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官吏 - Wikipedia

官吏かんり

国家こっかなどおおやけつとめる役人やくにん公務員こうむいん

官吏かんり(かんり)とは、公法こうほううえ任命にんめい行為こういもとづいて任命にんめいされ、国家こっか機関きかん官公庁かんこうちょうぐんなど)に勤務きんむするものす。「かんじん胥吏」の合成ごうせい

各国かっこく官吏かんりについては官僚かんりょう項目こうもく参照さんしょうのこと。

ただし日本にっぽんでは官吏かんりかどうかを区別くべつせず「かん」と慣用かんようれいられる(教官きょうかん試験しけんかんなど)。

日本にっぽん官吏かんり

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大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうしたでは天皇てんのう官制かんせい大権たいけんおよび文武ぶんぶかん任免にんめん大権たいけん大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう10じょう)によって任免にんめんされるものし、現在げんざい国家こっか公務員こうむいん相当そうとうする。軍務ぐんむふくする武官ぶかんとそれ以外いがい文官ぶんかんけられる。

日本国にっぽんこく憲法けんぽうしたでは国家こっか公務員こうむいんす(日本国にっぽんこく憲法けんぽう7じょう5ごう、73じょう4ごう)。なお天皇てんのう認証にんしょうする官吏かんり認証官にんしょうかん通称つうしょうする。

高級こうきゅう官吏かんりについては官僚かんりょう項目こうもく参照さんしょうのこと。

明治維新めいじいしん官吏かんり制度せいど

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さん職制しょくせい

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1868ねん1がつ3にち慶応けいおう3ねん12月9にち)、維新いしん政府せいふ王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいはっした翌日よくじつ総裁そうさい議定ぎてい参与さんよからなる「さん職制しょくせい」をさだめた[1]。そして、参与さんよとしての人材じんざいるため、ちょうみつぎせいさだめてかくはんから藩士はんしあつめた[2]とくちょうとしてあつめられたものはんとのかかわりをち、朝廷ちょうていちょくしんとなることが要求ようきゅうされた[3]。ただし、これには木戸きど孝允たかよしのような維新いしん功績こうせきがあったはん出身しゅっしんしゃほど抵抗ていこう根強ねづよかったという。 明治めいじ元年がんねん12月みつげ廃止はいし[4]1869ねん3月15にち明治めいじ2ねん2がつ3にち)にちょうやといもうかたさだめて、藩士はんしちょうやといおおけるさい一応いちおうそのはん沙汰さたうえおおけることになり、府県ふけんいてもやとえをみだりにもうけることをきんじて一々いちいち行政ぎょうせいかんうかがることとし、またいそやといたい場合ばあいなに御用ごよう当分とうぶん出仕しゅっしするむねたっして行政ぎょうせいかんうかがみのうえやといもうけることとした[5]ふとしせいるいてんによると、慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねんうるう4がつごろ判任官はんにんかん以下いかおおくはやといを以ってこれをにんじたがちょうを以ってにんずるものもあった[6]政体せいたいしょにおける官等かんとうせいさんとうかん以上いじょうには公卿くぎょう諸侯しょこうちょうではないものをにんずるれいたところなく、四等官しとうかんちょうにんずるものもまたあった[6]はちとう以下いかかんにはちょうにんずるれいはなくろくとうななとうにおいてもちょうにんずるのはただばんけんごとかぎるもののようで、あるいはしるしにんずるのはそうにんとう以上いじょうかぎりそのみなやといをもってこれをにんずるせいというがなお検討けんとうようするとした[6]。 1869ねん8がつ4にち明治めいじ2ねん6月27にち)に藩士はんし登用とうようさいにそのはん連絡れんらくするれいをやめ、ちょうやといしょう廃止はいしし、太政官だじょうかん議論ぎろんしてえらもちいるものとした[7] [8]

箇条かじょう誓文せいもんつづ制定せいていされた政体せいたいしょにおいては、官吏かんり公選こうせんがうたわれ、1869ねん明治めいじ2ねん)5がつ最初さいしょ選挙せんきょ実施じっし[9]されたものの、その結果けっか藩閥はんばつ勢力せいりょく均衡きんこう配慮はいりょしたものとなるなど、不十分ふじゅうぶんであった[よう出典しゅってん]。その薩摩さつま長州ちょうしゅう出身しゅっしんしゃから官吏かんり登用とうようされやすい傾向けいこうがあり、地縁ちえん縁故えんこ重視じゅうしした藩閥はんばつ政府せいふ形成けいせいされた。薩長さっちょうばつともばれる。

他方たほう文官ぶんかんとも官吏かんりをなす武官ぶかんについても、明治めいじ時代じだい薩長さっちょうばつによってめられる状況じょうきょうつづいた。1869ねん明治めいじ2ねんかんろくしょうかれ、兵部ひょうぶしょうした軍人ぐんじん統括とうかつされた(1872ねん明治めいじ5ねん)、陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょう分割ぶんかつ)。この制度せいどしたでは、軍人ぐんじんいま文官ぶんかん一種いっしゅぎず、太政大臣だじょうだいじん兵部ひょうぶきょう陸軍りくぐんきょう海軍かいぐんきょう)のしたかれる。

みことのりそう判任官はんにんかん

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明治めいじ以後いご官吏かんり分類ぶんるいとしてみことのりにんそうにんばんにんによるものは、1868ねん7がつ4にち慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん5月15にち)にみことのり授官・そう授官・ばん授官[注釈ちゅうしゃく 1]区別くべつしたことがはじめで、政体せいたいしょにおける官等かんとうせいさんとうかん以上いじょうみことのり授官とし宣旨せんじ太政官だじょうかんしるしし、よんとうとうの2かんそう授官とし行政ぎょうせいかんしるしし、ろくとうかん以下いかはん授官とし所属しょぞくかん[注釈ちゅうしゃく 2]しるしすとした[12]

官位かんい相当そうとうせい

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1869ねん明治めいじ2ねん7がつ職員しょくいんれいによる官位かんい相当そうとうせい[13]ではしたがえよん以上いじょうみことのりにんしたがえろく以上いじょうそうにんせいなな以下いかはんにんとし、ただしはんにんについてかんはその長官ちょうかんよりこれをさづ位階いかい太政官だじょうかんよりこれをたまうとした[14]ほか、官位かんい相当そうとうひょう掲載けいさいしない下級かきゅう官吏かんり判任官はんにんかんよりもした等外とうがいとした[15] [注釈ちゅうしゃく 3]。その等外とうがい吏はやといへのえによってそのかずらし[18]明治めいじ19ねん等外とうがい吏の制度せいど廃止はいしされて雇員こいんはんにん待遇たいぐうわる[19] [20]

このほか任用にんよう形態けいたいによる分類ぶんるいとしてじゅんかん心得こころえ試補しほ[21]ちょう[22]出仕しゅっし[23]御用ごようかけ[24]やとい[25]などがあった。

恩給おんきゅう制度せいど

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政府せいふ金融きんゆう顧問こもんだったパウル・マイエットは、木戸きど孝允たかよし年間ねんかん400まんせきやく720まんヘクタールぶん)のべいにあたる資金しきんを40まんにん官職かんしょく恩給おんきゅうとすることを依頼いらいされ、最終さいしゅうてきに7500まんえんぶんげん1.5ちょうえんぶん)を償還しょうかん可能かのう国債こくさいとして分配ぶんぱいした、と帰国きこくかたっている[26][注釈ちゅうしゃく 4]

1875ねん海軍かいぐん退すさかくれれい、1876ねん陸軍りくぐん恩給おんきゅうれい発布はっぷされた。

1878ねん明治めいじ11ねん)、近衛このえへい一部いちぶ西南せいなん戦争せんそう待遇たいぐう俸給ほうきゅうへの不満ふまんなどから、暴動ぼうどうこす(竹橋たけばし事件じけん)。この事件じけんをきっかけに、軍令ぐんれい作戦さくせん用兵ようへいかんする統帥とうすい事務じむ)と軍政ぐんせいぐん編制へんせい維持いじ管理かんりなどにかんする国務こくむ)を分離ぶんりすべきという主張しゅちょうとなえられ、同年どうねん陸軍りくぐんしょうから独立どくりつした参謀さんぼう本部ほんぶ陸軍りくぐん設置せっちされる(1893ねんには海軍かいぐん軍令ぐんれいかれる)。これはのち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうした軍令ぐんれい天皇てんのう統帥とうすいけんもとづき参謀さんぼう本部ほんぶ輔弼ほひつし、軍政ぐんせい天皇てんのう編制へんせい大権たいけんもとづき国務大臣こくむだいじん輔弼ほひつする体制たいせいへと発展はってんし、統帥とうすいけん独立どくりつ端緒たんしょとなる。これにより、はじめて官吏かんりのうちに文官ぶんかん武官ぶかん区別くべつしょうじる(以下いか詳細しょうさい武官ぶかん項目こうもく参照さんしょうのこと)。

のち1884ねん1がつ4にちには官吏かんり恩給おんきゅうれい制定せいていされ、同時どうじ太政官だじょうかん恩給おんきゅうきょく設置せっちされた(太政官だじょうかんたち。15ねん以上いじょう在勤ざいきんしゃ恩給おんきゅう)。このほかにも1882ねんには警察官けいさつかん、1890ねんには教員きょういんかんする恩給おんきゅう制度せいど制定せいていされている。部門ぶもんごとでは複雑ふくざつであるので、さらにのち、1890ねん軍人ぐんじん恩給おんきゅうほうと1923ねん恩給おんきゅうほう統合とうごうされた。

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう官吏かんり制度せいど

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高等官こうとうかんとうけん職員しょくいん理事りじかん)の辞令じれいしょ
 
大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう官吏かんり制度せいど

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽうだい10じょうは「天皇てんのう行政ぎょうせい各部かくぶ官制かんせい及文武官ぶかん俸給ほうきゅうていメ及文武官ぶかん任免にんめんス」とし(どうじょう本文ほんぶん天皇てんのう大権たいけんとして任免にんめん大権たいけんおよび官制かんせい大権たいけんさだめていた[27]。この憲法けんぽう規定きていもとづき、かく制度せいどごとに高等官こうとうかん官等かんとう俸給ほうきゅうれい官吏かんり服務ふくむ規律きりつ文官ぶんかん任用にんようれい文官ぶんかん分限ぶげんれい文官ぶんかん懲戒ちょうかいれいなどのみことのりれい制定せいていされた[27]

また、官吏かんり服務ふくむ規律きりつだい1じょうは「凡ソ官吏かんり天皇陛下てんのうへいか天皇陛下てんのうへいか政府せいふたい忠順ただまさ勤勉きんべんしゅトシ法律ほうりつ命令めいれいしたがえヒ其職務しょくむつきスヘシ」と規定きていし、官吏かんり身分みぶん天皇てんのうによりあたえられ、かつ忠実ちゅうじつ定量ていりょう服務ふくむ義務ぎむをもつものとされていた[27]

大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう官吏かんり制度せいどでは、官吏かんりとそれ以外いがい雇員こいん傭人ようにんとうにまずけられる[27]

官吏かんり高等官こうとうかん判任官はんにんかん分類ぶんるいされる[27][28]。さらに高等官こうとうかんみことのり任官にんかんそう任官にんかんけられ、みことのり任官にんかん大臣だいじんとうおや任官にんかん次官じかん局長きょくちょうなどの親任しんにんかん以外いがいみことのり任官にんかんけられていた[27]

なお、地方ちほう公共こうきょう団体だんたいにおいて公務こうむ従事じゅうじ官吏かんり相当そうとうするもの公吏こうりんだ。地方ちほう行政ぎょうせい機関きかん機構きこうかんする規則きそくは1871ねん制定せいていされた府県ふけん官制かんせい、1886ねん制定せいていされた地方ちほうかん官制かんせいによってさだめられた。府県ふけんにおいて知事ちじおよ主要しゅよう職員しょくいんくに官吏かんりであるが、それとはべつ公吏こうりかれていた。市町村しちょうそんにおいては官吏かんりかれず、公吏こうりのみかれた[29]

終戦しゅうせん

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だい世界せかい大戦たいせんわり、連合れんごうこくぐんによる占領せんりょう統治とうちはじめられると、官吏かんり制度せいどおおきく変更へんこうされはじめた。

まず、官吏かんり制度せいど改正かいせいせきスルけん1945ねん11月13にち閣議かくぎ決定けってい)をはじめとして、矢継やつばや官吏かんり制度せいど合理ごうり民主みんしゅおこなわれる。

日本国にっぽんこく憲法けんぽう官吏かんり制度せいど

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1946ねん昭和しょうわ21ねん11月3にち日本国にっぽんこく憲法けんぽう公布こうふされ、1947ねん5月3にち施行しこうされた。

日本国にっぽんこく憲法けんぽうあらわれる「官吏かんり」の文言もんごんだい7じょうだい5ごうおよだい73じょうだい4ごうである[30]

国務大臣こくむだいじんおよ法律ほうりつさだめるその官吏かんり任免にんめんならびに全権ぜんけん委任いにんじょうおよ大使たいしおよ公使こうし信任しんにんじょう認証にんしょうすること。
  • だいななじゅうさんじょう 内閣ないかくは、一般いっぱん行政ぎょうせい事務じむそとひだり事務じむおこなう。
よん 法律ほうりつさだめる基準きじゅんしたがえひ、官吏かんりかんする事務じむ掌理しょうりすること。

日本国にっぽんこく憲法けんぽうは、地方ちほう公務員こうむいんかたりとして「吏員りいん」(日本国にっぽんこく憲法けんぽう93じょう2こう)をもちいる。現在げんざい地方ちほう公務員こうむいん元来がんらい吏員りいん以外いがい地方ちほう公共こうきょう団体だんたい職員しょくいん包含ほうがんする。

きゅう地方ちほう自治じちほうも「吏員りいん」のかたりもちい(きゅう173じょう)、「事務じむ吏員りいん」と「技術ぎじゅつ吏員りいん」の区別くべつもあったが、ほう改正かいせい平成へいせい18ねん法律ほうりつ53ごう)により「職員しょくいん」のかたりあらためられ、姿すがたした[30]

きゅう警察けいさつほうも「吏員りいん」のかたりもちい、警察官けいさつかん警察けいさつ吏員りいんとを区別くべつしたが、ほう改正かいせいによりとも警察官けいさつかんかたりあらためられた。

フランスの官吏かんり

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構成こうせい

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フランスでは国家こっか公務員こうむいん官吏かんり(Titulaires)と官吏かんり(Non titulaires)にけられる[31]恒久こうきゅうてき官職かんしょく地位ちい任命にんめい行為こうい任用にんようされる公務員こうむいん官吏かんり(Titulaires)といい、見習みなら職員しょくいん補助ほじょ職員しょくいん臨時りんじ職員しょくいんなどを官吏かんり(Non titulaires)という[31]

フランスの官吏かんり人事じんじ管理かんりは、やく600あるコール(corps)という職員しょくいんぐんごとにおこなわれており、コールはしょう横断おうだんてきなものと特定とくていしょう存在そんざいするものとがある[32]

官吏かんりはいずれかのコールにぞくしており、採用さいよう試験しけんもコールごとにかれている機関きかん実施じっししている[32]公務こうむがいから試験しけんによらずコールにはいることはほぼないが、一方いっぽう官吏かんり身分みぶん保持ほじしたまま民間みんかん企業きぎょう政界せいかい勤務きんむするものおお[32]

フランスの官吏かんり法制ほうせいは、資格しかくべつ競争きょうそう試験しけんによる採用さいよう職員しょくいんぐんへの身分みぶん帰属きぞく年功序列ねんこうじょれつによる昇進しょうしん強固きょうこ身分みぶん保障ほしょうなどが特徴とくちょうとなっている[33]

なお、職員しょくいんぐんぞくするのは官吏かんりのみで、正規せいき職員しょくいん職員しょくいんぐんにはぞくさない[33]

任用にんよう

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本省ほんしょうそう局長きょくちょうおよ局長きょくちょう大使たいし地方ちほう長官ちょうかん大学だいがく区長くちょうなどは高級こうきゅうしょくとされ、やく600(そのうち本省ほんしょうやく300)あり政治せいじ任用にんよう自由じゆう任用にんよう)のしょくである[32]高級こうきゅうしょく任命にんめいは、かく大臣だいじん候補者こうほしゃえらび、大統領だいとうりょう閣議かくぎはかったうえおこな[32]資格しかく要件ようけんとくになく官吏かんり以外いがいから任命にんめいすることも可能かのうだが、実際じっさい官吏かんり以外いがいから任命にんめいされることはきわめてすくない[32]

ドイツの官吏かんり

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構成こうせい

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ドイツでは国家こっか公務員こうむいん官吏かんり(Beamte)と公務こうむ被用者ひようしゃ(Tarifbeschäftigte)にけられる[31]官吏かんり(Beamte)は公法こうほうじょう勤務きんむ忠誠ちゅうせい関係かんけいがあるもので、統治とうちけん関与かんよしたり公権力こうけんりょく行使こうしたる公務員こうむいんをいう[31]。これにたいして公務こうむ被用者ひようしゃ(Tarifbeschäftigte)は私法しほうじょう雇用こよう契約けいやくによって任用にんようされている公務員こうむいんをいう[31]

事務次官じむじかん局長きょくちょうなどのポスト(やく400にん)は政治せいじてき任用にんようによる職員しょくいんで「政治せいじてき官吏かんり」とばれている[31]

なお、ドイツの地方ちほう官吏かんりは、取得しゅとく学位がくい職務しょくむちがいにより、高級こうきゅうしょく上級じょうきゅうしょく中級ちゅうきゅうしょく単純たんじゅん業務ぎょうむしょくの4つのキャリアグループに区分くぶんされている[34]連邦れんぽう制度せいど改革かいかく一環いっかん連邦れんぽう給与法きゅうよほうってきたしゅう官吏かんり給与きゅうよ制度せいどが、2007ねん1がつから各州かくしゅう政府せいふ権限けんげん移行いこうされたが、実績じっせき賞与しょうよ実績じっせき手当てあて支給しきゅう実施じっしじょうきょう各州かくしゅうによってことなる[34]

任用にんよう

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ドイツにはラウフバーン(Laufbahn)とばれる類似るいじする専門せんもん教育きょういく必要ひつようとする官職かんしょく集団しゅうだんがあり、それぞれ必要ひつよう学歴がくれき資格しかく要件ようけんさだめられており、官吏かんり採用さいよう昇進しょうしんもこれにしたがっておこなわれる[35]

事務次官じむじかん局長きょくちょうとうも、官吏かんりとして成績せいせき主義しゅぎもとづく任用にんよう政治せいじてき中立ちゅうりつなどがもとめられているが、これらのポストは大臣だいじん政治せいじてき意図いとおよ目標もくひょう実現じつげんささえることがもとめられる政治せいじてき官吏かんりとされ、公募こうぼ例外れいがいとされ、大臣だいじんとの信頼しんらい関係かんけい任用にんよう重要じゅうよう要件ようけんとなることから、身分みぶん保障ほしょう例外れいがいとして大臣だいじん理由りゆうなしにいつでも一時いちじ退職たいしょくさせることができるとされている[35]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく
  1. ^ みことのり授・そう授・ばん授とみことのりにんそうにんばんにんがどちらも使用しようされていたが、1875ねん明治めいじ8ねん)3がつ14にちみことのり授・そう授・ばん授の廃止はいしめた[10]
  2. ^ 政体せいたいしょでは政官せいかん行政ぎょうせいかん神祇官じんぎかん会計かいけいかん軍務ぐんむかん外国がいこくかん刑法けいほうかん合計ごうけいななかんもうけた[11]
  3. ^ 内閣ないかく記録きろくきょく見解けんかいによれば、下級かきゅう官吏かんりである使つかい明治めいじ2ねん7がつ8にち官位かんい相当そうとうひょうではしょうはつ相当そうとうであったが、同年どうねん8がつ22にち改正かいせいひょうには掲載けいさいされなかったためとうない判任官はんにんかんから等外とうがい吏にその地位ちいろした[16] [17]使つかい律令制りつりょうせいにおいてはざつにんかんじんであり、中世ちゅうせい以降いこう地下ちかしょくとして江戸えど時代じだいまで存続そんぞくしたもので、明治めいじ政府せいふでも下級かきゅう官吏かんり官職かんしょくであった。
  4. ^ 背景はいけい事情じじょうとして、1874ねん明治めいじ通宝つうほうなど紙幣しへい証券しょうけん印刷いんさつ設備せつびきたドイツ連邦れんぽうから日本にっぽん移転いてんしていた。
出典しゅってん
  1. ^ 内閣ないかく官報かんぽうきょく へん慶応けいおう3ねんだい13】 とく川内せんだい大政たいせい返上へんじょう将軍しょうぐん辞職じしょくノ請ヲまこと摂関せっかん幕府ばくふはいかり総裁そうさい議定ぎてい参与さんよさんしょくおけク(みや堂上どうじょう諭告ゆこく)(12月9にち)」『法令ほうれい全書ぜんしょ慶応けいおうねん内閣ないかく官報かんぽうきょく東京とうきょう、1912ねん10がつ、6-8ぺーじNDLJP:787948/9 
  2. ^ 内閣ないかく官報かんぽうきょく へん明治めいじ元年がんねんだい36】 さん職分しょくぶん職制しょくせいていム(正月しょうがつ17にち)」『法令ほうれい全書ぜんしょ慶応けいおうねん内閣ないかく官報かんぽうきょく東京とうきょう、1912ねん10がつ、16-17ぺーじNDLJP:787948/57 
  3. ^ かくはんちょうたてまついのち即日そくじつヨリ朝臣あそん心得こころえシム」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070181500、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかんかんぶんまわし任免にんめんいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  4. ^ みつぎ廃止はいしづけけんニ於テ官員かんいん登用とうようふしべんごと役所やくしょ申請しんせいセシム」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070182600、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかんかんぶんまわし任免にんめんいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  5. ^ 内閣ないかく官報かんぽうきょく へんだい105 ちょうやとい申付もうしつけかたていム(2がつ3にち)(ぬの)(行政ぎょうせいかん)」『法令ほうれい全書ぜんしょ明治めいじねん内閣ないかく官報かんぽうきょく東京とうきょう、1912ねん10がつ、54ぺーじNDLJP:787949/64 
  6. ^ a b c 判任官はんにんかん以下いかクハやといヲ以テにんあいだまたちょうヲ以テにんスルモノアリ」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070181600、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかんかんぶんまわし任免にんめんいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  7. ^ ちょうやといしょうはいス」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070094300、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかん官制かんせい文官ぶんかん職制しょくせいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  8. ^ 藩士はんし登用とうようさい其藩ヘ牒スルノれいとめちょうやといしょうはい廟議びょうぎヲ以テせんようスルモノトス」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070183800、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかんかんぶんまわし任免にんめんいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  9. ^ 「輔相議定ぎてい参与さんよとう投票とうひょうせんきょセシム」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070098000、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかん官制かんせい文官ぶんかん職制しょくせいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  10. ^ 「授任みことのりそうばん区別くべつおのれなながつ両度りょうどたちうちまえぶん廃止はいし国立こくりつ公文書こうぶんしょかん請求せいきゅう番号ばんごうたい00229100、件名けんめい番号ばんごう:002、ふとしせいるいてんだいへん明治めいじよんねん明治めいじじゅうねんだいななかん制度せいどなな爵位しゃくい
  11. ^ 政体せいたいしょヲ頒ツ」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070093500、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかん官制かんせい文官ぶんかん職制しょくせいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  12. ^ はじめメテみことのりそうばんぶん宣旨せんじ押印おういんせいていム」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070093800、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかん官制かんせい文官ぶんかん職制しょくせいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  13. ^ 内閣ないかく官報かんぽうきょく へんだい622 職員しょくいんれいなみ官位かんい相当そうとうひょう明治めいじ2ねん7がつ8にち)」『法令ほうれい全書ぜんしょ明治めいじねん内閣ないかく官報かんぽうきょく東京とうきょう、1912ねん10がつ、263ぺーじNDLJP:787949/168 
  14. ^ みことのりそうばんにん区別くべつていばんにんハ其長官ちょうかんヲ授ケ位階いかい太政官だじょうかんたまものフ」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070026900、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいかん制度せいど出版しゅっぱん爵位しゃくい国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  15. ^ 判任官はんにんかんじゅうろくとうちゅうだいとう以下いか等外とうがいためス」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070094600、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかん官制かんせい文官ぶんかん職制しょくせいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  16. ^ 使つかいとう内外ないがい区別くべつヲ稟定ス」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15111473500、公文こうぶん類聚るいじゅうだいじゅうへん明治めいじじゅういちねんだいさんかん官職かんしょく職制しょくせい章程しょうてい官等かんとう俸給ほうきゅう席次せきじ国立こくりつ公文書こうぶんしょかん)(だい8画像がぞうからだい9画像がぞうまで)
  17. ^ 石井いしい しげる 2015, pp. 96, 105.
  18. ^ 石井いしい しげる 2015, p. 104.
  19. ^ 石井いしい しげる 2015, pp. 102−104, 106.
  20. ^ 警視庁けいしちょう各省かくしょう官制かんせいちゅう疑問ぎもんよりどころ等外とうがい出仕しゅっしはいセラレタルむねこたえしめせス」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15111077700、公文こうぶん類聚るいじゅうだいじゅうへん明治めいじじゅうきゅうねんだいかん官職かんしょくいち官職かんしょくすべ官職かんしょく職制しょくせい章程しょうていだいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん
  21. ^ JACAR:A15070095100だい1画像がぞうからだい2画像がぞう
  22. ^ JACAR:A15070095100だい2画像がぞうからだい3画像がぞう
  23. ^ JACAR:A15070095100だい3画像がぞうからだい4画像がぞう
  24. ^ JACAR:A15070095100だい4画像がぞうからだい5画像がぞう
  25. ^ JACAR:A15070095100だい5画像がぞうからだい6画像がぞう
  26. ^ むかしの「1えん」はいまのいくら?1えんから貨幣かへい価値かち今昔こんじゃく物語ものがたり 三菱みつびしUFJ信託しんたく銀行ぎんこう
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  35. ^ a b だい1へん人事じんじ行政ぎょうせい》【だい2変革へんかくせまられる国家こっか公務員こうむいん人事じんじ管理かんり 参考さんこう資料しりょう2 しょ外国がいこくにおける幹部かんぶ公務員こうむいん人事じんじ ドイツ”. 人事院じんじいん平成へいせい22年度ねんど年次ねんじ報告ほうこくしょ. 2023ねん9がつ28にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

編集へんしゅう
  • 猪飼いかい隆明たかあき西郷さいごう隆盛たかもり - 西南せいなん戦争せんそうへのみち -』岩波書店いわなみしょてん、1992ねん
  • 石井いしい しげる行政ぎょうせい機関きかんにおける雇員こいん制度せいど成立せいりつ」『ソシオサイエンス』だい21かん早稲田大学わせだだいがく大学院だいがくいん社会しゃかい科学かがく研究けんきゅう、2015ねん3がつ25にち、94-108ぺーじCRID 1050001202468519424ISSN 1345-8116NCID AN10507232hdl:2065/45137 
  • じゅんかん心得こころえ試補しほとう沿革えんかく」JACAR(アジア歴史れきし資料しりょうセンター)Ref.A15070095100、ふとしせいるいてんだいいちへん慶応けいおうさんねん明治めいじよんねんだいじゅうかん官制かんせい文官ぶんかん職制しょくせいいち国立こくりつ公文書こうぶんしょかん