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五所平之助 - Wikipedia

しょ平之ひらのすけ

1902-1981, 映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん俳人はいじん

しょ 平之ひらのすけ(ごしょ へいのすけ、1902ねん1がつ24にちまたは2がつ1にち - 1981ねん5月1にち[1])は、日本にっぽん映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん俳人はいじん日本にっぽん最初さいしょ国産こくさんトーキー映画えいがマダムと女房にょうぼう』の監督かんとくとして有名ゆうめいである。本名ほんみょうしょ ひらめみぎ衛門えもん(ごしょ へいえもん)。俳号はいごうしょてい

ごしょ へいのすけ
しょ 平之ひらのすけ
五所 平之助
『わかれくも』(1951ねん)スタジオスチル
本名ほんみょう しょ ひらめみぎ衛門えもん
べつ名義めいぎ 桃園ももぞのきょうふとし
しょてい俳号はいごう
生年月日せいねんがっぴ (1902-01-24) 1902ねん1がつ24にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1981-05-01) 1981ねん5月1にち(79さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう神田かんだ
げん東京とうきょう千代田ちよだ
民族みんぞく 日本人にっぽんじん
職業しょくぎょう 映画えいが監督かんとく脚本きゃくほん俳人はいじん
ジャンル 映画えいが
おも作品さくひん
マダムと女房にょうぼう
煙突えんとつえる場所ばしょ
 
受賞じゅしょう
ゴールデングローブしょう
外国がいこく映画えいがしょう
1956ねん黄色きいろいからす
そのしょう
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来歴らいれき人物じんぶつ

編集へんしゅう

東京とうきょう神田かんだなべまちげん千代田ちよだ内神田うちかんだ3丁目ちょうめ)に、「豊前ぶぜん」というだいみせ乾物かんぶつ問屋とんやいとなちち平助へいすけ妾腹しょうふくとしてまれる。みのはは新富しんとみまち芸者げいしゃをしていた。5さいとき長男ちょうなんくなり、ははのもとをはなれて後継あとつぎにされた。1916ねん慶應義塾けいおうぎじゅく商工しょうこう学校がっこう入学にゅうがくする。学生がくせい時代じだいには俳句はいく没頭ぼっとうしていた[2]

1921ねん歩兵ほへいだい1連隊れんたい志願しがん入隊にゅうたいし、見習みならい士官しかん予備よびとなる。1923ねん慶應義塾けいおうぎじゅく商工しょうこう学校がっこう卒業そつぎょう城戸きど四郎しろうとの出会であいがきっかけで、ちち友人ゆうじん息子むすこである島津しまつ保次郎やすじろう口添くちぞえもあって、松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょ入社にゅうしゃする。

島津しまつ助監督じょかんとくて、1925ねん原作げんさく脚本きゃくほんがけた『南島なんとうはる』で監督かんとくデビューした。このころ、少尉しょういとしてぐんさい入隊にゅうたいするも予備よびやくとなる。松竹しょうちくもどってからはつづき、『彼女かのじょ』『はずかしいゆめ』『むら花嫁はなよめ』など、しょう市民しみん生活せいかつをユーモアにえがいた叙情じょじょうせいゆたかな作品さくひん次々つぎつぎ発表はっぴょう。こうした作風さくふうは、日本にっぽんはつのオールトーキー映画えいがとなった『マダムと女房にょうぼう』において頂点ちょうてんたっした。また、山本やまもと有三ゆうぞう原作げんさくの『きとしけるもの』においては社会しゃかいてき側面そくめんつよしている。ほか川端かわばた康成やすなり代表だいひょうさく映画えいがだい1さくである『こいはな伊豆いず踊子おどりこ』や『人生じんせいのお荷物にもつ』などを発表はっぴょう。また、『むら花嫁はなよめ以降いこう田中たなか絹代きぬよをたびたび主演しゅえん起用きようしており、20ほん監督かんとく作品さくひん田中たなか主演しゅえんしている。

1936ねん肺結核はいけっかくおかされてすうヶ月かげつあいだ休養きゅうようするが、『新道しんどう』で復帰ふっき。『木石ぼくせき発表はっぴょう城戸きど四郎しろうめて松竹しょうちく退社たいしゃ1942ねん大映だいえい移籍いせき同年どうねんった『新雪しんせつ』は興行こうぎょうてきにもだいヒットした。

1945ねん3がつ下旬げじゅん応召おうしょう命令めいれいくだされる。それまでも演習えんしゅうなん応召おうしょうされていたが、赤紙あかがみたのはこれがはじめてであった。歩兵ほへいだい49連隊れんたいかうが、その翌日よくじつ体格たいかく検査けんさ病弱びょうじゃくのため1年間ねんかん延期えんきとされ即日そくじつ帰郷ききょう、そのまま終戦しゅうせんむかえた[3]

 
1954ねん

戦後せんごふたた松竹しょうちく復帰ふっきするが『伊豆いずむすめたち』の1さくかぎりで東宝とうほう入社にゅうしゃ恋愛れんあいものの『こんひとたびの』などを発表はっぴょうするが、おりから東宝とうほう争議そうぎ発生はっせいしょ組合くみあいがわにつき、今井いまいただし伊藤いとう武郎たけお亀井かめい文夫ふみおらときぬた撮影さつえいしょてこもった。 しかし、1950ねん昭和しょうわ25ねん)に連合れんごう国軍こくぐん最高さいこう司令しれいかんそう司令しれい指令しれいによるレッドパージなみ映画えいがかいにもおよぶと、しょ追放ついほう対象たいしょうしゃとしてリストアップされた[4]同年どうねんには争議そうぎ終結しゅうけつし、しょ東宝とうほうることになった。

よく1951ねん平尾ひらおいくらとともに独立どくりつプロ・スタジオ8を結成けっせいし、しん東宝とうほう提携ていけいした。1953ねん、スタジオ8製作せいさく椎名しいな麟三りんぞうの『無邪気むじゃき人々ひとびと』を映画えいがした『煙突えんとつえる場所ばしょ』を発表はっぴょうベルリン国際こくさい映画えいがさい国際こくさい平和へいわしょう受賞じゅしょうした。これを椎名しいなとのコンビで日活にっかつで『あい谷間たにま』、しん東宝とうほうで『にわとりはふたたびく』をっている。ほかにも『大阪おおさか宿やど』や、だいヒットした『挽歌ばんか』などを発表はっぴょう一貫いっかんして市井しせい人々ひとびとえがき、庶民しょみん監督かんとくとしてられた。

1957ねん歌舞伎座かぶきざ製作せいさくによる『黄色きいろいからす』がゴールデングローブしょう外国がいこく映画えいがしょう受賞じゅしょう1960年代ねんだいはフレンドプロの製作せいさくによる『おそれやまおんな』や東芝とうしば日曜にちよう劇場げきじょう放送ほうそうされている池内いけうち淳子じゅんこ主演しゅえんの『おんな味噌汁みそしる』シリーズを映画えいがした『おんな味噌汁みそしる』などを発表はっぴょうした。

1964ねんからは1963ねん逝去せいきょした小津おつあん二郎じろうかわって日本にっぽん映画えいが監督かんとく協会きょうかい理事りじちょうを16年間ねんかんにわたってつとめた。

1968ねんには竹田たけだ人形にんぎょう協力きょうりょくによってつくられた本格ほんかくてき人形にんぎょう映画えいが明治めいじはるあき』を監督かんとくしている。この映画えいが使用しようされた、しょをかたどった人形にんぎょうをはじめ、遺品いひん一部いちぶ東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんフィルムセンター寄贈きぞうされている。

1966ねん紫綬褒章しじゅほうしょうを、1972ねんくんよんとう旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう受章じゅしょう

1981ねん5月1にち死去しきょ享年きょうねん79。墓所はかしょみなときよし泉寺いずみでら松尾まつお芭蕉ばしょうの『おく細道ほそみち』の映画えいが晩年ばんねんゆめであったという。回想かいそうに『わが青春せいしゅん』(永田ながた書房しょぼう)がある。

俳人はいじんとして

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俳人はいじんとしてもられており、「はるとう同人どうじんとしてしょていという俳号はいごう活躍かつやくした。俳人はいじん協会きょうかい監事かんじつとめ、句集くしゅうに『わが旅路たびじ』『きる しょ平之ひらのすけひゃく句集くしゅう』(かく永田ながた書房しょぼう)がある。

大正たいしょう8ねんさくをはじめ、慶應義塾けいおうぎじゅく商工しょうこう学校がっこう在学ざいがくちゅう大正たいしょう10ねんには三田みた俳句はいくかいはら月舟げっしゅうはら石鼎せきてい知遇ちぐう前田まえだ普羅ふら主宰しゅさい加比丹かぴたん』の同人どうじんとなった。大正たいしょう12ねん以降いこうさく中断ちゅうだんするが、昭和しょうわ9ねんにいとう句会くかい発足ほっそくするとこれにり、久保田くぼた万太郎まんたろう指導しどうけながらさくはげんだ。代表だいひょうに「きることは一筋ひとすじがよし寒椿かんつばき」「目覚めざめむればよるまだありぬぼたるかご」など。

助監督じょかんとく時代じだいにコマねずみのようにまめにうごきまわるため、「チョコたいら」と渾名あだなされていた。また1924ねん新年しんねんのご挨拶あいさつまわりに同行どうこうしたさい当時とうじのスター女優じょゆうであるあずま栄子えいこ彼氏かれしであった撮影さつえい技師ぎし小田おだはま太郎たろうからひそかにひがし護衛ごえいたのまれていたという。

1931ねん昭和しょうわ6ねん)4がつはつ全編ぜんぺんトーキー映画えいが『マダムと女房にょうぼう』の製作せいさく松竹しょうちく蒲田かまた撮影さつえいしょはじめたが、テスト段階だんかい撮影さつえい所内しょない雑多ざった騒音そうおんはいんでしまうことが判明はんめいしょうしょ閉口へいこうしてしまい、いちヶ月かげつついやして防音ぼうおん装置そうちほどこしたスタジオに改装かいそうさせた[5]

だい世界せかい大戦たいせん直後ちょくご東宝とうほう争議そうぎきていたとき、東宝とうほう所属しょぞくしていたしょ松竹しょうちく大船おおぶね撮影さつえいしょ撮影さつえい所長しょちょうである月森つきもりせんこれすけに「東宝とうほういま、ああいうことになっているから、なにかあったら一本いっぽん」とっていたと大庭おおば秀雄ひでおかたっている。

1977ねん田中たなか絹代きぬよくなり、映画えいが放送ほうそうじんそういとなまれたさいには映画えいが監督かんとく協会きょうかい理事りじちょうとして弔辞ちょうじげている[6]

監督かんとくさく抜粋ばっすい

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人生じんせいのお荷物にもつ』(1935ねん
田中たなか絹代きぬよ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ しょ平之ひらのすけ』 - コトバンク
  2. ^ 特定とくてい営利えいり活動かつどう法人ほうじんグランドワークさんとう (2016ねん5がつ31にち). “みしま歴史れきしたび その22:日本にっぽん映画えいがかい大御所おおごしょ”. グランドワーク三島みしま ボランタリーニュース: 3. 
  3. ^ ノーベル書房しょぼう編集へんしゅうへん陸軍りくぐん郷土きょうど歩兵ほへい聯隊れんたい写真しゃしんしゅう わが聯隊れんたいノーベル書房しょぼう、1979ねん。p80
  4. ^ 世相せそう風俗ふうぞく観察かんさつかい増補ぞうほ新版しんぱん 現代げんだい世相せそう風俗ふうぞく年表ねんぴょう 昭和しょうわ20ねん(1945)-平成へいせい20ねん(2008)』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2003ねん11月7にち、37ぺーじISBN 9784309225043 
  5. ^ 松竹しょうちくはつのトーキー「マダムと女房にょうぼう」『東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ6ねん5がつ11にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp27 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  6. ^ あお鉛筆えんぴつ朝日新聞あさひしんぶん』1977ねん昭和しょうわ52ねん)4がつ1にち朝刊ちょうかん、13はん、23めん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 坂口さかぐち昌弘まさひろちょ文人ぶんじんたちの俳句はいく本阿弥書店もくあみしょてん

外部がいぶリンク

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