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大野伴睦 - Wikipedia

大野おおの伴睦ばんぼく

日本にっぽん政治せいじ

大野おおの 伴睦ばんぼく(おおの ばんぼく[2]本名ほんみょう大野おおの 伴睦ばんぼく〈おおの ともちか[1]〉、1890ねん明治めいじ23ねん9がつ20日はつか - 1964ねん昭和しょうわ39ねん5月29にち)は、日本にっぽん政治せいじ

大野おおの 伴睦ばんぼく
おおの ばんぼく
生年月日せいねんがっぴ 1890ねん9がつ20日はつか
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 岐阜ぎふけん山県やまがたぐん谷合たにあいむら
げん山県やまがた
ぼつ年月日ねんがっぴ (1964-05-29) 1964ねん5月29にち(73さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう新宿しんじゅく
慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん
出身しゅっしんこう 明治大学めいじだいがくせん門部かとべ法律ほうりつ学科がっか中退ちゅうたい[1]
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
無所属むしょぞく→)
日本にっぽん自由党じゆうとう→)
民主みんしゅ自由党じゆうとう→)
自由党じゆうとう→)
自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
紺綬こんじゅ褒章ほうしょう
衆議院しゅうぎいん永年えいねん在職ざいしょく議員ぎいん
子女しじょ 四男よつお大野おおのあきら運輸うんゆ大臣だいじん
親族しんぞく むすめ大野おおのつや参議院さんぎいん議員ぎいん
まご大野おおの泰正やすまさ参議院さんぎいん議員ぎいん

在任ざいにん期間きかん 1952ねん8がつ26にち - 1953ねん3月14にち
天皇てんのう 昭和しょうわ天皇てんのう

内閣ないかく だい5吉田よしだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1954ねん1がつ14にち - 1954ねん7がつ27にち

選挙せんきょ岐阜ぎふけんだい1→)
岐阜ぎふけん全県ぜんけん→)
きゅう岐阜ぎふ1
当選とうせん回数かいすう 13かい
在任ざいにん期間きかん 1930ねん2がつ20日はつか - 1942ねん4がつ29にち
1946ねん4がつ10日とおか - 1964ねん5月29にち

その職歴しょくれき
自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい代行だいこう委員いいん
1955ねん11月15にち - 1956ねん4がつ5にち
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
総裁そうさい: 池田いけだ勇人はやと
1961ねん7がつ - 1964ねん5月
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
総裁そうさい: きし信介しんすけ
1957ねん7がつ - 1960ねん7がつ
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東京とうきょうかい議員ぎいん衆議院しゅうぎいん議員ぎいんとなり当選とうせん13かい衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん日本にっぽん自由党じゆうとう幹事かんじちょう自民党じみんとうふく総裁そうさいつとめた。

典型てんけいてき党人とうじん政治せいじとしてられ、「ばんちゃん」の愛称あいしょうしたしまれた。また、「政治せいじ義理ぎり人情にんじょう」「さるからちてもさるだが、代議士だいぎし選挙せんきょちればただのひと」などの名言めいげんのこした。タカ政策せいさく集団しゅうだん青嵐会せいらんかい結成けっせいした中川なかがわ一郎いちろう政界せいかいでの師匠ししょうとしてられる。

生涯しょうがい

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岐阜ぎふけん山県やまがたぐん谷合たにあいむら現在げんざい山県やまがた)で、大野おおの直太郎なおたろうよんおとことしてまれた[1][3]あに2にん直太郎なおたろう次男じなん三男さんなん)は早世そうせいした[1]はは国枝くにえだ臼井うすい半四郎はんしろう二女じじょ[1]ちち直太郎なおたろう谷合たにあいむら村長そんちょう助役じょやくなどをつと[3]、その半生はんせい村政そんせいのためにくしたので私産しさんをほとんど蕩尽とうじんした[1]呉服ごふくるいあつかっていたが、親戚しんせき知友ちゆうからの借銭しゃくせんでことをすようになり、その負債ふさい返還へんかんせまられてくるしんだという[1]

高等こうとう小学校しょうがっこう卒業そつぎょう名古屋なごや陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう受験じゅけんするも合格ごうかくとなる[1]

1908ねん明治めいじ41ねん)に上京じょうきょうする[1]1910ねん明治めいじ43ねん)に明治大学めいじだいがく入学にゅうがくする[1]1911ねん明治めいじ44ねん)の初夏しょか急性きゅうせい盲腸炎もうちょうえんとなり入院にゅういんし、休学きゅうがくする[1]

やがて護憲ごけん運動うんどう関心かんしんち、1913ねん大正たいしょう2ねん)に大正たいしょう政変せいへん暴動ぼうどうくわわったことで逮捕たいほされ留置りゅうちしょはいり、明大めいだいからも退学たいがく処分しょぶんけた[1]。その立憲りっけん政友せいゆうかい本部ほんぶるようになって、さん多摩たま壮士そうし総帥そうすいであり、とう幹部かんぶだった村野むらのつねみぎ衛門えもんすすめられて政友せいゆうかい院外団いんがいだんいんとなった。

1915ねん大正たいしょう4ねん)5がつ14にち本所ほんじょみどりまち加藤かとう外相がいしょう攻撃こうげき演説えんぜつおこなったことでふたた逮捕たいほされ、治安ちあん警察けいさつほうだい9じょう違反いはんつみ禁錮きんこ3がつ判決はんけつけ、市ヶ谷いちがや監獄かんごく収監しゅうかんされた(11月に大赦たいしゃ出獄しゅつごく[1]

1922ねん大正たいしょう11ねん)、しばから東京とうきょうかい議員ぎいんとなった[3]

代議士だいぎしとして

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代議士だいぎしはつ当選とうせん当時とうじにおける大野おおの肖像しょうぞう写真しゃしん

1930ねんだい17かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ岐阜ぎふ1から出馬しゅつばしてはつ当選とうせん政友せいゆうかい鳩山はとやまぞくす。

1933ねんキリスト教きりすときょう団体だんたい美濃みのミッションたいして「市民しみん合法ごうほうてきに、実力じつりょく美濃みのミッションを閉鎖へいさせよ」と主張しゅちょうして排撃はいげき運動うんどう推進すいしんした。

しん体制たいせい運動うんどうのスローガンがさけばれていた1939ねん政友せいゆうかい分裂ぶんれつさいし、鳩山はとやま一郎いちろうとともに正統せいとう久原くはら房之助ふさのすけ)に所属しょぞく1941ねん翼賛よくさん議員ぎいん同盟どうめい反発はんぱつして鳩山はとやまらとともにどう交会結成けっせい参加さんか1942ねん推薦すいせん翼賛よくさん選挙せんきょ立候補りっこうほするも落選らくせんした。

戦後せんご活動かつどう

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1945ねん日本にっぽん自由党じゆうとう結成けっせい参加さんか1946ねんだい22かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ自由党じゆうとう公認こうにん立候補りっこうほ当選とうせん国政こくせい復帰ふっき総裁そうさい鳩山はとやま幹事かんじちょう河野こうの一郎いちろう公職こうしょく追放ついほうされたのをけ、党人とうじんがわから政治せいじ経験けいけんあさ吉田よしだしげる目付めつやくとして後任こうにん幹事かんじちょう就任しゅうにんする。吉田よしだ内閣ないかくでは官僚かんりょう出身しゅっしん吉田よしだとうがわ人間にんげんとして補佐ほさし、はやし譲治じょうじえきたに秀次しゅうじとともに「党人とうじん御三家ごさんけ」とばれた。だい1吉田よしだ内閣ないかくそう辞職じしょくのち政権せいけん獲得かくとくした日本にっぽん社会党しゃかいとう右派うは西尾にしお末広すえひろから連立れんりつないかくでの内務ないむ大臣だいじん就任しゅうにん要請ようせいされるが、「社会党しゃかいとう左派さはらないかぎ政権せいけんには参加さんかしない」として固辞こじした。

野党やとう時代じだい民主みんしゅ自由党じゆうとう顧問こもんだった1948ねん6がつ政治せいじ資金しきんかんする問題もんだい衆議院しゅうぎいん不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい証人しょうにん喚問かんもんされた[4]同年どうねん昭和電工しょうわでんこう事件じけん連座れんざ起訴きそされた。ただ、1951ねんには無罪むざい判決はんけつった[5]

1952ねん8がつ26にち衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう就任しゅうにんしたが、その2にち解散かいさんおこなわれてわずか3にち議長ぎちょうしょくうしなう。10月の議長ぎちょう選挙せんきょ再選さいせんされたものの、今度こんどは5ヵ月かげつバカヤロー解散かいさんおこなわれて議長ぎちょうながつとめることはなかった。

鳩山はとやま追放ついほう解除かいじょ三木みき武吉たけよし河野こうの一郎いちろう鳩山はとやま側近そっきん対立たいりつ吉田よしだてんじた。とく戦前せんぜん政友せいゆうかいとは対立たいりつ関係かんけいであった立憲りっけん民政みんせいとう出身しゅっしんでありながら、戦時せんじちゅう翼賛よくさん議会ぎかい以後いご急速きゅうそく鳩山はとやま接近せっきんしてその無二むに腹心ふくしんとなった三木みきたいしてははげしい反発はんぱつっていた。

1953ねんにはだい5吉田よしだ内閣ないかく北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかんとして入閣にゅうかく。このさい院外団いんがいだん時代じだい衝突しょうとつ事件じけんこし逮捕たいほされたときに、起訴きそ担当たんとうした検事けんじ小原おはらただしから法廷ほうていで「本当ほんとうならば極刑きょっけいしょすべきだ」とまでわれたが、小原おはら法務大臣ほうむだいじんとしてとも入閣にゅうかくすることになった。そのさい首相しゅしょう吉田よしだしげるたいして冗談じょうだんじりに「ここにわたし極刑きょっけいにしたほうがいいとおっしゃったほうがいるのですが、同席どうせきしてもいいのでしょうか?」とたずねたことがある。なお、長官ちょうかん時代じだい秘書官ひしょかんつとめた中川なかがわ一郎いちろう見初みそめ、政界せいかいりをうながした。

1954ねんには自由党じゆうとう総務そうむ会長かいちょう就任しゅうにんし、反目はんもくしあっていた日本にっぽん民主党みんしゅとう総務そうむ会長かいちょう三木みき武吉たけよし和解わかいし、保守ほしゅ合同ごうどうすすめた。

政界せいかい重鎮じゅうちん

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保守ほしゅ合同ごうどうはなしすすんだが、だれ総裁そうさいとするかで合意ごういがまとまらなかったが、結党けっとう公選こうせんによって総裁そうさい選出せんしゅつすることとし、とう総裁そうさい総務そうむ会長かいちょうであった鳩山はとやま緒方おがた竹虎たけとら三木みき大野おおのの4にんによる総裁そうさい代行だいこう委員いいん設置せっちされることとなった。こうして1955ねん12月、自由民主党じゆうみんしゅとう結成けっせいされた。なお、1956ねん4がつには緒方おがた死去しきょなどもあり、鳩山はとやま自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい選挙せんきょにより総裁そうさい就任しゅうにんした。同年どうねん5がつ日本にっぽん消防しょうぼう会館かいかん建設けんせつ資金しきんのため50まんえん寄付きふにより1957ねん8がつ5にち紺綬こんじゅ褒章ほうしょう受章じゅしょう功績こうせき顕著けんちょとして木杯もくはいだいづけいちくみたまわった[6][7]

自民党じみんとうないでは自身じしん派閥はばつとなるしろせいかい(のちにむつみせいかいとなる)を旗揚はたあげし、大野おおのとしてやく40めいようする派閥はばつ領袖りょうしゅうとなった。なお、大野おおの死後しご大野おおの一新いっしんかい船田ふなだ)と一陽いちようかい村上むらかみ)に分裂ぶんれつした。

1957ねん初代しょだい自民党じみんとうふく総裁そうさい就任しゅうにんした。また、日本にっぽん遺族いぞくかい顧問こもんつとめ、1958ねん1がつには遺族いぞくからなる陳情ちんじょうだん組織そしきし、政府せいふおよび自民党じみんとうたいして靖国神社やすくにじんじゃへの公式こうしき参拝さんぱい要求ようきゅうした[8]

きし内閣ないかく時代じだいきし信介しんすけ首相しゅしょうから大野おおのはくまさしかい)を主流しゅりゅうとして内閣ないかく協力きょうりょくさせることの見返みかえりに後継こうけい総裁そうさい念書ねんしょれるが、これを反古ほごにされる[9][注釈ちゅうしゃく 1][注釈ちゅうしゃく 2]一説いっせつにはこのことについてきしは「ゆかあいだ肥溜こえだをおけるわけがない」といいはなったという[注釈ちゅうしゃく 3]。また渡邉わたなべ恒雄つねおによるとこのいちけん昭和しょうわ31ねん(1956ねん)の総裁そうさいせんにおける意趣いしゅがえしであるという。[注釈ちゅうしゃく 4]。この出来事できごとをきっかけとして、大野おおの終生しゅうせいきしにくむこととなる。きし首相しゅしょう正式せいしき辞任じにん直前ちょくぜん右翼うよく大野おおの支持しじする院外団いんがいだんにいたおとこ[10])にされ負傷ふしょうしたさいには「ざまあみやがれあの法螺吹ほらふきが」と発言はつげんしたというせつもある。

大野おおの首相しゅしょう就任しゅうにんつよ意欲いよくやしており、1960ねん7がつおこなわれたきし辞任じにん自民党じみんとう総裁そうさいせんでは、池田いけだ勇人はやと対抗たいこうし、石井いしい光次郎みつじろうとともに党人とうじんから出馬しゅつば名乗なのりをげた。しかし、大野おおの支持しじきし一部いちぶじゅうすうめいたばねていた川島かわしま正次まさつぐろうから「党人とうじん分裂ぶんれつすると池田いけだてないので、石井いしい一本いっぽんにまとめたほうがいい」との進言しんげんけ、大野おおの出馬しゅつば辞退じたいする。ところが川島かわしまは「大野おおの支援しえんしようとおもったが、辞退じたいしたのでわが池田いけだ支持しじする」と表明ひょうめいし、池田いけだ当選とうせん一役ひとやくうこととなる[注釈ちゅうしゃく 5]。このとき大野おおのは「川島かわしまにだまされたんだ」と再度さいど号泣ごうきゅうしたといわれる[11]

1961ねん池田いけだ接近せっきんふたた自民党じみんとうふく総裁そうさい就任しゅうにん脳血栓のうけっせん東京とうきょう新宿しんじゅく慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく病院びょういん入院にゅういんちゅうだった1964ねん5月29にち心筋梗塞しんきんこうそくこして死去しきょした。73さいぼつ死没しぼつをもって勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう追贈ついぞうしたがえじょされる。墓所はかしょ池上本門寺いけがみほんもんじ。1964ねん6月14にち大野おおの地元じもとである岐阜ぎふけん盛大せいだい県民けんみんそう開催かいさいされた。岐阜ぎふ市民しみんセンターでおこなわれたこの県民けんみんそう岐阜ぎふ県知事けんちじ執行しっこう委員いいんちょうとして中央ちゅうおう官僚かんりょう地元じもと選出せんしゅつ議員ぎいんけん議員ぎいん岐阜ぎふけんおも企業きぎょう経営けいえいしゃ後援こうえんかいなど総勢そうぜい3せんにんあつまった[12]

大野おおのおもなメンバー

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岐阜ぎふけん大野おおの

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岐阜ぎふ羽島はしまえきちかくの銅像どうぞう
  • 地元じもと岐阜ぎふけん東海道新幹線とうかいどうしんかんせん岐阜ぎふ羽島はしまえき誘致ゆうちしたとされ、政治せいじえきさわがれた。駅前えきまえには大野おおの夫妻ふさい銅像どうぞうつ。
  • 産経新聞さんけいしんぶんの『戦後せんご開封かいふう』によると、岐阜ぎふけん岐阜ぎふまたは大垣おおがきへの新幹線しんかんせんえき設置せっち要望ようぼうするが、両市りょうし付近ふきん地盤じばんよわく、また路線ろせん大幅おおはば迂回うかいさせなくてはならないために建設けんせつ予算よさん名古屋なごやえき以西いせい所要しょよう時間じかんえる関係かんけいじょう日本にっぽん国有こくゆう鉄道てつどう国鉄こくてつ)は難色なんしょくしめした。これに地元じもとはげしく反発はんぱつし、一時いちじ国鉄こくてつ岐阜ぎふ県内けんないでの測量そくりょうができない状態じょうたいになった。そこで国鉄こくてつ大野おおの斡旋あっせん依頼いらいし、結局けっきょく新幹線しんかんせん路線ろせん迂回うかいさせることの岐阜ぎふ羽島はしまえき設置せっちとなった。これは大野おおの自身じしん地元じもと利権りけんからんで国鉄こくてつ圧力あつりょくをかけたわけではなく、むしろ地元じもと利益りえきよりも新幹線しんかんせん速達そくたつせい優先ゆうせんした結果けっかであった。岐阜ぎふ羽島はしまえき今日きょう政治せいじ利権りけん権化ごんげとされるのは、地元じもと利益りえき代弁だいべんよそおい、地元じもと利益りえき誘導ゆうどうをでっちあげたことに由来ゆらいする。大野おおの東海道新幹線とうかいどうしんかんせん開業かいぎょうることなくそのやく4かげつまえ死去しきょしている。なお、国鉄こくてつ樽見線たるみせん現在げんざい樽見たるみ鉄道てつどう樽見線たるみせん)の建設けんせつにも関与かんよしている。
  • うみなしけん」の岐阜ぎふけんうみ直結ちょっけつする「中部ちゅうぶ横断おうだん運河うんが計画けいかく強力きょうりょく推進すいしんしゃであった。
  • 主要しゅよう地方ちほうどう日立ひたち大宮おおみや氏家うじいえせん国道こくどう293ごうへの国道こくどう指定してい尽力じんりょくしたため(大野おおの死去しきょから5ねん実現じつげん)、このみちのうち現在げんざい国道こくどう400ごうとの重複じゅうふく区間くかん位置いちする栃木とちぎ - 茨城いばらき県境けんきょうとうげは「伴睦ばんぼくとうげ」と名付なづけられている。なお、大野おおの国道こくどう指定してい尽力じんりょく死去しきょまえ国道こくどう昇格しょうかくされた路線ろせん国道こくどう258ごう岐阜ぎふけん大垣おおがき - 三重みえけん桑名くわな)がある。
  • あいだぐみのダム建設けんせつ受注じゅちゅうかんしては、ハザマがわから大野おおのたいして積極せっきょくてき工作こうさくおこなわれた。
  • くなってすでに60ねんつが、いまだに岐阜ぎふけん出身しゅっしんしゃもっと首相しゅしょうちかづいた政治せいじばれる[9]

人物じんぶつ

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人物じんぶつぞう

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趣味しゅみ読書どくしょ囲碁いご骨董こっとう俳句はいく[2]麻雀まーじゃん[3]など。日蓮宗にちれんしゅう信仰しんこうする[2][3]

義理ぎり人情にんじょうあつ性格せいかくから「伴睦ばんぼくころすにゃ刃物はものはいらぬ、大義たいぎ大義たいぎえばよい[注釈ちゅうしゃく 6]」というじゃでもられた。保守ほしゅ合同ごうどうにあたっては、この性格せいかく宿敵しゅくてき三木みき武吉たけよしが「保守ほしゅ合同ごうどう救国きゅうこく偉業いぎょう」という論理ろんりから説得せっとくしたことで、大野おおのはただちに意気投合いきとうごうしたとわれている。

義理ぎり人情にんじょうあついという評判ひょうばんから、真偽しんぎのわからない人情話にんじょうばなし事欠ことかかない政治せいじであった。いちれいとして、自分じぶん選挙せんきょとは関係かんけいもないあるろう婦人ふじんが「いえちかくのドブばん整備せいび役所やくしょたのんでも一向いっこうにやってもらえない」とたずねてきたさい憤慨ふんがいした大野おおのはさっそく役所やくしょ電話でんわれ、するといままでろう婦人ふじんこえをききいれもしなかった担当たんとう課長かちょう菓子かしりをってきて謝罪しゃざいし、すぐに作業さぎょうはじまったといわれる。

ほかにも、大野おおの在宅ざいたく自宅じたく泥棒どろぼうはいったさい外遊がいゆうのために用意よういしていたかねわたし、「いまこれだけしかないが、もっといるのか?」といた。泥棒どろぼう大野おおのおもいもよらない対応たいおうにのまれ、ぎゃくに「これから一生懸命いっしょうけんめいはたらいて、かならずこのおかねをおかえしにます」とまでった。また、事務所じむしょまった見知みしらぬ青年せいねんんできて「おかねしてください」とってきたとき、大野おおのまったうたがいもせずこころよくおかねしたこともあったとされる。以上いじょうのような態度たいど対応たいおうをとったのは、政治せいじのところに泥棒どろぼうはいったりかねりにくるのはよほどこまったことがあったのだから、できるだけのことをしてやろうというかんがかたがあったではないかといわれている。

酒豪しゅごうとしてもられ、「さけ以上いじょうわけがわからなくなるまでむべきだ」という名言めいげんがある。

俳人はいじん

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俳人はいじんとしても有名ゆうめいで、万木まんぎばんぼく)の俳号はいごうおおくの俳句はいくのこした。そのうちの一部いちぶ句碑くひになっている。没後ぼつごの1966ねんに『大野おおの万木まんぎ句集くしゅう』がされた。

佐藤さとう栄作えいさくとの関係かんけい

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総裁そうさい密約みつやくったきし実弟じってい佐藤さとう栄作えいさくつよ反感はんかんいだくようになり、「おれくろいうちは佐藤さとう総裁そうさいにさせない」とうそぶくほどであった(ただし佐藤さとうたいしては、もともと佐藤さとう当選とうせんまえ官房かんぼう長官ちょうかんについたころから態度たいどがでかい官僚かんりょうだとして毛嫌けぎらいしていた)。一方いっぽう佐藤さとう大野おおの評価ひょうかしておらず、大野おおの死去しきょしたさいには大野おおの庶民しょみんせいとなえ「“ばんちゃん”とみんなからあいされた故人こじんにならい、わたしも“さかえちゃん”とばれたい」とコメントしたが、のちに「めようがなかったからだ」と酷評こくひょうしている[13]

渡邉わたなべ恒雄つねおとの関係かんけい

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読売新聞よみうりしんぶん渡邉わたなべ恒雄つねお政治せいじ記者きしゃ時代じだい大野おおのばん記者きしゃとして寵愛ちょうあいけ、影響えいきょうりょく拡大かくだいすることとなった。大野おおの渡邉わたなべると人払ひとばらいをするほどの関係かんけいにあり、渡邉わたなべ組閣そかくさい大野おおのからの派閥はばつ推薦すいせんしゃ選定せんていや、大野おおの没後ぼつご大野おおの村上むらかみ船田ふなだ分裂ぶんれつするさいにも議員ぎいんりにも関与かんよしている[14]。『大野おおの伴睦ばんぼく回想かいそうろく』(弘文こうぶんどう、1962ねん新版しんぱん 中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2021ねん3がつ)をのちにいうゴーストライターとしてとめている。

力道山りきどうざん可愛かわいがり、日本にっぽんプロレスコミッショナーつとめていたことでもられている。力道山りきどうざん大野おおの非常ひじょうによくしたっており、大野おおのから「さけひかえろ」とわれたさいには、(粗暴そぼう性格せいかくだった本人ほんにんも)素直すなおひかえたという。ただし在日ざいにち朝鮮ちょうせんじん自体じたいは、大野おおの終戦しゅうせん直後ちょくご不良ふりょうさん国人くにびと集団しゅうだん襲撃しゅうげきされて以来いらい毛嫌けぎらいしており、にちかん基本きほん条約じょうやくにも終生しゅうせい反対はんたいした(条約じょうやく締結ていけつ大野おおの没後ぼつご)。

大野おおの

著書ちょしょ

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  • しんろん石田いしだ三成みつなりあいみなみしゃ出版しゅっぱん、1936ねん2がつ全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:44006687NDLJP:1026273 
  • 伴睦ばんぼく放談ほうだん金融きんゆうかいしゃ、1952ねん9がつNCID BN07001324全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:52007789NDLJP:2941575 
  • 大野おおの伴睦ばんぼく回想かいそうろく弘文こうぶんどう、1962ねん9がつNCID BN04283875全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:62008532NDLJP:2974555 
  • 大野おおの万木まんぎ句集くしゅう弘文こうぶんどう、1966ねん5がつNCID BA3872195X全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:66006132NDLJP:1362112 

えんじた俳優はいゆう

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この密約みつやく自体じたいまごである安倍晋三あべしんぞうが「祖父そふから直接ちょくせついた」と発言はつげんしており、そのさいきしは「政治せいじ目的もくてきのためにならうそをついてもかまわない」とかたったという
  2. ^ 密約みつやくうわさ大野おおのいた渡邉わたなべ恒雄つねお念書ねんしょ保管ほかんしているという児玉こだまほまれおっと紹介しょうかいしてもらい、実際じっさいにその念書ねんしょ撮影さつえいしたという。
  3. ^ このコメントは一般いっぱんに、自民党じみんとうないでささやかれていたもので、俗説ぞくせつとのせつもある。
  4. ^ 昭和しょうわ35ねん(1960ねん)の総裁そうさいせんでは、当初とうしょきし中立ちゅうりつ表明ひょうめいしていたため大野おおのからきし念書ねんしょ有効ゆうこうせい確認かくにん依頼いらいされた渡邉わたなべきしところおもむいたところ、「しろさもしろ富士ふじしろゆき」とわれたという。これはさかのぼること昭和しょうわ31ねん(1956ねん)の総裁そうさいせんきし大野おおのひょうがために品川しながわ大野おおのていおもむいたさいとしての態度たいど白紙はくしであるとしてかえし、結果けっかとして石橋いしばし湛山たんざんきしけたけんうらみにおもった言葉ことばであるという。文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう 2020ねん2がつごう渡辺わたなべ恒雄つねお読売新聞よみうりしんぶん主筆しゅひつかたる、“盟友めいゆう中曽根なかそね康弘やすひろもと総理そうりとの60年間ねんかん。』、BS1スペシャル『独占どくせん告白こくはく 渡辺わたなべ恒雄つねお ~戦後せんご政治せいじはこうしてつくられた 昭和しょうわへんれい2ねん(2020ねん)3がつ7にち放送ほうそう
  5. ^ この過程かていについては諸説しょせつあるが、のち川島かわしまが「池田いけだ総裁そうさいのぞんだきし指示しじであった」とかたったとされる。後藤ごとう基夫もとお内田うちだ健三けんぞう石川いしかわ真澄ますみ戦後せんご保守ほしゅ政治せいじ軌跡きせき』(岩波書店いわなみしょてん、1982ねん)を参照さんしょう
  6. ^ こまかな表現ひょうげんには諸説しょせつあり

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 大野おおの伴睦ばんぼく 小伝しょうでん追想ついそう5 - 6、8 - 11、11 - 17、18 - 19、350 - 351ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2024ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e f 代議士だいぎしろく44ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2024ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f 東京とうきょう岐阜ぎふけんじん綜覧そうらん132ぺーじ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)。2024ねん1がつ1にち閲覧えつらん
  4. ^ だい2かい国会こっかい 衆議院しゅうぎいん 不当ふとう財産ざいさん取引とりひき調査ちょうさ特別とくべつ委員いいんかい だい35ごう 昭和しょうわ23ねん6がつ23にち
  5. ^ 明治大学めいじだいがく資料しりょうセンター『鵜澤うざわそうあかり明治大学めいじだいがく』 DTP出版しゅっぱん、2021ねん、197-203ぺーじ
  6. ^ 大野おおの伴睦ばんぼく 小伝しょうでん追想ついそう』362ぺーじ
  7. ^ 官報かんぽうだい9185ごう90-91ぺーじ 昭和しょうわ32ねん8がつ6にちごう
  8. ^ おうのぞみあきら日本にっぽん遺族いぞくかいとその戦争せんそうかん」『季刊きかんちゅうれん」』だい02ごう中国ちゅうごく帰還きかんしゃ連絡れんらくかい、1997ねん6がつ2010ねん9がつ21にち閲覧えつらん 
  9. ^ a b 首相しゅしょう出身しゅっしん岐阜ぎふゼロなぜ? 識者しきしゃ家老がろうやくおおい」「つよ野心やしんない」”. 岐阜ぎふ新聞しんぶん (岐阜新聞社ぎふしんぶんしゃ). (2018ねん10がつ8にち). オリジナルの2021ねん10がつ10日とおか時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211010223037/https://www.gifu-np.co.jp/news/20211008/20211008-112204.html 2023ねん9がつ4にち閲覧えつらん 
  10. ^ 岩見いわみ隆夫たかおきし信介しんすけ 昭和しょうわ革命かくめい学陽書房がくようしょぼう人物じんぶつ文庫ぶんこ だい2終章しゅうしょう2せつ"がんしたおとこ" pp.273-278(1999ねん4がつISBN 4-313-75086-X初出しょしゅつ文芸春秋ぶんげいしゅんじゅう1977ねん11がつごう満州まんしゅう妖怪ようかいきし信介しんすけ研究けんきゅう』、1978ねん7がつごう権力けんりょくへの野望やぼうきし信介しんすけ研究けんきゅう戦後せんごへん』。単行たんこうほん 学陽書房がくようしょぼう(1979ねん)、朝日あさひソノラマ(1994ねん)。
  11. ^ 渡邉わたなべ恒雄つねお政治せいじ密室みっしつ』(ゆきはなしゃ、1966ねん)を参照さんしょう
  12. ^ 朝日新聞あさひしんぶん 1964ねん3がつ14にち夕刊ゆうかん記事きじ
  13. ^ 山田やまだ栄三えいざ正伝せいでん 佐藤さとう栄作えいさく 』(新潮社しんちょうしゃ、1987ねん)を参照さんしょう
  14. ^ 伊藤いとうたかし御厨みくりやたか へん渡邉わたなべ恒雄つねお回顧かいころく』(中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2000ねん)を参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 東京とうきょう岐阜ぎふけんじん綜覧そうらん往来おうらいしゃ、1938ねん
  • 人事じんじ興信所こうしんじょへん代議士だいぎしろく人事じんじ興信所こうしんじょ、1946ねん
  • 大野おおの伴睦ばんぼく先生せんせい追想ついそうろく刊行かんこうかい編集へんしゅう委員いいん大野おおの伴睦ばんぼく 小伝しょうでん追想ついそう』、1970ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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議会ぎかい
先代せんだい
はやし譲治じょうじ
  衆議院しゅうぎいん議長ぎちょう
だい42・43だい:1952ねん - 1953ねん
次代じだい
つつみ康次郎やすじろう
先代せんだい
新設しんせつ
  衆議院しゅうぎいん通商つうしょう産業さんぎょう委員いいんちょう
1949ねん - 1950ねん
次代じだい
しょうきむ義照よしてる
先代せんだい
本多ほんだ市郎いちろう
  衆議院しゅうぎいん商工しょうこう委員いいんちょう
1949ねん
次代じだい
田中たなか角栄かくえい
公職こうしょく
先代せんだい
戸塚とつか九一郎きゅういちろう
  北海道開発庁ほっかいどうかいはつちょう長官ちょうかん
だい7だい:1954ねん
次代じだい
緒方おがた竹虎たけとら
とうしょく
先代せんだい
大野おおの伴睦ばんぼく
結党けっとう
自由民主党じゆうみんしゅとうふく総裁そうさい
だい2だい : 1961ねん - 1964ねん
初代しょだい:1957ねん - 1960ねん
次代じだい
川島かわしま正次まさつぐろう
大野おおの伴睦ばんぼく
先代せんだい
えきたに秀次しゅうじ
自由党じゆうとう総務そうむ会長かいちょう
だい7だい : 1954ねん - 1955ねん
次代じだい
解党かいとう
先代せんだい
河野こうの一郎いちろう
日本にっぽん自由党じゆうとう幹事かんじちょう
だい2だい : 1946ねん - 1948ねん
次代じだい
解党かいとう