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フランクリン・ルーズベルト - Wikipedia

フランクリン・ルーズベルト

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい32だい大統領だいとうりょう

フランクリン・デラノ・ルーズベルト英語えいご: Franklin Delano Roosevelt[ˈfræŋklɪn ˈdɛləˌnoʊ ˈroʊzəˌvɛlt]1882ねん1がつ30にち - 1945ねん4がつ12にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政治せいじ[1]FDRという略称りゃくしょうでよくられている。せいは、ルーズヴェルトあるいはローズベルトローズヴェルトとも表記ひょうきする[注釈ちゅうしゃく 1]

フランクリン・D・ルーズベルト
Franklin D. Roosevelt

レオン・パースキー撮影さつえい(1944ねん8がつ21にち

任期にんき 1933ねん3月4にち1945ねん4がつ12にち
ふく大統領だいとうりょう ジョン・N・ガーナー(1933ねん3がつ4にち - 1941ねん1がつ20日はつか
ヘンリー・A・ウォレス(1941ねん1がつ20日はつか - 1945ねん1がつ20日はつか
ハリー・S・トルーマン(1945ねん1がつ20日はつか - 1945ねん4がつ12にち

任期にんき 1929ねん1がつ1にち1932ねん12月31にち
ふく知事ちじ ハーバート・リーマン

任期にんき 1913ねん3月17にち1920ねん8がつ26にち
大統領だいとうりょう ウッドロウ・ウィルソン

任期にんき 1911ねん1がつ1にち1913ねん3月17にち
しゅう知事ちじ ジョン・オールデン・ディックス
ウィリアム・ズルツァー

出生しゅっしょう (1882-01-30) 1882ねん1がつ30にち
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ニューヨークしゅうハイドパーク
死去しきょ (1945-04-12) 1945ねん4がつ12にち(63さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ジョージアしゅうウォームスプリングス
政党せいとう 民主党みんしゅとう
出身しゅっしんこう ハーバード大学だいがく
配偶はいぐうしゃ エレノア・ルーズベルト
子女しじょ アンナ・ルーズベルト・ハルステッド
ジェームズ・ルーズベルト
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア(3せい
エリオット・ルーズベルト
フランクリン・D・ルーズベルト・ジュニア
ジョン・アスピンウォール・ルーズベルト
署名しょめい

ニューヨークしゅう議会ぎかい上院じょういん議員ぎいんダッチェスぐん選出せんしゅつ)、海軍かいぐん次官じかんニューヨークしゅう知事ちじ歴任れきにんした。だい32だいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう在任ざいにん:1933ねん3がつ4にち – 1945ねん4がつ12にち)。

概説がいせつ

編集へんしゅう

世界せかい恐慌きょうこうおよびだい世界せかい大戦たいせん当時とうじ大統領だいとうりょうであり、20世紀せいき前半ぜんはん国際こくさい政治せいじにおける中心ちゅうしん人物じんぶつ1人ひとりである。かれ政権せいけんでのニューディール政策せいさくだい世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせんによる戦時せんじ経済けいざいアメリカ経済けいざい世界せかい恐慌きょうこうのどんぞこから回復かいふくさせたと評価ひょうかされる[注釈ちゅうしゃく 2]

ラジオつうじて国民こくみんとの対話たいわ重視じゅうしした。歴代れきだいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうのランキングでの人気にんき投票とうひょうでほぼ上位じょうい5すぐるはいるなど、現在げんざいでもアメリカ国民こくみんからの支持しじ根強ねづよい。また、アメリカ史上しじょう唯一ゆいいつ重度じゅうど身体しんたい障害しょうがいった大統領だいとうりょうで、両足りょうあし不自由ふじゆうであった。

その一方いっぽう日本にっぽん・ドイツ・イタリアの枢軸すうじくこく勢力せいりょく敵視てきしマンハッタン計画けいかく主導しゅどうする一方いっぽうで、ソビエト連邦れんぽう最高さいこう指導しどうしゃヨシフ・スターリンたいする容共ようきょうてき姿勢しせい[3]、その侵略しんりゃく行為こうい黙認もくにんしたことはのち批判ひはん対象たいしょうとなった[よう出典しゅってん]中国ちゅうごくたいしては中国人ちゅうごくじん排斥はいせきほう廃止はいしし、にちちゅう戦争せんそうさい蔣介せきつよ支持しじして莫大ばくだい軍事ぐんじ借款しゃっかんおこなっていたうえに、同国どうこくとの利権りけんおおかった[よう出典しゅってん]ためにアメリカと友好ゆうこう関係かんけいにあった国々くにぐにから「中国ちゅうごくびいき」とわれた[だれによって?]

ルーズベルトはアメリカ政治せいじ史上しじょう唯一ゆいいつ4せんされた大統領だいとうりょうである。初代しょだいワシントン大統領だいとうりょうが3せん固辞こじした故事こじから大統領だいとうりょうは2せんまでというのが慣例かんれいだったが、戦時せんじ有事ゆうじ理由りゆうに1940ねん・1944ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ立候補りっこうほして当選とうせんした。のち憲法けんぽう改正かいせいによって(修正しゅうせいだい22じょう:1951ねん)、正式せいしき大統領だいとうりょうは2までとさだめられた。

アメリカ経済けいざい回復かいふく同時どうじだい世界せかい大戦たいせんこるまでのあいだデトロイトだい工業こうぎょう地帯ちたい[よう出典しゅってん]枢軸すうじくこくたいする「民主みんしゅ主義しゅぎ兵器廠へいきしょう」に発展はってんさせた。これは戦後せんごアメリカが国際こくさいてき覇権はけんにぎ原動力げんどうりょくとなった。連合れんごうこく提唱ていしょうしたルーズベルトの平和へいわたいする国際こくさい組織そしき展望てんぼう死後しご国際こくさい連合れんごうとして結実けつじつした。

ルーズベルトの評価ひょうか立場たちばおおきくかれる。リベラル自由じゆう主義しゅぎ)からると、ニューディール政策せいさくをはじめとしたケインズ福祉ふくし国家こっかてき政策せいさく開始かいしは「恐慌きょうこうへの対策たいさく具体ぐたいしたもの」として評価ひょうかされ、「はじめて本格ほんかくてき貧困ひんこんそう対策たいさくんだ」大統領だいとうりょうとして評価ひょうかされる。それまで南部なんぶ地域ちいき政党せいとうてき色彩しきさいつよかった民主党みんしゅとうに「世界せかい恐慌きょうこう結果けっか発生はっせいした貧困ひんこんそう救済きゅうさい」というあらたな目的もくてきし、この2つの支持しじ基盤きばんわせることによって「ニューディール連合れんごう」とばれるおおきな民主党みんしゅとう支持しじ基盤きばん形成けいせいしてそのすうじゅうねんわた議会ぎかいにおける民主党みんしゅとう優位ゆういをもたらした。

保守ほしゅなかでもレーガンは、ルーズベルトのリーダーシップを賞賛しょうさんした。他方たほうちいさな政府せいふとなえる保守ほしゅはニューディールにきわめて否定ひていてき評価ひょうかをしており、民主党みんしゅとうのニューディール連合れんごうくずすことで1980年代ねんだい以降いこう共和党きょうわとう勢力せいりょく拡大かくだい成功せいこうしたといえる。ニューディール政策せいさくについては、現在げんざいでも経済けいざい学者がくしゃあいだでその評価ひょうかかれている。

また、最高裁判所さいこうさいばんしょ判事はんじ人事じんじへの介入かいにゅうによる三権分立さんけんぶんりつ民主みんしゅ主義しゅぎ原則げんそくへの抵触ていしょくや、大戦たいせんちゅう日系にっけいアメリカ移民いみん強制きょうせい収容しゅうようおこなったことや、政権せいけん期間きかんつうじておこなわれたアフリカけいアメリカじん公民こうみんけん運動うんどうたいする事実じじつじょう妨害ぼうがいという人種じんしゅ差別さべつてき観点かんてんからおこなわれた政策せいさくは、その立場たちばわずかく方面ほうめんからのおおきな批判ひはんまねいただけでなく、アメリカにおける人種じんしゅ差別さべつ解消かいしょうおくらせる要因よういんの1つとなった。

民主党みんしゅとう政権せいけんとしての「貧困ひんこんそう」と「人種じんしゅマイノリティ」という別々べつべつ背景はいけいったアメリカ社会しゃかいにおける弱者じゃくしゃたいする矛盾むじゅんした態度たいど解決かいけつは、1960年代ねんだいジョン・F・ケネディリンドン・B・ジョンソン政権せいけんまでされた。

在任ざいにん日数にっすう4422にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう史上しじょう最長さいちょう任期にんきである。

ちと家族かぞく

編集へんしゅう
 
1884ねん撮影さつえい当時とうじのアメリカなど西洋せいよう社会しゃかい上流じょうりゅう階級かいきゅう家庭かていでは、6さいから7さいごろにおこなわれるブリーチングまで男児だんじにも女児じょじけの格好かっこうをさせることが一般いっぱんてきおこなわれていた。

1882ねん1がつ30にちニューヨークしゅう北部ほくぶのハイドパークで誕生たんじょうする。ちちジェームズ・ルーズベルト(1828ねん - 1900ねん)はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道てつどうふく社長しゃちょうであり裕福ゆうふく地主じぬしであった。ルーズベルト[注釈ちゅうしゃく 3]1650ねんごろにオランダハールレムからニューヨーク(当時とうじニュー・アムステルダム)に移住いじゅうしたクラース・ヴァン・ルーズベルトにはじまる。1788ねんにアイザック・ルーズベルトがポキプシーでおこなわれたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎのメンバーとなり、それは曾々まごであるフランクリンのおおきなほこりとなった。

 
父親ちちおやとともに

18世紀せいきにルーズベルトは「ハイドパーク・ルーズベルト」(19世紀せいきから民主党みんしゅとう支持しじ)と「オイスター・ベイ・ルーズベルト」共和党きょうわとう支持しじ)のふたつにかれる。オイスター・ベイの共和党きょうわとういんであっただい26だい大統領だいとうりょうセオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁とおえん従兄じゅうけいであった。両家りょうけ政治せいじてきちがいにもかかわらず、親交しんこうつづいた[注釈ちゅうしゃく 4]

ははのサラ・デラノ(Sara Delano, 1854ねん - 1941ねん)はフランスけいプロテスタント教徒きょうとユグノー)であり[注釈ちゅうしゃく 5][よう出典しゅってん]、デラノ一族いちぞく阿片あへん戦争せんそうのころから中国ちゅうごくきよし)とアヘンふく貿易ぼうえき手広てびろってざいしていた[4][疑問ぎもんてん]。フランクリンはははサラの唯一ゆいいつ子供こども大変たいへん難産なんざん)として、再婚さいこんだったちちジェームズが54さいときまれた。ははちがいの長兄ちょうけいジェームズにはすでに息子むすこがあり、つまりちちにはまごよりおさな息子むすこであった。サラはフランクリンの幼少ようしょうのみならず、生涯しょうがい支配しはいてき影響えいきょうあたえた[注釈ちゅうしゃく 6][よう出典しゅってん]

 
愛犬あいけんファラとともに

この時代じだい富豪ふごう子弟していれいれず、フランクリンは家庭かてい教師きょうしによって教育きょういくほどこされた。どう世代せだい子供こども交流こうりゅうする機会きかいはほとんどなかった。14さいとき名門めいもんグロトンこう入学にゅうがくたしたものの、寄宿舎きしゅくしゃ生活せいかつにはなじめなかった。1904ねんハーバード大学だいがく1908ねんにはコロンビア大学ころんびあだいがくロースクールを卒業そつぎょう大学だいがく時代じだいのフランクリンは学内がくない編集へんしゅうちょうつとめる活躍かつやくぶりをせる一方いっぽうで、セオドアも会員かいいん名簿めいぼつらねていた名門めいもんクラブ『ポーセリアン』への入会にゅうかい失敗しっぱいしている。

1908ねんにウォール・ストリート法律ほうりつ事務所じむしょでの仕事しごとけるまえ1905ねんひじりパトリックの祝日しゅくじつにセオドア・ルーズベルトのめいおとうと)であるアナ・エレノア・ルーズベルト結婚けっこんした。この結婚式けっこんしきで、すでにくなっていた実父じっぷわり花嫁はなよめエレノアのうでったのは大統領だいとうりょうセオドア・ルーズベルトである。6にん子供こども(5なん1じょ[注釈ちゅうしゃく 7]をもうけ、4番目ばんめまれた息子むすこエリオットはのちに作家さっかとなった。

1911ねん10がつ11にちフリーメイソン加入かにゅうした[6][7]

初期しょき政治せいじ経歴けいれき海軍かいぐんとの関係かんけい

編集へんしゅう

1910ねんしゅう議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょダッチェスぐんからしゅう上院じょういん出馬しゅつばどうぐんでは1884ねん以来いらい民主党みんしゅとうからの議員ぎいん選出せんしゅつしていなかった。選挙せんきょでは地滑じすべてき勝利しょうり当選とうせんする。1911ねん1がつ1にち議員ぎいん就任しゅうにんし、民主党みんしゅとう支配しはいしていた「タマニー・マシーン」にたいする「反対はんたい分子ぶんし」グループのリーダーとなった。連邦れんぽう上院じょういん議員ぎいん選挙せんきょが1911ねん1がつ16にち民主党みんしゅとう幹部かんぶ会議かいぎともはじまり、ふたつの派閥はばつあらそいのため74日間にちかんまることとなる。3月31にちジェームズ・A・オゴーマン選出せんしゅつされ、タマニー候補こうほウィリアム・F・シーハンやぶることでルーズベルトは目的もくてき達成たっせいし、ニューヨークの民主党みんしゅとうにおいても名声めいせいたかまった[注釈ちゅうしゃく 8]

1913ねん当時とうじ大統領だいとうりょうウッドロウ・ウィルソンによって海軍かいぐん次官じかん任命にんめいされた。海軍かいぐん長官ちょうかんジョセファス・ダニエルズした同職どうしょくつと[注釈ちゅうしゃく 9]海軍かいぐん拡張かくちょう尽力じんりょくし、海軍かいぐん予備よびやく部隊ぶたい設立せつりつした。中米ちゅうべいおよびカリブ海かりぶかい諸国しょこくへの干渉かんしょうのために海軍かいぐん海兵かいへいたい派遣はけんした。1920ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょにおいて、ふく大統領だいとうりょう候補こうほのルーズベルトは海軍かいぐん次官じかんとして1915ねんハイチした憲法けんぽう起草きそうしたと主張しゅちょうした[注釈ちゅうしゃく 10]

ルーズベルトは生涯しょうがいつうじて海軍かいぐんへの愛情あいじょうはぐくんだ。かれ海軍かいぐん予算よさん承認しょうにんさせるため議会ぎかいのリーダーとその政府せいふ各省かくしょう交渉こうしょうした。潜水せんすいかん導入どうにゅうと、ドイツ潜水せんすいかんによる連合れんごうこく船団せんだんへの脅威きょうい対抗たいこうする戦力せんりょく導入どうにゅう熱心ねっしん支持しじしゃであった。そして、ノルウェーからスコットランドまでの北海ほっかい機雷きらい敷設ふせつし、機雷きらいばらつくげるよう提案ていあんした。1918ねんにはイギリスフランス訪問ほうもんし、アメリカ海軍かいぐん施設しせつ視察しさつした。この訪問ほうもんかれはじめてウィンストン・チャーチル面会めんかいした。1918ねん11月にだいいち世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうすると、ルーズベルトは復員ふくいん業務ぎょうむ担当たんとうし、一方いっぽう海軍かいぐん完全かんぜん解体かいたい計画けいかく反対はんたいした。1920ねん7がつ、ニューポート・セックススキャンダル(en)に関連かんれんした報道ほうどう海軍かいぐん次官じかん辞職じしょく[注釈ちゅうしゃく 11]ふく大統領だいとうりょう候補こうほとして大統領だいとうりょうせん出馬しゅつばした。

1920ねん民主党みんしゅとう全国ぜんこく大会たいかいでルーズベルトはふく大統領だいとうりょう候補こうほ選出せんしゅつされ、大統領だいとうりょう候補こうほオハイオしゅう知事ちじジェームズ・コックスとも選挙せんきょせん突入とつにゅうした。しかしりょう候補こうほ共和党きょうわとうウォレン・ハーディング大敗たいはい。ルーズベルトは政界せいかいから引退いんたいしニューヨークで弁護士べんごしごうはじめ、あらたに結成けっせいされたニューヨーク・シビタンクラブくわわった[10]

ニューヨークしゅう知事ちじから大統領だいとうりょうせんまで

編集へんしゅう

1920年代ねんだい、ニューヨークで態勢たいせいなおし、ニューヨークのタマニー対抗たいこうとしてそのせたものの、1922ねんのニューヨークしゅう知事ちじせんではアルフレッド・E・スミス支援しえんし、みずからのいとこである共和党きょうわとう候補こうほセオドア・ルーズベルト・ジュニア対抗たいこうした[11][注釈ちゅうしゃく 12]。そのスミスは1928ねん大統領だいとうりょうせん大統領だいとうりょう候補こうほ指名しめいされると、ルーズベルトに自分じぶんわってしゅう知事ちじ選挙せんきょ出馬しゅつばするよう依頼いらいした。一方いっぽうのスミスはみずからの地元じもとでも共和党きょうわとうハーバート・フーヴァーやぶれ、大統領だいとうりょうせん大敗たいはいしたが、他方たほうのルーズベルトは知事ちじ当選とうせん改革かいかく知事ちじとしておおくのあたらしい社会しゃかい計画けいかくおこなった[注釈ちゅうしゃく 13]。1930ねん再選さいせん選挙せんきょ運動うんどうでは、ルーズベルトはニューヨークのタマニー協会きょうかい協力きょうりょく必要ひつようとした。しかしながら、共和党きょうわとう対抗たいこうチャールズ・H・タトル選挙せんきょそうてんとしてタマニー協会きょうかい不正ふせいげるが、ルーズベルトは70まんひょう以上いじょうをつけてタトルに勝利しょうり知事ちじ2つとめることとなった[13]

こうしてルーズベルトは民主党みんしゅとう主要しゅよう候補こうほとなり、1932ねん大統領だいとうりょうせん出馬しゅつばする。現職げんしょくフーヴァー劣勢れっせいあきらかだったため、指名しめいせんはげしいあらそいとなった。アル・スミス(ニューヨークしゅう)は1928ねん立候補りっこうほつづなんめいかの有力ゆうりょくしゃ支持しじけるが、ニューヨーク民主党みんしゅとうはルーズベルトが支配しはいした。ルーズベルトは個人こじんてきなつきあいのある新聞しんぶんおうウィリアム・ランドルフ・ハーストアイルランドけいアメリカじんコミュニティの指導しどうしゃジョセフ・P・ケネディ、カリフォルニアの有力ゆうりょくしゃウィリアム・マカドゥーらの人脈じんみゃくを、みずからの全国ぜんこくてき支援しえん運動うんどうんだ。テキサスの指導しどうしゃジョン・N・ガーナーがルーズベルト支持しじ表明ひょうめいし、ルーズベルトからふく大統領だいとうりょう候補こうほ指名しめいされた。選挙せんきょせんは「みっつのR - 救済きゅうさい回復かいふくおよび改革かいかく[注釈ちゅうしゃく 14]綱領こうりょう世界せかい恐慌きょうこうたたかうとしておこなわれ、そのスピーチのなかニューディール新規しんきまきなおしの意味いみ)という用語ようご使用しよう[注釈ちゅうしゃく 15]選挙せんきょせんでは、現職げんしょく大統領だいとうりょうフーヴァーの財政ざいせい政策せいさく無駄むだ使づかいの権化ごんげ(ごんげ)と徹底的てっていてき批判ひはんし、連邦れんぽう政府せいふ運営うんえいコスト削減さくげん仕事しごと自分じぶんまかせてほしいと、緊縮きんしゅく財政ざいせい主張しゅちょうして政権せいけん奪取だっしゅした[14]。1932ねん選挙せんきょったよく1933ねん2がつ15にちフロリダしゅうマイアミでルーズベルトは暗殺あんさつなんのが[15]暗殺あんさつしゃシカゴ市長しちょうアントン・J・サーマクを殺害さつがいした。

大統領だいとうりょう

編集へんしゅう
ニューディール政策せいさく
 
米国べいこく実質じっしつGDP(1910-1960ねん)、赤色あかいろ強調きょうちょうだい恐慌きょうこう時代じだい (1929–1939ねん)。ルーズベルトの大統領だいとうりょう就任しゅうにんは1933ねん
 
米国べいこく失業しつぎょうりつ(1910-1960ねん)、赤色あかいろ強調きょうちょうだい恐慌きょうこう時代じだい (1929–1939ねん)。1939ねん以前いぜん推定すいてい、ルーズベルトの大統領だいとうりょう就任しゅうにんは1933ねん

世界せかい恐慌きょうこうたいしては有効ゆうこうてき対策たいさくれないまま大統領だいとうりょうしょく退しりぞいた前任ぜんにんハーバート・フーヴァーたいし、ルーズベルトは1933ねん4がつから「ニューディール政策せいさく」とばれる、政府せいふによる経済けいざいへの介入かいにゅう積極せっきょくてき経済けいざい政策せいさく)を実施じっしした[16]テネシー渓谷けいこく開発かいはつ公社こうしゃ民間みんかん植林しょくりん治水ちすいたい(Civilian Conservation Corps, CCC)、公共こうきょう工事こうじきょく (Public Works Administration, PWA)、公共こうきょう事業じぎょう促進そくしんきょく社会しゃかい保障ほしょうきょく連邦れんぽう住宅じゅうたくきょく (Federal Housing Administration, FHA)などを設立せつりつだい規模きぼ公共こうきょう事業じぎょうによる失業しつぎょうもの対策たいさくおこなうなど、ケインジアンてき政策せいさくであった。ほか団体だんたい交渉こうしょうけん保障ほしょうなどによる労働ろうどうしゃ地位ちい向上こうじょう社会しゃかい保障ほしょう充実じゅうじつなどの政策せいさくおこなった。ルーズベルトが就任しゅうにんした1933ねん以降いこう景気けいき回復かいふく過程かていはいり、実質じっしつGDPが1929ねん上回うわまわった1936ねん[17]大統領だいとうりょう選挙せんきょでは当時とうじ一般いっぱん投票とうひょう歴代れきだい最多さいた得票とくひょうりつ(60.80%)で再選さいせん両院りょういん議員ぎいん選挙せんきょ民主党みんしゅとうせい政権せいけん盤石ばんじゃくなものとした[18]。しかし、1937ねん金融きんゆう財政ざいせいめによる景気けいき後退こうたい[19]もあり、結局けっきょく任期にんきの1と2である1933ねんから1940ねん期間きかんには名目めいもくGDP[20]失業しつぎょうりつ[21][22]は1929ねん水準すいじゅんまでは回復かいふくしなかった。

その1941ねん12月のだい世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせんによる史上しじょう最大さいだい軍拡ぐんかく軍需ぐんじゅ経済けいざい戦時せんじ経済けいざいいちじるしい増大ぞうだい[23]によってアメリカ経済けいざい完全かんぜん回復かいふくし、失業しつぎょうしゃ激減げきげんした。近年きんねんではだい世界せかい大戦たいせんくても成功せいこうしたのではないかという意見いけんと、最初さいしょから大戦たいせん開戦かいせんければ成功せいこうしえない政策せいさくであったという意見いけんミルトン・フリードマンら)がある。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽう政府せいふ公開こうかいしている経済けいざい統計とうけいによると、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく実質じっしつGDPが1929ねん上回うわまわった年度ねんどは1936ねん[17]名目めいもくGDPが1929ねん上回うわまわった年度ねんどは1941ねん[20]失業しつぎょうりつが1929ねん下回したまわった年度ねんどは1943ねんである[21][22]

ぜん政権せいけんしての財政ざいせい緩和かんわ政策せいさく大統領だいとうりょうれい[24]によって市民しみん金貨きんか金塊きんかい保有ほゆう禁止きんししての管理かんり通貨つうか制度せいど確立かくりつは、ケインジアン立場たちばからは有効ゆうこう政策せいさくであったとされている。

炉辺ろへん談話だんわ
 
マイクのまえすわるルーズベルト

当時とうじもっと浸透しんとうしていたメディアであったラジオ放送ほうそうとおして演説えんぜつし、直接ちょくせつ国民こくみんうったえかけるスタイルを重視じゅうしした、メディアをたくみに利用りようした大統領だいとうりょうとしてられている。ルーズベルトのおこなった毎週まいしゅうのラジオ演説えんぜつは「炉辺ろへん談話だんわ」fireside chats とばれ、国民こくみんたいするルーズベルトの見解けんかい発表はっぴょうとなった。それはルーズベルトの人気にんきささえ、大戦たいせんちゅうのアメリカ国民こくみん重要じゅうよう士気しき高揚こうようさくとなった。

大統領だいとうりょう顧問こもんだん

編集へんしゅう
職名しょくめい 氏名しめい 任期にんき
大統領だいとうりょう フランクリン・D・ルーズベルト 1933ねん - 1945ねん
ふく大統領だいとうりょう ジョン・N・ガーナー 1933ねん - 1941ねん
ヘンリー・A・ウォレス 1941ねん - 1945ねん
ハリー・S・トルーマン 1945ねん
国務こくむ長官ちょうかん コーデル・ハル 1933ねん - 1944ねん
エドワード・ステティニアス 1944ねん - 1945ねん
陸軍りくぐん長官ちょうかん ジョージ・ヘンリー・ダーン 1933ねん - 1936ねん
ハリー・ハインズ・ウッドリング 1936ねん - 1940ねん
ヘンリー・L・スティムソン 1940ねん - 1945ねん
財務ざいむ長官ちょうかん ウィリアム・ウッディン 1933ねん - 1934ねん
ヘンリー・モーゲンソウ 1934ねん - 1945ねん
司法しほう長官ちょうかん ホーマー・S・カミングス 1933ねん - 1939ねん
ウィリアム・F・マーフィー 1939ねん - 1940ねん
ロバート・H・ジャクソン 1940ねん - 1941ねん
フランシス・ビドル 1941ねん - 1945ねん
郵政ゆうせい長官ちょうかん ジェームズ・A・ファーレイ 1933ねん - 1940ねん
フランク・C・ウォーカー 1940ねん - 1945ねん
海軍かいぐん長官ちょうかん クロード・スワンソン 1933ねん - 1939ねん
チャールズ・エジソン 1940ねん
ウィリアム・フランクリン・ノックス 1940ねん - 1944ねん
ジェイムズ・フォレスタル 1944ねん - 1945ねん
内務ないむ長官ちょうかん ハロルド・L・アイクス 1933ねん - 1945ねん
農務のうむ長官ちょうかん ヘンリー・A・ウォレス 1933ねん - 1940ねん
クロード・レイモンド・ウィッカード 1940ねん - 1945ねん
商務しょうむ長官ちょうかん ダニエル・カルフーン・ローパー 1933ねん - 1938ねん
ハリー・ロイド・ホプキンス 1939ねん - 1940ねん
ジェス・H・ジョーンズ 1940ねん - 1945ねん
ヘンリー・A・ウォレス 1945ねん
労働ろうどう長官ちょうかん フランシス・パーキンス 1933ねん - 1945ねん
最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじ

だい世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせん

編集へんしゅう

1910年代ねんだいから1930年代ねんだいせんあいだアメリカ海兵かいへいたいは、独立どくりつした戦闘せんとう能力のうりょく維持いじするために小規模しょうきぼ師団しだんてき部隊ぶたい大隊だいたい単位たんい恒常こうじょうてき設置せっちするようになり、中米ちゅうべいカリブ海かりぶかい諸国しょこく派遣はけんされていたが(バナナ戦争せんそう)、1927ねんニカラグアはじまったサンディーノ戦争せんそうで、アウグスト・セサル・サンディーノ将軍しょうぐんひきいるゲリラ部隊ぶたい苦戦くせんし、1933ねん大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたルーズベルトは、ニカラグアと中米ちゅうべい諸国しょこくから海兵かいへいたい撤退てったいさせ、軍事ぐんじ占領せんりょうわりに、キューバにはバティスタ政権せいけんニカラグアにはソモサ政権せいけんなどのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく傀儡かいらい(かいらい)政権せいけん樹立じゅりつして間接かんせつてき支配しはいする政策せいさく転換てんかんし、ドミニカ共和国どみにかきょうわこくトルヒーヨ政権せいけんのようにすでに樹立じゅりつされていた傀儡かいらい政権せいけんたいする支配しはい継続けいぞくした。ルーズベルトを支持しじするひとはその政策せいさく軍事ぐんじ占領せんりょういたことを論拠ろんきょにして、傀儡かいらい政権せいけんによる間接かんせつ支配しはい政策せいさく論拠ろんきょにせずに善隣ぜんりん政策せいさく表現ひょうげんしている。1933ねん12月、海軍かいぐん長官ちょうかんいのち艦隊かんたい海兵かいへいぐん創設そうせつされた[25]。これは、海兵かいへいたい長期ちょうき遠征えんせいからてき海軍かいぐん基地きち奪取だっしゅという任務にんむ変化へんかをもたらした[26][27]

就任しゅうにんから1937ねん隔離かくり演説えんぜつ発表はっぴょうまで、表面ひょうめんじょう日本にっぽん協調きょうちょうてき姿勢しせいせて日本にっぽん中国ちゅうごくあいだ紛争ふんそうには一定いってい距離きょり外交がいこう政策せいさくっていた[28]

1939ねん9月、ヨーロッパだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつ。アメリカ政府せいふは、イギリスりだが武器ぶき援助えんじょ以外いがいには基本きほんてき介入かいにゅうしない政策せいさくっていた。これは、だいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんした経験けいけんからヨーロッパの戦争せんそうかかわるのは極力きょくりょくけたい、とかんがえていたアメリカ国民こくみん世論せろん意識いしきしてのことであった。

また、名目めいもくじょうでもそうしなければならなかった理由りゆうとして、ルーズベルトは大統領だいとうりょう就任しゅうにんまえ選挙せんきょちゅうから「戦争せんそうはしない」という公約こうやくかかげており、たいにち開戦かいせんはその意味いみでアメリカ国民こくみんたいする公約こうやく違反いはんだとする批判ひはん存在そんざいする。

戦時せんじのヨーロッパでナチとうアドルフ・ヒトラーひきいるドイツ国防こくぼうぐんに、バトル・オブ・ブリテンにおいてイギリス本土ほんど上陸じょうりく寸前すんぜんまでいつめられていたイギリスウィンストン・チャーチル首相しゅしょうや、にちはな事変じへん日本にっぽん戦闘せんとう状態じょうたいにあった中華民国ちゅうかみんこく蔣介せき総統そうとう夫人ふじんでアメリカ留学りゅうがく経験けいけんもあるそうよしよわいが、すうにわたりだい世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせんにちちゅう戦争せんそうにおけるアメリカの支援しえん参戦さんせんをルーズベルトにうったえかけていた[注釈ちゅうしゃく 16]

当時とうじ、アメリカ政府せいふはイギリスや中華民国ちゅうかみんこくたい多大ただい支援しえんおこなっており、とく多額たがくせんさいをつぎんだイギリスがけることはけたかった。ルーズベルト自身じしん選挙せんきょでは、戦争せんそう介入かいにゅうしないと宣言せんげんして当選とうせんしており、参戦さんせんをしたくても出来できない状況じょうきょうにあった。ルーズベルトはモンロー主義しゅぎざされていたアメリカ国民こくみんたいし、「欧州おうしゅうアジア戦争せんそうはアメリカに関係かんけいないというひとたちがいる。しかし、戦争せんそうこしているものにアメリカにつながるだい海原うなばら支配しはいけんわたすわけにはいかない」とラジオさとしている。

隔離かくり演説えんぜつから参戦さんせんまで

編集へんしゅう

隔離かくり演説えんぜつ

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1937ねんには、最高裁さいこうさい改革かいかく失敗しっぱい労働ろうどう争議そうぎ頻発ひんぱつ景気けいき後退こうたい、さらにはまたルーズベルトとおな民主党みんしゅとう保守ほしゅ議員ぎいんが、ニューディール阻止そしため共和党きょうわとうとの超党派ちょうとうはブロックを結成けっせいするなどして、ルーズベルトは孤立こりつし、議会ぎかいたいする影響えいきょうりょく低下ていかさせており[29]、その様子ようすはまるで「まったくてられた指導しどうしゃ」であったといわれる[30]

1937ねん8がつ30にち中華民国ちゅうかみんこく国際こくさい連盟れんめいたいして、盧溝橋ろこうきょう事件じけんなどの日本にっぽん行動こうどう不戦ふせん条約じょうやくおよびきゅうヶ国かこく条約じょうやく違反いはんすると主張しゅちょうし、措置そちるよう提訴ていそした。9月6にち、ルーズベルトは「世界せかい政府せいふあいだ平和へいわのためにアメリカが先頭せんとうって だい掃除そうじをする準備じゅんびができていることをおおやけにする」と財務ざいむ長官ちょうかんヘンリー・モーゲンソー国務こくむ長官ちょうかんコーデル・ハルかた[29]、1937ねん(昭和しょうわ12ねん)10がつ5にち世界せかいおこなわれつつあるとする侵略しんりゃく行為こうい非難ひなんするために「病人びょうにん」になぞらえて隔離かくり演説えんぜつ隔離かくり声明せいめい防疫ぼうえき演説えんぜつ)(en:Quarantine Speech)をシカゴでおこなった[29]

世界せかいきゅうわり人々ひとびと平和へいわ自由じゆう、そして安全あんぜんが、すべての国際こくさいてき秩序ちつじょほう破壊はかいしようとしているのこいちわり人々ひとびとによっておびやかされようとしている。(中略ちゅうりゃく不幸ふこうにも世界せかい無秩序むちつじょという疫病えきびょうひろがっているようである。身体しんたいむしば疫病えきびょうひろがりだした場合ばあい共同きょうどうたいは、疫病えきびょう流行りゅうこうから共同きょうどうたい健康けんこうまもるために病人びょうにん隔離かくりすることをみとめている」[31][29][注釈ちゅうしゃく 17][ようページ番号ばんごう]

演説えんぜつ直接ちょくせつには特定とくてい国家こっか名指なざしすることはなかったものの、一般いっぱんには従来じゅうらい棍棒こんぼう外交がいこうをあらためて否定ひていし、ドイツやイタリア、日本にっぽんなどの国政こくせい実行じっこう非難ひなんするルーズベルトの政策せいさく理念りねん表明ひょうめいする演説えんぜつかんがえられている。演説えんぜつのなかでは、「宣戦せんせん布告ふこく警告けいこくも、また正当せいとう理由りゆうもなく婦女子ふじょしをふくむ一般いっぱん市民しみんが、空中くうちゅうからのばくだんによって仮借かしゃなく殺戮さつりくされている戦慄せんりつすべき状態じょうたい現出げんしゅつしている。このような好戦こうせんてき傾向けいこう漸次ぜんじ他国たこく蔓延まんえんするおそれがある。かれ平和へいわ愛好あいこうする国民こくみん共同きょうどう行動こうどうによって隔離かくりされるべきである」ともかたられた[33]。なおハルの証言しょうげんでは、アメリカ国務省こくむしょう作成さくせいした演説えんぜつ原案げんあんには「隔離かくり」の部分ぶぶんはなく、演説えんぜつ直前ちょくぜんにルーズベルト自身じしんれた[34][29][35]

よく1938ねん10がつ6にちには国務省こくむしょう声明せいめい発表はっぴょうし、中華民国ちゅうかみんこくにおける日本にっぽん行為こういを、アメリカはきゅうカ国かこく条約じょうやくとケロッグ-ブリアン条約じょうやくパリ不戦ふせん条約じょうやく違反いはんとみなし、声明せいめい国際こくさい連盟れんめい決議けつぎ沿うものとして、日本にっぽん明確めいかく名指なざした[36][29]。ただし、アメリカはその加盟かめいこくではなかった。

隔離かくり演説えんぜつ反響はんきょう

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隔離かくり演説えんぜつニューヨーク・タイムズコロンビア大学ころんびあだいがく学長がくちょうのニコラス・バトラーから賞賛しょうさんされる一方いっぽうウォールストリート・ジャーナルは「外国がいこくへの手出てだしをやめろ、アメリカは平和へいわほっする」という記事きじ掲載けいさいし、シカゴ・ トリビューンは、ルーズベルトはシカゴを「戦争せんそう恐怖きょうふ世界せかいてきハリケーンの中心ちゅうしん」にえたとほう[37]、また国務こくむ長官ちょうかんであるハルもこの「隔離かくり」や「伝染でんせんびょう」というレトリックは無用むよう反対はんたいをもたらしたとして批判ひはんした[29]。さらに『クリスチャン・センチュリー』en)は「もしアメリカが中国ちゅうごくのために参戦さんせんすれば、その結果けっかはひとりソビエトの勝利しょうりわるであろう」と警告けいこくした。挑発ちょうはつてき内容ないようつこの隔離かくり演説えんぜつはアメリカ国内こくない非難ひなんけ、演説えんぜつ、6つの平和へいわ主義しゅぎ団体だんたいが「ルーズベルトはアメリカ国民こくみん世界せかい大戦たいせんみちれてこうとしている」との声明せいめいした。アメリカ労働ろうどうそう同盟どうめいは「アメリカの労働ろうどうしゃはヨーロッパ、アジアの戦争せんそう介入かいにゅうすることをほっしない」との決議けつぎおこなった。アメリカを参戦さんせんさせないための請願せいがんに2500まんにん署名しょめいもとめる運動うんどうはじまった。

日本にっぽんでこの隔離かくり演説えんぜつ報道ほうどうされると、毎日新聞まいにちしんぶんは「べい大統領だいとうりょう諷刺ふうし演説えんぜつ應酬おうしゅう率直そっちょくにわが眞意しんい吐露とろ戦争せんそう’もむをず」「紛争ふんそうこく隔離かくり”を提唱ていしょうべい大統領だいとうりょう演説えんぜつ[38]だいした記事きじで、朝日新聞あさひしんぶんは「べい大統領だいとうりょう獅子吼ししく平和へいわ確保かくほ協力きょうりょくせん」[39]だいしてこの演説えんぜつ日本にっぽんすものとして報道ほうどうした[29]。また松方まつかた幸次郎こうじろう日本にっぽん駐在ちゅうざい参事官さんじかんユージン・ドゥーマンたいして日本にっぽん海軍かいぐんはこれまで慎重しんちょうろんであったが、この隔離かくり演説えんぜつたいして強烈きょうれつ反感はんかんいているとつたえた[40][29]

ちゅうべいドイツ大使たいしのハンス・ディックホフ(en)は、演説えんぜつ直接的ちょくせつてきなきっかけは、中国ちゅうごくでの日本にっぽん行動こうどうにあり、また大統領だいとうりょうなやませていた黒人こくじんアフリカけい問題もんだいから大衆たいしゅうをそらせる意図いともあるとドイツ本国ほんごくつたえた[41][29]。 なおニューヨークタイムズ記者きしゃアーサー・クロックは「隔離かくり声明せいめい以来いらい、ルーズベルト大統領だいとうりょうは、日本にっぽん敵意てきいあおり、枢軸すうじくがわいやるために、あらゆる手段しゅだん駆使くしした」としている[42]にちどく敵視てきしする一方いっぽうで、共産きょうさん主義しゅぎした恐怖きょうふ政治せいじいていたスターリン親交しんこうのあったルーズベルトは、ソ連それんによるフィンランドポーランド、およびバルトさんこく侵略しんりゃくについては黙認もくにんしていた。

また隔離かくり演説えんぜつは、アメリカ国民こくみん戦争せんそう順応じゅんのうさせるレトリックてきキャンペーンのはじまりをげるものであったともいわれる[43][29]

ブリュッセル会議かいぎとパナイごう事件じけん

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中華民国ちゅうかみんこく国連こくれんへの提訴ていそと、アメリカ大統領だいとうりょうによる隔離かくり演説えんぜつて、同年どうねん11がつ3にちから24にちにかけて、ブリュッセル会議かいぎきゅうヶ国かこく条約じょうやく会議かいぎ)が開催かいさい日本にっぽんがわ出席しゅっせき拒否きょひした。アメリカは隔離かくり演説えんぜつせたような挑発ちょうはつてき言明げんめいけ、会議かいぎ国務こくむ次官じかんのウェルズは「日本にっぽん侵略しんりゃくしゃばわりするのは我々われわれかんがえではない。日本にっぽん懲罰ちょうばつするのではなくたん意見いけん交換こうかんするだけだ」と[44][29]中国ちゅうごく失望しつぼうさせた。

12月12にちには、日本にっぽん海軍かいぐん米国べいこく警備けいびせん「パナイごう」を爆沈ばくちんしたパナイごう事件じけんきるが、アメリカはこの事件じけんをもって開戦かいせんとはしなかった。西川にしかわ秀和ひでかずはその理由りゆうを「日本にっぽん政府せいふすみやかに賠償ばいしょうおうじたことも一因いちいんであるが、アメリカ国民こくみん一般いっぱん感情かんじょう強硬きょうこうさくもとめるまでに沸騰ふっとうしておらず、だいいち世界せかい大戦たいせん孤立こりつ主義しゅぎてき傾向けいこう完全かんぜん払拭ふっしょくするまでにいたらなかったことにおおきな原因げんいんがある」としている[29]。ルーズベルトはパナイごう事件じけん激怒げきどしていたが、隔離かくり演説えんぜつ予想よそう上回うわまわ反発はんぱつ世論せろんきたため、挑発ちょうはつてき言辞げんじ使用しようすることも報復ほうふくてき対策たいさくをとることもなかった[29]

たいちゅう支援しえん工作こうさく

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ルーズベルトは、1937ねん7がつ7にち盧溝橋ろこうきょう事件じけん勃発ぼっぱつにちちゅう戦争せんそう当時とうじ日本にっぽんがわ呼称こしょうささえ事変じへん近衛このえ文麿ふみまろ首相しゅしょうだい1近衛このえないかく)にあたり、大量たいりょう軍事ぐんじ物資ぶっし援蔣ルートつうじて蔣介せきひきいる国民党こくみんとう政権せいけんおくつづけた。1939ねん7がつには日本にっぽん政府せいふ平沼ひらぬま騏一郎きいちろう首相しゅしょう平沼ひらぬま内閣ないかく)にたい日本にっぽん中国ちゅうごく侵略しんりゃく抗議こうぎするとして日米にちべい通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく廃棄はいき通告つうこくした。通告つうこく6カ月かげつべい内内うちうちかく米内よない光政みつまさ首相しゅしょうした1940ねん昭和しょうわ15ねん1がつ26にちどう条約じょうやく失効しっこうし、日米にちべい関係かんけい条約じょうやく時代じだいはいった。また、クレア・リー・シェンノート当時とうじ国民党こくみんとう雇用こようされていて、シェンノートの指揮しきのもとに組織そしきされたアメリカの退役たいえき軍人ぐんじん中心ちゅうしんとする義勇軍ぎゆうぐんフライング・タイガース」を1941ねん中華民国ちゅうかみんこく派遣はけんさせるなどした。なお蔣介せきは、1928ねんからドイツ軍事ぐんじ顧問こもんだんによる指導しどうけていたが、1938ねん軍事ぐんじ顧問こもんだんげている。また蔣介せき顧問こもん任命にんめいされていたオーウェン・ラティモア日本にっぽんぐん中国ちゅうごく撤兵てっぺい要求ようきゅうする暫定ざんてい協定きょうてい反対はんたいするよう蔣介せき助言じょげんしてもいる。

 
ちゅうするアメリカぐん警護けいごする中華民国ちゅうかみんこくぐん兵士へいし

レンドリースほう

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1940ねん7がつ10日とおか、スティムソンが陸軍りくぐん長官ちょうかん復帰ふっきした。同時どうじにやはり共和きょうわ党員とういんであるフランク・ノックスが海軍かいぐん長官ちょうかんとなる。これらの人事じんじは、だい2大戦たいせんへの参戦さんせん意識いしきしたものであった。スティムソンは、9月には選抜せんばつ徴兵ちょうへいせい導入どうにゅうして、140まんにん以上いじょう兵員へいいん動員どういん可能かのうとした。

1941ねん3がつにはレンドリースほう武器ぶき貸与たいよほう)を成立せいりつさせ、大量たいりょう戦闘せんとう武器ぶき軍需ぐんじゅ物資ぶっし中華民国ちゅうかみんこく、イギリス、ソビエト連邦れんぽう、フランスその連合れんごうこくたいして供給きょうきゅうした。終戦しゅうせんまでに総額そうがく501おくドル(2007ねん価値かち換算かんさんしてほぼ7000おくドル)の物資ぶっし供給きょうきゅうされ、そのうち314おくドルがイギリスへ、113おくドルがソビエト連邦れんぽうへ、32おくドルがフランスへ、16おくドルが中国ちゅうごく提供ていきょうされた。

日米にちべい交渉こうしょうから開戦かいせんまで

編集へんしゅう
 
大西洋たいせいよう会談かいだんにおいて、戦艦せんかんじょうのルーズベルトべい大統領だいとうりょうとチャーチルえい首相しゅしょう

1941ねん4がつからはにちちゅうあいだ戦争せんそう調停ちょうてい日米にちべいあいだ和平わへい合意ごうい目指めざ日米にちべい交渉こうしょう本格ほんかくした。しかし、にちどくさんこく同盟どうめい問題もんだい満州まんしゅうこくなど日米にちべいみぞおおきく、交渉こうしょうはまとまらなかった。当時とうじ日本にっぽん指導しどうだい2近衛このえないかく)は日米にちべい国力こくりょくかんがたいべい戦争せんそうたいして消極しょうきょくてきであった[45]

しかし、1941ねん7がつ2にち策定さくていされた情勢じょうせい推移すいいとも帝国ていこく国策こくさく要綱ようこうによるフランスりょうインドシナやオランダりょうひがしインドへの進駐しんちゅう計画けいかくはアメリカとの衝突しょうとつをも予期よきしたものであった。7がつ18にちだい3近衛このえないかく発足ほっそく日本にっぽん平和へいわ目的もくてきであるとしながらも南部なんぶフランスりょうインドシナ進駐しんちゅうをほのめかすようになると、7がつ25にちざいアメリカの日本にっぽん資産しさん凍結とうけつおこなった。しかし7がつ28にち進駐しんちゅう実行じっこうされ、8がつ1にちにアメリカは「日本にっぽんふくぜん侵略しんりゃくこく」への石油せきゆ禁輸きんゆおこなった。だい世界せかい大戦たいせんにおける陣営じんえい拡大かくだい希望きぼうつドイツとイギリスは日米にちべい交渉こうしょうりを外部がいぶからはたらきかけていた。ロナルド・リンゼイ英語えいごばんちゅうべい英国えいこく大使たいしは「ルーズベルト大統領だいとうりょう戦争せんそうけるため、経済けいざい封鎖ふうさ固執こしつしていた」とべている[46]

またこのあいだの1941ねん8がつ9にちから12にちにかけて、イギリスのチャーチル首相しゅしょう大西洋たいせいよう会談かいだんおこなべいえい首脳しゅのう共同きょうどう調印ちょういんで、「大西洋たいせいよう憲章けんしょう」を発表はっぴょうした。8月17にち野村のむら・ルーズベルト会談かいだんにおいて、豊田とよだ貞次郎ていじろう外相がいしょう首脳しゅのう会談かいだんによる調整ちょうせい提案ていあんしたが、ルーズベルトは日本にっぽんがわ態度たいど変更へんこうがないかぎおうじられないと回答かいとうした[47]。またハミルトン・フィッシュ3せいen:Hamilton Fish III)によれば、近衛このえ首相しゅしょうはルーズベルト大統領だいとうりょうとの会談かいだん希望きぼうしたが、すでにたいにちせん決意けついしていたルーズベルトは会談かいだん要請ようせい拒絶きょぜつしたという[注釈ちゅうしゃく 18]。またちゅうにち米国べいこく大使たいしジョセフ・グルー首脳しゅのう会談かいだん開催かいさいつよ要請ようせいしたが、ルーズベルト政権せいけんは「会談かいだん必要ひつようなし」として却下きゃっかしている。

以降いこう10月18にち発足ほっそくした東條とうじょう内閣ないかく東條とうじょう英機ひでき首相しゅしょう)と水面すいめんたいにち交渉こうしょうのぞむものの、11月27にち日本にっぽんがわ最後さいご通告つうこくったハル・ノート手交しゅこうされた。日本にっぽんがわ12月1にち御前ごぜん会議かいぎたいべい開戦かいせん正式せいしき決定けっていしたが、12月6にちにルーズベルトは昭和しょうわ天皇てんのうあてに「平和へいわ志向しこう関係かんけい改善かいぜん目指めざす」親電しんでんおくった[48]。しかしこの日本にっぽんがわ交渉こうしょう文書ぶんしょである「たいべい覚書おぼえがき」が野村のむら吉三郎きちさぶろう大使たいしわたされただった。

1941ねん12月7にち日本にっぽん時間じかん12月8にち)の日本にっぽんぐん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきにより太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん直後ちょくご閣議かくぎ決定けっていにおける日本にっぽんがわ呼称こしょうだい東亜とうあ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつし、翌日よくじつ(12月8にち)には、「Pearl Harbor Address to the Nation」(=真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき国民こくみんげる)として、日本にっぽんへの宣戦せんせん布告ふこく議会ぎかいもとめた[注釈ちゅうしゃく 19][49]

アメリカ議会ぎかい上院じょういん全会ぜんかい一致いっち下院かいん1人ひとりジャネット・ランキン)が反対はんたいしたのみで、宣戦せんせん布告ふこく承認しょうにんした。その、ルーズベルトがイギリス首相しゅしょうウィンストン・チャーチルに「我々われわれおなせんりました、日本にっぽん攻撃こうげきしてきました」と報告ほうこくしたさい、チャーチルはたたいてよろこんだ[50]。その議会ぎかい日本にっぽんぐんの「卑劣ひれつだまち」を非難ひなんし、そののうちに宣戦せんせん布告ふこく誓約せいやく署名しょめいして日本にっぽんとの戦争せんそう突入とつにゅうした。

 
日本にっぽんへの宣戦せんせん布告ふこくおこなうルーズベルトべい大統領だいとうりょう
 
アメリカぐん兵士へいし監視かんし強制きょうせい収容しゅうようしょはこばれる日系にっけいアメリカじん

たいにちたいちゅう政策せいさく

編集へんしゅう

中国ちゅうごく経済けいざいてき軍事ぐんじてき弱体じゃくたいして日本にっぽん単独たんどく講和こうわをする可能かのうせいがあったため、ルーズベルト政権せいけんたいちゅう援助えんじょ政策せいさく積極せっきょくてきった[51]蔣介せき国民こくみん革命かくめいぐん日本にっぽんぐん敗北はいぼくかえし、おおくのヨーロッパ諸国しょこくやアジアしょ地域ちいき枢軸すうじくこく占領せんりょうされ連合れんごうこく戦線せんせんから脱落だつらくしているにもかかわらず、ルーズベルトは中国ちゅうごく戦線せんせんからの脱落だつらくをさせないために軍事ぐんじ援助えんじょ借款しゃっかんや蔣介せきカイロ会談かいだん出席しゅっせき台湾たいわん返還へんかん、さらに沖縄おきなわ中国ちゅうごくによる領有りょうゆう主張しゅちょうし(蔣介せき沖縄おきなわ領有りょうゆうことわった)、中国ちゅうごく常任じょうにん理事りじこくりをつよ希望きぼうし、べいえいちゅう世界せかい平和へいわ維持いじする「よんにん警察官けいさつかん構想こうそう」をいていた。ルーズベルトはべいえい支援しえんけた中国ちゅうごくぐん中国ちゅうごく日本にっぽんぐん撃破げきはして、べいぐんのB29中国ちゅうごくから日本にっぽん本土ほんどへと空襲くうしゅう中国ちゅうごくぐん朝鮮半島ちょうせんはんとうから日本にっぽん本土ほんど侵攻しんこうするたいにち戦略せんりゃく想定そうていしたが、これは中国ちゅうごく戦力せんりょく実態じったい認識にんしきしていないルーズベルトがテヘラン会談かいだんにおけるソ連それん役割やくわりをカイロ会談かいだん中国ちゅうごくてはめたようなものであまりにも無理むり作戦さくせんであった。しかも、ヨーロッパ戦線せんせんがアメリカの主要しゅよう関心事かんしんじだったので、中国ちゅうごく戦線せんせん十分じゅうぶん物資ぶっしてることができず、1942ねんビルマのたたか日本にっぽんぐんによって援蔣ルート遮断しゃだんされると、1944ねんにそれが復活ふっかつされるまでのあいだ物資ぶっし輸送ゆそう空輸くうゆたよらざるをず、深刻しんこく物資ぶっし不足ふそくおちいった。また、中国ちゅうごく列強れっきょうソ連それんとは軍事ぐんじりょく工業こうぎょうりょく経済けいざいりょくおおきく隔絶かくぜつしていた。

アメリカが参戦さんせんして以降いこう、ルーズベルトは外交がいこう政策せいさくについて国務省こくむしょうをほとんどたよらず、ハリー・ホプキンスのような個人こじんてき特使とくし大統領だいとうりょうづけ軍事ぐんじ顧問こもんであるウィリアム・リーヒなどとだけ相談そうだんして物事ものごとすすめてしまったため、国務省こくむしょうはルーズベルトがえがいている戦争せんそう遂行すいこう終結しゅうけつについての構想こうそうまったらされていなかった[52]

カイロ会談かいだんべいえいちゅうたいにちせん継続けいぞく宣言せんげんしたが、ルーズベルトの期待きたいはんして1944ねん大陸たいりくどおり作戦さくせん国民こくみん革命かくめいぐん日本にっぽんぐんおおきな打撃だげきけ、軍事ぐんじてき考慮こうりょよりも政治せいじてき考慮こうりょ優先ゆうせんしたルーズベルトのたいちゅう政策せいさく統合とうごう参謀さんぼう本部ほんぶから強硬きょうこう批判ひはんされ[53]、アメリカがわたいにち戦略せんりゃくアイランド・ホッピング変更へんこうした。

ルーズベルトのたいちゅう姿勢しせい理想りそうてきであったが、チャーチルとスティルウェルのたいちゅう姿勢しせい現実げんじつてきであった。チャーチルは、中国ちゅうごくたいにち軍事ぐんじ拠点きょてんとすること、蔣介せきカイロ会談かいだん出席しゅっせきさせること台湾たいわん中国ちゅうごく返還へんかんすること反対はんたいし、さらにスターリンにたいしてとおなじく中国ちゅうごくへも常任じょうにん理事りじこくりするのを反対はんたいした。回顧かいころくでは「(カイロ会談かいだんとき)蔣介せき権力けんりょく絶頂ぜっちょうっていた。アメリカじんにはかれ世界せかいだい4くに指導しどうしゃであり、しんアジアのチャンピオンだった。わたしはこういったものは過剰かじょうであって、中国ちゅうごく戦闘せんとう能力のうりょくにしても未来みらい地位ちいにしても疑問ぎもんおもっていた」[よう出典しゅってん]

これ以外いがいにも、歴史れきし野党やとう共和党きょうわとう議員ぎいんなどからは、「ルーズベルトは日本にっぽんぐん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきについての情報じょうほうまえもって入手にゅうしゅしており、アメリカがだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんする理由りゆうづけとしてそれを看過かんかした」と主張しゅちょうがなされることがある。


また、アヘン戦争せんそうのころから中国ちゅうごくアヘンふく貿易ぼうえき手広てびろってざいした母方ははかた祖父そふ影響えいきょうで、ルーズベルト本人ほんにんおさないころから中国ちゅうごく文化ぶんかふか愛着あいちゃくち、中国人ちゅうごくじんたいして同情どうじょうてきかつ友好ゆうこうてきかんがえをしんはなであることを明言めいげんしていた[54]

レイシスト・「人種じんしゅ改良かいりょうろんしゃ

編集へんしゅう

ルーズベルトの人種じんしゅかんとく人種じんしゅあいだ結婚けっこんたいするかんがえは、現代げんだいてき視点してんから判断はんだんすれば基本きほんてきにはレイシズムもとづいているとえるが、そのうえでもやや一貫いっかんせいのないものである[55]太平洋戦争たいへいようせんそう会議かいぎPacific War Council)では、「人類じんるいは、均等きんとう機会きかいあたえられるのならば、うまくざるだろう。(戦後せんごは[引用いんようしゃ註])我々われわれっているような人種じんしゅ差別さべつ軽減けいげんされて、世界せかい国々くにぐに人種じんしゅのるつぼのようになるだろう」とかた一方いっぽう[55]ちゅうべいイギリス公使こうしロナルド・キャンベル(Ronald Hugh Campbell)との私的してき会話かいわでは、ルーズベルトは、スミソニアン博物館はくぶつかん研究けんきゅうしゃであるアレス・ハードリチカによる、日本人にっぽんじん頭蓋骨ずがいこつは「われわれのよりやく2000ねん発達はったつおくれている」という見解けんかい紹介しょうかいしたうえで、「人種じんしゅあいだ差異さい重視じゅうしし、人種じんしゅ交配こうはいによって文明ぶんめい進歩しんぽする」などとかたり、「インドけいやユーラシアけいとアジア人種じんしゅ欧州おうしゅうじんとアジア人種じんしゅ交配こうはいさせるべきだ。だが日本人にっぽんじん除外じょがいする」、「日本人にっぽんじん敗北はいぼくしたのちは、人種じんしゅとの結婚けっこんをあらゆる手段しゅだんもちいて奨励しょうれいすべきである」などとキャンベルにかたったという[55][56]

このようなみずからの人種じんしゅ差別さべつてき感情かんじょうと、だい世界せかい大戦たいせん以前いぜんからのアメリカにおける日本人にっぽんじんたいする人種じんしゅ差別さべつてき感情かんじょう背景はいけいに、1941ねん12月のたいにち開戦かいせんにはつまエレノアからの反対はんたいをもしのけて、大戦たいせんちゅうにアメリカ国内こくないとアメリカの影響えいきょうにあったブラジルメキシコペルーなどの中南米ちゅうなんべい諸国しょこくにおいて、ヒトラーのユダヤじん強制きょうせい収容しゅうよう同様どうよう日系にっけいじん強制きょうせい収容しゅうよう政策せいさくすすめ、自由じゆう束縛そくばくするとともに財産ざいさん放棄ほうきせざるをない状況じょうきょうんだ。

さらに1944ねん6がつ13にちには、アメリカの新聞しんぶんが「ルーズベルト大統領だいとうりょうが、フランシス・E・ウォルター連邦れんぽう議会ぎかい下院かいん議員ぎいんからレターオープナー贈呈ぞうていされたが、それが日本にっぽんへいうでほねからつくられたものである」とほうじた。そのルーズベルトは、レターオープナーの返還へんかん適切てきせつ葬儀そうぎめいじている[注釈ちゅうしゃく 20]

原子げんしばくだん開発かいはつ政策せいさく(マンハッタン計画けいかく

編集へんしゅう

ルーズベルトは、1939ねんレオ・シラードアルベルト・アインシュタインのからの書簡しょかん契機けいきに、原子げんしばくだん開発かいはつ計画けいかくであるマンハッタン計画けいかく推進すいしんした。1941ねんにイギリスからユダヤけい科学かがくしゃオットー・フリッシュルドルフ・パイエルスしるしたかくエネルギーの兵器へいき応用おうようのアイディアをつたえられ、核兵器かくへいき実現じつげん可能かのうせいたかまると、1942ねん6がつ、ルーズベルトは国家こっかプロジェクトとしての研究けんきゅう着手ちゃくしゅ決意けついする。プロジェクトの実施じっしにあたっては「陸軍りくぐんマンハッタン工兵こうへい管区かんく」と名称めいしょうけられた組織そしきおこなうこととなった。責任せきにんしゃレズリー・リチャード・グローヴスじゅんしょうが1942ねん9がつ着任ちゃくにんした。

連合れんごうこく首脳しゅのうとの会談かいだん

編集へんしゅう
 
カイロ会談かいだんで蔣介せきとチャーチルとともに
 
ヤルタ会談かいだんさん巨頭きょとう

ルーズベルトは、大戦たいせんちゅうすうにわたり連合れんごうこく首脳しゅのう会談かいだんしている。 1943ねん1がつ14にちには、イギリスのチャーチル首相しゅしょう会談かいだんするためフロリダしゅうマイアミからモロッコカサブランカ出発しゅっぱつした。かれ飛行機ひこうき外国がいこく訪問ほうもんした最初さいしょのアメリカ大統領だいとうりょうになった。 会合かいごうは1がつ24にちえたが、会談かいだん最終さいしゅうにルーズベルトはだい世界せかい大戦たいせん趨勢すうせい重大じゅうだい影響えいきょうおよぼすことになる「枢軸すうじくこくとの一切いっさい和平わへい交渉こうしょう拒絶きょぜつし、無条件むじょうけん降伏ごうぶく唯一ゆいいつ戦争せんそう終結しゅうけつとする。」という原則げんそく表明ひょうめいした。

これは戦争せんそう終結しゅうけつにおいて条件じょうけん講和こうわという方法ほうほう遮断しゃだんされ無条件むじょうけん降伏ごうぶくしかないならば、枢軸すうじくこく敗戦はいせん濃厚のうこうとなっても休戦きゅうせんという決断けつだんらないで必然ひつぜんてきやぶれかぶれで戦争せんそう継続けいぞくすす可能かのうせいたかいとかんがえられ(実際じっさいにドイツはそうなった)、弊害へいがいほうおおきいとしてチャーチルはじめ反対はんたい意見いけんすくなくなかった。 またチャーチルはイタリアを枢軸すうじくこくがわから離脱りだつするようさそうためにも、枢軸すうじくこく一律いちりつ無条件むじょうけん降伏ごうぶく要求ようきゅうすることは同意どういしていなかった。 しかしこうした重大じゅうだい政治せいじてき軍事ぐんじてき要素ようそをはらむ問題もんだいにもかかわらず、ルーズベルトは事前じぜん国務省こくむしょうから意見いけんいたり、チャーチルから承諾しょうだくたりすることもしに、独断どくだん連合れんごうこく首脳しゅのう総意そういであるかのように記者きしゃ会見かいけんでコメントした[注釈ちゅうしゃく 21]

これは当時とうじ、アメリカ世論せろんがルーズベルト政権せいけんたいして「戦争せんそう早期そうき終結しゅうけつのため枢軸すうじくこく勢力せいりょく安易あんい取引とりひきするのでは?」と不信ふしんかんいており、ルーズベルトはこの疑惑ぎわく払拭ふっしょくするなんらかの意思いし表示ひょうじをする必要ひつようせいから無条件むじょうけん降伏ごうぶく原則げんそく発表はっぴょうした。 ルーズベルト政権せいけん疑惑ぎわくしょうじた背景はいけいには、その前年ぜんねん1942ねんべい英軍えいぐん実施じっししたしんドイツ姿勢しせいヴィシー・フランス支配しはいするきたアフリカへの上陸じょうりく作戦さくせんトーチ作戦さくせん)がある。自国じこくないナチス・ドイツおこなうユダヤじん迫害はくがい政策せいさく加担かたんしたヴィシー・フランスぐん司令しれいかんフランソワ・ダルランと、ルーズベルト政府せいふ秘密裏ひみつり休戦きゅうせん交渉こうしょうしていたことが露見ろけん、アメリカのマスコミに「ルーズベルトはファシズム勢力せいりょく妥協だきょうした」とはげしく非難ひなんされる経緯けいいがあった[52]

同年どうねん11がつにはエジプトおこなわれたカイロ会談かいだんにおいて、中国ちゅうごく蔣介せき総統そうとうとチャーチル首相しゅしょうとアジアにおける戦後せんご処理しょりについてはなった。そのチャーチル首相しゅしょうとともにイランテヘラン移動いどうしてソ連それんヨシフ・スターリン書記しょきちょう会談かいだん

1944ねん10月14にち、ルーズベルトは日本にっぽん降伏ごうぶくはやめるためにちゅう大使たいしW・アヴェレル・ハリマンかいしてスターリンにたいにち参戦さんせん提案ていあんした[57]どう12がつ14にちにスターリンは武器ぶき提供ていきょうみなみ樺太からふと千島ちしま列島れっとう領有りょうゆう要求ようきゅう[58]、ルーズベルトは千島ちしま列島れっとうソ連それんわたすことを条件じょうけんに、にち中立ちゅうりつ条約じょうやく一方いっぽうてき破棄はきうながした。また、このときの武器ぶき提供ていきょう合意ごういマイルポスト合意ごういといい、よく45ねん米国べいこくは、中立ちゅうりつこくだったソ連それんふね使つかって日本海にほんかいけ、ウラジオストクに80まんトンの武器ぶき弾薬だんやく陸揚りくあげした[61]

よく1945ねん2がつ4にちから11にちにかけて、ソビエト連邦れんぽうクリミア半島くりみあはんとうのヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談かいだんひらかれ、大戦たいせん国際こくさい秩序ちつじょ発足ほっそく議論ぎろんされていた国際こくさい連合れんごうについての協議きょうぎおこなわれた。また、日本にっぽん領土りょうど分割ぶんかつなどについてもはなされ、ヤルタ会談かいだんではこれが秘密ひみつ協定きょうていとしてまとめられた[64]


この会期かいきちゅう2がつ9にちひらかれたえいべい軍事ぐんじ会議かいぎにおいてルーズベルトは、チャーチルから「戦争せんそうが1ねんでも半年はんとしでも短縮たんしゅくされるならば意味いみがある。」としてドイツ、日本にっぽんとの戦争せんそう終結しゅうけつさいしての降伏ごうぶく条件じょうけんをいくらか緩和かんわするように提言ていげんされた。それにたいしルーズベルトは「そうしたかんがえは、世界せかい情勢じょうせい無知むちであり、いまなお自国じこく有利ゆうり譲歩じょうほられるとかんがえる日本人にっぽんじんに、そのような条件じょうけん緩和かんわおこなうことが有効ゆうこうだとはおもえない。」と一蹴いっしゅうし、あくまでも無条件むじょうけん降伏ごうぶく要求ようきゅうつづけるとの姿勢しせい固持こじした[65]

そしてヤルタ会談かいだんにおいてルーズベルトは、ドイツ降伏ごうぶく当分とうぶん継続けいぞく予想よそうされたたいにちせんを、降伏ごうぶく条件じょうけん緩和かんわすることなしに早期そうき終結しゅうけつさせるため、スターリンにたい千島ちしま列島れっとうみなみ樺太からふとソ連それんへの割譲かつじょう条件じょうけんにドイツ降伏ごうぶく3ヶ月かげつ以内いないたいにち参戦さんせん要求ようきゅうした。 のちソ連それん満州まんしゅう侵攻しんこうする。

1945ねん2がつヤルタ会談かいだんから米国べいこくもど途中とちゅう、スエズ運河うんが停泊ていはくちゅうべい巡洋艦じゅんようかんじょうにて、イブン・サウード国王こくおう会見かいけんしている[66]

勝利しょうり目前もくぜんにしての死去しきょ

編集へんしゅう
 
前日ぜんじつ撮影さつえいされた、ルーズベルトの生前せいぜん最後さいご写真しゃしん
 
ルーズベルトの葬列そうれつ(1945ねん4がつ14にち)

ルーズベルトは共和党きょうわとう候補こうほトーマス・E・デューイ勝利しょうりし、1944ねん11月7にち先例せんれいのない4せんたした。

4就任しゅうにんからわずか3ヶ月かげつ1945ねん4がつ12にち静養せいようさきジョージアしゅうウォームスプリングスにある別荘べっそう肖像しょうぞう制作せいさく途中とちゅう頭痛ずつううったえてたおれ、意識いしきうしなう。ルーズベルトはその午後ごご335ふん死去しきょした。63さいぼつ

死因しいん高血圧こうけつあつせい脳出血のうしゅっけつであり、死亡しぼう血圧けつあつは300/190 mmHgであった。1ねんまえから最高さいこう血圧けつあつは200 mmHgをえていた。当時とうじ高血圧こうけつあつくすり実験じっけんてき報告ほうこくたばかりであり、治療ちりょうほうはなかったという[67]。これにともない、ふく大統領だいとうりょうハリー・S・トルーマン大統領だいとうりょう昇格しょうかくした。その、5月にはドイツ、8がつには日本にっぽん降伏ごうぶく。つまり、ルーズベルトのは、だい世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ連合れんごうこく勝利しょうり目前もくぜんにしたであった。ルーズベルト死去しきょ公式こうしき発表はっぴょうは、当日とうじつ戦死せんしした軍人ぐんじんとともに、戦闘せんとう犠牲ぎせいしゃとして銘記めいきするかたちでなされた[68]

翌朝よくあさ、ルーズベルトの遺体いたい国旗こっきおおわれたかんおさめられ、大統領だいとうりょう列車れっしゃまれてワシントンD.Cはこばれた。ホワイトハウスまでの葬列そうれつには、なんせんにんもの人々ひとびと追悼ついとうのためにあつまった。4月14にちにホワイトハウスで葬儀そうぎおこなわれたのち遺体いたいふたた列車れっしゃまれ、ワシントンから生誕せいたんであるハイドパークへ移送いそうされた。4月15にち故人こじん遺言ゆいごんにより、ハイドパークの生家せいかにわにあるバラえん埋葬まいそうされた。つまのエレノアや愛犬あいけんのファラも死後しごかれとなり埋葬まいそうされている。

 
愛犬あいけんファラかかえ、庭師にわし孫娘まごむすめともうつったいちまい車椅子くるまいす姿すがたのルーズベルトをうつした稀少きしょう写真しゃしん
  • 1911ねんニューヨークしゅうのホーランド・ロッジNo.8でフリーメイソン入会にゅうかい[69][70]
  • 1913ねんにエレノアの社交しゃこう秘書ひしょつとめたルーシー・マーサー・ラザーフォード英語えいごばん恋仲こいなかとなり、一時いちじはエレノアとの離縁りえんかんがえていた。のちべつ男性だんせい結婚けっこんするが未亡人みぼうじんとなったルーシーは、大統領だいとうりょう在任ざいにんちゅうのルーズベルトとふたた秘密裏ひみつり交際こうさいするようになり、1945ねん急死きゅうしっていて最期さいご看取みとった[3][71]従姉妹いとこマーガレット・サックリー英語えいごばんとも親密しんみつ間柄あいだがらであった[5]
  • 1921ねん8がつ10日とおかカナダカンポベロとう別荘べっそうポリオ発症はっしょうする。その後遺症こういしょうにより下半身かはんしんがほとんど麻痺まひし、日常にちじょう生活せいかつでは車椅子くるまいす常用じょうようしていた。生前せいぜん車椅子くるまいす姿すがたられるのを非常ひじょうきらったため、訪問ほうもんさき植木うえきカムフラージュのためにえさせるなど、自身じしん障害しょうがいられないようことこまかく指示しじした。また、マスコミもあえて積極せっきょくてき報道ほうどうしなかったため、ルーズベルトに障害しょうがいのあったことは当時とうじのアメリカ国民こくみんにはほとんどられなかった。車椅子くるまいす姿すがたをとらえたメディアはほとんどく、写真しゃしんが2まいほどのこされているだけである。
    • ルーズベルトが実際じっさい罹患りかんしたのはギラン・バレー症候群しょうこうぐんであったと推測すいそくする症状しょうじょう比較ひかく研究けんきゅうがある[72]。それによれば、かれ症状しょうじょうの8項目こうもくのうち6項目こうもくについてはギラン・バレー症候群しょうこうぐん症状しょうじょうとの整合せいごうせいたかく、2項目こうもくについてはポリオとの整合せいごうせいたかかったという。しかし、ルーズベルトののう脊髄せきずいえき採取さいしゅされなかったので、正確せいかくなことはかっていない。
    • 2001ねん米国べいこく身障者しんしょうしゃ協会きょうかい運動うんどうで、ワシントンにくるまいす姿すがたのルーズベルトの銅像どうぞうてられた[よう出典しゅってん][73]
  • だい世界せかい大戦たいせんなかの1942ねん連邦れんぽう政府せいふ職員しょくいんとその家族かぞくのための保養ほようしょとして1938ねん開設かいせつされたハイ・キャトクティンを大統領だいとうりょう専用せんよう別荘べっそうけん避難ひなんしょ選定せんていし、イギリスの作家さっかジェームズ・ヒルトン小説しょうせつうしなわれた地平線ちへいせん』に登場とうじょうするユートピアにちなんでシャングリラ改名かいめいした(のちキャンプ・デービッド改称かいしょう[74]
  • 1944ねん9がつ23にちワシントンD.C.大統領だいとうりょう選挙せんきょせん開始かいししたスピーチは「ファラ・スピーチ」とばれる。アリューシャン列島れっとうにアメリカ海軍かいぐん駆逐くちくかん派遣はけんして愛犬あいけんスコティッシュ・テリアファラむかえにかせたという批判ひはん言及げんきゅうしたため。
  • 肖像しょうぞうは、米国べいこくの10セント銀貨ぎんか採用さいようされている。
  • 切手きって収集しゅうしゅうとしても有名ゆうめいであり、在任ざいにんちゅう発行はっこうされたおおくの切手きってについて、郵政ゆうせい当局とうきょく発行はっこう要望ようぼう提案ていあん実現じつげんさせたのみならず、デザインの選定せんていやシリーズの構成こうせいにまで関与かんよした(歴代れきだい大統領だいとうりょう肖像しょうぞう図案ずあん普通ふつう切手きって国立こくりつ公園こうえん切手きって枢軸すうじくこく占領せんりょうされたくに国旗こっき切手きってなど)。切手きって収集しゅうしゅうのためのサービス向上こうじょうにも熱心ねっしんで、販売はんばいカタログに切手きって一部いちぶしかせないとした規制きせい柔軟じゅうなん対応たいおうさせるようにほう改正かいせいすすめた[よう出典しゅってん]ほか、切手きって発行はっこう初日しょにち特別とくべつ消印けしいん使用しようさせるなど、様々さまざま施策しさくをとった。個人こじんてき趣味しゅみ行政ぎょうせい影響えいきょうあたえたが、関与かんよした切手きって導入どうにゅうさせた施策しさく内外ないがい切手きって収集しゅうしゅうにより、現在げんざいでもたか評価ひょうかされている[よう出典しゅってん]。またモナコ戦後せんご発行はっこうされた追悼ついとう切手きってには切手きって整理せいりするルーズベルトの姿すがたえがかれている。
  • 推理すいり小説しょうせつだいファンでもあり、シャーロック・ホームズ愛好あいこう団体だんたいベーカー・ストリート・イレギュラーズ会員かいいんであった。また、かれ自身じしんおもいついたプロットでS・S・ヴァン=ダインらが『大統領だいとうりょうのミステリ』とだいするリレー長編ちょうへん執筆しっぴつした[よう出典しゅってん]こともある。
  • ハーバート・フーヴァー自著じちょ裏切うらぎられた自由じゆう』において、1946ねん5がつダグラス・マッカーサー会談かいだんし、「くには、このたたかいの重要じゅうよう目的もくてき達成たっせいして日本にっぽんとの講和こうわ可能かのうである。(はや時期じき講和こうわしていれば、そのの)被害ひがいはなかったし、原爆げんばく投下とうか不要ふようだったし、ロシアが満州まんしゅう侵入しんにゅうすることもなかった」とマッカーサーにかたり、「日本にっぽんとの戦争せんそうが、狂人きょうじんのぞんだものだというと、マッカーサーは同意どういした」と記述きじゅつしており、マッカーサーもそれに同意どういして「ルーズベルトは1941ねん9がつには近衛このえ文麿ふみまろとの講和こうわ可能かのうだった」とべたと、ルーズベルトについて手厳てきびしく批判ひはんかさねている[75]
    • 歴史れきし学者がくしゃ政治せいじ学者がくしゃチャールズ・ビアードは、「1941ねん11月25にち、この最後さいご通牒つうちょう日本にっぽん通達つうたつされる前日ぜんじつ暫定ざんてい協定きょうていかんする結論けつろんがまだていなかったはずの時間じかんに、ルーズベルト大統領だいとうりょうとその戦時せんじ内閣ないかく平和へいわ展望てんぼうではなく、戦争せんそうについて、戦争せんそうをどのようにしてはじまるかをめぐって議論ぎろんをしていたのだった」[76]べ、たいにち強硬きょうこうさくをとったハル・ノート批判ひはんした[77]
  • 当時とうじ下院かいん議員ぎいんだったハミルトン・フィッシュは、戦後せんごハル・ノートの存在そんざいり、ルーズベルトを非難ひなんした[78]
  • 1938ねんなつ、ルーズベルト大統領だいとうりょうスミソニアン博物館はくぶつかん共同きょうどう実施じっしした調査ちょうさ航海こうかい[79]によってられた標本ひょうほんもとに、ヨコエビNeomegamphopus roosevelti (Shoemaker 1942) というたね記載きさいされた[80]
  • 野球やきゅうきでられ、ニューヨークタイムズの記者きしゃおくった手紙てがみに「一番いちばん面白おもしろ野球やきゅうのスコアは8たい7だ」としるした[81]。このエピソードから8たい7の試合しあいのことを「ルーズヴェルト・ゲーム」という。[82]

マルチメディア

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ルーズベルトの映像えいぞうしゅう

フランクリン・ルーズベルトが登場とうじょうする作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 近年きんねん世界せかい研究けんきゅうしょ辞典じてんるいでは、ローズヴェルトと表記ひょうきするものがおお[2]。フランクリン自身じしん・アメリカじん一般いっぱん/ˈroʊzəvəlt/重母音じゅうぼいん発音はつおんする。日本にっぽんではつづりにかれて /ˈruːzəvɛlt/ちょう母音ぼいん発音はつおんしてしまうれいおおい。
  2. ^ もっとも、1943ねん6がつ9にち成立せいりつした1943ねん現行げんこう納税のうぜいほうという源泉げんせん徴収ちょうしゅうほうは、有事ゆうじほうであったはずが、戦後せんごとく根拠こんきょいまま現行げんこうほうでありつづけており、国内こくない労働ろうどうしゃから批判ひはんされる。
  3. ^ ルーズベルトのもともとのせいはRozenvelt ローゼンヴェルト、英語えいごで 'field of roses'(バラ野原のはら)の
  4. ^ ジェームズ・ルーズベルトはオイスター・ベイの一家いっかつどいでつま出会であい、またフランクリンはセオドア・ルーズベルトのめい(このめいつまアナ・エレノア・ルーズベルトとは別人べつじん)と結婚けっこんする予定よていであった。
  5. ^ ははサラ・デラノの祖先そせん1621ねんにマサチューセッツに移住いじゅうしたフィリップ・デ・ラ・ノイ(フランス語ふらんすご: Philippe de Lannoy)であった。母方ははかた祖母そぼライマンはアメリカの非常ひじょうふる家系かけいひとつの出身しゅっしん
  6. ^ フランクリンはのち友人ゆうじんに「生涯しょうがい母親ははおやおそれていた」とかたっている。
  7. ^ *だい1/長女ちょうじょアナ・エレノア・ルーズベルト(Anna Eleanor Roosevelt 1906ねん5がつ3にち - 1975ねん12月1にち母親ははおや同名どうめい
  8. ^ 1912ねんしゅう議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょ再選さいせんされたが、海軍かいぐん次官じかんしょくけるため1913ねん3がつ17にち議員ぎいん辞職じしょくした[8]
  9. ^ 1914ねん連邦れんぽう上院じょういん議員ぎいん選挙せんきょ民主党みんしゅとう予備よび選挙せんきょでタマニー協会きょうかい候補こうほジェームズ・W・ジェラードやぶれる。
  10. ^ 1920ねんのルーズベルト稿こうよりワシントンしゅうスポケーン、カリフォルニアしゅうサンフランシスコ、セントラリア(en:Centralia)の演説えんぜつ原稿げんこう典拠てんきょとしている。いささか譲歩じょうほしても演説えんぜつ内容ないよう無理むり誇張こちょうした政治せいじてき発言はつげんであり、選挙せんきょ運動うんどうすくなからぬ争議そうぎをかもした[9]
  11. ^ 記事きじてたプロヴィデンス・ジャーナルかみニューヨーク・タイムズかみ報道ほうどうによりしょくする。
  12. ^ また1924ねんおよび1928ねん民主党みんしゅとう全国ぜんこく大会たいかいでルーズベルトはスミスの指名しめい推薦すいせん演説えんぜつおこなっている[12]
  13. ^ 知事ちじとして、フランシス・パーキンスハリー・ホプキンスから助言じょげんけた。
  14. ^ みっつのR 」の原文げんぶん。Three R's - relief, recovery and reform.
  15. ^ わたし誓約せいやくします。わたしは、べい国民こくみんのための新規しんきまきなお政策せいさく誓約せいやくします。」
    I pledge you, I pledge myself, to a new deal for the American people.
  16. ^ ただし、ルーズベルトが参戦さんせんのぞんでいたのはアメリカの権益けんえき領土りょうど直接ちょくせつがいおよばないヨーロッパ戦線せんせんであり、ハワイフィリピンなどのアメリカ所有しょゆう領土りょうど植民しょくみん中華民国ちゅうかみんこくない租界そかいなどのアメリカの利権りけん直接ちょくせつ被害ひがいおよ可能かのうせいたかく、(ヨーロッパと太平洋たいへいようの)2つの戦線せんせんたたかうことになるたいにち開戦かいせんには消極しょうきょくてきであったともわれている[よう出典しゅってん]
  17. ^ 中村なかむらつばら(つね)やくでは「不幸ふこうにも世界せかい無秩序むちつじょという病気びょうきひろがっているようだ。身体しんたい病気びょうきひろがりしたら、社会しゃかいはその健康けんこうまもるため病人びょうにん隔離かくりするものだ」としている[32]
  18. ^ ハミルトン・フィッシュen:Hamilton Fish III)は「非常ひじょう平和へいわ愛好あいこうしゃである首相しゅしょう近衛このえ公爵こうしゃくは、ワシントンホノルルてもよいからルーズベルト大統領だいとうりょう会談かいだんしたいと、かえ要望ようぼうしていた。かれは、戦争せんそうけるためには、米国べいこくがわ条件じょうけん暫定ざんてい協定きょうていかたち同意どういする意志いしがあったが、ルーズベルトは、すでにたいにちせん、およびその帰結きけつとしてのたいどくせんおこなうことを決意けつい していたというだけの理由りゆうで、日本にっぽん首相しゅしょうとのはないを拒否きょひした」としている[42]
  19. ^ 国民こくみんけた演説えんぜつ冒頭ぼうとうで「a date which will live in infamy」=屈辱くつじょく表現ひょうげんもちいた。このため、この演説えんぜつは「屈辱くつじょく演説えんぜつ」とばれる。
  20. ^ #人骨じんこつナイフ事件じけん(新聞しんぶん)p.9(朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ19ねん8がつ11にち)〔 かいなるこの寫眞しゃしん、これこそにくしょくこつをしやぶるべいおに正体しょうたいをむきした問題もんだい寫眞しゃしんである、べい「ライフ」のがつごう臆面おくめんもなく掲載けいさいされ、説明せつめいにかういてある これは日本にっぽんへい髑髏しゃれこうべ米國べいこくへい記念きねんひんとして、この少女しょうじょおくつてきたもので、彼女かのじょはいまこの髑髏しゃれこうべ寄贈きぞうひんにおれい手紙てがみかうとしてゐるとあゝこれぞみなみ溟の孤島ことう玉砕ぎょくさいしたわが勇士ゆうしせいほねだ、日本人にっぽんじんたるわれら到底とうてい正視せいしするにしのびざるものがある、おもはずはつとをつぶつてたゞいの英靈えいれい冥福めいふく、そしてつぎ瞬間しゅんかん憤怒ふんぬ血潮ちしお胸底きょうてい沸沸ふつふつ逆流ぎゃくりゅうするのをかんずる、だがわれ〱はいかりのをかつと見開みひらいて野獣やじゅう正体しょうたい正視せいししよう、可憐かれんなるべきむすめ表情ひょうじょうにまでのぞかれる野獣やじゅうせい、この野獣やじゅうせいこそ東亞とうあてきなのだ、敢へてこゝにかかげる英靈えいれいまえにわれ〱はえりただして"まいおに撃滅げきめつ"をちかいはう【寫眞しゃしんはベルリン電送でんそう】〕〔狼狽ろうばいしたべい大統領だいとうりょうせいほね」を返送へんそう "紙切かみきり埋葬まいそう勸告かんこく"と圖々ずうずうしい發表はっぴょう【リスボン九日ここのか發表はっぴょう米國べいこく民主党みんしゅとう下院かいん議員ぎいんウォルターはさきに大統領だいとうりょうルーズベルトにたいして日本にっぽんへい戰死せんししゃほねから作製さくせいした紙切かみき小刀こがたな寄贈きぞうしたが、この紙切かみき小刀こがたな事件じけんをはじめ日本にっぽんぐん兵士へいし戰死せんしたいおかせ事件じけんぜん世界せかい米國べいこくじん野蠻やばんせい正体しょうたい曝露ばくろ國際こくさいてき轟々ごうごうたる非難ひなんあらしをまきおこした、ワシントン来電らいでんによれば事態じたい意外いがいなる発展はってん流石さすがのルーズヴェルトもがとがめ狼狽ろうばいしたとえて紙切かみき小刀こがたなをそのまゝウォルターに返還へんかんした模様もようでホワイト・ハウスは九日ここのかとお発表はっぴょうした/大統領だいとうりょう日本にっぽんへいほねかたさくつたといはれる紙切かみき小刀こがたな寄贈きぞうしゃおくかえした、同時どうじ大統領だいとうりょうはかうしたもの手許てもとにおきたくないことをあきらかにし、かつこのほね埋葬まいそうしたほうがいゝだらうと勸告かんこくした 〕
  21. ^ 1942ねん1がつ連合れんごうこく共同きょうどう宣言せんげんもとづくもので、ルーズベルトの個人こじんてき発言はつげんではない。

出典しゅってん

編集へんしゅう
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参考さんこう文献ぶんけん

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おも執筆しっぴつしゃ編者へんしゃせいの50おとじゅん

洋書ようしょおも執筆しっぴつしゃせいのABCじゅん

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関連かんれん項目こうもく

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ルーズベルトのおも政策せいさく

フランクリン・ルーズベルトのがついたもの

 
台北たいぺい斯福標識ひょうしき

外部がいぶリンク

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先代せんだい次代じだい

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公職こうしょく
先代せんだい
ハーバート・フーヴァー
  アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょう
だい32だい:1933ねん3がつ4にち - 1945ねん4がつ12にち
次代じだい
ハリー・S・トルーマン
先代せんだい
アルフレッド・E・スミス
  ニューヨークしゅう知事ちじ
だい44だい:1929ねん1がつ1にち – 1932ねん12月31にち
次代じだい
ハーバート・H・リーマン
官職かんしょく
先代せんだい
ビークマン・ウィンスロップ
  アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく海軍かいぐん次官じかん
1913ねん3がつ17にち - 1920ねん8がつ26にち
次代じだい
ゴードン・ウッドベリー
とうしょく
先代せんだい
アルフレッド・E・スミス
  民主党みんしゅとう大統領だいとうりょう候補こうほ
1932ねん11月
1936ねん11月
1940ねん11月
1944ねん11月
次代じだい
ハリー・S・トルーマン
先代せんだい
アルフレッド・E・スミス
  民主党みんしゅとうふく大統領だいとうりょう候補こうほ
1920ねん11月
次代じだい
チャールズ・W・ブライアン
受賞じゅしょう功績こうせき
先代せんだい
ルネ・ヴィヴィアニ
タイム表紙ひょうしかざった人物じんぶつ
1923ねん5がつ28にち
次代じだい
ジョン・L・ルイス
先代せんだい
ドナルド・ウィリス・ダグラス・シニア
タイム表紙ひょうしかざった人物じんぶつ
1943ねん11月29にち
次代じだい
クレア・リー・シェンノート