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森有礼 - Wikipedia

もり有礼ありのり

日本にっぽん政治せいじ外交がいこうかん (1847-1889)

もり 有礼ありのり(もり ありのり、きゅう字体じたいもり 有禮ありのり1847ねん8がつ23にちひろし4ねん7がつ13にち) - 1889ねん明治めいじ22ねん2がつ12にち)は、日本にっぽん政治せいじ外交がいこうかん思想家しそうか教育きょういくしゃ[1]通称つうしょう助五郎すけごろう金之かねゆきすすむ栄典えいてんおくせい勲一等くんいっとう子爵ししゃく

もりもり 有礼ありのりありのり
もり 有禮ありのり
生年月日せいねんがっぴ 1847ねん8がつ23にち
ひろし4ねん7がつ13にち
出生しゅっしょう 日本にっぽん薩摩さつまこく鹿児島かごしまぐん鹿児島かごしまじょうした春日かすが小路こうじまち
げん鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま春日かすがまち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1889-02-12) 1889ねん2がつ12にち(41さいぼつ
死没しぼつ 日本における郵船商船規則の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう麹町こうじまち
げん東京とうきょう千代田ちよだ
出身しゅっしんこう みやつこかん
薩摩さつまはん開成かいせいしょ
ぜんしょく 武士ぶし薩摩さつまはん
外交がいこうかん
称号しょうごう おくせい
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
子爵ししゃく
配偶はいぐうしゃ もりつね前妻ぜんさい
もり寛子ひろこ後妻ごさい
子女しじょ もりきよし長男ちょうなん
もりあきら三男さんなん
親族しんぞく もりゆうじょちち
横山よこやま安武やすたけよんあに
岩倉いわくら具視ともみ義父ぎふ
岩倉いわくら槇子まきこ義母ぎぼ
岩倉いわくらよし義兄ぎけい
岩倉いわくら具定ぐじょう義兄ぎけい
岩倉いわくらけい義兄ぎけい
戸田とだきょく義姉ぎし
岩倉いわくらみち義弟ぎてい
もりゆうつよしまご
もり有正ありまさまご
関屋せきや綾子あやこまご

内閣ないかく だい1伊藤いとう内閣ないかく
黒田くろだ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1885ねん12月22にち - 1889ねん2がつ12にち

日本における郵船商船規則の旗 参事院さんじいんかん
在任ざいにん期間きかん 1884ねん5月7にち - 1885ねん12月22にち

日本における郵船商船規則の旗 外務がいむ大輔だいすけ
在任ざいにん期間きかん 1878ねん - 1879ねん
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だい1伊藤いとう内閣ないかく初代しょだい文部もんぶ大臣だいじんとなり、しょ学校がっこうれい制定せいていにより大日本帝国だいにっぽんていこく教育きょういく制度せいど確立かくりつした。またあかりろくしゃ商法しょうほう講習こうしゅうしょ一橋大学ひとつばしだいがく前身ぜんしん)の設立せつりつしゃ東京とうきょう学士がくしかいいん日本学士院にほんがくしいん前身ぜんしん会員かいいんであり、明治めいじろくだい教育きょういくかぞえられる。

来歴らいれき

編集へんしゅう

ひろし4ねん(1847ねん)、薩摩さつまこく鹿児島かごしまじょうした春日かすが小路こうじまち現在げんざい鹿児島かごしまけん鹿児島かごしま春日かすがまち)で薩摩さつま藩士はんしもり喜右衛門きうえもんゆうじょおとことしてまれた。あに横山よこやま安武やすたけがいる。安政あんせい7ねん1860ねんごろよりみやつこかん漢学かんがくまなび、元治もとはる元年がんねん1864ねんごろよりはんよう学校がっこうである開成かいせいしょ入学にゅうがくし、英学えいがく講義こうぎ受講じゅこうする。

慶応けいおう元年がんねん1865ねん)、五代ごだいともあつしらとともにイギリス密航みっこう留学りゅうがくし(薩摩さつまはんだいいち英国えいこく留学生りゅうがくせい)、ロンドンで長州ちょうしゅうすぐるう。そのロシア帝国ていこく旅行りょこうし、さらにローレンス・オリファントさそいでアメリカにもわたり、オリファントの信奉しんぽうする新興しんこう宗教しゅうきょういえトマス・レイク・ハリス教団きょうだんBrotherhood of the New Life」と生活せいかつをともにし、キリスト教きりすときょうふか関心かんしんしめした。また、アメリカの教科書きょうかしょあつめる。

明治めいじ元年がんねん1868ねん)6がつ帰国きこく。7月25にち外国がいこく官権かんけん判事はんじにんじられた[2] [3]。22さい高官こうかんになり月俸げっぽう200えんきゅうされていたが、30えん十分じゅうぶんだと、9がつ10日とおか鮫島さめしま尚信なおのぶともに、自分じぶんたちの「減俸げんぽう嘆願たんがんしょ」を上申じょうしんした。

明治めいじ3ねん1870ねんあきしょう弁務べんむ使[4]としてアメリカに赴任ふにんする。

1872ねん2がつ3にち、アメリカ駐在ちゅうざいしょう弁務べんむ使としてアメリカの有識者ゆうしきしゃ日本にっぽん教育きょういくについて意見いけんもとめる(その返書へんしょを1873ねん『Education in Japan』(『日本にっぽんにおける教育きょういく』)として刊行かんこう)。1872ねん11月25にち、ワシントンで『Religious Freedom in Japan』(『日本にっぽんにおける宗教しゅうきょう自由じゆう』)を発表はっぴょう

明治めいじ6ねん1873ねんなつ帰国きこくすると福澤ふくさわ諭吉ゆきち西にしあまね西村にしむら茂樹しげき中村なかむら正直まさなお加藤かとう弘之ひろゆき津田つだ真道まみち箕作みつくり麟祥りんしょうらとともあかりろくしゃ結成けっせいする。1874ねん5がつから1875ねん2がつに『あかりろく雑誌ざっし』に「妻妾さいしょうろん」を発表はっぴょう一夫一婦いっぷいっぷ主張しゅちょうする。

明治めいじ8ねん1875ねん)、東京とうきょう銀座ぎんざ尾張おわりまち私塾しじゅく商法しょうほう講習こうしゅうしょ一橋大学ひとつばしだいがく前身ぜんしん)を開設かいせつする。ちゅうえい公使こうしをつとめていたときに、ハーバート・スペンサーからおおきな影響えいきょうをうけたといわれる。

同年どうねん2がつ6にち福澤ふくさわ諭吉ゆきち証人しょうにんとなり、幕臣ばくしん広瀬ひろせ秀雄ひでおむすめ広瀬ひろせつねとの結婚けっこんさいして3かじょう交換こうかんして婚姻こんいん契約けいやくしょ署名しょめい結婚けっこんした(だい3じょう夫婦ふうふ共有きょうゆうぶつ無断むだん処分しょぶんしてはならぬむね条項じょうこうあり)。契約けいやく結婚けっこんのはしりとわれた。

同年どうねん11がつ清国きよくに公使こうしになる。明治めいじ9ねん1876ねん)1がつ定府じょうふ北京ぺきん南方なんぽう)で鴻章こうしう会談かいだん

明治めいじ12ねん1879ねん)11月、英国えいこく公使こうしになる。

明治めいじ18ねん1885ねん)12月22にちだい1伊藤いとう内閣ないかくした初代しょだい文部もんぶ大臣だいじん就任しゅうにんし(死没しぼつまで)、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう東京教育大学とうきょうきょういくだいがくた、現在げんざい筑波大学つくばだいがく)を「教育きょういく総本山そうほんざん」としょうして改革かいかくおこなうなど、日本にっぽんにおける教育きょういく政策せいさくたずさわる。また、「良妻賢母りょうさいけんぼ教育きょういく」こそ国是こくぜとすべきであると声明せいめい翌年よくねんそれにもとづく「生徒せいと教導きょうどうかた要項ようこう」を全国ぜんこく女学校じょがっこう高等こうとう女学校じょがっこうくばる。

明治めいじ19ねん1886ねん)には、学位がくいれい発令はつれいし、日本にっぽんにおける学位がくいとしてだい博士はかせ博士はかせとうさだめたほか、教育きょういくれいわる一連いちれんの「学校がっこうれい」の公布こうふ関与かんよし、様々さまざま学校がっこう制度せいど整備せいび奔走ほんそうした。黒田くろだ内閣ないかくでも留任りゅうにん

明治めいじ20ねん1887ねん)4がつには、だい日本にっぽん教育きょういくかいたすべき役割やくわり重要じゅうようせいについて私案しあん提出ていしゅつしている(1884ねん学習がくしゅういん講堂こうどうひらかれたつね集会しゅうかいでも大木おおき喬任たかとうとともに演説えんぜつおこなっている)[5]

しかし明治めいじ22ねん1889ねん)2がつ11にち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう発布はっぷ式典しきてん、それに参加さんかするため官邸かんていところ国粋こくすい主義しゅぎもの西野にしの文太郎ぶんたろう短刀たんとう脇腹わきばらされた。応急おうきゅう手当てあてけるがきずふかく、翌日よくじつ午前ごぜん5死去しきょ[6]。43さいだった。

当時とうじ新聞しんぶんが、「ある大臣だいじん伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくうおとずれたさい社殿しゃでんにあった御簾みすステッキでどけてなかのぞき、土足どそく厳禁げんきん拝殿はいでんくつのままでのぼった」とほうじ(伊勢神宮いせじんぐう不敬ふけい事件じけん問題もんだいとなった。この「大臣だいじん」とはもりのことではないのかと、急進きゅうしんてき欧化おうか主義しゅぎものであったもり人々ひとびとからうたがいのけられることとなった。この事件じけん事実じじつかどうかはさだかではないが、このいちけんもり暗殺あんさつされる原因げんいんになった。木場きばさだちょうはのちにこの事件じけん事実無根じじつむこんであるとのこしている。

人物じんぶつ

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もり有礼ありのり(1871ねん
  • 英語えいご国語こくご提唱ていしょう国語こくご外国がいこくろん)。
  • もり国語こくご英語えいごろんにおいては、馬場ばば辰猪たつい西にしあまね清水しみず卯三郎うさぶろう黒川くろかわ真頼まより反対はんたいせつとなえた。黒川くろかわ真頼まより明治めいじ8ねん(1875ねん)6がつ、『言語げんご文字もじ改革かいかくせつべん』を『洋々ようようしゃだんだいごう発表はっぴょうし、痛烈つうれつ批判ひはんした[7][8]
  • もり急進きゅうしんてきかんがえには当時とうじ大衆たいしゅう感覚かんかくとは乖離かいりしたものがあり、「あかりろく幽霊ゆうれい有礼ありのり)」などと皮肉ひにくられもした。
  • 明治めいじ4ねん(1872ねん)に設立せつりつされた日本にっぽんアジア協会きょうかい会員かいいんであった(設立せつりつ時点じてん唯一ゆいいつ日本人にっぽんじん会員かいいん[9][10])。明治めいじ6ねん(1874ねん)2がつ例会れいかい神道しんとうかんするディスカッションおこなわれたさいには、「神道しんとう中心ちゅうしん思想しそう死者ししゃたいする敬虔けいけん崇拝すうはいだ。日本にっぽん絶対ぜったい主義しゅぎてきげん政権せいけん維持いじするために政府せいふたくみにこれを政治せいじ利用りようしたことはじつ正当せいとうだったとかんがえるが、日本にっぽん初期しょき歴史れきし記録きろくとされている書物しょもつ信頼しんらいあたいするとは到底とうていえない」という意見いけんをのべている[9][11]
  • 広瀬ひろせつねとの結婚けっこんは、日本にっぽんにおける最初さいしょ契約けいやく結婚けっこんとなった。契約けいやくは「それぞれがつまおっとであること」、「破棄はきしないかぎたがいにうやまあいすこと」、「共有きょうゆうぶつについては双方そうほう同意どういなしに貸借たいしゃく売買ばいばいしないこと」の3じょうからり、福沢ふくさわ諭吉ゆきち証人しょうにんとなった[12]つねとは、結婚けっこん11ねんつね素行そこうじょう理由りゆう双方そうほう納得なっとくのうえ離婚りこんした[12]
  • 将棋しょうぎ愛好あいこうし、福沢ふくさわ諭吉ゆきち服部はっとり金太郎きんたろう芳川よしかわ顕正けんせいらとともに名人めいじん小野おの五平ごへい後援こうえんしゃであった[13]

墓所はかしょ霊廟れいびょう銅像どうぞう

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わか薩摩さつま群像ぐんぞう

墓所はかしょ青山あおやま霊園れいえん(1イ1-12)

昭和しょうわ57ねん1982ねん)、鹿児島かごしま中央ちゅうおうえきぜん東口ひがしぐち広場ひろば彫刻ちょうこく中村なかむらすすむ制作せいさくした薩摩さつまはん英国えいこく留学生りゅうがくせいぞうわか薩摩さつま群像ぐんぞう[19]』の一人ひとりとして銅像どうぞうてられている。

  • ひろし4ねん(1847ねん) - 誕生たんじょう
  • 安政あんせい5ねん(1858ねん) - 藩校はんこうみやつこかん入学にゅうがく
  • 元治もとはる元年がんねん(1864ねん) - はんひろし学校がっこう開成かいせいしょ入学にゅうがく
  • 慶応けいおう元年がんねん(1865ねん) - 薩摩さつまはん英国えいこく留学生りゅうがくせいとして英国えいこく渡航とこう。ロシア旅行りょこう
  • 慶応けいおう3ねん(1867ねん) - 米国べいこく渡航とこう新興しんこう宗教しゅうきょうトマス・レイク・ハリス教団きょうだん所属しょぞく
  • 明治めいじ元年がんねん(1868ねん) - 帰国きこくちょう外国がいこく官権かんけん判事はんじ学校がっこう取調とりしらべ兼勤けんきん
  • 明治めいじ2ねん(1869ねん) - 廃刀はいとうあん否決ひけつされ辞表じひょう提出ていしゅつ佐賀さがあに横山よこやま安武やすたけ訪問ほうもん
  • 明治めいじ3ねん(1870ねん) - 興国寺こうこくじあと英学えいがくじゅくひらく。横山よこやま安武やすたけ自刃じじん。12月に外山とやま正一しょういちら5めいともなしょう弁務べんむ使として米国べいこく渡航とこう(1871ねん1がつ)。任務にんむ米国べいこくとの外交がいこう事務じむ留学生りゅうがくせい管轄かんかつ[20]
  • 明治めいじ5ねん(1872ねん) - 米国べいこくちゅう弁務べんむ使、ついで米国べいこく代理だいり公使こうし昇任しょうにん
  • 明治めいじ6ねん(1873ねん) - 帰国きこくあかりろくしゃ結成けっせい外務がいむだいすすむ昇任しょうにん
  • 明治めいじ8ねん(1875ねん) - 広瀬ひろせつね結婚けっこん。このとき日本にっぽんはじめての婚姻こんいんとどけされる。長男ちょうなんもりきよし誕生たんじょう特命とくめいぜん公使こうしとして清国きよくに渡航とこう
  • 明治めいじ10ねん(1877ねん) - 帰国きこく外務がいむきょう代理だいり昇任しょうにん
  • 明治めいじ11ねん(1878ねん) - 外務がいむ大輔だいすけ昇任しょうにん
  • 明治めいじ12ねん(1879ねん) - ちゅうえい公使こうしとして英国えいこく渡航とこう
  • 明治めいじ17ねん(1884ねん) - 帰国きこく参事院さんじいんかん文部省もんぶしょう御用ごようかけ兼勤けんきん
  • 明治めいじ18ねん(1885ねん) - だい一次伊藤内閣初代文部大臣就任。「がくせい要領ようりょう立案りつあん
  • 明治めいじ19ねん(1886ねん) - 学位がくいれい師範しはん学校がっこうれい小学校しょうがっこうれい中学校ちゅうがっこうれいしょ学校がっこう通則つうそくなどを公布こうふつまつね離婚りこん。このとき日本にっぽんはじめての離婚りこんとどけされる。
  • 明治めいじ20ねん(1887ねん) - 岩倉いわくら寛子ひろこ再婚さいこん子爵ししゃくとなる。各地かくち学事がくじ巡視じゅんし伊勢神宮いせじんぐう不敬ふけい事件じけんこり、もりうたがわれる。
  • 明治めいじ21ねん(1888ねん) - 三男さんなんもりあきら誕生たんじょう
  • 明治めいじ22ねん(1889ねん) - 刺殺しさつされ、43さいかぞどし)でぼつ

[21]

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう

著作ちょさく

編集へんしゅう
著書ちょしょ
  • Religious Freedom in Japan : a memorial and draft of charter. 1872.
    • 英文えいぶん日本にっぽん宗教しゅうきょう自由じゆうろん」(吉野よしの作造さくぞう編輯へんしゅう代表だいひょう明治めいじ文化ぶんか全集ぜんしゅう だい11かん 宗教しゅうきょうへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1928ねん9がつ明治めいじ文化ぶんか研究けんきゅうかいへん明治めいじ文化ぶんか全集ぜんしゅう だい19かん 宗教しゅうきょうへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1967ねん8がつ明治めいじ文化ぶんか研究けんきゅうかいへん明治めいじ文化ぶんか全集ぜんしゅう だい12かん 宗教しゅうきょうへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1992ねん10がつISBN 4535042527
    • 日本にっぽんける宗教しゅうきょう自由じゆう」(三枝さえぐさ博音ひろと清水しみず幾太郎いくたろうへん日本にっぽん哲学てつがく思想しそう全書ぜんしょ だい8かん 宗教しゅうきょう 宗教しゅうきょうろんいち般篇』 平凡社へいぼんしゃ、1955ねん12がつ
  • On a representative system of government for Japan.
    • 日本にっぽん政府せいふ代議だいぎ政体せいたいろん」(江村えむら栄一えいいちこうちゅう日本にっぽん近代きんだい思想しそう大系たいけい 9 憲法けんぽう構想こうそう岩波書店いわなみしょてん、1989ねん7がつISBN 4002300099
  • The proposed national assembly in Japan. Gibson Bros., printers, 1883.
へんしょ
  • Life and resources in America. 1871.
  • Education in Japan : a series of letters addressed by prominent Americans to Arinori Mori. New York : D. Appleton, 1873.
    • 文学ぶんがく興国こうこくさくはやしらくやくこう学会がっかい、1896ねん5がつ
    • 日本にっぽん教育きょういくさく」(吉野よしの作造さくぞう編集へんしゅう代表だいひょう明治めいじ文化ぶんか全集ぜんしゅう だい10かん 教育きょういくへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1928ねん3がつ明治めいじ文化ぶんか研究けんきゅうかいへん明治めいじ文化ぶんか全集ぜんしゅう だい18かん 教育きょういくへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1967ねん9がつ明治めいじ文化ぶんか研究けんきゅうかいへん明治めいじ文化ぶんか全集ぜんしゅう だい11かん 教育きょういくへん日本にっぽん評論ひょうろんしゃ、1992ねん10がつISBN 4535042519) - 抄訳しょうやく
    • 日本にっぽん教育きょういく」(尾形おがた裕康ひろやすちょ学制がくせい実施じっし経緯けいい研究けんきゅう校倉あぜくら書房しょぼう、1963ねん11月)
    • 日本にっぽん教育きょういく」(永井ながい道雄みちおへん日本にっぽん教育きょういく思想しそう徳間書店とくましょてん近代きんだい日本にっぽん名著めいちょ〉、1967ねん5がつ) - 抄訳しょうやく
  • Charles Lanman Leading men of Japan: with an historical summary of the empire. Boston, Mass. : D. Lothrop Co., 1883.

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 教育きょういく外交がいこうかん→ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんもり有礼ありのり」、政治せいじ旺文社おうぶんしゃ日本にっぽん事典じてん さんていばんもり有礼ありのり」、思想家しそうか精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんもり有礼ありのり
  2. ^ 南日本放送みなみにほんほうそう幕末ばくまつ維新いしんニュースでは12月4にちとしている。
  3. ^ 明治めいじ元年がんねん12がつにち 薩摩さつま出身しゅっしんにん外国がいこくかん職員しょくいん”. 幕末ばくまつ維新いしんニュース. 南日本放送みなみにほんほうそう (2018ねん12月4にち). 2023ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  4. ^ 弁務べんむ使”. アジア歴史れきし資料しりょうセンター. 2023ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  5. ^ 澤柳さわやなぎ柳太郎りゅうたろう帝国ていこく教会きょうかい成城大学せいじょうだいがく
  6. ^ 服部はっとりさとしりょう事典じてん有名人ゆうめいじん死亡しぼう診断しんだん 近代きんだいへん』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねん)311ぺーじ
  7. ^ 吉田よしだ澄夫すみお明治めいじ以降いこう國語こくご問題もんだい論集ろんしゅう』P617. 風間かざま書房しょぼう. (1964) 
  8. ^ 資料しりょう日本にっぽんえいがく P25. 大修館書店たいしゅうかんしょてん. (1988) 
  9. ^ a b アーネスト・サトウ しる庄田しょうだ元男もとお やく『アーネスト・サトウ 神道しんとうろん平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ ; 756〉、2006ねん、274ぺーじISBN 4582807569 
  10. ^ くすのき 2017, p. 34.
  11. ^ くすのき 2017, p. 73.
  12. ^ a b 朝日新聞あさひしんぶん記事きじにみる恋愛れんあい結婚けっこん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1997, p37
  13. ^ 週刊しゅうかん将棋しょうぎへんきょく紀行きこう』(毎日まいにちコミュニケーションズ)P.47
  14. ^ a b 広瀬ひろせつねみ)ひろせ つねコトバンク
  15. ^ おんなたちの明治維新めいじいしん鈴木すずき由紀子ゆきこ、2010ねん07がつもり有礼ありのり契約けいやく結婚けっこんした広瀬ひろせつね」のこう
  16. ^ 平成へいせいしんおさむ きゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 下巻げかん』。
  17. ^ あき霖譜―もり有礼ありのりとそのつま森本もりもと貞子さだこ東京書籍とうきょうしょせき (2003/7/1)
  18. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、602ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  19. ^ わか薩摩さつま群像ぐんぞう”. 鹿児島かごしまけん観光かんこう連盟れんめい. 2014ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  20. ^ 外山とやまただしーとミシガン大学だいがく秋山あきやまヒサ、神戸女学院大学こうべじょがくいんだいがく論集ろんしゅう 29(1), p1-18, 1982-07
  21. ^ もり有礼ありのりりゃく年譜ねんぷ鹿児島かごしま県立けんりつ図書館としょかん
  22. ^ 官報かんぽうだい678ごうしょうくん叙任じょにん」1885ねん10がつ2にち
  23. ^ 官報かんぽうだい993ごう叙任じょにん及辞れい」1886ねん10がつ20日はつか
  24. ^ 官報かんぽうだい1686ごう、1889ねん2がつ15にち、145ぺーじ
  25. ^ 官報かんぽうだい1156ごう叙任じょにん及辞れい」1887ねん5がつ10日とおか

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
大木おおき喬任たかとう
文部もんぶきょう
  文部もんぶ大臣だいじん
初代しょだい:1885ねん12月22にち - 1889ねん2がつ12にち
次代じだい
大山おおやまいわお
臨時りんじ兼任けんにん
先代せんだい
鮫島さめしま尚信なおのぶ(→欠員けついん
  外務がいむ大輔だいすけ
1878ねん - 1879ねん
次代じだい
榎本えのもと武揚ぶよう
先代せんだい
新設しんせつ
  中央ちゅうおう衛生えいせいかいなが
1879ねん
次代じだい
佐野さの常民じょうみん
先代せんだい
山口やまぐちしょうかおる(→欠員けついん
  外務がいむしょう
1875ねん
次代じだい
欠員けついん→)上野うえのけいはん
がくしょく
先代せんだい
新設しんせつ
あかりろくしゃなが
1874ねん - 1875ねん
次代じだい
箕作みつくり秋坪しゅうへい
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
もり有礼ありのり初代しょだい
1887ねん - 1889ねん
次代じだい
もりきよし