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有馬頼寧 - Wikipedia

有馬ありま頼寧よりやす

日本にっぽん政治せいじ

有馬ありま 頼寧よりやす(ありま よりやす、きゅう字体じたい有馬ありま 賴寧よりやす󠄀1884ねん明治めいじ17ねん12月17にち[3] - 1957ねん昭和しょうわ32ねん1がつ9にち)は、日本にっぽん政治せいじ農政のうせい学者がくしゃ篤志とくしきゅう筑後ちくごこく久留くるべいはんおも有馬ありまだい15だい当主とうしゅ伯爵はくしゃく

有馬ありまありま 頼寧よりやすよりやす
有馬ありま 賴寧よりやす󠄀
生年月日せいねんがっぴ 1884ねん12月17にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょうげん東京とうきょう
ぼつ年月日ねんがっぴ (1957-01-09) 1957ねん1がつ9にち(72さいぼつ
出身しゅっしんこう 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのう卒業そつぎょうげん東京大学とうきょうだいがく農学部のうがくぶ
ぜんしょく 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのう講師こうし
現職げんしょく 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい理事りじちょう
所属しょぞく政党せいとう立憲りっけん政友せいゆうかい→)
研究けんきゅうかい
称号しょうごう 勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
配偶はいぐうしゃ 有馬ありま貞子さだこ
子女しじょ 三男さんなん有馬ありま頼義よりちか
親族しんぞく 祖父そふ岩倉いわくら具視ともみ(外務がいむきょう)
伯父おじ久我くがとおるひさ(貴族きぞくいん議員ぎいん)
伯父おじ岩倉いわくら具定ぐじょう(宮内みやうち大臣だいじん)
叔父おじ伊達だてはじめひね(貴族きぞくいん議員ぎいん)
叔父おじ有馬ありまよりゆきこれ(貴族きぞくいん議員ぎいん)
叔父おじ岩倉いわくらみち(貴族きぞくいん議員ぎいん)
おとうと安藤あんどう信昭のぶあき(貴族きぞくいん議員ぎいん)
おとうと松田まつだ正之まさゆき(貴族きぞくいん議員ぎいん)
義弟ぎてい奥平おくだいらあきらきょう(貴族きぞくいん議員ぎいん)
義弟ぎてい稲田いなだあきらうえ(貴族きぞくいん議員ぎいん)
義弟ぎてい保科ほしなただしあきら(貴族きぞくいん議員ぎいん)
義弟ぎてい小松こまつ輝久てるひさ(貴族きぞくいん議員ぎいん)
義弟ぎていあら芳徳よしのり(貴族きぞくいん議員ぎいん)
むすめ婿むこ斎藤さいとうひとし(貴族きぞくいん議員ぎいん)
従兄じゅうけい久我くがつねどおり(貴族きぞくいん議員ぎいん)
まご亀井かめいひさきょう(国土庁こくどちょう長官ちょうかん)
まご亀井かめい亜紀子あきこ(衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)

内閣ないかく だい1近衛このえないかく
在任ざいにん期間きかん 1937ねん6月4にち - 1939ねん1がつ5にち

選挙せんきょ伯爵はくしゃく議員ぎいん
在任ざいにん期間きかん 1929ねん8がつ3にち[1] - 1940ねん9月19にち[2]

選挙せんきょ 福岡ふくおかけんだい5選挙せんきょ
当選とうせん回数かいすう 1かい
在任ざいにん期間きかん 1924ねん5月11にち - 1927ねん4がつ1にち
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戦前せんぜん農政のうせい学者がくしゃとして活動かつどう農民のうみん運動うんどう支援しえんしたのち農林のうりん大臣だいじんなどを歴任れきにん戦後せんご日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかいだい2だい理事りじちょうとして競馬けいばかい発展はってん尽力じんりょく日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかいにておこなわれるGⅠ競走きょうそう有馬ありま記念きねん」の名前なまえ有馬ありま頼寧よりやす由来ゆらいする。中央ちゅうおう競馬けいば農民のうみん運動うんどうほか部落ぶらく解放かいほう運動うんどう卓球たっきゅうプロ野球やきゅう発展はってんにもたずさわった。

経歴けいれき

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きゅう筑後ちくごこく久留くるべいはんしゅ有馬ありま当主とうしゅ伯爵はくしゃく有馬ありまよりゆきまん長男ちょうなんとして東京とうきょうまれる[4]はは岩倉いわくら具視ともみじょ恒子つねこのち寛子ひろこ改名かいめい)。頼寧よりやす出生しゅっしょうからほどなく、はは実家じっかされて離縁りえんされた(のちもり有礼ありのり後妻ごさいとなる)。ちち戸田とだただしとも長女ちょうじょ豊子とよこ再婚さいこんしたため、頼寧よりやすあね禎子さだこ邸宅ていたくのうち嫡祖はは・韶子のむねそだった。4さいころ日本橋にほんばし本宅ほんたく焼亡しょうぼうし、浅草あさくさ橋場はしば別邸べってい転居てんきょする。この邸宅ていたく下町したまちちかかったため、幼少ようしょう近所きんじょ下町したまち子供こどもたちとあそんだという。1890ねん明治めいじ23ねんあき学習がくしゅういん初等しょとう入学にゅうがく1896ねん明治めいじ29ねん学習がくしゅういん中等ちゅうとうげん 学習がくしゅういん高等こうとう)に進学しんがくし、教師きょうしいえ下宿げしゅくした。中等ちゅうとう在学ざいがくちゅう1903ねん明治めいじ36ねん)2がつ北白川宮能久親王きたしらかわのみやよしひさしんのう次女じじょ貞子さだこ結婚けっこん貞子さだこ結婚けっこんともな華族かぞく女学校じょがっこう退学たいがくした。同年どうねん頼寧よりやす旧制きゅうせい学習がくしゅういん高等こうとう進学しんがくし、1906ねん明治めいじ39ねん東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのうげん農学部のうがくぶ)に入学にゅうがく1910ねん明治めいじ43ねん)に大学だいがく卒業そつぎょう、1ねん2かげつ欧州おうしゅう外遊がいゆうする。帰国きこくのう商務省しょうむしょう入省にゅうしょうして農政のうせいたずさわり、東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのう講師こうし助教授じょきょうじゅとなり母校ぼこう教鞭きょうべんをとった。夜間やかん学校がっこう開校かいこう女子じょし教育きょういく農民のうみん救済きゅうさい部落ぶらく解放かいほう運動うんどう震災しんさい義捐ぎえんなどの社会しゃかい活動かつどうひろ活躍かつやくし、のうやま漁村ぎょそん文化ぶんか協会きょうかい初代しょだい会長かいちょう日本にっぽん農民のうみん組合くみあい創立そうりつにもかかわった。

1924ねん立憲りっけん政友せいゆうかいからだい15かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ出馬しゅつばして当選とうせんした、立候補りっこうほたって有馬ありまによる慈善じぜん事業じぎょう効果こうか期待きたいして住居じゅうきょのある東京とうきょう選挙せんきょまた旧藩きゅうはんである福岡ふくおか2からの立候補りっこうほ検討けんとうしたが、既成きせい勢力せいりょく状況じょうきょう考慮こうりょし、結局けっきょくおなじく旧藩きゅうはんである福岡ふくおか12より出馬しゅつばした。華族かぞく制度せいど廃止はいしとなえていたが、衆議院しゅうぎいん議員ぎいん任期にんきちゅうよりゆきかた突然とつぜんにより有馬ありまいで伯爵はくしゃく叙爵じょしゃくしたのち華族かぞく互選ごせんによる貴族きぞくいん議員ぎいんげられ、1932ねん斎藤さいとう内閣ないかく農林のうりん政務次官せいむじかん1936ねん12月から1937ねん1がつにかけて自宅じたく永井ながい柳太郎りゅうたろうはやしずくじゅうろう結城ゆうき豊太郎ほうたろう中島なかじま知久平ちくへいらと近衛このえ文麿ふみまろ首班しゅはんにする新党しんとう結成けっせいはな荻窪おぎくぼ会談かいだんひらいており、これは頼寧よりやす自身じしんによれば林内りんないかく準備じゅんびでもあった可能かのうせいがあるという(永井ながい頼寧よりやす中島なかじまはやし総理そうりから入閣にゅうかくさそいがたものの、拒否きょひしている)[5]。1937ねんだい1近衛このえないかく農林のうりん大臣だいじんとなった。にちちゅう戦争せんそう拡大かくだいするなか近衛このえ側近そっきんとして大政たいせい翼賛よくさんかい設立せつりつかかわり、1940ねん翼賛よくさんかい初代しょだい事務じむ局長きょくちょう就任しゅうにんするが、翌年よくねん翼賛よくさんかい改組かいそにより辞任じにん、これを公職こうしょく退しりぞいた。また、1936ねんより当時とうじ職業しょくぎょう野球やきゅう東京とうきょうセネタース大洋たいようぐん個人こじん経営けいえいしていた。

だい世界せかい大戦たいせん太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせん1945ねん昭和しょうわ20ねん12月2にち連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい農相のうしょう大蔵省おおくらしょう顧問こもんなどの経歴けいれき有馬ありま逮捕たいほするよう日本にっぽん政府せいふ命令めいれいした(だいさん逮捕たいほしゃ59めいちゅう1人ひとり[6]。 Aきゅう戦犯せんぱん容疑ようぎしゃとして巣鴨すがもプリズン拘置こうちされるが無罪むざいみとめられ釈放しゃくほう公職こうしょく追放ついほう[7]、その引退いんたい生活せいかつおくった。頼寧よりやすは1956ねん時事通信社じじつうしんしゃのインタビューで、巣鴨すがもプリズンに拘置こうちされたことにかんし「なん理由りゆう自分じぶん戦犯せんぱんになったのかわからない」といい、敗戦はいせんのことにかんしても「ほぐせなかった。満州まんしゅう事変じへん太平洋戦争たいへいようせんそう敗戦はいせんなんとなくてしまった」とコメントし、インタビュアーをおどろかせている。

1955ねん農林省のうりんしょう招請しょうせいされて安田やすだ左衛門さえもん後任こうにんとして日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかいだい2だい理事りじちょう就任しゅうにん有馬ありま特例とくれいほう公布こうふ中央ちゅうおう競馬けいば運営うんえい方策ほうさく要綱ようこうあん着手ちゃくしゅ中山なかやま競馬けいばじょうをはじめとする競馬けいば施設しせつ改築かいちく競馬けいば国際こくさい協定きょうてい加入かにゅう競馬けいば実況じっきょう中継ちゅうけい放送ほうそう強化きょうかなど、競馬けいば発展はってん大衆たいしゅう尽力じんりょくした。中央ちゅうおう競馬けいばのG1レースのひとつである有馬ありま記念きねん頼寧よりやす創設そうせつした「中山なかやまグランプリ」を頼寧よりやす死後しご競馬けいばへの功績こうせきたたえるため改称かいしょうした(くわしくは後述こうじゅつ)。

1957ねん1がつ急性きゅうせい肺炎はいえんのため72さい逝去せいきょした。墓所はかしょ渋谷しぶや祥雲寺しょううんじ。「有馬ありま頼寧よりやす関係かんけい文書ぶんしょ」が国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんにある。座右ざゆうめいは、「もろもろの しん やなぎまかすべし」。

篤志とくし事業じぎょう展開てんかい

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大正たいしょう年間ねんかんには、社会しゃかい運動うんどう奉仕ほうし活動かつどう目覚めざめ、多額たがく私財しざいとうじる。結果けっか有馬ありま家計かけいかたむいたところに、昭和しょうわ金融きんゆう恐慌きょうこうがとどめをすこととなった[8]父親ちちおや死去しきょした1927ねんには相続そうぞくぜい支払しはらいに困窮こんきゅうしたという。これ以降いこう社会しゃかい運動うんどうへの参加さんかには一線いっせんくこととなり、政治せいじ活動かつどう没頭ぼっとうする。

  • 1919ねん 夜間やかん中学ちゅうがくである信愛しんあい学園がくえん設立せつりつ
  • 1920ねん 浅草あさくさ貧困ひんこんしゃけの無料むりょう診療しんりょうしょ設立せつりつ
  • 1921ねん 日本にっぽん教育きょういくしゃ協会きょうかい設立せつりつ教育きょういく機会きかい均等きんとうはかるとともに、教員きょういん地位ちい向上こうじょう目指めざみをすすめる。
  • 1921ねん どうあいかい設立せつりつし、部落ぶらく差別さべつ解消かいしょうはか運動うんどうすすめる。翌年よくねん全国ぜんこく水平すいへいしゃ設立せつりつされると賛同さんどうし、演説えんぜつなどをける。
  • 1923ねん 同情どうじょうえん乳児にゅうじ自宅じたく設立せつりつし、関東大震災かんとうだいしんさいにより困窮こんきゅうした子供こどもたち面倒めんどうる。 

スポーツ振興しんこうへの貢献こうけん

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プロ野球やきゅう

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頼寧よりやす様々さまざま政治せいじ社会しゃかい活動かつどうほか、スポーツにたいする造詣ぞうけいふかかったことでも有名ゆうめいで、1936ねん結成けっせいされた職業しょくぎょう野球やきゅう球団きゅうだん東京とうきょうセネタース」[注釈ちゅうしゃく 1]のオーナーをつとめた。日本にっぽん野球やきゅう連盟れんめい日本にっぽん野球やきゅうほう国会こっかいひとし相談役そうだんやく歴任れきにん1969ねん野球やきゅう殿堂でんどうりした。

日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかいだい2だい理事りじちょう就任しゅうにん頼寧よりやす尽力じんりょくにより1955ねん1がつ施行しこうされた「日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい国庫こっこ納付のうふきんとう臨時りんじ特例とくれいかんする法律ほうりつ」(通称つうしょう有馬ありま特例とくれいほう」)は、きん国庫こっこへの納付のうふ免除めんじょされた臨時りんじ競馬けいば施行しこう可能かのうとする法律ほうりつであり、臨時りんじ競馬けいば売上うりあげきん競馬けいばじょう施設しせつなどハードめん整備せいびにあてることで中央ちゅうおう競馬けいば発展はってん基礎きそきずいた。

また日本にっぽん中央ちゅうおう競馬けいばかい史上しじょう、もっともファンサービス拡充かくじゅうつとめた理事りじちょうとしてられる。これには競馬けいばまったくの門外漢もんがいかんだった頼寧よりやすゆえ柔軟じゅうなん発想はっそうがあったからとされる。具体ぐたいてきにはPR機関きかん中央ちゅうおう競馬けいばサービスセンター創設そうせつし、日本短波放送にほんたんぱほうそうによるレースの実況じっきょう放送ほうそう開始かいしし、競馬けいばじょううち託児たくじしょゆう園地えんち設置せっちするなどのほか、1956ねんにプロ野球やきゅうオールスターゲームのように人気にんき投票とうひょう出走しゅっそうえらぶレースでファンによろこんでもらおうと、中央ちゅうおう競馬けいばのオールスターせん発案はつあん競走きょうそうめいを「中山なかやまグランプリ」として創設そうせつした[注釈ちゅうしゃく 2]

なお、中山なかやまグランプリはだい1かい盛況せいきょう開催かいさいしたが、それからほどなく頼寧よりやす急性きゅうせい肺炎はいえんにて逝去せいきょ、そのとしれに開催かいさいされただい2かい競走きょうそうからは、これまでの様々さまざま頼寧よりやす功績こうせきとなえ「有馬ありま記念きねん」と改称かいしょうされ施行しこうされている。

卓球たっきゅう

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日本にっぽん卓球たっきゅう協会きょうかい1931ねん昭和しょうわ6ねん)に『日本にっぽん卓球たっきゅうかい』として設立せつりつされたさいには、頼寧よりやす総裁そうさいとなり、宇佐うさがわ知義ともよし初代しょだい会長かいちょう大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん軍人ぐんじん)ととも日本にっぽん卓球たっきゅう基礎きそづくりをになった[9]

略歴りゃくれき

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  • 学習がくしゅういん中等ちゅうとう学習がくしゅういん高等こうとう卒業そつぎょう
  • 1910ねん7がつ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがくのう大学だいがく農学のうがく卒業そつぎょう
  • 1918ねん2がつ 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農業のうぎょう教員きょういん養成ようせいしょ講師こうし
  • 1920ねん11月 東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく農学部のうがくぶ助教授じょきょうじゅ(〜1924ねん3がつ
  • 1924ねん5がつ 衆議院しゅうぎいん議員ぎいん(〜1927ねん4がつ
  • 1926ねん8がつ 貴族きぞくいん議員ぎいん(〜1937ねん9がつ
  • 1929ねん6がつ 農林のうりん政務次官せいむじかん(〜1930ねん4がつ
  • 1930ねん4がつ 産業さんぎょう組合くみあい中央金庫ちゅうおうきんこ理事りじちょう(〜1934ねん6がつ
  • 1934ねん6がつ 農林のうりん大臣だいじん(〜1936ねん1がつ
  • 1955ねん4がつ 日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい理事りじちょう(〜1957ねん1がつ

著作ちょさく

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  • かみなりあん雑記ざっき』(改造かいぞうしゃ
  • 友人ゆうじん近衛このえ』(弘文こうぶんどう
  • 政界せいかい道中どうちゅう』(日本にっぽん出版しゅっぱん協同きょうどう
  • はなうりじい』(全国ぜんこく農業のうぎょう出版しゅっぱん
  • ななじゅうねん回想かいそう』(そうもとしゃ
  • 『ひとりごと』(作品社さくひんしゃ)   
  • やま暮色ぼしょく』(講談社こうだんしゃ

栄典えいてん

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親族しんぞく

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父母ちちはは
兄弟きょうだい姉妹しまい
妻子さいし
その親族しんぞく

私生活しせいかつ

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社会しゃかい運動うんどう慈善じぜん活動かつどうとうじた「異色いしょく華族かぞく」でありながら、女性じょせい関係かんけい派手はでなことでは有名ゆうめいであり、本人ほんにんにしていたようであるが[11]女癖おんなぐせわるさは生涯しょうがいなおらなかった。

井深いぶか八重やえ友人ゆうじんであったまつしんみどり美登里みどり)は千葉ちばけん佐原さわらかく病院びょういん設立せつりつしゃ孫娘まごむすめで、同志社どうししゃ女学校じょがっこう卒業そつぎょう有馬ありま行儀ぎょうぎ見習みならいにていた令嬢れいじょうだったが、いち解雇かいこしておもいをったもののふたたびよりをもどし、一時いちじ廃嫡はいちゃく覚悟かくごアメリカする覚悟かくごであった。しかし、倉富くらとみ勇三郎ゆうさぶろう有馬ありま伯爵はくしゃく家政かせい参与さんよしゃ画策かくさくによってわかれた。

この事件じけんの4ねんった博多はかた芸妓げいぎ舟子ふなここと福田ふくだめぐみは、頼寧よりやす衆議院しゅうぎいん議員ぎいん選挙せんきょ活動かつどうちゅうに2000えん当時とうじ)で落籍ひかした人物じんぶつである。のち頼寧よりやすいのちによって上京じょうきょうし、有馬ありま伯爵はくしゃくていからあるいてすうぶんしょ別邸べっていかまえてむ。選挙せんきょ活動かつどうちゅう愛人あいじん入手にゅうしゅしたとして一般いっぱん庶民しょみん一族いちぞくからの非難ひなんはげしかったが、以前いぜんまつしんみどりとのなかまわりに強引ごういんかれて苦悩くのうした反動はんどうのせいで、ほとんどかいさなかった。つぎめぐみ頼寧よりやす晩年ばんねんには実質じっしつてき本妻ほんさいし、貞子さだこ夫人ふじんなやませる存在そんざいであった。息子むすこ頼義よりちか小説しょうせつにもたびたび題材だいざいとしてげられている[12]

こいおお伯爵はくしゃくられた有馬ありま日記にっきむと上記じょうき2人ふたりふくめ、その生涯しょうがいすくなくとも4にん愛人あいじんがいたことが判明はんめいしており、そのにも多数たすう愛人あいじんかかえていたとされる。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 1945ねん新設しんせつされたセネタースとは、出身しゅっしんしゃ創設そうせつ関与かんよした以外いがい直接ちょくせつつながりはない。
  2. ^ だい1かいのタイトルは当初とうしょこれを仮題かだいとし、ファンに名称めいしょう募集ぼしゅうしてもらったが、採用さいようさくがなく、仮題かだいがそのまま正式せいしきめいとなった。後述こうじゅつのとおりだい1かい終了しゅうりょう直後ちょくご有馬ありま逝去せいきょされ「有馬ありま記念きねん」となってからは「だい〇〇かいグランプリ」として副題ふくだいけられている

出典しゅってん

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  1. ^ 貴族きぞくいん要覧ようらんへい)』昭和しょうわ21ねん12がつぞうてい貴族きぞくいん事務じむきょく、1947ねん、38ぺーじ
  2. ^ 官報かんぽうだい4117ごう昭和しょうわ15ねん9がつ25にち
  3. ^ 有馬ありま 頼寧よりやす”. 野球やきゅう殿堂でんどう博物館はくぶつかん. 2021ねん1がつ29にち閲覧えつらん
  4. ^ 上田うえだただしあきら津田つだ秀夫ひでお永原ながはらけい藤井ふじい松一しょういち藤原ふじわらあきら、『コンサイス日本人にっぽんじんめい辞典じてん だい5はん』、株式会社かぶしきがいしゃ三省堂さんせいどう、2009ねん 65ぺーじ
  5. ^ ほおひつじしんじ永井ながい柳太郎りゅうたろうろん(2・かん)-政党せいとう政治せいじつうじて政党せいとう政治せいじ崩壊ほうかい過程かてい-』北大ほくだい法学ほうがく論集ろんしゅう
  6. ^ 梨本なしもとみや平沼ひらぬま平田ひらたじゅうきゅうにん逮捕たいほ命令めいれい昭和しょうわ20ねん12月4にち 毎日新聞まいにちしんぶん東京とうきょう))『昭和しょうわニュース辞典じてんだい8かん 昭和しょうわ17ねん/昭和しょうわ20ねん』p341
  7. ^ 総理そうりちょう官房かんぼう監査かんさ へん公職こうしょく追放ついほうかんする覚書おぼえがき該当がいとうしゃ名簿めいぼ日比谷ひびや政経せいけいかい、1949ねん332ぺーじNDLJP:1276156 
  8. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、480ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  9. ^ 議員ぎいん役員やくいん名誉めいよ役員やくいん加盟かめい団体だんたい代表だいひょうしゃ 名簿めいぼ』(PDF)(プレスリリース)日本にっぽん卓球たっきゅう協会きょうかい、2016ねん6がつ28にちhttp://www.jtta.or.jp/Portals/0/images/association/executive_committee/11yakuin_hyougiin.pdf#page=52017ねん1がつ23にち閲覧えつらん 
  10. ^ 伊藤いとう真希まき阪谷さかたに芳郎よしお家庭かてい教育きょういく」『現代げんだい社会しゃかい研究けんきゅう研究けんきゅう報告ほうこくだい6かん愛知淑徳大学あいちしゅくとくだいがく大学院だいがくいん現代げんだい社会しゃかい研究けんきゅう、2011ねん3がつ4にち、57-68ぺーじNAID 120005038574 
  11. ^ 山本やまもと一生かずお 2007, p. 214.
  12. ^ 有馬ありま頼義よりちか 1967.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
山崎やまざき達之たつゆき
農林のうりん大臣だいじん
1937ねん - 1939ねん
次代じだい
櫻内さくらうち幸雄ゆきお
その役職やくしょく
先代せんだい
安田やすだ左衛門さえもん
日本中央競馬会にっぽんちゅうおうけいばかい理事りじちょう
1955ねん - 1957ねん
次代じだい
酒井さかい忠正ただまさ
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
有馬ありまよりゆきまん
伯爵はくしゃく
久留くるよね有馬ありまだい2だい
1927ねん - 1947ねん
次代じだい
華族かぞく制度せいど廃止はいし
当主とうしゅ
先代せんだい
有馬ありまよりゆきまん
きゅう久留くるべいはん有馬ありま
だい15だい
次代じだい
有馬ありま頼義よりちか