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アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード - Wikipedia

アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード

サウジアラビア国王こくおう

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウードアラビア: عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud1876ねん - 1953ねん11月9にち)は、ワッハーブイマーム在位ざいい:1902ねん - 1953ねん)、ヒジャーズ国王こくおう在位ざいい:1926ねん1がつ8にち - 1931ねん[1]ナジュド国王こくおう在位ざいい:1927ねん - 1931ねん[1]ナジュドおよびヒジャーズ国王こくおう(1931ねん - 1932ねん[1]初代しょだいサウジアラビア国王こくおう在位ざいい1932ねん - 1953ねん)。アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード、またはイブン・サウードられる。ワッハーブイマームとしてはアブドゥルアズィーズ2せい、サウジアラビア国王こくおうとしてはアブドゥルアズィーズ1せいばれる。

イブン・サウード
ابن سعود
ナジュド国王こくおう
ヒジャーズ国王こくおう
サウジアラビア国王こくおう
1940年代ねんだいのイブン・サウード
在位ざいい 1902ねん - 1932ねん9月23にち(ナジュド国王こくおう
1926ねん1がつ8にち - 1932ねん9月23にち(ヒジャーズ国王こくおう
1932ねん9月23にち - 1953ねん11月9にち(サウジアラビア国王こくおう

ぜん عبد العزيز بن عبد الرحمن بن فيصل آل سعود
アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラハマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
出生しゅっしょう 1876ねん11月26にち
ナジュドリヤド
死去しきょ 1953ねん11月9にち(76さいぼつ
サウジアラビアターイフ
埋葬まいそう サウジアラビアの旗 サウジアラビアリヤドウード墓地ぼち
家名かめい サウード
父親ちちおや アブドゥルラフマーン・イブン・ファイサル・アール・サウード
母親ははおや サラ・ビント・アフマド・アール・スダイリー
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうワッハーブ
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生涯しょうがい

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アラビア中部ちゅうぶリヤド周辺しゅうへんにまで縮小しゅくしょうし、ラシード英語えいごばんジャバル・シャンマル王国おうこく実権じっけんうばわれていたサウード出身しゅっしんである。ワッハーブイマームであるちちだいサウード王国おうこく実権じっけんにぎっていたラシード勢力せいりょくをリヤドから排除はいじょすることに失敗しっぱいし、1891ねん一族いちぞくとともに放浪ほうろうしたてにクウェート亡命ぼうめい。これにより、分裂ぶんれつして衰退すいたいしていただいサウード王国おうこく完全かんぜん滅亡めつぼうする。

1901ねん、クウェートのだい首長しゅちょうムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハジャバル・シャンマル王国おうこくのラシードとのたたかいに参加さんかし、別働隊べつどうたいとしてリヤド攻略こうりゃく担当たんとうするも、本隊ほんたい大敗たいはいにより陥落かんらくさせることが出来できなかった。

1902ねん、22さい[2]のときに40にん兵力へいりょくマスマクじょうきょかまえていたアジュラーン総督そうとくりリヤドを奪還だっかんした(リヤドのたたか英語えいごばん)。1914ねんからだいいち世界せかい大戦たいせんはじまると、連合れんごうこくの1こくであるイギリス協力きょうりょくしてちからたくわえる。1919ねんにサウード勢力せいりょく拡大かくだい自身じしん独立どくりつ影響えいきょうあたえるとかんがえ、ラシードかげ支援しえんしていたクウェートのサリーム首長しゅちょうごうやしたアブドゥルアズィーズはクウェートに侵攻しんこうするが、イギリスは空軍くうぐん派遣はけんしてけんせいしたために、かれはクウェート侵攻しんこうあきらめている。このようにイギリスはサウード勢力せいりょく拡大かくだい全面ぜんめん協力きょうりょくしていたわけでなく、またサウード支援しえんしたのはもっぱらイギリスでもジョン・フィルビー所属しょぞくしたインド総督そうとくであり、アラビアのロレンス所属しょぞくするイギリスのカイロ領事りょうじハーシム支援しえんしていたが、アブドゥルアズィーズはイギリスとの戦力せんりょくをわきまえており、反抗はんこうすることはなかった。1920ねんにはそのイギリスの支援しえん背景はいけいにして中部ちゅうぶアラビアを支配しはいいた。

1921ねんにはラシードほろぼし、1925ねんにはヒジャーズ王国おうこくをハーシムよりうばい、1927ねんにはイギリスとジッダ条約じょうやくむすんでナジュド王国おうこく独立どくりつみとめさせるとともにイギリスとなおも友好ゆうこう関係かんけい維持いじした。

1931ねんにはナジュドおよびヒジャーズ王国おうこく建国けんこく宣言せんげんして、みずかマリクおう)となった。

サウジアラビア建国けんこく

編集へんしゅう

ナジュドおよびヒジャーズ王国おうこく建国けんこくよく1932ねんには、サウジアラビア王国おうこく国名こくめい変更へんこうした。

 
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくフランクリン・ルーズベルト大統領だいとうりょうらと会談かいだんするイブン・サウード

1939ねん勃発ぼっぱつしただい世界せかい大戦たいせんにおいては、つねにイギリスやアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくなどとおなじく連合れんごうこくがわ一員いちいんとして行動こうどうする。1945ねん2がつヤルタ会談かいだんから米国べいこくもど途中とちゅうのルーズベルト米國べいこく大統領だいとうりょうとスエズ運河うんが停泊ていはくちゅうべい巡洋艦じゅんようかんじょうにて会見かいけんしている[3]

大戦たいせん末期まっき1945ねんにはアラブ連盟れんめい加盟かめいする。1948ねんにはパレスチナ戦争せんそうこり、アブドゥルアズィーズもサウジぐん派遣はけんするが、国境こっきょうせっしておらず、またべいえいとの戦力せんりょく熟知じゅくちしているゆえべいえいのゴーサインがない紛争ふんそうには介入かいにゅうしない方針ほうしんだったために、パレスチナ問題もんだいにはあまり積極せっきょくてきではなく、さらに自身じしん同様どうようにアラブけんのリーダーを自認じにんするエジプト王国おうこくシリア宿敵しゅくてきのハーシムアブドゥッラー1せい君臨くんりんするヨルダン・ハシミテ王国おうこくおなじくハーシムファイサル2せい君臨くんりんもとヒジャーズ王族おうぞくアブドゥル=イラーフ摂政せっしょうであるイラク王国おうこく歩調ほちょううはずもなくアラブ連合れんごうぐん敗北はいぼくし、アラブけん自由じゆう将校しょうこうだん中心ちゅうしんとするアラブ民族みんぞく主義しゅぎ共和きょうわせい台頭たいとうまねくことになる。なお、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード本人ほんにんはイスラエル建国けんこくについてフランクリン・ルーズベルトに「ユダヤじんくにつくりたいというのはもっともだが、ユダヤじんナチス・ドイツからの迫害はくがいをどうこううならなぜドイツにそのつみつぐなわせることをかんがえないのか。ユダヤじんこの最良さいりょうのドイツ領土りょうど割譲かつじょうさせ、ドイツにユダヤじん国家こっかつくればいい」とべたという[4]

これよりさき1924ねんにホームズ少佐しょうさにアル=ハサ地方ちほう石油せきゆ利権りけんあたえ、1928ねんあかせん協定きょうてい施行しこうされ、1933ねんにホームズ少佐しょうさからガルフ石油せきゆ移行いこうした石油せきゆ利権りけんカリフォルニア=アラビアン・スタンダード石油せきゆうつって以降いこうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの関係かんけいふかまり、1938ねんにはアラムコにより、サウジアラビアはつ油田ゆでん発見はっけんされ、メッカ・メディナの2だい聖地せいち巡礼じゅんれいわる財源ざいげん確保かくほ。パレスチナ戦争せんそうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとの協調きょうちょう関係かんけいがさらにすすみ、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくから新鋭しんえい機械きかい導入どうにゅうするなどして自国じこくない油田ゆでん開発かいはつたった。

宗教しゅうきょうにおいても自身じしんがイマームをつとめるワッハーブイスラム教いすらむきょうもっと厳正げんせい復古ふっこ主義しゅぎてき)を国教こっきょうとしてさだめるなどして、サウジアラビア王国おうこく基礎きそをきずきあげた。

1953ねん11月9にち狭心症きょうしんしょうにより崩御ほうぎょ宝算ほうさん77。500リヤル紙幣しへい肖像しょうぞう使用しようされている。

人物じんぶつ

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  • 身長しんちょう2メートルの大男おおおとこかつ怪力かいりきぬしで、武勇ぶゆうにもひいでていた。
  • リヤドのサウードがラシードのムハンマド・イブン・アブドゥッラーにわれてクウェートにいたが、おなごろ当時とうじのクウェート首長しゅちょうのムハンマドのおとうとで、インドボンベイからかえってきていたのちのムバーラクだい首長しゅちょうはアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの才能さいのうけ、かれ教育きょういくほどこし、のちに秘書ひしょとしたという。また、ムバーラクはサウード好意こういてきであったという。
  • 当時とうじサウジアラビアでは厳格げんかくなワッハーブ国教こっきょうとしていたこともあり、イスラム教いすらむきょう刑罰けいばつもとづき泥棒どろぼうみぎ手首てくびとすという厳罰げんばつをとっていた(ハッドけい参照さんしょう)。アメリカじんはこの厳罰げんばつめるように度々どど諫言するが、「つみつぐなわせるためになんねん牢屋ろうやれるのと、いましめのために手首てくびって釈放しゃくほうするのと、たしてどちらが個人こじん自由じゆう尊重そんちょうしているのか?」とこたえて、刑法けいほうあらためることはなかった。
  • 晩年ばんねん顧問こもんかんのユースフ・ヤシーンから、歴史れきししょむことをすすめられたとき、「わたし史書ししょ紐解ひもといたりはしない。わたしがくには歴史れきしそのものがきざまれているからだ。」とったという。
  • 血縁けつえんをことのほか重視じゅうしするアラブ社会しゃかいにおいて有力ゆうりょく部族ぶぞく部族ぶぞくちょうむすめどもをませるため、100かい以上いじょう結婚けっこん余儀よぎなくされた[5]最後さいご男子だんしまれたのは71さいときであった。

父母ちちはは

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  • ちち:アブドゥルラフマーン・イブン・ファイサル・アル・サウード(だいサウード王国おうこく最後さいごおう1928ねん死去しきょ
  • はは:サラ・スデイリ(ダワシールの首長しゅちょう、アハマド・スデイリのむすめ

兄弟きょうだい

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  • ファイサル(1870ねん - 1890ねん
  • ファハド(1875ねん - ?)
  • ムハンマド(1880ねん - 1903ねん
  • サアド(? - 1916ねん
  • アブドゥッラー(1900ねん - ?)
  • アフマド(1917ねん - ?)
  • アブドゥル・ムスフィン(1910年代ねんだい - ?)
  • ムサイード(1922ねん - ?)
  • サアド(1920年代ねんだい - ?)

妻妾さいしょう

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当時とうじのアラビア半島はんとうのイスラム社会しゃかいでは、女性じょせい家系かけいなどにも記載きさいされないことが一般いっぱんてきであり、また、つま原則げんそくとしてハレムおくひかえて公式こうしきないため、つまかんしては記録きろくとぼしい部分ぶぶんおおく、人数にんずうについても諸説しょせつある。同様どうよう理由りゆうによりむすめ人数にんずう名前なまえ記録きろくとぼしい。

当時とうじのアラビア半島はんとうのイスラム社会しゃかいでは、異教徒いきょうとたる配偶はいぐうしゃつまではなくわらわとしてあつかわれたこと、奴隷どれいせいしたおんな奴隷どれいである女性じょせい存在そんざいしていたこと[6]権利けんり義務ぎむ関係かんけいについて条件じょうけんきの婚姻こんいんであるミシャーこん存在そんざいしていたこと、東部とうぶしゅうではシーア独自どくじムトアこん英語えいごばんみとめられていたこと、部族ぶぞくごとにことなる部族ぶぞく習慣しゅうかんほうもとづく婚姻こんいんとイスラムほうもとづく婚姻こんいんとが混在こんざいしていたことなどから、婚姻こんいんにかかる事実じじつ関係かんけい複雑ふくざつであった。また、歴史れきし研究けんきゅうによってはミシャーこん相手あいてわらわ場合ばあいもある。これらの事情じじょうから、どこまでの範囲はんい人物じんぶつつまぶことができるのかはかならずしも明確めいかくではない。

一説いっせつには41にんつまがいるとされるが、そのうち8にん奴隷どれい身分みぶん出自しゅつじ本名ほんみょう明確めいかくではなく、つまのうち12にんのち離婚りこんしているとされる。その一方いっぽうで、4にんつまと4にんわらわと4にんおんな奴隷どれいがいたとする資料しりょうもある[7]有力ゆうりょく部族ぶぞく部族ぶぞくちょうむすめどもをませるため、100かい以上いじょう結婚けっこん余儀よぎなくされたともわれているため、ひゃくすうじゅうにもおよ主要しゅよう部族ぶぞくすべてにつまたとすればひゃくすうじゅうにんつまたことになる。

記録きろく明確めいかくなのは国王こくおう王位おうい継承けいしょうしゃたちんだ4にんつまであり、彼女かのじょたち4にん正妻せいさい場合ばあいもある。

以下いかでは記録きろく明確めいかくつまげる。

子供こどもは89にんいるとされ、うち男子だんしは52にん女子じょしは37にんとされる。そのうちの1903ねん夭折ようせつしたハーリドをのぞいた36にん男子だんし王位おうい継承けいしょうけん獲得かくとくしていた[8]
太字ふとじ は、国王こくおう就任しゅうにんした人物じんぶつ

  1. トルキー(1900ねん - 1919ねん
  2. サウード(1902ねん - 1969ねんだい2だいサウジアラビア国王こくおう
  3. ファイサル(1906ねん - 1975ねんだい3だいサウジアラビア国王こくおう
  4. ムハンマド(1910ねん - 1988ねん生前せいぜん一時期いちじき皇太子こうたいし地位ちいにあった。
  5. ハーリド(1913ねん - 1982ねんだい4だいサウジアラビア国王こくおう
  6. ナーセル(1913ねん - 1984ねん
  7. サアド(1915ねん - 1993ねん
  8. マンスール(1918ねん - 1951ねん
  9. ファハド(1921ねん - 2005ねんだい5だいサウジアラビア国王こくおうスデイリー・セブン
  10. バンダル(1923ねん - )
  11. ムサーイド(1923ねん - 2013ねん) (だい3だい国王こくおうファイサルを暗殺あんさつした)ファイサル・ビン・ムサーイドのちち
  12. アブドゥッラー(1924ねん - 2015ねんだい6だいサウジアラビア国王こくおう
  13. アブドゥルムフスィン(1925ねん - 1985ねん
  14. ミシュアル(1926ねん - 2017ねん
  15. スルターン(1928ねん - 2011ねん) スデイリー・セブン、生前せいぜん皇太子こうたいし地位ちいにあった。
  16. アブドゥッラフマーン(1931ねん - 2017ねん) スデイリー・セブン
  17. ムトイブ(1931ねん - )
  18. タラール(1931ねん - ) 王位おうい継承けいしょうけん放棄ほうき
  19. ミシャーリー(1932ねん - 2000ねん
  20. バドル(1932ねん - 2013ねん
  21. ナウワーフ(1932ねん - 2015ねん
  22. トルキー(1932ねん - 2016ねん) スデイリー・セブン
  23. ナーイフ(1934ねん - 2012ねん) スデイリー・セブン、生前せいぜん皇太子こうたいし地位ちいにあった。
  24. ファワーズ(1934ねん - 2008ねん
  25. サルマーン(1935ねん - ) スデイリー・セブン、だい7だいサウジアラビア国王こくおうけん首相しゅしょう
  26. サーミル(1937ねん - 1958ねん
  27. マージド(1938ねん - 2003ねん
  28. アブドゥルイラーフ(1939ねん - )
  29. マムドゥーフ(1940ねん - )
  30. サッターム(1941ねん - 2013ねん
  31. ハズルール(1942ねん - 2012ねん
  32. アブドゥルマジード(1942ねん - 2007ねん
  33. マシュフール(1942ねん - )
  34. アフマド(1942ねん - ) スデイリー・セブン
  35. ムクリン(1945ねん - ) もと皇太子こうたいしけんふく首相しゅしょう
  36. ハムード(1947ねん - 1994ねん

夭折ようせつした1人ひとりのぞだい2世代せだい直系ちょっけい男子だんしが36にんおり、その子供こどもまご世代せだい多数たすういるため、ここではおも人物じんぶつについてのみ記載きさいする。

  • サルマーンないかく閣僚かくりょうもと閣僚かくりょう
    • ムハンマド・ビン・サルマーン(1985ねん - ) サルマーンの皇太子こうたいし けん 首相しゅしょう けん 経済けいざい開発かいはつ評議ひょうぎかい議長ぎちょう
    • マンスール・ビン・ムトイブ(1952ねん - ) ムトイブの国務大臣こくむだいじん国王こくおう顧問こもん
    • ムトイブ・ビン・アブドゥッラー(1952ねん - ) アブドゥッラーのもと国家こっか警備けいび大臣だいじん
    • アブドゥルアズィーズ・ビン・サルマーン(1960ねん - ) サルマーンの国務大臣こくむだいじん(エネルギー問題もんだい担当たんとう
    • ムハンマド・ビン・ナーイフ(1959ねん - ) ナーイフのもと皇太子こうたいし けん ふく首相しゅしょう けん 内務ないむ大臣だいじん けん 政治せいじ安全あんぜん保障ほしょう評議ひょうぎかい議長ぎちょう
    • サウード・アル=ファイサル(1940ねん - 2015ねん) ファイサルのもと国務大臣こくむだいじんもと国王こくおう特別とくべつ顧問こもんけん特使とくしもと外交がいこう担当たんとう特別とくべつ顧問こもんもと外務がいむ大臣だいじん
  • 知事ちじ
    • ハーリド・アル=ファイサル(1940ねん - ) ファイサルのマッカしゅう知事ちじ
    • ファイサル・ビン・バンダル(1943ねん - ) バンダルのリヤードしゅう知事ちじ
    • サウード・ビン・ナーイフ(1956ねん - ) ナーイフの東部とうぶしゅう知事ちじ
    • ファイサル・ビン・サルマーン(1970ねん - ) サルマーンのマディーナしゅう知事ちじ
  • その

曾孫そうそん

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曾孫そうそんについてもまご項目こうもく同様どうようとく有名ゆうめい人物じんぶつのみ記載きさいする。

  • ハーリド(1978ねん - ) アルワリードの
  • アブドゥルアジーズ・ビン・サウード(1983 - )サウードの、ナーイフのまご内務ないむ大臣だいじん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 世界せかい歴代れきだい王朝おうちょうおうめい総覧そうらん」(1998ねん東洋とうよう書林しょりん参照さんしょう
  2. ^ 正確せいかく生年月日せいねんがっぴ不明ふめいのため年齢ねんれい推測すいそくであり、資料しりょうによっては21さいとなっているものもある。
  3. ^ べい・サウジ「40ねん密約みつやく」”. ニューズウィーク日本にっぽんばん(1992ねん2がつ20にちごう). TBSブリタニカ. (1992-2-20). p. 28. 
  4. ^ 大森おおもりみのる「ファイサル」講談社こうだんしゃ、1979ねん、P12
  5. ^ 大島おおしま(1981)p.19
  6. ^ サウジアラビアにおける奴隷どれい制度せいどは1962ねんまで存続そんぞくしていた。
  7. ^ サウジアラビア現代げんだい
  8. ^ 「サウジアラビア王朝おうちょう」383ぺーじ参照さんしょうむすめについては、女性じょせい系図けいず掲載けいさいされていないために同書どうしょにも記載きさいがないため、省略しょうりゃくした。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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