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野村吉三郎 - Wikipedia

野村のむら吉三郎きちさぶろう

日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん外交がいこうかん政治せいじ

野村のむら 吉三郎きちさぶろう(のむら きちさぶろう、1877ねん明治めいじ10ねん12月16にち - 1964ねん昭和しょうわ39ねん5月8にち)は、昭和しょうわ初期しょき活躍かつやくした海軍かいぐん軍人ぐんじん外交がいこうかん政治せいじ海兵かいへい26次席じせき位階いかい勲功くんこうとう海軍かいぐん大将たいしょうしたがえ勲一等くんいっとうこうきゅう

野村のむら 吉三郎きちさぶろう
のむら きちさぶろう
阿部あべ内閣ないかく外務がいむ大臣だいじんむかえられ
記者きしゃだんまえ抱負ほうふかた野村のむら(1939ねん9がつ26にち
生年月日せいねんがっぴ 1877ねん12月16にち
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん和歌山わかやまけん和歌山わかやま
ぼつ年月日ねんがっぴ (1964-05-08) 1964ねん5月8にち(86さいぼつ
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん東京とうきょう新宿しんじゅく
出身しゅっしんこう 海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業そつぎょう
ぜんしょく 学習がくしゅういん院長いんちょう
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞくだいじゅうなな控室ひかえしつ自由民主党じゆうみんしゅとう
称号しょうごう 海軍かいぐん大将たいしょう
したがえ
勲一等くんいっとう旭日きょくじつきりはなだい綬章じゅしょう
こうきゅう金鵄勲章きんしくんしょう
サイン

内閣ないかく 阿部あべ内閣ないかく
在任ざいにん期間きかん 1939ねん9月25にち - 1940ねん1がつ16にち

選挙せんきょ 和歌山わかやま地方区ちほうく
当選とうせん回数かいすう 2かい
在任ざいにん期間きかん 1954ねん6月3にち - 1964ねん5月8にち

在任ざいにん期間きかん 1944ねん5月18にち - 1946ねん6月13にち

その職歴しょくれき
だい2だい 自由民主党じゆうみんしゅとう参議院さんぎいん議員ぎいん会長かいちょう
総裁そうさい石橋いしばし湛山たんざんきし信介しんすけ
1956ねん - 1957ねん
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野村のむら 吉三郎きちさぶろう
のむら きちさぶろう
所属しょぞく組織そしき 大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1898ねん - 1937ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
指揮しき だいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん
鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん
横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん
戦闘せんとう 上海しゃんはい事変じへん
除隊じょたい 学習がくしゅういん院長いんちょう
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和歌山わかやまけん和歌山わかやま出身しゅっしん国際こくさいほう権威けんいとしてられ、阿部あべ内閣ないかく外務がいむ大臣だいじんをつとめたのち、だい近衛このえないかくのとき駐米ちゅうべい大使たいしにんじられ、真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきまで日米にちべい交渉こうしょう奔走ほんそうして戦争せんそう回避かいひ模索もさくした。

生涯しょうがい

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海軍かいぐん軍人ぐんじん時代じだい

編集へんしゅう

きゅう紀州きしゅうはん増田ますだ喜三郎きさぶろう三男さんなんとして和歌山わかやまけんめいくさぐんげん和歌山わかやま西釘貫丁にしくぎぬきちょう)でまれ、野村のむら正胤まさたね養子ようしとなる。1895ねん明治めいじ28ねん)、和歌山わかやま中学校ちゅうがっこうげん県立けんりつきりかげ高校こうこう)を修了しゅうりょう上京じょうきょう海軍かいぐんしょ学校がっこうへの予備校よびこうであった私立しりつ海軍かいぐん予備校よびこう現在げんざいうみじょう中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう)でまなび、海軍兵学校かいぐんへいがっこう261898ねん明治めいじ31ねん))卒業そつぎょう次席じせき[1][2])。以後いご海軍かいぐん軍人ぐんじんとしての経歴けいれきあゆむ。 海兵かいへい教官きょうかん、「千歳ちとせ航海こうかいちょうなどを歴任れきにんしたのち1901ねん明治めいじ34ねん)に完成かんせいした戦艦せんかん三笠みかさ引取ひきとりのためにイギリスわたったのをはじめ、オーストリアドイツ駐在ちゅうざいて、ざいアメリカ日本にっぽん大使館たいしかん駐在ちゅうざい武官ぶかん歴任れきにんしたほか、パリ講和こうわ会議かいぎワシントン軍縮ぐんしゅく会議かいぎ全権ぜんけんだん随員ずいいんとしてくわわるなど、海外かいがい経験けいけん豊富ほうふであった。のちアメリカ大統領だいとうりょうとなるフランクリン・ルーズベルト海軍かいぐん次官じかん海外かいがい政治せいじとも親交しんこうがあった。やがて1926ねん大正たいしょう15ねん)には軍令ぐんれい次長じちょうとなり、以後いご横須賀よこすかりょう鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんなどを歴任れきにんした。

1932ねん昭和しょうわ7ねん)にだいいち上海しゃんはい事変じへん勃発ぼっぱつすると、だいさん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんとなっていた野村のむらは、揚子江ようすこううえ軍艦ぐんかんによるかんほう射撃しゃげきなどで白川しらかわ義則よしのり陸軍りくぐん大将たいしょうひきいる陸軍りくぐん上海しゃんはい派遣はけんぐん側面そくめん支援しえんした。上海しゃんはい事変じへん終結しゅうけつした4がつ29にち同地どうちもよおされた天長節てんちょうせつ祝賀会しゅくがかい最中さいちゅう上海しゃんはい天長節てんちょうせつばくだん事件じけんこる。紅白こうはくまく雛壇ひなだんなら日本にっぽん要人ようじんたいし、韓国かんこく独立どくりつ運動うんどうであるいんたてまつきちばくだんげつけたもの。この事件じけん野村のむらみぎ失明しつめい特命とくめい全権ぜんけん公使こうし重光しげみつまもるみぎあしうしない、同席どうせきしていた白川しらかわ瀕死ひんし重傷じゅうしょうって翌月よくげつ死去しきょした。

 
上海しゃんはい天長節てんちょうせつばくだん事件じけん野村のむら

きずえた野村のむらは、同年どうねん10がつから2かい横須賀よこすか鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんつとめ、よく1933ねん昭和しょうわ8ねん)3がつ大将たいしょう親任しんにんされ、同年どうねん11がつ軍事ぐんじ参議さんぎかんてんじる。よく1934ねん昭和しょうわ9ねん)に勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう受章じゅしょう

1935ねん昭和しょうわ10ねん)9がつだいよん艦隊かんたい事件じけん発生はっせいすると、同年どうねん10がつ1にち組織そしきされた査問さもん委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにんした[3]

海軍かいぐんだい学校がっこう受験じゅけんについて

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野村のむら海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせい履歴りれきたない[2]帝国ていこく海軍かいぐん海軍かいぐん大将たいしょうのうち、昭和しょうわはいってから海軍かいぐん大将たいしょう親任しんにんされたもの32めいのうち、うみだい甲種こうしゅ学生がくせい履歴りれきたないのは野村のむらふくめ3めいのみである[2]。これについて、野村のむらが「うみだいったって、だれおれおしえるというんかい[2]」と豪語ごうごして、うみだい甲種こうしゅ学生がくせい入校にゅうこう試験しけんけなかったためである[4]、という有名ゆうめい挿話そうわがある[2][4][5]。しかし実際じっさいには、野村のむら1907ねん明治めいじ40ねん)にうみだい甲種こうしゅ学生がくせい受験じゅけんし、優秀ゆうしゅう成績せいせき合格ごうかくしていた[2]海外かいがい海軍かいぐん士官しかん派遣はけんする予算よさんにたまたま余裕よゆうがあったため[2]野村のむらがオーストリアに派遣はけんされることとなり[2][5]野村のむらうみだい入校にゅうこう沙汰止さたやみとなったものである[2]

学習がくしゅう院長いんちょうとして

編集へんしゅう

1937ねん昭和しょうわ12ねん)、学習がくしゅう院長いんちょう荒木あらき寅三郎とらさぶろう辞意じい表明ひょうめい。3ねん皇太子こうたいし入学にゅうがくひかえており、後任こうにん人選じんせん難航なんこうしたが、上海しゃんはい事変じへんなどで武勲ぶくんかさねた野村のむら白羽しらはった。同年どうねん4がつ6にち予備よびやくりをってだい16だい学習がくしゅう院長いんちょう発令はつれい[6]海軍かいぐん大将たいしょう経験けいけんしゃ学習がくしゅう院長いんちょうはつ院長いんちょうは1939ねん昭和しょうわ14ねん)10がつ7にちまでつとめた。後任こうにんおな海軍かいぐん大将たいしょう経験けいけんしゃ山梨やまなし勝之かつゆきすすむ

外交がいこうかんとして

編集へんしゅう
 
信任しんにんじょう奉呈ほうていのためホワイトハウスおとずれる野村のむら駐米ちゅうべい大使たいし(1941ねん2がつ14にち

1939ねん昭和しょうわ14ねん)8がつまつ予備よびやく陸軍りくぐん大将たいしょう阿部あべ信行のぶゆき組閣そかく大命たいめいけると、阿部あべ当初とうしょ外務がいむ大臣だいじん兼任けんにんしたが、政権せいけん発足ほっそく直後ちょくご欧州おうしゅうだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、国際こくさいほうくわしい専任せんにん外相がいしょうがどうしても必要ひつようになった。そこで阿部あべ抜擢ばってきしたのが野村のむらだった。海軍かいぐん時代じだいから国際こくさいほう研究けんきゅうたずさわっていた野村のむらは、退官たいかんするころまでにはその権威けんいとしてられていたのである。しかし9月25にち野村のむら外相がいしょう就任しゅうにんするが、3かげつはんたないうちに阿部あべ内閣ないかくほうしてしまう。その日米にちべい関係かんけい悪化あっか一途いっとをたどるなか1941ねん昭和しょうわ16ねん)1がつ野村のむら駐米ちゅうべい大使たいし起用きようされる。フランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうとは旧知きゅうち間柄あいだがらということが期待きたいされての人事じんじだった。

ざいアメリカ大使館あめりかたいしかん駐在ちゅうざい武官ぶかん経験けいけんはあるものの、英語えいごはあまり流暢りゅうちょうではなく、アメリカ政府せいふ要人ようじんとの外交がいこう交渉こうしょう野村のむら英語えいごりょくがネックになることさえあったとされる[7]日本にっぽん南部なんぶふつしるし進駐しんちゅうによってアメリカとの関係かんけいがさらに悪化あっかすると、外務省がいむしょうちゅうどく大使たいし歴任れきにんした外交がいこうかん来栖くるす三郎さぶろう異例いれいの「二人ふたり大使たいし」としてワシントン派遣はけんりょう大使たいしでアメリカのコーデル・ハル国務こくむ長官ちょうかん戦争せんそう回避かいひのための交渉こうしょうおこなわせることにした。

来栖くるす外務省がいむしょう入省にゅうしょう直後ちょくごからアメリカ勤務きんむながく、夫人ふじんはアメリカじんで、英語えいご非常ひじょう堪能かんのうなアメリカ専門せんもんであったが、如何いかんせんちゅうどく大使たいしとしてナチス・ドイツおよびイタリア王国おうこくとのにちどくさんこく同盟どうめい署名しょめいした張本人ちょうほんにんであり、ルーズベルト大統領だいとうりょうおな海軍かいぐん出身しゅっしん旧知きゅうち間柄あいだがらである野村のむら好意こういてき一方いっぽう来栖くるすには不信ふしんかんかくさなかった。交渉こうしょう難航なんこうし、野村のむら再三さいさんにわたって辞職じしょくねがいをすが、外務がいむ大臣だいじんばかりか海軍かいぐん大臣だいじん軍令ぐんれい総長そうちょうからも慰留いりゅうされて結局けっきょく大使たいし立場たちばにとどまっている[8]

 
真珠湾しんじゅわん攻撃こうげき直前ちょくぜんハル国務こくむ長官ちょうかん最後さいご会談かいだんのぞ野村のむら大使たいし来栖くるす大使たいし(1941ねん12月7にち

野村のむらはかねてから「アメリカの挑発ちょうはつがないかぎり、日本にっぽん戦争せんそうこさない」と言明げんめいしていたが、中国ちゅうごくからの日本にっぽんぐん全面ぜんめん撤退てったいにちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめい破棄はき蔣介せきひきいる重慶たーちん国民こくみん政府せいふ以外いがい否認ひにんもとめるハル・ノート最後さいご通牒つうちょうった日本にっぽんは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくイギリスおよびオランダひとし連合れんごうこくてき相手あいてとする太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう)に突入とつにゅうすることを決定けっていするが、日米にちべい交渉こうしょうはその継続けいぞくしておこなわれた。

アメリカ東部とうぶ時間じかん1941ねん昭和しょうわ16ねん12月7にち日本にっぽん時間じかん12月8にち)、日本にっぽんマレー作戦さくせん真珠湾しんじゅわん作戦さくせんべいえいらん開戦かいせんした。日米にちべい交渉こうしょううら戦争せんそう準備じゅんび着々ちゃくちゃくすすめていたことにたいして、「卑怯ひきょうだまちだ」とわれ、はりのむしろにすわるようなおもいでその半年はんとしをワシントンD.C.でごす。抑留よくりゅうしゃ交換こうかんせんニューヨークからリオデジャネイロロレンソマルケス昭南しょうなん日本にっぽんもどったのは翌年よくねん8がつ中頃なかごろのことだった。帰国きこく枢密すうみつ顧問こもんかんてんじ、そのまま1945ねん昭和しょうわ20ねん8がつ15にち敗戦はいせん日本にっぽん降伏ごうぶく)をむかえる。

 
日本にほんビクター社長しゃちょう時代じだい野村のむら(1953ねん4がつ

終戦しゅうせん1946ねん昭和しょうわ21ねん)8がつに、野村のむら公職こうしょく追放ついほうとなるが、アメリカたいにち協議きょうぎかい[9]面々めんめん[10]積極せっきょくてき野村のむらちかづき、定期ていきてきに(違法いほうではあるが)食料しょくりょう煙草たばこおくり、経済けいざいてきくるしい野村のむら便宜べんぎはかった。メンバーの一人ひとりであるウィリアム・リチャーズ・キャッスルは、野村のむらを「日本にっぽんただしい道筋みちすじで、ふたた重要じゅうよう国家こっかとなるように再建さいけんするのに役立やくだ人物じんぶつ一人ひとりだ」とひょうした。

1953ねん昭和しょうわ28ねん3月24にち同郷どうきょう松下まつした幸之助こうのすけわれ、松下電器産業まつしたでんきさんぎょうげんパナソニック)の資本しほん傘下さんかとなった日本にほんビクターげんJVCケンウッド)の社長しゃちょう就任しゅうにん空襲くうしゅうによる会社かいしゃ工場こうじょう施設しせつ焼失しょうしつ戦後せんご労働ろうどう争議そうぎなどでの危機ききてき経営けいえいそうせい親会社おやがいしゃ疎遠そえんとなっていたアメリカRCA技術ぎじゅつ支援しえん契約けいやくむす再建さいけん道筋みちすじをつける。

追放ついほう解除かいじょともない、吉田よしだしげる要請ようせいさい軍備ぐんび問題もんだい調査ちょうさにあたり、海上かいじょう自衛隊じえいたい前身ぜんしん海上かいじょう警備けいびたい創設そうせつふかかかわる。これがえん1954ねん昭和しょうわ29ねん)のだい3かい参議院さんぎいん議員ぎいん補欠ほけつ選挙せんきょ和歌山わかやま地方区ちほうく)に出馬しゅつば当選とうせんし、参議院さんぎいん議員ぎいんとなる。つづだい5かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ和歌山わかやま地方区ちほうく)にも当選とうせんした。

自由民主党じゆうみんしゅとう参加さんかして、防衛ぼうえい政策せいさく担当たんとうしたほかは、外交がいこう調査ちょうさかい会長かいちょうつとめ、松野まつのづるひらた参議院さんぎいん議長ぎちょう就任しゅうにんともなとう参議院さんぎいん議員ぎいん会長かいちょう就任しゅうにんした。鳩山はとやま内閣ないかくきし内閣ないかく防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかんへの起用きよう沙汰ざたされたが、日本国にっぽんこく憲法けんぽうにおける文民ぶんみん統制とうせい観点かんてんから見送みおくりになった。その人事じんじではきゅうぐん自衛隊じえいたい士官しかん経験けいけんしゃ防衛庁ぼうえいちょう長官ちょうかん防衛ぼうえい大臣だいじん誕生たんじょうしているが(中曽根なかそね康弘やすひろ山下やました元利がんり中谷なかたにはじめなど)、当時とうじとしては時期じき尚早しょうそうで、なによりも野村のむらきゅう海軍かいぐん軍人ぐんじんとして大物おおものぎたこと、そして日米にちべい開戦かいせん駐米ちゅうべい大使たいしとしてあまりにも有名ゆうめいでありすぎたことがぎゃくたた結果けっかとなった。

1964ねん昭和しょうわ39ねん5月8にち東京とうきょう新宿しんじゅく国立こくりつ東京とうきょうだいいち病院びょういん病死びょうし。86さいぼつ墓所はかしょ文京ぶんきょう護国寺ごこくじ戒名かいみょうは『玄海げんかいいん殿どの寿ことぶき峯吉みねきちおうだい居士こじ』。

CIAとの関係かんけい

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有馬ありま哲夫てつおは、野村のむらCIA協力きょうりょくしゃであったとしている[11]。1954ねん参院さんいんせんでは、CIAが資金しきん提供ていきょうおよび選挙せんきょ対策たいさく支援しえんしており、CIA日本にっぽん支局しきょくちょうポール・ブルーム当選とうせん祝福しゅくふくする手紙てがみおくっている[11]。なお、選挙せんきょ資金しきんは、藤村ふじむら義朗よしろうもと海軍かいぐん中佐ちゅうさ管理かんりした[11]。また、野村のむらアレン・ダレスとの連絡れんらくやくだったアメリカたいにち協議きょうぎかいのハリー・カーン(『ニューズウィーク』外信がいしん記者きしゃ)は、CIAにも関係かんけいしていた国務省こくむしょう企画きかく部長ぶちょうフランク・ウィズナーに、野村のむらをポスト吉田よしだ首相しゅしょう候補こうほとみなしてその当選とうせんよろこんだ[11]。また、「われわれの機関きかん政治せいじ問題もんだい情報じょうほう提供ていきょうしゃだった」として、野村のむらがCIAや国務省こくむしょうへの情報じょうほう提供ていきょうしゃであることを報告ほうこくした[11]

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
  • 学習がくしゅういん院長いんちょうだった1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつに、華族かぞく子息しそくである中等ちゅうとう3ねん生徒せいと5にんが、日頃ひごろから自分じぶんたち素行そこうわるさを注意ちゅういしていた化学かがく教師きょうし逆恨さかうらしたことから、廊下ろうかあるいていた教師きょうしをめがけていしげつけただけでなく、倉庫そうこげた教師きょうしいかけて、さら投石とうせきによって倉庫そうこまどガラスをなんじゅうまいるという事件じけんこした。しかし野村のむら「なかなか元気げんきのいいことをやったな」っただけで、1週間しゅうかん停学ていがく処分しょぶんだけでました。
  • 戦後せんご1953ねん昭和しょうわ28ねん)より、同郷どうきょう知人ちじん松下まつした幸之助こうのすけ要請ようせいけて、日本にほんビクター社長しゃちょうつとめたが、松下まつしたによると野村のむらは「美空みそらひばりらなかった」という。
  • 練習れんしゅう艦隊かんたい司令しれいかんだった遠洋えんよう航海こうかいサンフランシスコったさい現地げんち日系にっけいじんから「まんいち日米にちべい戦争せんそうになったとき我々われわれはどうするべきか」という質問しつもんがあがった。当然とうぜん日本にっぽん忠誠ちゅうせいくすべしとのこたえを期待きたいしていたのだが、野村のむらは「きみたちはアメリカ国籍こくせきなのだから、立派りっぱなアメリカじんとしてアメリカに忠誠ちゅうせいくせ。それが大和やまと民族みんぞくただしいみちというものだ」とこたえた。それを少尉しょうい候補こうほせいとしていていた関野せきの英夫ひでお感動かんどうして戦後せんごずっとこのはなしをしていたという。
  • 駐米ちゅうべい大使たいしとしてアメリカへかう鎌倉かまくらまるでは、野村のむら奥村おくむら勝蔵かつぞう書記官しょきかん中山なかやま定義さだよし少佐しょうさ酒井さかい喜太郎きたろう医師いし大抵たいていおな食卓しょくたくすわった[27]陸奥むつ宗光むねみつの『あしなえろく』(けんけんろく)をみ、「陸奥みちのくえらかったね。松岡まつおかとはくらべものにならぬ」と嘆息たんそくしている[28]中山なかやまから日米にちべい交渉こうしょう見込みこみについて質問しつもんされたとき五分五分ごぶごぶこたえ、「米国べいこく日本にっぽん必要ひつよう最小さいしょう限度げんど石油せきゆをくれるなら、おおいに希望きぼうがもてるのだが」とこたえた[28]米国べいこく上陸じょうりく直前ちょくぜんには「太平洋たいへいようはほんとうにひろいな。日米にちべい戦争せんそうなんて想像そうぞうするだに大変たいへんだな」とむねうちらしている[29]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ はた 2005, pp. 269–288, だい1 主要しゅよう陸海りくかい軍人ぐんじん履歴りれき-べつ索引さくいん
  2. ^ a b c d e f g h i 雨倉あめくら 1997, pp. 166–168, うみだい大将たいしょうへの必須ひっすコース
  3. ^ 野村のむら大将たいしょう委員いいんちょう査問さもんかい組織そしき東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん昭和しょうわ10ねん10がつ2にち夕刊ゆうかん(『昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp88 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  4. ^ a b 雨倉あめくら 2007, pp. 345–348, ゲンコいちはつ入学にゅうがくがフイ
  5. ^ a b 半藤はんどう 2013, 位置いちNo. 2076 - 2106, だいろくしょう 条約じょうやく艦隊かんたいか-野村のむら吉三郎きちさぶろう 太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせん駐米ちゅうべい大使たいし
  6. ^ 野村のむら吉三郎きちさぶろう海軍かいぐん大将たいしょう院長いんちょう就任しゅうにん東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん』(昭和しょうわ12ねん4がつ6にち夕刊ゆうかん)『昭和しょうわニュース辞典じてんだい6かん 昭和しょうわ12ねん-昭和しょうわ13ねん』p70 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  7. ^ 『ハル回顧かいころく中公ちゅうこう文庫ぶんこ
  8. ^ #海軍かいぐん士官しかんp.74
  9. ^ 1948ねん6がつ結成けっせいされ12月30にち登記とうきされたニューヨークのNPO出典しゅってんを2つしるす。
    • Glenn Davis and John G. Roberts 『軍隊ぐんたいなき占領せんりょう-ウォうぉル街るがいが「戦後せんご」を演出えんしゅつした』 守山もりやま尚美なおみやく新潮社しんちょうしゃ 1996ねん12月 P 55-56
    Bizapedia AMERICAN COUNCIL ON JAPAN, INC.
  10. ^ 軍隊ぐんたいなき占領せんりょう-ウォうぉル街るがいが「戦後せんご」を演出えんしゅつした』より、以下いか結成けっせい当初とうしょのメンバー18めいから著名ちょめい人物じんぶつ
  11. ^ a b c d e 日本にっぽんうごかしたスパイ だいよんかい 野村のむら吉三郎きちさぶろう CIAの支援しえん総理そうり大臣だいじんねらったおとこ有馬ありま哲夫てつお(『SAPIO』2016ねん6がつごう
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 野村のむら吉三郎きちさぶろう」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A06051182900 
  13. ^ 官報かんぽうだい4989ごう叙任じょにん及辞れい」1900ねん2がつ21にち
  14. ^ 官報かんぽうだい5539ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん12月18にち
  15. ^ 官報かんぽうだい6142ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん12月21にち
  16. ^ 官報かんぽうだい7640ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん12月12にち
  17. ^ 官報かんぽうだい451ごう叙任じょにん及辞れい」1914ねん1がつ31にち
  18. ^ 官報かんぽうだい1414ごう叙任じょにん及辞れい」1917ねん4がつ21にち
  19. ^ 官報かんぽうだい2930ごう叙任じょにん及辞れい」1922ねん5がつ11にち
  20. ^ 官報かんぽうだい14ごう叙任じょにん及辞れい」1927ねん1がつ17にち
  21. ^ 官報かんぽうだい1090ごう叙任じょにん及辞れい」1930ねん8がつ16にち
  22. ^ 官報かんぽうだい1863ごう叙任じょにん及辞れい」1933ねん3がつ18にち
  23. ^ 官報かんぽうだい2786ごう叙任じょにん及辞れい」1936ねん4がつ18にち
  24. ^ 官報かんぽうだい3922ごう叙任じょにん及辞れい」1940ねん2がつ5にち
  25. ^ 官報かんぽうだい1189ごう付録ふろく叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ18にち
  26. ^ 官報かんぽうだい2129ごう叙任じょにん及辞れい」1934ねん2がつ8にち
  27. ^ #海軍かいぐん士官しかんp.17
  28. ^ a b #海軍かいぐん士官しかんp.18
  29. ^ #海軍かいぐん士官しかんp.21

文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
阿部あべ信行のぶゆき
  外務がいむ大臣だいじん
だい61だい:1939ねん(昭和しょうわ14ねん) - 1940ねん(昭和しょうわ15ねん)
次代じだい
有田ありた八郎はちろう
とうしょく
先代せんだい
松野まつのづるひらた
自由民主党じゆうみんしゅとう参議院さんぎいん議員ぎいん会長かいちょう
だい2だい:1956ねん(昭和しょうわ31ねん) - 1957ねん(昭和しょうわ32ねん)
次代じだい
吉野よしの信次しんじ
名誉めいよしょく
先代せんだい
一松いちまつ定吉さだきち
最年長さいねんちょう参議院さんぎいん議員ぎいん
1962ねん(昭和しょうわ37ねん)7がつ - 1964ねん(昭和しょうわ39ねん)5がつ
次代じだい
小柳こやなぎまきまもる