大正年間には、社会運動や奉仕活動に目覚め、多額の私財を投じる。結果、有馬家の家計が傾いたところに、昭和金融恐慌がとどめを刺すこととなった[8]。父親が死去した1927年には相続税の支払いに困窮したという。これ以降、社会運動への参加には一線を引くこととなり、政治活動へ没頭する。
- 1919年 夜間中学である信愛学園を設立。
- 1920年 浅草に貧困者向けの無料診療所を設立。
- 1921年 日本教育者協会を設立。教育の機会均等を図ると共に、教員の地位向上を目指す取り組みを進める。
- 1921年 同愛会を設立し、部落差別の解消を図る運動を進める。翌年、全国水平社が設立されると賛同し、演説などを引き受ける。
- 1923年 同情園乳児部を自宅に設立し、関東大震災により困窮した子供達の面倒を見る。
頼寧は様々な政治・社会活動の他、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名で、1936年に結成された職業野球球団「東京セネタース」[注釈 1]のオーナーを務めた。日本野球連盟→日本野球報国会等の相談役を歴任。1969年に野球殿堂入りした。
日本中央競馬会第2代理事長に就任。頼寧の尽力により1955年1月に施行された「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」(通称「有馬特例法」)は、売り上げ金の国庫への納付が免除された臨時競馬の施行を可能とする法律であり、臨時競馬の売上金を競馬場の施設などハード面の整備にあてることで中央競馬発展の基礎を築いた。
また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られる。これには競馬は全くの門外漢だった頼寧故の柔軟な発想があったからとされる。具体的にはPR機関中央競馬サービスセンターを創設し、日本短波放送によるレースの実況放送を開始し、競馬場内に託児所や遊園地を設置するなどのほか、1956年にプロ野球のオールスターゲームのように人気投票で出走馬を選ぶレースでファンに喜んでもらおうと、中央競馬のオールスター戦を発案、競走名を「中山グランプリ」として創設した[注釈 2]。
なお、中山グランプリは第1回を盛況に開催したが、それから程なく頼寧が急性肺炎にて逝去、その年の暮れに開催された第2回競走からは、これまでの様々な頼寧の功績を称え「有馬記念」と改称され施行されている。
日本卓球協会が1931年(昭和6年)に『日本卓球会』として設立された際には、頼寧が総裁となり、宇佐川知義初代会長(大日本帝国海軍軍人)と共に日本卓球の基礎づくりを担った[9]。
- 学習院中等科、学習院高等科を卒業
- 1910年7月 東京帝国大学農科大学農学科を卒業
- 1918年2月 東京帝国大学農業教員養成所講師
- 1920年11月 東京帝国大学農学部助教授(〜1924年3月)
- 1924年5月 衆議院議員(〜1927年4月)
- 1926年8月 貴族院議員(〜1937年9月)
- 1929年6月 農林政務次官(〜1930年4月)
- 1930年4月 産業組合中央金庫理事長(〜1934年6月)
- 1934年6月 農林大臣(〜1936年1月)
- 1955年4月 日本中央競馬会理事長(〜1957年1月)
- 『無雷庵雑記』(改造社)
- 『友人近衛』(弘文堂)
- 『政界道中記』(日本出版協同)
- 『花売爺』(全国農業出版)
- 『七十年の回想』(創元社)
- 『ひとりごと』(作品社)
- 『山の手暮色』(講談社)
- 父母
- 兄弟姉妹
- 妻子
- その他の親族
社会運動・慈善活動に身を投じた「異色の華族」でありながら、女性関係が派手なことでは有名であり、本人も気にしていたようであるが女癖の悪さは生涯直らなかった。
井深八重の友人であった松信緑(美登里)は千葉県佐原の格地病院設立者の孫娘で、同志社女学校を卒業後に有馬家に行儀見習いに来ていた令嬢だったが、一度は解雇して思いを断ち切ったものの再びよりを戻し、一時は廃嫡覚悟でアメリカに駆け落ちする覚悟であった。しかし、倉富勇三郎ら有馬伯爵家政参与者の画策によって別れた。
この事件の4年後に知り合った博多の芸妓舟子こと福田次恵は、頼寧が衆議院議員選挙活動中に2000円(当時)で落籍した人物である。後に頼寧の命によって上京し、有馬伯爵邸から歩いて数分の所に別邸を構えて住む。選挙活動中に愛人を入手したとして一般庶民や一族からの非難も激しかったが、以前に松信緑との仲を周りに強引に引き裂かれて苦悩した反動のせいで、ほとんど意に介さなかった。次恵は頼寧晩年には実質的な本妻と化し、貞子夫人を悩ませる存在であった。息子・頼義の小説にもたびたび題材として取り上げられている。
恋多き伯爵と知られた有馬の日記を読むと上記の2人を含め、その生涯で少なくとも4人の愛人がいたことが判明しており、その他にも多数の愛人を抱えていたとされる。
- ^ 1945年に新設されたセネタースとは、出身者が創設に関与した以外、直接の繋がりはない。
- ^ 第1回のタイトルは当初これを仮題とし、ファンに名称を募集してもらったが、採用作がなく、仮題がそのまま正式名となった。後述のとおり第1回の終了直後に有馬が逝去され「有馬記念」となってからは「第〇〇回グランプリ」として副題が付けられている