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永田雅一 - Wikipedia

永田ながた雅一まさいち

日本にっぽん実業じつぎょう、プロデューサー

永田ながた 雅一まさいち(ながた まさいち、1906ねん明治めいじ39ねん1がつ21にち - 1985ねん昭和しょうわ60ねん10月24にち)は、日本にっぽん実業じつぎょう映画えいがプロデューサープロ野球やきゅうオーナー馬主ばしゅ昭和しょうわ初期しょきから後期こうき1930年代ねんだい後半こうはん - 1980年代ねんだい前半ぜんはん)に活動かつどう大映だいえい社長しゃちょうとして『羅生門らしょうもん』などを製作せいさくプロ野球やきゅう大映だいえい球団きゅうだんのオーナーとなり、パ・リーグ初代しょだい総裁そうさい大言壮語たいげんそうごかたくちから「永田ながたラッパ」の愛称あいしょうでもられた。

永田ながたながた 雅一まさいちまさいち
生誕せいたん (1906-01-21) 1906ねん1がつ21にち
日本の旗 日本にっぽん京都きょうと京都きょうと中京ちゅうきょう
死没しぼつ (1985-10-24) 1985ねん10月24にち(79さいぼつ
墓地ぼち 池上本門寺いけがみほんもんじ
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
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経歴けいれき

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出生しゅっしょう

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京都きょうと京都きょうと三条さんじょうどおり油小路あぶらのこうじしもル(現在げんざい中京ちゅうきょう)でまれた[1]ちち永田ながた芳太郎よしたろうはは紀美きみ長男ちょうなん[1]生家せいか染料せんりょう友禅ゆうぜん問屋とんやであった[1]ちち熊本くまもとけん阿蘇あそ出身しゅっしんはは東京とうきょう出身しゅっしん[2]雅一まさいちが3つぐらいのときから家運かうんかたむきはじめた[1]工場こうじょう火事かじになったり、女中じょちゅう小僧こぞうかねってしたりで転落てんらく拍車はくしゃをかけた[1]。やむなく両親りょうしんおな中京ちゅうきょう御池おいけとおる神泉苑しんせんえんまちちいさいいえてて引越ひっこし、商売しょうばい縮小しゅくしょうしたのだが、ちち友人ゆうじん借金しゃっきん保証ほしょうをして破産はさんることになった[1]。それでふたた転居てんきょし、おな町内ちょうないあたらしく借家しゃくやすまいの境涯きょうがいになった[1]

上京じょうきょう

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小学校しょうがっこう卒業そつぎょう同時どうじに、青雲せいうんこころざしいて上京じょうきょうした[2]当時とうじ東京とうきょう証券しょうけん交換こうかんしょ常務じょうむをしていた親戚しんせきたよって「小僧こぞうにしてくれ」といったが、小僧こぞうになるのにも中学校ちゅうがっこうくらいの学歴がくれき必要ひつようだった[2]。そこで補欠ほけつ試験しけんをうけて大倉おおくら商業しょうぎょう学校がっこうはいった[2]。しかし、学業がくぎょうなかばでちちが47さい脳出血のうしゅっけつ突如とつじょ急死きゅうしした[2]ために「両親りょうしん健在けんざいのうちに永田ながた復興ふっこうさせたい」という念願ねんがん挫折ざせつ[2]、その失意しつい手伝てつだってか大倉おおくら商業しょうぎょうを4ねん中退ちゅうたいした[3]

帰郷ききょう

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1923ねん9月1にち関東大震災かんとうだいしんさい発生はっせいした。永田ながた青年せいねんだん一員いちいんとして整理せいりによくはたらいた[3]。そのつきの18にちには避難ひなんみんおく長崎ながさきまる便乗びんじょうゆるされて神戸こうべき、京都きょうとかえることができた[3]

青年せいねん多感たかん永田ながたは、英雄えいゆう主義しゅぎてき気持きもちから次第しだい社会しゃかい主義しゅぎにかぶれていった[3]。それゆえに特高とっこうえず尾行びこうされた[3]にもかかわらず、いろいろなデモや集会しゅうかい参加さんかした[4]一時いちじ京都きょうとヤクザ千本せんぼんぐみ皇民党こうみんとう事件じけんあらとら千本せんぼんぐみはそのながれをむ)」にせきをおいた。永田ながたによれば「わたし仲間なかま二条にじょうえき貨物かもつ荷役にやく請負うけおっていた千本せんぼんぐみ元締もとじめ笹井ささいさん左衛門さえもん息子むすこ末三郎すえさぶろうというのがいた。この笹井ささいというのは京都きょうとでもじゅう番目ばんめぐらいの多額たがく納税のうぜいしゃで、一部いちぶ子分こぶんはともかく、オヤジそのものはけっしてヤクザではない」という[4]永田ながたは、警察官けいさつかんよるとなくひるとなく尾行びこうされるうえになっていき[4]、これをなげいたははからはちち位牌いはいひざまえにして折檻せっかんされ[4]いえ追放ついほうされた[4]

映画えいがかい

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いえわれた永田ながたマキノ兄弟きょうだいとのえんから1925ねん日本にっぽん活動かつどう写真しゃしんげん日活にっかつ京都きょうと撮影さつえいしょ入所にゅうしょし、映画えいがじんとしてのみちあゆむ。無声むせい映画えいが時代じだい映画えいがのロケ現場げんば見物けんぶつきゃくからおひねりがい、それ自体じたい興行こうぎょうのようなものだった。永田ながたはこのおひねりをひろあつめ、撮影さつえい仲間なかま女郎じょろうすという毎日まいにちだったという[5]

しの永田ながた便利べんりとしてはたらき、まえ雄弁ゆうべんさと、ひとらさぬ社交しゃこうじゅつで、藤村ふじむら義朗よしろう浅岡あさおか信夫しのぶ望月もちづき圭介けいすけらに可愛かわいがられ政界せいかいへの足場あしばきず[6]

映画えいがかいちち

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1934ねん8がつ22にち日活にっかつ退社たいしゃ退社たいしゃにあたり「日活にっかつ更生こうせいのためていしてはたらいたが、中谷なかたに社長しゃちょう主義しゅぎ政策せいさく方針ほうしんわず退社たいしゃす」との電報でんぽうった。退社たいしゃ直接ちょくせつ理由りゆうあき大作たいさくである『荒木あらき又右衛門またえもん』の製作せいさくたり、社長しゃちょう衝突しょうとつしたためとされている[7]。その日活にっかつぜん関西かんさい支店してんちょう宣伝せんでん部長ぶちょうらとだいいち映画えいがしゃ創立そうりつ[8]日活にっかつ所属しょぞく俳優はいゆうじん合戦かっせん[9]自前じまえのスタジオにて映画えいが製作せいさくしている。1936ねん同社どうしゃ解散かいさんするさいには従業じゅうぎょういんまえきながら解散かいさんべんかたったとされる。その松竹しょうちく大谷おおや竹次郎たけじろう知遇ちぐうて、俳優はいゆうたちれて大谷おおや経営けいえいする新興しんこうキネマ京都きょうと撮影さつえい所長しょちょうとなるのがひょう履歴りれきである。しかし、竹中たけなかろうの『聞書ききがき アラカンいちだい』によると撮影さつえいしょ所長しょちょうしょくだいいち映画えいがしゃ解散かいさんするまえ約束やくそくされており、そもそもだいいち映画えいがしゃ投下とうか資本しほんは「松竹しょうちく」の出資しゅっしであったとしている。大谷おおや実弟じっていである白井しらい信太郎しんたろう新興しんこうキネマ)をバックにつけて、日活にっかつ分裂ぶんれつうごいた永田ながたがそのまま大谷おおやかさしたはいったとしており、きや労務ろうむ管理かんりよご仕事しごと別働隊べつどうたいであったと暴露ばくろしている。

永田ながたきの芝居しばいいち週間しゅうかんまえには東宝とうほうからかねしていた日活にっかつほり久作きゅうさく常務じょうむ当時とうじのち社長しゃちょう)が逮捕たいほされ、日活にっかつ東宝とうほう提携ていけい調印ちょういんこわされている。なにもかも日活にっかつ配給はいきゅうもうんとする松竹しょうちく野望やぼうからはじまり、小林こばやし一三かずみ阪急はんきゅう阪神はんしん東宝とうほうグループ創業そうぎょうしゃ)の「だい東宝とうほう構想こうそうとの衝突しょうとつ根本こんぽんにあったとされる。1942ねん政府せいふ勧奨かんしょう映画えいが会社かいしゃ統合とうごうされるさいに、業界ぎょうかい東宝とうほうブロックと松竹しょうちくブロックに二分にぶんするうごきがあるのを察知さっちすると、当局とうきょくって新興しんこうキネマと日活にっかつじくとしただいさん勢力せいりょくによる統合とうごうみとめさせ、「だい日本にっぽん映画えいが製作せいさく大映だいえい)」の成立せいりつ成功せいこう。この立案りつあんをした情報じょうほうきょくだいだい課長かちょう贈賄ぞうわいをしたといううわさ当時とうじからのこっている。成立せいりつ同時どうじ作家さっか菊池きくちひろし同社どうしゃ社長しゃちょうかつし、みずからは専務せんむ就任しゅうにん1947ねんには社長しゃちょうとなる。翌年よくねん1がつ公職こうしょく追放ついほうとなるが、もなく追放ついほう解除かいじょとなり社長しゃちょう復帰ふっきした[10]

このあいだ1946ねんだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ京都きょうと選挙せんきょから立候補りっこうほしたが、落選らくせんしている。政治せいじとはならなかったものの、河野こうの一郎いちろうきし信介しんすけとの交流こうりゅうから、一時いちじ政界せいかいフィクサーとなっていた時期じきがあった。とく警職ほう改正かいせいかくない分裂ぶんれつしたさい当時とうじきし首相しゅしょう大野おおの伴睦ばんぼくたいしてされたとする政権せいけん禅譲ぜんじょう密約みつやくわしたさい萩原はぎはら吉太郎よしたろう児玉こだまほまれおっととともに立会たちあいじんになったとされている。

大映だいえい社長しゃちょうとして

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社員しゃいんをすべて縁故えんこかため、その息子むすこ親戚しんせき採用さいようし、みずからをカリスマした。映画えいが企画きかくもすべて永田ながた意見いけんめられた。監督かんとくもり一生かずおは「企画きかくをいくらしても一本いっぽんとおらなかった。しまいには『芸者げいしゃいたらこんなもんあかんゆうた』とわれた」と述懐じゅっかいしている。こうした公私こうし混同こんどうとはべつに、大映だいえい企画きかくふく部長ぶちょうつとめた奥田おくだ久司ひさしは「功罪こうざいのうちのこう」として、永田ながた他社たしゃ先駆さきがけて1947ねんごろに「定年ていねん60ねんせい」を独断どくだん採用さいようしたことをげている(映画えいが会社かいしゃ現在げんざいも「定年ていねん55ねんせい」である)[11]

1951ねん後述こうじゅつするように個人こじん所有しょゆうしていた競走きょうそうトキノミノルが10せん全勝ぜんしょう東京とうきょうゆう駿しゅん日本にほんダービー)を優勝ゆうしょうする。その3ヶ月かげつには『羅生門らしょうもん』がヴェネツィア国際こくさい映画えいがさいグランプリ、アカデミー外国がいこく映画えいがしょう受賞じゅしょう

このようにおおきな栄誉えいよがそれぞれ永田ながた大映だいえい作品さくひんにあったこの1951ねんこそが、わかいころの刻苦こっくえ、やがてつようんつかんでのぼめた永田ながた人生じんせい絶頂ぜっちょうてんであったときもある[12]。その一方いっぽうでは、トキノミノルが東京とうきょうゆう駿しゅんからわずか半月はんつき急死きゅうししてしまうというアクシデントもきていた。

とはいえ、この『羅生門らしょうもん』の受賞じゅしょう契機けいきとしてそのも『雨月物語うげつものがたり』(ヴェネツィア国際こくさい映画えいがさい ぎん獅子しししょう受賞じゅしょう)『地獄じごくもん』(カンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさい グランプリ受賞じゅしょう[13]などの国際こくさいてき名声めいせい大作たいさく手掛てがける一方いっぽう日本にっぽんはつの70ミリ映画えいが釈迦しゃか』も手掛てがけた。

地獄じごくもん[13]では、企画きかく会議かいぎぜん社員しゃいん反対はんたいするなか、「そんならおれ一人ひとりでやる!」と強引ごういん製作せいさく。その結果けっかカンヌ国際映画祭かんぬこくさいえいがさいでグランプリをっており、アカデミー特別とくべつしょう受賞じゅしょう一方いっぽう多数たすう証言しょうげん一致いっちするてんでは、永田ながたは『羅生門らしょうもん』では制作せいさく立案りつあん段階だんかい関心かんしんであった。試写ししゃでは途中とちゅうせきった。そのも、海外かいがい続々ぞくぞく受賞じゅしょうはじめるまで、「なんや、サッパリわからん」と、自分じぶん会社かいしゃ作品さくひんをこきろしていた。グランプリ受賞じゅしょうほう狂喜きょうき乱舞らんぶする新聞しんぶん記者きしゃたちに「で、グランプリってのはどのくらいすごいんだ?」ときなおしたが、その自分じぶん功績こうせきならてた。黒澤くろさわ顕彰けんしょうあかしわたさず大映だいえい本社ほんしゃかざった永田ながたたいして、当時とうじ狂句きょうくは「黒澤くろさわあきらはグランプリ、永田ながた雅一まさいちはシランプリ」と揶揄やゆしている。1954ねんには菊池きくちひろししょう受賞じゅしょうした。

大映だいえい全盛期ぜんせいきには異例いれいの5わり配当はいとうおこなうなど、自身じしん手掛てがける作品さくひんには絶対ぜったい自信じしんち、それゆえプロ野球やきゅう以外いがい副業ふくぎょうにはほとんど関心かんしんしめさなかった。映画えいが製作せいさく配給はいきゅうおこなっても、興行こうぎょうはほとんど既存きそん地方ちほう興行こうぎょうぬしまかせており、直営ちょくえい映画えいがかん皆無かいむちかかった。東宝とうほう小林こばやし一三かずみも「きみはグランプリ・プロデューサーだから興行こうぎょうみたいなチマチマしたことはせずに製作せいさくすればかならぼくのところで上映じょうえいしよう」とったとされる。

1953ねんには、松竹しょうちく東宝とうほう東映とうえいしん東宝とうほうびかけしゃ協定きょうてい締結ていけつ主導しゅどうかく映画えいが会社かいしゃ所属しょぞくする技術ぎじゅつしゃ俳優はいゆう他社たしゃへの出演しゅつえん原則げんそく禁止きんしした。しゃ協定きょうてい1954ねん戦前せんぜん映画えいが制作せいさく再開さいかいさせた日活にっかつへの対抗たいこうさくとして発足ほっそくしたが、1958ねんにその日活にっかつくわわって、テレビ業界ぎょうかいへの対抗たいこうさくした悪名あくめいたかろくしゃ協定きょうてい発展はってんする(1961ねんしん東宝とうほう倒産とうさんしてしゃ協定きょうていもどる)。のちにこの協定きょうていからみ、大映だいえい看板かんばんスターだった山本やまもと富士子ふじこ田宮たみや二郎じろう永田ながたとの確執かくしつから大映だいえい退社たいしゃし、丸井まるい太郎たろうはガス自殺じさつした。その一方いっぽうで、日本にほんテレビ創立そうりつさい出資しゅっしし、フジテレビには親会社おやがいしゃ一角いっかくとして経営けいえい参加さんかしていたものの、あまりテレビには関心かんしんしめさなかった。

このような状況じょうきょうで、「永田ながたラッパ」とばれたワンマンな放漫ほうまん経営けいえい弊害へいがいとしごと色濃いろこくなってきたが、極端きょくたんなワンマン経営けいえいおよびその性格せいかくゆえに周囲しゅういから永田ながたに諫言できる人物じんぶつもおらず、1960年代ねんだいなかばからの日本にっぽん映画えいがかい急激きゅうげき斜陽しゃよう不振ふしんなかで、ほとんど製作せいさく本位ほんい大作たいさく主義しゅぎだった大映だいえいジリ貧じりひんまれてゆく。そのなかにあって長谷川はせがわ一夫かずお引退いんたい上記じょうき山本やまもと田宮たみや解雇かいこかつ新太郎しんたろう独立どくりつ養女ようじょ永田ながた雅子まさこ結婚けっこんさせていわばむすめ婿むこ関係かんけいにあった市川いちかわ雷蔵らいぞうのガン1969ねん)、大型おおがた新人しんじんスター不在ふざいといった問題もんだいおもかり、ついに1971ねん12月23にち東京とうきょう地方裁判所ちほうさいばんしょより破産はさん宣告せんこくけ、倒産とうさん倒産とうさん間際まぎわ湯浅ゆあさ憲明のりあきが、組合くみあいからのげをらいながら完成かんせいさせた[注釈ちゅうしゃく 1]永田ながた大映だいえい最後さいご映画えいが作品さくひん成熟せいじゅく』(1971ねん)の本社ほんしゃ試写ししゃでは「出来できたのか、出来できたのか」と女子じょし職員しょくいんささえられながら号泣ごうきゅう湯浅ゆあさも「あの怪物かいぶつが」と複雑ふくざつ心境しんきょうだったというが、いつもの永田ながたふしかされてきた社員しゃいんたちは、このおよんでも半信半疑はんしんはんぎだったという[5]。また、倒産とうさん間近まぢかとなったとき永田ながた社宅しゃたくまえで、「ここは抵当ていとうはいっている、諸君しょくんにはどうか倒産とうさんさせないためにも、ここ(社宅しゃたく)をってもらえないか」とたのんだ。その社宅しゃたくは、やく20ねんまえ永田ながた社員しゃいんかって「諸君しょくん、ここにはいまなにもないが、いずれプールやゆう園地えんちつくる、ここにいるあかぼうが20さいになったときには素晴すばらしい施設しせつ完成かんせいしているだろう!」との大見得おおみえりながら演説えんぜつした場所ばしょだった。そのにいた20さい青年せいねんたちから「あのとき約束やくそくはどうした、プールやゆう園地えんちはどうした!」と罵声ばせいびせられ、これにショックをけた永田ながた卒倒そっとう寸前すんぜんとなり、うでかかえられながら退場たいじょうしたという。

それでも、永田ながた1976ねん永田ながたプロダクションを設立せつりつ同年どうねん永田ながたあとぐことをねらっていた徳間とくまやすしかい徳間書店とくましょてん子会社こがいしゃとなって映画えいが製作せいさく復帰ふっきしていた大映だいえい作品さくひん映画えいがきみ憤怒ふんぬかわわたる』にプロデューサーとして参加さんかすることで、映画えいがかい復帰ふっきした。

熱心ねっしん日蓮宗にちれんしゅう信者しんじゃとしてもられ、晩年ばんねんには萬屋よろずや錦之介きんのすけ初代しょだい中村なかむら錦之助きんのすけ主演しゅえん映画えいが日蓮にちれん』を製作せいさくした。

プロ野球やきゅうとのかかわり

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1947ねんすえ、アメリカ視察しさつ旅行りょこうから帰国きこくした永田ながた大映だいえい作品さくひんのアメリカ市場いちば進出しんしゅつのためには、みずからがアメリカにおいてもとおった存在そんざいでなくてはならないことを痛感つうかん当時とうじ、アメリカで尊敬そんけいされる名誉めいよしょくひとつがプロ野球やきゅうオーナーであり、また元々もともと野球やきゅうきであったことから、永田ながたもプロ野球やきゅうチームをつことを決意けついする。これを永田ながたんだのは、永田ながた夫人ふじん同士どうし姉妹しまい(いわゆるあい婿むこ)だった側近そっきん武田たけだ和義かずよし[14]1948ねん中日ちゅうにちドラゴンズ赤嶺あかみね昌志まさし球団きゅうだん代表だいひょうしたっていた選手せんしゅ赤嶺あかみね一派いっぱ)が脱退だったいし、いくところがなく赤嶺あかみね小林こばやし次男つぐお横沢よこざわ三郎さぶろうあに)が小西こにしとくろうはなしみ、小林こばやし小西こにし仲介ちゅうかい赤嶺あかみね一派いっぱ大映だいえい球団きゅうだん組織そしきした[14]小西こにし証言しょうげんでは、永田ながた川口かわぐち松太郎まつたろうつうじて小西こにしい、小西こにし仲介ちゅうかい永田ながたのメインブレイン・大麻たいま唯男ただおあいだれて、赤嶺あかみね昌志まさし永田ながたつなげたとはなしている[15]あいだもなく、国民こくみん野球やきゅう連盟れんめい所属しょぞくしていた大塚おおつか幸之助こうのすけ経営けいえい大塚おおつかアスレチックス買収ばいしゅう[15]。この大塚おおつか幸之助こうのすけのち金星かなぼしスターズのオーナーとなり、本業ほんぎょう洋傘ようがさ製造せいぞう業者ぎょうしゃ大塚おおつか製作所せいさくしょ倒産とうさんしたのちも、永田ながたのブレーンでありつづけた。

1948ねん1がつ東急とうきゅうフライヤーズ合同ごうどうしてきゅううつフライヤーズを名乗なのるが[注釈ちゅうしゃく 2]同年どうねん12がつ別途べっと金星きんせいスターズを買収ばいしゅうして大映だいえいスターズを結成けっせい以降いこう本来ほんらい副業ふくぎょうとして球団きゅうだん経営けいえいたずさわっていたのが次第しだいにプロ野球やきゅう本業ほんぎょうとなり、ついに1953ねん昭和しょうわ28ねんパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の総裁そうさい就任しゅうにん高橋たかはしユニオンズ結成けっせいによる8球団きゅうだんせい採用さいようや、その高橋たかはし大映だいえい合併がっぺい契機けいきとする6球団きゅうだんせいへのさい編成へんせいと、いずれも球界きゅうかいさい編成へんせい主役しゅやくとなった。

その大映だいえい1957ねん高橋たかはし吸収きゅうしゅう合併がっぺいし、大映だいえいユニオンズになった。リーグ総裁そうさい永田ながた当時とうじの7チームでは日程にっていみにくいとして、このとし最下位さいかいとなったチームを消滅しょうめつさせようと提唱ていしょうしたが、結局けっきょく自身じしんがオーナーであった大映だいえいユニオンズが最下位さいかいとなった。大映だいえいユニオンズは、1958ねんから毎日まいにちオリオンズ対等たいとう合併がっぺいして、大毎だいまいオリオンズとなった。このとき形式けいしきじょう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃとの共同きょうどう経営けいえいではあったが、法人ほうじんかく各種かくしゅ記録きろく毎日まいにち存続そんぞくしつつも、経営けいえいめんでは大映だいえい存続そんぞくしたかたちさか合併がっぺいだったため、大映だいえいがわ永田ながたがオーナーに就任しゅうにんし「大毎だいまい」のネーミングもみずかけた。その2ねん1960ねん大毎だいまいがパ・リーグをせいし、日本にっぽんシリーズ三原みはらおさむ監督かんとく大洋たいようホエールズ対戦たいせんしたとき、采配さいはいめぐって監督かんとく西本にしもと幸雄ゆきお意見いけん衝突しょうとつぜん評判ひょうばんはん大毎だいまいはストレートけをきっしたため、西本にしもと電話でんわ口論こうろんとなり、永田ながたが「バカヤロー」とったことをきっかけに西本にしもと退任たいにんした(詳細しょうさい西本にしもと幸雄ゆきお#大毎だいまい監督かんとく辞任じにん参照さんしょう)。このシーズン終了しゅうりょう毎日新聞社まいにちしんぶんしゃより全面ぜんめんてき球団きゅうだん経営けいえい移譲いじょうされ、名実めいじつどもにオーナーとなる。

永田ながたラッパ」はここでもたからかにらされる。みずからの映画えいが会社かいしゃのスターとおな名前なまえだからと「長谷川はせがわ一夫かずお」という選手せんしゅ入団にゅうだんさせたり、短距離たんきょりはし選手せんしゅとしてオリンピック出場しゅつじょう経験けいけんのある飯島いいじま秀雄ひでお代走だいそう専門せんもん選手せんしゅとして採用さいようしたりした。だが、長谷川はせがわが(入団にゅうだん当初とうしょ投手とうしゅではなく野手やしゅとして)一定いってい成績せいせきおさめたことと、小山こやま正明まさあき山内やまうち一弘かずひろの「世紀せいきのトレード」を実現じつげんさせた[注釈ちゅうしゃく 3]実績じっせきはあったもののそうじてチーム強化きょうかおおきくむすびついたとはがたく、あわせてベンチに電話でんわをかけ監督かんとくじんわたる選手せんしゅ交代こうたい指示しじするなど[17]現場げんばへの介入かいにゅうおおかったため、批判ひはんけた。一方いっぽうときには市川いちかわ雷蔵らいぞうなどの大映だいえいのスターたちをれながらあししげく観戦かんせんおとずれる永田ながたはファンからあいされ、オリオンズがった試合しあい永田ながたをし、永田ながた姿すがたえると拍手はくしゅおくるファンもいた[18]。また、東京とうきょうスタジアム(後述こうじゅつ)のオーナーしつつくった神棚かみだなにチームにけてのおいのりをかさなかったなど[19]選手せんしゅおも気持きもちも並々なみなみならぬものがあった。成田なりた文男ふみおは「あのひとぐらいぼくらのことをおもってくれているひとはいないとおもう」とかたっている[20]

1962ねんには私財しざいとうじて東京とうきょう荒川あらかわ南千住みなみせんじゅにプロ野球やきゅう専用せんよう球場きゅうじょう東京とうきょうスタジアム建設けんせつ、その開場かいじょうセレモニーでは観客かんきゃくたいし「今後こんごこの日本にっぽん代表だいひょうてき球場きゅうじょうあいされんことをおねがいたします」とかたりかけた[21]。しかしその東京とうきょう球場きゅうじょうはチームの不調ふちょうかさなり不入ふいりで採算さいさんつづき、読売よみうりジャイアンツ巨人きょじんセントラル・リーグ所属しょぞく球団きゅうだん)のオーナー・正力しょうりき松太郎まつたろうがこの事態じたいかねて「巨人きょじんにも東京とうきょうスタジアムを使つかわせてほしい」とすくいのべたものの、永田ながたは「セ・リーグ、とりわけきょじん世話せわになるのは御免ごめんだ」と、これをかたくなにこばんだ(開場かいじょう以来いらい東京とうきょう近辺きんぺん本拠地ほんきょちくセ・リーグ球団きゅうだんのうち国鉄こくてつスワローズ大洋たいよう本拠地ほんきょち川崎かわさき)には東京とうきょうスタジアムでの主催しゅさい試合しあい開催かいさい許可きょかしていたが、巨人きょじんには最後さいごまで許可きょかさなかった)。しかし現在げんざい観客かんきゃくにゅう退場たいじょうたいする利便りべんせいはかった設計せっけいや、当時とうじ後楽園こうらくえん球場きゅうじょうにもおとらなかった各種かくしゅ設備せつびなどにおいて、東京とうきょうスタジアムの先駆せんくせいさい評価ひょうかされている。

1969ねんつい経営けいえいなん盟友めいゆうきし信介しんすけ仲介ちゅうかいによりロッテを5ねん契約けいやくのスポンサーにけ、「ロッテオリオンズ」と改名かいめいし、ふくオーナーにきし私設しせつ秘書ひしょだった中村なかむらちょうかおるまねいた。

よく1970ねん10月7にち西鉄にしてつせんで、ロッテがパ・リーグ優勝ゆうしょう東京とうきょうスタジアムでめたとき永田ながたはグラウンドに乱入らんにゅうした観客かんきゃくたちのにより、「永田ながたさんおめでとう」の喝采かっさいとも優勝ゆうしょう監督かんとくじん[22]殊勲しゅくん選手せんしゅよりもまえ胴上どうあされ、永田ながた号泣ごうきゅうしながらちゅうった(その観客かんきゃくたちは選手せんしゅ片端かたはしから胴上どうあげしてまわった)[23]

しかしその歓喜かんき瞬間しゅんかんからわずか3かげつ1971ねん1がつ大映だいえい経営けいえい再建さいけん専念せんねんするため、永田ながたはロッテ社長しゃちょう重光しげみつ武雄たけお球団きゅうだん経営けいえい肩代かたがわりを要請ようせいし、球団きゅうだん正式せいしきにロッテへ譲渡じょうと同時どうじにオーナーしょく中村なかむらゆずることとなった。無念むねんのうちに球界きゅうかいることになった永田ながた記者きしゃ会見かいけん以下いかのようにかたった。

たましいはロッテ・オリオンズの選手せんしゅうえにあり。成田なりただる山崎やまざきゆうふじ……。たとえユニフォームのマークはわっても、選手せんしゅたましいとわたしのたましいはいつもいっしょだよ。小山こやまよ、未練みれんうんじゃない、でも巨人きょじんやぶって日本一にっぽんいちになってくれ。なかれてもいたくないオリオンズを、選手せんしゅたちを人手ひとでわたすのは……[24]

ここまでかたった永田ながた言葉ことばうしな号泣ごうきゅうした。

永田ながた経営けいえい退しりぞいた3ねん1974ねん、ロッテはパ・リーグをせいし、中日ちゅうにちドラゴンズとの日本にっぽんシリーズにのぞんだ。ロッテのホーム初戦しょせんとなるだい3せん後楽園こうらくえん球場きゅうじょうのスタンドに、選手せんしゅ球団きゅうだんまねきにおうじ、永田ながた姿すがたあらわした。永田ながた野球やきゅうじょうあしれたのは、ロッテのオーナーしょく退しりぞいて以来いらいはじめてのことであった。グラウンドには永田ながた時代じだいるロッテ選手せんしゅだけでなく、中日ちゅうにちがわにも与那嶺よなみねよう近藤こんどう貞雄さだおといったオリオンズ在籍ざいせき経験けいけんのあるもの指導しどうしゃ)たちが姿すがたせていた。永田ながたはその光景こうけいて「まるで息子むすこたちが試合しあいをしているようながする」とつぶやいたという[25]。ロッテはシリーズを4しょう2はいせいし、日本一にっぽんいち達成たっせいした。なお、前述ぜんじゅつ記者きしゃ会見かいけん名前なまえがった小山こやまは、前年ぜんねんの1973ねん大洋たいようホエールズ移籍いせきし、同年どうねんかぎりで引退いんたいしたのち古巣ふるす阪神はんしんタイガースのコーチに就任しゅうにんしていた。

なお、経営けいえいいだ「株式会社かぶしきがいしゃロッテオリオンズ」は、これまでの功労こうろうへの配慮はいりょから永田ながた取締役とりしまりやくとして残留ざんりゅうさせ、オーナーが重光しげみつ交代こうたいしたのちの1981ねん時点じてんでも、金田かねだ正一しょういちとともにつらねていた。

1985ねん10月24にち急性きゅうせい肺炎はいえんのため死去しきょした[26]。79さいぼつ1988ねん野球やきゅう殿堂でんどうりをたした。

馬主ばしゅとして

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1934ねんにサラブレッドを購入こうにゅうし、競走きょうそう馬主ばしゅとなる。永田ながた競馬けいばとのえんはこのとき嚆矢こうしとする。10せん無敗むはい皐月さつきしょう東京とうきょうゆう駿しゅん日本にほんダービー)せいかん達成たっせいしたが、破傷風はしょうふうにかかり悲劇ひげき最期さいごげたトキノミノル馬主ばしゅでもある。「トキノ」とは馬主ばしゅでもあった菊池きくちひろしかんむりめいであり、「菊池きくちひろしゆめみのる」という意味いみ改名かいめいされたもの(デビューせんうまめいは「パーフェクト」)とわれている。後年こうねん、トキノミノルをモデルにした『まぼろしうま』という映画えいが製作せいさくしている。ほかにもめいめすクリフジさんこまで、桜花おうかしょうゆう駿しゅん牝馬ひんばの2かんったヤマイチや、ダービーラッキールーラははトースト天皇てんのうしょうオーテモンなども永田ながた所有しょゆうだった。

勝負しょうぶふく緑地りょくちくろさんほんで、永田ながた競馬けいばからいてからはしばらく使つかわれなかったが、現在げんざいグリーンファーム勝負しょうぶふくとして登録とうろくされている。これはグリーンファームが永田ながた遺族いぞくのかつての勝負しょうぶふく使つかわせてほしいともうて、遺族いぞく承諾しょうだくしたという経緯けいいがある。

その事業じぎょう事跡じせき

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東京とうきょうスポーツ新聞しんぶんしゃ経営けいえいしていた時期じきがある。これは、同社どうしゃ事実じじつじょうのオーナーであった児玉こだまほまれおっと親交しんこうがあったことによるもの。ひがしスポは永田ながた手腕しゅわんにより全国ぜんこくへと成長せいちょうした。なお、プロ野球やきゅう国民こくみんリーグの大塚おおつかアスレチックスから金星かなぼしスターズを大映だいえいスターズの経営けいえいたずさわった大塚おおつか幸之助こうのすけは、さい晩年ばんねんひがしスポの監査かんさやくつとめていた。

当初とうしょ日本にっぽんにおけるペプシコーラ事業じぎょう代表だいひょうしゃであった。永田ながた日本にっぽんでの販売はんばい会社かいしゃ設立せつりつし、うえ掲の大塚おおつか幸之助こうのすけそう支配人しはいにんつとめていた。映画えいがかんっているコーラはペプシとよくわれたのはこの所以ゆえん先述せんじゅつ東京とうきょうスタジアムのスコアボードにも、ペプシとミリンダのだい広告こうこくえる。また現在げんざい後身こうしんたる千葉ちばロッテの本拠地ほんきょち千葉ちばマリンスタジアム広告こうこく掲示けいじされ、ロッテリアあつかうコーラはペプシである。

聖心女子学院せいしんじょしがくいんパトロンでもある。広尾ひろおきゅう久邇くにみややしきつつみ康次郎やすじろうさきんじて買収ばいしゅう寄贈きぞう札幌さっぽろ敷地しきち工面くめんしたのも永田ながたである。教育きょういくにも関心かんしんがあり、あるとき息子むすこ永田ながた秀雅ひでまさが『あなたは本当ほんとうなにになりたかったのです』とたずねたところ『立派りっぱ学校がっこうてて、貧乏人びんぼうにん金持かねもちも区別くべつなく教育きょういくけさせてやる仕事しごとだよ』とこたえたという。

たけしゅう鉄道てつどう汚職おしょく事件じけんでは、たけしゅう鉄道てつどう発起人ほっきにんをつらねていたので贈賄ぞうわいざい逮捕たいほ起訴きそされたが裁判さいばん無罪むざいとなる。

1957ねんには日本にっぽん相撲すもう協会きょうかいわれて設立せつりつされたばかりの運営うんえい審議しんぎ委員いいんかい委員いいんとなり[27]死去しきょまでつとめた。

日蓮宗にちれんしゅう信者しんじゃとして

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永田ながた熱心ねっしん日蓮宗にちれんしゅう信者しんじゃであることは有名ゆうめいであるが、これははは紀美きみ影響えいきょうによるものである。紀美きみ家業かぎょう友禅染ゆうぜんぞめ問屋とんや急激きゅうげきかたむいたことを日蓮宗にちれんしゅう入信にゅうしん身延山みのぶさんへのひゃくかいもうでを願掛がんかけし、毎年まいとしやまのぼつづけた姿すがたつづけることとなる。後年こうねんになって『人一倍ひといちばい雑念ざつねんてき存在そんざいであるわしが、殊勝しゅしょうにも信仰しんこうみちはいったのは、すべはは信仰しんこうしんうものなんじゃ』とかたっている。

1952ねん - 1953ねんごろからは12月31にちになると身延山みのぶさん七面山しちめんざんはいり、元旦がんたんかいのおこもりをしていたという。永田ながた全盛期ぜんせいきには元旦がんたんかい節分せつぶんかいになると長谷川はせがわ一夫かずお時津風ときつかぜ理事りじちょうなどをしたがえて来山らいざんしていたという。

1958ねんには映画えいが日蓮にちれんこうむだい襲来しゅうらい』の制作せいさくかかわっている。

晩年ばんねんの20ねんほどは信徒しんと総代そうだいとなる。失火しっかによって焼失しょうしつした鐘楼しゅろうをほぼ独力どくりょく寄付きふにより再建さいけんするほか、様々さまざま施設しせつ寄付きふにかかわっている。また、紀美きみ銅像どうぞう境内けいだい建立こんりゅうしているが、霊場れいじょうのしかも総本山そうほんざんへの個人こじんをモデルとした銅像どうぞう建立こんりゅう異例いれいである。また、墓所はかしょ池上本門寺いけがみほんもんじいとなまれた。

人物じんぶつ

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最後さいご活動かつどう』を標榜ひょうぼうしていた。山本やまもと嘉次郎かじろうにも『映画えいがじん信用しんよう出来できんが、活動かつどう信用しんよう出来できる』とひょうされている。

はは紀美きみの『ひゃくかいもうで』に対抗たいこうして『ひゃくかい仲人なこうど』のねがいてていたという。ひゃくかい仲人なこうど坪内つぼうちミキ子みきこ夫妻ふさい

顕彰けんしょう

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家族かぞく親族しんぞく

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  • TBSラジオのディレクター(のちプロデューサー→TCエンタテインメント専務せんむ取締役とりしまりやく)で『コサキン怪傑かいけつアドレナリン』および後継こうけいの『コサキンDEワァオ!』、『伊集院いじゅういんひかり 深夜しんや馬鹿力ばかぢから』などを担当たんとうした永田ながたまもるまごとくに『深夜しんや馬鹿力ばかぢから』においては「永田ながたにはあしけてられないほどのだいおんがある」とかた安部あべ譲二じょうじ数々かずかず企画きかく出演しゅつえんするなど、永田ながた影響えいきょうりょくうかが逸話いつわがある。そのもり雅一まさいちは「大映だいえいパパ」とばせていたという。
  • 歌舞伎かぶき役者やくしゃ市川いちかわ雷蔵らいぞうつま太田おおた雅子まさこ一般人いっぱんじん)は永田ながた養子ようし縁組えんぐみ関係かんけいにあった。
  • 外食がいしょく産業さんぎょう専門せんもんコンサルタント会社かいしゃ株式会社かぶしきがいしゃブグラーマネージメント」代表だいひょう取締役とりしまりやく社長しゃちょうけんCEOである永田ながたみやびおつ(YouTubeじょう永田ながたラッパとしても活躍かつやく)は曾孫そうそんにあたる。
  • 日本にっぽん芸能げいのうかいはつのプロ太鼓たいこ奏者そうしゃである高山たかやま正行まさゆき夫人ふじん叔父おじにあたる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 山形やまがたけん鶴岡つるおか商工しょうこう会議かいぎしょ出資しゅっし制作せいさくされ、すでに末期まっき状態じょうたいだった大映だいえいいちぜに負担ふたんしていない。
  2. ^ 東急とうきゅう参事さんじ強羅ごうらホテル社長しゃちょう猿丸さるまるもとが、小林こばやし次男つぐお仲介ちゅうかいで、五島ごしま慶太けいた永田ながたわせてフィフティの合併がっぺいきゅううつフライヤーズを誕生たんじょうさせたもの[16]
  3. ^ 小山こやま正明まさあきによると、トレードのうらでは、永田ながた本人ほんにん直接ちょくせつ阪神球団はんしんきゅうだん社長しゃちょう戸沢とざわ一隆かずたかに「小山こやまをくれないか」と熱心ねっしん電話でんわ攻勢こうせいをかけていたという[よう出典しゅってん]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん2』211ぺーじ
  2. ^ a b c d e f わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん2』213ぺーじ
  3. ^ a b c d e わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん2』214ぺーじ
  4. ^ a b c d e わたし履歴りれきしょ 経済けいざいじん2』215ぺーじ
  5. ^ a b 『ガメラをつくったおとこ 評伝ひょうでん 映画えいが監督かんとく湯浅ゆあさ憲明のりあき』(アスペクト)
  6. ^ 田中たなか純一郎じゅんいちろういちぎょういちにんでん永田ながた雅一まさいち」』、時事通信社じじつうしんしゃ、1962ねん、P27 - 28
  7. ^ 日活にっかつ中谷なかたに社長しゃちょう衝突しょうとつ辞表じひょう提出ていしゅつ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ9ねん8がつ23にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp492 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  8. ^ だいいち映画えいがしゃ」を設立せつりつ、スター大挙たいきょ参加さんか大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ9ねん8がつ24にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp492)
  9. ^ 日活にっかつ社長しゃちょう館主かんしゅやスターの遺留いりゅう奔走ほんそう大阪毎日新聞おおさかまいにちしんぶん昭和しょうわ9ねん8がつ25にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ8ねん-昭和しょうわ9ねん本編ほんぺんp492)
  10. ^ 『20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん』 (日外にちがいアソシエーツ、2004ねん)
  11. ^ 大映だいえい特撮とくさつコレクション だい魔神まじん』(徳間書店とくましょてん
  12. ^ 遠山とおやまあきら日本にほんダービー物語ものがたり』(丸善まるぜん)、P42
  13. ^ a b 外部がいぶリンクに映像えいぞう
  14. ^ a b せきさん『プロ野球やきゅうさい発掘はっくつ 5』、P258 - 267
  15. ^ a b せきさん『プロ野球やきゅうさい発掘はっくつ 4』スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、1987ねん、P25、26
  16. ^ せきさん『プロ野球やきゅうさい発掘はっくつ 5』、P232、262
  17. ^ さわみや 61ページ
  18. ^ さわみや 62ページ
  19. ^ さわみや 143ページ
  20. ^ さわみや 117ページ
  21. ^ さわみや 26ページ
  22. ^ スポーツニッポン八木沢やぎさわそうろくみち、2021ねん11月21にち、11はん
  23. ^ さわみや 146ページ
  24. ^ さわみや 154ページ
  25. ^ このこうすべて、さわみや 161-162ページ
  26. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん付録ふろく近代きんだい有名人ゆうめいじん死因しいん一覧いちらん」(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)20ぺーじ
  27. ^ こう永武ながたけさとし原田はらだひろし共著きょうちょ激動げきどう相撲すもう昭和しょうわスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、p.153
  28. ^ a b c "永田ながた 雅一まさいち". 20世紀せいき日本人にっぽんじんめい事典じてん. コトバンクより2017ねん12月11にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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