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ハミルトン・フィッシュ3世 - Wikipedia

ハミルトン・フィッシュ3せい

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく政治せいじ

ハミルトン・ストイフェサント・フィッシュ英語えいご: Hamilton Stuyvesant Fish1888ねん12月7にち - 1991ねん1がつ18にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく軍人ぐんじん政治せいじハミルトン・フィッシュ3せいハミルトン・フィッシュ・ジュニアとしてもられる。

ハミルトン・フィッシュ3せい
Hamilton Fish III
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいん
ニューヨークしゅうニューヨーク26選出せんしゅつ
任期にんき
1920ねん11月2にち – 1945ねん1がつ3にち
前任ぜんにんしゃエドムンド・プラット英語えいごばん
後任こうにんしゃピーター・A・クイン英語えいごばん
ニューヨークしゅう議会ぎかい議員ぎいん
パットナム選出せんしゅつ
任期にんき
1914ねん1がつ1にち – 1916ねん12月31にち
前任ぜんにんしゃジョン・R・イェール英語えいごばん
後任こうにんしゃジョン・P・ドノホー
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたん (1888-12-07) 1888ねん12月7にち
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ニューヨークしゅうギャリソン
死没しぼつ1991ねん1がつ18にち(1991-01-18)(102さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ニューヨークしゅうコールドスプリング
政党せいとう共和党きょうわとう
配偶はいぐうしゃ
グレイス・チャピン
(結婚けっこん 1920ねん; 死別しべつ 1960ねん)

マリー・ブラックトン
(結婚けっこん 1967ねん; 死別しべつ 1974ねん)

アリス・デスモンド
(結婚けっこん 1976ねん; 離婚りこん 1984ねん)

リディア・アンブロジオ (結婚けっこん 1988ねん)
親戚しんせきハミルトン・フィッシュ祖父そふ
ハミルトン・フィッシュ5せい英語えいごばんまご
ニコラス・フィッシュ2せい英語えいごばん伯父おじ
ストイフェサント・フィッシュ英語えいごばん叔父おじ
子供こどもハミルトン・フィッシュ4せい英語えいごばん
リリアン・ヴェロニカ・フィッシュ
エリザベス・フィッシュ
おやハミルトン・フィッシュ2せい英語えいごばんちち
エミリー・マン(はは
出身しゅっしんこうハーバード大学だいがく

ニューヨークしゅう出身しゅっしん。ニューヨークしゅう政治せいじなが活躍かつやくした一家いっかまれ、みずからも1920ねんから1945ねんにかけてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんつとめた。在任ざいにんちゅうは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく対外たいがい介入かいにゅう反対はんたいしたことで有名ゆうめいで、フランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょう批判ひはんした。1990ねんに102さい誕生たんじょういわった時点じてんでは、フィッシュはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい議員ぎいん経験けいけんしゃとして最年長さいねんちょう存命ぞんめいのアメリカじんであった。

家系かけい

編集へんしゅう

ニューヨークしゅうギャリソンにて、もと共和党きょうわとう所属しょぞくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんちちハミルトン・フィッシュ2せい英語えいごばんははエミリー・マンのあいだまれる。父方ちちかた祖父そふハミルトン・フィッシュ共和党きょうわとう所属しょぞくユリシーズ・グラント大統領だいとうりょうしたアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国務こくむ長官ちょうかんつとめた。初代しょだいハミルトン・フィッシュのちちであるニコラス・フィッシュ(1758ねんまれ)は大陸たいりくぐん士官しかんであったが、のちジョージ・クリントン知事ちじからニューヨークしゅう軍務ぐんむ局長きょくちょう (adjutant general) に任命にんめいされた。[1]

 
ピーター・ストイフェサント(1660ねん

ニコラス・フィッシュのつまはエリザベス・ストイフェサントで、オランダのニューアムステルダム植民しょくみん総督そうとくピーター・ストイフェサント末裔まつえいである。ハミルトン・フィッシュ3せいは、ははのエミリー・マンをとおして、1636ねんにコネチカットしゅうハートフォード入植にゅうしょくしたトーマス・フッカー英語えいごばん末裔まつえいでもある。フィッシュの伯父おじイライアス・マンは、判事はんじおよびニューヨークしゅうトロイ市長しちょうを3つとめた。[1]

フィッシュの祖母そぼスーザン・リヴィングストンは、大陸たいりく会議かいぎサウスカロライナしゅう代表だいひょうであったおっとジョン・ケインをくしたのち、1800ねんユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ伯爵はくしゃく再婚さいこんした。軍人ぐんじん政治せいじでもあったニェムツェヴィチは、ポーランドの5月3にち憲法けんぽういた人物じんぶつだとしんじられている。フィッシュはジョン・ケインとスーザン・リヴィングストンのまごであるがゆえに、1982ねんにニュージャージーしゅう知事ちじえらばれたトーマス・ケインはフィッシュの親戚しんせきである。[2]

ハミルトン・フィッシュ英語えいごばんとも名付なづけられた)ハミルトン・フィッシュ3せい従兄弟いとこは、セオドア・ルーズベルトラフ・ライダーズのL中隊ちゅうたい軍曹ぐんそうであったが、べい西にし戦争せんそう戦死せんしした最初さいしょのアメリカの軍人ぐんじんとなった。ハミルトン・フィッシュ2せい戦死せんししたフィッシュの従兄弟いとこ敬意けいいあらわして、10さいになる息子むすこフィッシュの名前なまえ法的ほうてきに"ハミルトン・ストイフェサント・フィッシュ"からたんに"ハミルトン・フィッシュ"に変更へんこうした(この従兄弟いとことハミルトン・フィッシュ3せいけっしてったことはなかった)。[3]

フィッシュは1921ねんもとブルックリン市長しちょうアルフレッド・C・チェイピン英語えいごばん (1848–1936) のむすめ、グレイス・チェイピン・ロジャース (1885–1960) と結婚けっこんした。二人ふたりあいだまれた息子むすこハミルトン・フィッシュ4せい英語えいごばんは、ニューヨークしゅう選出せんしゅつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいん議員ぎいんを1969ねんから1995ねんまで13つとめた。フィッシュ夫妻ふさいむすめリリアン・ベロニカ・フィッシュは、ウィリアム・ランドルフ・ハースト息子むすこデービッド・ホイットミア・ハーストと結婚けっこんした。[4]

教育きょういく

編集へんしゅう
 
ハーバード大学だいがく時代じだいのハミルトン・フィッシュ

どものころ、フィッシュはジュネーブちかいスイスの学校がっこうシャトー・ド・ランシー (Chateau de Lancy) にとおった。この学校がっこうはフィッシュのちちも1860ねんかよっていた学校がっこうであった。そこでは、(息子むすこの)フィッシュはフランス語ふらんすごまなび、サッカーをした。なつ家族かぞく一緒いっしょバイエルンしゅうごした。マサチューセッツしゅうサウスボロ英語えいごばんにあるフェイ・スクール英語えいごばんというアメリカの全寮ぜんりょうせい学校がっこう教育きょういくはじめたが、そのともおなじサウスボロにあったセント・マークス・スクール英語えいごばんプレップこうとおった。フィッシュはのち自身じしんを"B学生がくせい"であったとじょしているが、複数ふくすうことなるスポーツで成功せいこうした。[5]

1906ねんにセント・マークス・スクールを卒業そつぎょうしたフィッシュは[6]ハーバード・カレッジ進学しんがくしてかよい、1910年度ねんど卒業生そつぎょうせいとなった。大学だいがくでは、ハーバードのアメリカンフットボールチーム(ポジションはタックル)でプレーし、ポーセリアンクラブ英語えいごばん会員かいいんであった。身長しんちょう6フィート4インチ (1.93 m)、体重たいじゅう200ポンド (91 kg)の"ハム"・フィッシュ ("Ham" Fish) は、カレッジフットボール全米ぜんべいチームのメンバーに2かいえらばれ、1954ねんにはカレッジフットボール殿堂でんどう英語えいごばんりするなど、フットボール選手せんしゅとしてだい成功せいこうであった。[7]フィッシュはイェール大学だいがく卒業生そつぎょうせいウォルター・キャンプ英語えいごばんの"All time" "All America"チームにぞくした唯一ゆいいつのハーバード大学だいがく出身しゅっしんしゃであった[8]。ハーバード大学だいがく卒業そつぎょうも、フィッシュはフットボールに没頭ぼっとうつづけた。ハーバードのフットボール選手せんしゅ授与じゅよされるいくつかのしょうのために5000ドルを寄付きふしたほか、ハーバード・ロー・スクールのフットボールチームを組織そしきして全国ぜんこくほか大学だいがくとのエキシビション試合しあいおこなった。[9]

1909ねん二十歳はたちになったフィッシュは歴史れきし政府せいふ専攻せんこうにおいてカム・ロード学位がくい授与じゅよされてハーバード大学だいがくはや卒業そつぎょうした。フィッシュはハーバードで歴史れきしおしえるようさそわれたが、これを丁重ていちょうことわり、そのわりにハーバード・ロー・スクールとおった。[10]フィッシュはロー・スクールを卒業そつぎょうするまえ自主じしゅ退学たいがくし、ニューヨーク保険ほけん事務所じむしょ就職しゅうしょくした。[11]

フィッシュは1914ねん、1915ねん、1916ねんの3ねんにわたり、ニューヨークしゅう下院かいん進歩しんぽとう所属しょぞく議員ぎいんであった。[12]

軍役ぐんえき

編集へんしゅう
 
マーク・L・ハーシー英語えいごばん将軍しょうぐんひだり)とハミルトン・フィッシュ3せい大尉たいいみぎ

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんする以前いぜん、フィッシュはだい15ニューヨーク歩兵ほへいたいK中隊ちゅうたい大尉たいいであった。連邦れんぽうぐんのためにだい15兵隊へいたい動員どういんされたとき、(だい15ニューヨーク歩兵ほへいたい動員どういんけてあらためて指定していされたこともあって)フィッシュはウィリアム・ハワード大佐たいさからのだい369合衆国がっしゅうこく歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばんでその地位ちい保持ほじするように、とのもうれた。だい369歩兵ほへい連隊れんたいはアフリカけいアメリカじん下士官かしかんへい白人はくじん士官しかんおよ開戦かいせん少数しょうすう黒人こくじん士官しかん)から部隊ぶたいであり[13]、ハーレム・ヘルファイターズ (Harlem Hellfighters) としてられるようになった。だい369歩兵ほへい連隊れんたいだい93歩兵ほへい師団しだん配属はいぞくされた。

ウィルソン大統領だいとうりょうドイツたいして宣戦せんせん布告ふこく(1917ねん4がつ)したのちなつに、フィッシュとやく2000にん兵士へいしはキャンプ・ホイットマン(ニューヨークしゅう)で訓練くんれん開始かいしした。1917ねん10がつ部隊ぶたいさらなる訓練くんれんのためキャンプ・ワズワース(サウスカロライナしゅう)への移動いどうめいじられた。1917ねん11月、連隊れんたいはUSS"ポカホンタス"に乗船じょうせんし、フランスへけて出航しゅっこうしたが、そのあいだもなくふねはエンジントラブルのため陸地りくちかえした。ふたた出発しゅっぱつ失敗しっぱいしたのちふねは1917ねん12月13にち出航しゅっこうした。ふね衝突しょうとつしたり、ドイツの潜水せんすいかんからふねまもるための駆逐くちくかんによる護衛ごえいがなかったりしたにもかかわらず、連隊れんたい無事ぶじにフランスに到着とうちゃくした(フィッシュは護衛ごえいかなかったことについて、海軍かいぐん次官補じかんほのフランクリン・D・ルーズベルトに不満ふまんべた)。[14]

フィッシュと部隊ぶたいは12月26にちにフランスのブレスト上陸じょうりくした。だい369連隊れんたいは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくジョン・パーシング将軍しょうぐんにより、フランス陸軍りくぐん指揮しきかれた。[15]そうじて、だい369連隊れんたいは191日間にちかん前線ぜんせんごしたが、これはのどのアメリカの連隊れんたいよりもながかった。また、連合れんごうこくとして最初さいしょラインがわ到達とうたつした連隊れんたいでもあった。フィッシュはシルバースターとフランスの戦功せんこうじゅうあきら (Croix de Guerre) を受章じゅしょうした。[16]くわえて、フィッシュと、前線ぜんせんちかくで看護かんごとしてはたらいたあねのジャネット・フィッシュの二人ふたりは、その戦時せんじ活躍かつやくたたえて、のちレジオンドヌール勲章くんしょう受章じゅしょうした。[17]

フィッシュは1919ねん3がつ13にち少佐しょうさ昇進しょうしんし、同年どうねん4がつ25にちにアメリカにもどった。フィッシュは1919ねん5がつ14にちぐん除隊じょたいしたが[18]、1940年代ねんだいまで予備よびやく将校しょうこう (Officers' Reserve Corps) にぞくし、最終さいしゅうてき大佐たいさ階級かいきゅうがった。[19][20]

合衆国がっしゅうこく議会ぎかい議員ぎいん時代じだい

編集へんしゅう

エドムンド・プラットの辞職じしょくによりしょうじた空席くうせきめるため、選挙せんきょ出馬しゅつばしたフィッシュははつ当選とうせんし、1920ねん11月2にちから、(1944ねん選挙せんきょ敗北はいぼくして再選さいせんたせず)1945ねん1がつ3にち退任たいにんするまで、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく連邦れんぽう議会ぎかい下院かいん議員ぎいん地位ちいにあった。[4]25ねんちかくにおよんだ議員ぎいん生活せいかつなかで、フィッシュは強硬きょうこう反共はんきょう主義しゅぎしゃおよびかつての友人ゆうじんであるフランクリン・ルーズベルトの仇敵きゅうてきとしてられるようになったことで、その認知にんちたかまり、はんルーズベルト議員ぎいんらの盟友めいゆうとされた。

フィッシュはフランクリン・ルーズベルトニューディール政策せいさく反対はんたいしていた。真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきまでは不干渉ふかんしょう主義しゅぎしゃであったフィッシュは、ヒトラーのドイツからユダヤじんたすけることを目標もくひょうとした数々かずかず立法りっぽうじょうおよ外交がいこうじょううごきにも責任せきにんがあった。[21]フィッシュがみとめようとせずニューディール政策せいさく反対はんたいしたことはルーズベルトをて、フィッシュとかれさわ嘲笑ちょうしょうしていたほか2人ふたり連邦れんぽう議会ぎかい反対はんたいしゃマーティンバートン)は、ルーズベルトの1940ねん大統領だいとうりょうせん選挙せんきょせんしゅ要素ようそとなった。[22]最後さいごには、ある程度ていどニューヨークしゅう知事ちじトマス・E・デューイ影響えいきょうされて、フィッシュの議員ぎいんとしてのキャリアは、自身じしん選挙せんきょ共和党きょうわとう予備よび選挙せんきょ勝利しょうりしたけれども1944ねんそう選挙せんきょ落選らくせんしたことによりわった。[23]

だいいち世界せかい大戦たいせん無名むめい戦士せんし無名むめい戦士せんしはか

編集へんしゅう

1920ねん12月21にち、ハミルトン・フィッシュ議員ぎいんだい66議会ぎかいに67ごう決議けつぎあん提出ていしゅつした。この決議けつぎあんは、だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうにフランスで戦死せんしした無名むめいのアメリカじん戦士せんし遺骨いこつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく返還へんかんすること、およびその遺骨いこつ首都しゅとワシントンD.C.からポトマックがわえたところにあるバージニアしゅうアーリントン国立こくりつ墓地ぼちのメモリアル・アンフィシアターの外側そとがわ建設けんせつされることになる神聖しんせいはか埋葬まいそうすることをみとめるものであった。連邦れんぽう議会ぎかいはこの決議けつぎあんを1921ねん3がつ4にち承認しょうにんした。1921ねん10がつ23にち、フランスのパリからやく90マイルのところにあるシャロン=シュル=マルヌにて、フランスで戦死せんしした無名むめいのアメリカじん戦士せんし遺骨いこつおさめていた4つのかんなかから無名むめい戦士せんし遺骨いこつ収集しゅうしゅうされた。収集しゅうしゅうされた遺骨いこつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく返還へんかんされ、1921ねん11月11にちおごそかな儀式ぎしきなか連邦れんぽう議会ぎかい議事堂ぎじどうだいいち世界せかい大戦たいせん無名むめい戦士せんし正装せいそう安置あんちされ、国葬こくそう葬列そうれつのちに、アーリントンの墓地ぼち埋葬まいそうされた。はかは1937ねん完成かんせいし、無名むめい戦士せんしはか (The Tomb of the Unknowns) としてられるようになり、今日きょうではアメリカ陸軍りくぐんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい3歩兵ほへい連隊れんたい英語えいごばん通称つうしょう:オールド・ガード; The Old Guard)のなかからかれた歩哨ほしょう日々ひび24あいだ体制たいせいはかまもっている。そのはかおよびそこにねむ無名むめい戦士せんしたちは、今日きょうではアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくないもっと神聖しんせいぐん用地ようちかんがえられており、それはおそらく国家こっかたいするフィッシュの最大さいだい遺産いさんであろうとおもわれる。

ロッジ=フィッシュ決議けつぎ

編集へんしゅう

1922ねん6がつにフィッシュは1917ねんバルフォア宣言せんげんつうじた英国えいこくのパレスチナ政策せいさくたいするアメリカの支援しえん具現ぐげんするためにロッジ=フィッシュ決議けつぎあん英語えいごばん提出ていしゅつした。

フィッシュ委員いいんかい

編集へんしゅう

ハミルトン・フィッシュは熱心ねっしん反共はんきょう主義しゅぎしゃであった。1931ねん記事きじでは、フィッシュは共産きょうさん主義しゅぎについて「世界せかいもっと重要じゅうようで、もっと不可欠ふかけつで、もっととおくまでおよび、そしてもっと危険きけん問題もんだい」 ("the most important, the most vital, the most far-reaching, and the most dangerous issue in the world") としるし、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない広範囲こうはんいにわたり共産きょうさん主義しゅぎしゃ影響えいきょうがあるとしんじていた。[24]

1930ねん5がつ5にち、フィッシュは下院かいんに180ごう決議けつぎあん提出ていしゅつした。その内容ないようは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくないにおいて共産きょうさん主義しゅぎしゃ活動かつどう調査ちょうさするための委員いいんかい設置せっち提案ていあんするものであった。その結果けっかとしてしょうじた委員いいんかいは、一般いっぱんてきにはフィッシュ委員いいんかい (the Fish Committee) としてられ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくない共産きょうさん主義しゅぎしゃ活動かつどう関与かんよまたは活動かつどう支援しえんしているうたがいのある人物じんぶつ組織そしき広範囲こうはんいおよ調査ちょうさ着手ちゃくしゅした。この委員いいんかい調査ちょうさ対象たいしょうには、アメリカ自由じゆう人権じんけん協会きょうかいおよ共産党きょうさんとう大統領だいとうりょう候補者こうほしゃウィリアム・Z・フォスター英語えいごばんふくまれていた。[25]委員いいんかいは、共産きょうさん主義しゅぎしゃ調査ちょうさし、入国にゅうこく管理かんり国外こくがい追放ついほう関係かんけいする法律ほうりつ強化きょうかして共産きょうさん主義しゅぎしゃアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくからすために、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく司法省しほうしょうによりおおきな権限けんげんあたえることを勧告かんこくした。[26]

1933ねん、フィッシュが委員いいんかい一員いちいんであったとき、委員いいんかいはアドルフ・エールトによる『Communism in Germany』(原題げんだいBewaffneter Aufstand!)というナチほん翻訳ほんやくぶつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくでの出版しゅっぱん後援こうえんした。その前書まえがきでは、委員いいんかいはんユダヤ主義しゅぎあるいはナチ体制たいせい擁護ようごすることになるとして、それを出版しゅっぱんしなかったと(委員いいんかいは)った。しかし、これは委員いいんかいがナチスとドイツの共産きょうさん主義しゅぎしゃあいだ闘争とうそう共産きょうさん主義しゅぎから防御ぼうぎょするための"効果こうかてき対策たいさく"を使用しようすることについての教訓きょうくん提供ていきょうしてくれたとしんじていたからである。そのほんは、ユダヤじんはドイツにおける共産きょうさん主義しゅぎ責任せきにんがあるとし、アドルフ・ヒトラーだけがそれをめることができると主張しゅちょうしている。アメリカけいユダヤじんとリベラル団体だんたいからの圧力あつりょくがあるなかで、フィッシュと委員いいんかいメンバーは、そのほんについて否認ひにんした。[27][28]また、フィッシュはながあやまりが指摘してきされてきた『シオン賢者けんじゃ議定ぎていしょ』を自身じしん議会ぎかい事務所じむしょから配布はいふした。[29]

孤立こりつ主義しゅぎ

編集へんしゅう

フィッシュはドイツ国民こくみんによりしたしいアメリカじん盟友めいゆうとしてげられた[30]雑誌ざっしタイム』は、かつてフィッシュを「米国べいこくいち孤立こりつ主義しゅぎしゃ」 ("the Nation's No. 1 isolationist") としょうした[31]

1939ねん8がつ14にち、フィッシュはノルウェーのオスロひらかれた列国議会同盟れっこくぎかいどうめい会議かいぎアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく代表だいひょうだん総裁そうさいとして出席しゅっせきし、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ招待しょうたいされ途中とちゅう、ドイツのザルツブルクにて会見かいけんした。フィッシュはリッベントロップの私用しよう飛行機ひこうき同乗どうじょうしてオスロまでんだ。[32]ルーズベルトのまえちはだかる強敵きょうてきであったフィッシュは、ノルウェーでの会議かいぎにて、ナチス・ドイツとポーランドとのあいだ仲裁ちゅうさいダンツィヒ問題もんだい解決かいけつすることを各国かっこく提言ていげんした。[33]

1940ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ直後ちょくご、フィッシュはルーズベルトにった電報でんぽうなかつぎのようにべた。「おめでとう。わたし国防こくぼうのために支援しえんすることをかたちかう...そしてアメリカが外国がいこく戦争せんそうかかわらないためにも。」 ("Congratulations. I pledge my support for national defense... and to keep America out of foreign wars.") [34]

1941ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおけるナチの諜報ちょうほういん活動かつどう調査ちょうさしていた司法しほう委員いいんかいは、連邦れんぽう議会ぎかい議員ぎいん孤立こりつ主義しゅぎしゃによる演説えんぜつ内容ないようなかしるされた(議員ぎいん特権とっけんとして無料むりょう送達そうたつされる)議会ぎかい郵便ゆうびんぶつはいった8つのかばんを押収おうしゅうするために、ワシントンのはん英国えいこく組織そしき (Islands for War Debts Committee) の本部ほんぶ職員しょくいん派遣はけんした。フィッシュの首席しゅせき補佐ほさかんであったジョージ・ヒルは、職員しょくいん到着とうちゃくする直前ちょくぜん郵便ゆうびんぶつをフィッシュの事務所じむしょ収納しゅうのうった。[35]

だい陪審ばいしん召集しょうしゅうされ、ヒルはつぎの2てんについて説明せつめいするために出廷しゅっていするようめいじられた。1つは、なぜそんなにはん英国えいこく組織そしき郵便ゆうびんぶつについて心配しんぱいしていたのか。2つは、ナチのプロパガンダ諜報ちょうほういんであったジョージ・シルヴェスター・ヴィエレック英語えいごばんとの密接みっせつ関連かんれんについて(ヴィエレックはのち外国がいこくエージェント登録とうろくほう違反いはんおよはん英国えいこく組織そしき資金しきん援助えんじょしていたことにより有罪ゆうざい判決はんけつくだされることになる)。ヒルはそのような郵便ゆうびんぶつせたことはなく、ヴィエレックについてもらなかったとった。陪審ばいしん即座そくざ偽証ぎしょうつみでヒルを起訴きそした。[35]

起訴きそからあいだもなく、フィッシュはヒルを弁護べんごしてつぎのように主張しゅちょうした。「ジョージ・ヒルは100% O.K.であり、わたしはジョージ・ヒルをなにであれ限界げんかいまで支援しえんする。」 ("George Hill is 100% O.K., and I'll back George Hill to the limit on anything.") [35]裁判さいばんちゅう、ヒルはヴィエレックが1940ねんにキャピトル・ヒルをおとずれ、政権せいけん外交がいこう政策せいさく痛烈つうれつ批判ひはんする議会ぎかい演説えんぜつだい規模きぼ分配ぶんぱいのために段取だんどりをつけたことを説明せつめいした。[36]聴聞ちょうもんかいのち陪審ばいしん評決ひょうけついたり、有罪ゆうざい判決はんけつ予期よきされたため、フィッシュは「障害しょうがいい、勲章くんしょうけただいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんへいであり、わたし事務所じむしょ事務じむいんだったジョージ・ヒルが偽証罪ぎしょうざい有罪ゆうざい判決はんけつけたことをり、大変たいへん残念ざんねんおもいます...ヒルはイングランドの家系かけいで...かれ我々われわれ戦争せんそうへの関与かんよたいして執念しゅうねんっていました。」 ("I am very sorry to learn that George Hill, a disabled, decorated veteran of the World War and a clerk in my office, has been convicted of perjury... Mr. Hill is of English ancestry... He had an obsession against our involvement in war.") との声明せいめい発表はっぴょうした。[35]20あいだ陪審ばいしんはヒルに有罪ゆうざい宣告せんこくした。[35]

1942ねん議会ぎかい中間ちゅうかん選挙せんきょまで2週間しゅうかんたないころ、コラムニストのドリュー・ピアソン全米ぜんべい新聞しんぶん配信はいしんされる連載れんさいコラム「ワシントン・メリーゴーラウンド」に、1939ねんにフィッシュがどのようにしてドイツと関係かんけいのあるすじから3100ドルを現金げんきんったのかについての詳細しょうさい記述きじゅつされた。[37]

公民こうみんけん

編集へんしゅう

フィッシュはアフリカけいアメリカじんの(とくぐんにおける)公民こうみんけん賛成さんせいとなつづけた。フィッシュは、はんリンチ法案ほうあん通過つうかさせるため、共和党きょうわとう議員ぎいん北部ほくぶ民主党みんしゅとう議員ぎいんさん協力きょうりょくした。これらの法案ほうあん下院かいん通過つうかするたびに—1922ねん、1937ねん、1940ねん上院じょういん南部なんぶ民主党みんしゅとう議員ぎいん法案ほうあん通過つうか阻止そしし、ほう成立せいりつはばむことに成功せいこうした。[38]

1940ねん、フィッシュは1941ねん軍事ぐんじ歳出さいしゅつ予算よさん法案ほうあん修正しゅうせいくわえることに成功せいこうした。この法律ほうりつ増大ぞうだいする労働ろうどうりょく設備せつび、そしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだい世界せかい大戦たいせん参戦さんせんする可能かのうせいそなえるために資金しきん提供ていきょうすることをふくんでいた。フィッシュのくわえた修正しゅうせいは、軍人ぐんじん選抜せんばつ訓練くんれんにおける人種じんしゅ差別さべつきんじており、これはのちぐん人種じんしゅ差別さべつ廃止はいしみちび重要じゅうよういちだとめられた。[39]

ルーズベルト大統領だいとうりょうは1941ねん一般いっぱん教書きょうしょ演説えんぜつなかよっつの自由じゆう明確めいかくべた。1944ねんにフィッシュは自身じしんだいいち世界せかい大戦たいせん経験けいけんとルーズベルトの「よっつの自由じゆう」がぐんにおいてアフリカけいアメリカじん平等びょうどうあつかうよう提唱ていしょうすることをべたことをおもしながら、下院かいん議員ぎいんつぎのようにべた。「1400まんにん忠誠ちゅうせいしんのあるアメリカじんには「よっつの自由じゆう」の発展はってん戦争せんそうちゅう当然とうぜんあるものとおも権利けんりがあり、かれらの息子むすこたちにも、その歴史れきしじょうもっとおおきなこの戦争せんそうにおいてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくまもるために戦闘せんとう部隊ぶたい訓練くんれんけ、軍役ぐんえきふくし、たたかほかのどのアメリカじんともおな権利けんりあたえられるものである。」 ("Fourteen millions of loyal Americans have the right to expect that in a war for the advancement of the 'Four Freedoms' that their sons be given the same right as any other American to train, to serve, and to fight in combat units in defense of the United States in this greatest war in its history.") [40]

フィッシュを打倒だとうするための英国えいこく宣伝せんでん工作こうさく

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イギリス安全あんぜん保障ほしょう調整ちょうせいきょく英語えいごばん (The British Security Coordination; BSC) は、偽装ぎそう団体だんたい、キャンペーン、実力じつりょく工作こうさくいんとおして、アメリカの連邦れんぽう議会ぎかい下院かいん議員ぎいん影響えいきょうあたえようとこころみる多大ただい努力どりょく焦点しょうてんてた。1940ねんにBSCの工作こうさくいんは、すべての孤立こりつ主義しゅぎしゃ上院じょういん議員ぎいんおよ下院かいん議員ぎいんをひどくこわがらせるために、ハミルトン・フィッシュを打倒だとうするための超党派ちょうとうは委員いいんかい (Nonpartisan Committee to Defeat Hamilton Fish) を運営うんえいした。委員いいんかいはフィッシュの政敵せいてきのためにかなりのがく資金しきん調達ちょうたつし、メディアを使つかった複数ふくすう攻撃こうげきはかり、選挙せんきょ直前ちょくぜん犯行はんこう無実むじつつみせ、忠実ちゅうじつをもってフィッシュを非難ひなんするほん配布はいふした。歴史れきしじょう文書ぶんしょしめすところでは、ほとんどの攻撃こうげきはフィッシュの選挙せんきょそとからしょうじたものであったけれども、委員いいんかい可能かのうかぎりフィッシュへの攻撃こうげきかれ選挙せんきょからしょうじたかのようにえるよう仕向しむけた。フィッシュは1940ねん攻撃こうげきびたが、2ねんまえおこなわれた選挙せんきょくらべて半分はんぶん以下いか得票とくひょうでの勝利しょうりとなった。[41]

戦時せんじ選挙せんきょ

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1942ねん選挙せんきょで、フィッシュは(のかつての孤立こりつ主義しゅぎしゃ同様どうように)よわ立場たちばにあるとみなされた。フィッシュを選出せんしゅつしたオレンジおよびパットナム選挙せんきょは、フィッシュにたいしてはじめた。世論せろん調査ちょうさでは、不正確ふせいかくながら、フィッシュは共和党きょうわとう予備よび選挙せんきょですらてないだろうと予測よそくされた。フィッシュの22年間ねんかん選挙せんきょ運動うんどうはじめて選挙せんきょ事務所じむしょ本部ほんぶひらいた。そのあいだもなくフィッシュは人気にんきのある共和党きょうわとう候補者こうほしゃしゅう知事ちじのトマス・デューイに拒否きょひされた。[42]しかし、1942ねん11月、戦場せんじょうでのきたるべき勝利しょうり有権者ゆうけんしゃのぞんでいたときに選挙せんきょおこなわれ[43]、フィッシュは民主党みんしゅとう候補こうほを4000ひょうやぶった。

しかしながら、1944ねん実施じっしされた議席ぎせきすうさい分配ぶんぱいにより、フィッシュの選挙せんきょであったニューヨーク26区割くわりは再編さいへんされた。同年どうねん、フィッシュはニューヨーク29から立候補りっこうほした。29には、もはやフィッシュの地元じもとであるパットナムぐんふくまれなくなったが、まえ選挙せんきょからオレンジぐん編入へんにゅうされたほか、3つのあたらしいぐんふくまれた。[44]オーガスタス・W・ベネット英語えいごばんがフィッシュをやく5000ひょうやぶった。[45]雑誌ざっし『タイム』の報道ほうどうによれば、「ニューヨークしゅうでは、わがくににとってうれしいことには、狂信きょうしんてきはんルーズベルトの孤立こりつ主義しゅぎしゃハミルトン・フィッシュは24年間ねんかん議員ぎいんであったのち選挙せんきょ結果けっか退しりぞいた。かれ後継こうけいしゃは、リベラルなニューバーグの弁護士べんごしオーガスタス・W・ベネットだ。」 ("In New York, to the nation's delight, down went rabid anti-Roosevelt isolationist Hamilton Fish, after 24 years in Congress. His successor: liberal Augustus W. Bennet, Newburgh lawyer.") [46]

議会ぎかいるにあたって、フィッシュは選挙せんきょのち敗北はいぼく宣言せんげんなかで、「わたし敗北はいぼくは、おそらく25まんドルを上回うわまわるであろうおおくの不正ふせい資金しきんにより支援しえんされたニューヨークから、共産きょうさん主義しゅぎてきあか勢力せいりょく功績こうせきであるとひろしんじられるべきである。」 ("my defeat should be largely credited to Communistic and Red forces from New York City backed by a large slush fund probably exceeding $250,000.") とべた。[45]すう週間しゅうかんにそれをたフィッシュは「わたしかすには、ニューディール政権せいけんのほとんどとモスクワの半分はんぶんと40まんドルとデューイ知事ちじ必要ひつようとした...」 ("It took most of the New Deal Administration, half of Moscow, $400,000, and Governor Dewey to defeat me...") とべた。[47]

選挙せんきょ敗北はいぼくしてにがおもいをしたフィッシュは、すぐにロバート・F・カトラー(政府せいふ委員いいんかい幹事かんじ)を名誉めいよ毀損きそん告訴こくそし、フィッシュがナチのシンパであるかのように描写びょうしゃした広告こうこくたいする損害そんがい賠償金ばいしょうきんとして25まんドルをもとめた。その広告こうこくには、フィッシュがアメリカの指導しどうしゃ ("American Führer") フリッツ・クーン関連かんれんがあるような描写びょうしゃもあった。フィッシュはその和解わかいなしでこの訴訟そしょうげることになる。[48]

議員ぎいん退任たいにん

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フィッシュは真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき復讐ふくしゅうのために陸軍りくぐん志願しがんするつもりだと1941ねん12月8にちちかったのであったが[49]、フィッシュはだい世界せかい大戦たいせんには参加さんかしなかった。当時とうじフィッシュはすでに53さいであった。

フィッシュはだいいち世界せかい大戦たいせん小史しょうし自叙伝じじょでんHamilton Fish: Memoir of an American Patriot』をき、自身じしん死後しごあいだもなく出版しゅっぱんした。フィッシュはながきにわたり様々さまざま政治せいじ復員ふくいん軍人ぐんじん機能きのう精通せいつうした演説えんぜつである一方いっぽうで、つかれをらない旅人たびびとでもあった。フィッシュはしばしばそれをくるまおこなうことでられた。ほとんどいつもフィッシュはそのような演説えんぜつつぎのような言葉ことばめくくった。「もしも価値かちのあるくにがあるとしたら、もしもそのためにたたか価値かちのあるくにがあるとしたら、そして、もしもそのために価値かちのあるくにがあるとしたら、それはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくである。」 ("If there is any country worth living in, if there is any country worth fighting for, and if there is any country worth dying for, it is the United States of America.") 1958ねんにフィッシュは、両方りょうほう世界せかい大戦たいせんにおいてフランスで軍役ぐんえきふくしたアメリカの将校しょうこうかれらの子孫しそんでつくる、世襲せしゅう愛国あいこくてき団体だんたいとしてオーダー・オブ・ラファイエット (Order of Lafayette創設そうせつし、フィッシュはオーダーの初代しょだい総裁そうさい就任しゅうにんした。

ハミルトン・フィッシュ3せいは、1981ねんウォーレン・ベイティ監督かんとく主演しゅえんさく映画えいがレッズ」に出演しゅつえんした目撃もくげきしゃやく)の一人ひとりであった。この映画えいがは、ジャーナリストのジョン・リード生涯しょうがいと、ロシア共産きょうさん主義しゅぎ国家こっかソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう建国けんこくみちびくことになった1917ねんじゅうがつ革命かくめいあいだかれ数々かずかず体験たいけんえがいた作品さくひんである。映画えいが製作せいさく一環いっかんとして、制作せいさくはんは1970年代ねんだいに1917ねん出来事できごと目撃もくげきした複数ふくすう個人こじんにインタビューをおこなった。それらのインタビューは、場所ばしょ出来事できごと描写びょうしゃ場面ばめんあいだ橋渡はしわたしのために映画えいが全編ぜんぺんとおして使用しようされた。[50]

ハミルトン・フィッシュは90だいになるまで保守ほしゅけいサークルで意欲いよくてき活動かつどうつづけた。1988ねんまごハミルトン・フィッシュ5せい英語えいごばんがウエストチェスターぐん選挙せんきょから民主党みんしゅとう候補者こうほしゃとして出馬しゅつばしたときには、まご共産きょうさん主義しゅぎしゃだとしてあざけり、おな選挙せんきょせんたたかっていた共和党きょうわとう候補こうほに100ドルを寄付きふした。

フィッシュは1991ねん1がつ18にちにニューヨークしゅうコールドスプリングにて死去しきょした。そして、ニューヨークしゅうギャリソンのセント・フィリップス・チャーチ・セメテリー (Saint Philip's Church Cemetery) に埋葬まいそうされた。

先祖せんぞ子孫しそん

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かれ直系ちょっけい家系かけいでは3代目だいめのハミルトン・フィッシュであったが、かれちちかれ息子むすこ同様どうように、連邦れんぽう議会ぎかい議員ぎいん在職ざいしょくちゅうはハミルトン・フィッシュ・ジュニア (Hamilton Fish, Jr.) としてられていた。また、かれまごもハミルトン・フィッシュ3せい (Hamilton Fish III) としてられており、1994ねんにハミルトン・フィッシュ・ジュニア (Hamilton Fish, Jr.) として連邦れんぽう議会ぎかい議員ぎいん立候補りっこうほして落選らくせんするまえは、リベラル雑誌ざっしThe Nation英語えいごばん』の編集へんしゅう発行はっこうじんであった。このまごハミルトン・フィッシュ5せい (Hamilton Fish Vとして言及げんきゅうされることもある。1988ねん9がつ9にちにハミルトン・フィッシュ3せいは、かれにとって4にんつまであり最後さいごつまとなるリディア・アンブロジオ・フィッシュ (Lydia Ambrogio Fish) と結婚けっこんし、かれくなるまで夫婦ふうふでありつづけた。リディアは2015ねん1がつ12にちにニューヨークしゅうポート・ジャービスにて死去しきょした。[51]

著作ちょさく

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日本語にほんご文献ぶんけん

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  • 青柳あおやぎ武彦たけひこ 『ルーズベルトはべい国民こくみん裏切うらぎ日本にっぽん戦争せんそうきずりんだ』 ハート出版しゅっぱん, 2017、普及ふきゅうばん2024
    • 著作ちょさく解説かいせつ副題ふくだいに、アメリカ共和党きょうわとうもと党首とうしゅ[注釈ちゅうしゃく 1]H・フィッシュがあば日米にちべいせん真相しんそう
  • ジェフリー・レコード 『アメリカはいかにして日本にっぽんめたか 「米国べいこく陸軍りくぐん戦略せんりゃく研究所けんきゅうじょレポート」から日米にちべい開戦かいせん渡辺わたなべそうじゅやく解説かいせつくさおもえしゃ, 2013/くさおもえしゃ文庫ぶんこ, 2017
  • ジョージ・モーゲンスターン 『真珠湾しんじゅわん 日米にちべい開戦かいせん真相しんそうとルーズベルトの責任せきにん渡邉わたなべあきらやくにしきせいしゃ, 1999

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ この文献ぶんけんに「もと党首とうしゅ」とあるが、ハミルトン・フィッシュ3せいは、共和党きょうわとう党首とうしゅとされる共和党きょうわとう全国ぜんこく委員いいんちょう就任しゅうにんしたことはなく、また下院かいんにおける共和党きょうわとうのリーダーである院内いんない総務そうむにも就任しゅうにんしたこともない。

出典しゅってん

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外部がいぶリンク

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