶりにキネマ旬報きねまじゅんぽう日本にっぽん映画えいがベスト1えらばれた。2017ねんインディーズ映画えいがカメラをめるな!』が製作せいさく300まんえんでありながら興行こうぎょう収入しゅうにゅう30おくえる異例いれいのヒットをせた。2018ねんの『万引まんび家族かぞく』は監督かんとく是枝これえだ裕和ひろかずだい71かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい日本人にっぽんじんとして『うなぎ以来いらい21ねんぶりに最高さいこうしょうであるパルム・ドール獲得かくとくした[85]。 2019ねんには国内こくない興行こうぎょう収入しゅうにゅう過去かこ最高さいこうの2611おく8000まんえん記録きろくし、年間ねんかん入場にゅうじょうしゃすうにおいても1971ねん以来いらい48ねんぶりに1おく9000まんにんだい回復かいふくした[86]

2012ねんは『BRAVE HEARTS うみざる』、『ONE PIECE FILM Z』、『テルマエ・ロマエ』、『おどだい捜査そうさせん THE FINAL あらたなる希望きぼう』と、フジテレビ製作せいさく参加さんかしている作品さくひん日本にっぽん年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅう上位じょういを4まで独占どくせんした。しかしもっと映画えいが製作せいさく積極せっきょくてきテレビ局てれびきょくであったフジテレビが2010年代ねんだいはいると視聴しちょうりつ低迷ていめいおちいったことで、2012ねんをピークとして邦画ほうが市場いちばにおけるテレビ局てれびきょく製作せいさく映画えいがいちきょう状態じょうたいくずれていくことになる。2013ねん公開こうかいの『永遠えいえんの0』は民放みんぽうテレビ局てれびきょく製作せいさく関与かんよしていない映画えいがでありながら、興行こうぎょう収入しゅうにゅう87.6おくえんだいヒットを記録きろく。2015ねん以降いこうテレビ局てれびきょく出資しゅっし映画えいが年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅうのベスト10のなかに2~3ほんしかはいらなくなり[87]、2016ねんだいヒットした『きみは。』と『シン・ゴジラ』はどちらもテレビ局てれびきょく製作せいさく関与かんよしていなかった[88]テレビ局てれびきょく製作せいさく参加さんかしている場合ばあいでも、テレビドラマの劇場げきじょうばんよりも『キングダム』のようなテレビドラマをずに直接ちょくせつ映画えいが作品さくひんとして製作せいさくされた作品さくひんのヒットがおおきくなり、歴代れきだい最高さいこう興行こうぎょう収入しゅうにゅう記録きろくした2019ねん邦画ほうが興行こうぎょう収入しゅうにゅうトップ10にテレビドラマの劇場げきじょうばん一本いっぽんはいらなかった[89]アニメーション映画えいがではスタジオジブリ作品さくひん存在そんざいかん低下ていかしていった。2012ねんはスタジオジブリ作品さくひん公開こうかいされなかったにもかかわらず、アニメ映画えいが興行こうぎょう収入しゅうにゅう合計ごうけいが400おくえん突破とっぱした(それまでスタジオジブリ作品さくひん公開こうかいがないとしは200おくえんだいだった)[90]。また、東宝とうほうの『ドラえもん』、『めい探偵たんていコナン』、東映とうえいの『ONE PIECE』、『ドラゴンボール』といった長期ちょうきアニメシリーズの劇場げきじょうばん興行こうぎょう成績せいせきはじめた[91]。スタジオジブリでは高畑たかはたいさおが2018ねん死去しきょ宮崎駿みやざきはやおは2013ねんの『ふうちぬ発表はっぴょう引退いんたい宣言せんげんし2017ねんにはそれを撤回てっかいしたものの[92]、スタジオジブリの制作せいさく部門ぶもん解体かいたいされ2014ねんの『おものマーニー』を最後さいごに2023ねんの『きみたちはどうきるか』まで10ねんちかくの新作しんさく公開こうかい空白くうはく期間きかんまれることとなった。

日本にっぽんでは、基本きほんてき観客かんきゃく静寂しじまたもつように視聴しちょうするのが礼儀れいぎとなっており、北米ほくべいのように[93]拍手はくしゅ声援せいえんなどで応答おうとうすることはめずらしかったが、2010年代ねんだいはいると、アニメ映画えいがファンを中心ちゅうしんに「応援おうえん上映じょうえい」(チアリング上映じょうえい発声はっせいがた上映じょうえい)などとばれる上映じょうえいかい注目ちゅうもくされはじめ、それらでは声援せいえんなど観客かんきゃくたちが映画えいが進行しんこうわせてげることが可能かのうになった。

デジタル上映じょうえいへの転換てんかん

編集へんしゅう

映画えいが誕生たんじょうから100ねん以上いじょうものあいだフィルムによって撮影さつえいされ、それを映写機えいしゃきでスクリーンに投影とうえいするという方式ほうしき主流しゅりゅうであったが、21世紀せいきはいるとハリウッド映画えいが中心ちゅうしん撮影さつえいから編集へんしゅう配給はいきゅう上映じょうえいまでをデジタルデータを使用しようしておこなデジタルシネマへの転換てんかんすすんでいった。フィルムをまった使つかわないデジタル上映じょうえい対応たいおうした映画えいがかん日本にっぽん登場とうじょうしたのは2000ねんであるが、機材きざい初期しょき投資とうし費用ひよう高額こうがくだったこともあり、日本にっぽんでの映画えいがのデジタル上映じょうえいへの転換てんかんは2000年代ねんだい遅々ちちとしてすすまない状態じょうたいつづいていた[94]転機てんきとなったのはすで米国べいこく導入どうにゅうされていたVPF(Virtual Print Fee)という金融きんゆうシステムが2010ねん日本にっぽんにも導入どうにゅうされたことである。これは映画えいがをフィルムで配給はいきゅうする場合ばあいには1ほん作品さくひん複製ふくせいするのに20まん~30まんえんのコストが発生はっせいするが、デジタル上映じょうえいよう素材そざいでは複製ふくせいにかかる費用ひようは0になるため、映画えいがかんがデジタル上映じょうえい機材きざい導入どうにゅうすれば、配給はいきゅう会社かいしゃいたヴァーチャルなプリントだい支払しはらってくれるというものである。シネコンの普及ふきゅうすすみ、2010ねんには洋画ようがの3D映画えいがブームがきたこともあり、2010~2013ねんあいだ日本にっぽん映画えいがかんのフィルム上映じょうえいからデジタル上映じょうえいへの転換てんかん一気いっきすすんだ。しかしその一方いっぽう地方ちほうちいさな映画館えいがかんミニシアターにおいては、映画えいがかんのデジタル負担ふたん肩代かたがわりしVPFシステムを管理かんりする「サービサー」とばれる会社かいしゃも、VPFの回収かいしゅう困難こんなん判断はんだんデジタルシネマおこなわない傾向けいこうがあり[95]だい規模きぼ設備せつび投資とうしえられないちいさな映画えいがかんは1ねんに15~20かん閉館へいかんすることにもなった[96]

行政ぎょうせいによる映画えいが支援しえんうご

編集へんしゅう

2011ねんには産業さんぎょう革新かくしん機構きこうが「日本にっぽん元気げんきにするコンテンツ総合そうごう戦略せんりゃく」として経済けいざい産業さんぎょうしょう企画きかくし、日本にっぽんのIP(知的ちてき財産ざいさん)をもちいてハリウッド映画えいがつくることで、日本にっぽんのコンテンツの海外かいがい展開てんかいはかり、その利益りえき日本にっぽん国内こくないひろ還流かんりゅうすることで日本にっぽんのエンタテイメント産業さんぎょう再生さいせいするという目的もくてき株式会社かぶしきがいしゃALL NIPPON ENTERTAINMENT WORKS(ANEW)を設立せつりつ。ANEW設立せつりつ以降いこうに7ほん映画えいが企画きかくされたが、実際じっさい撮影さつえいいたった映画えいがは0ほんのまま、ただ同然どうぜん身売みうりされることになった[97]。2015ねんけいさんしょうは5ねんぶりにカンヌ映画えいがさいの「ジャパンパビリオン」事業じぎょう支援しえんした。国内こくないメディアは「カンヌで『くまモン』が大人気だいにんき」などとほうじたが[98] 、ほとんどの海外かいがいメディアは相手あいてにしなかった。こうしたかん主導しゅどううごきは巨額きょがく赤字あかじながしただけでだい失敗しっぱいわった[99]

2020年代ねんだい

編集へんしゅう

新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう流行りゅうこう世界中せかいじゅう映画えいが産業さんぎょう深刻しんこくかつ甚大じんだい損害そんがいあたえた。日本にっぽんもその例外れいがいではなく、感染かんせんしょう対策たいさくのため映画えいがかんは3カ月かげつおよ営業えいぎょう休止きゅうし余儀よぎなくされ興行こうぎょう収入しゅうにゅう激減げきげんし、2020ねん年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅうは1433おくえんと、過去かこ最高さいこうの2612おくえん記録きろくした2019ねんからほぼ半減はんげんとなった[100][101]。 それでも日本にっぽん映画えいが産業さんぎょうしょ外国がいこくよりいちはやさきなおることに成功せいこうした。その立役者たてやくしゃとなったのはアニメ映画えいが記録きろくてきだいヒットである[102]。2020ねん劇場げきじょうばんおにめつ無限むげん列車れっしゃへん』が興行こうぎょう収入しゅうにゅう404.3おくえん記録きろくし、2001ねんせん千尋ちひろ神隠かみがく以来いらい19ねんぶりに日本にっぽん歴代れきだい興行こうぎょう収入しゅうにゅうだい1記録きろく更新こうしんした。また、ほんさくは2020ねん年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅう世界せかいだい1となり、ハリウッド映画えいがとしてはじめて年間ねんかん1となった。2021ねん以降いこうも『シン・エヴァンゲリオン劇場げきじょうばん』、『劇場げきじょうばん 呪術じゅじゅつまわりせん』、『ONE PIECE FILM RED』、『すずめの戸締とじまり』、『THE FIRST SLAM DUNK』、『めい探偵たんていコナン くろてつさかなかげ』などアニメ映画えいが国内こくない興行こうぎょう収入しゅうにゅう100おくえん突破とっぱするヒットをせている。また、こうしたアニメ映画えいがだいヒットは日本にっぽん国内こくないにとどまらず、北米ほくべい市場いちばでは『劇場げきじょうばんおにめつ無限むげん列車れっしゃへん』が公開こうかい2しゅう週末しゅうまつ興行こうぎょうで1かがやいた。日本にっぽん映画えいがとしては『劇場げきじょうばんポケットモンスター ミュウツーの逆襲ぎゃくしゅう以来いらい22ねんぶりの出来事できごとだった。中国ちゅうごく韓国かんこくでは『THE FIRST SLAM DUNK』や『すずめの戸締とじまり』が異例いれいだいヒットをげている[103]。こうしたアニメブームをけ、東宝とうほうは「TOHO VISION 2032 東宝とうほうグループ 経営けいえい戦略せんりゃく」として、「長期ちょうきビジョン2032」および「中期ちゅうき経営けいえい計画けいかく2025(FY2023-2025)」を策定さくていするなかで、アニメ事業じぎょう映画えいが演劇えんげき不動産ふどうさんだいよんはしら位置いちづけた[104]

アニメ映画えいがのヒットがおおきく貢献こうけんし、2023ねんには年間ねんかん興行こうぎょう収入しゅうにゅう歴代れきだい最高さいこうの2019ねんの9わりじゃくにまで回復かいふくしたが、これはチケット料金りょうきん値上ねあげなどによって単価たんかがっている影響えいきょうもあり、観客かんきゃく動員どういんすう完全かんぜんにコロナまえもどっているわけではない。100おくえんえヒットがとしなんほんまれることで映画えいがかい活況かっきょうていしているかのようにえるが、傾向けいこうとしてはオリジナル作品さくひんでは勝負しょうぶしにくい環境かんきょうになっており、マンガなどの原作げんさくがあるか、過去かこにヒットしたつよいIP(知的ちてき財産ざいさん作品さくひん観客かんきゃくえらばれやすい傾向けいこう顕著けんちょになってきている[105][106]一部いちぶ作品さくひんおおきく興行こうぎょう収入しゅうにゅうばす一方いっぽうで、なか小規模しょうきぼ作品さくひんなやみ、独立どくりつけい映画えいが会社かいしゃたんかんけい作品さくひんなどとの格差かくさ年々ねんねん拡大かくだいしている。コロナ以前いぜんより苦境くきょうつづいていたミニシアター閉館へいかん相次あいつ[107]、ミニシアターをすくおうと、是枝これえだ裕和ひろかず監督かんとく俳優はいゆう井浦いうらしんなど映画えいが関係かんけいしゃ中心ちゅうしんとなって「SAVE the CINEMA」プロジェクトをげた[108]。また、深田ふかた晃司こうじ濱口はまぐち竜介りゅうすけ監督かんとく発起人ほっきにんとなり、クラウドファンディング「ミニシアター・エイド基金ききん」を開始かいしあつまった3おく3せんまんえんちょう支援しえんきんを、118劇場げきじょう103団体だんたい分配ぶんぱいした[109]

2020年代ねんだいはいってからは日本にっぽん映画えいが国際こくさい映画えいがさいでの受賞じゅしょうおおられるようになった。2020ねんには黒沢くろさわきよし監督かんとくスパイのつま』がだい77かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいで『座頭市ざとういち以来いらい17ねんりとなるぎん獅子しししょう受賞じゅしょう[110][111][112]。2021ねんには濱口はまぐち竜介りゅうすけ監督かんとくドライブ・マイ・カー』がだい74かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにて日本にっぽん映画えいが最多さいたとなる3部門ぶもん受賞じゅしょうしたほか、だい94かいアカデミーしょうでは作品さくひんしょうふくむ4部門ぶもんにノミネートされ、国際こくさい長編ちょうへん映画えいがしょう受賞じゅしょうした。だい79かいゴールデングローブしょうでは『かぎ以来いらい62ねんぶりに外国がいこく映画えいがしょう受賞じゅしょうするなど、世界せかい各国かっこくすうおおくの映画えいがしょう受賞じゅしょうした。また、おなじく濱口はまぐち竜介りゅうすけ監督かんとくの『偶然ぐうぜん想像そうぞう』はだい71かいベルリン国際こくさい映画えいがさい出品しゅっぴんされ、ぎんぐましょう (審査しんさいんグランプリ)受賞じゅしょうした[113]。2023ねん日本にっぽん映画えいが受賞じゅしょう相次あいつとしとなった。是枝これえだ裕和ひろかず監督かんとく坂元さかもと裕二ゆうじ脚本きゃくほんの『怪物かいぶつ』がだい76かいカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいにおいて、脚本きゃくほんしょう[114]クィア・パルムしょう[115]受賞じゅしょうした。だい80かいヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいにおいては濱口はまぐち竜介りゅうすけ監督かんとくあく存在そんざいしない』がぎん獅子しししょう(審査しんさいん大賞たいしょう)受賞じゅしょうし、日本人にっぽんじんでは黒澤くろさわあきら以来いらいのカンヌ・ヴェネツィア・ベルリンのさんだい映画えいがさいのコンペ部門ぶもんべいアカデミーしょうにおいて受賞じゅしょうした監督かんとくとなった[116]だい96かいアカデミーしょうにおいては宮崎駿みやざきはやお監督かんとくきみたちはどうきるか』が『せん千尋ちひろ神隠かみがく以来いらい21ねんぶり2度目どめ長編ちょうへんアニメーションしょうを、山崎やまざきたか監督かんとく脚本きゃくほん・VFXを担当たんとうした『ゴジラ-1.0』がアジア映画えいがでははつ視覚しかく効果こうかしょう受賞じゅしょうした[117]

映画えいが興行こうぎょう

編集へんしゅう
日本にっぽん映画えいが製作せいさくしゃ連盟れんめい 調しら [118][119]
年度ねんど 興行こうぎょう収入しゅうにゅう
(おくえん)
シェア 入場にゅうじょうしゃすう
(おくにん)
合計ごうけい 邦画ほうが
2000 1709 543 31.8% 1.35
2001 2002 781 39.0% 1.63
2002 1968 533 27.1% 1.61
2003 2033 671 33.0% 1.62
2004 2109 791 37.5% 1.70
2005 1982 818 41.3% 1.60
2006 2029 1079 53.2% 1.65
2007 1984 946 47.7% 1.63
2008 1948 1159 59.5% 1.61
2009 2060 1173 56.9% 1.69
2010 2207 1182 53.6% 1.74
2011 1812 995 54.9% 1.45
2012 1952 1282 65.7% 1.55
2013 1942 1177 60.6% 1.56
2014 2070 1207 58.3% 1.61
2015 2171 1204 55.4% 1.67
2016 2355 1486 63.1% 1.80
2017 2286 1255 54.9% 1.74
2018 2225 1220 54.8% 1.69
2019 2612 1422 54.4% 1.95
2020 1433 1093 76.3% 1.06
2021 1619 1283 79.3% 1.15
2022 2131 1466 68.8% 1.52
2023 2215 1482 66.9% 1.55

海外かいがいへの輸出ゆしゅつ

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく

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戦前せんぜんから戦後せんごしばらくまで日本にっぽん映画えいがにとってアメリカ市場いちばハワイカリフォルニア日本語にほんご理解りかいする日系にっけいじん一世いっせいおよびせい観客かんきゃく対象たいしょうとするものにぎなかった[120]。この転機てんきとなったのがヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいにおいて1951ねんに『羅生門らしょうもん』がきむ獅子しししょう受賞じゅしょうし、日本にっぽん映画えいが欧米おうべいけん注目ちゅうもくあつめたことである。1954ねんカンヌ映画えいがさいグランプリ受賞じゅしょうした『地獄じごくもん』はアカデミー名誉めいよしょう衣裳いしょうデザインしょう受賞じゅしょうし、ニューヨークのギルド劇場げきじょうでは47週間しゅうかん長期ちょうき興行こうぎょうとなり成功せいこうおさめた。しかし『羅生門らしょうもん』にしろ『地獄じごくもん』にしろ一部いちぶのアートシアターで上映じょうえいされたにぎず、全米ぜんべい規模きぼ人気にんきたとはえなかった。一般いっぱんてきなアメリカじん戦後せんご最初さいしょ出会であったとえる日本にっぽん映画えいがは1954ねんの『ゴジラ』のアメリカさい編集へんしゅうばん怪獣かいじゅうおうゴジラ』である。ほんさくは1956ねん4がつ27にちニューヨークブロードウェイにあるステート劇場げきじょう公開こうかいされた。どう劇場げきじょうは『羅生門らしょうもん』が公開こうかいされたアートシアターとはちがい、およそ3450にんもの人数にんずう収容しゅうようするだい劇場げきじょうであった。『怪獣かいじゅうおうゴジラ』はいち週間しゅうかんに2まん2000ドルの興行こうぎょう成績せいせきをあげ、つづいて5がつ3にちからボストン中心ちゅうしんとするマサチューセッツしゅうの136かん上映じょうえいされ、最終さいしゅうてきには250まんドルの興行こうぎょう成績せいせき記録きろくした。『羅生門らしょうもん』の興行こうぎょう成績せいせきがアメリカで5まんドル、イギリス、イタリアなどのくにわせて30まんドルであったことをかんがえると、そのあきらかである[121]。アメリカの一般いっぱん観客かんきゃく怪獣かいじゅう映画えいがなどの一部いちぶ作品さくひんのぞいて、日本にっぽん映画えいが継続けいぞくてき関心かんしんいだくことはなかった[122]。その、1964ねんの『さんだい怪獣かいじゅう 地球ちきゅう最大さいだい決戦けっせん』まで、東宝とうほう製作せいさくした怪獣かいじゅう映画えいがは『宇宙うちゅうだい怪獣かいじゅうドゴラ』がテレビ放映ほうえいのみであったのをのぞけばすべて米国べいこく劇場げきじょう公開こうかいされた。1965ねん怪獣かいじゅう大戦たいせんそう』、『フランケンシュタインたい地底ちてい怪獣かいじゅう』、1966ねんフランケンシュタインの怪獣かいじゅう サンダたいガイラ』では最初さいしょから輸出ゆしゅつ考慮こうりょし、メインキャストに白人はくじん俳優はいゆう登場とうじょうさせた。1967ねんキングコングの逆襲ぎゃくしゅう』ではランキン・バス・プロダクション、1969ねん緯度いど0だい作戦さくせん』ではドン・シャープ・エンタープライズ・プロダクションと提携ていけいし、日米にちべい合作がっさく映画えいが製作せいさくした。東宝とうほうはこうして着実ちゃくじつ輸出ゆしゅつ実績じっせきばしていたことで、通産省つうさんしょう認定にんていする1967年度ねんどの「輸出ゆしゅつ貢献こうけん企業きぎょう」200しゃ映画えいがかいでは唯一ゆいいつ認定にんていけるなど、日本にっぽん映画えいが海外かいがい輸出ゆしゅつというてんでほかの企業きぎょうをリードしていた[123]。しかし1970年代ねんだい以降いこう国内こくない映画えいが産業さんぎょう衰退すいたいともに、海外かいがい事業じぎょう縮小しゅくしょう余儀よぎなくされた。

日本にっぽん映画えいが北米ほくべいでの興行こうぎょうながらく話題わだいのぼることがなかったが、1997ねんに『Shall we ダンス?』が950まんドルと小規模しょうきぼながらヒットし、1999ねんの『劇場げきじょうばんポケットモンスター ミュウツーの逆襲ぎゃくしゅう』は当時とうじ爆発ばくはつてきポケモンブームもあり、『Pokemon: The First Movie』のタイトルでワーナー・ブラザーズ配給はいきゅうにより異例いれい全米ぜんべい3000スクリーン規模きぼ公開こうかいされ、初日しょにちだけできょうおさむ1010まんドル(やく10おく6050まんえん)、最終さいしゅうてき興行こうぎょう収入しゅうにゅう8500まんドルをえるだいヒットになった。これは現在げんざいでも米国べいこく公開こうかいされた日本にっぽん映画えいが歴代れきだい1記録きろくとなっている。しかしそれから2000ねん『Pokemon: The Movie 2000』、2001ねん『Pokemon 3: The Movie』、2002ねん『Pokemon 4Ever』とつづくうちに、年々ねんねん興行こうぎょう収入しゅうにゅうちていき、2003ねんの『Pokemon Heroes』が200スクリーンで上映じょうえいされたのを最後さいご劇場げきじょう公開こうかいられることとなった[124]北米ほくべいへの日本にっぽんアニメの輸出ゆしゅつはテレビ放映ほうえいとビデオセールが中心ちゅうしんであり、『ドラゴンボール』や『セーラームーン』のようなテレビアニメは人気にんきはくしていたが、映画えいが興行こうぎょうかんしてはなや状態じょうたいつづいた。これはディズニードリームワークスのアニメーション映画えいがが3000スクリーンから4000スクリーンにたいし、日本にっぽんのアニメ映画えいが上映じょうえいかずかんからすうじゅうかんで、観客かんきゃくはトータルですうまんにんというケースがほとんどであり、2003ねんアカデミー長編ちょうへんアニメ映画えいがしょうかがやいた『せん千尋ちひろ神隠かみがく』ですら当初とうしょ上映じょうえい劇場げきじょうすうひゃくすうじゅうスクリーン、アカデミーしょう受賞じゅしょうも700スクリーンあまりにぎないことも要因よういんであった。この転機てんきとなったのが、ハリウッドメジャーの一角いっかくであるソニー・ピクチャーズ日本にっぽんアニメせんもん米国べいこく配給はいきゅう会社かいしゃファニメーションクランチロールの2しゃ傘下さんかにしたことでだい規模きぼなスクリーン確保かくほ実現じつげんできるようになったことである[103]。そこに新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう流行りゅうこうによりハリウッド映画えいが公開こうかい中止ちゅうし延期えんきつづき、上映じょうえいする作品さくひん不足ふそくしたこともかさなり、2020ねん以降いこうはアニメ映画えいが北米ほくべい興行こうぎょうランキングの上位じょういにしばしば登場とうじょうするようになった。また、2023ねんには東宝とうほう自社じしゃ配給はいきゅうにより2000スクリーン以上いじょう規模きぼ公開こうかいされた『ゴジラ-1.0』が日本にっぽん実写じっしゃ映画えいがとしては異例いれいだいヒットとなり、『劇場げきじょうばんポケットモンスター ミュウツーの逆襲ぎゃくしゅう』に北米ほくべいでの日本にっぽん映画えいが興行こうぎょう歴代れきだい2記録きろく達成たっせいした。

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく

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中国ちゅうごくでの日本にっぽん映画えいが上映じょうえいは20世紀せいき初頭しょとう日本人にっぽんじんおお中国ちゅうごく東北とうほく地方ちほう(きゅう満州まんしゅう)や上海しゃんはいまくけたが、その観客かんきゃくのほとんどは日本人にっぽんじんであり、一般いっぱん中国人ちゅうごくじんにはひろまらなかった。にちちゅう戦争せんそうしたでは吉村よしむらこう三郎さぶろうの『暖流だんりゅう』(1939)のような恋愛れんあい映画えいがや、小津おつあん二郎じろう手掛てがけた『ちちありき』(1942)などの家族かぞくものは中国人ちゅうごくじん映画えいがかんでも上映じょうえいされた。しかしこれらの日本にっぽん映画えいが観客かんきゃく動員どういんすうおおくてもすうまんにんどまりで、満州まんしゅう上海しゃんはい北京ぺきんなどのかぎられた日本にっぽん占領せんりょう地域ちいきで、日本にっぽんとなんらかのかかわりのある中国人ちゅうごくじん限定げんていされていた[125]当時とうじ中国人ちゅうごくじんスターとしんじられていた香蘭こうらん(山口やまぐち淑子としこ)は中国ちゅうごく民衆みんしゅうあいだでも大人気だいにんきとなったが、そのきっかけとなったのは中国人ちゅうごくじんスタッフによって製作せいさくされた映画えいがまんせいりゅうかおる』であり、彼女かのじょ出演しゅつえんした日本にっぽんのプロパガンダ映画えいがはくらんうた』や『ささえよる』は中国人ちゅうごくじんにはれられなかった。1945ねん終戦しゅうせんから1949ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつしばらくまで日本にっぽん映画えいがはまったく上映じょうえいされることがなかった。戦後せんごはじめて中国ちゅうごく輸出ゆしゅつされる作品さくひんとなったのは、北星ほくせい映画えいが配給はいきゅうの『どっこいきてる』(今井いまいただし監督かんとく、1951 ねん)『箱根はこね風雲ふううんろく』(山本やまもと薩夫監督かんとく、1952 ねん)『おんなひとり大地だいち』(亀井かめい文夫ふみお監督かんとく、1953 ねん)の3ほんである。これが好評こうひょうはくしたので、日本にっぽん映画えいがへの関心かんしんたかめるため、中国ちゅうごく対外たいがい文化ぶんか協会きょうかいでんかげ工作こうさくしゃれん議会ぎかい共催きょうさいで1956ねん6がつ24にちから30にちまで戦後せんごはじめて北京ぺきんにおいて日本にっぽん映画えいが週間しゅうかんひらかれた。上映じょうえい作品さくひんは『じゅうよんひとみ』(木下きのしためぐみかい監督かんとく、1954ねん)『太陽たいようのないまち』(山本やまもと薩夫監督かんとく、1954ねん)『最後さいごおんなたち』(楠田くすだきよし監督かんとく、1954ねん)『あいすればこそ』(今井いまいただし山本やまもと薩夫吉村よしむらこう三郎さぶろう共同きょうどう監督かんとく、1955ねん)『ここにいずみあり』(今井いまいただし監督かんとく、1955 ねん)の5ほんで、いずれも反戦はんせん資本しほん主義しゅぎ批判ひはんをテーマとし、『じゅうよんひとみ』をのぞけばすべて独立どくりつプロダクションによる作品さくひんであった。監督かんとく木下きのしためぐみかい今井いまいただし山本やまもと薩夫新藤しんどう兼人かねと演出えんしゅつや、俳優はいゆう乙羽おとわ信子のぶこ山田やまだ五十鈴いすず高峰たかみね秀子ひでこきしはたこう演技えんぎは、一般いっぱん観客かんきゃくのみならず、中国ちゅうごく映画えいがじんからもきわめてたか評価ひょうかた。しかし1966ねん文化ぶんかだい革命かくめいはじまると、1976ねんまで資本しほん主義しゅぎこくである日本にっぽん映画えいが受容じゅようできる唯一ゆいいつのルートは、「内部ないぶ上映じょうえい」としょうされる政府せいふ機関きかんない映画えいが試写ししゃかいのみにしぼられることとなった[126]

1970年代ねんだいには中国ちゅうごくがわから日本にっぽん映画えいが製作せいさくしゃ連盟れんめい以下いか映連えいれん)に、再三さいさん映画えいが交流こうりゅうによるにちちゅう友好ゆうこう相互そうご理解りかい促進そくしんというアプローチもあって[127]岡田おかだしげる映連えいれん会長かいちょうが、日本にっぽん映画えいが海外かいがい輸出ゆしゅつ意欲いよくてきだったことから[127][128][129][130]中国ちゅうごくきの盟友めいゆう徳間とくまやすしかい[131] らとともに1979ねん6がつ訪中ほうちゅう[127][130][132][133][134]にちちゅう友好ゆうこう協会きょうかい中国ちゅうごく电影协会中国語ちゅうごくごばん中国ちゅうごくでんかげ公司こうし共催きょうさいにより、中国ちゅうごくはつ日本にっぽん映画えいがさい開催かいさい決定けってい[135]、1979ねん9がつ4にちから10日とおか北京ぺきん首都しゅと劇場げきじょう39かん上海しゃんはいだい光明こうみょう劇場げきじょう28かん広州こうしゅう杭州こうしゅうなど中国ちゅうごくかく都市とし日本にっぽん映画えいが上映じょうえいされ、各地かくちおおきな人気にんきはくした[128][133][135]民族みんぞく文化ぶんかみや中国語ちゅうごくごばん開催かいさいされた開幕かいまくレセプションには[135]鄧穎ちょう全国ぜんこく人民じんみん代表だいひょう大会たいかい常務じょうむ委員いいんかいふく委員いいんはじめ、映画えいが関係かんけい要人ようじんちょうまこと白楊はくよう (女優じょゆう)中国語ちゅうごくごばんら、著名ちょめい俳優はいゆう多数たすう参加さんか[133]日本にっぽんがわからは、岡田おかだしげる団長だんちょう徳間とくまふく団長だんちょう松岡まつおかいさお東宝とうほう社長しゃちょう根本ねもと悌二ていじにっかつ社長しゃちょう栗原くりはら小巻こまき中野なかの良子りょうこ吉永よしなが小百合さゆり渡辺わたなべ篤史あつし参加さんか国家こっかてき行事ぎょうじ交歓こうかんかいとなった[133][135]映画えいがさい正式せいしき上映じょうえいされた日本にっぽん映画えいがは5ほんで、中国ちゅうごくはじめて上映じょうえいされたアニメーション映画えいがといわれる[136]りゅう太郎たろう』(東映動画とうえいどうが製作せいさく東映とうえい配給はいきゅう[注釈ちゅうしゃく 8]、『金環きんかん』(大映だいえい製作せいさく東宝とうほう配給はいきゅう)、『あい』(松竹しょうちく)、『先生せんせいのつうしんぼ日活にっかつ)、『おぎんさま』(東宝とうほう)が中国ちゅうごく吹替ばん上映じょうえいされた[132][133][135]。これら作品さくひん選定せんていは、中国ちゅうごく映画えいがかい統括とうかつする中国ちゅうごくでんかげ公司こうし代表だいひょうだんが1979ねん2がつ来日らいにちし、50ほんちか日本にっぽん映画えいが試写ししゃ選定せんていおこなったうえで、中国ちゅうごく代表だいひょうだん岡田おかだ映連えいれん会長かいちょうはない5ほんめた[127][137][138]当時とうじ中国ちゅうごく映画えいが入場にゅうじょうりょうやく28~45えんといわれ[132][139]財政ざいせい事情じじょうもあり一本いっぽん1まん5000ドル(やく300まんえん)と世界せかいでも一番いちばんやす友好ゆうこう価格かかくであったが[注釈ちゅうしゃく 9]支払しはらいは中国銀行ちゅうごくぎんこう保証ほしょうした[138]中国ちゅうごく大人気だいにんきだった山口やまぐち百恵ももえ主演しゅえんの『絶唱ぜっしょう』(東宝とうほう)、『すなうつわ』(松竹しょうちく)、『柳生やぎゅう一族いちぞく陰謀いんぼう』(東映とうえい)などがれた[139][注釈ちゅうしゃく 10]当時とうじ中国ちゅうごく映画えいが情勢じょうせいは、撮影さつえいしょ全国ぜんこく7ヵ所かしょ(うち劇映画げきえいが撮影さつえいしょ北京ぺきん上海しゃんはい)にあり、従業じゅうぎょういんは1170めい製作せいさく本数ほんすう年間ねんかん10ほん。1978ねん長編ちょうへん20、短編たんぺん300ほん製作せいさくしていた[132]劇場げきじょうすう常設じょうせつ4000かん、その3000かん[132]興行こうぎょう一本いっぽんにゅうがえせい上映じょうえい回数かいすうあさ6より1にち8~10かい興行こうぎょう入場にゅうじょう料金りょうきん日本円にほんえんやく28~45えん[132]映画えいが唯一ゆいいつ最大さいだい娯楽ごらくではあったが[135]よん人組にんぐみ後遺症こういしょう影響えいきょう[127]映画えいがつくりたくてもおもうようにはつくれない状況じょうきょうにあった[127]当時とうじ中国ちゅうごく映画えいがは、教育きょういく機関きかんひとつで、思想しそう伝達でんたつ手段しゅだんというウェートが非常ひじょうたかく、娯楽ごらくせいもなく日本にっぽんでは商売しょうばいにならないとられていた[136]映連えいれんかかわらなかった日本にっぽんおこなわれた2かい中国ちゅうごく映画えいがさいまった商売しょうばいにならなかった[136]。また当時とうじ中国ちゅうごくのテレビ普及ふきゅうりつひくく、まだほとんどが有線ゆうせん放送ほうそう商売しょうばいになる状況じょうきょうになく[136]日本にっぽん映画えいが関係かんけいしゃなかにも中国ちゅうごく映像えいぞうマーケットの将来しょうらいせい懐疑かいぎてきかんがえをものもいたが[136]ハリウッドを中心ちゅうしんとするアメリカの映画えいが関係かんけいしゃが10ねんさき中国ちゅうごくおおきなマーケットになると注目ちゅうもくしており[136]映画えいが中国ちゅうごく娯楽ごらく中心ちゅうしんになるという見方みかたもあった[136]日本にっぽん映画えいがさいは1979ねんから、ほぼ毎年まいとし中国ちゅうごくおこなわれ、日本にっぽん映画えいが中国ちゅうごくへの輸出ゆしゅつは、日本にっぽん映画えいがさい媒介ばいかいとして、その中国ちゅうごく各地かくち配給はいきゅうされ一般いっぱん公開こうかいされた[140]。それによって持続じぞくてき日本にっぽん映画えいがブームが形成けいせいされた[140]。この映画えいがさい上映じょうえいされた5ほん以外いがいに、前年ぜんねん1978ねん文化ぶんかだい革命かくめい終結しゅうけつ日本にっぽん映画えいがとしてはじめて劇場げきじょう上映じょうえいされた『きみ憤怒ふんぬかわわたる』(永田ながたプロ・大映だいえい製作せいさく松竹しょうちく配給はいきゅう)、『サンダカンはちばん娼館 望郷ぼうきょう』(東宝とうほう俳優座はいゆうざ映画えいが放送ほうそう製作せいさく東宝とうほう配給はいきゅう)、『キタキツネ物語ものがたり』(サンリオ製作せいさく東宝とうほう東和とうわ配給はいきゅう)の3ほんは、この映画えいがさい以前いぜん中国ちゅうごく上映じょうえいされていた[127][135]。このなかで『きみ憤怒ふんぬかわわたるれ』は1979ねんに『つい』というタイトルで公開こうかいされ、文化ぶんかだい革命かくめいはじめて公開こうかいされた外国がいこく映画えいがとなり、主人公しゅじんこう境遇きょうぐう文革ぶんかく中国人ちゅうごくじん共感きょうかんび、8おくにん動員どういんする記録きろくてきだいヒットとなった。中国ちゅうごく人気にんき中野なかの良子りょうこらの訪中ほうちゅうは、さら一般いっぱん観客かんきゃく関心かんしんび、日本にっぽん映画えいが評価ひょうかたか[135][136][141][142]高倉たかくらけん中野なかの良子りょうこらは中国ちゅうごくでも人気にんき俳優はいゆうとなった[141]徳間とくま大映だいえいほかにも佐藤さとうじゅんわたる監督かんとくで1982ねんにちちゅう国交こっこう正常せいじょう10周年しゅうねん記念きねんとして『未完みかん対局たいきょく』、1988ねんにちちゅう共同きょうどう製作せいさく映画えいが敦煌とんこうとう制作せいさく採算さいさん度外視どがいししてまで日本にっぽん映画えいが紹介しょうかいにつとめていたところもあり、これらの企画きかくはビジネスとしてはむしろ失敗しっぱいであり、日本にっぽん映画えいがなか徳間とくま大映だいえいつづこうとするうごきもまれなかった[143]

1978ねん以降いこう中国ちゅうごくでほぼ毎年まいとし開催かいさいされていた日本にっぽん映画えいがさいは1992ねんられることになった。中国ちゅうごくにおいて大衆たいしゅう娯楽ごらくメディアの主流しゅりゅう映画えいがからテレビへとシフトしたことやハリウッド大作たいさく映画えいが輸入ゆにゅう本格ほんかくしたこともかさなり、中国ちゅうごくにおける日本にっぽん映画えいが存在そんざいかんいちじるしくよわまっていった。宮崎駿みやざきはやおいまでこそ中国ちゅうごく特権とっけんてきえるほどの人気にんきほこるが、1992ねんに『となりのトトロ』でかれ作品さくひんはじめて劇場げきじょう公開こうかいされたとき中国ちゅうごくがわ映画えいが評論ひょうろん一般いっぱん観客かんきゃく反応はんのう黙殺もくさつちかく、1993ねん一般いっぱん公開こうかいされた『ふうたにのナウシカ』も同様どうようであった[125]。1990年代ねんだい以降いこう日本にっぽん映画えいが中国ちゅうごく市場いちばにおいて低迷ていめいつづいていたが、2015ねんひさしぶりに上映じょうえいされた『STAND BY ME ドラえもん』(山崎やまざきたか八木やぎ竜一りゅういち監督かんとく、2014 ねん)がやく90おくえん興行こうぎょう収入しゅうにゅうをあげ、これは中国ちゅうごく米国べいこく以外いがい外国がいこく映画えいが年間ねんかん興行こうぎょう成績せいせきだいいちという快挙かいきょであった。そこから2016ねんには『きみは。』をはじめ11 ほん日本にっぽん映画えいが中国ちゅうごく公開こうかいされ、2017ねんに9ほん、2018ねんに15ほん、2019ねんに24ほん、2020ねんにはコロナの影響えいきょうをうけたにもかかわらず9ほん公開こうかいされた。これにはハリウッド映画えいがのライセンスりょうくらべ、日本にっぽん映画えいが上映じょうえいけんりょうやすいことも寄与きよしている[125]宮崎駿みやざきはやお作品さくひんは2000年代ねんだい以降いこう中国ちゅうごくでのインターネットの普及ふきゅうにより海賊版かいぞくばんながら視聴しちょうされ、2018ねんの『となりのトトロ』のさい上映じょうえいには海賊版かいぞくばん人々ひとびとおおきなスクリーンでたいと映画えいがかんおとずれ、興行こうぎょう収入しゅうにゅうやく35おくえん記録きろく[144]つづく2019ねんの『せん千尋ちひろ神隠かみがく』はやく75おくえんのヒットとなった[145]新海しんかいまこと作品さくひん人気にんきであり、2023ねんの『すずめの戸締とじまり』がやく160おくえん中国ちゅうごくもっともヒットした日本にっぽん映画えいがとなっており、2023ねんにはほかにも『THE FIRST SLAM DUNK』がやく130おくえんだいヒットしている[144]中国ちゅうごく安定あんていした人気にんきはくしているのはアニメーション映画えいがであり、実写じっしゃ作品さくひんはハリウッド映画えいが中国ちゅうごくさん大作たいさく映画えいがくらべてかげうすいのが現状げんじょうである。そのなかで『万引まんび家族かぞく』は15おくえん興行こうぎょう収入しゅうにゅうげ、中国ちゅうごくにおける日本にっぽん実写じっしゃ映画えいが興行こうぎょう記録きろくのトップとなっているが、それでも中国ちゅうごく一般いっぱんかん客層きゃくそうにとってはマイナーな存在そんざいでしかない。日本にっぽん映画えいがファンは高学歴こうがくれきそうかつ上海しゃんはい北京ぺきん広州こうしゅうなどの大都市だいとし在住ざいじゅうしゃ中心ちゅうしんとなっており、これらの場所ばしょ開催かいさいされおおきな反響はんきょうんだ作品さくひんでも、全国ぜんこく公開こうかいされて成功せいこうすることはほぼない[125]

大韓民国だいかんみんこく

編集へんしゅう

だい大戦たいせん韓国かんこく日本にっぽん映画えいが歌謡かようきょくなど大衆たいしゅう文化ぶんか制限せいげんしており、日本にっぽん映画えいがは1ほん輸入ゆにゅうされない状態じょうたいつづいたが、1978ねん12月に岡田おかだしげる日本にっぽん映画えいが製作せいさくしゃ連盟れんめい会長かいちょうらがかんし、韓国かんこく映画えいが関係かんけいしゃあつめて日本にっぽん映画えいが鑑賞かんしょうかいひらき、『幸福こうふく黄色きいろいハンカチ』と『柳生やぎゅう一族いちぞく陰謀いんぼう』を試写ししゃし、政府せいふ要人ようじんにもい、両国りょうこく映画えいが交流こうりゅう活性かっせいしたいと日本にっぽん映画えいが見本市みほんいちひら提案ていあんおこなわれた[146]。その、1998ねん大統領だいとうりょうきむ大中でじゅん来日らいにち国会こっかい演説えんぜつ日本にっぽん大衆たいしゅう文化ぶんか解禁かいきん方針ほうしん表明ひょうめい。1999ねん韓国かんこく公開こうかいされた日本にっぽん映画えいが岩井いわい俊二しゅんじ監督かんとくの『Love Letter』は160まんにん動員どういんするだいヒットとなり、これはいまでも日本にっぽん実写じっしゃ映画えいがでは1記録きろくである。宮崎駿みやざきはやお監督かんとく作品さくひんせん千尋ちひろ神隠かみがく』は2002ねん公開こうかいされ韓国かんこくでも大人気だいにんきとなり『Love Letter』をえる220まんにん動員どういんつづく2004ねんハウルのうごしろ』は315まんにん動員どういん[147]、2016ねんきみは。』の公開こうかいまで韓国かんこくもっともヒットした日本にっぽん映画えいがであった。その、『ジョゼととらさかなたち』(2003)は小規模しょうきぼ公開こうかいでありおおきな成功せいこうおさめたとはえないが、公開こうかい期間きかんちゅう、3・4かいたという観客かんきゃくたちの感想かんそうひょうがインターネットに続々ぞくぞくせられるとう好評こうひょう[148]。それとはぎゃくに2006ねんの『日本にっぽん沈没ちんぼつ』は韓国かんこくで100まんにんじゃく動員どういんしたが、このヒットには韓国かんこく反日はんにち情緒じょうちょ影響えいきょうしたとわれており[149]公開こうかい1週間しゅうかん観客かんきゃくすうを3ぶんの1程度ていどらしたこともあり[150]好意こういてきめられたとはがたい。その韓国かんこくでの日本にっぽん映画えいが受容じゅようミニシアターけい作品さくひん中心ちゅうしんとしたものであり、興行こうぎょうてき目立めだ作品さくひんすくなかったが、2016ねんには『きみは。』が370まんにん動員どういんし、2004ねんの『ハウルのうごしろ』の最高さいこう記録きろくえた。一方いっぽう日本にっぽん成功せいこうした『シン・ゴジラ』は、監督かんとくあん秀明ひであきであり韓国かんこくでもエヴァンゲリオンシリーズのファンがおおいことから期待きたいされていたが、こちらは興行こうぎょうてきには失敗しっぱいわった[151]。2020年代ねんだいはいると、新型しんがたコロナウイルス感染かんせんしょう流行りゅうこう影響えいきょう自国じこくハリウッド大作たいさく映画えいが公開こうかい延期えんき中止ちゅうしつづいたこともあってか、日本にっぽん映画えいが興行こうぎょうてき成功せいこうにつくようになった。アニメ映画えいが人気にんきとくに『すずめの戸締とじまり』と『THE FIRST SLAM DUNK』は500まんにん前後ぜんこう動員どういんと、韓国かんこく・ハリウッドの大作たいさく映画えいがくらべても遜色そんしょくのない成功せいこうおさめている。アニメ映画えいがにはおよばないものの、実写じっしゃ作品さくひんでも『余命よめい10ねん』や『今夜こんや世界せかいからこのこいえても』がヒット。とくに『今夜こんや世界せかいからこのこいえても』は110まんにん動員どういんし、日本にっぽん実写じっしゃ映画えいがでは歴代れきだい2記録きろくとなっている[152]

台湾たいわん

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だい大戦たいせんの1950ねん台湾たいわん日本にっぽん貿易ぼうえき正式せいしき再開さいかいすると日本にっぽん映画えいが輸入ゆにゅう再開さいかいされた。1950ねん台湾たいわん輸入ゆにゅうされた日本にっぽん映画えいがは7ほんだけにもかかわらず、興行こうぎょう成績せいせき収益しゅうえきがともに外国がいこく映画えいがの1めた[153]台湾たいわんへの日本にっぽん映画えいが輸出ゆしゅつは、1969ねん日本にっぽん映画えいが輸入ゆにゅう台湾たいわん映画えいが製作せいさく圧迫あっぱくあたえるという理由りゆう[154]事実じじつじょう輸入ゆにゅう禁止きんし措置そちがとられ[154][155][156]日本にっぽん中国ちゅうごく国交こっこう回復かいふくした1972ねん以来いらい商売しょうばいみちざされ[157][158][159]1973ねんから全面ぜんめんてき禁止きんしされた[155][160][161]岡田おかだしげる映連えいれん会長かいちょう以下いかかく映画えいが会社かいしゃ首脳しゅのうじん長年ながねん努力どりょくみの[154][155][159][162]台湾たいわん行政ぎょうせいいん新聞しんぶんきょくから映連えいれんに、1980ねんきむうますすむ日本にっぽん映画えいが出品しゅっぴん要請ようせいがあり[155]、1980ねん当時とうじ映連えいれん加盟かめいよんしゃからかく一本いっぽんづつ、松竹しょうちくすなうつわ』、東宝とうほうサンダカンはちばん娼館 望郷ぼうきょう』、東映とうえいひゃくさん高地こうち』、日活にっかつ先生せんせいのつうしんぼ』の4ほんきむうますすむ招待しょうたい作品さくひんとして上映じょうえいされた[157][163]以降いこうにちちゅう関係かんけい懸念けねんされ[158]すぎる日本にっぽんしょくおさえるためか[161]台湾たいわん製作せいさくしゃ一部いちぶジャーナリストあいだ解禁かいきん反対はんたいこえもあったが[155]1982ねん岡田おかだ映連えいれん会長かいちょう訪台ほうたいしたさいに、そう行政ぎょうせいいん新聞しんぶんきょく局長きょくちょうに「(1980ねんの)きむうますすむ出品しゅっぴんした4作品さくひんだけでも特別とくべつ輸入ゆにゅう解禁かいきんしてほしい」と要請ようせい[155]台湾たいわんがわ外貨がいか事情じじょうたいにち感情かんじょう好転こうてんなどの背景はいけいもあり[154]、これがみとめられ1983ねん12月6にち東京とうきょう会館かいかんでの記者きしゃ会見かいけん岡田おかだが「台湾たいわんが15ねんぶりに日本にっぽん映画えいが輸入ゆにゅう門戸もんこひらいた」と発表はっぴょう[155]、1984ねん8がつ台湾たいわん行政ぎょうせいいん新聞しんぶんきょくから正式せいしき日本にっぽん映画えいが輸入ゆにゅう解禁かいきんするとの報道ほうどうされた[154]。これをしゅくして1985ねん2がつ新宿しんじゅく東映とうえいホール1日本にっぽんはじめての台湾たいわん映画えいがさい開催かいさいされた[164]復活ふっかつ初年度しょねんどの1985ねんは、東映とうえいだけ『ひゃくさん高地こうち』を『魔界まかい転生てんせい』に[159]さんしゃは1980ねんきむうますすむ出品しゅっぴんしたおな作品さくひん台北たいぺい高雄たかお映画えいがかん一般いっぱん公開こうかいされ[154][159][165][166]日本にっぽん映画えいが輸出ゆしゅつ復活ふっかつした[156][157][159][160][167]台湾たいわん解禁かいきん主要しゅようこく日本にっぽん映画えいが上映じょうえい禁止きんしするのは韓国かんこくだけとなった[154]。これらは大人気だいにんきとなり、現地げんち業者ぎょうしゃむらがり大変たいへんさわぎになった[154][159][165][168]よく1986ねん前年ぜんねんの4ほんから6ほんわく[158]増加ぞうかぶん映連えいれん加盟かめいよんしゃ抽選ちゅうせんがあり、抽選ちゅうせんった東映とうえい松竹しょうちくが2ほんづつになり[159]角川かどかわ映画えいが当時とうじ映連えいれん加盟かめいしていなかったが[159]、『里見さとみ八犬伝はっけんでん』はこの東映とうえい増加ぞうかわくれられ[159]、1986ねん9がつ25にち台湾たいわん公開こうかいされだいヒットした[158]Record Chinaは、だいヒットした日本にっぽん映画えいがの1ほんとして『里見さとみ八犬伝はっけんでん』をげている[169][注釈ちゅうしゃく 11]封切ふうきりわせ、薬師丸やくしまるひろ松坂まつさか慶子けいこ三船みふね敏郎としお岡田おかだしげる東映とうえい社長しゃちょう映連えいれん会長かいちょうらが訪台ほうたい[158][161]台湾たいわんでも大人気だいにんき薬師丸やくしまる熱烈ねつれつ歓迎かんげいけ、おおきな騒動そうどうになった[158]当時とうじ台湾たいわんでは最新さいしん日本にっぽんとアメリカのビデオがられる同伴どうはん喫茶きっさだい流行りゅうこうしており、台湾たいわんのヤングは国際こくさい芸能げいのうによくつうじていたという[161]岡田おかだ台湾たいわん映画えいが関係かんけいしゃ輸入ゆにゅうかんする事項じこう調整ちょうせいおこなった[158]。『うみかくななごう くんおもう、国境こっきょうみなみ』の監督かんとくとくきよしウェイ・ダーション)は「『里見さとみ八犬伝はっけんでん』ははじめて自分じぶんで2かいチケットをって作品さくひんなんですよ。いまでもストーリーや登場とうじょう人物じんぶつ鮮明せんめいおぼえています」などとはなしている[170]

1986ねんから1994ねん10がつにかけては、行政ぎょうせいいん新聞しんぶんきょくが6かい輸入ゆにゅう割当わりあて本数ほんすう告示こくじおこない、合計ごうけい201ほん輸入ゆにゅう割当わりあて許可きょかしたが、日本にっぽん映画えいが著作ちょさくけんりょうがり、実際じっさい輸入ゆにゅうされた日本にっぽん映画えいがはこのあいだ52ほんであった[160]。1994ねん10がつ以降いこう全面ぜんめんてき日本にっぽん映画えいが輸入ゆにゅう解禁かいきんされている[157][160][162]日本にっぽん映画えいが輸入ゆにゅう自由じゆうは、岡田おかだしげる映連えいれん会長かいちょう永年えいねん努力どりょくおおきいといわれる[162]。1986ねん岡田おかだ台湾たいわん映画えいが関係かんけいしゃとの折衝せっしょうさい[158]台湾たいわんがわから「日本にっぽん映画えいが輸出ゆしゅつするのに、台湾たいわん映画えいが日本にっぽんではやってくれないではないか」と不満ふまん[158]急遽きゅうきょ東映とうえいで1987ねん2がつ14にちから『スケバン刑事けいじ』との併映へいえい公開こうかい予定よていだった香港ほんこん映画えいがしょくさん』(『しょくさんでん 天空てんくうけん』)をうしろにずらし[158]台湾たいわんがわから要望ようぼうがあった『カンフーキッド/こうしょう』をこのわくれ、東映とうえい洋画ようがけい公開こうかいした[158]どうさく日本にっぽんメジャー映画えいが会社かいしゃ番線ばんせんったはじめての台湾たいわん映画えいがである[158]。また1995ねん4がつ台湾たいわんはつCATVとうの「ひろし新多にいだ媒體ばいたい」(PHTV)が開局かいきょくさい、これらの交渉こうしょう岡田おかだ懇意こんいになった同社どうしゃ社長しゃちょう・廖祥ゆうからの要請ようせい[156]東映とうえいだい東映とうえいチャンネル)がディズニーだいディズニー・チャンネル)などとともよんチャンネルのひとつにえらばれた[156][171][172]台湾たいわんレンタルビデオCATVなどのメディアの普及ふきゅう日本にっぽんよりはやかった[156]台湾たいわんは1960年代ねんだいから1970年代ねんだい日本にっぽん映画えいが興行こうぎょう禁止きんししていたため[156]台湾たいわんじんには東映とうえいのヤクザ映画えいが新鮮しんせん人気にんきたかかったという[156]東映とうえいだいさんねん供給きょうきゅう契約けいやく東映とうえい過去かこ映画えいが850ほんとテレビドラマなど供給きょうきゅう本数ほんすうは1600ほんのぼった[171]台湾たいわんのCATVで最初さいしょ放映ほうえいされた日本にっぽん映画えいが・ドラマは東映とうえい作品さくひんであった。東映とうえいはこれをにアジア戦略せんりゃく強化きょうか[171][172]日本にっぽんでの利用りようさん利用りよういちだんおちついたきゅう作品さくひんビジネスをアジアでひろげようと1996ねんなつ日本にっぽん公開こうかいされたがはいおさむが4おくえんるわなかった[172]That's カンニング! 史上しじょう最大さいだい作戦さくせん?』の主演しゅえん安室あむろ奈美恵なみえが1997ねんにアジアでコンサートをひらいて人気にんきたかめたことから香港ほんこんどうさく上映じょうえいしたり[172]当時とうじアジアの衛星えいせい放送ほうそう日本にっぽんトレンディドラマ相次あいついで放送ほうそうされ[172]、『Lie lie Lie』の出演しゅつえんしゃである豊川とよかわ悦司えつし鈴木すずき保奈美ほなみらが知名度ちめいどたかめていたことから台湾たいわん香港ほんこん日本にっぽん公開こうかい先駆さきがどうさく先行せんこう上映じょうえいするなどしている[172]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ジョン・ウェイン主演しゅえんのアメリカの戦意せんい高揚こうよう映画えいがフライング・タイガー』(1942ねん)では、『もえゆる大空おおぞら』の一部いちぶフィルムが着色ちゃくしょくされたうえで流用りゅうよう盗用とうよう)されている。
  2. ^ 1945ねん7がつ2にちづけ読売新聞よみうりしんぶん』には、劇場げきじょう映画えいがかん以外いがいでも映画えいが上映じょうえいできるように工夫くふうもとめる投書とうしょ掲載けいさいされている[15]
  3. ^ 1945ねん制作せいさくされ同年どうねん8がつ5にち封切ふうぎられた『きたさんにん』が、戦時せんじ日本にっぽん最後さいご完成かんせいし、同年どうねん8がつ15にち敗戦はいせん当時とうじ国内こくない唯一ゆいいつ上映じょうえいされていた劇映画げきえいがであるとされる。
  4. ^ 当時とうじ普通ふつう映画えいが製作せいさくは4000まん~5000まんえん程度ていどであった[36]
  5. ^ 金環きんかん蝕』(1975)、『いぬ神家じんか一族いちぞく』(1976)は配給はいきゅうのみで製作せいさくはそれぞれ徳間とくま大映だいえい角川かどかわ春樹はるき事務所じむしょ担当たんとうした。
  6. ^ 葬式そうしき』の製作せいさく伊丹いたみプロダクションで配給はいきゅうのみ担当たんとう
  7. ^ 外国がいこく映画えいがしょうという独立どくりつした部門ぶもんになるまえ名誉めいよしょうでは1951ねんだい24かい)『羅生門らしょうもん』、1954ねんだい27かい)『地獄じごくもん』、1955ねんだい28かい)『宮本みやもと武蔵むさし』が受賞じゅしょうしている。
  8. ^ 当時とうじ中国ちゅうごくがアニメ制作せいさくちかられていたことから[136]岡田おかだとくあいだ橋渡はしわたしをたの[127]中国ちゅうごくでんかげ公司こうし代表だいひょうだんが1979ねん2がつ来日らいにちしたさい岡田おかだ中国ちゅうごくアニメーションんで一緒いっしょ仕事しごとをしたいとたのんだら、中国ちゅうごくから東映動画とうえいどうがみたいと返答へんとうがあり、中国ちゅうごく招待しょうたいされたため、今田いまださとしけん東映動画とうえいどうが社長しゃちょうがスタッフをれて訪中ほうちゅう[127]東映動画とうえいどうが従来じゅうらい韓国かんこくおこなっていたアニメ制作せいさく下請したう中国ちゅうごくにやってもらおうと、1979ねんからアニメ制作せいさく下請したうけを中国ちゅうごくうつした[136]
  9. ^ 未知みちとの遭遇そうぐう』も1まんドルで購入こうにゅうしていた[139]
  10. ^ 作品さくひんは『りゅう太郎たろう』『先生せんせいのつうしんぼ』『あい』『きりはた』『憧憬どうけい』『人間にんげん証明しょうめい』『よんねんさんくみのはた』『羅生門らしょうもん』『わたしさい[127]
  11. ^ 引用いんようしゃ註〕出典しゅってん先頭せんとうの「2016ねん4がつ1にち、」は誤植ごしょくおもわれる。1980ねん映画えいがさい出品しゅっぴんされたのはほんではなくよんほん

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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