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三条実美 - Wikipedia

三条さんじょう実美みみ

日本にっぽん公卿くぎょう政治せいじ (1837-1891)

三条さんじょう 実美みみ(さんじょう さねとみ、きゅう字体じたい三條さんじょう 實美みみ1837ねん3月13にち天保てんぽう8ねん2がつ7にち〉- 1891ねん明治めいじ24ねん2がつ18にち)は、日本にっぽん公卿くぎょう政治せいじ三条さんじょう31だい位階いかい勲等くんとう爵位しゃくいは、せいいちだいくん公爵こうしゃくごうなしどう(りどう)。変名へんめい梨木なしき まことひとし(なしき せいさい、きゅう字体じたい梨木なしき まこと󠄁ひとし)。

三条さんじょうさんじょう 実美みみさねとみ
三條さんじょう 實美みみ
三条さんじょう実美みみ(『近世きんせい名士めいし写真しゃしん 其1』より)
生年月日せいねんがっぴ 1837ねん3月13にち
天保てんぽう8ねん2がつ7にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん山城やましろこく京都きょうと
げん京都きょうと京都きょうと
ぼつ年月日ねんがっぴ (1891-02-18) 1891ねん2がつ18にち(53さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう東京とうきょう麻布あざぶ麻布あざぶ市兵衛いちべえまち
ぜんしょく 公卿くぎょう
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく
称号しょうごう せいいち
だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
公爵こうしゃく
配偶はいぐうしゃ 三条さんじょう治子はるこ
子女しじょ
親族しんぞく

内閣ないかく 三条さんじょう暫定ざんていないかく
在任ざいにん期間きかん 1889ねん10月25にち - 1889ねん12月24にち
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

日本の旗 初代しょだい 内大臣ないだいじん
在任ざいにん期間きかん 1885ねん12月22にち - 1891ねん2がつ18にち
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

在任ざいにん期間きかん 1871ねん9月13にち - 1885ねん12月22にち
天皇てんのう 明治天皇めいじてんのう

在任ざいにん期間きかん 1869ねん8がつ15にち - 1871ねん9月13にち

在任ざいにん期間きかん 1868ねん2がつ10日とおか - 1868ねん2がつ18にち

その職歴しょくれき
日本の旗 貴族きぞくいん議員ぎいん
1890ねん2がつ - 1891ねん2がつ18にち
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わか三条さんじょう実美みみ(『幕末ばくまつ明治めいじ大正たいしょう 回顧かいこはちじゅうねん』より)

幕末ばくまつには尊王そんのう攘夷じょうい討幕とうばく中心ちゅうしんてき人物じんぶつであり、明治維新めいじいしんこう元勲げんくん一人ひとりとして右大臣うだいじん太政大臣だじょうだいじん内大臣ないだいじん貴族きぞくいん議員ぎいんなどを歴任れきにんした。内閣ないかく発足ほっそく以後いご内閣ないかく総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいり兼任けんにんしている。

生涯しょうがい

編集へんしゅう

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天保てんぽう8ねん(1837ねん)、公卿くぎょう三条さんじょう実万さねつむ三男さんなんとしてまれる。幼名ようみょうぶく麿まろ正室せいしつ山内やまうち紀子のりこであったが、三男さんなんであったため、三条さんじょう庶流である花園はなぞのこうそう養子ようしとなる予定よていであった[1]おさなころから聡明そうめいであるとられ、またぶく麿まろ教育きょういくがかりであった儒者じゅしゃ富田とみた織部おりべ影響えいきょうで、尊皇そんのう意識いしきたかかった[2]

安政あんせい元年がんねん1854ねん)2がつ次兄じけい三条さんじょう嗣子ししであった三条さんじょうこうあつし早世そうせいした。おおやけむつみには嫡子ちゃくしおおやけきょうがおり、本来ほんらいであればおおやけきょうぐはずであったが、富田とみた織部おりべつよ推挙すいきょによって、4がつ嗣子ししとなった[3]。8月には元服げんぷくし、実美みみ名乗なのった[4]。「よし」の使つかった名乗なのりは本来ほんらい「よし」や「はる」とむが、実万さねつむはこれをみ、儒者じゅしゃ池内いけうち大学だいがくすすめにより「実美みみ」は「さねとみ」とむこととなった[5]。またこのさいおおやけきょう養子ようしとしてむかえている[5]

実万さねつむ攘夷じょうい達成たっせいのため、つちのえうま密勅みっちょく発出はっしゅつ立役者たてやくしゃとなったことで、幕府ばくふ迫害はくがいされることとなる。安政あんせい5ねん1858ねん)10がつ23にちちち実万さねつむ隠居いんきょ蟄居ちっきょし、富田とみた織部おりべなど三条さんじょうさむらいおお逮捕たいほされた(安政あんせい大獄たいごく[6]。このような状況じょうきょう実美みみ正式せいしき三条さんじょう家督かとく相続そうぞくしたが、よく安政あんせい6ねん1859ねん)4がつには実万さねつむ出家しゅっけ謹慎きんしんまれ、10月に死去しきょした[7]

尊攘そんじょう公家くげ代表だいひょう

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文久ぶんきゅう2ねん1862ねん)、島津しまつ久光ひさみつ上洛じょうらくすると、実美みみ活発かっぱつ活動かつどうはじめることとなる。5月10にちには久光ひさみつ意見いけんれるとともに、関白かんぱく九条くじょうしょうただしをすみやかに退任たいにんさせ、旧例きゅうれいにとらわれず関白かんぱくえらぶべきであるとする上書うわがき提出ていしゅつしている[8]翌日よくじつには国事こくじ書記しょき御用ごようにんぜられ、朝廷ちょうてい中枢ちゅうすうれることができるようになった[9]実美みみてたのはじつまんおしえをけた中山なかやま忠能ただやす親類しんるいすじ正親町おおぎまち三条さんじょうみのるあいであった[9]本来ほんらい実美みみ公武こうぶ合体がったいろんしゃであったが、一向いっこう攘夷じょういすすまない幕府ばくふへの不満ふまんをつのらせていた[10]。この時期じきには平野ひらの国臣くにおみの『つちかえくつがえろん』を筆写ひっしゃするなど、尊攘そんじょう志士ししとの交流こうりゅうふかめるようになっていた[11]

7がつから8がつにかけては、公武こうぶ合体がったい公卿くぎょうであった内大臣ないだいじん久我くがけんどおり岩倉いわくら具視ともみはじめとするよん嬪をはげしく攻撃こうげきし、失脚しっきゃくいやった[12]。さらにちちじつまん養女ようじょつまとしていた土佐とさはん山内やまうち容堂ようどうはたらきかけ、藩主はんしゅ山内やまうちゆたかはんとともに上洛じょうらくさせ、土佐とさはん中央ちゅうおう政界せいかい進出しんしゅつさせた[13]。 この時期じき実美みみらをはじめとする、朝廷ちょうてい権力けんりょく増大ぞうだいさせようという朝廷ちょうてい改革かいかく勢力せいりょく伸長しんちょうしたが、攘夷じょういろんしゃではあるが幕府ばくふへの大政たいせい委任いにんろん立場たちば孝明天皇こうめいてんのうかんがえとはおおきくことなるものであった[14]

8がつには長州ちょうしゅうはん土佐とさはんが、14だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家茂いえもち攘夷じょうい再度さいど督促とくそくする勅使ちょくしとして実美みみ派遣はけんするよう運動うんどう開始かいしした[15]。6月には大原おおはら重徳しげのり薩摩さつまはん運動うんどうによって派遣はけんされたばかりであり、りょうはんうごきは薩摩さつまはん影響えいきょうりょくぐねらいもあった[15]。8がつ10日とおか実美みみ攘夷じょうい督促とくそくのための勅使ちょくしさい派遣はけんする意見いけんしょし、10月には勅使ちょくし正使せいしとして、副使ふくしあね小路こうじ公知こうちとともに江戸えどおもむいている[16]実美みみ長州ちょうしゅうはん関係かんけいはこのころから密接みっせつとなった[17]。12月9にちには国事こくじ御用ごようかけ設置せっちされ、実美みみはその一員いちいんとなった[18]

朝廷ちょうてい掌握しょうあく

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このころ実美みみ近衛このえただしぼうたいし、「(江戸えどのある武蔵むさしこくは)むかしでしたから、また『武蔵野むさしの』となってもよいでしょう。」と放言ほうげんし、近衛このえいかりをっている。また薩摩さつまはんあおれんいんみやたかしとおる入道にゅうどう親王しんのう不満ふまんをいいつのるなどし、両者りょうしゃ不信ふしんった[19]実美みみ武市たけいち半平はんぺんふとし土佐とさ勤王きんのうとうによって土佐とさはんをまとめ、長州ちょうしゅうはんとともに薩摩さつまはん圧力あつりょくけるべくうごいていた[20]当時とうじ大久保おおくぼ利通としみちは「ちょうの暴説にった」とひょうしている[20]

文久ぶんきゅう3ねん1863ねん正月しょうがつ23にちおや薩摩さつま関白かんぱく近衛このえただしひろし実美みみらの攻撃こうげきえかねて辞職じしょくし、長州ちょうしゅう藩士はんしおお出入でいりさせていたため「長州ちょうしゅう関白かんぱく」とばれる鷹司たかつかさ輔煕つぎ関白かんぱくとなった[20]。2月20にちには学習がくしゅういんまな公家くげたちに、草莽そうもう志士しし時事じじ顕現けんげんすることがゆるされるようになり、公家くげたちが尊攘そんじょう影響えいきょうをさらにつよけるようになった[21]。2月22にちには尊攘そんじょう公家くげげにより、将軍しょうぐん後見こうけんしょく一橋ひとつばし慶喜よしのぶ攘夷じょうい期限きげん奏上そうじょうもとめることとなった。この交渉こうしょうやくえらばれた実美みみは、慶喜よしのぶはげしくたてて、4がつ中旬ちゅうじゅん攘夷じょうい期限きげんとする言質げんちをとった[22]

鷹司たかつかさ関白かんぱく高齢こうれい自信じしんけるところもあったために、実美みみ尊攘そんじょう公家くげ抵抗ていこうすることができず、実美みみは「関白かんぱく殿下でんかですらとき屈従くつじゅうする」といわれるほど権勢けんせいほこった[23]。この状況じょうきょううれいたあおれんいんみや山内やまうち容堂ようどう実美みみ説得せっとく依頼いらいしたが、効果こうかはなかった[24]当時とうじ尊攘そんじょう志士しし活動かつどう過激かげきしており、実美みみだった池内いけうち大学だいがくですら殺害さつがいされるほどであった。実美みみ容堂ようどうたいし、志士ししたちがつよ攘夷じょういせま状況じょうきょう説明せつめいし、「うえをも推察すいさつせられたし」とうったえている[24]。2月21にち実美みみそうにんぜられ、病気びょうき理由りゆう辞退じたいしたいむねべたがゆるされなかった[24]

3月4にちには将軍家しょうぐんけしげる上洛じょうらくし、実美みみ尊攘そんじょう圧迫あっぱくつよめた。3月11にちには上賀茂かみがも神社じんじゃ下鴨神社しもがもじんじゃへの攘夷じょうい祈願きがん行幸ぎょうこう4がつ11にちには石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうへの行幸ぎょうこうおこなわれ、攘夷じょういせま将軍しょうぐんへの圧力あつりょくとなった[25]いし清水しみず行幸ぎょうこう当日とうじつ孝明天皇こうめいてんのうはめまいのために延期えんきもとめたが、実美みみゆるさず、無理むり面会めんかいせまって仮病けびょうかどうかをいただしたという[26]。ついに5がつ10日とおかをもっての攘夷じょうい決行けっこう約束やくそくさせ、その当日とうじつには孝明天皇こうめいてんのうに「焦土しょうどしても開港かいこうしない」というみことのりさせた。島津しまつ久光ひさみつ松平まつだいらはるだけ山内やまうち容堂ようどうといった公武こうぶ合体がったいきょうり、長州ちょうしゅうはん尊攘そんじょうによって京都きょうとはほとんど掌握しょうあくされた[27]。しかしこの状況じょうきょうには孝明天皇こうめいてんのうですら不快ふかいかんしめすようになり、尊攘そんじょう公家くげを「暴論ぼうろん堂上どうじょう」とぶようになった[26]

あね小路こうじ公知こうち暗殺あんさつ事件じけん

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幕府ばくふ攘夷じょうい公家くげ筆頭ひっとうである実美みみあね小路こうじ公知こうち懐柔かいじゅうはかったが、実美みみについては効果こうかがなかった。一方いっぽうあね小路こうじ大坂おおさかかつ海舟かいしゅう議論ぎろんしたこともあり、開国かいこくかたむいたといううわさつようになった[28]。5月20にちよる実美みみあね小路こうじそろって御所ごしょ退出たいしゅつし、実美みみ輿こしあおはちすいんみやていかうためにわかれた。そのまもなく、きたかっていたあね小路こうじさくひらもんそと暗殺あんさつされた。実美みみあおはちすいんみやてい目指めざしてひがしかっていたが、家臣かしん不審ふしん人物じんぶつ目撃もくげきした。いえ戸田とだ雅楽ががく尾崎おざき三良さぶろう)は実際じっさい時間じかんよりおそ時間じかんげて実美みみ訪問ほうもんあきらめさせ、ていさせた[28]自宅じたくあね小路こうじ遭難そうなんほういた実美みみは、すぐにあね小路こうじてい見舞みまいにかっている[28]

あね小路こうじ暗殺あんさつはんられたのは薩摩さつまはん田中たなかしん兵衛ひょうえであった。長州ちょうしゅうはん実美みみ薩摩さつまはん排除はいじょうごき、さらに長州ちょうしゅうはん直接ちょくせつ朝廷ちょうてい献金けんきんできるようはからった[29]。しかし孝明天皇こうめいてんのう実美みみによる薩摩さつまはん排除はいじょうごきは「にせみことのり」であり、早々そうそう実美みみ徳大寺とくだいじ実則さねつねを「早々はやばや取除とりのけ」くべきであるとあおはちすいんみやつたえている[30]権勢けんせい頂点ちょうてんにあった実美みみだったが、薩摩さつまはん調査ちょうさによれば、実美みみ過激かげき言動げんどうきずられて今更いまさら意見いけんえることもできないとなげき、脚気かっけがひどくなったこともあってやしききこもりがちとなり、「出家しゅっけ遁世とんせいしたい」とこぼしていたという[31]

失脚しっきゃく

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6がつ久留くるべいはんより尊攘そんじょうのイデオローグである真木まきたもつしん和泉いずみ)が上洛じょうらくして学習がくしゅういん御用ごようかけとなり、実美みみらに直接ちょくせつ影響えいきょうあたえるようになった[32]真木まきは「ひゃくはい一成いっせい」をとなえ、攘夷じょういのための準備じゅんびととのわない状態じょうたいであっても、天皇てんのう先頭せんとうって攘夷じょういおやせいおこなうことによって、なかうごきがわると主張しゅちょうしていた[32]真木まきはかりごとしんとした実美みみは、長州ちょうしゅうはんとともに攘夷じょういおやせいのための大和やまと行幸ぎょうこう計画けいかくをたて、朝廷ちょうてい方針ほうしんとなった[33]

しかし孝明天皇こうめいてんのう行幸ぎょうこうのぞんでおらず、あおれんいんみや[ちゅう 1]薩摩さつまはんたいしてすくいをもとめた[34]あおはちすいんみや公武こうぶ合体がったい皇族こうぞく公卿くぎょう薩摩さつまはん京都きょうと守護しゅごしょくである松平まつだいら容保かたもり会津あいづはんらは連携れんけいし、長州ちょうしゅうはん尊攘そんじょう排除はいじょのためのクーデター計画けいかくすすめた[31]

8がつ13にち攘夷じょういおやせいのための大和やまと行幸ぎょうこうおこなみことのりされた。ところが8がつ18にちあさ薩摩さつまはん会津あいづはんなどのへい御所ごしょきゅうもんかため、攘夷じょうい急進きゅうしん公家くげした。実美みみやしきには久坂くさかげんみず宮部みやべかなえぞう土方ひじかた久元ひさもとおやへい[ちゅう 2]けつけた[35]実美みみ状況じょうきょう把握はあくするため関白かんぱく鷹司たかつかさていかい、三条西さんじょうにし季知すえとも四条しじょうたかしひがし久世くせどおり壬生みぶはじめおさむにしき小路しょうじよりゆきとくさわ宣嘉のぶよし出会であったが、肝心かんじん鷹司たかつかさ関白かんぱく参内さんだいしたままもどっていなかった[35]。やがてかれらは参内さんだい停止ていしされたことをり、長州ちょうしゅうはん御所ごしょ警備けいびから排除はいじょされたことがつたわった[35]真木まき長州ちょうしゅう藩士はんし協議きょうぎしたのち、一旦いったん妙法みょうほういんうつり、ここでななきょう長州ちょうしゅうはんかうこととなった[35]

8がつ19にち未明みめいななきょう京都きょうと出発しゅっぱつし、長州ちょうしゅうはんかった。れない徒歩とほのためにさんじょうあしから出血しゅっけつし、戸田とだ雅楽ががくらは住民じゅうみんおどしつけてかご用意よういさせた[36]一方いっぽう徳島とくしまはん広島ひろしまはん津和野つわのはんたいし、義兵ぎへいげるため長州ちょうしゅう有志ゆうしつの檄文げきぶんおくっている[36]。8月21にちには湊川みなとがわ楠木くすのき正成まさしげはか参拝さんぱいしたのち兵庫ひょうごみなとからふね長州ちょうしゅう目指めざした[36]。8月24にち許可きょかなく京都きょうとはなれたことによって実美みみななきょう官位かんい停止ていしされ、長州ちょうしゅうはん京都きょうとでの勢力せいりょくうしなった[37]長州ちょうしゅうはん上層じょうそう当初とうしょななきょうむかれることはのぞんでおらず、はんさかい抑留よくりゅうして帰京ききょう勧告かんこくするつもりであったが、8がつ26にちと8がつ27にちななきょうせたふね長州ちょうしゅうはんりょう三田尻みたじりこう入港にゅうこうした[38]。このため長州ちょうしゅうはんななきょう賓客ひんきゃくとしてむかれることとなり、公邸こうていである三田尻みたじり御茶屋おちゃやの招賢かくかれらの居館きょかんとした[39]。このころ土佐とさ藩士はんし中岡なかおか慎太郎しんたろうは、土佐とさはん土佐とさ勤王きんのうとう排斥はいせきされたこともあり、ななきょう傘下さんかとしてうごくこととなる[37]

長州ちょうしゅうはん賓客ひんきゃく

編集へんしゅう

三田尻みたじりななきょう兵隊へいたい護衛ごえいとし、高杉たかすぎ晋作しんさくらと武力ぶりょく上京じょうきょうについて協議きょうぎしている。9月28にちには平野ひらの国臣くにおみおとずれ、蜂起ほうきのためにななきょう一人ひとり主将しゅしょうとしたいむねげられた。協議きょうぎがまとまらないうちに、さわ宣嘉のぶよし一人ひとり脱走だっそうし、平野へいやとともに生野いくのへんこして失敗しっぱいすることとなる[40]

元治もとはる元年がんねん1864ねん正月しょうがつ長州ちょうしゅうはんろくきょう三田尻みたじりから山口やまぐち近郊きんこううつすこととし、実美みみのみは湯田ゆたむら高田たかだにうつった[41][ちゅう 3]。ここで当初とうしょ草刈くさかり藤太とうたやしき滞在たいざいし、もなく井上いのうえ聞多(井上いのうえかおる)の実家じっか[ちゅう 4]うつった。ここでは実美みみのためにはなれが建設けんせつされ、「なにとおてい」と名付なづけられた[42]

正月しょうがつ27にちには孝明天皇こうめいてんのうからななきょう長州ちょうしゅうはん攘夷じょうい批判ひはんするみことのりむねされた。これは実美みみらがしも賤な攘夷じょういの暴説を信用しんようし、孝明天皇こうめいてんのうの「いのちを矯て」軽率けいそつ攘夷じょうい討幕とうばくおこなおうとしたとし、長州ちょうしゅうはん尊攘そんじょうも「かならばっせずんばあるからず」と批判ひはんされていた[43]長州ちょうしゅうはん藩主はんしゅ父子ふしきょう[ちゅう 5]赦免しゃめんもとめ、朝廷ちょうていはたらきかけていた。実美みみきょうもこのうごきを支持しじし、7がつ藩主はんしゅ父子ふし上京じょうきょうおなじくして、きょう目指めざした。7月21にちには讃岐さぬきこく多度津たどつ到着とうちゃくしたが、ここで禁門きんもんへん敗報はいほうき、藩主はんしゅ父子ふし合流ごうりゅうするためにかったが出会であえなかった[44]長州ちょうしゅう藩士はんし野村のむらやすし内訌ないこう必至ひっし長州ちょうしゅうはんもどるよりは勤王きんのうつよ岡山おかやまはんなどにのがれるようすすめたが、実美みみ藩主はんしゅ世子せいし定広さだひろとは進退しんたいをともにするとやくしたとって謝絶しゃぜつし、上関かみのせき目指めざした[45]

だいいち長州ちょうしゅう征伐せいばつせまなか、さらに長州ちょうしゅうには下関しものせき戦争せんそうによるよんカ国かこく連合れんごう攻撃こうげきくわえられた。きょうは「長州ちょうしゅうはん死生しせい存亡そんぼうともにする」決意けついかためていたが、恭順きょうじゅん台頭たいとうしたはんないではきょうわたすことも検討けんとうされていた[46]高杉たかすぎ晋作しんさくらは一時いちじきょう外国がいこく留学りゅうがくさせようとし、実美みみ一時いちじ応諾おうだくしたが翌日よくじつになってことわりをれている[47]長州ちょうしゅう征伐せいばつ総督そうとくきょうをそれぞればらばらのはんあずかる方針ほうしんめ、説得せっとくやく福岡ふくおかはん依頼いらいした。きょう条件じょうけんとして藩主はんしゅ父子ふし赦免しゃめん京都きょうと尊攘そんじょう公家くげ処分しょぶん解除かいじょをもとめて交渉こうしょうしていたが、次第しだいはんないでもきょう立場たちば悪化あっかしていった[48]尊攘そんじょう長州ちょうしゅうはんしょたいきょうわたしとかいたい方針ほうしん反抗はんこうし、きょうとともに長州ちょうしゅうはんささえはんちょうはんにうつった[49]中岡なかおか慎太郎しんたろう征討せいとう総督そうとく西郷さいごう隆盛たかもり交渉こうしょう結果けっか、いったんきょう筑前ちくぜんうつすことで合意ごういおこなわれた[50]

太宰府だざいふでのかそけきょ

編集へんしゅう

慶応けいおう元年がんねん1865ねん正月しょうがつ15にちきょう福岡ふくおかはん黒崎くろさきみなといま北九州きたきゅうしゅう八幡西やはたにし)に上陸じょうりくし、宗像むなかた唐津からつ街道かいどう赤間あかま宿やどに1ヵ月かげつあいだ宿泊しゅくはくをへて、2がつ13にち太宰府だざいふ到着とうちゃくした[51]きょう身柄みがら福岡ふくおかはんあずかるが、薩摩さつまはん久留くるべいはん熊本くまもとはん佐賀さがはんひと派遣はけんし、費用ひよう提供ていきょうするというかたちになっていた[51]きょう幽閉ゆうへいさき太宰府天満宮だざいふてんまんぐう別当べっとう延寿えんじゅおういんであり、ここで学問がくもん身体しんたい鍛錬たんれんをおこたらず日々ひびごすこととなる[52]。また福岡ふくおかはん尊攘そんじょう早川はやかわようけいらが薩摩さつまはん長州ちょうしゅうはん提携ていけい模索もさくすると中岡なかおか慎太郎しんたろう実美みみ共鳴きょうめいし、かつら小五郎こごろうたいして薩摩さつまはんへの認識にんしきあらためるようつたえている[53]かつら薩摩さつまはん信用しんようするかを「じょうこう実美みみ明察めいさつ」をつうじて見定みさだめるとしており、こののち坂本さかもと龍馬りょうま伊藤いとう俊輔しゅんすけ井上いのうえ聞多らと面会めんかいして薩長さっちょう同盟どうめい成立せいりつ立役者たてやくしゃ一人ひとりとなった[54]

慶応けいおう2ねん1866ねん)には幕府ばくふから使者ししゃおとずれ、きょう大坂おおさかうつすようもとめてきた。しかし実美みみらはしてでもうごかないとめており、薩摩さつまはん熊本くまもとはん強硬きょうこう反対はんたいしたため幕府ばくふせなかった[55]。このころになると幕府ばくふ失墜しっついあきらかであり、延寿えんじゅおういんおおくの訪問ほうもんしゃにぎわいをせるようになった[56]慶応けいおう3ねん1867ねん)、中岡なかおか慎太郎しんたろう京都きょうと公家くげ実美みみ連携れんけいさせるあん模索もさくしていたが、その候補こうほとなったのがかつての政敵せいてきである岩倉いわくら具視ともみであった。実美みみ岩倉いわくらがかつての「だい姦物かんぶつ」であると難色なんしょくしめしたが、岩倉いわくら縁戚えんせきであるひがし久世くせどおり禧の説得せっとく提携ていけいれることとなった[57]

明治維新めいじいしん

編集へんしゅう

慶応けいおう3ねん10がつ27にち大政奉還たいせいほうかん成立せいりつし、12月8にちにはきょう赦免しゃめん復位ふくい達成たっせいされた[58]。12月14にちにこのらせをけたきょうは12月21にち出港しゅっこうし、長州ちょうしゅうはん上洛じょうらく、12月27にち参内さんだいし、議定ぎていにんぜられた[59]はんまく大物おおものである三条さんじょう復権ふっけんは、朝廷ちょうていないにおける薩摩さつま長州ちょうしゅうちからとなった[60]よく慶応けいおう4ねん1868ねん)には岩倉いわくらとともにしん政府せいふ事実じじつじょうのトップであるふく総裁そうさい一人ひとりとなり、外国がいこく事務じむ総督そうとくねた[61]。この時期じきさかい事件じけん対応たいおうにあたることとなり、「開国かいこく和親わしん布告ふこく」の作成さくせいにもたずさわるなど、かつての攘夷じょうい方針ほうしん完全かんぜんてることとなった[61]戊辰戦争ぼしんせんそうにおいては、関東かんとう観察かんさつ使としてうるう4がつ10日とおか江戸えどおもむき、あきらたい討伐とうばつ目指めざ大村おおむら益次郎えきじろう支持しじした[62]明治めいじ2ねん1869ねん)5がつ24にち右大臣うだいじんせきはちしゅう鎮将となり[62]、5月29にちには官吏かんり公選こうせんによって輔相に選出せんしゅつされ、7がつ8にちには新制しんせい右大臣うだいじんとなった[63]。7月15にち江戸えど東京とうきょう改称かいしょうされ、鎮将かれると鎮将をねた[64]実美みみ岡谷おかや繁実しげみ意見いけんけて東京とうきょうへの単独たんどく遷都せんと主張しゅちょうし、これを実現じつげんさせた[65]実美みみ東国とうごく奥州おうしゅう重視じゅうししており、「たとえきょうしつ(うしなう)とも、東京とうきょううしなわざれば、天下てんかうしなうことなし」とべている[65]

きゅう幕府ばくふ勢力せいりょくへの処罰しょばつでは厳罰げんばつ主張しゅちょうし、戦後せんご石高こくだかひくいものにおさえた[66]。またはこかんもる榎本えのもと武揚ぶよう討伐とうばつする総督そうとくとしてぜん将軍しょうぐん徳川とくがわ慶喜よしのぶ起用きようするさく検討けんとうされたさいには、奇策きさくもちいるべきではないと反対はんたいしている[67]

太政大臣だじょうだいじん

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聖徳せいとく記念きねん絵画かいがかん壁画へきが廃藩置県はいはんちけん』(小堀こぼり鞆音ともねふで酒井さかい忠正ただまさ伯爵はくしゃく奉納ほうのう廃藩置県はいはんちけん布告ふこくするため東京とうきょう在京ざいきょうちゅうはん知事ちじ56めい召集しょうしゅうした明治天皇めいじてんのう詔書しょうしょげる右大臣うだいじん三条さんじょう実美みみとばりだい左側ひだりがわひかえるひだりから2人ふたり木戸きど孝允たかよし、3にん岩倉いわくら具視ともみ[68]

明治めいじ4ねん7がつ14にち1871ねん8がつ29にち)の廃藩置県はいはんちけんさいには、東京とうきょう在京ざいきょうちゅうはん知事ちじ56めい西にしまる御殿ごてん紫宸殿ししんでんだい大広間おおひろま召集しょうしゅうされ、かれらにけて右大臣うだいじん三条さんじょう実美みみ廃藩置県はいはんちけんもうわた勅語ちょくごげている。「うち以テ億兆おくちょう保安ほあんがい以テ万国ばんこく対峙たいじセントスいんこんはんはいけんためつとむテ冗ヲリ簡ニ就キ有名ゆうめい無実むじつへいじょさら綱紀こうきちょう政令せいれいいち天下でんかヲシテ其向フしょラシム」(国内こくないにおいて億兆おくちょうみんまもり、国外こくがいにおいて万国ばんこく対峙たいじしようとかんがえているいまはんはいしてけんす。無駄むだって簡潔かんけつにし、有名ゆうめい無実むじつぬさのぞき、綱紀こうき全国ぜんこくきわたらせ、政令せいれい統一とういつし、天下てんかにそのすすむべき方向ほうこうしめす)[69]。ここでいう「有名ゆうめい無実むじつへい」とはいちこくなにはんにも分断ぶんだんされる封建ほうけん主義しゅぎのことを[69]

また同年どうねん制度せいど改革かいかくにより、太政大臣だじょうだいじんとなった。この太政大臣だじょうだいじん律令りつりょうしたのものとことなり天皇てんのう代行だいこうしゃとしての役職やくしょくであり、「万機ばんきじょうこうけつ」される体制たいせい目指めざしたものであった[70]。ただし実美みみ役割やくわりみずか政策せいさく主導しゅどうしていくとうよりも、調整ちょうせいやくやバランサーとしてのめんおおきくなる[71]伊藤いとう博文ひろぶみ実美みみ百官ひゃっかん尊重そんちょうされ、いち悪評あくひょうこったのをいたことがないと回想かいそうしている[72]。このとしの11月21にちには岩倉いわくら使節しせつだん派遣はけんおこなわれ、実美みみ留守るす政府せいふのトップとして島津しまつ久光ひさみつからの圧力あつりょく太政官だじょうかんせい改革かいかく台湾たいわん出兵しゅっぺい問題もんだい朝鮮ちょうせんとの国交こっこう問題もんだいなどの様々さまざま問題もんだいむこととなった[73]

明治めいじろくねん政変せいへん

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明治めいじ6ねん1873ねん)6がつ参議さんぎ板垣いたがき退助たいすけ朝鮮ちょうせんへの出兵しゅっぺいもとめ、西郷さいごう隆盛たかもり大使たいし派遣はけんすることを主張しゅちょうした。西郷さいごうは7がつごろからみずからを使節しせつとして派遣はけんするよう要求ようきゅうはじめたが、実美みみかならころされると反対はんたいした[74]。しかし西郷さいごうみずか実美みみ訪問ほうもんするなど圧力あつりょくをかけ、8がつ17にちには閣議かくぎ西郷さいごう派遣はけん決定けっていされた[74]。しかしこれは実美みみのちに「初発しょはつぼくとう軽率けいそつ」とみとめるように、せいかん反対はんたい立場たちば実美みみとしては失策しっさくであった[75]実美みみ明治天皇めいじてんのうもとおとずれ、「岩倉いわくら帰朝きちょうのち熟議じゅくぎ」して決定けっていするという「聖断せいだん」をけた[76]内藤ないとう一成いっせいはこれは実美みみ主張しゅちょうをなぞっただけではないかとみている[76]

岩倉いわくら帰朝きちょうにはせいかん反対はんたい西郷さいごうらのあらそいはますますはげしくなり、政府せいふ分裂ぶんれつおそれた実美みみは、10月15にち閣議かくぎ西郷さいごうあん決定けっていし、派遣はけん時期じきについては軍備ぐんびととのうまで決定けっていしないというかたちばしをはかった[77]。しかしせいかん反対はんたい岩倉いわくら木戸きど孝允たかよし大久保おおくぼ利通としみち辞表じひょう提出ていしゅつし、いずれにしても政府せいふ分裂ぶんれつけられなくなった[78]心身しんしんども疲弊ひへいした実美みみは10月18にちあさたおれた。実美みみむねいたみをうったえており、いえきん良樹よしき狭心症きょうしんしょう心筋梗塞しんきんこうそく内藤ないとう一成いっせい脚気かっけからくる心臓しんぞうびょう脚気衝心かっけしょうしん)ではないかとている[78]

これをうけて大久保おおくぼは、岩倉いわくら太政大臣だじょうだいじんくだり代理だいり)とするようはたらきかけた。岩倉いわくらせいかんろんそう解決かいけつする方法ほうほうとして、明治天皇めいじてんのうの「聖断せいだん」をあおいだ[79]。10月24にちには宮中きゅうちゅう影響えいきょうりょくをもつ岩倉いわくら意見いけんとおり、西郷さいごうらは政府せいふった[79]実美みみ辞意じいつたえたがゆるされず、12月23にちには参内さんだいして辞表じひょう提出ていしゅつしたが却下きゃっかされ、つづ太政大臣だじょうだいじんをつとめることとなった[80]

島津しまつ久光ひさみつとの対立たいりつ

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明治めいじ7ねん1874ねん)4がつ27にち西郷さいごうなき政府せいふ安定あんていはかるため、保守ほしゅ重鎮じゅうちんである島津しまつ久光ひさみつ左大臣さだいじんとなり、政府せいふ欧化おうか政策せいさく批判ひはん撤回てっかいさせるべくうごきをつよめた[81]久光ひさみつ幕末ばくまつ以来いらい親交しんこう華族かぞく動員どういんして政府せいふ圧力あつりょくをかけ、明治めいじ8ねん1875ねん)には太政大臣だじょうだいじん権限けんげん左右さゆう大臣だいじんゆずらせるようはたらきかけた[82]。このうごきは失敗しっぱいし、10月19にちにはついに久光ひさみつ実美みみ辞職じしょくさせるよう上奏じょうそうした[83]久光ひさみつしたしい有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう裁定さいていさせることで実美みみ辞職じしょくろうとしたが、宮内卿くないきょう徳大寺とくだいじ実則さねつね右大臣うだいじん岩倉いわくら裁定さいていさせるべきであるとした[84]岩倉いわくら実美みみ支持しじするべきであると奏上そうじょうし、久光ひさみつ弾劾だんがい失敗しっぱいわった[85]久光ひさみつ辞表じひょう提出ていしゅつしたが岩倉いわくらによってもどされ、10月25にち閣議かくぎ正式せいしき免官めんかんとなった[86]内田うちだまさしふう海江田かいえだ信義のぶよし奈良原ならはらしげるさんじょう弾劾だんがいしたが、いずれも退しりぞけられた[86]

一方いっぽうこのころさんじょう家令かれいたち事業じぎょう失敗しっぱいし、実美みみ莫大ばくだい負債ふさいかかえることとなった。毛利もうり支援しえん破産はさんまぬかれたものの、三条さんじょう負債ふさい完済かんさいするのは明治めいじ38ねん(1905ねん)のことであった[87]

久光ひさみつったのち政府せいふ大久保おおくぼ独壇場どくだんじょうとなり、実美みみはその方針ほうしんをほとんど支持しじしている。参議さんぎあいだ意見いけんがまとまらないときには大久保おおくぼはほとんどだまっており、実美みみ議論ぎろん内容ないようつたえると、実美みみ大久保おおくぼ意見いけんはどうかとうのがつねであった。大久保おおくぼ意見いけん実美みみがよしとすると、大久保おおくぼ実美みみ意見いけんであるとって参議さんぎをまとめていたという[88]明治めいじ11ねん(1878ねん)に大久保おおくぼ暗殺あんさつされると、伊藤いとう大隈おおくま重信しげのぶ実力じつりょくしゃとなったが、明治めいじじゅうよんねん政変せいへん大隈おおくま下野げやすると、伊藤いとう独壇場どくだんじょうとなった。

明治めいじ15ねん1882ねん)、だいくん菊花きっかだい綬章じゅしょう受章じゅしょうする。明治めいじ18ねん1885ねん)には太政官だじょうかんせい廃止はいしされて、内閣ないかく制度せいど発足ほっそくしたため、内大臣ないだいじんてんじた。このさい実美みみ旧臣きゅうしん尾崎おざき三良さぶろう太政大臣だじょうだいじん辞任じにん撤回てっかい実美みみうったえたが、国家こっか将来しょうらいのためであり、さくはないとつたえて撤回てっかいしなかった[89]

内大臣ないだいじん

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内大臣ないだいじんしょくはしばしば実美みみ処遇しょぐうするための名誉めいよしょくられるが正確せいかくではない[90]天皇てんのう親政しんせい建前たてまえられた明治めいじ政府せいふでは、宮中きゅうちゅうにおいて天皇てんのう輔弼ほひつする重要じゅうよう役割やくわりであった。薩長さっちょうのバランサーとしてみずからを位置いちづけていた実美みみは、藩閥はんばつ内部ないぶ混乱こんらん調整ちょうせいやくとしてのちから発揮はっきした[91]。また政変せいへん重要じゅうよう人事じんじかんする天皇てんのう下問かもんおうじたが、内大臣ないだいじんとしての職責しょくせきではなく、実美みみ個人こじん人格じんかくもとづくものであった[91]。また実美みみ伊藤いとうらのうごきを阻害そがいしないためあえて主体しゅたいてきうごきはらず、宮中きゅうちゅう保守ほしゅ政治せいじ介入かいにゅうしないためのおもしとなった[92]

内閣ないかく総理そうり大臣だいじん兼任けんにん

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明治めいじ22ねん1889ねん)、おりからの条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょう暗礁あんしょうげ、外務がいむ大臣だいじん大隈おおくま重信しげのぶ国家こっか主義しゅぎ団体だんたいげんようしゃ団員だんいん爆裂ばくれつだんげつけられてみぎあし切断せつだん重傷じゅうしょううという事件じけん発生はっせいした。進退しんたいきわまった黒田くろだ内閣ないかくは、1週間しゅうかん10月25にちぜん閣僚かくりょう辞表じひょう提出ていしゅつした。ところが、明治天皇めいじてんのうは、黒田くろだ清隆きよたか辞表じひょうのみを受理じゅりして、閣僚かくりょうにはつづきそのにんたることをめいじるとともに、内大臣ないだいじん実美みみ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん兼任けんにんさせて、内閣ないかく存続そんぞくさせた[93][94]実美みみ総理そうり大臣だいじん職権しょっけんつよさが条約じょうやく改正かいせい交渉こうしょう問題もんだい混乱こんらんまねいたとして、内閣ないかく職権しょっけん内閣ないかく官制かんせいあらためて当面とうめん課題かだい解決かいけつした。同年どうねん12月24にち内務ないむ大臣だいじん山縣やまがた有朋ありとも総理そうり大臣だいじん任命にんめいされ、だい1やま縣内けんないかく成立せいりつした。実美みみは「やまい痾」を理由りゆうとする辞表じひょう提出ていしゅつし、兼任けんにんしていた内閣ないかく総理そうり大臣だいじんめんぜられ、内大臣ないだいじん専任せんにんとなった[95]

この期間きかん、ひとつの内閣ないかく存在そんざいしたものとして、これを「三条さんじょう暫定ざんていないかく」とぶことがある。以降いこう内閣ないかく総理そうり大臣だいじんの「臨時りんじ兼任けんにん」や「臨時りんじ代理だいり」が制度せいどとして定着ていちゃくすると、この実美みみによる総理そうり兼任けんにん背後はいご事情じじょうは、次第しだい過去かこ特別とくべつ例外れいがいとしてあつかわれるようになった。今日きょうではこの2ヵ月かげつあいだに「内大臣ないだいじん実美みみ内閣ないかく総理そうり大臣だいじん兼任けんにんしていた」とはしながらも、それは「黒田くろだ内閣ないかく延長えんちょう」であって「実美みみ歴代れきだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんにはふくめない」とすることが研究けんきゅう趨勢すうせいとなっている(なお、明治天皇めいじてんのう本人ほんにんにも「西園寺さいおんじ公望きんもち首相しゅしょう就任しゅうにんに『公家くげからはじめて首相しゅしょうた』とよろこんでいた」という逸話いつわがある)。首相しゅしょう官邸かんていとう歴代れきだいないかくあらわさい山縣やまがた伊藤いとう黒田くろだだいさんだい総理そうり大臣だいじんとされる[96]

薨去こうきょ

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護国寺ごこくじ東京とうきょう文京ぶんきょうない 三条さんじょう実美みみはか
 
はか

明治めいじ22ねん1889ねん)2がつ11にち大日本帝国だいにっぽんていこく憲法けんぽう公布こうふ式典しきてんでは明治天皇めいじてんのうわきひかえ、憲法けんぽうぶん天皇てんのう奉呈ほうていする役割やくわりっている[94]以降いこう臣下しんかでは最高さいこう席次せきじち、最高さいこう功臣こうしんとしてぐうされた[97]

明治めいじ24ねん(1891ねん)2がつ18にちインフルエンザ罹患りかんにより53さい薨去こうきょ[98]薨去こうきょ直前ちょくぜんである2がつ17にちには明治天皇めいじてんのうしたしく見舞みまいにおとずれ、せいいちじょせられた[ちゅう 6]天皇てんのうさん日間にちかん廃朝はいちょう宣言せんげんし、2がつ25にち国葬こくそうおこなわれることになった[99]当日とうじつ天候てんこう晴天せいてんで、気温きおんだんかった。明治天皇めいじてんのう以降いこうこのようなのことを『三条さんじょう日和びより』とんでいたという[99]。また国葬こくそう以外いがい各地かくち自発じはつてき追悼ついとう行事ぎょうじおこなわれた[99]

東京とうきょう旧居きゅうきょ目黒めぐろ目黒めぐろ1丁目ちょうめげんホテルプリンセスガーデン、敷地しきち一部いちぶはマンションで三条さんじょうえん名称めいしょうのこる)であるが、それ以前いぜん京都きょうと住居じゅうきょ京都きょうと御所ごしょ隣接りんせつした三条さんじょうていあとにあり、ちち実万さねつむまつっていた梨木なしき神社じんじゃに、大正たいしょう時代じだいになって合祀ごうしされた。墓所はかしょ東京とうきょう文京ぶんきょう大塚おおつか護国寺ごこくじにあるほか遺髪いはつづか京都きょうと二尊院にそんいんにある。

ななきょうちの途中とちゅう長州ちょうしゅうはんかくまわれていたおり歌碑かひはぎ明神池みょうじんいけにある。井上いのうえ公園こうえんには実美みみ使用しようした「りゅう手水ちょうずばち」などがのこる。また、宗像むなかた唐津からつ街道かいどうあかあいだ宿やどに1ヵ月かげつあいだ宿泊しゅくはくした記念きねんに、赤間あかまには「きょう西にし遷のいしぶみ」がある。太宰府天満宮だざいふてんまんぐう延寿えんじゅおういんまえに「ななきょうち」いしぶみやしきないに「きょう遺跡いせきいしぶみがあるが、太宰府だざいふ筑紫野ちくしの周辺しゅうへんには実美みみ関係かんけいするものがのこっている。

人物じんぶつ

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  • 14、5さいころ公家くげ子弟していあいだでは「ぐんごと(いくさごと)」というあそびが流行はやっていた。子供こども有名ゆうめい武将ぶしょうもん旗印はたじるしにしていたが、実美みみまるもんもちいた。「お日様ひさませんをするのはおかしい」とわれた実美みみは、「これはくにしるしである。くにくにぐんさするときはこのしるしでなければならぬ」とかえしたという[2]
  • 内閣ないかく制度せいど移行いこうさいし、だれ初代しょだい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんになるかが注目ちゅうもくされた。衆目しゅうもく一致いっちするところは、太政大臣だじょうだいじんとして名目めいもくじょうながらも政府せいふのトップにっていた三条さんじょうと、大久保おおくぼ死後しご事実じじつじょう宰相さいしょうとして明治めいじ政府せいふまわ内閣ないかく制度せいどつくげた伊藤いとうだった。しかしさんじょうは、藤原ふじわらきた閑院りゅう嫡流ちゃくりゅう清華せいかの1つ三条さんじょうまれという高貴こうき身分みぶん公爵こうしゃくである。一方いっぽう伊藤いとうといえば、貧農ひんのうだし武士ぶしになったのも維新いしん直前ちょくぜんというひく身分みぶん出身しゅっしん、お手盛てもりで伯爵はくしゃくになってはいるものの、その歴然れきぜんとしていた。太政大臣だじょうだいじんわる初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじんめる宮中きゅうちゅうでの会議かいぎでは、だれもがくちをつぐんでいるなか伊藤いとう盟友めいゆうであった井上いのうえかおるは「これからの総理そうりあか電報でんぽう外国がいこく電報でんぽう)がめなくてはだめだ」と口火くちびり、これに山縣やまがた有朋ありともが「そうすると伊藤いとうくんよりにはいないではないか」と賛成さんせい、これにはさんじょう支持しじする保守ほしゅ参議さんぎかえ言葉ことばがなくなった。つまり英語えいごりょくとなってさんじょう初代しょだいないかく総理そうり大臣だいじんになりそこねたのである。
  • 事典じてんとうでは常用漢字じょうようかんじたいで「三条さんじょう実美みみ」と表記ひょうきされることがおおいが[100]内閣ないかく官房かんぼう内閣ないかく広報こうほうしつ運営うんえいする総理そうり大臣だいじん官邸かんていウェブサイトでは「三條さんじょう實美みみ[101]表記ひょうきしている。
  • 養嗣子ようししであったおおやけきょうには海外かいがい留学りゅうがくをさせるなど世話せわをしているが、おおやけきょう遊興ゆうきょうにふけり、度々たびたび金銭きんせん問題もんだいこした。明治めいじ19ねん(1886ねん)6がつ25にち廃嫡はいちゃくしている[102]

評価ひょうか

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歴史れきし学者がくしゃ評価ひょうか

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本多ほんだ辰次郎たつじろうさんせんねん一人ひとり大人おとなぶつであるが、賢明けんめいであるかとおもえば凡庸ぼんようであるなどその輪郭りんかく捕捉ほそくむずかしく「もっと論評ろんぴょう困難こんなん標本ひょうほんである」としている。また出処しゅっしょ進退しんたいあざやかであることや、西郷さいごう隆盛たかもり大久保おおくぼ利通としみちといったすぐれた英傑えいけつ操縦そうじゅうしたことを評価ひょうかしている[103]

どう時代じだい人物じんぶつ評価ひょうか

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  • 伊藤いとう博文ひろぶみ
    • おおやけ資性しせい寛仁かんじん大度たいどにしてまことによくしゅうようるるのりょうがあった。しかしてそと温厚おんこう君子くんしであったが、うちはまたみずか大義たいぎまもって、いやしくもくっすべからざるのふしってられた御方おかたである。その平素へいそ行状ぎょうじょう方正ほうせいにして謹直きんちょくすこしもひと争議そうぎするようのことはなかった。けだ完璧かんぺき瑾のひとであった。長州ちょうしゅう琉寓の当時とうじ毛利もうり非常ひじょうおおやけいちぎょう優遇ゆうぐうしたので、幕府ばくふから嘩ましくわれたことがある。ななきょうなかでもおおやけだいいちせきめてられた御方おかたである」[104]
    • 「その徳望とくぼうはもとより世人せじんところであって、こう在世ざいせいちゅう朝野ちょうやどもじゅうもちせ、おおやけむかってはいちかいしき批評ひひょうをするものはなかった。ソコがじょうこうじょうこうたる所以ゆえんである」[104]
    • 三条さんじょうこう立派りっぱたまるような人物じんぶつで、勿論もちろん別格べっかくだ」[105]
    • おおやけ学問がくもんもなされて、うたなかまれた。こと筆跡ひっせきすこぶ見事みごとなもので、雲煙うんえんどうみょうそなえてられた。種々しゅじゅ書風しょふうならわれて、つい一家いっかされたのである」[104]
  • 大村おおむら益次郎えきじろう 「三條さんじょうさんは一言ひとこと批難ひなんするところはない、玉子たまごを剝いたような、じつ立派りっぱ精神せいしんのおかたである」[106]
  • 渋沢しぶさわ栄一えいいち
    • 三条さんじょうこう智力ちりょくひいでてられたけれども、りゃくのなかったひと」とし、性質せいしつ温厚おんこう寛大かんだいであったが、後年こうねんには「いささ決断けつだんりょくくるうらみがないでもなかった」とひょうしている[107]
    • また渋沢しぶさわは「じんひと」であったとひょうしている。一方いっぽうで「いたりつて円満えんまんで、ところ如何いかにもやさしさうにそうへたものであるが、それでけっしてひとし一方いっぽうといふたけけのひとではく、外面がいめんにこやかなるにも内面ないめんには却々硬骨こうこつなところのあつたほうである。」[108]
    • また政策せいさくにはつうじておらず、無定見むていけんであったと指摘してきしている。「こうもうすのは、はばかりおおいことであるが、三条さんじょうこうはまったく無定見むていけんであらせられた。今日きょうあるものから意見いけんもうげると、そのはそのになっていられるが、明日あしたになってまたほかのものから意見いけんもうげると、やはりまたそのにならせられる。いつもご自分じぶんのご意見いけんはフワフワして、どっちにでもなるという具合ぐあいほうであったのである。とくに経済けいざいじょう問題もんだいとなると、この無定見むていけん一層いっそうはなはだしかったようにわたしにはおもわれたのである。三条さんじょうこうはもともとくらいたか公家くげのご出身しゅっしんであらせられたから、経済けいざいのことなどに精通せいつうしていられるはずもなく、したがって財政ざいせいじょう知識ちしきとぼしく、このように無定見むていけんおちいられたものでもあろう。それにしても太政大臣だじょうだいじんをしていられたころ太政官だじょうかん参議さんぎから、『かくかくの事業じぎょうのために経費けいひ支出ししゅつするように』との依頼いらいをおけになれば、それだけの支出ししゅつをする財源ざいげんたしてあるかかをきちんと調査ちょうさもせられずに、これに承諾しょうだくあたえられてしまったものである。しかしそれが大蔵省おおくらしょうほうまわってきてから、わたしたちが、『とてもそんな事業じぎょうのために支出ししゅつするだけの財源ざいげんがないから』といってねつけてしまえば、『なるほどそれももっともだ』というになり、すこしも確固かっこたる定見ていけんがあって決済けっさいあたえられたのではなかったのである。したがって三条さんじょうこう太政大臣だじょうだいじんしょくらせられるあいだ、つね太政官だじょうかん参議さんぎがわ各省かくしょう当局とうきょくしゃとのあいだにはさまって、非常ひじょうこまられていたものらしい」。留守るす政府せいふころ大蔵おおくら大輔だいすけであった井上いのうえかおる渋沢しぶさわ政府せいふ支出ししゅつ問題もんだい参議さんぎ対立たいりつしたさい三条さんじょう渋沢しぶさわ屋敷やしきさんおとずれて「(井上いのうえを)あまさわがせぬやうにしてくれ」と依頼いらいしたという[108]

三条さんじょうは、藤原ふじわらきた閑院りゅう嫡流ちゃくりゅうで、太政大臣だじょうだいじんまで昇任しょうにんすることができた清華せいかひとつである。

かんれき

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栄典えいてん

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位階いかい
爵位しゃくい
授章じゅしょう

登場とうじょう作品さくひん

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映画えいが
テレビドラマ
テレビアニメ

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ あおれんいんみやは8がつ27にち還俗げんぞくし、中川なかがわみや朝彦親王あさひこしんのうしょうする。
  2. ^ 実美みみ建議けんぎによってじゅうまんせき以上いじょう大名だいみょうからさせた天皇てんのう護衛ごえいへい
  3. ^ きょう氷上山ひかみさん真光しんこういんにうつっている。
  4. ^ 現在げんざい井上いのうえ公園こうえん
  5. ^ 元治もとはる元年がんねん4がつ25にちにしき小路しょうじよりゆきとく病死びょうししている
  6. ^ 生前せいぜんせいいち叙位じょい史上しじょう6にんで、みなもと方子のりこ以来いらい745ねんぶりで、男性だんせいとしては藤原ふじわらひさししゅ以来いらい1121ねんぶり。また生前せいぜんせいいち叙位じょいされた最後さいごれいである。(内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 223)

出典しゅってん

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  1. ^ 笹部ささべ昌利まさとし 2001, p. 26.
  2. ^ a b 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 11-12.
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  4. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 13.
  5. ^ a b 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 13-14.
  6. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 28-29.
  7. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 30-32.
  8. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 36-37.
  9. ^ a b 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 38.
  10. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 47.
  11. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 41-42.
  12. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 42-43.
  13. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 45-46.
  14. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 43-44.
  15. ^ a b 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 51-52.
  16. ^ 笹部ささべ昌利まさとし 2001, p. 34-38.
  17. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 54.
  18. ^ 笹部ささべ昌利まさとし 2001, p. 60.
  19. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 62.
  20. ^ a b c 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 63.
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  22. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 65.
  23. ^ 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 63-65.
  24. ^ a b c 内藤ないとう一成いっせい 2019, p. 67.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
新設しんせつ
  内大臣ないだいじん
初代しょだい:1885ねん12月22にち - 1891ねん2がつ18にち
次代じだい
徳大寺とくだいじ実則さねつね
先代せんだい
伊地知いじち正治しょうじ(→欠員けついん
  修史しゅうしかん総裁そうさい
1879ねん - 1885ねん
次代じだい
廃止はいし
先代せんだい
新設しんせつ
  皇居こうきょ造営ぞうえい事務じむ総裁そうさい
1883ねん - 1884ねん
皇居こうきょ造営ぞうえい事務じむ総裁そうさい
1882ねん - 1883ねん
次代じだい
すぎ孫七郎まごしちろう
皇居こうきょ造営ぞうえい事務じむ局長きょくちょう
先代せんだい
伊藤いとう博文ひろぶみ
長官ちょうかん
  しょうくんきょく総裁そうさい
1878ねん - 1883ねん
次代じだい
柳原やなぎはら前光さきみつ
先代せんだい
中山なかやま忠能ただやす
  神祇じんぎはく
1871ねん
次代じだい
欠員けついん→)嵯峨さがみのるあい
神祇じんぎきょうきょうきょう
先代せんだい
中山なかやま忠能ただやす
  宣教せんきょう長官ちょうかん
1871ねん
次代じだい
欠員けついん廃止はいし
先代せんだい
新設しんせつ
  右大臣うだいじん
1869ねん - 1871ねん
次代じだい
岩倉いわくら具視ともみ
その役職やくしょく
先代せんだい
鍋島なべしまただしだい
華族かぞく会館かいかんなが
1886ねん - 1891ねん
次代じだい
浅野あさのちょういさお
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
叙爵じょしゃく
公爵こうしゃく
三条さんじょう初代しょだい
1884ねん - 1891ねん
次代じだい
三条さんじょう公美くみ