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河野敏鎌 - Wikipedia

河野こうのさとしがま

日本にっぽん政治せいじ

河野こうの さとしがま(こうの とがま、きゅう字体じたい河野こうの さとし󠄀かま󠄁1844ねん11月29にち天保てんぽう15ねん10がつ20日はつか) - 1895ねん明治めいじ28ねん4がつ24にち)は、日本にっぽん政治せいじ栄典えいてんしたがえ勲一等くんいっとう子爵ししゃく幼名ようみょうばん寿ことぶきわたる(ますや、きゅう字体じたいばんことぶきわたる)。

河野こうのこうの さとしがまとがま
河野こうの さとし󠄀かま󠄁
生年月日せいねんがっぴ 1844ねん11月29にち
天保てんぽう15ねん10がつ20日はつか
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん土佐とさこく高知こうち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1895-04-24) 1895ねん4がつ24にち(50さいぼつ
所属しょぞく政党せいとう 立憲りっけんあらためしんとう
称号しょうごう したがえ勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう
子爵ししゃく
子女しじょ 河野こうの寿男としお ()
親族しんぞく 河野こうのとおるこのみちち

内閣ないかく だい2伊藤いとう内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1892ねん8がつ8にち - 1893ねん3月17にち

内閣ないかく だい1松方まつかた内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1892ねん6月23にち - 1892ねん8がつ8にち

内閣ないかく だい1松方まつかた内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1892ねん7がつ14にち - 1892ねん8がつ8にち

内閣ないかく だい1松方まつかた内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1892ねん3月14にち - 1892ねん7がつ14にち

日本の旗 初代しょだい のう商務しょうむきょう
在任ざいにん期間きかん 1881ねん4がつ7にち - 1881ねん10がつ20日はつか

その職歴しょくれき
日本の旗 だい5だい 文部もんぶきょう
1880ねん2がつ28にち - 1881ねん4がつ7にち
広島県の旗 初代しょだい 広島ひろしまけん参事さんじ
1871ねん11月27にち - 1871ねん12月26にち
広島県の旗 広島ひろしまけんだい参事さんじ / だい参事さんじ心得こころえ
(1871ねん8がつ15にち - 1871ねん11月
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経歴けいれき

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天保てんぽう15ねん(1844ねん)10がつ土佐とさはん郷士ごうし河野こうのとおるこのみ長男ちょうなんとして高知こうちまれる。安政あんせい5ねん(1858ねん)3がつ江戸えど遊学ゆうがくして安井やすい息軒そくけん門下もんかとなり、文久ぶんきゅう元年がんねん(1861ねん)に帰国きこく土佐とさ勤王きんのうとう加入かにゅうして武市たけいち半平はんぺんふとし坂本さかもと龍馬りょうまらと交友こうゆう関係かんけいつ。文久ぶんきゅう2ねん(1862ねん)、じゅう人組にんぐみ参加さんか京都きょうと江戸えどあいだ往来おうらいして国事こくじ奔走ほんそうした。ところが文久ぶんきゅう3ねん(1863ねん)に藩主はんしゅ山内やまうち容堂ようどう佐幕さばく鞍替くらがえしたことからはんろん転換てんかん、このため投獄とうごくされ6年間ねんかん獄中ごくちゅう生活せいかつおくる。そのさいきびしい拷問ごうもんにもえて同志どうしまもとおしたとつたえられる。えいろう宣告せんこくけたが、河野こうのぎゃくにこれをほこりにしたという。

慶応けいおう4ねん(1868)に江戸えど幕府ばくふ崩壊ほうかいして明治維新めいじいしんがはじまると、つみめんじられて出獄しゅつごくどうはん後藤ごとう象二しょうじろう手引てびきで大坂おおさかのぼり、江藤えとう新平しんぺい知遇ちぐうる。明治めいじ2ねん(1869ねん)4がつさむらいみことのりきょく出仕しゅっし、のちに広島ひろしまけんだい参事さんじ司法しほうだいすすむけんだい検事けんじとなる。

明治めいじ5ねん (1872ねん)に司法しほうしょうすすむとしてきし良兼りょうけんやしなえ川路かわじ利良としよし井上いのうえあつし鶴田つるたあきらら8めい理事りじかんとフランスの司法しほう制度せいど調査ちょうさのため岩倉いわくら遣外けんがい使節しせつだんとしてわたりおう。パリでボアソナードの講義こうぎをうけ、政府せいふ法律ほうりつ顧問こもんとして招聘しょうへいする契約けいやくう。

明治めいじ7ねん(1874ねん)に勃発ぼっぱつした佐賀さがらんでは、三権さんけん統括とうかつして対処たいしょした初代しょだい内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちのもと、けんだい判事はんじとして裁判さいばん従事じゅうじ

明治めいじ8ねん(1875ねん)に元老げんろう院議いんぎかん明治めいじ11ねん(1878ねん)には元老げんろういんふく議長ぎちょうとなる。

明治めいじ13ねん(1880ねん)3がつ文部もんぶきょうとして教育きょういくれい改正かいせい着手ちゃくしゅ、12月には改正かいせい教育きょういくれい公布こうふする。

明治めいじ14ねん(1881ねん)、のう商務省しょうむしょう設立せつりつともなって初代しょだいのう商務しょうむきょう就任しゅうにんするが、明治めいじじゅうよんねん政変せいへん大隈おおくま重信しげのぶらに同調どうちょうして下野げやした。明治めいじ15ねん(1882ねん)4がつ大隈おおくまらとともに立憲りっけんあらためしんとう結党けっとうしてふく総理そうりふく党首とうしゅ)になる。

明治めいじ19ねん1886ねん10がつ17にち - 1888ねん5がつ5にち 東京とうきょう株式かぶしき取引とりひきしょ頭取とうどり

明治めいじ21ねん(1888ねん)に枢密すうみつ顧問こもんかんとして憲法けんぽう審議しんぎにあたる。そのだい1松方まつかた内閣ないかく内務ないむ大臣だいじん司法しほう大臣だいじんのう商務しょうむ大臣だいじん歴任れきにんだい2伊藤いとう内閣ないかくでは文部もんぶ大臣だいじん就任しゅうにんして文部もんぶ行政ぎょうせい基礎きそ確立かくりつした。

明治めいじ26ねん(1893ねん)10がつ30にち[1]子爵ししゃく叙爵じょしゃくして華族かぞくれっすが、明治めいじ28ねん(1895ねん)4がつ24にち死去しきょ享年きょうねん52。墓所はかしょ東京とうきょうみなと青山あおやま墓地ぼちにある。

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 官報かんぽうだい3103ごう明治めいじ26ねん10がつ31にち
  2. ^ 太政官だじょうかん日誌にっし明治めいじ6ねんだい152ごう
  3. ^ 官報かんぽうだい1928ごう叙任じょにん及辞れい」1889ねん11月30にち
  4. ^ 官報かんぽうだい2853ごう叙任じょにん及辞れい」1893ねん1がつ4にち

関連かんれん文献ぶんけん

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登場とうじょうする作品さくひん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
後藤ごとう象二しょうじろう(→欠員けついん
  元老げんろういんふく議長ぎちょう
1878ねん - 1880ねん
次代じだい
佐々木ささき高行たかゆき
先代せんだい
島本しまもと仲道なかみち
  警保あたま
1873ねん
次代じだい
欠員けついん→)村田むらた寿ことぶき
ビジネス
先代せんだい
小松こまつあきら
東京とうきょう株式かぶしき取引とりひきしょ頭取とうどり
1886ねん - 1888ねん
次代じだい
たにもと道之みちゆき
その役職やくしょく
先代せんだい
新設しんせつ
神田かんだ教育きょういくかい会長かいちょう
1890ねん - 1893ねん
次代じだい
細川ほそかわじゅん次郎じろう
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
子爵ししゃく
河野こうのさとしがま初代しょだい
1893ねん - 1895ねん
次代じだい
河野こうの寿男としお