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日本法 - Wikipedia

日本にっぽんほう

日本にっぽんほう

日本にっぽんほう(にほんほう)とは、日本にっぽん法律ほうりつをいう。

概要がいよう

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近代きんだい以前いぜん日本にっぽんでは中国ちゅうごく律令りつりょう影響えいきょうけたが、明治維新めいじいしん以後いご近代きんだいほう継受けいじゅ過程かてい近代きんだい以前いぜんほうはほとんどかえりみられず、それらは入会にゅうかいけんひとしのごくかぎられた分野ぶんやのぞけば現代げんだいにおいてほとんど影響えいきょうりょくゆうしていない。

明治維新めいじいしん以後いご明治めいじ政府せいふ日本にっぽん近代きんだい一環いっかんとして、近代きんだいてきほう制度せいど確立かくりつをめざし、外国がいこくほう継受けいじゅすることになる。大陸たいりくほうながれをけており、とくドイツほうフランスほう影響えいきょう顕著けんちょであるが、若干じゃっかんながらイングランドほう影響えいきょうけた。台湾たいわん朝鮮半島ちょうせんはんとう統治とうちつうじて台湾たいわんほう韓国かんこくほう基礎きそとなっており、現代げんだいでもなおこれらにつよ影響えいきょうあたえている。

戦後せんごGHQによる占領せんりょうではアメリカほう影響えいきょうをうけ、憲法けんぽう刑事けいじ訴訟そしょうほう証券しょうけん取引とりひきほう現在げんざい金融きんゆう商品しょうひん取引とりひきほう)、独占どくせん禁止きんしほうといったほう分野ぶんやにおいてとく顕著けんちょである。

近世きんせい以前いぜんにおける日本にっぽんほう

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紀元前きげんぜん5世紀せいき前後ぜんこう大陸たいりくから稲作いなさく日本にっぽんつたわり、紀元前きげんぜん4世紀せいきころには水稲すいとう耕作こうさく基礎きそとする弥生やよい文化ぶんか成立せいりつした。農耕のうこう社会しゃかい成立せいりつともない、だい規模きぼ集落しゅうらく形成けいせいされるようになると社会しゃかいにおいて紛争ふんそうしょうじるようになる。古代こだい農村のうそんにおいては、部族ぶぞくちょう仲裁ちゅうさいしたり呪術じゅじゅつによるうらないなどによってあらそいごとを解決かいけつしたとかんがえられている。古墳こふん時代じだいになると、原始げんしてき宗教しゅうきょう進化しんかして、鹿しかほねいて吉凶きっきょううらなふとしうらないほうや、裁判さいばんさいして熱湯ねっとうれ、がただれるかどうかで主張しゅちょう真偽しんぎめいしん探湯くかたちなど呪術じゅじゅつてき風習ふうしゅうによってあらそいごとを解決かいけつするようになったようである。

一方いっぽうで4世紀せいきなかごろにヤマト政権せいけん東北とうほく中部ちゅうぶまで勢力せいりょく拡大かくだいしていくと、法制ほうせい整備せいびもとめられるようになる。604ねんには、聖徳太子しょうとくたいしによりじゅうななじょう憲法けんぽうさだめられたとされており、これは、近代きんだいてき憲法けんぽうことなるが、官僚かんりょう貴族きぞくたいする道徳どうとくてき規範きはんしめしたものであり、仏教ぶっきょう影響えいきょうりょくをうけているものであるが、豪族ごうぞく連合体れんごうたいから天皇てんのう中心ちゅうしんとした政治せいじ体制たいせい確立かくりつしようという意思いしかんじられるものとなっている。もっとも、この事実じじつ存在そんざいしたかについてはうたがいがつよい。

607ねんには、ずい使派遣はけんされ、630ねんにはだい1かい遣唐使けんとうし派遣はけんされるようになると、中央ちゅうおう集権しゅうけんてき国家こっか体制たいせいささえる仕組しくみとしてとう律令りつりょうほう継受けいじゅした。すなわち、とう律令りつりょう参考さんこうとして独自どくじ律令りつりょう編纂へんさん開始かいしされ、668ねんには近江おうみれいが、689ねんには飛鳥あすかきよしはられい制定せいていされたとされるが、不明ふめいてんおおい。701ねんには、大宝たいほう律令りつりょう完成かんせいした。718ねんには、養老ようろう律令りつりょう藤原不比等ふじわらのふひとによりまとめられ、757ねん施行しこうされたが、平安へいあん中期ちゅうきには形骸けいがいした。ただ、律令りつりょうそのものは、存続そんぞくしその一部いちぶ明治めいじ初頭しょとうまで効力こうりょくっていたものもある。りつ今日きょうでいう刑法けいほうにあたり、れい行政ぎょうせい組織そしき人民じんみん租税そぜい労役ろうえきなどにかんする規定きていをおいており、しゅとして今日きょうでいう行政ぎょうせいほう(そのほか、家族かぞくほう手続てつづきほう相当そうとうする規定きていも)にあたる。いずれも、儒教じゅきょうてき色彩しきさいつよかった。なお、西洋せいようほうことなり、私法しほうという概念がいねん存在そんざいせず、人民じんみんはすべてかんとの関係かんけい規律きりつされており、契約けいやくなどについて直接ちょくせつ規律きりつするものではなかった。

9世紀せいきになると、社会しゃかい変化へんかおう律令りつりょう規定きてい修正しゅうせいしたり施行しこう規則きそくである格式かくしき整備せいびされるようになり、さんだい格式かくしき制定せいていされる。

しかし、律令制りつりょうせい崩壊ほうかいとともに、律令りつりょう実効じっこうせいうしなわれるようになり、荘園しょうえん領主りょうしゅちからつよくなると、荘園しょうえんにおいては荘園しょうえん領主りょうしゅ本所ほんじょほう発達はったつするようになる。さらに、武家ぶけちから台頭たいとうすると武家ぶけほう成立せいりつするようになり、鎌倉かまくら時代ときよにおいては、とく前期ぜんきにおいては朝廷ちょうていちからつよかったので、なお、旧来きゅうらい律令りつりょうほう基礎きそとして発展はってんした公家くげほうとの二元にげんてきほう秩序ちつじょ形成けいせいされるようになる。

1232ねんには、北条ほうじょうやすしとき成敗せいばい式目しきもくさだめ、頼朝よりとも以来いらい先例せんれい道理どうりといわれた武家ぶけ社会しゃかいでの慣習かんしゅうあつめ、御家人ごけにん同士どうし御家人ごけにん荘園しょうえん領主りょうしゅとの紛争ふんそう解決かいけつさば基準きじゅんあきらかにし、武家ぶけ最初さいしょ体系たいけいてき法典ほうてんであった。これは、室町むろまち幕府ばくふにもこの成敗せいばい式目しきもく基本きほんてきがれた。

戦国せんごく時代じだいになると、各国かっこく領主りょうしゅがそれぞれの領地りょうち秩序ちつじょ確立かくりつするためぶん国法こくほうとよばれる領主りょうしゅほう整備せいびした。そのおも内容ないようは、喧嘩けんか両成敗りょうせいばい楽市らくいち楽座らくざなど戦国せんごく領主りょうしゅ下克上げこくじょうなかで、いかに軍事ぐんじりょく経済けいざいりょく向上こうじょうさせるかという観点かんてんからさだめられたものがおおい。だが、この時代じだいにおいて、すべての大名だいみょうぶん国法こくほう整備せいびしたわけではなかった。実際じっさい、この時代じだいは、むらまち共同きょうどうたい武家ぶけ社会しゃかいなどにおける、慣習かんしゅうほう影響えいきょうりょくつよかったのである。

江戸えど時代じだいになると、江戸えど幕府ばくふまくはん体制たいせいかためるとともに、将軍しょうぐん代替だいがわりごとに武家ぶけしょ法度はっとさだめて、大名だいみょう統制とうせいにあたるとともに、8だい徳川とくがわ吉宗よしむね時代じだいには公事こうじかたじょうしょさだめ、それまでの幕府ばくふ法令ほうれい裁判さいばん判例はんれい集大成しゅうたいせいした。

明治めいじ政府せいふ法典ほうてん継受けいじゅ

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日本にっぽん法典ほうてん編纂へんさんは、明治維新めいじいしん日本にっぽん近代きんだいげるため、西洋せいよう法律ほうりつ継受けいじゅ歴史れきしであり、ぜん近代きんだいとのつながりとの断絶だんぜつであった。今日きょう日本にっぽん法学ほうがくにおいて、ぜん近代きんだい日本にっぽんほうかえりみられることはほとんどいといっても過言かごんではない状態じょうたいである。

当初とうしょ明治めいじ政府せいふはイギリスほうなどの導入どうにゅうかんがえたが、判例はんれいほうであることから継受けいじゅむずかしいと判断はんだんし、制定せいていほうである大陸たいりくほう中心ちゅうしん継受けいじゅすることになった。とくに、ときおなじくして急速きゅうそく近代きんだいすすめていたドイツ帝国ていこくプロイセン王国おうこく)の影響えいきょうけた。とく刑法けいほうでは顕著けんちょである。また、フランスほうについても民法みんぽうなどを中心ちゅうしん若干じゃっかん影響えいきょうけている。大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうプロイセン憲法けんぽう影響えいきょうつよけていたが、戦後せんご日本国にっぽんこく憲法けんぽう制定せいていにより、影響えいきょうよわめられた。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうは、天皇てんのうたいする強大きょうだい君主くんしゅけん規定きていした。くわえて、「幕府ばくふ」のように、実際じっさい権力けんりょく行使こうしし、かつ、権力けんりょく集中しゅうちゅうさせた政体せいたい排除はいじょすることと、また、政党せいとう対抗たいこうするための超然ちょうぜん主義しゅぎ観点かんてんから、実質じっしつてきには権力けんりょく分立ぶんりつすすめられ、帝国ていこく議会ぎかい立法りっぽうけん内閣ないかく行政ぎょうせいけん大審院だいしんいん司法しほうけんになった。

一方いっぽうで、議会ぎかい内閣ないかくによるぐん私物しぶつふせぐために、天皇てんのうぐん統帥とうすいけんち、議会ぎかい内閣ないかくなどが直接ちょくせつこれに関与かんよできない一方いっぽうで、軍人ぐんじんみことのりさとし大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい32じょう治安ちあん警察けいさつほうなどにもとづき、現役げんえき軍人ぐんじん政治せいじへの関与かんよ制限せいげんされた。(だが、統帥とうすいけん規定きていは、昭和しょうわせん前期ぜんき解釈かいしゃくがゆがめられ、軍部ぐんぶ暴走ぼうそう正当せいとうするために悪用あくようされることになった。)

権利けんり規定きていは、行政ぎょうせいけんによる恣意しいてき権利けんり制限せいげんふせぐために、帝国ていこく議会ぎかいさだめた法律ほうりつもとづくことを必要ひつようとした。

戦後せんご改革かいかくにおける占領せんりょうぐん影響えいきょう

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戦後せんごは、GHQ占領せんりょうで、戦前せんぜん軍国ぐんこく主義しゅぎからの脱却だっきゃく民主みんしゅてき政府せいふ確立かくりつをスローガンに、アメリカぐん主体しゅたいとなった連合れんごう国軍こくぐん指令しれいのもとに、日本国にっぽんこく憲法けんぽうをはじめとして、アメリカほう影響えいきょうつよけた。

日本にっぽんほう現状げんじょう

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ほうげん

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なお、判例はんれい形式けいしきてきにはほうげんとはされないが、判例はんれい違反いはん上告じょうこく理由りゆうとなるため、事実じじつじょう一般いっぱんてき拘束こうそくりょくゆうしている。

憲法けんぽう

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日本国にっぽんこく憲法けんぽうについては、冷戦れいせんにおけるさい軍備ぐんびのための憲法けんぽう9じょう改正かいせい55ねん体制たいせいした困難こんなんとなり、自衛隊じえいたい存在そんざい内閣ないかく法制ほうせいきょく解釈かいしゃくにより「合憲ごうけん」とされているため、過去かこなん改憲かいけんうごきがたかまったことはあるものの改正かいせいいちおこなわれたことはない。最高さいこう裁判所さいばんしょ憲法けんぽう判例はんれいについては、終戦しゅうせん直後ちょくご混乱こんらんなか刑事けいじ事件じけん中心ちゅうしんとした判例はんれいおおかった。また、社会しゃかい安定あんていした1950年代ねんだい以降いこうには労働ろうどう運動うんどう社会しゃかい運動うんどうたかまりを背景はいけいとして、公安こうあん条例じょうれい合憲ごうけんせい公務員こうむいん争議そうぎけんなどをめぐっておおくの判例はんれいされた。最近さいきんにおいては、国際こくさい進展しんてんともな外国がいこくじん海外かいがい在住ざいじゅうする日本人にっぽんじん関係かんけいする判例はんれいなか注目ちゅうもくすべき判例はんれいおおされるようになっている。

行政ぎょうせいほう

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行政ぎょうせいほうについては、行政ぎょうせい裁判所さいばんしょ廃止はいしされ通常つうじょう裁判所さいばんしょおこなうようになった。戦後せんご直後ちょくごは、農地のうち解放かいほうをめぐる事件じけんおお提起ていきされた。もっとも、裁判所さいばんしょ原告げんこく適格てきかくうったえの利益りえき厳格げんかく解釈かいしゃくする傾向けいこうがあり、訴訟そしょう類型るいけいについても取消とりけし訴訟そしょう中心ちゅうしんとし、かり救済きゅうさい手段しゅだん適用てきようにも消極しょうきょくてきであるとされ、しょ外国がいこくくら行政ぎょうせい訴訟そしょう件数けんすう相当そうとうすくない状態じょうたいつづいている。2004ねん行政ぎょうせい事件じけん訴訟そしょうほうだい改正かいせいされ(2005ねん施行しこう)、最高裁さいこうさい原告げんこく適格てきかくひろみとめる判断はんだんしめすなど、訴訟そしょう要件ようけん従来じゅうらいよりひろめに解釈かいしゃくするうごきが最近さいきんではられるようにはなってきている。

民法みんぽう

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民法みんぽうについては、財産ざいさんほうおおきな改正かいせい戦後せんご担保たんぽけん保証ほしょう行為こうい能力のうりょく制限せいげんしゃたいするものをのぞいておおきな改正かいせいがなされていなかったが、現在げんざい債権さいけんほうについて抜本ばっぽんてき改正かいせい法務省ほうむしょう内部ないぶ中心ちゅうしん検討けんとうされている。家族かぞくほうについては相続そうぞく関係かんけい中心ちゅうしん若干じゃっかん改正かいせいがなされている。

商法しょうほう

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商法しょうほうについては、手形てがたほう商法しょうほう総則そうそくについてはあまり改正かいせいおこなわれてこなかったが、会社かいしゃほうについては、総会そうかい活動かつどう企業きぎょう相次あいつ不祥事ふしょうじ影響えいきょうなどをけて監査かんさやく株主かぶぬし権限けんげん強化きょうか委員いいんかい設置せっち会社かいしゃ導入どうにゅうとともに、資金しきん調達ちょうたつ多様たようのための種類しゅるい株式かぶしき拡充かくじゅうなどの改正かいせいがなされてきた。2005ねんにはこれらの一連いちれん改正かいせいながれの集大成しゅうたいせいとして定款ていかん自治じち幅広はばひろみとめ、柔軟じゅうなん会社かいしゃ運営うんえい資金しきん調達ちょうたつ可能かのうとする会社かいしゃほう制定せいていされ、2006ねんから施行しこうされている。

民事みんじ訴訟そしょうほう

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民事みんじ訴訟そしょうほうについては、戦前せんぜん民事みんじ訴訟そしょうほうながらく戦後せんご施行しこうされていたが、五月雨さみだれしき審理しんりによる裁判さいばん長期ちょうき抜本ばっぽんてきあらためるため、1998ねんから現在げんざい民事みんじ訴訟そしょうほう施行しこうされ、弁論べんろん準備じゅんび手続てつづきによる争点そうてん整理せいりなどの導入どうにゅう文書ぶんしょ提出ていしゅつ命令めいれい制度せいど拡充かくじゅうなどがなされた。

刑法けいほう

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刑法けいほうについては、基本きほんてきほう枠組わくぐみにおおきな変化へんか戦後せんごはなかったが、情報じょうほう進展しんてんともな改正かいせい刑罰けいばつ厳罰げんばつ中心ちゅうしんとした改正かいせい最近さいきん相次あいついでおこなわれている。なお、1974ねん法制ほうせい審議しんぎかい刑法けいほう改正かいせい草案そうあん決定けっていしたが、保安ほあん処分しょぶんなどを規定きていしていたことなどから、反発はんぱつ改正かいせいにはいたらないまま今日きょうまでいたっている。

刑事けいじ訴訟そしょうほう

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刑事けいじ訴訟そしょうほうについても、ながらく改正かいせいおこなわれないままであったが1990年代ねんだい後半こうはん以降いこう裁判さいばん迅速じんそく被害ひがいしゃ保護ほごもとめられるとともに、公判こうはんぜん整理せいり手続てつづき被疑ひぎしゃ国選こくせん弁護人べんごにん制度せいど被害ひがいしゃ参加さんかじん制度せいど導入どうにゅうなどがなされ、2009ねんからは裁判さいばんいん制度せいど開始かいしされた。

法曹ほうそう

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司法しほう試験しけん合格ごうかくしゃかずが1980年代ねんだいまでひくおさえられていたため、弁護士べんごしかずしょ外国がいこくくらずくなく、そのわり法律ほうりつ隣接りんせつ資格しかくしゃ企業きぎょうにおける法務ほうむなどが発達はったつし、裁判さいばん件数けんすう他国たこく比較ひかくしてすくない傾向けいこうがある。近時きんじにおいては、法科ほうか大学院だいがくいん制度せいど導入どうにゅうされたが急激きゅうげき法曹ほうそう人口じんこう増加ぞうかについてはしつ低下ていか過剰かじょう競争きょうそうまね危険きけんせい指摘してきする論者ろんしゃもいる。

関連かんれん項目こうもく

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