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大木喬任 - Wikipedia

大木おおき喬任たかとう

日本にっぽん武士ぶし政治せいじ

大木おおき 喬任たかとう(おおき たかとう、天保てんぽう3ねん3月23にち1832ねん4がつ23にち〉- 明治めいじ32ねん1899ねん9月26にち)は、明治めいじ日本にっぽん官僚かんりょう政治せいじ[1]通称つうしょうはたろく[よう説明せつめい]民平みんぺい[よう説明せつめい]

大木おおき 喬任たかとう
おおき たかとう
生年月日せいねんがっぴ 1832ねん4がつ23にち
天保てんぽう3ねん3月23にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん肥前ひぜんこく赤松あかまつまち
現在げんざい佐賀さがけん佐賀さがみずこうさん丁目ちょうめ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1899-09-26) 1899ねん9月26にち(67さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう
出身しゅっしんこう 弘道こうどうかん
称号しょうごう せい
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
伯爵はくしゃく
子女しじょ 大木たいぼくとおよし長男ちょうなん
岡崎おかざきえんむすめ
親族しんぞく 大木おおきともたかしちち
大木たいぼくぶくやしなえまご

在任ざいにん期間きかん 1892ねん8がつ8にち - 1893ねん3月1にち

内閣ないかく だい1松方まつかた内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1891ねん6月1にち - 1892ねん8がつ8にち

日本の旗 だい2だい 枢密院すうみついん議長ぎちょう
在任ざいにん期間きかん 1889ねん12月24にち - 1891ねん6がつ1にち

在任ざいにん期間きかん 1885ねん12月22にち - 1889ねん12月24にち

日本の旗 だい7だい 文部もんぶきょう
在任ざいにん期間きかん 1883ねん12月12にち - 1885ねん12月22にち

その職歴しょくれき
日本の旗 だい4だい 司法しほうきょう
1881ねん10月21にち - 1883ねん12月12にち
日本の旗 だい2だい 元老げんろういん議長ぎちょう
1880ねん2がつ28にち - 1881ねん10がつ21にち
日本の旗 だい2だい 司法しほうきょう
1873ねん10月25にち - 1880ねん2がつ28にち
日本の旗 だい2だい きょうきょう
1871ねん11月25にち明治めいじ5ねん10月25にち) - 1873ねん4がつ19にち
日本の旗 初代しょだい 文部もんぶきょう
1871ねん9月12にち明治めいじ4ねん7がつ28にち) - 1873ねん4がつ19にち
日本の旗 だい3だい みんきょう
1871ねん8がつ29にち明治めいじ4ねん7がつ14にち) - 1871ねん9月11にち明治めいじ4ねん7がつ27にち))
東京都の旗 だい2だい 東京とうきょう府知事ふちじ
1869ねん1がつ16にち明治めいじ元年がんねん12月4にち) - 1869ねん8がつ22にち明治めいじ2ねん7がつ15にち))
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栄典えいてんせい勲一等くんいっとう伯爵はくしゃく

経歴けいれき

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出自しゅつじ

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肥前ひぜんこく佐賀さがはんの45せき藩士はんし大木おおきともたかし長男ちょうなんとして赤松あかまつまち現在げんざい佐賀さがみずこうさん丁目ちょうめ)にまれる。天保てんぽう13ねん1842ねんちちたかしくなり、以降いこうははシカそだてられる。出身しゅっしん詳細しょうさいについては大木たいぼく (伯爵はくしゃく)参照さんしょう

幕末ばくまつ

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藩校はんこう弘道こうどうかんまなび、1850ねんよしみひさし3ねん副島そえじま種臣たねおみらととも枝吉えだよしかみようさい同盟どうめい結成けっせい参加さんかのち江藤えとう新平しんぺい大隈おおくま重信しげのぶらもくわわりはんろん尊皇そんのう攘夷じょういへとみちびくことをはかるがたせなかった。万延まんえん元年がんねん1860ねん藩校はんこう弘道こうどうかんからえらばれて江戸えど遊学ゆうがくのぼる。

明治めいじしん政府せいふ

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1868ねん明治めいじ元年がんねん)にしん政府せいふ樹立じゅりつされると、大隈おおくま副島そえじま江藤えとうらとともに出仕しゅっしし、ちょう参与さんよ軍務ぐんむかん判事はんじ東京とうきょう知事ちじなどをつとめた。江戸えど東京とうきょうとすること(東京とうきょう奠都てんと)に尽力じんりょくした。1871ねん明治めいじ4ねん)にみんきょう文部もんぶきょうとして学制がくせい制定せいてい1872ねん明治めいじ5ねん)にきょうきょう兼任けんにん1873ねん明治めいじ6ねん)、参議さんぎけん司法しほうきょう1876ねん明治めいじ9ねん)のかみ風連ふうれんらんはぎらん事後じご処理しょりたった。

戸籍こせき編成へんせい主導しゅどうけんめぐ大蔵省おおくらしょう大隈おおくま対立たいりつ大久保おおくぼ利通としみち側近そっきんとなり、みん大輔だいすけとして戸籍こせきほう制定せいていおこない、のちみんきょう任命にんめいされるが、大隈おおくまかえしでみんしょう大蔵省おおくらしょう統合とうごうされた。民法みんぽう編纂へんさん総裁そうさいとして法典ほうてん編纂へんさんかかわる。のち元老げんろういん議長ぎちょう参議さんぎなどの要職ようしょく歴任れきにんした。

1884ねん明治めいじ17ねん)、華族かぞくれい施行しこうによって伯爵はくしゃくじょせられた。12月14にち学習がくしゅういん講堂こうどうひらかれただい日本にっぽん教育きょういくかいつね集会しゅうかいもり有礼ありのりとともに演説えんぜつおこなった[2]1888ねん明治めいじ21ねん)に枢密すうみつ顧問こもんかん1892ねん明治めいじ25ねん)に枢密院すうみついん議長ぎちょう再任さいにん。 しかし同年どうねん11がつ修身しゅうしん教科書きょうかしょ秘密ひみつ漏洩ろうえい事件じけん発生はっせい引責いんせき辞任じにん余儀よぎなくされ、以後いご麝香じゃこうあいだ祗候しこうにとどまった[3]

 
大木おおき喬任たかとうはか(青山あおやま霊園れいえん)

1899ねん明治めいじ32ねん)に死去しきょ享年きょうねん67。

評価ひょうか

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教育きょういく制度せいど法典ほうてん編纂へんさん確立かくりつにも尽力じんりょくしたことから、明治めいじろくだい教育きょういく1人ひとりかぞえられている。

  • 江藤えとう新平しんぺい大木たいぼくはあたかも熟練じゅくれんしたる仕立したごとし。その裁縫さいほうわざけん緻ならざるにず。ただ、うらむらくは、その綿入わたいれの仕立したわるときは、はるすでりてなつかたちかづく也。もしをして大木たいぼくともに、干戈かんかを交へしめば、かれ考慮こうりょついやせるあいだいて、その首級しゅきゅううばうをべし」[4]

大木おおき筑後ちくごこく蒲池かまち一族いちぞくで、筑後ちくご宇都宮うつのみや宇都宮うつのみやふところひさし次男じなんつな嫡子ちゃくし大木おおき政長まさながとし、つなあに蒲池かまち久憲ひさのり後裔こうえい蒲池かまち鎮漣重臣じゅうしんで、のちに鍋島なべしまただししげるつかえた大木おおきみつるこう子孫しそんにあたる。

  • つま朋子ともこ[5]
  • 長男ちょうなん大木おおきいつ太郎たろう(1866ねん - 1889ねん[6]
  • 次男じなん大木たいぼくとおよしはら高橋たかはし内閣ないかく司法しほう大臣だいじん加藤かとう内閣ないかく鉄道てつどう大臣だいじん歴任れきにん
  • むすめ栃木とちぎ農家のうかとつ[7]
  • むすめ岡崎おかざきえん喬任たかとう芸妓げいぎ銀座ぎんざ小料理こりょうり女将おかみとなり[8]没後ぼつご吉屋よしや信子のぶこにより『岡崎おかざきえんおんな一生いっしょう』が執筆しっぴつされた)

沼津ぬまづ磯部いそべ温泉おんせん別荘べっそう所有しょゆうした。

栄典えいてん授章じゅしょう授賞じゅしょう

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位階いかい
勲章くんしょうとう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん大木おおき喬任たかとう
  2. ^ 澤柳さわやなぎ柳太郎りゅうたろう帝国ていこく教育きょういくかい-成城大学せいじょうだいがく
  3. ^ 千田せんだみのる華族かぞく総覧そうらん講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ、2009ねん7がつ、519ぺーじISBN 978-4-06-288001-5 
  4. ^ 江藤えとうみなみしろ』P640
  5. ^ [1]
  6. ^ 国民こくみん過去かこちょう 明治めいじまき』(尚古しょうこぼう、1935ねん)p.281
  7. ^ 大木おおき喬任たかとう夫人ふじん明治めいじ大臣だいじん夫人ふじん岩崎いわさき徂堂 (大学だいがくかん, 1903)
  8. ^ 岡崎おかざきえん日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん
  9. ^ 官報かんぽうだい993ごう叙任じょにん及辞れい」1886ねん10がつ20日はつか
  10. ^ 官報かんぽうだい3893ごう叙任じょにん及辞れい」1896ねん6がつ22にち
  11. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅう勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょうしゃ一覧いちらん(戦前せんぜん)
  12. ^ 官報かんぽうだい307ごう、「叙任じょにん及辞れい」1884ねん07がつ08にち
  13. ^ 中野なかの文庫ぶんこ - きゅうくん一等旭日桐花大綬章受章者一覧

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
伊藤いとう博文ひろぶみ
伊藤いとう博文ひろぶみ
  枢密院すうみついん議長ぎちょう
だい4だい:1892ねん8がつ8にち - 1893ねん3がつ11にち
だい2だい:1889ねん12月24にち - 1891ねん6がつ1にち
次代じだい
山県やまがた有朋ありとも
伊藤いとう博文ひろぶみ
先代せんだい
芳川よしかわ顕正けんせい
  文部もんぶ大臣だいじん
だい4だい:1891ねん6がつ1にち - 1892ねん8がつ8にち
次代じだい
河野こうのさとしがま
先代せんだい
佐野さの常民じょうみん
有栖川ありすがわみやおきひとし
  元老げんろういん議長ぎちょう
だい5だい:1885ねん12月22にち - 1888ねん4がつ30にち
だい2だい:1880ねん2がつ28にち - 1881ねん10がつ21にち
次代じだい
柳原やなぎはら前光さきみつ
寺島てらしまはじめのり
先代せんだい
福岡ふくおか孝弟こうてい
松平まつだいら慶永よしなが大学だいがく別当べっとう
  文部もんぶきょう
だい7だい:1883ねん4がつ7にち - 1885ねん12月12にち
初代しょだい:1871ねん9がつ12にち - 1873ねん4がつ19にち
次代じだい
もり有礼ありのり文部もんぶ大臣だいじん
木戸きど孝允たかよし
先代せんだい
嵯峨さがみのるあい
  きょうきょう
だい2だい:1872ねん - 1873ねん
次代じだい
欠員けついん廃止はいし
先代せんだい
伊達だて宗城むねなり(→欠員けついん
  みんきょう
だい3だい:1871ねん
次代じだい
廃止はいし→)大久保おおくぼ利通としみち内務ないむきょう
先代せんだい
大隈おおくま重信しげのぶ
  みん大輔だいすけ
1870ねん - 1871ねん
次代じだい
井上いのうえかおる
先代せんだい
烏丸からすま光徳みつのり
  東京とうきょう府知事ふちじ
だい2だい:1868ねん1がつ16にち - 1869ねん8がつ22にち
次代じだい
壬生みぶはじめおさむ
先代せんだい
新設しんせつ
  政官せいかんきょく議長ぎちょう
1868ねん
坂田さかた莠と共同きょうどう
次代じだい
坂田さかた
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
伯爵はくしゃく
大木たいぼく喬任たかとう初代しょだい
1884ねん - 1899ねん
次代じだい
大木たいぼくとおよし