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山梨勝之進 - Wikipedia

山梨やまなし勝之かつゆきすすむ

日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海軍かいぐん大将たいしょう

山梨やまなし 勝之かつゆきすすむ(やまなし かつのしん、1877ねん明治めいじ10ねん7がつ26にち - 1967ねん昭和しょうわ42ねん12月17にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじん海兵かいへい25次席じせきうみだい5最終さいしゅう階級かいきゅう海軍かいぐん大将たいしょうしたがえ勲一等くんいっとう

山梨やまなしやまなし 勝之かつゆきすすむかつのしん
海軍かいぐん大将たいしょう時代じだい撮影さつえい
生誕せいたん 1877ねん7がつ26にち
日本の旗 日本にっぽん宮城みやぎけん宮城みやぎぐん仙台せんだい
死没しぼつ (1967-12-17) 1967ねん12月17にち(90さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1897ねん - 1933ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん大将たいしょう
除隊じょたい 学習がくしゅういんちょう海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう特別とくべつ講師こうし
墓所はかしょ 青山あおやま霊園れいえん
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おもだったぐんれき軍政ぐんせい部門ぶもんあゆみ、山本やまもと権兵衛ごんべえ加藤かとう友三郎ともさぶろう系譜けいふ人物じんぶつされていた。

はたいくは、下記かきのようにひょうしている。

そのまま日本にっぽん海軍かいぐん波乱はらんなくいけば、へい学校がっこうなな加藤かとう友三郎ともさぶろうのあと、じゅう山梨やまなしさんじゅうほりとくるのが、海軍かいぐん軍政ぐんせい表看板おもてかんばんだったとわたしています。ロンドン条約じょうやく山梨やまなし以下いかがひっくりかえっちゃったんです。 — はたいく[1]

いわゆる条約じょうやく1人ひとり。また帝国ていこく海軍かいぐんの77めい大将たいしょうのうち、艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんしょく経験けいけんしていない9めいのうちの1人ひとりである。

海軍かいぐん現役げんえき退しりぞいたのち学習がくしゅう院長いんちょう[注釈ちゅうしゃく 1]つとめ、皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう教育きょういくになった。

概要がいよう

編集へんしゅう

海軍かいぐん士官しかんとなる

編集へんしゅう

宮城みやぎけん宮城みやぎぐん仙台せんだい出身しゅっしん[3]きゅう仙台せんだいはん上士じょうし[4]山梨やまなしぶんこれしん長男ちょうなんとしてまれ、宮城みやぎえい学校がっこう海軍兵学校かいぐんへいがっこう25)に入校にゅうこう次席じせき卒業そつぎょうして恩賜おんしひん拝受はいじゅ[5][6]海兵かいへい25同期生どうきせいには、松岡まつおか静雄しずお鳥巣とりす玉樹たまき四竈しかま孝輔こうすけらがいる。海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせい5卒業そつぎょう[7]

山本やまもと権兵衛ごんべえ副官ふっかんなどをつとめ、ワシントン軍縮ぐんしゅく会議かいぎでは全権ぜんけん随員ずいいんとして加藤かとう友三郎ともさぶろう補佐ほさ人事じんじ局長きょくちょう在任ざいにんちゅう軍縮ぐんしゅく条約じょうやく日本にっぽん国内こくない反映はんえいさせるべく尽力じんりょくし、また海軍かいぐん大臣だいじん財部たからべあや鹿児島かごしま優遇ゆうぐう人事じんじをやめるよう進言しんげんしている[8]

ロンドン軍縮ぐんしゅく会議かいぎ

編集へんしゅう

中将ちゅうじょうとき海軍かいぐん次官じかんつとめ(1928ねん昭和しょうわ3ねん)12がつ10日とおか- 1930ねん昭和しょうわ5ねん)12月1にち)、1930ねん1がつ - 4がつ開催かいさいされたロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ妥結だけつさせるために奔走ほんそうした。反対はんたい勢力せいりょくから暗殺あんさつされる危険きけんがあったが、軍務ぐんむ局長きょくちょうほり悌吉海軍かいぐんしょう先任せんにん副官ふっかん古賀こがみねいちともに、暗殺あんさつされる覚悟かくご所信しょしんつらぬいた。軍縮ぐんしゅく会議かいぎ全権ぜんけんとなった海軍かいぐん大臣だいじん財部たからべあや不在ふざいのため、山梨やまなし海軍かいぐんしょうあずかり、岡田おかだ啓介けいすけまえ海軍かいぐん大臣だいじん軍事ぐんじ参議さんぎかん)の助力じょりょくて、艦隊かんたい軍令ぐんれい次長じちょう末次すえつぐ信正のぶまさをして「山梨やまなしのごとき知恵ちえある人物じんぶつにはかなわず」[9]わしめる活躍かつやくであった。

ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎさい反対はんたいした理論りろん統帥とうすいけん干犯かんぱんであるが、山梨やまなし見解けんかい下記かきとお[10]

統帥とうすいけん問題もんだいたいする海軍かいぐん全般ぜんぱんてき態度たいどは、もともと、憲法けんぽう解釈かいしゃく枢密院すうみついん権限けんげんであるのにかんがみ、われわれが憲法けんぽうろんなどをってみたところで世間せけん物笑ものわらいになるだけであり、アメリカの態度たいど予算よさん問題もんだいなどであたまがいっぱいで、海軍かいぐんしょうおよ軍令ぐんれいにおいて、かんがえたことも、ったこともなく、興味きょうみもなければ研究けんきゅうしたこともなかった。 — 海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこうでの講話こうわだいさん「ワシントン・ロンドン軍縮ぐんしゅく会議かいぎ」より、昭和しょうわ36ねん11月6にち・7にち講話こうわ山梨やまなし勝之かつゆきすすむ[10]

予備よびやく

編集へんしゅう

ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ妥結だけつのために尽力じんりょくした山梨やまなしへの、伏見ふしみみやひろしきょうおう東郷とうごう平八郎へいはちろう頂点ちょうてんとする艦隊かんたい反発はんぱつつよく、伏見ふしみみやが「山梨やまなしはいったい、軍服ぐんぷくているのか」[11]べたほどであった。艦隊かんたいから忌避きひされた山梨やまなしは、同年どうねん10がつにロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく条約じょうやく批准ひじゅんされたのち次官じかん更迭こうてつされ、佐世保させぼ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかんて1932ねん昭和しょうわ7ねん)に海軍かいぐん大将たいしょう親任しんにんされたものの、よく1933ねん昭和しょうわ8ねん)3がつ11にち大角おおすみ人事じんじにより現役げんえきわれた。このとき山梨やまなしまん56さいであった。

学習がくしゅう院長いんちょう

編集へんしゅう

予備よびやく編入へんにゅうから6年間ねんかん千歳船橋ちとせふなばし[12][13]げん東京とうきょう世田谷せたがや 千歳ちとせ船橋ふなばしえき付近ふきん[13])の自宅じたく閑居かんきょしていた山梨やまなしであるが、昭和しょうわ14ねん(1939ねん)10がつ宮内みやうち大臣だいじん松平まつだいら恒雄つねお松平まつだいらは、山梨やまなしとも大正たいしょう10ねん〈1921ねん〉のワシントン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ随員ずいいんつとめ、山梨やまなし人柄ひとがらっていた)と、海軍かいぐん大臣だいじん米内よない光政みつまさりょう推挙すいきょにより、皇太子こうたいし明仁あきひと親王しんのう教育きょういくまかせられる人材じんざいとして学習がくしゅう院長いんちょう就任しゅうにんした[12]明仁あきひと親王しんのうは、翌年よくねん昭和しょうわ15ねん(1940ねん)4がつ学習がくしゅういん初等しょとう入学にゅうがくした。

戦後せんご公職こうしょく追放ついほうとなり[14]1952ねん昭和しょうわ27ねん追放ついほう解除かいじょ[15])、宮城みやぎ育英いくえいかい五城ごじょう寮舎りょうしゃかんみず交会初代しょだい会長かいちょうつとめつつ、軍人ぐんじん恩給おんきゅう復活ふっかつ尽力じんりょくし、海上かいじょう自衛隊じえいたい創建そうけんにあたっては吉田よしだしげる政財界せいざいかい説得せっとくにあたった[16]

中村なかむら悌次ていじ海兵かいへい67首席しゅせきだい11だい海上かいじょう幕僚ばくりょうちょう)は、戦後せんご山梨やまなしについて下記かきのようにしるしている[17]

学習がくしゅういんをおめになったのちは、海軍かいぐんさい長老ちょうろうとして、また仙台育英せんだいいくえいかい舎監しゃかんあるいは会長かいちょうとして、英霊えいれい慰霊いれい顕彰けんしょう海軍かいぐん伝統でんとう継承けいしょうあるいは後進こうしん育成いくせいなどもっぱ奉仕ほうしにあたられた。東郷とうごう神社じんじゃ再建さいけんさんかさ保存ほぞんみず交会の設立せつりつとう海軍かいぐん関係かんけいのあることは、すべて〔山梨やまなし先生せんせい尽力じんりょく出発しゅっぱつ軌道きどう見通みとおしがついたところで、後輩こうはいわたされた。 — 中村なかむら悌次ていじ、〔〕ない引用いんようしゃ補完ほかん[17]

1965ねん昭和しょうわ40ねん)にはかつて副官ふっかんつとめた山本やまもと権兵衛ごんべえしのかいもよおした。

戦史せんし講義こうぎ

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82さいときから、中山なかやま定義さだよしすぎこう一三かずみ内田うちだ一臣かずおみ帝国ていこく海軍かいぐん出身しゅっしん海上かいじょう自衛隊じえいたい首脳しゅのう依頼いらいで、海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう帝国ていこく海軍かいぐん海軍かいぐんだい学校がっこう相当そうとう)で戦史せんし講義こうぎ定期ていきてきった。山梨やまなしは、毎年まいとし講義こうぎ準備じゅんび最低さいていでも3かげつついやし、外国がいこく戦史せんしについての不明ふめいてん在日ざいにち外国がいこく大使館たいしかん照会しょうかい・もしくは原書げんしょ借用しゃくようして解消かいしょうし、講義こうぎまえにはリハーサルをおこなって、強調きょうちょうすべき個所かしょや、はな順序じゅんじょ工夫くふうした[17]

1957ねん昭和しょうわ32ねん)にだい3高級こうきゅう課程かてい学生がくせいとして山梨やまなし講義こうぎけた中村なかむら悌次ていじは、

山梨やまなしとき教壇きょうだんつくえいた分厚ぶあつ原書げんしょをめくり、とき教壇きょうだんうえあるき、熱弁ねつべんるった。13から16までの3あいだ予定よていが、18ぎにようやくわった。高齢こうれい山梨やまなし椅子いすすわって講義こうぎするよう幹部かんぶ学校がっこうちょうからすすめられていたが、いち椅子いすすわることはなく、5あいだなか休憩きゅうけいを2かいっただけで教壇きょうだんつづけた。(要約ようやく

という趣旨しゅしべている[17]

最終さいしゅう講義こうぎは、山梨やまなしが89さいであった、1966ねん昭和しょうわ41ねん)11月、死去しきょ前年ぜんねんであった[18]初期しょき以外いがい速記そっきによって講義こうぎろくつくられており、山梨やまなし死去しきょ翌年よくねん、1968ねん昭和しょうわ43ねん)に幹部かんぶ学校がっこう部内ぶない資料しりょう山梨やまなし大将たいしょう講話こうわしゅう』としてまとめられ、1981ねん昭和しょうわ56ねん)に『歴史れきし名将めいしょう』とだいされて毎日新聞社まいにちしんぶんしゃから公刊こうかんされた[19]。400つめ原稿げんこう用紙ようし1,200まい大著たいちょであった[19]

89さいの1966ねん昭和しょうわ41ねん)11月3にち宮中きゅうちゅうつえ下賜かしされ、翌年よくねんの1967ねん昭和しょうわ42ねん)12月17にち死去しきょ。90さいぼつ特旨とくしにより、くらいいちきゅうすすめられてしたがえじょされた。

墓所はかしょは、東京とうきょう青山あおやま墓地ぼちだいごういちしゅはちがわろくばん[19]

人物じんぶつぞう

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人格じんかく

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温厚おんこう性格せいかくながらねばづよさをそなえた人物じんぶつであり、およそひと批判ひはんをするようなことはなかった。

山梨やまなし子息しそくである山梨やまなし進一しんいち埼玉大学さいたまだいがく名誉めいよ教授きょうじゅによると、山梨やまなし自己じこ宣伝せんでん大嫌だいきらいであり、「人間にんげん自分じぶんのしたことなどくちにすべきではない。自分じぶんのことは他人たにんってくれるのだ」とつねかたっていたという[17]

ロンドン軍縮ぐんしゅく会議かいぎ全権ぜんけんであった若槻わかつき禮次郎れいじろうは、予備よびやく編入へんにゅう山梨やまなしったときのことを下記かきのようにしるしている[17]

わたし山梨やまなしたいして、「あんたなどは、たりまえにいけば、連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんになるだろうし、海軍かいぐん大臣だいじんにもなるべきひとおもう。それが予備よびになって、今日きょうのような境遇きょうぐうになろうとは、ていて、じつこたえられん」とった。すると山梨やまなしは、いや、わたしはちっとも遺憾いかんおもっていない。軍縮ぐんしゅくのようなだい問題もんだいは、犠牲ぎせいなしにはまりません。だれ犠牲ぎせいしゃがなければならん。自分じぶんがその犠牲ぎせいになるつもりでやったのですから、わたし海軍かいぐん要職ようしょくから退しりぞけられ、今日きょう境遇きょうぐうになったことは、すこしもあやしむべきではありません、とった。これをいてわたしは、今更いまさらながら山梨やまなし人物じんぶつ立派りっぱなことをったのであった。 — 若槻わかつき禮次郎れいじろう[20]

海軍かいぐん後輩こうはいであるほり悌吉山梨やまなしへい25ほりへい32)との信頼しんらい関係かんけいあつかった。

おなじく海軍かいぐん後輩こうはいである井上いのうえ成美まさみへい37)の、山梨やまなしたいする評価ひょうかたか[21]

昭和しょうわ天皇てんのうは、戦後せんごまだあいだもないころ[注釈ちゅうしゃく 2]雑誌ざっししん同人どうじんであった文人ぶんじんたちとの座談ざだんで、長與ながよ善郎よしろうから「陛下へいかにおつかえした重臣じゅうしん軍人ぐんじんなかで、陛下へいかがもっともあつ信任しんにんなさったものだれでございますか」という趣旨しゅしわれ、「山梨やまなし勝之かつゆきすすむ」と即答そくとうした(長與ながよ著書ちょしょより[22][22]長與ながよは「陛下へいか自分じぶん自身じしん性質せいしつから、こういう本当ほんとう真面目まじめ地味じみひとがおきで、共鳴きょうめいかんじられるのかとおもった。」[22]しるしている[22]山梨やまなし進一しんいちによると、山梨やまなしは、この話題わだいるたびに恐懼きょうくし、話題わだいえようと一生懸命いっしょうけんめいになったという[12]

卓越たくえつした軍政ぐんせい

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山梨やまなし軍政ぐんせいとしての手腕しゅわん海軍かいぐんないでも卓越たくえつしていた[23]

山梨やまなし海軍かいぐん次官じかん在任ざいにん当時とうじ内務ないむ大臣だいじんであった安達あだち謙蔵けんぞうは、海軍かいぐん部外ぶがいしゃ立場たちばから

山梨やまなしあたまもよく誠実せいじつで、るにさとし、しかも、将来しょうらい国防こくぼう問題もんだいにたいする的確てきかく見透みとおしをち、部内ぶない統制とうせいする識見しきけんっていた。 — 安達あだち謙蔵けんぞう[23]

ひょうしている(安達あだち自叙伝じじょでんより)[23]

艦長かんちょうとしての操艦そうかん

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その山梨やまなしも、艦長かんちょうとしての操艦そうかんはすこぶるつきの下手へたで、とく入港にゅうこう操艦そうかんでは、そばにいるものをハラハラさせどおしであった、と富岡とみおかじょうしゅん少将しょうしょうへい45)が回想かいそうしている[23]山梨やまなし艦長かんちょうつとめたのは、戦艦せんかん香取かとり艦長かんちょうの1かいのみ(1917ねん大正たいしょう6ねん〉12月1にちから1年間ねんかん)だが、この時点じてんでは「軍艦ぐんかん職員しょくいん勤務きんむれい」で「艦長かんちょう入港にゅうこう狭小きょうしょうなる水路すいろ通過つうか及艦たい陣形じんけい変換へんかんとうときかならみずかかん運用うんようてのひらるべし」と規定きていされ[24]艦長かんちょう入港にゅうこう操艦そうかん義務ぎむされていた[24]山梨やまなしが「香取かとり艦長かんちょう退任たいにんした翌年よくねん1919ねん大正たいしょう8ねん)に[24]あらたに「艦船かんせん職員しょくいん服務ふくむ規定きてい」が制定せいていされ[24]駆逐くちくかん潜水せんすいかんのようなしょう艦艇かんていのぞ[24]出入でいりこうなど注意ちゅういようする状況じょうきょうにおいても航海こうかいちょう操艦そうかんすることがゆるされた[24]

一方いっぽう山梨やまなしが「香取かとり艦長かんちょうつとめていたときに、同艦どうかん少尉しょういとして乗組のりくんでいた栗原くりはら悦蔵えつぞう少将しょうしょうへい44)は、「香取かとり艦長かんちょうとしての山梨やまなし操艦そうかんについて「最初さいしょ不慣ふなれであったものの、すぐに僚艦りょうかん艦長かんちょう同等どうとうレベルまで上達じょうたつした」という趣旨しゅしべている[17]栗原くりはらは「初級しょきゅう士官しかん時代じだいに『香取かとり』で山梨やまなし薫陶くんとうけたのは一生いっしょう収穫しゅうかくであった」という趣旨しゅしべており、後年こうねんも、山梨やまなしうたびに「香取かとり時代じだいおもばなしきなかった[17]

語学ごがくりょく

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海軍兵学校かいぐんへいがっこう入校にゅうこうするまえ宮城みやぎえい学校がっこうでアメリカじん教師きょうし指導しどうけていたこと、青年せいねん士官しかん時代じだい戦艦せんかん三笠みかさ回航かいこう委員いいんとしてイギリスに2年間ねんかん駐在ちゅうざいしたことなどにより、高度こうど英語えいごりょくゆうしていた[25]

おなじく海軍かいぐん永野ながの修身しゅうしん同様どうよう小原おはら國芳くによし理解りかいしゃであり、小原おはらりゅう教育きょういく支援しえんしゃだった[26]

2013ねん現在げんざい山梨やまなし蔵書ぞうしょ洋書ようしょ以外いがいは、ほとんどが漢籍かんせき)は、山梨やまなしさい晩年ばんねん戦史せんし講義こうぎおこなった海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう東京とうきょう目黒めぐろ)の図書館としょかんに「山梨やまなし文庫ぶんこ」として所蔵しょぞうされている[19]。2018ねん現在げんざいおなじく海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこうには「山梨やまなし大将たいしょうぞう」(ブロンズ胸像きょうぞう制作せいさく山名やまな常人じょうじん)が所蔵しょぞうされている[27]

2013ねん現在げんざい仙台せんだい中島なかじまちょうげん仙台せんだい青葉あおば八幡やはた)の山梨やまなし跡地あとち(2,500つぼ)は、2/3が宮城みやぎけん宮城みやぎ第一高等学校だいちこうとうがっこうの、1/3がなお絅学いん敷地しきちとなっており、宮城みやぎいちだか構内こうないには、山梨やまなし漢詩かんしきざんだ「山梨やまなし勝之かつゆきしん先生せんせい生家せいかあと」のいしぶみ現存げんそんする[28]

  • 1877ねん明治めいじ10ねん7がつ26にち- 宮城みやぎけん宮城みやぎぐん仙台せんだい中島なかじまひのとせい

栄典えいてん

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位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ

家族かぞく親族しんぞく

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  • 山梨やまなし
              杉田すぎたじんちかい
               ┃
               ┃
               ┣━━石橋いしばし湛山たんざん
               ┃    ┃
       石橋いしばし藤左衛門とうざえもん━━きん   ┣━━━石橋いしばしじんいち━━━久美子くみこ
                    ┃           ┃
             岩井いわいたかし━━うめ           ┃
                                ┃
                  足立あだちただし━━━足立あだち龍雄たつお    ┃
                          ┃   ┏足立あだち正晃まさあき
                          ┣━━━┫
                          ┃   ┗啓子けいこ
                 山梨やまなし勝之かつゆきすすむ━━━泰子やすこ    ┃
                               ┃
                               ┃
                 伊藤いとう忠兵衛ちゅうべえ━━伊藤いとう恭一きょういち   ┃
                         ┃     ┃
                         ┃    ┏伊藤いとういさお
                         ┣━━━━┫
                         ┃    ┗武子たけし
                         ┃     ┃
                 本郷ほんごう房太郎ふさたろう━━━周子かねこ    ┃
                               ┃
                               ┃
                       ┏河野こうの謙三けんぞう   ┣━━━河野こうの太郎たろう
                 河野こうの治平じへい━━┫       ┃
                       ┗河野こうの一郎いちろう   ┃
                          ┃    ┃
                          ┣━━━河野こうの洋平ようへい
                          ┃
                        ┏照子てるこ
                 田川たがわ平三郎へいさぶろう━━┫
                        ┗田川たがわ誠治せいじ田川たがわ誠一せいいち

主要しゅよう著述ちょじゅつぶつ

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  • 歴史れきし名将めいしょう戦史せんしるリーダーシップの条件じょうけん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1981ねん 
    • 再刊さいかん戦史せんしるリーダーシップの条件じょうけん』《うえ下巻げかん毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ〈ミューブックス(新書しんしょばん)〉、1987ねん 
    • 再刊さいかん歴史れきし名将めいしょう海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう講話こうわしゅう』(解説かいせつ戸高とだか一成いっせいKADOKAWA角川かどかわ新書しんしょ〉、2023ねんISBN 9784040824505 
  • 山梨やまなし会長かいちょう挨拶あいさつ発起ほっき趣意しゅいしょ機関きかんすい交) 昭和しょうわ27ねんだい1ごう
  • 防衛大学校ぼうえいだいがくこうだいなな期生きせい卒業そつぎょうしきにおける祝辞しゅくじ機関きかんすい交) 昭和しょうわ38ねんだい125ごう
  • 山本やまもとはくしの(1-4)機関きかんすい交) 昭和しょうわ39ねんだい131-134ごう
  • 大正たいしょうじゅうねん天皇陛下てんのうへいか皇太子こうたいしとしてのわたりおういて回想かいそう(1-2)機関きかんすい交) 昭和しょうわ40ねんだい142-143ごう
  • 加藤かとう元帥げんすい片鱗へんりん(1-2)機関きかんすい交) 昭和しょうわ42ねんだい167-168ごう

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 戦前せんぜん学習がくしゅういんみや内省ないせい管轄かんかつする官立かんりつ学校がっこうであり、学習がくしゅう院長いんちょうみことのり任官にんかんたる官吏かんりであった[2]
  2. ^ 出典しゅってんには「田島たじま道治みちはる宮内庁くないちょう長官ちょうかん昭和しょうわ23ねん昭和しょうわ28ねん)であったあいだ、」とある[22]

出典しゅってん

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  1. ^ 半藤はんどう 2013, 位置いちNo. 2020-2043, 山梨やまなし勝之かつゆきすすむ ロンドン条約じょうやくじゅんじる
  2. ^ 学習がくしゅういん官制かんせい改定かいていス(明治めいじ22ねん12月4にち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.A15111815100 
  3. ^ しょ10 | 海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう”. 海上かいじょう自衛隊じえいたい幹部かんぶ学校がっこう. 2020ねん5がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん5がつ25にち閲覧えつらん
  4. ^ a b c d e 半藤はんどう 2013, 位置いち番号ばんごう 4643-4653、海軍かいぐん大将たいしょう略歴りゃくれき山梨やまなし勝之かつゆきすすむ
  5. ^ 工藤くどう 2013, pp. 47–48, だいいちしょう海軍かいぐん青年せいねん士官しかん」-だいいちせつ海軍かいぐん士官しかんとなる」-「海兵かいへい卒業そつぎょう遠洋えんよう航海こうかい
  6. ^ はた 2005, pp. 663–665, だい3-II海軍かいぐん-5.海軍兵学校かいぐんへいがっこう卒業生そつぎょうせい
  7. ^ はた 2005, pp. 641–660, だい3-II海軍かいぐん-1.海軍かいぐんだい学校がっこう甲種こうしゅ学生がくせい
  8. ^ 井上いのうえ成美まさみ伝記でんき刊行かんこうかい井上いのうえ成美まさみ』pp310-311
  9. ^ 昭和しょうわ軍人ぐんじんたち』p301
  10. ^ a b 山梨やまなし 1981, pp. 182–184, だい3 ワシントン・ロンドン海軍かいぐん軍縮ぐんしゅく会議かいぎ - 5. 統帥とうすいけん問題もんだい
  11. ^ 野村のむら 1996, pp. 22–24, だい一部いちぶ 天皇てんのう伏見ふしみみや - ロンドン軍縮ぐんしゅく条約じょうやくをめぐる対立たいりつ - 伏見ふしみみや心情しんじょう
  12. ^ a b c 工藤くどう 2013, pp. 227–229, だいよんしょう 学習がくしゅう院長いんちょう時代じだい - だい一節いっせつ 学習がくしゅう院長いんちょう就任しゅうにん - 勝之かつゆきしん白羽しらは
  13. ^ a b 工藤くどう 2013, pp. 87–93, だいいちしょう海軍かいぐん青年せいねん士官しかん」-だいいちせつ海軍かいぐん士官しかんとなる」-「家庭かていじんとしての勝之かつゆきすすむ
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  33. ^ 官報かんぽうだい7640ごう叙任じょにん及辞れい」1908ねん12月12にち
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  39. ^ 官報かんぽうだい1827ごう叙任じょにん及辞れい」1933ねん2がつ3にち
  40. ^ 官報かんぽうだい1868ごう叙任じょにん及辞れい」1933ねん3がつ25にち
  41. ^ 官報かんぽうだい402ごう叙任じょにん及辞れい」1913ねん11月29にち
  42. ^ 官報かんぽうだい1189ごう付録ふろく叙任じょにん及辞れい」1916ねん7がつ18にち
  43. ^ 官報かんぽうだい2978ごう叙任じょにん及辞れい」1922ねん7がつ6にち
  44. ^ 官報かんぽうだい3856ごう叙任じょにん及辞れい」1925ねん7がつ1にち
  45. ^ 官報かんぽうだい1499ごう付録ふろく辞令じれい」1931ねん12月28にち
  46. ^ 官報かんぽうだい1455ごう叙任じょにん及辞れい」1931ねん11月4にち
  47. ^ 官報かんぽうだい4438ごう付録ふろく辞令じれい」1941ねん10がつ23にち
  48. ^ 官報かんぽうだい1293ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん11月22にち
  49. ^ 官報かんぽうだい2944ごう叙任じょにん及辞れい」1922ねん5がつ27にち
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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ぐんしょく
先代せんだい
古川ふるかわ三郎さぶろう
海軍かいぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう
1923ねん2がつ1にち - 1924ねん12月1にち
次代じだい
左近さこん司政しせいさん
先代せんだい
正木まさきよしふとし
横須賀よこすか海軍かいぐん工廠こうしょうちょう
だい14だい:1925ねん4がつ15にち - 1926ねん12がつ10日とおか
次代じだい
空席くうせき
だい15だい小倉おぐら嘉明よしあき
先代せんだい
吉川よしかわ安平あびら
海軍かいぐんかんせい本部ほんぶちょう
だい5だい:1926ねん12がつ10日とおか - 1929ねん2がつ1にち
次代じだい
小林こばやし躋造
先代せんだい
大角おおすみ岑生みねお
海軍かいぐん次官じかん
だい10代:1928ねん12がつ10日とおか - 1930ねん6がつ1にち
次代じだい
小林こばやし躋造
先代せんだい
鳥巣とりす玉樹たまき
佐世保させぼ鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん
だい30だい:1930ねん12月1にち - 1931ねん12月1にち
次代じだい
中村なかむら良三りょうぞう
先代せんだい
野村のむら吉三郎きちさぶろう
鎮守ちんじゅ司令しれい長官ちょうかん
だい22だい:1931ねん12月1にち - 1932ねん12月1にち
次代じだい
中村なかむら良三りょうぞう