子どもの頃、フィッシュはジュネーブに近いスイスの学校シャトー・ド・ランシー (Chateau de Lancy) に通った。この学校はフィッシュの父も1860年に通っていた学校であった。そこでは、(息子の)フィッシュはフランス語を学び、サッカーをした。夏は家族と一緒にバイエルン州で過ごした。マサチューセッツ州サウスボロ(英語版)にあるフェイ・スクール(英語版)というアメリカの全寮制学校の教育を受け始めたが、その後は共に同じサウスボロにあったセント・マークス・スクール(英語版)とプレップ校に通った。フィッシュは後に自身を"B学生"であったと自叙しているが、複数の異なるスポーツで成功した。[5]
フィッシュと部隊は12月26日にフランスのブレストに上陸した。第369連隊は、アメリカ合衆国のジョン・パーシング将軍により、フランス陸軍の指揮下に置かれた。[15]総じて、第369連隊は191日間を前線で過ごしたが、これは他のどのアメリカの連隊よりも長かった。また、連合国として最初にライン川に到達した連隊でもあった。フィッシュはシルバースターとフランスの戦功十字章 (Croix de Guerre) を受章した。[16]加えて、フィッシュと、前線近くで看護婦として働いた姉のジャネット・フィッシュの二人は、その戦時の活躍を讃えて、後にレジオンドヌール勲章を受章した。[17]
1920年12月21日、ハミルトン・フィッシュ議員は第66議会に67号決議案を提出した。この決議案は、第一次世界大戦中にフランスで戦死した無名のアメリカ人戦士の遺骨をアメリカ合衆国に返還すること、及びその遺骨を首都ワシントンD.C.からポトマック川を越えた所にあるバージニア州のアーリントン国立墓地のメモリアル・アンフィシアターの外側に建設されることになる神聖な墓に埋葬することを認めるものであった。連邦議会はこの決議案を1921年3月4日に承認した。1921年10月23日、フランスのパリから約90マイルの所にあるシャロン=シュル=マルヌにて、フランスで戦死した無名のアメリカ人戦士の遺骨を収めていた4つの棺の中から無名戦士の遺骨が収集された。収集された遺骨はアメリカ合衆国に返還され、1921年11月11日に厳かな儀式の中、連邦議会議事堂で第一次世界大戦の無名戦士が正装安置され、国葬の葬列の後に、アーリントンの墓地に埋葬された。墓は1937年に完成し、無名戦士の墓 (The Tomb of the Unknowns) として知られるようになり、今日ではアメリカ陸軍のアメリカ合衆国第3歩兵連隊(英語版)(通称:オールド・ガード; The Old Guard)の中から選り抜かれた歩哨が日々24時間体制で墓を守っている。その墓及びそこに眠る無名戦士たちは、今日ではアメリカ合衆国内で最も神聖な軍用地と考えられており、それはおそらく国家に対するフィッシュの最大の遺産であろうと思われる。
ハミルトン・フィッシュは熱心な反共主義者であった。1931年の記事では、フィッシュは共産主義について「世界で最も重要で、最も不可欠で、最も遠くまで及び、そして最も危険な問題」 ("the most important, the most vital, the most far-reaching, and the most dangerous issue in the world") と記し、アメリカ合衆国内の広範囲にわたり共産主義者の影響があると信じていた。[24]
1930年5月5日、フィッシュは下院に180号決議案を提出した。その内容は、アメリカ合衆国内において共産主義者の活動を調査するための委員会の設置を提案するものであった。その結果として生じた委員会は、一般的にはフィッシュ委員会 (the Fish Committee) として知られ、アメリカ合衆国内で共産主義者の活動に関与または活動を支援している疑いのある人物や組織の広範囲に及ぶ調査に着手した。この委員会の調査対象には、アメリカ自由人権協会及び共産党の大統領候補者ウィリアム・Z・フォスター(英語版)も含まれていた。[25]委員会は、共産主義者を調査し、入国管理と国外追放に関係する法律を強化して共産主義者をアメリカ合衆国から締め出すために、アメリカ合衆国司法省により大きな権限を与えることを勧告した。[26]
1933年、フィッシュが委員会の一員であったとき、委員会はアドルフ・エールトによる『Communism in Germany』(原題:Bewaffneter Aufstand!)というナチの本の翻訳物のアメリカ合衆国での出版を後援した。その前書きでは、委員会が反ユダヤ主義あるいはナチ体制を擁護することになるとして、それを出版しなかったと(委員会は)言った。しかし、これは委員会がナチスとドイツの共産主義者の間の闘争は共産主義から防御するための"効果的な対策"を使用することについての教訓を提供してくれたと信じていたからである。その本は、ユダヤ人はドイツにおける共産主義に責任があるとし、アドルフ・ヒトラーだけがそれを止めることができると主張している。アメリカ系ユダヤ人とリベラル派の団体からの圧力がある中で、フィッシュと他の委員会メンバーは、その本について否認した。[27][28]また、フィッシュは長く誤りが指摘されてきた『シオン賢者の議定書』を自身の議会事務所から配布した。[29]
1940年の大統領選挙の直後、フィッシュはルーズベルトに打った電報の中で次のように述べた。「おめでとう。私は国防のために支援することを固く誓う...そしてアメリカが外国の戦争に関わらないためにも。」 ("Congratulations. I pledge my support for national defense... and to keep America out of foreign wars.") [34]
1941年、アメリカ合衆国におけるナチの諜報員の活動を調査していた司法委員会は、連邦議会議員の孤立主義者による演説内容が中に記された(議員特権として無料で送達される)議会郵便物の入った8つのかばんを押収するために、ワシントンの反英国組織 (Islands for War Debts Committee) の本部に職員を派遣した。フィッシュの首席補佐官であったジョージ・ヒルは、職員が到着する直前に郵便物をフィッシュの事務所の収納庫に持ち去った。[35]
起訴から間もなく、フィッシュはヒルを弁護して次のように主張した。「ジョージ・ヒルは100% O.K.であり、私はジョージ・ヒルを何であれ限界まで支援する。」 ("George Hill is 100% O.K., and I'll back George Hill to the limit on anything.") [35]裁判中、ヒルはヴィエレックが1940年にキャピトル・ヒルを訪れ、政権の外交政策を痛烈に批判する議会演説の大規模な分配のために段取りをつけたことを説明した。[36]聴聞会の後、陪審は評決に至り、有罪判決が予期されたため、フィッシュは「障害を負い、勲章を受けた第一次世界大戦の従軍兵であり、私の事務所で事務員だったジョージ・ヒルが偽証罪で有罪判決を受けたことを知り、大変残念に思います...ヒル氏はイングランドの家系で...彼は我々の戦争への関与に対して執念を持っていました。」 ("I am very sorry to learn that George Hill, a disabled, decorated veteran of the World War and a clerk in my office, has been convicted of perjury... Mr. Hill is of English ancestry... He had an obsession against our involvement in war.") との声明を発表した。[35]20時間後、陪審はヒルに有罪を宣告した。[35]
ルーズベルト大統領は1941年の一般教書演説の中で四つの自由 を明確に述べた。1944年にフィッシュは自身の第一次世界大戦の経験とルーズベルトの「四つの自由」が軍においてアフリカ系アメリカ人を平等に扱うよう提唱することを述べたことを思い出しながら、他の下院議員に次のように述べた。「1400万人の忠誠心のあるアメリカ人には「四つの自由」の発展が戦争中に当然あるものと思う権利があり、彼らの息子たちにも、その歴史上最も大きなこの戦争においてアメリカ合衆国を守るために戦闘部隊で訓練を受け、軍役に服し、戦う他のどのアメリカ人とも同じ権利が与えられるものである。」 ("Fourteen millions of loyal Americans have the right to expect that in a war for the advancement of the 'Four Freedoms' that their sons be given the same right as any other American to train, to serve, and to fight in combat units in defense of the United States in this greatest war in its history.") [40]
イギリス安全保障調整局(英語版) (The British Security Coordination; BSC) は、偽装団体、キャンペーン、実力派の工作員を通して、アメリカの連邦議会下院議員に影響を与えようと試みる多大な努力に焦点を当てた。1940年にBSCの工作員は、すべての孤立主義者の上院議員及び下院議員をひどく怖がらせるために、ハミルトン・フィッシュを打倒するための超党派委員会 (Nonpartisan Committee to Defeat Hamilton Fish) を運営した。委員会はフィッシュの政敵のためにかなりの額の資金を調達し、メディアを使った複数の攻撃を図り、選挙の直前に犯行の無実の罪を着せ、不忠実をもってフィッシュを非難する本の配布に手を貸した。歴史上の文書が示すところでは、ほとんどの攻撃はフィッシュの選挙区の外から生じたものであったけれども、委員会は可能な限りフィッシュへの攻撃が彼の選挙区から生じたかのように見えるよう仕向けた。フィッシュは1940年の攻撃を生き延びたが、2年前に行われた選挙と比べて半分以下の得票差での勝利となった。[41]
しかしながら、1944年に実施された議席数の再分配により、フィッシュの選挙区であったニューヨーク26区の区割りは再編された。同年、フィッシュはニューヨーク29区から立候補した。29区には、もはやフィッシュの地元であるパットナム郡は含まれなくなったが、前の選挙区からオレンジ郡が編入されたほか、3つの新しい郡が含まれた。[44]オーガスタス・W・ベネット(英語版)がフィッシュを約5000票差で破った。[45]雑誌『タイム』の報道によれば、「ニューヨーク州では、わが国にとってうれしいことには、狂信的な反ルーズベルトの孤立主義者ハミルトン・フィッシュは24年間議員であった後(選挙の結果)退いた。彼の後継者は、リベラルなニューバーグの弁護士オーガスタス・W・ベネットだ。」 ("In New York, to the nation's delight, down went rabid anti-Roosevelt isolationist Hamilton Fish, after 24 years in Congress. His successor: liberal Augustus W. Bennet, Newburgh lawyer.") [46]
議会を去るにあたって、フィッシュは選挙の後の敗北宣言の中で、「私の敗北は、おそらく25万ドルを上回るであろう多くの不正資金により支援されたニューヨーク市から、共産主義的な赤の勢力の功績であると広く信じられるべきである。」 ("my defeat should be largely credited to Communistic and Red forces from New York City backed by a large slush fund probably exceeding $250,000.") と述べた。[45]数週間後にそれを見たフィッシュは「私を打ち負かすには、ニューディール政権のほとんどとモスクワの半分と40万ドルとデューイ知事を必要とした...」 ("It took most of the New Deal Administration, half of Moscow, $400,000, and Governor Dewey to defeat me...") と述べた。[47]
フィッシュは第一次世界大戦の小史と自叙伝『Hamilton Fish: Memoir of an American Patriot』を書き、自身の死後間もなく出版した。フィッシュは長きにわたり様々な政治と復員軍人の機能に精通した演説家である一方で、疲れを知らない旅人でもあった。フィッシュはしばしばそれを車で行うことで知られた。ほとんどいつもフィッシュはそのような演説を次のような言葉で締めくくった。「もしも住む価値のある国があるとしたら、もしもそのために戦う価値のある国があるとしたら、そして、もしもそのために死ぬ価値のある国があるとしたら、それはアメリカ合衆国である。」 ("If there is any country worth living in, if there is any country worth fighting for, and if there is any country worth dying for, it is the United States of America.") 1958年にフィッシュは、両方の世界大戦においてフランスで軍役に服したアメリカの将校と彼らの子孫でつくる、世襲の愛国的な団体としてオーダー・オブ・ラファイエット (Order of Lafayette) を創設し、フィッシュはオーダーの初代総裁に就任した。