櫻内 幸雄
さくらうち ゆきお | |
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6 | |
1928 | |
その | |
(1920 |
来歴 ・人物
また
その
略 年譜
- 1880
年 (明治 13年 ) - 1893
年 (明治 26年 )- -
伯父 の世話 で、横浜 製紙 会社 という活版 所 に雇 われ、日給 六 銭 の文選 工 となった[4]。
- -
- 1895
年 (明治 28年 ) - 1896
年 (明治 29年 )- -
万 朝 報 社 職工 。
- -
- 1902
年 (明治 35年 )- -
日本 電報 通信 社 記者 。
- -
- 1907
年 (明治 40年 )- -
小倉 競馬 会 常務 理事 。
- -
- 1908
年 (明治 41年 )- -
東洋 馬匹 改良 会社 常務 取締役 。
- -
- 1909
年 (明治 42年 )- -
埼玉 電灯 株式会社 社長 。
- -
- 1917
年 (大正 6年 )- -
岡山 水力 電気 会社 社長 。
- -
- 1920
年 (大正 9年 )- -
第 14回 衆議院 議員 総 選挙 に当選 し、衆議院 議員 。
- -
- 1925
年 (大正 14年 )- -
揖斐川 電気 株式会社 (現 イビデン)社長 。
- -
- 1927
年 (昭和 2年 ) - 1931
年 (昭和 6年 ) - 1933
年 (昭和 8年 )- - 8
月 、出雲 電気 社長 に就任 [7]。
- - 8
- 1939
年 (昭和 14年 )- -
農林 大臣 に就任 。
- -
- 1940
年 (昭和 15年 )- -
大蔵 大臣 に就任 。
- -
- 1945
年 (昭和 20年 )- -
内閣 顧問 、枢密 顧問 官 。
- -
- 1946
年 (昭和 21年 )- -
公職 追放 。
- -
栄典
位階
勲章 等
エピソード
少年 時代
ときによると、その
家族 ・親族
桜 内 家
- (
島根 県 能義 郡 広瀬 町 (現 安来 市 )、鳥取 県 西伯 郡 米子 町 (現 米子 市 )・西伯 郡 境 町 (現 境港 市 )、東京 都 港 区 ) 櫻 内 家 は旧幕 時代 には広瀬 藩 主 ・松平 佐 渡守 の家臣 であった[13]。広瀬 藩 は3万 石 の小 藩 であるが、藩主 松平 家 は徳川 将軍家 の一門 で、したがって小 藩 とはいいながら格式 は高 く、藩主 はもとより藩士 の末 に至 るまでかなり自尊心 が強 かったようである[13]。今 でいうエリート意識 である[13]。祖父 ・四郎 左衛門 以前 の系譜 については、現存 する公文書 には記載 されていない[14]。明治 新 政府 になってから、地方 官吏 の手 によってつくられた戸籍 原簿 は、四郎 左衛門 からはじまっている[14]。桜 内 家 には、地方 の旧家 でよく見 せられるような、もったいぶった系図 がない[14]。四郎 左衛門 よりさかのぼって語 りえないのはいささか残念 である[15]。
祖父 ・四郎 左衛門 (広瀬 藩士 )広瀬 藩 の藩士 のなかに桜内 四郎 左衛門 という武士 があった[13]。役 は側用人 だった[13]。側用人 というのは、早 くいえば殿様 の秘書 で、つねに側近 にあって殿 に奉仕 するのが日常 の任務 であった[14]。桜内 四郎 左衛門 は、役 は側用人 であるが単 なる秘書 役 的 な存在 ではなかったらしい[14]。頭脳 きわめて明敏 、ことに理財 の道 に長 け、松平 家 広瀬 藩 の財政 経済 については、もっぱら指導 的 な役割 りを担当 していた[14]。のちに明治維新 になってからは、彼 は藩 に新設 された参事 の重任 を負 い、藩主 松平 直巳 を補佐 して藩 財政 の建 て直 しから、ひいては人事 一般 についても根本 的 な方針 を確立 し、廃 藩 という非常時 局 に対処 して主家 をあやまらしめなかった[14]。明治 6年 (1873年 )に、四郎 左衛門 は隠居 の届出 をして、家督 を長男 の和 一郎 にゆずった[15]。
祖母 ・トセ- あきらかにその
人 となりを語 る資料 を欠 く[15]。
- あきらかにその
父 ・和 一郎 (広瀬 藩士 、島根 県 士族 )- 1850
年 (嘉 永 3年 )生 [16] -没 廃 藩 の頃 、松平 家 からの頂戴 金 と士族 に対 する政府 の御下 げ渡 し金 とで、櫻 内 家 には一応 すくなからぬ金 がはいった[17]。それを資本 にして和 一郎 はあれこれと事業 に手 を出 したが、世 にいう“士族 の商法 ”でうまくいかず、次第 に食 いつぶしてしまった[17]。隠居 した四郎 左衛門 が、広瀬 藩 きっての理財 家 であったことを考 えると、和 一郎 の失敗 はいささか首 をかしげたくなるのであるが、所詮 は激動 する社会 の波 に乗 り切 れなかったのであろう[17]。和 一郎 の手腕 才能 をうんぬんする前 に、明治維新 という革命 によって起 こされた社会 変動 の大 きさと深 さとを改 めて考 える必要 がある[17]。和 一郎 は、1885年 (明治 18年 )鳥取 県 西伯 郡 米子 町 (現 米子 市 )に一家 を移 し、水車 業 を経営 しようとした[18]。和 一郎 と綾 女 は、境遇 の激変 に負 けることなく力 を合 わせて馴 れぬ商売 と取 り組 んだので、どうやら糊口 に窮 することはなかった[18]。ところが1886年 (明治 19年 )秋 に山陰 地方 一帯 は大 水害 を蒙 ってしまった[18]。せっかく手 に入 れた水車 はあっというまに破壊 され、家具 家財 いっさいは、あるいは水 びたしとなり、あるいは流失 するという有様 で惨憺 たるものであった[18]。和 一郎 夫婦 は、手 をとり合 って自分 たちの不幸 を嘆 くほかなかった[19]。気 を取 りなおして彼 らはふたたび安住 の地 を求 めて、郡 内 の境 町 (現 境港 市 )に移 った[19]。幸雄 が数 え年 7歳 の秋 である[19]。小間物 や雑貨 を仕入 れて小売 の店 をやってみたが、これもうまくいかなかった[11]。次 に豆腐 屋 をはじめた[11]。商売 は軌道 に乗 り、繁昌 したという[20]。
- 1850
母 ・綾 (広瀬 藩 儒学 者 ・堀 重 兵衛 の娘 [16])姉 ・清 女 、照 女 弟 ・辰郎 (実業 家 、政治 家 )
- 1912
年 (明治 45年 )5月 生 - 2003年 (平成 15年 )7月 没
長女 ・文子 (福岡 県 、木下 俊夫 の妻 )- 1913
年 (大正 2年 )生 -
- 1913
二女 ・淑子 (よしこ[23]、宮城 県 、実業 家 嶺 駒 夫 の妻 )- 1916
年 (大正 5年 )生 -
- 1916
三 女 ・俊子 (福岡 県 、実業 家 太田 清之助 の妻 )- 1918
年 (大正 7年 )生 -
同 息子 ・太田 誠一 (政治 家 )
- 1918
四 女 ・経子 (埼玉 県 、実業 家 新井 章治 (元 東京電力 会長 )の長男 泰治 の妻 )- 1919
年 (大正 8年 )生 -
- 1919
他家
栄典
- 1940
年 (昭和 15年 )8月 15日 -紀元 二 千 六 百 年 祝典 記念 章 [25]
脚注
- ^ 『
第 十 版 大衆 人事 録 』サ九 九 頁 。 - ^ a b c d e f g h i 『
政治 家人 名 事典 』235頁 。 - ^ 「
高架 電気 鉄道 計画 」東京 朝日新聞 明治 39年 12月 10日 『新聞 集成 明治 編年史 第 十 三 巻 』(国立 国会図書館 近代 デジタルライブラリー) - ^ 『
櫻 内 家 の人々 』47頁 。 - ^ a b 『
昭和 の政党 』419頁 。 - ^ 『
昭和 の政党 』262頁 。 - ^
中国電力 (株 )『中国地方 電気 事業 史 』(1974.12)渋沢 社 史 データベース - ^ a b c d e f 「
桜内 幸雄 」 アジア歴史 資料 センター Ref.A06051182800 - ^ 『
官報 』第 1310号 「叙任 及辞令 」1931年 5月 15日 。 - ^
中野 文庫 -旧 ・勲一等 瑞宝章 受章 者 一覧 (戦前 の部 ) - ^ a b c d 『
櫻 内 家 の人々 』35頁 。 - ^ a b c d e 『
櫻 内 家 の人々 』36頁 。 - ^ a b c d e 『
櫻 内 家 の人々 』26頁 。 - ^ a b c d e f g 『
櫻 内 家 の人々 』27頁 。 - ^ a b c 『
櫻 内 家 の人々 』28頁 。 - ^ a b c d 『
櫻 内 家 の人々 』29頁 。 - ^ a b c d 『
櫻 内 家 の人々 』32頁 。 - ^ a b c d 『
櫻 内 家 の人々 』33頁 。 - ^ a b c 『
櫻 内 家 の人々 』34頁 。 - ^ 『
櫻 内 家 の人々 』38頁 。 - ^ a b c d 『
櫻 内 家 の人々 』75頁 。 - ^ 『
櫻 内 家 の人々 』100-101頁 。 - ^ 『
櫻 内 家 の人々 』130頁 。 - ^ a b c d 『
櫻 内 家 の人々 』45頁 。 - ^ 『
官報 』第 4438号 ・付録 「辞令 二 」1941年 10月 23日 。
参考 文献
関連 項目
外部 リンク
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