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台湾出兵 - Wikipedia

台湾たいわん出兵しゅっぺい

1874ねん日本にっぽんおこなったきよし国領こくりょう台湾たいわんへの軍隊ぐんたい派遣はけん

台湾たいわん出兵しゅっぺい(たいわんしゅっぺい)は、1874ねん明治めいじ7ねん)に台湾たいわん原住民げんじゅうみんによる日本人にっぽんじん漂流ひょうりゅうみん虐殺ぎゃくさつ事件じけん理由りゆう日本にっぽんおこなった清国きよくにりょう台湾たいわんへの軍隊ぐんたい派遣はけんである[1]。「せいだいやく」、「台湾たいわん事件じけん」ともいう[1]にちしん両国りょうこく互換ごかんじょう調印ちょういんにより、清国きよくに日本にっぽん出兵しゅっぺいみとめて虐殺ぎゃくさつ被害ひがいしゃ見舞みまいきん支払しはらうことを条件じょうけん日本にっぽん撤兵てっぺい同意どういすることにより事件じけん解決かいけつした。この事件じけんにより、また琉球りゅうきゅう日本にっぽん帰属きぞく国際こくさいてき確認かくにんされるかたちとなった[1]

台湾たいわん出兵しゅっぺい
せいだいやく
台湾たいわん事件じけん
牡丹ぼたんしゃ事件じけん

台湾たいわん出兵しゅっぺい
戦争せんそう台湾たいわん出兵しゅっぺい
年月日ねんがっぴ1874ねん5月6にち - 12月3にち
場所ばしょ台湾たいわん南部なんぶ
結果けっかきよし被害ひがいみんへのなで恤金(見舞みまいきん)を支払しはらい、台湾たいわんしょ設備せつびとう出費しゅっぴした。また、琉球りゅうきゅう日本にっぽん帰属きぞく国際こくさいてき承認しょうにんされるかたちとなった。日本にっぽん生蕃せいばんたいほうもうけること要求ようきゅうした。
交戦こうせん勢力せいりょく
日本の旗 日本にっぽん パイワンぞく
指導しどうしゃ指揮しきかん
天皇の旗 西郷さいごう従道つぐみち[1] おもねろくいにしえ中国語ちゅうごくごばん
戦力せんりょく
3,600にん
損害そんがい
戦死せんし 6にん
病死びょうし 531にん
負傷ふしょう 30にん
戦死せんし 30にん

概要がいよう

編集へんしゅう

1871ねん明治めいじ4ねん)10がつ台湾たいわん漂着ひょうちゃくした宮古島みやこじま島民とうみん54にん殺害さつがいされる事件じけん宮古島みやこじま島民とうみん遭難そうなん事件じけん)が発生はっせいした。この事件じけんたいして、きよし政府せいふが「台湾たいわんじんがいみんきよし政府せいふ責任せきにん範囲はんいでない事件じけんきよし政府せいふ実効じっこう支配しはいしてない管轄かんかつ地域ちいきがいでの事件じけん)」としたことが責任せきにん回避かいひであるとして、日本にっぽんがわ犯罪はんざい捜査そうさなどを名目めいもく出兵しゅっぺいした。原因げんいんが54にん殺害さつがいというだい規模きぼ殺戮さつりく事件じけんであることを理由りゆうに、警察けいさつではなくぐん派遣はけんした。開国かいこく日本にっぽんとしてははつ海外かいがい派兵はへいである[2]

せいだいやく(せいたいのえき)、台湾たいわん事件じけん(たいわんじけん)ともばれる。また、宮古島みやこじま島民とうみん遭難そうなんから台湾たいわん出兵しゅっぺいいたるまでの一連いちれん出来事できごと牡丹ぼたんしゃ事件じけん(ぼたんしゃじけん)とぶこともある[3]

発端ほったん背景はいけい

編集へんしゅう

1871ねん明治めいじ4ねん)10がつ宮古島みやこじまからくびさと年貢ねんぐ輸送ゆそうし、帰途きとについた琉球りゅうきゅう用船ようせん台風たいふうによる暴風ぼうふう遭難そうなんした。乗員じょういん漂流ひょうりゅうし、台湾たいわん南部なんぶ漂着ひょうちゃくした。ふねには役人やくにん船頭せんどう乗員じょういん合計ごうけい69めいっていた。漂着ひょうちゃくした乗員じょういん66めい(3めい溺死できし)は先住民せんじゅうみん現在げんざい台湾たいわん先住民せんじゅうみんパイワンぞく)に救助きゅうじょもとめたが、ぎゃく集落しゅうらく拉致らちされた。

先住民せんじゅうみんとは意思いし疎通そつうができず、12月17にち遭難そうなんしゃたちは集落しゅうらくから逃走とうそう先住民せんじゅうみんげたものてきとみなし、次々つぎつぎ殺害さつがいし、54めい斬首ざんしゅした(宮古島みやこじま島民とうみん遭難そうなん事件じけん)。12めい生存せいぞんしゃは、漢人かんど移民いみんにより救助きゅうじょされ、台湾たいわん保護ほごにより、福建ふっけんしょうふくしゅう経由けいゆ宮古みやふるとうおくかえされた。明治めいじ政府せいふ清国きよくにたいして事件じけん賠償ばいしょうなどをもとめたが、清国きよくに政府せいふ管轄かんかつがいとして拒否きょひした。よく1872ねん明治めいじ5ねん)、琉球りゅうきゅう管轄かんかつしていた鹿児島かごしまけん参事さんじ大山おおやまつなりょう日本にっぽん政府せいふたいし、責任せきにん追及ついきゅう出兵しゅっぺい建議けんぎした。1873ねん明治めいじ6ねん)には備中びっちゅうこく浅口あさくちぐん柏島かしわとうむら現在げんざい岡山おかやまけん倉敷くらしき)のふね台湾たいわん漂着ひょうちゃくし、乗組のりくみいん4めい略奪りゃくだつける事件じけん発生はっせいした[4]。これにより、政府せいふ内外ないがい台湾たいわん征討せいとうこえたかまっていた。

開戦かいせん準備じゅんび

編集へんしゅう
 
副島そえじま種臣たねおみ

宮古みやこ島民とうみん台湾たいわん遭難そうなん事件じけんった清国きよくにアモイ駐在ちゅうざいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく総領事そうりょうじチャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、せんとく)は、ちゅうにちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく公使こうしチャールズ・デロングつうじて「野蛮やばんじん懲罰ちょうばつするべきだ」と日本にっぽん外務省がいむしょう提唱ていしょうした。

 
初代しょだいりゅう台湾たいわん出兵しゅっぺい旗艦きかんであり副島そえじま種臣たねおみ大久保おおくぼ利通としみちをそれぞれ、中国ちゅうごくはこんだ。
 
孟春もうしゅん(砲艦ほうかん)さんほんマスト・スクーナーがた鉄骨てっこつ木皮もくひ小型こがた砲艦ほうかんで、台湾たいわん出兵しゅっぺい参加さんかした。

外務がいむきょう副島そえじま種臣たねおみはデロングを仲介ちゅうかいしルジャンドルと会談かいだん内務ないむきょう大久保おおくぼ利通としみちもルジャンドルの意見いけん注目ちゅうもくし、ルジャンドルは顧問こもんとして外務省がいむしょう雇用こようされることとなった。当時とうじ明治めいじ政府せいふでは、朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺいめぐせいかんろんなどで対立たいりつがあり、樺山かばやま鹿児島かごしまけん参事さんじ大山おおやまつなりょう薩摩さつまばつ台湾たいわん出兵しゅっぺい建言けんげんしていた。

1873ねん特命とくめい全権ぜんけん大使たいしとしてきよしわたった副島そえじま外務がいむきょう随員ずいいん柳原やなぎはら前光さきみつもちいて宮古みやこ島民とうみん台湾たいわん遭難そうなん事件じけんなどのけんいたださせたが[注釈ちゅうしゃく 1]清朝せいちょう外務がいむ当局とうきょくは、台湾たいわん先住民せんじゅうみんは「がい」であり、清国きよくに統治とうちのおよばぬ領域りょういきでの事件じけんであると回答かいとうして責任せきにん回避かいひした[4]。その日本にっぽんではこのとしあき朝鮮ちょうせん使節しせつ派遣はけんをめぐって政府せいふ分裂ぶんれつし(明治めいじろくねん政変せいへん)、また、よく1874ねん1がつ岩倉いわくら具視ともみ暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん、2がつ江藤えとう新平しんぺいによる反乱はんらん佐賀さがらん)がこるなど政情せいじょう不安ふあんたかぶじたため、大久保おおくぼ利通としみち中心ちゅうしんとする明治めいじ政府せいふ国内こくない不満ふまん海外かいがいにふりけるねらいもあって台湾たいわん征討せいとう決断けつだんし、1874ねん明治めいじ7ねん)4がつ参議さんぎ大隈おおくま重信しげのぶ台湾たいわん蕃地ばんち事務じむきょく長官ちょうかんとして、また、陸軍りくぐん中将ちゅうじょう西郷さいごう従道つぐみち台湾たいわん蕃地ばんち事務じむとくとして、それぞれ任命にんめいして軍事ぐんじ行動こうどう準備じゅんびはいった[4]

明治めいじろくねん政変せいへんにおける明治天皇めいじてんのうみことのりさいは、ロシアとの国境こっきょうめぐ紛争ふんそう理由りゆうとしたせいかんの「延期えんき」であったため、ロシアとの国境こっきょう確定かくていしたさいには、せいかん要求ようきゅう再燃さいねんする可能かのうせいたかかった。政変せいへん下野げやした副島そえじまにかわって外交がいこう担当たんとうすることとなった大久保おおくぼとしては、朝鮮ちょうせんよりも制圧せいあつ容易よういおもわれた台湾たいわん出兵しゅっぺいをむしろ積極せっきょくてき企画きかくしたのである。

台湾たいわんでの戦闘せんとう

編集へんしゅう
 
西郷さいごう従道つぐみち

台湾たいわん出兵しゅっぺいたいしては、政府せいふ内部ないぶやイギリス公使こうしパークスやデロングの後任こうにんのアメリカ公使こうしジョン・ビンガムJohn Bingham)などからは反対はんたい意見いけんもあった。とくに、参議さんぎ木戸きど孝允たかよしらの長州ちょうしゅうけいは「せいかんろん否定ひていしておきながら、台湾たいわんへの海外かいがい派兵はへいをおこなうのは矛盾むじゅんである」として、4がつ18にち木戸きど参議さんぎ辞表じひょう提出ていしゅつして下野げやしてしまった。そのため、政府せいふ一旦いったん派兵はへい中止ちゅうし決定けっていした。

しかし、西郷さいごう従道つぐみち独断どくだんでの出兵しゅっぺい強行きょうこうし、長崎ながさき待機たいきしていた征討せいとうぐんやく3,000めい出動しゅつどうさせた。

 
台湾たいわん出兵しゅっぺい西郷さいごう従道つぐみち画面がめん中央ちゅうおう椅子いすすわっている人物じんぶつ)とその幕僚ばくりょうおよび現地げんち住民じゅうみん写真しゃしん注釈ちゅうしゃくによると、手前てまえなかそべった人物じんぶつ水野みずのとされている。
 
もっとはげしいたたかいであった、水門すいもんせんえがいた錦絵にしきえ[5]

国立こくりつ公文書こうぶんしょかん所蔵しょぞうしている公文書こうぶんしょによると1874ねん4がつ4にち三条さんじょう実美みみにより台湾たいわん蕃地ばんち事務じむきょく設置せっちされる。(以後いご任命にんめい当時とうじ太政大臣だじょうだいじんであった三条さんじょう実美みみからの奉勅ほうちょくとなっている)同年どうねん4がつ5にち台湾たいわん蕃地ばんち事務じむとく西郷さいごう従道つぐみち任命にんめいされる[6]同年どうねん4がつ6にちたに干城かんじょう赤松あかまつそくりょう台湾たいわん蕃地ばんち事務じむきょくさんぐん西郷さいごう従道つぐみちを輔翼し成功せいこうそうすること任命にんめいされる[7][注釈ちゅうしゃく 2]同年どうねん4がつ7にち海軍かいぐんしょうから孟春もうしゅんかんくもあげかん歩兵ほへいだいいち小隊しょうたい海軍かいぐんほうもん陸軍りくぐんしょうから熊本くまもと鎮台ちんだい所轄しょかつ歩兵ほへいいち大隊だいたい砲兵ほうへいいち小隊しょうたい出兵しゅっぺい命令めいれいめいじられる[8]、という経緯けいいになっている。

5月6にち台湾たいわん南部なんぶ上陸じょうりくすると台湾たいわん先住民せんじゅうみんとのあいだで小競こぜいがしょうじた。5月22にち台湾たいわん西南せいなんしゃりょうこうぜんぐん集結しゅうけつし、西郷さいごう命令めいれいによって本格ほんかくてき制圧せいあつ開始かいしした[4]。6月3にちには牡丹ぼたんしゃなど事件じけん発生はっせい地域ちいき制圧せいあつして現地げんち占領せんりょうつづけた。戦死せんししゃは12めいであった[4]。しかし、現地げんちぐん劣悪れつあく衛生えいせい状態じょうたいのなか、亜熱帯あねったい地域ちいき風土病ふうどびょうであるマラリア罹患りかんするなど被害ひがいひろがり、早急そうきゅう解決かいけつ必要ひつようとなった。マラリアは猖獗しょうけつをきわめ、561めいはそれにより病死びょうしした[4]

収拾しゅうしゅうへの交渉こうしょう

編集へんしゅう

明治めいじ政府せいふは、この出兵しゅっぺいさい清国きよくに通達つうたつをせず、また清国きよくにない権益けんえき列強れっきょうたいしての通達つうたつ根回ねまわしもおこなわなかった。これは紛争ふんそうがねになりかねない危険きけんせいがあるとられ、明治めいじ政府せいふにとってしょ外国がいこくからも批判ひはんされる失策しっさくとなった。清国きよくに実力じつりょくしゃ鴻章こうしう、イギリスのちゅうにち大使たいしパークスは当初とうしょ日本にっぽん軍事ぐんじ行動こうどうはげしく反発はんぱつした。

その、イギリス公使こうしウェード斡旋あっせん和議わぎすすめられ、8がつ全権ぜんけん弁理べんり大臣だいじんとして大久保おおくぼ利通としみち北京ぺきんおもむいて清国きよくに政府せいふ交渉こうしょうした。大久保おおくぼは、ルジャンドルとフランスじん法学ほうがくしゃボアソナード顧問こもんとして台湾たいわん問題もんだい交渉こうしょう[9]しゅたる交渉こうしょう相手あいて総理そうり衙門大臣だいじんきょう親王しんのうであった[4]

会談かいだん難航なんこうしたが、ウェードの仲介ちゅうかい鴻章こうしう宥和ゆうわろんもあって、10月31にちに「にちしん両国りょうこく互換ごかんじょう(zh)」が調印ちょういんされた[4][9]。それによれば、きよし日本にっぽんぐん出兵しゅっぺいたもてみん義挙ぎきょみとめ、日本にっぽん生蕃せいばんたいほうもうけることもとめ、[10]1874ねん12月20にちまでに征討せいとうぐん撤退てったいさせることに合意ごういした。

にちしん両国りょうこくあいだ互換ごかんじょう互換ごかん憑単によると、清国きよくに遭難そうなんみんたいするなで恤金(見舞みまいきん)10まんりょう(テール)をはらい、40まんりょう[注釈ちゅうしゃく 3]台湾たいわんしょ設備せつびとしてみずかもちいることねが出費しゅっぴした[11]

清国きよくに日本にっぽんぐん行動こうどう承認しょうにんしたため、琉球りゅうきゅうみん日本人にっぽんじんということになり、琉球りゅうきゅう日本にっぽん帰属きぞく国際こくさいてき承認しょうにんされることとなった[4]

 
明治めいじ政府せいふ台湾たいわん出兵しゅっぺい従軍じゅうぐんしゃ授与じゅよした明治めいじななねん従軍じゅうぐん記章きしょう表面ひょうめん

日本にっぽん清国きよくにとのあいだ帰属きぞくがはっきりしなかった琉球りゅうきゅうだったが、この事件じけん処理しょりつうじて日本にっぽん有利ゆうりはたらき、明治めいじ政府せいふよく1875ねん明治めいじ8ねん)、琉球りゅうきゅうたいきよしとのさつふう朝貢ちょうこう関係かんけい廃止はいし明治めいじ年号ねんごう使用しようなどを命令めいれいした。

しかし琉球りゅうきゅうきよしとの関係かんけい存続そんぞく嘆願たんがんせい琉球りゅうきゅう朝貢ちょうこう禁止きんし抗議こうぎするなど外交がいこうじょう決着けっちゃくはつかなかった。

1879ねん明治めいじ12ねん)、明治めいじ政府せいふ琉球りゅうきゅう処分しょぶんさいしても、それに反対はんたいするきよしとの1880ねん明治めいじ13ねん)の北京ぺきんでの交渉こうしょうにおいて、日本にっぽん沖縄おきなわ本島ほんとう日本にっぽんりょうとし八重山諸島やえやましょとう宮古島みやこじま中国ちゅうごくりょうとするあんぶんしまあらためやくあん)を提示ていじしたが、きよし元来がんらいとう領有りょうゆうのぞまず、さつふう関係かんけい維持いじのためとう琉球りゅうきゅう返還へんかんしたうえでの琉球りゅうきゅう王国おうこく再興さいこうもとめており、また、ぶんしまたいする琉球りゅうきゅうじん反対はんたいもあって、調印ちょういんいたらなかった。

明治めいじ政府せいふ兵員へいいん輸送ゆそうえいべいふね会社かいしゃ想定そうていしていたが拒否きょひされ、大型おおがたせん急遽きゅうきょ購入こうにゅうした。また国有こくゆう会社かいしゃ日本国にっぽんこく郵便ゆうびんふけ汽船きせん会社かいしゃ運航うんこう委託いたくしたがこれも拒否きょひされ、大隈おおくま重信しげのぶはやむなく新興しんこう民間みんかん企業きぎょうである郵便ゆうびん汽船きせん三菱みつびし会社かいしゃ三菱みつびし商会しょうかいけい)を起用きようすることに決定けっていした[12]。1874ねん7がつ28にち三菱みつびし商会しょうかいは、政府せいふ輸入ゆにゅうせん13せきによる運航うんこう業務ぎょうむ受託じゅたくし、軍事ぐんじ輸送ゆそう委託いたくされた[13]。この協力きょうりょくにより、以降いこう三菱みつびし政府せいふからの恩恵おんけい享受きょうじゅできることとなり、シェアを一気いっき拡大かくだい一大いちだい財閥ざいばつになるきっかけとなった[14]。なお日本国にっぽんこく郵便ゆうびんふけ汽船きせん会社かいしゃはこれをにシェアをうばわれて解散かいさん所有しょゆう船舶せんぱく政府せいふから三菱みつびし無償むしょうげられた。

台湾たいわん出兵しゅっぺい熱帯ねったいびょう

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日本にっぽんぐん損害そんがい戦死せんし8めい戦傷せんしょう25めい記録きろくされるが、長期ちょうき駐屯ちゅうとん余儀よぎなくされたため、マラリアなどの感染かんせんしょうなやまされ、出征しゅっせいした軍人ぐんじん軍属ぐんぞく5,990余人よにんなか患者かんじゃすうは1まん6409にん、すなわち、一人ひとりあたり、やく2.7かい罹病りびょうするという悲惨ひさん状況じょうきょうおちいった。

軍医ぐんい対応たいおう

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1871ねん明治めいじ4ねん)、兵部ひょうぶしょうは、陸軍りくぐんしょう海軍かいぐんしょうかれ、軍医ぐんいりょう陸軍りくぐんしょうぞくし、軍医ぐんいあたま松本まつもとりょうじゅん(のちにじゅん)であった。台湾たいわん出兵しゅっぺい当時とうじ軍医ぐんい創立そうりつよりあさ経験けいけん不足ふそくであったが、総力そうりょくげて事態じたいにあたった。出征しゅっせいぐん医務いむ責任せきにんしゃ桑田くわた衡平こうへいとう軍医ぐんいただし少佐しょうさ相当そうとう)、たいづけ医長いちょう宮本みやもと正寛まさひろ軍医ぐんい大尉たいい相当そうとう)であった。に24めいかん従軍じゅうぐんさせた。かん全員ぜんいん奮闘ふんとうしたが、極悪ごくあく環境かんきょう猛烈もうれつ伝染でんせんびょう病臥びょうがするものおおく、西郷さいごうとくからはくすりだけでも兵士へいしにあたえてほしいと要請ようせいされた。かんおおくは漢方かんぽうで、熱帯ねったいびょう治療ちりょうにはまったく経験けいけんがなかったという。かれらは交代こうたいの22めい到着とうちゃくしたため、ようやく帰国きこくできた。みや内省ないせいからは外国がいこくじん医師いし派遣はけんされた。ドイツ出身しゅっしんのセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ前身ぜんしんにあたる大学だいがくひがしこうやと外国がいこくじん医師いしレオポルト・ミュルレル推挙すいきょであったが、能力のうりょくがなくトラブルをこした。しかし、かれとともにおくられた6だい製氷せいひょう機械きかいおおいにやくったといわれている[15]

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ

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  • ともえだい しる魚住うおずみ悦子えつこ わけ暗礁あんしょうくさふうかん、2018ねん12月1にちISBN 978-4-88323-202-4 

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 副島そえじま任務にんむは1871ねん明治めいじ4ねん)のにちしん修好しゅうこう条規じょうき批准ひじゅん交換こうかんであった。遠山とおやま(1979)p.113
  2. ^ その討伐とうばつぐん編成へんせいされたが、鎮台ちんだいへい以外いがいは「植民しょくみんへい」として薩摩さつまなど九州きゅうしゅう各地かくち士族しぞく藩士はんし編成へんせい部隊ぶたい)から占領せんりょう永住えいじゅう前提ぜんてい募集ぼしゅう編成へんせいされたものであった。
  3. ^ 日本にっぽん出兵しゅっぺいようした戦費せんぴは、この10ばいにおよんだ。平尾ひらお子爵ししゃくたに干城かんじょうでん』(1981)p.398

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)『台湾たいわん出兵しゅっぺい』 - コトバンク
  2. ^ 改訂かいてい新版しんぱん 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん台湾たいわん出兵しゅっぺい
  3. ^ 大浜おおはま郁子いくこ加害かがい元凶げんきょう牡丹ぼたんしゃしげるず - 「牡丹ぼたんしゃ事件じけん」からみる沖縄おきなわ台湾たいわん」『じゅう世紀せいき研究けんきゅうだい7ごうじゅう世紀せいき研究けんきゅう編集へんしゅう委員いいんかい、2006ねん12月。 
  4. ^ a b c d e f g h i 毛利もうり(2004)
  5. ^ "A Yankee in Meiji Japan" The Crusading Journalist Edward H. House By James L. Huffman, p.94 (A yankee in Meiji Japan)
  6. ^ 台湾たいわん征討せいとう事件じけん/17じゅうろくさんじょう太政大臣だじょうだいじんヨリ外務省がいむしょういたる/じゅうななおやみことのり」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B03030114600 
  7. ^ 台湾たいわん征討せいとう事件じけん/19じゅうきゅう辞令じれい」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B03030114800 
  8. ^ 台湾たいわん征討せいとう事件じけん/20出兵しゅっぺい命令めいれい」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B03030114900 
  9. ^ a b 遠山とおやま(1979)p.113
  10. ^ 台湾たいわん征討せいとう事件じけん/65なな太政大臣だじょうだいじん布告ふこく/なないち互換ごかんじょう」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B03030119400 
  11. ^ 台湾たいわん征討せいとう事件じけん/66なな互換ごかんたん」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.B03030119500 
  12. ^ 三菱みつびし人物じんぶつでん岩崎いわさき彌太郎やたろう物語ものがたり」vol.12 台湾たいわん出兵しゅっぺい三菱みつびし三菱みつびしグループ公式こうしきサイト
  13. ^ 日本郵船にっぽんゆうせん株式会社かぶしきがいしゃじゅうねん
  14. ^ 三菱みつびし人物じんぶつでん岩崎いわさき彌太郎やたろう物語ものがたり」vol.13 上海しゃんはい航路こうろ攻防こうぼう三菱みつびしグループ公式こうしきサイト
  15. ^ 明治めいじ7ねん台湾たいわん出兵しゅっぺいみや内省ないせい差遣さけんのドイツじん医師いし」(1984)佐久間さくまあつし 日本にっぽん医事いじ新報しんぽう 3130ごう昭和しょうわ59ねん4がつ21にち

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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