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政体書 - Wikipedia

政体せいたいしょ

大日本帝國だいにっぽんていこく太政官だじょうかん布告ふこく

政体せいたいしょ(せいたいしょ)は、明治めいじ初期しょき政治せいじ大綱たいこう[2]統治とうち機構きこうについてさだめた太政官だじょうかん布告ふこくである。副島そえじま種臣たねおみ福岡ふくおか孝弟こうていアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽうおよび『西洋せいよう事情じじょうとう参考さんこう起草きそうし、1868ねん6月11にち慶応けいおう4ねんうるう4がつ21にち)に発布はっぷされた[3]同年どうねん4がつ27にち頒布はんぷ[2]

政体せいたいてい[1]
日本国政府国章(準)
日本にっぽん法令ほうれい
通称つうしょう略称りゃくしょう 政体せいたいしょ
法令ほうれい番号ばんごう 明治めいじ元年がんねん慶応けいおう4ねんうるう4がつ21にち太政官だじょうかん
種類しゅるい 憲法けんぽう
効力こうりょく 失効しっこう
公布こうふ 1868ねん6がつ11にち
おも内容ないよう 統治とうち機構きこうさだめる
条文じょうぶんリンク 法令ほうれい全書ぜんしょ明治めいじ元年がんねんだい331】
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概説がいせつ

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慶応けいおう3ねん12月9にち(1868ねん1がつ3にち王政おうせい復古ふっこのクーデター慶応けいおう4ねん1がつ3にち - 7にち1がつ27にち - 30にち)の鳥羽とば伏見ふしみたたか4がつ11にち5月3にち)の江戸えど開城かいじょうなどをて、奥羽おうう北越ほくえつ地方ちほうでは交戦こうせんつづいていたが、関東かんとう地方ちほう以西いせいをほぼ掌握しょうあくしたしん政府せいふが、それまでの臨時りんじ政府せいふてきさんしょく体制たいせいえてあらたな官制かんせいさだめたものである。

冒頭ぼうとう箇条かじょう誓文せいもんかかげてこれを政府せいふ基本きほん方針ほうしん位置いちづけ、国家こっか権力けんりょく総括そうかつする中央ちゅうおう政府せいふとして太政官だじょうかんき、2めい輔相(ほしょう)をその首班しゅはんとした。太政官だじょうかん権力けんりょく立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほう三権さんけんけ、それぞれを立法りっぽう政官せいかん行政ぎょうせい行政ぎょうせい神祇じんぎ会計かいけい軍務ぐんむ外国がいこくの5かん司法しほう刑法けいほうかん合計ごうけいななかんてのひら三権分立さんけんぶんりつ体制たいせいがとられたが、実際じっさいには政官せいかん議定ぎてい参与さんよ構成こうせいするうえきょく実力じつりょくしゃ行政ぎょうせいかくかん責任せきにんしゃねたり、刑法けいほうかん行政ぎょうせいかん監督かんとくにあったりして権力けんりょく分立ぶんりつ不十分ふじゅうぶんなものであった。地方ちほうはんけんさんはんけんさんせい)。 [2]

戊辰戦争ぼしんせんそう終結しゅうけつ政治せいじ状況じょうきょう変化へんかともな若干じゃっかん変更へんこうのち明治めいじ2ねん7がつ8にち1869ねん8がつ15にち)にあらたに発布はっぷされた職員しょくいんれいによって、太政官だじょうかんかんろくしょう体制たいせいあらためられた。

内容ないよう

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  • 箇条かじょう誓文せいもん国家こっか基本きほん方針ほうしんとする。(だい1じょう
  • 太政官だじょうかんへの権力けんりょく集中しゅうちゅう立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほう三権分立さんけんぶんりつ。(だい2じょう
  • 立法りっぽうかん行政ぎょうせいかん兼職けんしょく禁止きんし。(だい3じょう
  • かくかん任期にんきを4ねんとし、2ねんごとに半数はんすう改選かいせんする。(だい9じょう
  • だい一等いっとうかんからだいきゅうとうかん官等かんとうさだめる。(だい13じょう

出典しゅってん

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  1. ^ 日本法令にほんほうれい索引さくいん
  2. ^ a b c 永原ながはらけい監修かんしゅう岩波いわなみ 日本にっぽん辞典じてん』1999ねん 650ぺーじ
  3. ^ 竹内たけうちさん (1978) 『日本にっぽんきん現代げんだいしょう辞典じてん角川書店かどかわしょてん、43ぺーじ

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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