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太政官 (明治時代) - Wikipedia

太政官だじょうかん (明治めいじ時代じだい)

明治めいじ設置せっちされた日本にっぽん国家こっか機関きかん

太政官だじょうかん(だじょうかん)とは、明治維新めいじいしん開始かいしされた慶応けいおう4ねん/明治めいじ元年がんねん1868ねん)、政体せいたいしょによって設置せっちされた最高さいこう行政ぎょうせい機関きかんである[1]立法りっぽう行政ぎょうせい司法しほう機能きのうそなえていた。職名しょくめい律令制りつりょうせい名称めいしょうがそのまま使つかわれていたが、その組織そしきかんしてはいく改革かいかくがされた。明治めいじ18ねん1885ねん)に内閣ないかく制度せいど発足ほっそくともない、廃止はいしされた。

太政官だじょうかん
太政官だじょうかんしるし
組織そしき概要がいよう
設立せつりつ年月日ねんがっぴ1868ねん慶応けいおう4ねん6月11にち
解散かいさん年月日ねんがっぴ1885ねん明治めいじ18ねん12月22にち
継承けいしょう組織そしき
管轄かんかつTemplate:Country alias GOJの旗 日本国にっぽんこく政府せいふ
監督かんとく大臣だいじん
下位かい組織そしき
歌川うたがわ広重ひろしげ (3代目だいめ)による太政官だじょうかんしょ駅逓えきていりょう元老げんろういん議事堂ぎじどう

沿革えんかく

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1868ねん6月11にち慶応けいおう4ねん/明治めいじ元年がんねん旧暦きゅうれきうるう4がつ21にち)に公布こうふされた政体せいたいしょ慶応けいおう4ねん太政官だじょうかんたちだい331ごう)にもとづいてかれた。当初とうしょは、政官せいかん以下いか7かん総称そうしょうだった。

1869ねん明治めいじ2ねん)の官制かんせい改革かいかくで、みんしょう以下いか6しょう管轄かんかつし、左右さゆうりょう大臣だいじんかれた。

1871ねん長官ちょうかんとして太政大臣だじょうだいじん(だじょうだいじん)がかれた。

1885ねん明治めいじ18ねん)、内閣ないかく制度せいど発足ほっそくともな廃止はいしされた。

官制かんせい

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慶応けいおう4ねんから明治めいじ18ねんいた期間きかんは、官制かんせい改廃かいはいいちじるしく、つね一定いっていしない。官制かんせい大要たいよう下記かきのように改編かいへんされた。

さんしょく

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慶応けいおう3ねんきゅう12がつ9にち1868ねん1がつ3にち)に王政おうせい復古ふっこだい号令ごうれいされると同時どうじ戊辰戦争ぼしんせんそう鳥羽とば伏見ふしみたたか)がはじまり、依然いぜんとして強力きょうりょく政治せいじ体制たいせい維持いじしていた江戸えど幕府ばくふわる政治せいじ体制たいせい確立かくりつ急務きゅうむとなった。そこで、幕府ばくふ征夷大将軍せいいたいしょうぐん摂政せっしょう関白かんぱくわるものとして、総裁そうさい有栖川ありすがわみや熾仁親王たるひとしんのう)、議定ぎてい皇族こうぞく2めい公卿くぎょう3めい薩摩さつま尾張おわり越前えちぜん安芸あき土佐とさかく藩主はんしゅけい10めい)、参与さんよ公卿くぎょう5めい議定ぎてい5はんよりかく3めいけい20めい)のさんしょく任命にんめいされた。

慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん)1がつには、このした神祇じんぎ内国ないこく外国がいこく海陸かいりくぐん会計かいけい刑法けいほう制度せいどなないてさんしょくななとし、当面とうめん政務せいむたることになった。よく2がつには、きょくとして総裁そうさいきょく設置せっちし、さんしょくはちきょくとした(なお、海陸かいりくぐんぐんぼう事務じむきょく改称かいしょうされた)。総裁そうさいきょくにはふく総裁そうさいき、議定ぎてい岩倉いわくら具視ともみ三条さんじょう実美みみをこれに任命にんめいして、熾仁親王たるひとしんのう補佐ほさすることとなった。

太政官だじょうかん日誌にっし』は慶応けいおう4ねん2がつ14にち(1868ねん3がつ7にち)からはじまっている[2]

がつじゅうよんにち うまはん󠄁こくよりさるこくまでに 大坂おおさか西本願寺にしほんがんじに於󠄁て

醍醐だいご大納おおの󠄁げん殿しんがり ひがし久世くぜぜん少將しょうしょう殿どの 宇和うわしま少將しょうしょう殿どの 各國かっこくこう󠄁使つかい󠄁と應接おうせつ始末しまつ ひだりごと

ただし 外國がいこく事務じむがかり 及󠄁び しょ󠄀はん家老がろう列座れつざ

ひがし久世くぜ殿どの發話はつわ わが日本にっぽん 政體せいたい復古ふっこ

みかど󠄁みずか政權せいけんにぎし 外國がいこくの交󠄁きわも 一切いっさい朝廷ちょうてい󠄁にて曳請󠄁 裁判さいばん󠄁致可 … 
— 『太政官だじょうかん日誌にっしだいいち

また当時とうじ法規ほうきは『ふとしせいるいてん』にることができる。

政体せいたいしょ

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慶応けいおう4ねんきゅううるう4がつ21にち(1868ねん6月11にち)、副島そえじま種臣たねおみ福岡ふくおか孝弟こうてい起草きそうによる、基本きほんほうともいえる政体せいたいしょ慶応けいおう4ねん太政官だじょうかんたちだい331ごう)が、太政官だじょうかん布告ふこくされた。政体せいたいしょは、しん政府せいふ政体せいたいを「箇条かじょう誓文せいもん」にもとづくものとし、権力けんりょく分立ぶんりつ官吏かんり公選こうせんはんけんさんせいなどについて規定きていしている。この政体せいたいしょもとづいてきゅううるう4がつ27にち6月17にち)、日本にっぽんあたらしい体制たいせい発足ほっそくした。国家こっか権力けんりょく全体ぜんたい支配しはいする組織そしき太政官だじょうかんしょうして、同時どうじ内部ないぶでは権力けんりょく分立ぶんりつおこなって専制せんせい権力けんりょく発生はっせい阻止そししながら、しょ大名だいみょう国民こくみん強力きょうりょく支配しはいしていく体制たいせい組織そしきしようとした。

政體せいたい慶應けいおうよんねん太政官だじょうかんたち󠄁だい331ごう
りゃく
いち 天下てんか權力けんりょくそうテコレヲ太政官だじょうかんそく政令せいれい二途にと󠄁ニいずルノ患無カラシム太政官だじょうかん權力けんりょくぶん󠄁ツテ立法りっぽう司法しほう行政ぎょうせい三權さんけんトスそくへん󠄁しげるノ患無カラシムルナリ
いち 立法りっぽうかん行政ぎょうせいかんけん󠄁ヌルヲとく行政ぎょうせいかん立法りっぽうかんけん󠄁ヌルヲただし臨時りんじ󠄁じゅん󠄁察ト外國がいこく應接おうせつトノ如キなお󠄁立法りっぽうかんとくかん
りゃく

さんしょくのうち総裁そうさい廃止はいしされて(当時とうじ熾仁親王たるひとしんのう江戸えど滞在たいざいちゅう)、ふく総裁そうさい2にん輔相(ほしょう)しょうして事実じじつじょう政府せいふ首班しゅはんいた。立法りっぽうけんつかさど政官せいかんは、議定ぎてい参与さんよからなるうえきょくしょはん代表だいひょうみつぎ)からなるしたきょくから構成こうせいされた。行政ぎょうせいけんつかさどるのは、行政ぎょうせい神祇じんぎ会計かいけい軍務ぐんむ外国がいこくかくかん官庁かんちょう)からなる五官ごかんであり、とく行政ぎょうせいかんは輔相をちょうとしてほかの4かん監督かんとくする役割やくわりになった。三権さんけんになかんうち司法しほうけんあつか刑法けいほうかんは、実際じっさいには4かん同様どうよう行政ぎょうせいかん監督かんとくけていたため、司法しほうけん独立どくりつ形骸けいがいした。さらに、輔相は議定ぎてい資格しかく政官せいかんうえきょく)の構成こうせいメンバーでもあったため、権力けんりょく分立ぶんりつかたちばかりとなっていた。

戊辰戦争ぼしんせんそう終了しゅうりょう明治めいじ2ねん1869ねん)にはいると、版籍はんせき奉還ほうかん実施じっしされて、しょはん政府せいふ地方ちほう機関きかんとして位置付いちづけられた。そこで、会計かいけいかんから地方ちほう行政ぎょうせいあつかみんかん独立どくりつした。つづいて政体せいたいしょもとづく「官吏かんり公選こうせん」がおこなわれて守旧しゅきゅう公家くげ諸侯しょこう事実じじつじょう排除はいじょされるかたちとなった。また、監察かんさつ機関きかんとして弾正だんじょうだい設置せっちされた。

明治めいじ太政官だじょうかんせい

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こうした政治せいじ情勢じょうせい変動へんどう対応たいおうして、明治めいじ2ねん7がつ8にち(1869ねん8がつ15にち)に、あたらしい太政官だじょうかんせい導入どうにゅうされた。これは、アメリカ影響えいきょうけた政体せいたいしょ体制たいせい廃止はいしして、「祭政さいせい一致いっち」を原則げんそくとした復古ふっこてき官制かんせいであった。まず神祇官じんぎかん復活ふっかつして太政官だじょうかんよりも上位じょういかれ、太政官だじょうかんしたにはみんしょう大蔵省おおくらしょう兵部ひょうぶしょう刑部おさかべしょうみや内省ないせい外務省がいむしょう設置せっちされるというかんろくしょうせいられ、さむらいみことのりいん弾正だんじょうだいしゅう議院ぎいんだい学校がっこうなどのしょ機関きかんかれた。

また、三権さんけんがいずれも太政官だじょうかんしたかれたこと特徴とくちょうである。太政官だじょうかんには左右さゆうりょう大臣だいじんと3めい大納言だいなごん、3めい参議さんぎからなる「さんしょく」がかれて指揮しきをとった。さんしょく明治天皇めいじてんのうたいして「さんしょく盟約めいやく」・「約束やくそくよんじょう」とばれる誓約せいやくおこなって天皇てんのうへの忠誠ちゅうせい公正こうせい政務せいむちかった。また、これにともない「官位かんい相当そうとうひょう」が改正かいせいされ、左右さゆうりょう大臣だいじんしたがえいちまたはせい大納言だいなごんしたがえ参議さんぎきょうせいさん大輔だいすけしたがえさんしょう輔はせいよんとされ、またはちはつあいだただししたがえきゅう位階いかい追加ついかされた。また、任命にんめい手続てつづきにおいてはよん以上いじょうを「みことのり授」・ろく以上いじょうを「そう授」・なな以下いかを「はん授」とんだがすぐにあらためられて、位階いかい授与じゅよについては従来じゅうらいどおり、役職やくしょく任命にんめいについてはみことのりにんそうにんはんにん改称かいしょうされることになった。

だが、ぶたけてみると右大臣うだいじん三条さんじょう大納言だいなごん岩倉いわくら徳大寺とくだいじ実則さねつねがついたのをはじめとして主要しゅよう官職かんしょく皇族こうぞく公家くげ独占どくせんして、わずかに参議さんぎ前原まえはら一誠いっせい副島そえじま種臣たねおみみんきょうまえ福井ふくい藩主はんしゅ松平まつだいらはるだけ慶永よしなが)が武士ぶし階層かいそうからえらばれただけであった。保守ほしゅ画策かくさくによって木戸きど孝允たかよし大久保おおくぼ利通としみち板垣いたがき退助たいすけらは閑職かんしょくであったさむらいみことのりいん学士がくしいやられてしまったのである。これに反発はんぱつした岩倉いわくらは、三条さんじょう相談そうだんして大久保おおくぼ広沢ひろさわしんしんのち佐々木ささき高行たかゆきくわえて)を追加ついか任命にんめいしてかえしをはかったのである。

こうしたなか問題もんだいとなったのは、みんしょう大蔵省おおくらしょう合併がっぺい問題もんだいであった。徴税ちょうぜい機構きこう財政ざいせい機構きこう一本いっぽん目指めざして明治めいじ2ねん8がつ11にち両省りょうしょう合併がっぺいみんきょう松平まつだいらはるだけ大蔵おおくらきょうを、大蔵おおくら大輔だいすけ大隈おおくま重信しげのぶみん大輔だいすけ兼任けんにんした。今度こんど中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい確立かくりついそ木戸きど支持しじ大隈おおくま大蔵おおくらしょう伊藤いとう博文ひろぶみ開明かいめい若手わかて官僚かんりょう画策かくさくであった。一方いっぽう大久保おおくぼらはこうしたうごきにたいして、しんしょう太政官だじょうかん上回うわまわ権限けんげんつとして反発はんぱつし、参議さんぎ地方ちほうかんむすんで大隈おおくま伊藤いとう排撃はいげきさい分離ぶんりもとめた。これには、大蔵省おおくらしょう管轄かんかつひろくなりすぎて、目配めくばりがかなくなり効率こうりつになったことと、大蔵省おおくらしょう地方ちほうかん徴税ちょうぜい徴兵ちょうへいれい予定よてい)にたいして農民のうみん十分じゅうぶん説明せつめいおこたり、不満ふまんこえにも十分じゅうぶん対応たいおうをせず、結果けっか全国ぜんこく各地かくち農民のうみん騒乱そうらん多発たはつしていたことが念頭ねんとうにあった。大蔵省おおくらしょう地方ちほうかんなかには、きゅう殿様とのさま気分きぶん民情みんじょうへの配慮はいりょける人物じんぶつもおり、地方ちほう行政ぎょうせい管轄かんかつするしょう必要ひつようとの意見いけん大久保おおくぼ中心ちゅうしんていた。明治めいじ3ねん7がつ10日とおか1870ねん8がつ6にち)に大久保おおくぼ主導しゅどうして両省りょうしょうさい分離ぶんり決定けっていされた。

だが、最終さいしゅうてき両派りょうはあいだ妥協だきょう成立せいりつして、明治めいじ3ねんうるう10がつ20日はつか1870ねん12月12にち)に殖産しょくさん興業こうぎょうせんもんあつかこうしょう分離ぶんりえに、明治めいじ4ねん7がつ27にち1871ねん9月11にち)にみん大蔵おおくら両省りょうしょうさい合併がっぺい決定けっていされた。これは木戸きどへの妥協だきょうという政治せいじてき事情じじょうだけでなく、あらたに地方ちほう行政ぎょうせい統括とうかつするしょうのありかためぐって、太政官だじょうかん内部ないぶでの意思いし統一とういつ出来できていなかったことと、大久保おおくぼ旧来きゅうらいみんしょうではなく、自身じしんひそかに青写真あおじゃしんえがいていた内務省ないむしょう新設しんせつして、内政ないせい全般ぜんぱん統括とうかつさせることをかんがえていたからである。

明治めいじ4ねんはいると廃藩置県はいはんちけんけた政府せいふないうごきがひそかにうごし、薩摩さつま長州ちょうしゅう土佐とさ3はんへいおやへいとしてあつめるとともに、郷里きょうりかえっていた西郷さいごう隆盛たかもり板垣いたがき退助たいすけもどした。

廃藩置県はいはんちけん官制かんせい

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明治めいじ4ねん7がつ14にち(1871ねん8がつ29にち)、廃藩置県はいはんちけん断行だんこうされた。ほぼ前後ぜんごして司法省しほうしょう文部省もんぶしょう設置せっちされいで正院しょういん中央ちゅうおう政府せいふ)・ひだりいん諮問しもん機関きかん)・みぎいん調整ちょうせい機関きかん)が設置せっちされ、神祇官じんぎかん神祇じんぎしょう格下かくさげされるなどの改革かいかく断行だんこうされた。さら同時どうじ人事じんじめんでも改革かいかくすすめられ、太政大臣だじょうだいじん三条さんじょう参議さんぎ西郷さいごう木戸きど大隈おおくま板垣いたがき就任しゅうにんして、これに岩倉いわくら万里小路まりこうじはくぼう政府せいふないとどまったもののほか公家くげ諸侯しょこうことごとしょくめんぜられ、旧来きゅうらいどおりの宮中きゅうちゅう女官にょかん排除はいじょおこなわれた。さら位階いかいせい廃止はいしして15かいからなる官等かんとうせい文官ぶんかんは3とう武官ぶかんは4とう以上いじょうみことのり任官にんかん、7とう以上いじょうそう任官にんかん、それ以下いか判任官はんにんかんとする)を導入どうにゅうした。これによって、天皇てんのう親臨しんりん親裁しんさい形式けいしき太政官だじょうかん以下いかひきい、さん大臣だいじんがこれを輔弼ほひつして参議さんぎきょう指揮しきする(したがって参議さんぎ以下いかには輔弼ほひつ責任せきにんはなかった)という明治めいじ太政官だじょうかんせい基本きほん形式けいしき薩長さっちょう土肥どい出身しゅっしんしゃによる藩閥はんばつ原点げんてん確立かくりつした。

明治めいじ8ねん官制かんせい

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明治めいじ6ねん9月21にち1873ねん11月10にち)、大久保おおくぼにより「国内こくない安寧あんねい人民じんみん保護ほご」をスローガンに、巨大きょだい官僚かんりょう組織そしきである内務省ないむしょう設立せつりつされる。大久保おおくぼみずからが初代しょだい内務ないむきょうとなった内務省ないむしょうは、絶大ぜつだい権力けんりょく内政ないせい専管せんかんするだけでなく殖産しょくさん興業こうぎょう政策せいさく推進すいしんし、日本にっぽん近代きんだいのための司令塔しれいとうとして君臨くんりんした。西郷さいごう木戸きど政治せいじ活動かつどうにおける組織そしきてき基盤きばんたなかったが、大久保おおくぼ内務省ないむしょう内務ないむ官僚かんりょうという、みずからがつくげた官僚かんりょう機構きこう基盤きばんとして、「維新いしんのリーダー」のような強烈きょうれつ個性こせいくに牽引けんいんするのではなく、組織そしき集団しゅうだん着実ちゃくじつくに近代きんだいすすめるあたらしい政治せいじスタイルへと転換てんかんさせていった[3]

明治めいじ8ねん1875ねん)1がつ参議さんぎ大久保おおくぼ伊藤いとう博文ひろぶみは、せいかんろんなどをめぐって辞職じしょくした木戸きど板垣いたがきたいし、参議さんぎ復職ふくしょくすることをもとめた(大阪おおさか会議かいぎ)。同年どうねん2がついたり、立憲りっけん体制たいせい漸次ぜんじてき移行いこうすることで一致いっちし、2人ふたり復帰ふっきまった。4がつ14にちには立憲政体りっけんせいたい詔書しょうしょ太政官だじょうかん布告ふこくだい58ごう)をはっして、行政ぎょうせい担当たんとうする太政官だじょうかん正院しょういん立法りっぽう担当たんとうする元老げんろういん地方ちほうかん会議かいぎ司法しほう担当たんとうする大審院だいしんいん三権分立さんけんぶんりつせい基礎きそ形作かたちづくると同時どうじに、神祇じんぎしょうみや内省ないせい所管しょかんとなった[注釈ちゅうしゃく 1]

しょうりょう構造こうぞうつぎのとおり[4]

中央ちゅうおうしょうりょう

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地方ちほうはんけん

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この体制たいせいは、明治めいじ18ねん内閣ないかく制度せいど発足ほっそくするまでつづいた。

太政官だじょうかんせいにおける法令ほうれい

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この時代じだいされた太政官だじょうかん布告ふこく太政官だじょうかんたちなどの法令ほうれいは、のちに制定せいていされた法令ほうれい矛盾むじゅんしないかぎり、効力こうりょく存続そんぞくするとされている。詳細しょうさいについては、

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 神祇じんぎしょうは1872ねん設置せっち半年はんとしきょうしょう改称かいしょうしたが以後いご廃止はいしされた。改称かいしょうしたさい一部分いちぶぶん分割ぶんかつされ式部しきぶりょうとしてのこった。

出典しゅってん

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  1. ^ 1-4 太政官だじょうかんせい | 史料しりょうにみる日本にっぽん近代きんだい”. www.ndl.go.jp. 2024ねん5がつ1にち閲覧えつらん
  2. ^ 太政官だじょうかん日誌にっし だいいち慶應けいおうよんつちのえたつがつ』。国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション。
  3. ^ 佐々木ささきかつ『NHKさかのぼり日本にっぽん4 : 明治めいじ官僚かんりょう国家こっか」へのみちNHK出版しゅっぱん、2011ねん
  4. ^ 掌中しょうちゅう官員かんいんろく西村組にしむらぐみ出版しゅっぱんぐみ1875ねん明治めいじ8ねん)。

関連かんれん項目こうもく

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