第だい1次じ岸きし内閣ないかく(だいいちじきしないかく)は、岸きし信介しんすけが第だい56代だい内閣ないかく総理そうり大臣だいじんに任命にんめいされ、1957年ねん(昭和しょうわ32年ねん)2月がつ25日にちから同年どうねん7月がつ10日とおかまで続つづいた日本にっぽんの内閣ないかく。
石橋いしばし内閣ないかく発足ほっそくから間あいだもない1957年ねん(昭和しょうわ32年ねん)の年明としあけに内閣ないかく総理そうり大臣だいじんの石橋いしばし湛山たんざんが体調たいちょうを崩くずし、脳軟化症のうなんかしょうと診断しんだんされて療養りょうように入はいった。通常つうじょう国会こっかいの審議しんぎに出席しゅっせき不能ふのうとなったことを受うけて1月がつに外務がいむ大臣だいじんの岸きし信介しんすけが内閣ないかく総理そうり大臣だいじん臨時りんじ代理だいりに就任しゅうにん。2月に石橋いしばし内閣ないかくが総そう辞職じしょくしたことに伴ともない、そのまま岸きしが首班しゅはん指名しめいを受うけて組閣そかくした。
外務がいむ大臣だいじんは岸きしが兼任けんにんし、石橋いしばし内閣ないかくの閣僚かくりょうをそのまま引ひき継ついだ居抜いぬき内ない閣かくである。後のちに1956年ねん12月がつ自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい選挙せんきょで石橋いしばし、岸きしと争あらそった石井いしい光次郎みつじろうを副ふく総理そうりとして入閣にゅうかくさせた。
石橋いしばしの辞任じにんに伴ともない3月がつに形式けいしき的てきに1957年ねん自由民主党じゆうみんしゅとう総裁そうさい選挙せんきょが行おこなわれたが、すでに岸きし内閣ないかく発足ほっそく後ごであり、実態じったいは単たんなる信任しんにん投票とうひょうであった。
石橋いしばし内閣ないかくの政務次官せいむじかんがそのまま留任りゅうにん。