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公家法 - Wikipedia

公家くげほう

平安へいあん後期こうきから江戸えどにかけて、公家くげ社会しゃかい通用つうようしていた法体ほうたいけい

公家くげほう(くげほう)とは、日本にっぽん平安へいあん後期こうきから江戸えどにかけて、公家くげ社会しゃかい通用つうようしていた法体ほうたいけい

律令りつりょうほう継承けいしょう

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中世ちゅうせい朝廷ちょうていにおける官制かんせい基本きほんてきには律令りつりょう国家こっかれい規定きてい継承けいしょうしたものであり、表面ひょうめんじょう深刻しんこく構造こうぞうじょう変化へんかをなしていないようにおもわれる。しかし、公家くげ社会しゃかいそのものの変化へんかともない、構造こうぞうじょうあるいは実際じっさいてき運用うんようじょう律令りつりょう国家こっかとはおおきくことなる特徴とくちょう見出みいだされる。

世襲せしゅうてき社会しゃかい構造こうぞう

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律令りつりょう体制たいせいでは、かんくらいによりかんじん個々ここ序列じょれつ職掌しょくしょう明確めいかくすることで、公家くげ社会しゃかい構成こうせいさだめていた。これは貴族きぞく階級かいきゅうであるかんじんそうとそれ以外いがい支配しはい階級かいきゅうである平民へいみん身分みぶんじょう格差かくささだめるものではあったが、同時どうじ能力のうりょく主義しゅぎによってその役割やくわりさだめるものであり、本来ほんらいてきには世襲せしゅうせいてきほう構造こうぞうつものではないといえる。(くわしくは律令制りつりょうせいおよび律令りつりょうほう参照さんしょう

しかしかんじんそう内部ないぶでの地位ちい格差かくさひろがり、律令りつりょう体制たいせい本来ほんらい意図いとしていた能力のうりょく主義しゅぎとは異質いしつに、特定とくてい氏族しぞくから世襲せしゅうてきかんじん供給きょうきゅうされるようになると、かんじん役割やくわりをそのぞくする家系かけいごとに措定そていするようになり、家系かけいごとの専門せんもんがすすんだ。これらの家系かけい独自どくじに「家例かれい」「しょつかされい」といった実践じっせんてき規律きりつ蓄積ちくせき高度こうど専門せんもんすることによって、中世ちゅうせいにおいて特定とくてい官職かんしょくをほぼ世襲せしゅうするようになった(かん請負うけおいせい)。

またこのような家督かとくつうじての世襲せしゅうはじつに天皇てんのう内部ないぶにおいてもられ、白河しらかわ上皇じょうこう以後いご形式けいしきてきには室町むろまちにまで断続だんぞくてきつづ院政いんせい天皇てんのうにおける家政かせい世襲せしゅうとみることができる。(くわしくは院政いんせいおよびてんきみ参照さんしょう

れいそとかん成立せいりつ

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中世ちゅうせいにおける律令りつりょう体制たいせい根本こんぽんてき変化へんかとしては、もうひとつ検非違使けびいしなどのいわゆるれいそとかん成立せいりつがあげられる。これれいがいかん特徴とくちょうはその分担ぶんたんする政務せいむにおいて、完結かんけつてき処理しょりすることが可能かのうだということである。本来ほんらい律令制りつりょうせい政務せいむうえから順番じゅんばんすべぞく関係かんけいにのっとったかたち処理しょりするため、官僚かんりょう機構きこうにおいて底辺ていへんにちかい部署ぶしょはただ事務じむ処理しょりおこなうのみであり、その意思いし決定けってい上位じょうい機構きこうをへて最終さいしゅうてきには天皇てんのう裁断さいだんするものであった。ところが検非違使けびいしなどのれいそとかんはこのような律令りつりょう官制かんせいみつるぞく関係かんけい横断おうだんてきにこえてひとつの政務せいむ処理しょりすることができ、従来じゅうらい律令りつりょう国家こっか規定きていえて決裁けっさいすみやかにおこなうことができたため、律令制りつりょうせい複雑ふくざつ官僚かんりょう機構きこうにともなう煩瑣はんさ手続てつづきをせずに特定とくてい政務せいむ完結かんけつてきおこなうことができた。実際じっさい検非違使けびいしちょう実用じつようめん非常ひじょうすぐれていたため、のちには従来じゅうらい律令りつりょうてき官制かんせい侵食しんしょくしていくかたちでその職務しょくむ領域りょういき拡大かくだいした。このようなれいがいかん成立せいりつ律令制りつりょうせいおおきな変化へんかをもたらしたものといえる。

これられいがいかん既存きそん律令りつりょう体制たいせいにおける官制かんせいとのあいだ交渉こうしょう既存きそん律令りつりょうほうじょう明確めいかく規定きていがない以上いじょう畢竟ひっきょう慣習かんしゅうによる蓄積ちくせきによらざるをえない。れいがいかん広汎こうはん成立せいりつした中世ちゅうせいにおいては、このような現実げんじつてき需要じゅようけて実際じっさいてき政務せいむ処理しょり律令りつりょうほう条項じょうこうらしわせてその法的ほうてき側面そくめん補強ほきょうをおこなうあかり法家ほうかという職務しょくむ身分みぶん家系かけい登場とうじょうした。あかり法家ほうかもまた、もとだい学寮がくりょうあかりほうどう教官きょうかんであったあかりほう博士はかせ地位ちいあかりほうどう家学かがくによってその世襲せしゅう確立かくりつさせることで成立せいりつしている。あかり法家ほうか代表だいひょうされる中世ちゅうせいてき職務しょくむ世襲せしゅうてき家系かけい発生はっせいれいそとかん成立せいりつふか影響えいきょうしあっているれいとしては、検非違使けびいし裁判さいばんけん拡大かくだいにともない刑部おさかべしょう量刑りょうけい機能きのううしなわれていき、あきら法家ほうか罪名ざいめいかんさるすることがひろ定着ていちゃくしていくようなどにられる。またこれらあかり法家ほうかかんさるあかりほうかんぶん)は律令りつりょうほう参照さんしょうするものではあるものの、その取捨選択しゅしゃせんたくはたぶんに恣意しいてき側面そくめんもあり、中世ちゅうせいにおいて律令りつりょう規定きてい直接的ちょくせつてき規範きはんてき作用さようをもつものではなかったということは注目ちゅうもくあたいする。中世ちゅうせいにおいてはしばしば律令りつりょうほうより個々ここいえのローカルなルールな優先ゆうせんされ、家々いえいえ交渉こうしょうかさねが政務せいむとなった。それぞれの現場げんばにおける実践じっせんかさねがやがて作法さほう故実こじつとしてマニュアルされていくのであるが、なにが法的ほうてき意味いみち、なにがもたないかが厳密げんみつ意味いみ分節ぶんせつされていなかったということに注意ちゅういするべきである。

中世ちゅうせいゆたかなほう運用うんようなかでは律令りつりょうほう相対そうたいてき位置いちにとどまっていたという見方みかたをするのが妥当だとうであろう。

慣習かんしゅうほうとしての側面そくめん

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律令りつりょうほう区別くべつされる意味いみでの公家くげほう成立せいりつは、直接的ちょくせつてきには白河しらかわ上皇じょうこうはじまる院政いんせいにおいておおきな契機けいき指摘してきすることができよう。もちろんれいがいかん成立せいりつははやく9世紀せいきにさかのぼるものであり、また摂関せっかん政治せいじつうじて貴族きぞく身分みぶん内部ないぶ再編さいへんがおこなわれつづけたのであり、律令りつりょう体制たいせい質的しつてき変化へんか院政いんせい以前いぜんにゆっくりとではあるが進行しんこうしていたものである。ここでは院政いんせい成立せいりつ政治せいじてき問題もんだいについてはれないが、院政いんせいになると天皇てんのう独自どくじ家政かせいてき機構きこうはじめるということがあげられる。天皇てんのう内廷ないていとは別個べっこ院政いんせいをしいた上皇じょうこう法皇ほうおうのもとにはいんちょう成立せいりつし、摂関せっかん政所まんどころのように内部ないぶてき政務せいむ処理しょりするようになる。ここで重要じゅうようなのはこれらいんちょう政所まんどころはそれぞれ内部ないぶ政務せいむ処理しょりするだけであり、それらのいずれかが直接的ちょくせつてき全体ぜんたいてき政務せいむをとりしきったわけではなく、そのあいだ交渉こうしょうつうじて公家くげ社会しゃかい政務せいむ構成こうせいされるのである。

律令りつりょう体制たいせいでは律令りつりょうほう規定きていのもと太政官だじょうかん政務せいむがおこなわれていたわけであるが、中世ちゅうせいにおいては個々ここ交渉こうしょう過程かてい処理しょり蓄積ちくせき規定きていとなって政務せいむがおこなわれたのであり、それらの蓄積ちくせき法的ほうてき根拠こんきょとなったのである。ゆえに中世ちゅうせいにおける公家くげほう慣習かんしゅう法的ほうてき要素ようそつよいということを指摘してきすることができる。


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