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立憲民政党 - Wikipedia

立憲りっけん民政みんせいとう

日本にっぽん政党せいとう

立憲りっけん民政みんせいとう(りっけんみんせいとう、きゅう字体じたい立憲りっけん󠄁民政みんせいとう[14])は、昭和しょうわ時代じだい初期しょき日本にっぽん政党せいとう[15][16]議会ぎかい重視じゅうしかかげる自由じゆう主義しゅぎ政党せいとうであった[6][11][12]略称りゃくしょう民政みんせいとう(みんせいとう)[17]立憲りっけん政友せいゆうかいならだい政党せいとうひとつとして衆議院しゅうぎいん議席ぎせき二分にぶんした[13][16]

日本の旗 日本にっぽん政党せいとう
立憲りっけん民政みんせいとう
立憲りっけん民政みんせいとう本部ほんぶ
成立せいりつ年月日ねんがっぴ 1927ねん6月1にち[1]
前身ぜんしん政党せいとう 憲政けんせいかい
政友せいゆうほんとう
解散かいさん年月日ねんがっぴ 1940ねん8がつ15にち[2]
解散かいさん理由りゆう 大政たいせい翼賛よくさんかいへの合流ごうりゅうのため
後継こうけい政党せいとう 翼賛よくさん議員ぎいん同盟どうめい事実じじつじょう人脈じんみゃくてきには翼賛よくさん政治せいじかいだい日本にっぽん政治せいじかい日本にっぽん進歩しんぽとう民主党みんしゅとう国民こくみん民主党みんしゅとうあらためしんとう日本にっぽん民主党みんしゅとう自由民主党じゆうみんしゅとう
政治せいじてき思想しそう立場たちば 中道ちゅうどう[3] - 中道ちゅうどう左派さは[4]
リベラル[5][6]
保守ほしゅ主義しゅぎ[7][8][9]
進歩しんぽ主義しゅぎ[10]
議会ぎかい中心ちゅうしん主義しゅぎ[11][12]
各種かくしゅ社会しゃかい政策せいさく実行じっこう[13]
緊縮きんしゅく財政ざいせい政策せいさく[13]
協調きょうちょう外交がいこう[13]
機関きかん民政みんせい
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概説がいせつ

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1927ねん6月1にち憲政けんせいかい政友せいゆうほんとう合併がっぺいして成立せいりつした[1]党名とうめい政友せいゆうほんとう出身しゅっしんしゃ松田まつだ源治げんじ発案はつあんたいし、憲政けんせいかい出身しゅっしんしゃ中野なかのただしつよし即座そくざ賛成さんせいしたことで採用さいようされた経緯けいい[18]濱口はまぐち内閣ないかくだい2若槻わかつき内閣ないかく組織そしきして立憲りっけん政友せいゆうかい立憲りっけん民政みんせいとうだい政党せいとう誕生たんじょうさせたが、1940ねん8がつ15にちしん体制たいせい運動うんどう推進すいしんして大政たいせい翼賛よくさんかい合流ごうりゅうした[2]

とう幹部かんぶとして重要じゅうようであった総務そうむ委員いいんについて、ライバルの政友せいゆうかいでは総裁そうさい任命にんめい独裁どくさいしょくつよかったのにたいし、民政みんせいとうでは議員ぎいんぜん議員ぎいん投票とうひょう総務そうむ委員いいん決定けっていしていたために結党けっとう総務そうむ委員いいん10にんなか党人とうじんおよび少壮しょうそう議員ぎいん斎藤さいとう隆夫たかお安達あだち謙蔵けんぞう町田まちだ忠治ただはる小泉こいずみ又次郎またじろう富田とみた幸次郎こうじろうなど)がおおめいつらねた[18]。ただし、その面々めんめん権限けんげん集中しゅうちゅうする傾向けいこうがあった[18]。また、党則とうそく公選こうせんとなっている役職やくしょくとう大会たいかいにおける「総裁そうさい指名しめい一任いちにん」の動議どうぎによって総裁そうさい幹部かんぶによってめられていたため、幹部かんぶ専制せんせい傾向けいこう政友せいゆうかいわらなかった。[19]

政策せいさくとしては「皇室こうしつ中心ちゅうしん主義しゅぎ」をとなえていた立憲りっけん政友せいゆうかいたいし「議会ぎかい中心ちゅうしん主義しゅぎ」の理念りねん標榜ひょうぼうした[ちゅう 1][11][12]政策せいさく立案りつあん広報こうほう責任せきにんしゃだった中野なかのが「立憲りっけん民政みんせいとうは(中略ちゅうりゃく強力きょうりょくなる議会ぎかい中心ちゅうしん政治せいじおこなわんとするものである」とせん[21]綱領こうりょうにも「(前略ぜんりゃく議会ぎかい中心ちゅうしん政治せいじ徹底てっていせしむべし」とまれた[22]さらに「資本しほん労働ろうどう平等びょうどう」・「国際こくさいてき原則げんそくもとづく世界せかい平和へいわ」・「教育きょういく機会きかい均等きんとう」・「行政ぎょうせい改革かいかく」もかかげている(政綱せいこう参照さんしょう[20]1928ねん発表はっぴょうした「ななだい政策せいさく」では労働ろうどうしゃ農民のうみん意識いしきした社会しゃかい政策せいさく実施じっしほか電力でんりょく国家こっか統制とうせい緊縮きんしゅく財政ざいせい行政ぎょうせい改造かいぞうげた[23]。また、「自由じゆう」と「進歩しんぽ」をとう基本きほん理念りねんとしてかかげる[10]リベラル政党せいとうだった[6]

1925ねんから1932ねんみじかあいだにおいて立憲りっけん政友せいゆうかいとともにだい政党せいとうせい形成けいせいする[24][25]大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうのもとでは大命たいめい降下こうかによって首相しゅしょうめられていた[26]天皇てんのう元老げんろう助言じょげんもとづき首相しゅしょう候補者こうほしゃ組閣そかくめいじるというもので[27][28]だい2加藤かとう高明こうめい内閣ないかくからいぬやしなえ内閣ないかくまでは立憲りっけん民政みんせいとう立憲りっけん政友せいゆうかいのどちらかの総裁そうさい大命たいめい降下こうかしており、このだい政党せいとうたがいに政権せいけんにないながら政策せいさく競合きょうごうさせる、というかたちでのものだった[26][28]立憲りっけん民政みんせいとう立憲りっけん政友せいゆうかいとの対抗たいこうつうじてだい政党せいとうせいへの意識いしきたか[29]、その確立かくりつかかげていた[11]

支持しじ基盤きばんとしては、地主じぬしなどが支持しじ基盤きばん政友せいゆうかいたいし、都市とし中間なかまそうなどがおも支持しじ基盤きばんであった。一方いっぽうで、三菱みつびし財閥ざいばつ密接みっせつ関係かんけい[30]三菱みつびし民政みんせいとう政治せいじ資金しきんめんでの主要しゅようスポンサーとなった[31]

政綱せいこう

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以下いか綱領こうりょう内容ないようである[22]

  1. 国民こくみん総意そうい帝国ていこく議会ぎかい反映はんえい天皇てんのう統治とうちしも議会ぎかい中心ちゅうしん政治せいじ徹底てっていせしむべし。
  2. 国家こっか整調せいちょうりて生産せいさん旺盛おうせいにし分配ぶんぱい公正こうせいにし社会しゃかい不安ふあん禍根かこん芟除さんじょすべし。
  3. 国際こくさい正義せいぎ国交こっこううえ貫徹かんてつ人種じんしゅ平等びょうどう資源しげん公開こうかい原則げんそく拡充かくじゅうすべし。
  4. 品性ひんせい陶冶とうや独創どくそう自発じはつ個性こせいけい学習がくしゅう機会きかい均等きんとうにしてすすんで教育きょういく実際じっさいすべし。
  5. 立法りっぽう行政ぎょうせい地方ちほう自治じち浸潤しんじゅんせる時代じだい錯誤さくごの陋習を打破だはしてもっ新興しんこう気運きうん順応じゅんのうすべき改造かいぞう実現じつげんすべし。

結党けっとう

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1927ねん昭和しょうわ2ねん)、政友せいゆうかい田中たなか義一ぎいち内閣ないかく対抗たいこうするかたちまえ政権せいけんだい1若槻わかつき内閣ないかく)の与党よとうであった憲政けんせいかいと、内部ないぶ対立たいりつから政友せいゆうかい離党りとうした床次とこなみ竹二郎たけじろうらによる政友せいゆうほんとう合併がっぺいして成立せいりつ[1]

同年どうねん6月1にち東京とうきょう上野うえの精養軒せいようけんにて結党けっとうしきひらかれ、濱口はまぐち雄幸ゆうこう総裁そうさいとし、若槻わかつき禮次郎れいじろうぜん首相しゅしょう憲政けんせいかい総裁そうさい)・床次とこなみ竹二郎たけじろう政友せいゆうほんとう総裁そうさい)・山本やまもと達雄たつお武富たけとみ時敏ときとしとう顧問こもん櫻内さくらうち幸雄ゆきお幹事かんじちょう安達あだち謙蔵けんぞう町田まちだ忠治ただはる小泉こいずみ又次郎またじろう斎藤さいとう隆夫たかおら10めい総務そうむとした。

政党せいとう政治せいじ民政みんせい党内とうないかく

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1928ねん昭和しょうわ3ねん2がつ20日はつかおこなわれただい16かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは、田中たなか内閣ないかく内相ないしょう鈴木すずき喜三郎きさぶろうから、「民政みんせいとうかかげる議会ぎかい中心ちゅうしん主義しゅぎ憲法けんぽう違反いはんである」との誹謗ひぼう選挙せんきょ干渉かんしょうけるも政友せいゆうかいにわずか1議席ぎせきにまでせまる216議席ぎせき獲得かくとくして政府せいふんだ[32]。それにたいして与党よとう政友せいゆうかい床次とこなみきゅう政友せいゆうほんとう出身しゅっしんしゃたいしてふくとう工作こうさくおこなって床次とこなみら30めいあまりの離党りとうしゃこと成功せいこうする。また、濱口はまぐちわって大隈おおくましんつねしん総裁そうさい擁立ようりつしようとした小寺こでら謙吉けんきち除名じょめいされるさわぎもきた。

だが、同年どうねん6月4にち発生はっせいしたちょうさく爆殺ばくさつ事件じけん(いわゆる満州まんしゅうぼう重大じゅうだい事件じけん)のために田中たなか内閣ないかく内閣ないかくそう辞職じしょくいたると、元老げんろう西園寺さいおんじ公望きんもちもと首相しゅしょうもと政友せいゆうかい総裁そうさい)は現状げんじょう政友せいゆうかい政策せいさく是非ぜひうていないことが政権せいけん崩壊ほうかい原因げんいんとなったとかんがえて、野党やとうだいいちとう民政みんせいとう政権せいけん交代こうたいさせうえ国民こくみんしん方針ほうしんかためると、昭和しょうわ天皇てんのう濱口はまぐち雄幸ゆうこう次期じき首相しゅしょうとして推薦すいせんした。

こうして1929ねん昭和しょうわ4ねん7がつ2にち田中たなか内閣ないかくそう辞職じしょく濱口はまぐち内閣ないかく成立せいりつする。濱口はまぐちきむ解禁かいきん断行だんこうしたうえで、「綱紀こうき粛正しゅくせい」と「軍縮ぐんしゅく実現じつげん」をかか1930ねん昭和しょうわ5ねん)にだい17かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょおこなった。その結果けっか過半数かはんすうめる絶対ぜったい多数たすうの273議席ぎせき獲得かくとくした[33]

ところがロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやくにおける「統帥とうすいけん干犯かんぱん問題もんだい」をきっかけに、同年どうねん11月14にち濱口はまぐち東京とうきょうえきにおいて右翼うよくによって狙撃そげきされた。濱口はまぐち回復かいふくおもわしくないということ1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつ4にち若槻わかつき禮次郎れいじろう総裁そうさい就任しゅうにんしてだい2若槻わかつき内閣ないかく発足ほっそくした。なお、濱口はまぐち同年どうねん8がつ26にち死亡しぼうする。ところが同年どうねん9月18にちには満州まんしゅう事変じへん勃発ぼっぱつおなごろアメリカ発生はっせいした世界せかい恐慌きょうこう日本にっぽん経済けいざいにも深刻しんこく影響えいきょうあたえるようになった。

そこで、内務ないむ大臣だいじんであった安達あだち謙蔵けんぞう政友せいゆうかいふくとうしていた床次とこなみ竹二郎たけじろうらとんで挙国一致きょこくいっちないかく協力きょうりょくないかく運動うんどう)を提唱ていしょうするが、これがかくない分裂ぶんれつまねいたため、同年どうねん12月13にち若槻わかつき内閣ないかくたおいぬやしなえ内閣ないかく成立せいりつする。1932ねん昭和しょうわ7ねん)12月22にち安達あだちとその支持しじしゃ民政みんせいとうから脱党だっとうしてしん政党せいとう国民同盟こくみんどうめい」を結党けっとうした。この影響えいきょう同年どうねんだい18かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでは結党けっとう以来いらい最大さいだい惨敗ざんぱいきっしたうえ[34]選挙せんきょちゅう同年どうねん2がつ発生はっせいした血盟けつめいだん事件じけん次期じき総裁そうさいさい有力ゆうりょく候補こうほだったまえ大蔵おおくら大臣だいじん井上いのうえ準之助じゅんのすけ暗殺あんさつされてしまう[34]

中間ちゅうかん内閣ないかく軍部ぐんぶ台頭たいとう

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ところが、1932ねん5月15にちいち事件じけん政友せいゆうかいいぬやしなえあつし首相しゅしょう暗殺あんさつされると、政党せいとう政治せいじ終焉しゅうえんして軍人ぐんじん首班しゅはん中間ちゅうかん内閣ないかく時代じだい齋藤さいとう内閣ないかく岡田おかだ内閣ないかく)にはいる。この中間ちゅうかん内閣ないかくには民政みんせいとうから2にんずつの閣僚かくりょう斎藤さいとう内閣ないかく山本やまもと達雄たつお内務ないむ大臣だいじん)・永井ながい柳太郎りゅうたろうひらけつとむ大臣だいじん)、岡田おかだ内閣ないかく町田まちだ忠治ただはる商工しょうこう大臣だいじん)・松田まつだ源治げんじ文部もんぶ大臣だいじん))が入閣にゅうかくした。だが、軍部ぐんぶ発言はつげんりょく増大ぞうだい比例ひれいするかのように政党せいとう存在そんざいかん低下ていかしていくようになる。

そこで1933ねん昭和しょうわ8ねん)、町田まちだ忠治ただはる主宰しゅさいしてシンクタンクである「政務せいむ調査ちょうさかん」を発足ほっそくさせ、その一方いっぽう宇垣うがき一成いっせいもと陸軍りくぐん大臣だいじんようして政友せいゆうかいとの連携れんけいはかった。ところがいぬやしなえ死後しご政友せいゆうかい総裁そうさいになったのは以前いぜん選挙せんきょさい民政みんせいとう違憲いけん発言はつげんした鈴木すずき喜三郎きさぶろうであったことから民政みんせい党内とうない反発はんぱつしょうじ、くわえて鈴木すずき中間ちゅうかん内閣ないかくそのものを否定ひていして野党やとう路線ろせん選択せんたくしたことから失敗しっぱいわった。

くわえて、若槻わかつき総裁そうさい帝国ていこく議会ぎかい軍備ぐんび拡張かくちょう批判ひはんして「骸骨がいこつ大砲たいほうく」と発言はつげんしたこと軍部ぐんぶ右翼うよく攻撃こうげきまねき、1934ねん昭和しょうわ9ねん)7がつ若槻わかつき総裁そうさい辞任じにんまれた。あまりの突然とつぜん総裁そうさい辞任じにん町田まちだ忠治ただはる総務そうむ会長かいちょう就任しゅうにんして暫定ざんていてき党務とうむおこな後継こうけい総裁そうさい選出せんしゅつおこなおうとするものの、結論けつろんいたらず結局けっきょく町田まちだがそのまま総裁そうさい就任しゅうにんすることになった。

1936ねん昭和しょうわ11ねん2がつ26にちから発生はっせいした二・二六事件ににろくじけん廣田ひろた内閣ないかく以後いご林内りんないかくのぞいて閣僚かくりょう廣田ひろた内閣ないかく川崎かわさき卓吉たくきち小川おがわごう太郎たろう商工しょうこう大臣だいじん)・よりゆきははかつらよし逓信ていしん大臣だいじん)、だい1近衛このえないかく永井ながい柳太郎りゅうたろう逓信ていしん大臣だいじん)、平沼ひらぬま内閣ないかく櫻内さくらうち幸雄ゆきお農林のうりん大臣だいじん)、阿部あべ内閣ないかく永井ながい柳太郎りゅうたろう逓信ていしん大臣だいじん)、べい内内うちうちかく櫻内さくらうち幸雄ゆきお大蔵おおくら大臣だいじん)・かつ正憲まさのり逓信ていしん大臣だいじん)・だい2近衛このえないかく小川おがわごう太郎たろう鉄道てつどう大臣だいじん))を入閣にゅうかくさせ、またライバルである政友せいゆうかい分裂ぶんれつ騒動そうどうかぜとなって衆議院しゅうぎいん議席ぎせきすうでもだい1とう維持いじしてきたが、軍部ぐんぶ台頭たいとうまえにその発言はつげんりょく低下ていかしていった。

解党かいとうして大政たいせい翼賛よくさんかい合流ごうりゅう

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そのころ党内とうないには2つのながれが存在そんざいした。ひとつはろく事件じけん直後ちょくごのいわゆる「粛軍しゅくぐん演説えんぜつ」に代表だいひょうされる斎藤さいとう隆夫たかお軍部ぐんぶ対決たいけつしてでも党是とうぜである議会ぎかい政治せいじ擁護ようごしようとする立場たちばと、もうひとつは町田まちだもと幹事かんじちょうつとめていた永井ながい柳太郎りゅうたろう代表だいひょうされる軍部ぐんぶ革新かくしん官僚かんりょうむすんで政治せいじ主導しゅどうけん確保かくほすること優先ゆうせんすべきだとする立場たちばである。

永井ながいは「はん政党せいとう」の立場たちば林内りんないかくたいして一方いっぽうてき支持しじ決定けっていしたが、政友せいゆうかい党内とうないからもつよ非難ひなんびた。だが、にちちゅう戦争せんそう開始かいし直後ちょくごから当時とうじ入閣にゅうかくしていた永井ながいとそのグループを支持しじする政府せいふ軍部ぐんぶうごきがさかんになり、国家こっか総動員そうどういんほう審議しんぎでは当初とうしょ反対はんたいろんとなえながら最終さいしゅうてきには賛成さんせいまわるなど、おやぐんしょくつよめていった。

そして、1940ねん2がつ斎藤さいとう隆夫たかおのいわゆる「反軍はんぐん演説えんぜつ問題もんだいさい民政みんせいとう自分じぶんとう重鎮じゅうちんである斎藤さいとう衆議院しゅうぎいん除名じょめい賛成さんせいしたことによって、とう保身ほしんのために軍部ぐんぶ圧力あつりょくくっして自党じとう議員ぎいん見捨みすてたとして内外ないがい信任しんにんうしなって内部ないぶから崩壊ほうかいはじめ、いでだい2近衛このえないかく近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうみずからの新党しんとう(いわゆる「近衛このえしん体制たいせい」)ががると、同年どうねん7がつ25にち永井ながいグループ35めい新党しんとうへの合流ごうりゅう主張しゅちょうして離党りとうする[2]一方いっぽう町田まちだ総裁そうさい主流しゅりゅう久原くはら房之助ふさのすけ鳩山はとやま一郎いちろう政友せいゆうかい正統せいとうとの合同ごうどう画策かくさくし、これに失敗しっぱいすると今度こんど近衛このえないかく軍部ぐんぶ政策せいさく事実じじつじょうぜん追認ついにんするとう綱領こうりょうして解党かいとうだけはふせごうとするが、同年どうねん8がつ15にち解党かいとうし、大政たいせい翼賛よくさんかい合流ごうりゅうした[2]

そのきゅう民政みんせいとう議員ぎいんおおくが大政たいせい翼賛よくさんかいけい党派とうは主軸しゅじくめて戦時せんじ議会ぎかい翼賛よくさん議会ぎかい)の主流しゅりゅうめる。戦後せんごかれらのおおくは町田まちだ総裁そうさいようして日本にっぽん進歩しんぽとう結党けっとうするが、解党かいとうまでの経緯けいいとその戦時せんじ議会ぎかいにおける戦争せんそう協力きょうりょくからGHQより「戦争せんそう協力きょうりょくしゃ」と看做みなされ、町田まちだ総裁そうさい以下いか民政みんせいとう以来いらいのほとんどの所属しょぞく議員ぎいん公職こうしょく追放ついほうけることとなり、追放ついほうまぬかれた斎藤さいとう隆夫たかおらごく一部いちぶ議員ぎいんのぞいてそのおおくが政治せいじ生命せいめいたれるにいたった。

幹部かんぶ人事じんじ

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歴代れきだい総裁そうさい一覧いちらん

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だい 総裁そうさい 在任ざいにん期間きかん
1   濱口はまぐち雄幸ゆうこう 1927ねん昭和しょうわ2ねん6月1にち - 1931ねん昭和しょうわ6ねん4がつ13にち
2   若槻わかつき禮次郎れいじろう 1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつ13にち - 1934ねん昭和しょうわ9ねん11月1にち
3   町田まちだ忠治ただはる 1935ねん昭和しょうわ10ねん1がつ20日はつか - 1940ねん昭和しょうわ15ねん8がつ15にち

退任たいにん町田まちだ忠治ただはる総務そうむ会長かいちょう総裁そうさい代行だいこう(1934ねん11月9にち - 1935ねん1がつ20日はつか

幹事かんじちょう

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  • 櫻内さくらうち幸雄ゆきお(1927ねん昭和しょうわ2ねん)6がつ1にち-1928ねん昭和しょうわ3ねん)1がつ20日はつか
  • 小泉こいずみ又次郎またじろう(1928ねん昭和しょうわ3ねん)1がつ20日はつか-1929ねん昭和しょうわ4ねん)1がつ20日はつか
  • たわら孫一まごいち(1929ねん昭和しょうわ4ねん)1がつ20日はつか-1929ねん昭和しょうわ4ねん)7がつ2にち
  • 富田とみた幸次郎こうじろう(1929ねん昭和しょうわ4ねん)7がつ9にち-1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつ14にち
  • 櫻内さくらうち幸雄ゆきお(1931ねん昭和しょうわ6ねん)1がつ20日はつか-1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつ14にち
  • 山道さんどうじょういち(1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつ15にち-1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月14にち
  • 永井ながい柳太郎りゅうたろう(1931ねん昭和しょうわ6ねん)12月14にち-1932ねん昭和しょうわ7ねん)5がつ26にち
  • 小山こやま松寿しょうじゅ(1932ねん昭和しょうわ7ねん)5がつ26にち-1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ20日はつか
  • 松田まつだ源治げんじ(1933ねん昭和しょうわ8ねん)1がつ20日はつか-1934ねん昭和しょうわ9ねん)1がつ21にち
  • 大麻たいま唯男ただお(1934ねん昭和しょうわ9ねん)1がつ21にち-1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ20日はつか
  • 川崎かわさき卓吉たくきち(1935ねん昭和しょうわ10ねん)1がつ20日はつか-1936ねん昭和しょうわ11ねん)3がつ27にち
  • 永井ながい柳太郎りゅうたろう(1936ねん昭和しょうわ11ねん)4がつ28にち-1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ7にち
  • 小泉こいずみ又次郎またじろう(1937ねん昭和しょうわ12ねん)5がつ7にち-1938ねん昭和しょうわ13ねん)4がつ18にち
  • かつ正憲まさのり(1938ねん昭和しょうわ13ねん)4がつ18にち-1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ27にち
  • 内ヶ崎うちがさき作三郎さくさぶろう(1939ねん昭和しょうわ14ねん)4がつ27にち-1940ねん昭和しょうわ15ねん)4がつ26にち
  • 桜井さくらいへいろう(1940ねん昭和しょうわ15ねん)4がつ26にち-1940ねん昭和しょうわ15ねん)8がつ15にち[35]

総務そうむ委員いいん

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獲得かくとく議席ぎせき

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ここでいう「議会ぎかい」とは衆議院しゅうぎいんのことで、衆議院しゅうぎいん優位ゆういせいしめすものである。立憲りっけん民政みんせいとう貴族きぞくいん枢密院すうみついん対峙たいじした[20]

出典しゅってん

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  30. ^ 昭和しょうわ政党せいとう』184-185ぺーじ
  31. ^ 昭和しょうわ政党せいとう』200ぺーじ
  32. ^ 昭和しょうわ政党せいとう』157ぺーじ、417ぺーじ
  33. ^ 昭和しょうわ政党せいとう』188ぺーじ、417ぺーじ
  34. ^ a b 昭和しょうわ政党せいとう』284ぺーじ
  35. ^ はたいく彦『日本にっぽん官僚かんりょう事典じてん 1868-2000』2001ねん東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい
  36. ^ 村川むらかわ一郎いちろうへん日本にっぽん政党せいとう辞典じてん 』2000ねん国書刊行会こくしょかんこうかい
  37. ^ a b c 昭和しょうわ政党せいとう』417ぺーじ
  38. ^ a b 昭和しょうわ政党せいとう』416ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 粟屋あわや憲太郎けんたろう ちょ文庫ぶんこばん 昭和しょうわ歴史れきし だい6かん 昭和しょうわ政党せいとう小学館しょうがくかん1988ねん11月1にちだい1はんだい1さつ発行はっこうISBN 4-09-401106-4
  • 井上いのうえ寿一ひさいち政友せいゆうかい民政みんせいとう戦前せんぜんだい政党せいとうせいなにまなぶか』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2012ねんISBN 978-4-12-102192-2 

関連かんれん文献ぶんけん

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  • 立憲りっけん民政みんせいとう編纂へんさん立憲りっけん民政みんせいとう立憲りっけん民政みんせいとう編纂へんさん、1934ねんNDLJP:1280837 
  • 立憲りっけん民政みんせいとう編纂へんさん立憲りっけん民政みんせいとう. 上巻じょうかん立憲りっけん民政みんせいとう編纂へんさん、1935ねんNDLJP:1449425 
  • 立憲りっけん民政みんせいとう編纂へんさん立憲りっけん民政みんせいとう. 下巻げかん立憲りっけん民政みんせいとう編纂へんさん、1935ねんNDLJP:1449434 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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