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パナイ号事件 - Wikipedia

パナイごう事件じけん(パナイごうじけん、Panay incident)は、にちちゅう戦争せんそう初期しょき1937ねん12月12にち揚子江ようすこううえにおいて、米国べいこく民間みんかんじん南京なんきんから避難ひなんさせるためにせたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくアジア艦隊かんたい河川かせん砲艦ほうかんパナイ」を日本にっぽん海軍かいぐん攻撃こうげきして沈没ちんぼつさせ、同艦どうかん護衛ごえいされていたスタンダードオイルしゃのタンカー3せき破壊はかいし、さらにそのさい機銃きじゅう掃射そうしゃおこなったとされる事件じけんパネーごう事件じけんとも表記ひょうきされる。同日どうじつレディバードごう事件じけん発生はっせいしている。

パナイ。1928ねん8がつ30にち中国ちゅうごくにて撮影さつえい

概説がいせつ

編集へんしゅう

1937ねん12月12にち、パナイは脱出だっしゅつする外国がいこくじんせて南京なんきん上流じょうりゅう碇泊ていはくちゅう南京なんきんそう攻撃こうげき支援しえんしていた現地げんち上海しゃんはい航空こうくうたいによる攻撃こうげきけた[注釈ちゅうしゃく 1]同船どうせん搭乗とうじょうしていたのはべい将校しょうこう5にん兵士へいし54にんべい大使館たいしかんいん5にん民間みんかんじん10にんで、日本にっぽん軍機ぐんきによる攻撃こうげき結果けっか死者ししゃが3にん重傷じゅうしょうしゃは48にんとなった。また、同船どうせん先導せんどう案内あんないされていた米国べいこくスタンダード・バキューム・オイルしゃのメイピン(よしたいら)、メイシア(よしかい)、メイアン(やす)にも同様どうよう危害きがいくわえた。さらに、中国人ちゅうごくじん取調とりしらべなどをおこなっていた日本にっぽん陸軍りくぐん部隊ぶたいも、再度さいど飛来ひらいした日本にっぽん海軍かいぐんばくげき機銃きじゅう掃射そうしゃまれ、日本人にっぽんじんにも死者ししゃ2めい負傷ふしょうしゃ3めいた。

事件じけん発生はっせいだいさん艦隊かんたい司令しれい伝達でんたつ不備ふびからパナイの最終さいしゅう避難ひなん位置いち情報じょうほう伝達でんたつされておらず、現地げんち航空こうくうたい南京なんきん付近ふきん第三国だいさんごく艦船かんせん存在そんざいすることをらなかった。そのため大本営だいほんえい海軍かいぐん公表こうひょうは、パナイを中国ちゅうごく船舶せんぱく誤認ごにんしたのはやむをなかったとし、日本にっぽん陸軍りくぐんへの誤爆ごばくふくむあくまで誤爆ごばく事故じこだったと釈明しゃくめいしたが、アメリカでは日本にっぽん海軍かいぐんによる故意こいばくげきであるという認識にんしき定着ていちゃくしていた。

一部いちぶでは、航空こうくう母艦ぼかん加賀かがいち将校しょうこうによって故意こい計画けいかくされたものだと判明はんめいした[1]、というせつ存在そんざいするが、事件じけん当時とうじ空母くうぼ加賀かが南京なんきん攻略こうりゃくせん参加さんかしておらず、本件ほんけんとは無関係むかんけいだった[2]

故意こいばくげき誤認ごにんばくげきかの決着けっちゃくなかったが、いずれにしても事件じけんからやく2週間しゅうかん日本にっぽん政府せいふからの陳謝ちんしゃがアメリカ政府せいふれられ、事態じたいおおむ収束しゅうそくした。結果けっか本件ほんけんメインごう事件じけんルシタニアごう事件じけんのような直接ちょくせつ間接かんせつ戦争せんそう要因よういんとはならず、この時点じてんでの日米にちべい開戦かいせん回避かいひされた[3]

背景はいけい

編集へんしゅう

1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつ13にちだい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつする。8月30にち国民党こくみんとう政府せいふ国際こくさい連盟れんめいたいして、日本にっぽん行動こうどう不戦ふせん条約じょうやくおよびきゅうヶ国かこく条約じょうやく違反いはんすると通告つうこくし、措置そちるよう提訴ていそした。これをけてフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうは、10月5にちに、日本にっぽん非難ひなんする隔離かくり演説えんぜつをシカゴでおこなった[3]日本にっぽん海軍かいぐんはこの演説えんぜつたいしてつよ反感はんかんっていた。同年どうねん11がつ3にちから24にちにかけて、ブリュッセル会議かいぎきゅうヶ国かこく条約じょうやく会議かいぎ)が開催かいさいされ、日本にっぽんがわ欠席けっせきしていたが、べいえい日本にっぽんへの非難ひなんよわめていた。これは、隔離かくり演説えんぜつたいするアメリカ国民こくみん反発はんぱつつよかったためといわれる。

だい上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつからやく4ヶ月かげつ日本にっぽんぐん中国ちゅうごく国民党こくみんとう政府せいふ首都しゅと南京なんきんけて追撃ついげきせんをおこなっていた。海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい大陸たいりく地歩ちほすすめてこれを支援しえんして、敗走はいそうする中国ちゅうごくぐん部隊ぶたいへのじゅう爆撃ばくげき撤退てったい部隊ぶたいせたジャンクばくげき輸送ゆそう機関きかん輸送ゆそう施設しせつばくげきなどさまざまな作戦さくせん展開てんかいしていた。

1937ねん12月5にちには、敗残はいざんへい避難ひなんしようとしていた、かぶらみずうみおき停泊ていはくちゅうのイギリス汽船きせん2せきや、かぶらみずうみ埠頭ふとうのイギリスの会社かいしゃ倉庫そうこ爆撃ばくげきされた。12月8にち日本にっぽんは、第三国だいさんごくじん一律いちりつ南京なんきん退くようにもうれをおこない、よく9にち揚子江ようすこう沿岸えんがん各地かくちにおいて各国かっこくがその船舶せんぱく車輌しゃりょう中国ちゅうごくぐんからとおざけ、交戦こうせん地域ちいきがい移転いてんするように通報つうほうした。このとき、中国ちゅうごくぐん外国がいこくはた掲揚けいようして外国がいこくせん偽装ぎそうした中国ちゅうごくせん乗船じょうせんしたり、あるいは外国がいこくせん借用しゃくようしたり、さらには中国ちゅうごくぐん味方みかたする外国がいこくせん護送ごそうされて南京なんきんからの脱出だっしゅつはかっていたと、日本にっぽんがわからは主張しゅちょうされることもある。

日本にっぽんぐんによる南京なんきん攻撃こうげきおよ南京なんきん陥落かんらく)の前日ぜんじつの、12月12にちあさかぶらみずうみレディーバードごう事件じけん発生はっせいした。橋本はしもと欣五郎きんごろう砲兵ほうへい大佐たいさ(→さくらかい参照さんしょう)の指揮しきする陸軍りくぐん砲兵ほうへい英国えいこく砲艦ほうかんレディバードおよ同型どうけいかんビー砲撃ほうげきくわ被害ひがいあたえた。

陸軍りくぐん作戦さくせん協力きょうりょくすべき任務にんむせられていた海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい指揮しきかんは、12月11にち以来いらい、「南京なんきん方面ほうめんささえへい船舶せんぱくにより上流じょうりゅう方面ほうめん逃走とうそうしつつあり」また「此等船舶せんぱく屡々しばしば南京なんきんとその上流じょうりゅうとのあいだ往復おうふくしつつあり」とう情報じょうほう受領じゅりょうしていた。

12月12にち午前ごぜんちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれい連絡れんらく参謀さんぼうとして派遣はけんされていた青木あおきたけし海軍かいぐん少佐しょうさから「南京なんきん上流じょうりゅうやく10海里かいり揚子江ようすこうじょう中国ちゅうごく敗残はいざんへい満載まんさいした商船しょうせんやく10せき上流じょうりゅうかって逃走とうそうちゅうである。陸軍りくぐんにはこのてき攻撃こうげきする手段しゅだんがないので、ぜひとも海軍かいぐん航空こうくう部隊ぶたい攻撃こうげきしてもらいたい」との(陸軍りくぐんからの攻撃こうげき協力きょうりょく要請ようせいの)主旨しゅし電話でんわ連絡れんらくけ、また同日どうじつ正午しょうごには「大小だいしょう汽船きせんじゅうせきおよびジャンク多数たすうてき退却たいきゃくへい搭載とうさい南京なんきん上流じょうりゅう12かいりないし25かいり付近ふきん遡行そこうちゅう」との情報じょうほうて、だい連合れんごう航空こうくうたいだいじゅう航空こうくうたい三木みきもり大佐たいさただちにつねしゅう飛行場ひこうじょうより攻撃こうげきたい発進はっしんさせた。(分派ぶんぱにより三木みき大佐たいさ指揮しきにはだいじゅうさん航空こうくうたい一部いちぶはいっていた)

このときパナイは、南京なんきんから避難ひなんしようとする民間みんかん米国べいこくじん乗船じょうせんさせ、また、日本にっぽんぐん予想よそう以上いじょうはやさで南京なんきんせまってたことから戦闘せんとうきこまれることをけるため南京なんきんからはなれようと揚子江ようすこう遡上そじょうするタンカー3せき護送ごそうしていた。これらのタンカーは中国ちゅうごく空軍くうぐん基地きちはこぶガソリンを搭載とうさいしていたともしばしばわれる[4]

攻撃こうげき

編集へんしゅう

この空襲くうしゅう敢行かんこうしたのは帝国ていこく海軍かいぐんだい連合れんごう航空こうくうたい司令しれいかん三並みなみ貞三ていぞう少将しょうしょう)で、だいじゅう航空こうくうたいちょう三木みき大佐たいさ)とだいじゅうさん航空こうくうたいちょう千田せんだ貞敏さだとし大佐たいさ)からっていた。攻撃こうげきたいでは地味じみ効果こうか瞭然りょうぜんとしない陸戦りくせん協力きょうりょくつづいているなかで、本来ほんらい任務にんむであるたいかん攻撃こうげき任務にんむあたえられ士気しきたかかった。攻撃こうげきたい以下いかの4たい編成へんせいされた。

攻撃こうげきたい南京なんきん上流じょうりゅうやく45km(やく26海里かいり)の揚子江ようすこううえにおいて船舶せんぱく4せき発見はっけんした。まず村田むらたたい高度こうど2500mからの水平すいへい爆撃ばくげきでパナイに直撃ちょくげきだんあたえ、つづいて奥宮おくのみやたい小牧おまきたいべつの2せき高度こうど4000mから急降下きゅうこうか爆撃ばくげき実施じっし潮田うしおだたい機銃きじゅう掃射そうしゃくわえた。結果けっか、パナイをふくむ2せき撃沈げきちんし、2せき損傷そんしょうあたえた。潮田うしおだたい一員いちいんであった原田はらだかなめは、パナイは米国べいこく国旗こっきをどこにもしていなかったとしるしている[5]

最初さいしょつねしゅう飛行場ひこうじょう帰還きかんした奥宮おくのみやたい戦果せんか拡大かくだいのためにさい出撃しゅつげきおこなった。奥宮おくのみやたい攻撃こうげき地点ちてん船舶せんぱく発見はっけん出来できず、南京なんきん上流じょうりゅうやく18km(やく10海里かいり)に停泊ていはくしていたふね3せきかって上流じょうりゅうから合流ごうりゅうちゅうふね攻撃こうげきくわえた。攻撃こうげきちゅう目標もくひょう船上せんじょう英国えいこく国旗こっきかれていることを視認しにん攻撃こうげき中止ちゅうししたが3とうだんし、命中めいちゅうだんはなかった。

日本にっぽん海軍かいぐん攻撃こうげきしたのは米国べいこくアジア艦隊かんたい河川かせん砲艦ほうかんパナイと同艦どうかん先導せんどう案内あんないされていた米国べいこくスタンダード・バキューム・オイルしゃ商船しょうせんメイピン(よしたいら)、メイシア(よしかい)、メイアン(やす)の4せき、およびイギリス砲艦ほうかんクリケット、スカラブに護衛ごえいされたジャーディン・マセソンしゃ倉庫そうこせん汽船きせんうらごうであった。

事件じけん経過けいか

編集へんしゅう

12月13にち通告つうこく謝罪しゃざい

編集へんしゅう

現地げんち上海しゃんはいだいさん艦隊かんたいささえ方面ほうめん艦隊かんたい)では、12にちべい海軍かいぐん連絡れんらく将校しょうこう旗艦きかん出雲いずも」をおとずれ、くさ鹿しか龍之介りゅうのすけ参謀さんぼう副長ふくちょうに、「パナイごう」と連絡れんらくれなくなったこと、日本にっぽん海軍かいぐん心当こころあたりがないかをたずねた[6]ばくげき隊長たいちょう報告ほうこくいたくさ鹿しかは「パナイ」の誤爆ごばくさとり、長谷川はせがわきよし司令しれい長官ちょうかん相談そうだんした[7]くさ鹿しか救助きゅうじょたい派遣はけんすると同時どうじ新聞しんぶんしゃ写真しゃしんはんまねき、救助きゅうじょ作業さぎょうをニュース映画えいがにするよう依頼いらいする[7]よく13にち午前ごぜん長谷川はせがわ長官ちょうかんべいアジア艦隊かんたい旗艦きかん巡洋艦じゅんようかんオーガスタ」に杉山すぎやま六蔵ろくぞう参謀さんぼうちょう派遣はけんして、遺憾いかんひょうするとともに、「日本にっぽんぐん飛行機ひこうきは300まい高度こうどまで下降かこうして国籍こくせきたしかめんとしたがつい国旗こっき識別しきべつなかった結果けっか日本にっぽんぐん飛行機ひこうき相次あいついで攻撃こうげきおこな米国べいこく艦船かんせん1せき損害そんがいあたえ、砲艦ほうかんパナイならびにその米国べいこく商船しょうせん2せき沈没ちんぼつせしめるにいたった…」と事件じけん内容ないよう通告つうこくした。

同日どうじつ午前ごぜん10ごろ、『ニューヨーク・タイムズ上海しゃんはい支局しきょくちょうハレット・アベンド旗艦きかん出雲いずも」にんで、長谷川はせがわ中将ちゅうじょうは「遺憾いかんながらパナイごう撃沈げきちんした」ことをつたえ、日本にっぽん謝罪しゃざい相応そうおう賠償ばいしょうすることを言及げんきゅうした。そのときに同席どうせきしていた三並みなみ貞三ていぞう少将しょうしょうは「パナイごう撃沈げきちんめいじたのはだれか」という質問しつもんたいし、「それは陸軍りくぐんのBAD BOY[注釈ちゅうしゃく 2]だ、海軍かいぐんあやまちではないのだ」とこたえた。同日どうじつ午後ごご長谷川はせがわ中将ちゅうじょうべいアジア艦隊かんたい旗艦きかん巡洋艦じゅんようかん「オーガスタ」とヤーネル提督ていとく直々じきじき訪問ほうもんして遺憾いかんあらわした。

同日どうじつ広田ひろた弘毅こうき外相がいしょう米国べいこく大使館たいしかんおもむき、ちゅうにち米国べいこく大使たいしジョセフ・グルー謝罪しゃざいし、ワシントンの斎藤さいとうひろし駐米ちゅうべい大使たいしハル国務こくむ長官ちょうかんへの謝罪しゃざい訓令くんれいして、14にち面会めんかいたしている。また斎藤さいとう大使たいし訓令くんれいたずに3ふん52びょうのラジオ放送ほうそうわくって全米ぜんべい中継ちゅうけい謝罪しゃざい表明ひょうめいした。13にち午後ごご5海軍かいぐんしょうは「いま詳報しょうほうせっせざるも」としながら、誤爆ごばく断定だんていし、謝罪しゃざいし、誠意せいいをもって責任せきにんをとる、という山本やまもと五十六いそろく海軍かいぐん次官じかんだん発表はっぴょう

13にちルーズベルト大統領だいとうりょう昭和しょうわ天皇てんのうあて抗議こうぎしょおくったが、その親書しんしょ広田ひろた外相がいしょうから天皇てんのうわたされなかった。

たいにち抗議こうぎ通牒つうちょう帝国ていこく海軍かいぐん公式こうしき発表はっぴょう

編集へんしゅう
  • 12月14にち
    べい国務省こくむしょうはパナイごう事件じけんにつきちゅうにちグルー大使たいしつうじて日本にっぽん政府せいふ公式こうしきたいにち抗議こうぎ通牒つうちょうおくった。公式こうしき謝罪しゃざい賠償ばいしょう将来しょうらい保障ほしょう要請ようせいするものであった。
    14にち午後ごご9帝国ていこく海軍かいぐん公式こうしき発表はっぴょう国旗こっきみとめず、ささえへいらしきもの多数たすう乗船じょうせん確認かくにんしており、故意こいからたものではなくまった過誤かごもとづく不幸ふこう事件じけんであり、善後ぜんご処置しょちかんして万事ばんじ遺漏いろうなきをしているところである、というものであった。
  • 12月15にち
    東京とうきょうでは米内よない光政みつまさ海軍かいぐん大臣だいじんだい連合れんごう航空こうくうたい司令しれいかん三並みなみ貞三ていぞう少将しょうしょう更迭こうてつして内地ないち帰還きかんめいじ(後任こうにんだい連合れんごう航空こうくうたい司令しれいかんは、当時とうじだい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん塚原つかはらよんさん少将しょうしょう[8]、また17にち攻撃こうげき実施じっしした4にん隊長たいちょう海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさ譴責けんせき処分しょぶんにした。しかし、海軍かいぐん責任せきにんしゃ処分しょぶんは、対外たいがい海軍かいぐん部内ぶないけを使つかけたダブルスタンダードのものであった。海兵かいへい37出身しゅっしんさんなみは、水上すいじょう母艦ぼかん能登のとりょ艦長かんちょう空母くうぼおおとりしょう加賀かが艦長かんちょう基地きち航空こうくうたい航空こうくう戦隊せんたい参謀さんぼうなどを歴任れきにんした、航空こうくうはたけ数少かずすくない海軍かいぐん将校しょうこうだった。三並みなみは12月15にちづけだい航空こうくう戦隊せんたい司令しれいかん旗艦きかんりゅう)に補職ほしょくされる[8][9]翌年よくねん9がつ1にちまで、こうせん司令しれいかんつとめた[10]かく隊長たいちょうへの譴責けんせき処分しょぶんも、海軍かいぐん懲罰ちょうばつれいにもとづいて軍令ぐんれい正式せいしき処分しょぶんしたものではなかった。

12月23にち日米にちべい合同ごうどう説明せつめいかい

編集へんしゅう
  • 12月17にち
    17にち正午しょうご米国べいこく大使たいしから広田ひろた外相がいしょうたいし、エイドメモアールをもって強硬きょうこうもうれがあり、23にちには日米にちべい合同ごうどう説明せつめいかいひらかれる。
    17にち正午しょうご(ワシントン時間じかん)、米国べいこく艦船かんせんへの機銃きじゅう攻撃こうげきおこなわれていないという斎藤さいとう駐米ちゅうべい大使たいしげんたいし、ハル国務こくむ長官ちょうかんは、陸軍りくぐん部隊ぶたい国籍こくせき識別しきべつあやま可能かのうせいまったくないほどの至近しきん距離きょりからパナイを攻撃こうげきしたことについて、議論ぎろん余地よちのない証拠しょうこにぎっていると主張しゅちょうした。しかし、議論ぎろん余地よちのない証拠しょうこがのちに開示かいじされることはなかった。
  • 12月20にち
    松井まついいしちゅうささえ方面ほうめんぐん司令しれいかんは、『ニューヨーク・タイムズアベンド上海しゃんはい支局しきょくちょうとおして同紙どうしいち記者きしゃ司令しれいまで特別とくべつ招待しょうたい橋本はしもと大佐たいさ海軍かいぐんにパナイごう射撃しゃげき命令めいれいしたとはなし、12月20にちづけ同紙どうしにスクープ記事きじ掲載けいさいされた。
  • 12月23にちべい大使館たいしかんにおける海陸かいりくぐんとの日米にちべい合同ごうどう説明せつめいかい
    23にち米国べいこくがわの17にちもうれにたいして、山本やまもと海軍かいぐん次官じかんだいさん艦隊かんたい首席しゅせき参謀さんぼう高田たかだとししゅ中佐ちゅうさ陸軍りくぐんしょう軍務ぐんむきょく課長かちょう柴山しばやまけんよんろう大佐たいさ大本営だいほんえい陸軍りくぐん参謀さんぼう西にし義章よしあき中佐ちゅうさ外務省がいむしょう職員しょくいんおよび通訳つうやくともなって米国べいこく大使館たいしかん訪問ほうもんし、午後ごご5からやく2あいだはんかけて、うみ陸軍りくぐん合同ごうどう事情じじょう説明せつめい実施じっしした。海軍かいぐん発表はっぴょう高田たかだ中佐ちゅうさ戦後せんご証言しょうげんによると、西中にしなかたすく外務省がいむしょう職員しょくいん出席しゅっせきしておらず、陸軍りくぐんがわ説明せつめい柴山しばやま大佐たいさおこなったことになっているが、実際じっさいりょう出席しゅっせきしており、陸軍りくぐんがわ説明せつめいは、西中にしなかたすくおこなったという。
    どう説明せつめいかいにおいて、グルー米国べいこく大使たいしは、「パナイごう日本にっぽんぐん舟艇しゅうてい部隊ぶたいにより近接きんせつされ、射撃しゃげきされたが、しかしパナイごうはそのまえすで放棄ほうきされていた」とべており、24にち発表はっぴょうされたべい海軍かいぐん査問さもん委員いいんかい報告ほうこくしょにも同様どうよう記述きじゅつがあり、海軍かいぐん攻撃こうげきのみが問題もんだいにされている。
    西中にしなかたすくは23にち説明せつめいで、「斥候せっこう2せき沈没ちんぼつちゅうべい砲艦ほうかん視察しさつし、将校しょうこう1めい兵士へいしすうめい確認かくにんのため乗船じょうせんしたが、べい砲艦ほうかんかって射撃しゃげきをしていない。おなじころ、逃走とうそうちゅうささえぐん小型こがたせんたいして、べつのボートが射撃しゃげきした」ことを報告ほうこくしており、22にちには大本営だいほんえい陸軍りくぐんから「当時とうじあたかも14~15めいささえへいせたしょう蒸気じょうきせんのちいた立大りつだいごう判明はんめいす)該地付近ふきんより上流じょうりゅうかい逃走とうそうするをみて、これにたい距離きょりやく1800めーとるなるも陸上りくじょうより射撃しゃげきくわえ、またいち発動はつどうていをして機関きかんじゅうにて射撃しゃげきしつつ追撃ついげきせしめ、さら発動はつどうてい派遣はけん上流じょうりゅう2~3kmにてこれを捕獲ほかくせり。該船の舷側げんそくには弾痕だんこんみとめむ。前記ぜんきごとくこの射撃しゃげき立大りつだいごうたいおこなわれたものにして、だんじてべい艦船かんせん目標もくひょうとせるものにず。いわゆるパネーごうたいして射撃しゃげきせりというのはおそらくほん射撃しゃげき誤認ごにんせしものなりと推察すいさつされ、またべいかんたいしてもとべ飛弾ひだんありしにあらずやともおもえせられ、射撃しゃげき真相しんそうはなお引続ひきつづ調整ちょうせいちゅうなり」とべた[11]
    アメリカがわはこの会合かいごうで、日本にっぽんぐん統帥とうすい二元にげんづいた可能かのうせいがある、と山本やまもと昌雄まさおべている。

12月24にち日本にっぽん政府せいふ回答かいとう文書ぶんしょべい海軍かいぐん査問さもん委員いいんかい報告ほうこくしょ

編集へんしゅう

24にち広田ひろた外相がいしょう日本にっぽん政府せいふ正式せいしき回答かいとう文書ぶんしょをグルー大使たいし手交しゅこうした。それには、アメリカ政府せいふ要求ようきゅう全面ぜんめんてきれ、日本にっぽん政府せいふ正式せいしき陳謝ちんしゃ表明ひょうめいし、完全かんぜん十分じゅうぶんなる賠償ばいしょう支払しはらいを実行じっこうすること、今後こんご日本にっぽんぐん中国ちゅうごくにおけるアメリカ国民こくみん生命せいめい財産ざいさん攻撃こうげきしないこと、日本にっぽんぐんまたは官憲かんけん不法ふほう干渉かんしょうくわえないと保障ほしょうすること、パナイ撃沈げきちん関係かんけいしゃにたいし必要ひつようなる処分しょぶん実施じっししたことがべてあった。しかし、アメリカ当局とうきょくのいう故意こい爆撃ばくげきたいしては、あくまでも誤認ごにんばくげきであると主張しゅちょうした。

24にち午後ごご8(ワシントン時間じかん)、べい海軍かいぐん査問さもん委員いいんかい報告ほうこくしょ[12]発表はっぴょうされる。

12月26にち事態じたい収拾しゅうしゅう

編集へんしゅう

12月26にち日本にっぽん回答かいとう文書ぶんしょ受理じゅりする米国べいこく政府せいふたいにち最終さいしゅう通牒つうちょうがグルー大使たいしから広田ひろた外相がいしょう手渡てわたされたが、誤認ごにん爆撃ばくげきせつをはっきりと否定ひていし、公式こうしき通達つうたつみの米国べいこく海軍かいぐん委員いいんかい決定けってい報告ほうこくしょ依拠いきょすることは明言めいげんされていた。同日どうじつ午後ごご7山本やまもと次官じかんは、アメリカの最終さいしゅう回答かいとうによってパナイごう事件じけんはめでたく解決かいけつしたという談話だんわ発表はっぴょうした。

アメリカの主張しゅちょう日本にっぽん弁明べんめい

編集へんしゅう

アメリカがわ主張しゅちょうは、パナイの所在しょざい位置いちについて日本にっぽん当局とうきょく直前ちょくぜんまで通報つうほう了解りょうかいみであったことや、パナイ、アメリカ商船しょうせん上空じょうくうから判別はんべつ可能かのう国籍こくせき表示ひょうじをしていたにもかかわらず、20によるだいいちだい集中しゅうちゅうばくげきすうじゅう分間ふんかんけ、最後さいご戦闘せんとうから機銃きじゅう掃射そうしゃまでけたことなどから、意図いとてきばくげきだというものであった。

一方いっぽう日本にっぽん海軍かいぐん発表はっぴょうは、汽船きせん多数たすう中国人ちゅうごくじん乗船じょうせんしているのを目撃もくげきし、米国べいこく国旗こっき認識にんしきできず、中国ちゅうごくせん誤認ごにんして爆撃ばくげきしたというのものであった。

証言しょうげん

編集へんしゅう

日本にっぽん海軍かいぐん機銃きじゅう掃射そうしゃくわえるため低空ていくう飛行ひこうしたので、米国べいこく国旗こっきえないはずはないというアメリカがわ主張しゅちょうたいし、当初とうしょ日本にっぽん海軍かいぐんは、「飛行機ひこうきによるばくげき誤爆ごばくであって故意こいではない。機銃きじゅう掃射そうしゃ絶対ぜったいやっていない。一発いっぱつっていない。弾薬だんやく点検てんけんもしっかりやった」と、機銃きじゅう掃射そうしゃおこなったことをみとめていなかったが、23にちのグルー大使たいしへの事情じじょう説明せつめいで、「後日ごじつ調査ちょうさにより、ほういちが1せきふねたいして短時間たんじかん機銃きじゅう射撃しゃげきによる攻撃こうげきおこなった。このほか機銃きじゅう射撃しゃげきによる攻撃こうげきをした飛行機ひこうきはない」ことを高田たかだとししゅ中佐ちゅうさ説明せつめいし、よく24にち海軍かいぐんは「飛行機ひこうきによる機銃きじゅう射撃しゃげきだい2かい爆撃ばくげきちゅういちより短時間たんじかんおこないたるのみである」と公表こうひょうした。しかし、高田たかだ中佐ちゅうさは「海軍かいぐん機銃きじゅう掃射そうしゃまったくしていないと報告ほうこくした」と戦後せんご証言しょうげんしている[13]

当時とうじべい海軍かいぐんアジア艦隊かんたいない揚子江ようすこう砲艦ほうかん艦隊かんたい所属しょぞくするケンプ・トリー当時とうじはパナイの乗組のりくみではない。1941ねん12月に「ラニカイ英語えいごばん」の艦長かんちょう任命にんめい)は「最大さいだい軍艦ぐんかんはたぶくろなかおさめられた状態じょうたいで、ガフにかかっていた」とべている[14]。また、事故じこ発生はっせい直前ちょくぜんのパナイの位置いち行動こうどう細部さいぶが、上海しゃんはいべい艦隊かんたい司令しれいではなく、ワシントン国務省こくむしょう所掌しょしょうしょ報告ほうこくされていた。

賠償ばいしょう

編集へんしゅう

賠償ばいしょうについてはよく1938ねん4がつ22にちに、日本にっぽん政府せいふは221まん4007ドル36セントを支払しはらった(賠償ばいしょうがくには懲罰ちょうばつてき意味いみまず、実際じっさい損害そんがいおよ死傷ししょう事件じけんによりしょうじる損害そんがいがく算出さんしゅつされた)。なお明細めいさいしょには、その調査ちょうさ結果けっか判明はんめいしたというスタンダード石油せきゆ会社かいしゃ所属しょぞく小型こがたせん4せき損害そんがいがく計上けいじょうされており、パナイごう事件じけん損害そんがいは、沈没ちんぼつ艦船かんせん6せき(パナイごう、スタンダード会社かいしゃせん5せき)、破壊はかい船舶せんぱく2せき(スタンダード会社かいしゃせん2せき)、死者ししゃ3めい(パナイ乗組のりくみいん2めいおよび1めい)、負傷ふしょうしゃ74めい、その郵務ゆうむしょう国務省こくむしょう個人こじん財産ざいさん被害ひがい)であった。

ちゅうにち米国べいこく大使たいしジョセフ・グルーによれば、政府せいふあいだ事件じけん収束しゅうそくしたのち事件じけんじた日本にっぽん資産しさん市民しみんから謝罪しゃざい意味いみ多額たがく寄付きふ大使館たいしかんおくられた。大使館たいしかんはそれをパナイ基金ききん(Panay Fund)として運用うんようすることにした[15]

事件じけん結果けっか

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同日どうじつきたレディバードごう事件じけんもあって、日本にっぽんがわ攻撃こうげき故意こい解釈かいしゃくした報道ほうどうもあり、さらに12月30にちにはパナイに便乗びんじょうしていたプロニュースカメラマン、ノーマン・アレー撮影さつえいしたニュース映画えいが公開こうかいされ、えいべい国民こくみんたいにち感情かんじょう悪化あっかさせた。

しかしいまだアメリカの新聞しんぶん論調ろんちょうは、直接ちょくせつ介入かいにゅう主張しゅちょうするものはすくなく、そのおおくはたいにち強硬きょうこうさく支持しじするものの、論説ろんせつ非常ひじょうおだやかなものであった。反対はんたいに、孤立こりつ主義しゅぎ立場たちばから、アメリカ勢力せいりょく完全かんぜん撤退てったいろん主張しゅちょうするものもあった。1938ねん1がつのギャラップ調査ちょうさによると、やく70%のアメリカじん中国ちゅうごくからの完全かんぜん撤退てったいのぞみ、孤立こりつ主義しゅぎてき態度たいどしめしていた[16]

ルーズベルトはこの事件じけん激怒げきどしたものの、結局けっきょく強硬きょうこう姿勢しせいることはけた[3]。アメリカの世論せろんなか強硬きょうこうろんより孤立こりつ主義しゅぎてき傾向けいこうがまだつよかったことと、日本にっぽんがわ早急そうきゅう謝罪しゃざい賠償ばいしょうをしたことが原因げんいんられる[3]

日本にっぽんにおける南京なんきん事件じけん論争ろんそうにからむ写真しゃしん問題もんだい

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ほん事件じけんにからんで中国ちゅうごくけいアメリカじんのアイリス・チャンは、その代表だいひょうさく『The Rape of Nanking』(1997:ハードカバーばん)において、パナイごうとする写真しゃしんせたものの、あやまって艦船かんせん写真しゃしんせていた。日本にっぽんでは、南京なんきん事件じけん存在そんざい否定ひていてき見解けんかいをとるグループの調しらべによるものとして、すでに1998ねん9がつ産経新聞さんけいしんぶんがこれを報道ほうどうした。このてんは、出版しゅっぱんがわでもづき、のちされたペーパーバックばんとうではただしい写真しゃしんえられている。1999ねん2がつ産経新聞さんけいしんぶん日本語にほんごばんではこの写真しゃしんをペーパーバックばん同様どうようただしい写真しゃしんえて柏書房かしわしょぼう出版しゅっぱん予定よていであることをほうじている(この柏書房かしわしょぼうによる出版しゅっぱんは、結局けっきょく見合みあわせられている。)。

ところが、上記じょうきグループにかかわったものにより出版しゅっぱんされた『南京なんきん事件じけん証拠しょうこ写真しゃしん」を検証けんしょうする』(2005:くさおもえしゃ)では、あらためて実際じっさい写真しゃしん確認かくにんなおさなかったものか、書籍しょせきせられた、むしろただしいパナイごう写真しゃしんについて、これをパナイごうではないとしており、そのてん注意ちゅういようする[17]最終さいしゅうてきどう時代じだいしゃから出版しゅっぱんされた日本語にほんごばんの『ザ・レイプ・オブ・南京なんきん』(2007)には、もちろんただしいパナイごう写真しゃしんせられている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実際じっさい空襲くうしゅう敢行かんこうしたのは前進ぜんしん基地きち進出しんしゅつしていた一部いちぶ飛行ひこうたいのみ。
  2. ^ 「BAD BOY」とはこの事件じけんやく4あいだまえにレディーバードごう事件じけんこした橋本はしもと欣五郎きんごろう砲兵ほうへい大佐たいさ

出典しゅってん

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  1. ^ ジョン・トーランドちょ大日本帝国だいにっぽんていこく興亡こうぼう1.あかつきのZ作戦さくせん』(早川書房はやかわしょぼう1984ねん)
  2. ^ 当時とうじ軍艦ぐんかん加賀かがみなみささえ方面ほうめん作戦さくせん参加さんかちゅう。アジア歴史れきし資料しりょうセンターレファレンスコードC14120555700『せん詳報しょうほうつづり(上海しゃんはい方面ほうめんとう)昭和しょうわ12.8~12.12(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)』にて戦闘せんとう詳報しょうほう閲覧えつらん可能かのう
  3. ^ a b c d 西川にしかわ秀和ひでかず フランクリン・ローズヴェルト大統領だいとうりょうの「隔離かくり演説えんぜつ
  4. ^ 中国ちゅうごく戦争せんそう宣伝せんでん内幕うちまくフレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズしる田中たなか秀雄ひでおわけ芙蓉ふよう書房しょぼう、2009ねん
  5. ^ 原田はらだかなめ『わがほこりのれいせん』』さくらはな出版しゅっぱんp86
  6. ^ くさ鹿しかいち海軍かいぐん士官しかん半生はんせい』274ぺーじ
  7. ^ a b くさ鹿しかいち海軍かいぐん士官しかん半生はんせい』275ぺーじ
  8. ^ a b 昭和しょうわ12ねん12月15にち(発令はつれい12がつ15にちづけ)海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう(号外ごうがい)だい107ごう p.35」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072072900 
  9. ^ 昭和しょうわ12ねん12月21にち(火)海軍かいぐん公報こうほう(部内ぶないげん)だい2795ごう p.50」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C12070369100 『○はたはた掲揚けいよう だい航空こうくう戰隊せんたい司令しれいかんじゅうがつじゅうにちはたはたりゅう驤ニ掲揚けいようセリ』
  10. ^ 昭和しょうわ13ねん9がつ1にち(発令はつれい9がつ1にちづけ)海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう(部内ぶないげん)号外ごうがい だい233ごう p.1」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072074300 
  11. ^ 昭和しょうわ12ねん12月23にちづけ東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん
  12. ^ 南京なんきん事件じけん資料集しりょうしゅう アメリカへん南京なんきん事件じけん調査ちょうさ研究けんきゅうかいへんやく青木あおき書店しょてん1992ねん
  13. ^ 昭和しょうわ海軍かいぐん秘史ひし中村なかむら菊男きくおへんばんまち書房しょぼう、1969ねん
  14. ^ 長江ちょうこうパトロール』ケンプ・トリーちょ長野ながの洋子ようこやく出版しゅっぱん協同きょうどうしゃ 1988ねん
  15. ^ Joseph Grew, Address in Chicago, December 29, 1943 | Birth of the Constitution of Japan” (英語えいご). www.ndl.go.jp. 2023ねん9がつ23にち閲覧えつらん
  16. ^ 太平洋戦争たいへいようせんそうをめぐる日米にちべい外交がいこう戦後せんごべい対立たいりつ本橋もとはし ただしちょ学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2006ねん
  17. ^ 南京なんきん事件じけん証拠しょうこ写真しゃしん」を検証けんしょうする』くさおもえしゃ、2005ねん1がつ31にち、82ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • くさ鹿しか龍之介りゅうのすけいち海軍かいぐん士官しかん半生はんせい光和こうわどう、1973ねん
  • 笠原かさはらじゅうきゅうつかさにちちゅう全面ぜんめん戦争せんそう海軍かいぐん パナイごう事件じけん真相しんそう青木あおき書店しょてん、1997ねんISBN 4-250-97028-0
  • 軍事ぐんじ学会がっかい へんだい世界せかい大戦たいせんいち) -発生はっせい拡大かくだい-』(『軍事ぐんじ史学しがく』100ごう記念きねん特集とくしゅうごうにしきせいしゃ、1990ねんISBN 4-7646-0301-2
    • ロジャー・ディングマン ちょ高橋たかはし久志ひさし やく揚子江ようすこう危機きき 再考さいこうパネーごう事件じけん」 p95~p124
  • 山本やまもと昌雄まさおちょ帝国ていこく陸海りくかいぐんマサカ物語ものがたり4 虚構きょこう軍神ぐんしん東京とうきょう図書としょ出版しゅっぱんかい、2002ねんISBN 4-434-01696-2
  • 山本やまもと昌雄まさおちょ帝国ていこく陸海りくかいぐんマサカ物語ものがたり2 山本やまもと五十六いそろく提督ていとく2ツの重大じゅうだい事件じけんせん刊行かんこうかい、1991ねんISBN 4795261040

外部がいぶリンク

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